2018年09月24日

三宅唱監督「きみの鳥はうたえる」を見る

 2日つづけて、けっこうおもしろい映画が見られるという幸運を堪能しました。入院したら遊べないからいまのうちにというので連日(笑)。昨日は出町座の濱口監督の「Passion」で、今日は京都シネマの三宅唱監督の「きみの鳥はうたえる」です。どちらも私のようなごく一般的な、ただ評判がよさそうだという映画だけ、たまぁに映画館へいって見ようかという程度の人間が、何の予備知識もなく見て楽しめて、なかなかいい映画だったなぁ、と余韻にひたれる映画なので、まだ未見のかたにはおすすめです。

 見て来たばかりなので、最初に一番印象に残っているシーンから。それはラストの佐知子(石橋静河)のアップの表情です。私がこの種の、若い女優さんの表情で幕となる映画で印象に残っている映画と言えば岩井俊二監督の「Love Letter」で、自分が愛されていると思っていたら実は彼が中学生時代の片思いの少女の像を自分に重ねていただけ、という形で取り残される彼女のほうはどうなるんだ!とその残酷さに異議なしとはしないものの、いまだに岩井俊二の作品の中では一番好きなあのアジアでも広く愛された映画のラスト。言うまでもなく若いころの本当に綺麗だった中山美穂が図書館係の後輩たちから同姓同名の亡くなった同級生樹が裏に彼女の似顔絵を描いていた図書カードを見せられて、はじめて彼の片思いに気づいて、後輩たちの前で嬉しいような困ったような表情を浮かべる、あのシーン、あの中山美穂の表情が本当に素敵だと思ってみたときのことを思い出します。

 もちろんコンテクストはまるで異なり、状況も気持ちもまったく無関係ですが、この作品でのラストで、「僕」(柄本佑)の「好きだ!」という告白を受けて、嬉々として受け入れる喜びの表情でもなく、いまさらと反発したり拒絶したりする表情でもなく、曖昧な、という言い方は少し語弊があるけれども、曖昧さを明確に示すような表情といういささか矛盾した言い方でしか言いようのない、石橋静河の表情が本当にすばらしくて、この映画を観た人の心にずっと残ることは確実な気がします。

 ラストだけではなくて、全編を通して石橋静河はとても良かった。書店でバイトしていて「僕」からのメールを嬉しそうに見てやりとりしているとき、カラオケ?で歌ったり、踊ったりしている彼女、玉突きなどして三人で遊んで笑い転げている彼女、そして同じバイト先の店長と彼女が以前から関係があって、「僕」と付き合いだした彼女がはっきりさせたいからと店長に別れ話をもっていったあと、店長が「僕」に、彼女を大事にしてやってくれよ、と言って帰るところがありますが、翌日佐知子が「僕」に「店長私のことなにか言ってた?」と訊くと、「佐知子を大事にしてやってくれって言われたよ」と答え、佐知子が、「あなたはどう言ったの?」と訊くと、「何も・・・」というふうな答え方をします。ほんとうは「僕」に言ってほしかった言葉を彼女は自分の中に持っている、でも何も言わない、そのときの佐知子の表情・・・彼女は表情の演技がすばらしい。クローズアップされるときの彼女はほんとうに綺麗だし、その表情がまさに佐知子以外のなにものでもなくて、この映画をいたるところで素敵なものにしています。

 いまの最後に書いたシーンは、シナリオでは「僕」が店長の言葉を繰り返したりせずに、ただ「別になにも言ってなかったよ」としか答えず、この辺のやりとりの言葉は出来上がった作品とシナリオで違っているようですが、映画のようがより佐知子がはっきり傷つくだろうな、というのが分かりやすくなっています。

 シナリオを読んだとき、原作と最も大きな違いはラストの処理で、原作では静雄が母親を殺し、それを知った佐知子が静雄のところへ行く間に「僕」が静雄と電話で話し、静雄がすぐに逮捕されたことを知る、というところで終わっていて、「僕」と佐知子と静雄の3人の関係は、静雄と佐知子が愛情を交わしたままで、殺人事件で破綻して行方が見えなくなる、というラストになっていますが、シナリオではそういう静雄の事件は起きず、「僕」が静雄と佐知子の関係を静観というかむしろ静雄が佐知子を好きなのを知って佐知子をそっと静雄のほうへ押しやるようなポーズ(告白するというラストにしてしまえば、結果的にはあれはポーズだったんだとしか言いようのない姿勢)をとっていた「僕」が、最後の最後にそのポーズを棄てて、好きだというホンネを佐知子にぶつけるところで終わっているわけです。

 映画はこのシナリオどおりの結末になっていますが、私はシナリオを読んだとき、こういう原作の改変に疑問を感じていました。そこまで読んできた「僕」の資質、姿勢、行動パターンから言って、これはないんじゃないか、と思ったからです。映画を観ても、「僕」が最初、店長と一緒のときに「僕」と出会ってすれ違いざま肘に触って合図したので、それがほんものかどうか確かめようと「僕」が120までは数えて待とうと思って待っていて彼女が予想通り戻ってきて彼とデイトするみたいに、ラストでも一旦別れを告げながら「僕」が立ち止まり、振り返って、数を数えて彼女を待とうとして、たまらず自分からバタバタとみっともなく駆けだして彼女の後を追い、立ち止まって顧みる彼女に、今までのことは全部嘘だ、好きだ、と告白する、この彼の行動については、まだ疑問を持っています。

 結局彼のこの行動で、それまでの彼の三人の間での微妙な立ち位置や、そこで佐知子にとっても私たち観客にとっても「よく分からない男」であるがゆえに、その点での魅力もあった(それがなければ、単なるどうしようもない無責任でそれこそ不誠実で動物的本能だけもっていて無意味に生きているだけの屑みたいな男にすぎない)のに、その「わからなさ」や微妙な立ち位置というのが全部吹っ飛んでしまいませんか?ということです。

 その「わからなさ」や微妙な立ち位置の中に、彼が静雄や佐知子に対してもっているかもしれない優しさ、思いやり、愛情なり友情なりの人間的な感情が隠れているわけでしょうし、それがあからさまでないから、佐知子を不安にしたり、不信を懐かせたり、静雄をいっそう佐知子の方へ押しやってしまったりもするわけで、この三人の関係を動かしていくモメントというのはその「わからなさ」や微妙な立ち位置の中にしかないわけです。

 そうじゃなくて、最後にこんなことを告白してしまうのであれば、それまでの三人の関係の中で、実は「僕」は本当は佐知子を愛していたのであり、三人の関係の中でも実は内心でチクチクと嫉妬を覚えていたんだ、ということになってしまうでしょう。フロイド的な種明かしで、友情の絡んだ三角関係で、それがあからさまになるのが遅延しただけで、実はこうでした、というつまらない話で、「僕」という人間は一挙につまらない男になってしまいませんか?そういえば最後のバタバタはまるで子供みたいだし、最初から最後まで実は彼はまだ子供だったんですよ、という種明かしになってしまいませんか?

 たしかにこれは本質的には友情も含めた対幻想の三角関係が話の骨格だし、チリチリした嫉妬心の類も原作もシナリオも映画もそこかしこで垣間見せてはいますし、途中までの3人の関係という骨格だけみれば、なにも変わるところはありません。でもこの作品を面白くしているというか、ありふれた三角関係話から一歩新しい物語へ踏み出しているのは、「僕」の資質、対人関係の基本的な姿勢、大げさに言えば世界との向き合い方の特異性にあって、本来は「僕」というキャラクターの「わからなさ」、曖昧さのうちにそれが描かれているはずのものです。それは原作の読者なり映画の観客から見ての彼の「わからなさ」、曖昧さであると同時に、作品の世界の中での佐知子からみた「僕」の「わからなさ」でもあるわけで、それが佐知子の心の動きに反映もし、3人の関係を動かしていく原動力であって、物語もそれによって展開されるわけです。

 その「僕」の「わからなさ」の種明かしが、「好きだ!」ではどうにも納得しがたい(笑)。
 じゃ、あの名ナレーション、シナリオの函館駅・構内の朝、「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」は一体どうなるんだい?と訊きたい。

 そんなものは「僕」が見栄でオトナの振りして突っ張ったポーズに過ぎなかった、ってことになりゃしませんか?そういう「僕」の倫理的な生き方の核がなければ、この「僕」という男はほんとうになんのとりえもない屑で、「大人」の店長に遠く及ばず、あのいやらしいやつとして描かれた同僚の森口にも遠く及ばない不誠実なフーテンに過ぎなくなってしまうのでは?

 原作ではそうはなっていなかったはずです。明らかに佐藤泰志は、そんな屑男として「僕」を描いてなどいないと思うのです。佐知子を愛してはいるのですが、それを決してストレートに表現できない存在として明確にその微妙な立ち位置を、微妙だけれど曖昧ではなく、正確に見定めて狂いなく描き切っていると思います。だからこそ、映画のラストの繊細さも何もないガキのような好きだ!なんて言葉で観客にカタルシスを感じさせてハッピーエンドなんてありえない。いくら肉体を重ねてもそういうふれあい方ができないからこそ、「佐知子を通して静雄を」あるいは「静雄を通して佐知子を」感じることができるだろう、という「僕」のモノローグが生きてくるわけで、これがこの作品の要であり心臓だと思うのですが、三宅監督はそうは思われなかったようで、それを単なるポーズ、言葉のカッコつけみたいなアソビにしてしまったようです。

 もっとも、原作の「僕」や「静雄」、「佐知子」と、映画あるいはシナリオの彼らとは、もともとずいぶん設定が異なるのかもしれません。前者がおとなだとすれば、後者はこどもあるいは精神的、感情的にはまだ子供に等しい人物たちとして設定しているのかもしれません。そのほうが、現代の或る意味で幼児化した若者の世界に近いという感覚があるのかもしれません。

 原作の「僕」と「佐知子」はこんな会話を交わします。約束をすっぽかされた佐知子が、「僕」に映画に誘った別の約束を思い出させて、連れてってくれと言い、なにに連れてってくれるのかと問う場面です。

 「フェリーニの新作はどうだい?パゾリーニでもいいよ」
 「パゾリーニなんて退屈よ。それに変態だわ」
 「でも、あいつの小説はおもしろいよ」

 ほかにもいくつか登場したと思いますが、こういう会話は映画の主人公たちにはさせられないでしょう。精神年齢にかなりの開きがあるからです。そして、上記の「僕」のナレーションが表現しているような3人の関係というのは、こういう言葉が交わせる程度の精神年齢の登場人物でなければ維持しえないものであるかもしれません。

 もちろんこんなものは全部取っ払ってしまって、子供なら子供たちの世界での三角関係を描くことはできますし、引用したナレーションのようなポーズはよけいなことで、すなおに幼い子供のような若者たち3人の恋愛と友情ごっこ、多少の我慢比べのドラマが成立すれば、それならそれでよかったのだと思います。

 柄本佑も染谷将太もそれぞれ個性の強い独特の存在感のある俳優なので、大人の身体をした子供にしてしまうのはもったいないな、とは思いますが・・・ 

 ただ、この映画、困ったことに、そういう疑問な点があるにも関わらず、3人の登場人物はそれぞれ個性豊かに演じられて生き生きとしていて、とりわけ3人が遊ぶシーンが長々と撮られているのですが、あぁいうシーンの楽しさで見せてくれるところがあります。そういうときの3人、とりわけ先に書いたように、石橋静河の表情は素敵です。また、困ったことに、あぁいう疑問なラストの改変にも関わらずその最後の最後の石橋静河の表情のアップはこの映画の中でも一番いい、印象にのこる画面なのです。

 たぶん私のような老人世代で私はもう秩序からもドロップアウトしたフリーな高齢者にすぎないけれども、まだ秩序の中で秩序を支えて頑張っているようなおじさんたちから見れば、つまり「僕」がバイトをしている書店の店長のような人たちから見れば、この3人の登場人物のような若者というのは、ほんとうにどうにかならんか、と言いたいようなだらしない、社会的に無責任な、そして男女関係にもだらしない(笑)、目的を見失ってただその日その日を、つかの間のことかもしれない世の中の一応の安定の中だからこそそのおこぼれで生きて漂っているような屑のような人間にしか見えないだろうな、という気がします。原作でもそうだと思いますが、この店長のような普通一般には社会的に責任感もあり、きちんと仕事をし、社会的規範の内部で堂々と生きている大人と、この作品の主人公たち3人のような若者とを対比的に描いているわけですが、ではそういう大人のほうからみてどうしようもない、店長が決して「僕」をクビにはしないで寛容な姿勢で対応するように、あわれむべき存在とみているだろう若者たちのほうには、どんないいところがあるのか・・・もちろんそれが無ければ、つまり書き手のほうに彼らに共感できる部分がなければ、こんな原作が書かれるはずもないし、こんな映画がつくられるはずもないわけです。

 そうすると、私の考えでは小説では、彼らが旧世代の人間関係がすでに大きな欺瞞の内に築かれているにすぎず、人と人がじかに例えば膚触れあうことで、ほんとうに相手を感じ、魂まで触れ合うことができるかといえば、もうそんなことは信じられない。そういうしんどい状況のうちに生きて、それでも他者と共存していかなければならない、その不愉快さやもどかしさや、焦慮や苛立ちその他もろもろのそこから生まれてくるものに対して正直であるかどうか、それらをごまかさずにみずからの痛みとして受け止めているかどうか、それが問題の核心だということになるでしょう。そこに表面でどういう生活をしていようが、はた目には見えない苦通があり、傷を負っている魂というのがあるかもしれない。そういう苦痛に対する感受性をもちあわせているかどうか、ということが或いは作者の人間を判断するひとつの軸になるかもしれません。

 原作の登場人物たちは、そういう自分たちの置かれた状況を鋭敏に感じていて、人と人が触れ合うことの不可能性とそれにもかかわらずそれを求めてやまない魂をもっていて、ただそれだけが彼らの関心事で、すべてがそこに集中していくがゆえにまた互いにぶつかったり、ぶつかることを過度に恐れて回避しようとしたり、そのことがまた却って他者を傷つけることになったり、ということを、狭い魂の実験場のような潜在的な三角関係の中で繰り返しながら、破綻を避けて安定的にそういう関係を維持していくために「僕」が生き方の倫理の核のようにイメージするのが、例のナレーションの言う ”「静雄を通して佐知子を」「佐知子を通して静雄を」新しく感じる” ような関係なのでしょう。少なくとも原作はそういうふうに3人を描いていたと私は思います。「僕」がどんなに屑のような若者であっても、こういう生き方の倫理に関しては、非常に自分に対して厳格で容赦なく、まさに誠実なのであって、そこにしか原作の作者がこういう若者を描く理由がないように思いますし、その一点以外に、書店の社長のような存在を対照的に描いてみせる理由もないように思います。そうでなければ、書店の社長のような人が思っているであろうように、「僕」のような人間もいずれは(もう少しオトナになれば)社長のようなどこにでもいる社会人になっていくだけのことでしょう。

 それもこれも含めて、映像として象徴的なものであったはずの、三人傘のシーンが比較的あっさりと処理されてしまったことには不満が残りました。

saysei at 22:57│Comments(0)

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