2018年09月30日

手当たり次第に ⅩⅦ ~ここ2,3日みた映画

 暇つぶしに手元に置いたビデオを見てはその場で書きなぐってきたとりとめない感想ですが、今回は病院通いに忙しくて(笑)古い映画を何本かだけ。

「眠狂四郎 勝負」(三隅研次監督) 1964
「眠狂四郎 女妖剣」(池広一夫監督) 1964
「眠狂四郎 円月斬り」(安田公義監督) 1964
「眠狂四郎 魔性剣」(安田公義監督) 1965


   雷蔵の眠狂四郎はたしか12本くらいあったと思いますが、手元にあったのはこの4本だけだったので、続けて一度にこの4本を見ました。

 映画はどんな楽しみ方でも見ることができるでしょうし、人によって全然違うでしょうから、どんなに古い映画、いまは流行らない映画でも、観る人によっては楽しみを見出すことができるだろうと思います。この4本をみていまでも古びない魅力があるとすれば、それは市川雷蔵という役者の剣を下段に構えた立ち姿の美しさかもしれないな、と思いました。

 それはもうお話の多少の巧拙だの、映画づくりの演出やセットやセリフやの多少の違いだの、役者一人一人の演技がどうこう、ということとはかかわりなく、それらがみな古臭く、陳腐で、いま見るにたえないところがあったとしても、市川雷蔵の狂四郎が着流し姿で剣を下段に構えて敵に対峙したときの立ち姿の美しさは、どんな映画のどんな他の時代劇俳優でも見せることのできないものだという気がします。
 
 あのすっと伸ばした腰の状態や剣の構えで人が斬れるのか、現実の剣術のことはわかりませんが、映画の約束事としての斬りあいに支障はないので、あとの斬りあう場面もなかなか美しいと思います。でも一番美しいのは静かに剣を構えていまからその剣の切っ先が円を描くという、まさにその瞬間です。

 この4本についてはそれだけ言えば十分な気がしますが(笑)、4本のうちどれが一番好きかと言えば、最初にみた「勝負」です。狂四郎と絡んで一風変わった友情が芽生えるような、肝胆相照らすところのある勘定奉行役の老人がとてもいいし、藤村志保、久保菜穂子、それに狂四郎に淡い憧憬を懐く蕎麦屋の娘役の女優もそれぞれよくて、設定やストーリーにもあんまり変な癖がないのがいいと思って観ました。

 これが「女妖剣」になると、悪役の菊姫が多分事故か何かで顔の美貌が損なわれているがゆえに美女をイジメ殺す悪女になっているとか、もともと謎だった狂四郎の出自が転びバテレンと生贄の日本の娘だったとか、狂四郎の相手になる敵方は阿片で儲ける役人と商人たちで、商人が役人のお目こぼしを得るために隠れキリシタンの情報を役人に提供する、そのためにわざわざ手下である女に耶蘇教を広める女教祖の役割をさせて信者を集めていたという、単に荒唐無稽というより、なんだかエグイ設定、あまり愉快でないストーリーになっていて、後味がよくないのです。たぶんポリティカルコレクトネスの観点から(?)いまでは作れないような設定の映画ではないかな、と思います。

 狂四郎がいきなり大奥や牢獄にすっと立ち入っていたりして、なんでそんなことできんねん?というような単純な疑問が生じるような安易さもあって、せっかくキリシタンの兄が捕らわれて援けたい一心で一身をささげながら、果たせずに自害してしまう小鈴(藤村志保)などは、とてもいいのに、作品としては好印象の持てないものになってしまっています。

 ほかの作品が先かもしれませんが、「勝負」では見られなかった、円月殺法のスローモーションというのか、円を描く刀身の残影が見える撮影方法がとられていて、それはこの円月殺法の美しさを見せる方法として良かったと思います。「勝負」以外の3作ではいずれも採用されています。

 「円月斬り」では、狂四郎と敵に依頼されて狂四郎に挑むが互いに剣の使い手として一目置き合う関係で尋常な果し合いに及ぶ勘兵衛という武士と斬りあう林での光景がとても美しい。時代劇にはこういう場面があるから嬉しい。 
 この作品では狂四郎がちょっと頭の弱い人足や夜鷹ら、最下層の庶民の味方として、彼らを人間とは思わず、試し斬りなどするわがまま一杯の「将軍の落とし胤」一派と戦う話になっていて、自分の出世欲もあってそのバカ若殿の妾になろうという商家の娘を狂四郎は辱めはするけれども、なんだか左翼崩れの脚本家が書いたような設定とストーリーで、それはそれで面白くありませんでした。庶民の味方風の狂四郎という同様の傾向はあるものの、「勝負」のほうがそのへんはあっさりしていて良かった。

 「魔性剣」は冒頭の、宿を出た狂四郎が雨が降っているのに気づいて、2階をあおいで、親父、傘を貸してくれ、と傘をうけとって雨の中を行くシーンから、おぉ、いいな、と思い、橋にさしかかったところで、もし、と女に呼び止められ、その物言いから武家の女と見抜き、誘われるままに女の宿に行って、自分を買ってくれという病身の女の求めを拒否して1両を投げ与え、いまの病身のお前には1両の価値もない、と抱かずに去ったあと、女が自害して果て、なぜ彼女がそういうことをしていたのかを知った狂四郎は、自分が彼女を死に追いやってしまった、なぜあのとき生きる望みを捨てるなと言ってやれなかったか、と思う、そのあたりまではこの作品が一番好きだと思って観ていました。

 しかしまぁ、そのあとはありきたりのお家の跡継ぎが死んで、それまで邪魔ものとして殺そうとさえしていて、その女が職人の家に預けて育ててきた落とし胤が急遽藩主の跡継ぎとして必要になった城が身勝手に子供を奪いに来て、預かっていた職人なども殺してしまうというような、よくある話で、その理不尽に行きがかり上関わって城の武士たちと争いになる狂四郎、という話で、どうということもありません。

 ただ、女優に嵯峨美智子が出ていて、「円月斬り」のときだったか、伴蔵というワルが狂四郎を殺そうと付け狙う役で登場するのですが、結局果たせずにまた島送りか何かになって死んでしまったということがあって、嵯峨美智子はその妹の役で、狂四郎のせいで兄を殺されたと思っていて、しつこく狂四郎をつけねらい、邪魔をし、狂四郎に敵対する武士たちを使って彼を殺そうとします。あの女優さんはそれ自体としてとても魅力のある女優さんだったし、この作品でも執念深い敵として彼の前に立ちふさがる強敵で、なかなか良かった。本当は相当色気のある人なので、もっとすごい役ができる人だと思うけれど、この作品ではそこまでは見せません。

 概して眠狂四郎シリーズは狂四郎に関しては、彼が背負う「業」の深さ、出生の秘密に由来するような母なるもの、女性なるものへのアンビバレンツな潜在意識では、殺人に見合うような女性への極端な冷淡さや酷薄さをもつ男だと思いますが、男女の色情に関わるようなところは品よくさらっと描かれています。女性の裸身は登場するけれど、狂四郎とのからみは、すべて直接には描かれないか、少なくとも狂四郎のほうの着衣には乱れがなくて、間違っても彼の背中や脛が見えたりはしません。雷蔵の狂四郎は出生に由来する深い業を背負い、虚無的な無頼の姿勢が身についてはいるけれど、芯は清冽な流れのように純粋で融通無碍で、凛として背筋がまっすぐに通っていて、その剣を下段に構えた立ち姿そのままに美しいイメージを崩していないので、膚を見せて色欲を発散させ女体を抱いて汗をかくような無様な真似はしないのですね(笑)。そこは監督が変わっても踏襲されていて、市川雷蔵は悪い事はしても(笑)汚れず美しいイメージのままです。


「ユリイカ」(青山真治監督・脚本)2000年

 映画作りを志す若い人たちがその背中を見て追っかける日本の映画監督というと、黒沢清監督とこの青山真治監督らしい、というのが、もともと映画づくりとは何の関係もなく、若いころからの映画好きでもなく、メジャーな映画館に配給されてやたら評判になったような映画を人に遅れてたまに見にいく程度の、どちらかと言えば「あんまり映画をみない、ふつうのサラリーマン」といった感じの私などでも、ときどき面白いと思った映画のことが載っている雑誌や映画よりは幾分親しい文芸のほうの雑誌など目にしている中で、自然に感じてきたことでした。

 でも面白いことに二人の作品は両方とも映画館に足を運んでみたことはたぶん一度もなく、レンタルビデオ屋や始終いくのに、結果的に考えるとなんとなく敬遠していたみたいで、これもたぶん見ていないと思います。「たぶん」というのは、私は何度もこのブログで書いてきたように、若いときから恐ろしく記憶力が悪くて、一度借りて来てみた映画でも見た端から忘れて、しばらくすると借りたこと自体を忘れてまた借りて来ては「あなたこれ前に借りて来たじゃない!」とパートナーに言われては、そうだったっけ、ともう一度見てもかなり後半まで見ないと思い出さなかったり(笑)というのがよくあるので、自分でも絶対に見てない!という自信がないのです。先日などは、観た上にこのブログに感想まで書いた映画を、まだ見てないと思って借りて来て、呆れられたほどです。自慢じゃないけど(笑)

 そんなわけで、自信はないけれど、この若い人の間では超有名な作品も、私は見ていなかったはずで、今回217分という長編を見て、あぁこれはやっぱりもっと早く見ておきたかったな、と思った次第です。すばらしい作品でした。

 きっともう、ものすごい賛辞と、綿密な研究なり批評なり、感想なりが書かれて、山のように積まれているでしょうから、いまさらただ一度いまごろになって初めて見た私が付け加えることがあろうはずもありません。ただ、忘れっぽいから(笑)観たぞ、というのを自分の手控えとしてメモだけしておくことにします。

 まずなんだか田舎の空き地みたいなところにバスがとまっていて、いきなり男が飛び出して走り出すのをパンパーン!と銃声が響いて男が倒れ、血の付いた手がうつされる、衝撃的な場面から始まります。バスの車内では拳銃を手にした背広のサラリーマン風の若い男がもう一方の手にケータイもって乗客の方を向いて「警察って何番だっけ?」とふつうに番号を訊くみたいにきいています。返事がないけれども「あ、思い出した」とか「あ、わかった」とか一人で言って彼は電話をかけて、なんか仕事の電話をかけるみたいに、ふつうにしゃべっています。もうこの冒頭から観る者は現場にひきこまれちゃいますね。この犯人を演じているの、たしかやっぱり映画監督で、よく、ひとの色んな映画に出てる人ですけど、ほんとにいまどきいそうな犯人ぴったりの人(笑)。あんまり自然態なんで笑ってしまうほどです。

 いちいち書いていると何十ページにもなりそうだから端折りますが、このバスに乗っていて、殺されずに生き残った、役所広司演じる運転手の沢井真(まこと)が主人公で、ほぼ同格の主人公があと二人の生き残り、中学生の兄直樹と妹梢で、これは宮崎将と宮崎あおいが演じています。この二人はオーディションで監督も兄妹とは知らずに採用して、あとで兄妹だと分かったんだそうで、このときあおいは14歳だそうです。先走って言っちゃうと、この宮崎あおいが素晴らしい。のちのちの演技派女優というのはこんな年齢で、まだ演技なんてほとんど経験もなくトレーニングを受けてもいないと思いますが、その存在自体でおのずと輝いてしまうものなのか、不思議な気がするほどです。

 [
  「罪と罰」や「異邦人」がまず殺しから始まるように、この映画の物語もまず事件が起きてしまったことから始まるわけです。でも「罪と罰」や「異邦人」と違うのは、殺した犯人はさっさとその現場で警官に撃たれて殺されてしまうので、カメラが向けられるのは、被害者の生き残りである、真やこの兄妹なのです。そうすると必然的に、冒頭の事件がこの3人にどんな影を落とし、どんな深手を負わせたか、ということと、そこから彼らがどう回復していくのか、あるいはほんとに回復していけるのか、そういういわば再生の物語になってきます。

 こういう枠組みというのは、おそらく小説でも映画でも、それほど珍しいものではないと思います。私もすぐには出てこないけれど、そういうストーリーには何度か触れたことがあるような気がします。けれども、これも先走って言ってしまえば、この映画ほど丁寧に、微細に、延々と時間をかけて、その深手を負った一人一人の状態を描きだし、その回復までの過程をたどってみせた映画というのはなかったと思います。それはもう空前絶後じゃないか(笑)。しかもそれで退屈しないというのは・・・

 途中から、この映画がそういう深手を負った人間の回復にいたるまでの物語だな、というのはもう疑う余地もなくなり、しかもきっとこの少女梢が言葉を発するときに物語がようやく終わるのだろうな、と確信するようになりますが、そこまでの道のりの長いこと。ようやくそのラストにたどりついたときは、一人の人間の心が深手を負ったとき、そこから回復にいたるまでには、こんなにも長い旅が必要なのか、こんなにも辛い時間が必要なのか、と深いため息が出るような感じでした。

 この映画の中に色んなことが入ってきていますが、その一つは、日本的というのか、閉じた村的な精神風土というのか、そういうローカル的な意味合いはないのかもしれず、人間の共同体的な精神風土というのはつねにそういうものなのかもしれませんが、犯罪の加害者ではなく被害者であるにも関わらず、世間の目は同情的に見えて(たしかにそういう面もなくはないけれど)、実は好奇の目で見ていて、顕在的でないだけによけいに陰湿な悪意にも似て、実際上はむしろ心に深手を負った者のその傷口に塩を塗るような、目に見えないが突き刺さってくる矢のようなところがあるということです。

 直接の因果関係とかいうのではないかもしれませんが、そういう背景の中で、事件後、兄弟は残された自宅に閉じこもって学校にも行かず、口もきけなくなって、あとで真が唐突にここに置いてくれないか、と訪ねていったときに分かるのですが、家の中は散らかり放題、食器も食べた後そのままで、ごみの山、ほとんど何かをする、生きる、という意欲そのものを喪失した二人の無気力状態が描かれています。
 そういうのをあらわす見事なシーンとして、最初に真が訪れて、自分はもうほかに行き場所がないので、ここへ置いてくれないか、と言うとき、玄関へ出て来てその言葉を並んで聞く二人の表情。これは後日、彼らの従兄だという秋彦が初めて訪れた時も、全く同じ表情なのですが、ただそこに茫然として突っ立っていて、こちらの言葉が分かっているのか、了承しているのか拒否しているのかも不明、なんの反応もしない、意識の飛んでしまった人のように、そこにただ存在している、という、その姿、表情が映画が終わっても心に焼きついているほど強い印象的な映像です。これが解きほぐされていくのは、命のない人形が生命を獲得するくらい難しそうだな、というのを、その二人の姿が自然にみせています。

 こういう魂が飛んでしまったみたいな兄妹のところへ、自分もかつての自分のままでいられず、妻を置き去りにして「家出してきた」真(まこと)が、「ここへ置いてくれないか」、と唐突に兄妹のところへ転がり込み、さらに「きみたちの従兄だ」という秋彦が入り込んでくることで、物語に推進力が生じて少しずつ動いていきます。

 まだ真が兄夫婦の家に居候しているときのことですが、真が幼馴染?のシゲルの彼女らしい女性が職場を訪れたときに、シゲルが不在で、夜道を送ってくれと言われて送り、彼女のアパートの前で別れるとき、彼女が彼にキスをします。
 なんでもない動作で彼も戸惑い反応はしないけれど、後で起きることの伏線になっているし、その場面を見られたわけではないけれど、二人一緒に帰るところを村人が見たらしくて、兄が真にそのことを告げて、「そうでなくてもいろいろ物騒なことが起きていて、おまえがやったんじゃないかとか犯人じゃないかと噂されたりしているんだから、夜中に女と二人で歩くなんてことせずに、もっと慎重にふるまえ」というような説教をします。
 夜中じゃなくてまだ8時ころだったんだし、と兄嫁はかばいますが、娘までが迷惑を蒙りはしないか、と恐れていることは伝わってきます。

 そんなこともあって、真は突然同じバスジャックの被害者というだけで知り合いでも何でもない兄妹のところへ、一緒に置いてくれ、と頼みにいって3人の不思議な共同生活が始まります。そのあと3人が食卓で真のつくる料理を食べているシーンでは、それまで散らかり放題のごみの山だった家の中が綺麗になっていることが分かります。

 ずっと後のことですが、真が置き去りにしてきた妻が真に会いにくる場面があり(この妻を演じた女優さんも素敵でした)、そのときに真は、「他人のためだけに生きることってできるんだろうか」という言葉をつぶやきます。それは、それからの真の生き方そのものであり、彼にとって生きる目的はただひとつ、兄妹を彼らが負った深手から回復させることになります。

 そうして職場の土木作業の現場でクレーンで土を掘り起こす車の運転を指導された真は、バスの運転手だったこともあって、なにか動かしたい、という欲求が甦ってきて、そこから或る日彼がバスを購入してきて、兄妹に一緒に旅に出ようと誘うことにつながります。
 共同生活をしていた兄妹の従兄の秋彦は「何を唐突に」と拒み、兄もそっぽを向きかけるけれど、そのときまでに辛うじて真と心を通わせていた妹梢はバスに乗り込み、それをみて兄直樹もバスに乗り込んで、結局秋彦も乗り込んで同行することになります。

 真と妹とのそこまでの微妙な心の通わせ方も、繊細に、みごとにとらえられています。
 シゲルの恋人らしかった女性が、真が2度目に彼女に乞われて自転車で送っていったあとで何者かに殺される事件が起き、真が重要参考人としてこの映画の冒頭の銃撃戦で犯人を射殺した刑事に取り調べられ、真が犯人だと信じているとその刑事に言われます。
 留置場で隣との壁をノックして反応が返ってくる、そういうコミュニケーションの仕方があとで直樹や梢と彼とのコミュニケーションにも登場します。
 真は容疑者にはされるものの、しかしおそらくは証拠不十分で釈放され、また兄妹の家に戻ってきます。秋彦は彼を最低だと非難しますが、拒否はせずに、もとのように共同生活に戻ります。

 このあたりから、兄の秋彦に或る微妙な変化が起きているのが観客にもわかります。秋彦が庭でゴルフの練習をしてスティックを風音を鳴らして振っている、その音にベッドの直樹は神経質に耳を塞いで、たまらない表情をしています。

 また、カーテンをあけて外を見ている梢の耳に、直樹らしい声がかぶさって聞こえます。「見えるか、梢・・・波じゃ」と繰り返しているようです。(波のところはよく聞こえなかったので、間違っているかもしれないけど・・・)

 そして、次は直樹が(たぶん)ナイフで、丈高く伸びた草叢の草を切るソーンで、草の茎の先端から白い駅が溢れ出る印象的な場面があります。このとき梢は風に揺れるカーテンの間に立って外を見ています。

 これらのシーンが確実に直樹の或る変化を示していて、それを梢が知っている、あるいは「感じている」ことが観客のわたしたちにも伝わってきます。

 置き去りにしてきた妻と会ったあと、真は泥酔して帰って倒れ、秋彦が彼を引きずって寝かせます。真は完全に打ちのめされて縮こまって横たわり、実は声もなく泣いているのですが、この真の傍らに梢が座って、彼の髪をなでてやっています。すばらしい場面です。真の「人のためだけに生きることはできるだろうか」というありようを梢は次第に感じ取って、彼にわずかであっても心を開き始めていることが自然にわかります。

 真がバスを買ってきて、試しに走らせる場面はこの作品では珍しく明るい場面で、ブーッとクラクションを鳴らして発車。それまで耳にした記憶のないバックグラウンドミュージックが、たぶん初めて、大きな音量で聞こえます。
 
 バスの旅に出て最初は映画の冒頭のバスジャック事件の現場にいき、真は「ここからが出発たい」と言います。真と兄妹にとって、ここが再生への再出発のスタート地点というわけです。
 じゃ従兄の秋彦は何かと言えば、もちろん狂言回しなわけですが、もしこの人が居なくて主要人物が3人だけだとすれば、この映画は3人の半ば夢遊病者みたいな人物たちが、何か観る者にはよくわからない、そして自分たち自身も何をしているかわからないような行動をとっているだけ、みたいな世界になっていたと思います。
 秋彦は、真や直樹、梢が、心にあまりにも深い傷を負ってそこから回復へ向けての長い痛々しくもある道のりを、自分たち自身も何をしているのか分からないような霧の中を手探りで懸命に歩いていくような歩みの中で、唯一覚めた外部の眼なのだと思います。
 それは周囲の人々のように攻撃的でも陰湿でもなくどちらかと言えば善意の好意的なまなざしではあるけれども、別の言い方をすれば、好意と言うより「おせっかい」で押しつけがましい、凡庸で全然「わかっていない」視線、姿勢でしかないような外部であり、兄妹や真にとっては、強引に入り込んできて、3人の深手の深さに本当には気づかない鈍感さゆえに、救われるところもあるけれども、逆にどうしようもない異和でしかない存在です。それはこの映画を観ている私たち観客に最も近い存在だと言ってもいいでしょう。

 直樹の変化はいよいよ露わになってきます。バスの車内で寝ている彼らにあたっている光の部分に樹の葉がつくる黒い影が、光を部分的に遮って揺れ動き、なにか不安なというか不吉な印象を与える場面で、真は留置場でやったようにコツコツとバスの内壁をノックします。これに直樹が応えてコツコツと返す場面が印象的です。

 食餌に立ち寄って高菜飯や蛸汁定食をとるレストランで、直樹が突然立ち上がって駆けて行き、嘔吐する場面があります。バスに酔ったということですが、直樹と心の状態についてある種の伏線になっています。
 それからほどなく、直樹がバスから消えて、真と秋彦が探す場面があります。結局探したあげくバスに戻ると、直樹は戻っていて寝ていた、ということでその場は終わるけれど、直樹がまたいなくなって探しに出る場面で、秋彦は、このところ頻繁に起きている殺人事件に関して、直樹か真が犯人だと自分は思っている、もう真のことも信用できない、と言います。映画をここまで見ていて色んな伏線でそういう予感がしている私たち観客の想いを秋彦が明瞭な言葉にしているわけです。

 秋彦を残して一人で直樹を探しに出かけた真は、直樹が通りがかりの女性を襲う寸前に遭遇します。「どうして殺したらいけんとや」と、このときはじめて直樹は言葉を発します。
 彼が突き出すナイフを素手で握ってうけとめ、真は「殺すなら一番たいせつな者を殺せばいい」と言い、「いまから一緒に梢を殺しに行こう」と言って、近くにあった自転車の荷台に強引に直樹をのせて広場をぐるぐると回りはじめ、「ぐるぐるとここで回っとくか、バスに帰って梢を殺すか、3周まわるまでに決めろ」と言います。

 直樹は、「ここでぐるぐる回っとく」と小さな苦し気な声で答え、真は直樹を乗せたまま、ぐるぐると回り続けます。ここも素晴らしいシーンです。

 次のシーンはこの2人が歩くシーン。「直樹、一つだけ約束してくれ。生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ。また会おう。迎えに来るけん。」・・・うなづく直樹。そして警察署へ入っていきます。

 真がバスへ戻ってくると、秋彦がバスの外でしゃがんでいて、梢が泣いていて、バスへ入れない、と言います。真は、「梢は言葉では言わなくても知っている」と言って、留置場でやったように、バスの車体を外からコツコツとノックします。
 そうするとコツコツと梢の応答があり、真はバスの中へ入っていきます。この場面のコツコツは留置場の隣人、直樹、ときて梢で3度目です。こういう小さなエピソードがつながって、人と人とのささやかなつながりが徐々に取り戻されていく予感が観客にも自然に感じられます。兄直樹と一心同体のようにつながっている梢はとうに兄のことがわかっていたんだ、ということ、それを真もかなり以前からわかっていた、そしてようやくこのあたりで秋彦も気づき、私たち観客の目にもそれが事実としてつきつけられるわけです。
 心の傷が深いほど、同じ傷を負った者を理解し、感じるのも早いわけで、私たち観客は一番鈍感な、ふつうの人、秋彦とともに最後に真相を知ることになり、そこから遡って、あのとき何が起きていたのか、そしてなぜ梢や真があんなふうな表情をしたり振る舞いをしていたのかを知ることになります。

 このような心の深手が一人一人の心に広げた波紋がどう広がり、またどうそれを鎮めていくか、そのプロセスにおけるそれぞれの感じ方、振る舞いかた、他者とのかかわり方をどう微妙に変えていくかに関しては、実に精確にとらえられ、その傷ついた心の自然に即して繊細な手つきで描かれています。

 阿蘇の噴煙(蒸気)が立ち込める火口を眺める真、梢、秋彦はその阿蘇の広大な風景の中をバスで走ります。秋彦がここで、まったく鈍感な何もわかっていない外部の人間としての姿をポロっとさらけ出して、「あいつはもう一生刑務所か・・なんだろうか。可哀相だけど一線を越えたやつは(仕方ないだろうな)・・・しかしそのほうが直樹も幸せかもね」みたいなことを言います。
 これを聴いた真はただちにバスを止め、「おりろ!」と言って秋彦をバスから降ろして彼の荷物を車外にほうりなげ、秋彦を殴りつけて、「いつか直樹が帰ってきたら必ず元の直樹に戻す。そのときお前のようなやつがいたら(その妨げになるだけだ)・・自分は死んでも直樹を守る」、という意味のことを言って、置き去りにして去っていきます。
 死んでも、というのは、ずっと以前から真は咳をしていて、それがどんどんひどくなって、胸を病んでいることは明らかで、おそらくそれは結核か癌か、死に至る病のように秋彦にも観客にも理解されているからです。

 梢の耳に、直樹のものらしい声が聞こえてきます。「梢‥見えるか」・・・「海じゃ、梢。海を見に行け」・・・「お前の目から俺の目に海を映してくれ」。

 バスは海辺へ行きます。咳がひどく、しゃがみこむ真。その眼には波打ち際に立って動いている梢の姿がややおぼろげに見えています。水の中へ入っていく梢の声でナレーション「お兄ちゃん、見える?梢、海が見えるよ・・・」

 再びバス。ふとんの中で眠っている梢。外にいる真の咳。電話をかける真。「森山美容室です」という女の声に、なにも言わずに切ってしまう真。バスを出す。窓の外の景色は真っ暗なこれは海でしょうか。そこに浮かぶ無数の光は、灯籠流しの灯籠の火のように見えます。

 ふとんに伏せた姿勢で二枚貝の殻を並べる梢。真は咳だけが聞こえてきます。

 ラストシーンは、高台に大きな碑が二つ立っている場所で、バスを降りた二人。真は咳込み、手にしたハンカチが喀血で黒く染まります。夜ではあったけれど、いま思えばあれは赤くなかったな(笑)。あの場面は・・・いやほかの場面もこの映画、モノクロあるいはモノクロ的な映像で撮られているのがはっきりしているところがありました。ネットの資料を見ると、どうやらモノクロでとって、それを逆にカラーにするみたいな技術があるらしくて、そういう方法で作られた映画らしい。
 技術のことは知らないし、映画を観終わって、カラーだったかモノクロだったかもしばらくたつと分からなくなるようなありさまだから(笑)なにも言えないけれど、きっとこの映画はそういうモノクロ的効果を持つ映像が要所要所で私たち観客に喚起するエモーションに独特の効果を与えているのでしょう。

 崖の上に立った梢が突然、「お父さん!」と叫んで石を一つ投げ、つづいて「お母さん!」でまた一つ。「犯人の人!」「お兄ちゃん!」「秋彦君!」「沢井さん!」「梢!」と叫んでは石を抛ります。梢が初めて発語する場面です。

 「梢、帰ろう」と真。振り向く梢の表情のクローズアップ。そして手前に草原、向こうには崖があってその間の道を、碑のある高台のほうから歩いてバスのほうへ戻っていく真、そして梢。二人を高い位置からとらえる映像が空高くの視点から阿蘇の一帯の風景を映して、EUREKA のタイトルが出て幕です。

 いや、つい長々、こまごまとなぞってしまいましたが、つい昨日見たのを思い出しながら書いていても、そのときの感動が甦ってくるようで、楽しかった。実際にはでたらめに思い出す場面を書いていっているので、映画に登場する場面を逐次的にたどったわけではありませんから、前後逆になっていたり、大きくとんでいたりします。無意識に私の印象に強く残った場面だけを拾っていることと思います。

 ラストで梢が初めて口をきく場面、身近な関わってきた人の名をひとつひとつ叫んでは小石を投げるシーンは、或る意味でこんなふうに終わるだろうと思い、物語の終着点まできたな、と予想どおりだと思いながらも感動してしまいます。
 とうとうここまでたどりついたか、本当にしんどい、きつい、長い旅だったな、という実感とともに、です。たしか「心の旅路」という古いメロドラマだけれど、すごくいい映画がありましたが、この「ユリイカ」はまさに深手を負った三人の「心の旅路」ですね。古い「心の旅路」のような予定調和のハッピーエンドはないけれど、ここまできつい旅路をたどらずには、わずかな回復の希望にさえ至ることはできないんだな、というそれこそ厳しい現実のリアリティを存分に味合わせてくれた上で感動的なラストに至る、すばらしい作品でした。


「乱れる」(成瀬巳喜男監督)1964

  ずいぶん昔、「浮雲」を見て、あまり好きになれそうもない気がして、高名なこの監督の映画はほとんど敬遠してきたようなところがあったのですが、この映画を観て驚いてしまいました。本当に素晴らしい作品で、こんなの撮る人だったら、いままで見なくて観客としてずいぶん損したなぁ、という感じです。

 描かれている主人公である戦争未亡人礼子(高峰秀子)のキャラクターや考え方というのは時代的なものでいま見れば古臭いと思われるようなものだけれど、その時代背景のもとでこういうキャラクター、こういう考え方をもった女性がいたことを現実としてみれば、そういう女性を描き切った感のある映画だと思いました。

 これは不倫映画でないことはもちろんだけれど、恋愛映画でもないようで、ある時代、ある状況の中で自分の生き方を貫いてきた女性が、義弟の告白によって生涯初めてゆらぐ、そのゆらぎに罰を受けるかのように義弟も死んでしまうわけですから、不倫も恋愛も成就しないわけで、作品の世界をひっぱっていくのは、義弟が告白してからの、同じ家に住む未亡人である兄嫁の彼女とその義弟がくっつくのかくっつかないのか(笑)その緊張感です。

 したがって、告白してからの義弟はあっけらかんと一方的に自分の想いを投げかけていればいいだけの平板な存在にすぎなくなってしまうので、ドラマはもっぱら義弟のそういう自分への想いを知ってしまった礼子の内面の劇、居心地の悪さ、平静を装った立ち居振る舞いの内側での実際のぎこちなさみたいなものにあるわけで、これは終始、この女性の生き方、考え方、立ち居振る舞い、その心理のドラマなんだと思います。

 異性としての義弟との関係は、従って恋情として描かれるよりも、彼女がその存在によって引寄せてしまいそうになるのを、意識的にとろうとする距離や素知らぬ風を装うその立ち居振る舞いの中にある意志的な斥力のようなものによって表現されています。

 唯一「恋情」を感じさせるシーンが、彼女が家を出て郷里の兄のところへ身をよせようと旅に出ると彼女を追っかけて乗ってきた義弟とその列車の長旅を共にすることになるわけですが、ずっと義弟と距離をとり、拒んでいながら、自分への想いをストレートに示し、優しく振舞ういじらしい義弟が疲れて車中で眠っている表情を眺めていて、つい涙ぐむ、あのシーンです。このときの彼女の表情はほんとうに素晴らしくて、一緒に泣けてしまう(笑)。

 列車でのシーンは全部すばらしくて、そのあとの展開にはちょっとびっくりしてしまいました。
 彼女が突如次の駅でおりましょう、と言って二人で温泉のある小さな駅で降りて、温泉宿に泊まる。これはもうどうしたって、できてしまうだろう、と思い、夫を若くして亡くしながら、その夫の家のために身を粉にして働いて店を再建し、幼い次男や老母のいる家庭を女の腕一つで守ってきた女性が、逞しい青年に成長した義弟の純粋な愛情にほだされ、こころ「乱れて」、ついに古い倫理観から解き放たれて男女の愛に身を任せるに至る物語だと、誰だって思わないでしょうか(笑)。

 ところが自分から途中下車して温泉宿に二人して泊まりながら、なおもいざとなると彼女は義弟を拒むのですね。そして彼は宿を飛び出して帰らず、翌朝、崖から落ちたという死体になって運ばれていく、それを彼女は宿の2階から目撃して、階下へ駆け下り、追って行く。
 その途中、橋の手前でとまって、橋の向こうへ運ばれていく彼の遺体を見送る彼女の表情のアップで映画は終わります。こ、これは何だ!・・・と思いましたね。なんか物語としてこれは理不尽じゃないの?破綻してるんじゃないの?と。

 でも考えてみれば、それまでにも、義弟に対してそういう距離をとろうとろうと自分をしばってきた彼女は繰り返し描かれているから、そういう倫理観を持っている古いタイプの女性、或る意味で頑ななところのある女性・・・そうでなければ十数年も未亡人として亡き夫の家を一人で支えてくるようなことはできなかったでしょうから・・・・ということを考えれば、あそこでいくら自分がいったんはエイヤッと跳んでみたものの、身も心もそう簡単に開けないところがあっても不思議ではないし、そういう揺れ動く女ごころを描くことに主眼があっても、本当に身も心も「乱れ」てしまうのはこの映画の作り手の本意じゃなかったんだな、と思って納得しようとはしたのですね。

 それにしても男を殺してしまわなくてもいいだろうに、とは思いましたが・・・

 だけど、この映画を観た後で、そういえばこの映画の分析を細かくやっていた本があったな、と思い出して、塩田明彦さんというご自身が映画監督でもある(そういえば「黄泉がえり」を見たなと思い出しますが)人の『映画術』という著書を取り出してみたら、やっぱりありました!
 実はこの本は、私が近松の「曽根崎心中」が好きで、鴈治郎の歌舞伎と、栗崎碧監督で宮川一夫が撮影した人形浄瑠璃の映画と、増村保造の映画と、天満屋の場と道行とを対比させながら学生さんに喋っていたことがあって、曽根崎心中についての色んな資料を読んでいた時に、増村保造の映画での梶芽衣子の視線のありように触れた章があったので買ってその部分だけ読んで、なるほどなぁ、と感心した覚えがあって、あとのところはパラパラとめくっただけだったので、なんとなく成瀬のこの作品に触れたところもあったことは記憶の片隅に残っていたのです。

 それで今回あらためてこの本の「乱れる」について書かれた部分を読んで(今回は全巻読みましたが・・・笑)、もうそこに書いてある分析に完全に参ったなこりゃ、という感じで、それ以上言うべきことがなくなってしまいました。
 塩田さんによれば、映画を撮るうえで一番大事なのは「動線」であって、それがうまくいけば映画は半ば以上成功なんだというようなことなんですが、この「乱れる」という作品は、加山雄三演じる義弟が高峰秀子演じる未亡人の義姉礼子に告白する、つまり「超えてはならない一線を越えようとする」わけですが、この映画はその部分だけじゃなくて、そもそも全体がその「一線」に向けての話なんだ、というわけです。

 溝口の「西鶴一代女」にもそれはあって、かの映画では冒頭でその「一線」が越えられてしまうけれど、成瀬のこの作品では、それよりはるかに用意周到に、「ここまでやるのか」と言うぐらい緻密に「境界線」「結界」のイメージが映画全体に張り巡らされている、と塩田さんは書いていて、それを場面に即して証拠立てています。たとえば冒頭でバーみたいなところで喧嘩した義弟のことで警察から店にかかってきた電話で、礼子が警察へ身柄を引き取りに行く場面では、「橋」がその「結界」の役割を担っている。それはまた、その前の店員から電話口に呼ばれた礼子が、台所から「渡り板」を渡ってからこちらへやってくる、その「渡り板」が一種の「橋」として同じ意味をもって反復されているっていうんですね。

 それから義弟が礼子への想いを告白する決定的な場面では明暗二つの部屋が巧みに使われていて、その部屋の境界がさきにいう「境界線」になっている、と。塩田さんは非常に精細に高峰秀子と加山雄三の位置関係と動線を分析してきわめて説得的な議論をしているので、自分ではそこまで全然見ることができていなかった私でも、いちいちあぁそうだったな、そうだったなぁと納得せざるを得ない、みごとな分析になっていて、この「境界線」が彼らの動線ではっきり浮かび上がってくるところに、この決定的な場面の緊張感が生まれてくることを立証しています。

 まだまだあるけれど、もうひとつだけ挙げれば、高峰秀子演じる礼子はふだんはラフな店員兼主婦としての前掛け姿なんかをしているわけですが、よそいきのときは和服姿です。
 自然にそういうカジュアルとよそいきみたいに理解して観ていたら、塩田さんはそこを、彼女が「境界線」を意識したとき、つまり自分が義弟の兄の未亡人で、義弟を距離をとる、という自意識をもち、他者の目を意識して私は未亡人です、人妻だった女です、というときは和服であり、そうでないときはカジュアルな衣服も含めて洋装だというふうに言っているわけです。
 そちらの理解のほうがいいのは、列車にのっていくとき、はじめはコートを着た彼女は洋装の風なんですが、義弟と向き合って必死に自分の感情を抑制しているときはコートを脱いで和服姿になるわけですね。そして、女優さんは着物を着た時と洋服を着たとき、それぞれそういう実感を自然にもつはずだ、と。このへんにも唸りましたね(笑)。

 そんなふうに見ていくと、すばらしい列車でのシーンも、たしかに最初は礼子の近くの席があいてなくて遠い端っこのほうの咳に義弟は座るのですが、時がたつにつれてだんだん彼は近くの席に寄ってきて、ついには4人掛けの席の窓辺に向き合って二人だけで座るのです。これはもう露骨にこの映画は二人の距離の遠近から境界線を越える、越えない、ってことが主題の映画なんですよ、ということを示しているようなものですね。そういう目でしか見れなくなってしまった(笑)。

 そして、列車の車内は最初は満員状態で、二人をとらえるカメラがほかにもいろんな乗客を同時にとらえていますが、だんだんと乗客の数も少なくなって、同じ画面の中にとらえられる人物の数が減ってきます。そして最後はとうとう二人だけで、ほかの乗客はカメラのフレームから見えなくなってしまいます。二人に、というのか二人の距離に、あるいは二人の間の境界線に、焦点が絞られてきます。

 さらに恐るべきことには、或るウェブサイトでこの映画のことを分析した似たようなサイトがあって、どうやら映画関係者らしくて、映画の撮影技術のことなど教えている方らしいのですが、その方が書いているところでは、この映画は最初のほうは、近くにスーパーが立って、立ち行かなくなりそうな商店街が舞台なので、そこの色んな人々やらなにやら、恐ろしく多様な人々が画面の中にあふれかえっているわけです。それが映画の進行とともに、だんだん画面の中にあらわれる人物が減ってくる。焦点が礼子が切り盛りしてきた店に関わる姑や小姑やその夫のような狭い範囲に充てられるようになってきて、列車以後はそれも切り捨てられて二人だけになる。
 
 そして恐ろしいことに、最後の最後はとうとう礼子一人になってしまう。その最後の最後の姿がラストシーンの、義弟の遺体を追う礼子のアップだ、と。

 こういう映画を撮る監督って、ほんとうにおそろしいような人ですね。繊細細心であるばかりか、ものすごい粘りづよいというのかしつこい(笑)、細部まで徹底的に計算しつくして全体の構造の中に何重にも入れ子構造で同じ構造を作り込んでいくような偏屈な職人さんを思い浮かべてしまいます。

 それにしても、そういうのを読み取ってしまう人というのもすごいなぁと感心します。そういう目でもう一度またそのうち見てみたい。きっとこういう作品は映画作りをする若い人にとっては何十遍も読み返す値打ちのあるテキストみたいな作品なのでしょう。
 

「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)1959

   あとは時間切れで簡単に(笑)。以前にも見たことがあるけれど、先日「操行ゼロ」をみてまた思い出したので、古い録画を取り出して観ましたが、やっぱりいい映画でした。
 でも、こういう映画を撮る人というのは、よっぽど学校嫌いだったんだろうなぁ、家でもあんまり幸せじゃなかったんだろうなぁ、なんて思ってしまいました(笑)。

 今のフランスはさすがにそんなことはないと思いますが、学校の教師という教師が軒並み厳格すぎ、すべてが強圧的に子供を自分の思い通りに「矯正」することしか考えていないような、どうしようもない教師ですよね。日本も昔はこうだったんかな、と思いますけれど。

 前に見た時は印象に残っていなかったけれど、冒頭は車窓から撮ったパリの町の風景なのかな、ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の冒頭の街を舐めていくような映像を逆に思い出しましたが、映画の中のこういう映像というのは、ストーリーのある映画のストーリーそのものと強いかかわりがあってもなくても、映像としての良さがありますね。

 主人公の少年が友達に誘われて学校さぼってゲームセンターみたいなところへ行って、円筒形の大きな器みたいなところへ入ってその内壁にへばりついて、円筒形が次第に速度をあげて回転する、あれはなんていう大型遊具なのか知らないけど、あれはそういえば印象的だったことを思い出し手、今回も楽しんで観ました。

 学校で詩の朗読とか詩のレッスンをやっているのはフランスらしいな、とも思いました。少年が家でバルザックの写真を神棚みたいなのに貼ったりするのも。

 人形劇を見ている主人公らよりは幼い子供たちの生きた表情、それから少年鑑別所へ送られた主人公を正面からとらえて少年の供述をそのまま撮ったような映像もとても面白い。

 話としては酷い話で、まったくひでえ親たちです。これじゃ主人公の子供がほんとに可哀想だと思います。父親は実際上この子に関心がないし、母親は浮気しているのを子に目撃されるわで、親が勝手すぎて・・・そんな親のもとで、どっちからも当たり前のようにゴミを捨てておけよと言われて、はい、と素直に捨てに行く少年が天使に見えます。私だったらふくれてゴミ袋をぶちまけるところだ(笑)。

 いたずらもする、うそもつく、わるさもする、ぬすみもする、だけど素直なごく普通の少年がそんな教師や親に厄介払いされて少年鑑別所に送られて、孤独の中で当然鑑別所の仲間たちにろくな影響は受けないわけだけれども、そこからも逃亡して、あてもなく海辺を彷徨う少年の哀れさ。教師や親に代表される大人の世界、社会に対する深い不信と指弾の志がみなぎる秀作。少年の目がとてもいい。


「小間使い」(エルンスト・ルビッチ監督)1938

  配管工の姪で、世間知らずの若い女性クルニーが、田舎の上流階級の家の小間使いとして仕え、チェコから英国に亡命したベリンスキが客人としてこの屋敷にやってきたのをもてなす中でいろいろ失敗したりして巻き起こす騒動とベリンスキと最後には一緒に街を出ていくまでの顛末をコミカルに描く佳品といったところ。

 クルニーを演じるジェニファー・ジョーンズが、ローマの休日のオードリー・ヘップバーンのように世間しらずで初々しいけれども、もちろん王女とは正反対の英国では下層階級の女性で、同じオードリーならマイフェアレディの市場の花売り娘だったときのイライザみたいなもの。でもウブで可愛い。

 相手役のベリンスキはうんと年上のおじさんでインテリでもあって、華やいだ恋の物語にはならないけれど、抑えた演技で、ほかの人物(薬剤師)との結婚を夢見ているクルニーを親しく近くで、でも一定の距離をおきながら温かく見守る落ち着いた年上の男性を演じるのはシャルル・ボワイエで、これはさすがと感じさせます。

 私たちがいまみると鼻もちならないイギリスの上流階級の階級的な差別意識やら高慢さ、気取り、頑固な各種の偏見や慣習みたいなものが、少し誇張されて描かれているけれども、あぁこれがかつてのイギリスなんだな、いかにもイギリス的なキャラだな、と思ってみていると、逆に面白いところがあります。


「青春群像」(フェデリコ・フェリーニ監督)1953

  主役を演じる若者たちの行動をみるとたしかに青春ならではの或る意味で「大人げない」馬鹿げた、いわゆる愚行の類のわるさやちょっとした冒険、あるいは大騒ぎ、男女関係の不祥事の類ですが、日本の青春期の若者、というイメージからすると、イタリアの若者はおっさんに見えてしまうので、なんとなく「青春群像」、という邦題がぴったり来ません。原題は「のらくら者たち」なんだそうですから、そのほうがぴったりという気がします。

 見るからに女たらしで不誠実そうなファウスト、その友人で、仲間内では唯一きまじめそうな妹想いのモラルド、実はその妹が不誠実な色男ファウストと恋愛関係で、映画の冒頭で結婚するので、案の定浮気なファウストの引き起こす騒動に巻き込まれます。
 それに作家志望だけれど、とてもまじめに書いているともみえないレオポルド、歌が自慢のリカルド、そして悪い男に惚れて家を出ていくことになる姉に小遣いをねだって職にもつかずにぐうたらしているアルベルト…とそろいもそろって「のらくら者」たち。北イタリアの小さな田舎町でくすぶる若者たちです。

 彼らが親友同士で、バカ騒ぎをしたり、騒動を引き起こします。冒頭は祭りの余興「ミス・シレーナ」を選ぶ会場のカフェで、モラルドの妹サンドラが選ばれて、モラルドの悪友たちも祝意で大騒ぎ。でもその中でサンドラが失神して倒れ、医者を呼んでみればなんとおめでた。

 これを知ってすぐ逃げようとする彼氏(笑)がモラルドの友人ファウストで、曲がったことが嫌いな実父に「責任をとれ!」と手厳しく叱られて、しぶしぶ年貢をおさめ、サンドラと結婚します。でも一緒に映画に行けば彼女の反対側の隣に座った女にちょっかいを出し、せっかくサンドラの父親の紹介で勤めた高価な装飾時計なんかを売っている店の主人の妻に手を出してクビになるなど、そのだらしない行状がやむ気配はありません。
 でも、ファウストの言う嘘八百を信じた兄もラルドの説得などで、この騒動もおさまりかけたかと思われたけれども、結局は真実がばれて、サンドラは赤ん坊を抱いたまま家を出て行方不明に。友達総出で探してみつかりません。
 さすがにファウストも不安になり、後悔して懸命にサンドラを探して、最後は彼女が赤ん坊をつれてファウストの父親のところに行っていたことが分かります。ファウストの父親はまともな社会人で、息子を厳しく叱って鞭打ち、さすがにサンドラがとめて丸く元のさやにおさまります。

 このエピソードを軸にしながらも、一人一人、それぞれにまだ社会人になるのをモラトリアムしているようなのらくら者の若者たちにこうした愚行のエピソードがついています。

 その中では、新婚旅行にいったファウストが帰ってきて電蓄をかけて、マンボを路上で踊るシーンや、カーニバルの日にみなが仮装して歌ったり踊ったり、大騒ぎする場面が素敵です。こういうところは陽気なイタリア人らしいなぁと思うし、若者たちのまさに青春を謳歌している姿として楽しくなります。

 もうひとつ好きな場面は、比較的まじめで、妹のことでも友人ファウストを信じられなくなったり、悩める若者であるモラルドが一人で孤独をかこっていたときに知り合う、駅で働く少年クイドとのちょっとしたふれあいです。
 別になんてこともなくベンチに坐って会話するだけのことですが、最後にもラルドが街を出ていくときに、駅で働いているこの少年が再度登場して、列車で去っていく彼を見送って、線路の上をバランスとりながら向こうへ去っていくところで映画が終わります。この終わり方も好きです。
 列車の音、汽笛の音がきこえる中、この町で一緒に馬鹿をしてきた友人たちがそれぞれベッドでまだ眠っている姿が映像として出てきます。とてもいいシーンです。

 この映画の中の人間関係は、一種の人情劇みたいで、男女の交情も含めて、庶民的な、あまり先鋭になったり理屈っぽくならない、なれ合いみたいな位相で描かれていて、そのへんもとてもイタリアらしいな、という気がしました。
 イタリア人的と言えば、楽天性、いいかげんさ、浮気性(女好き)、バカ騒ぎ好き、みな典型的なイタリア人気質のような気がします。これは私の偏見でしょうか(笑)。いちおう若いときは親しいイタリア人の友人もいたのですが・・・

 

saysei at 00:33│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ