2018年07月27日

高橋弘希『送り火』を読む

 先日、芥川賞を受賞した作品です。この作家のことは知らなかったのですが、すでに「指の骨」で新潮新人賞を受賞し、そのときにも芥川賞、三島賞の候補になり、昨年は「日曜日の人々」で野間文芸新人賞を受賞している実績のある作家のようです。

 一読して原因はすぐには分からなかったけれど強い既視感を覚えたので、なぜだろうと考えていたら、藤子不二雄のマンガ『少年時代』でした!(笑)。あれはたしか柏原兵三の『長い道』が原作で、第二次大戦中に田舎へ疎開していた都会っ子が、田舎の子供たちの中の権力関係とそれを背景にしたいじめの構造の中で同級生たち、とりわけそのボスにあたる少年との関係の中で薄氷を踏むような緊張に満ちた日々を強いられる話でした。

 高橋の「送り火」は父の地方転勤に伴う一家の転居で地方の学校へ転校した中学生の男の子を主人公とする現代の話で、「長い道」や「少年時代」とは直接何のかかわりもありません。ただ、都会っ子の転校生が地方の学校に入って、そこにある子供どうしの権力関係の中にいやおうなく巻き込まれ、この主人公の場合も「少年時代」の主人公と同様、頭も良く、人間関係についても適応力があって、自分がいじめられるわけではなく、級友たちにすぐに馴染むことができるけれども、それは同時に既成の権力関係の中にいやおうなく自分も巻き込まれていく、ということであって、強者(とみられる級友)に寄り添っていくことで、結果的に弱者としていつもいじめられている級友に対しては自らも加害者ないしせいぜい傍観者として関わっていくことになる、その構造は「少年時代」とまったく変わりません。

 これは、そういう意味では現代の疎開文学であって、「少年時代」やその原作「長い道」だけでなく、これまで数多く書かれてきたであろう同工異曲の疎開文学の流れを汲む作品だと考えられます。
 私もたまたま面識のあった作家で、歌人であり、書、俳画、篆刻などをよくし、琵琶を弾くという日本最後の文人と言われた早川幾忠さんが書かれた「あまざかる鄙に五年」という山上憶良の万葉の歌の上の句をタイトルにした小説がまさにそういう疎開文学で、改題の前のタイトルは「疎開」そのものずばりだったと思います。
 あの作品も都人たる著者らしき人が地方に疎開して、或る意味でいじめと言っていいような扱いを受け、敗戦で地方にもやってきた進駐軍(アメリカ駐留軍)に解放された、と実感する疎開者の心情を率直に書いたものだったと記憶しています。子供ばかりでなく、大人の世界だって、そういうことは普遍的なことだったわけで、こういうのをひっくるめて「疎開文学」の流れというのが確かにあるように思います。

 戦争はただ殺したり殺されたり、泥濘の中を進軍したり、ジャングルの中でマラリアに罹ったり、捕虜になったり、という直接な戦争の場での生き死にの体験だけではなく、上記のような銃後の「疎開」の物語や、戦後においても、例えば敗戦後に生き延びながら自決した叔父のことで私が長い間ひっかかってきた「帰還兵」の物語のようなものを必然的に生み出してきたのだと思います。

 ただ、それが戦争との関りを失ってからも、この作品のように、いわば戦時の疎開文学と構造的に「相同」と言えるような作品が書かれるということは、「疎開」的状況は何も戦争によってのみ生れてくるわけではなくて、そこに閉鎖的な人間関係があって、そこへ外部から転入してくるものがあるとき、新参者を排除することもあれば、その参入が共同性のほうに或る揺らぎをあたえることもあり、また外部の目によってそれまでは隠蔽されていた既成の人間関係の中の権力構造がくっきりとあぶりだされる、といったことが起きる、きわめて普遍的な事態だということになるかもしれません。

 この作品の文体はどちらかと言えば平板で、主人公の少年歩の目にうつる地方の風景も同級生たちもすぐに転校先になじめむことができる適応力のある少年らしい落ち着いた語り口で淡々と語られるので、言葉が立っている印象はなく、言葉に魅せられて読まされ、それまで見てきた世界が別の輝きをみせはじめたり歪んで見えて来たり、といったことはありません。
 いじめの大将(「対象」ではない)だった晃が、実際には上級生たちにいじめられてきた、「ただの弱虫の虐められっ子だったのだ」という逆転も、そういう主人公歩の気づきも、この種のいじめっ子について既に常識となるまで蓄積された所見で、物語の展開としてもあまりにもありふれていて何の新鮮味も驚きもない展開で、文体とともに、そうした物語性の創意という点でこの作品に過大な期待をかけるのは難しいようです。

 ただ、ラスト近く、主人公歩がそういう「発見」をする場面は、さんざんいじめっ子にいたぶられてきた「虐められっ子」稔が、自分をいじめていた晃のもうワンランク上のいじめっ子たちである上級生たちに直接のいじめを受ける際に、とうとうぶち切れて加害者を傷つけ、刃物を振り回して大立ち回りを演じるあたりになると、文体のほうも少々熱を帯びて来て、けっこう読ませてくれます。

 そのハイライトは、語り手でもある主人公歩が、それまでのクラスのいじめっ子晃に寄り添って、結果的に稔への虐めに加担してうまくやってきたにもかかわらず、稔がキレて攻撃すべき的は晃であって、自分は安全圏にあるはずだ、と考えていたらしく、稔に襲われて狼狽して叫ぶあたりです。

 目と鼻の先には、血液に汚れて鈍く光る円盤状の刃がある。晃の身代わりになって殺されるなんて馬鹿げている。次の一打は、歩の耳のすぐ横に突き刺さった。乾いた口腔内でどうにか唾液を飲むと、稔を押し退けて叫んだ。 
「僕は晃じゃない! 晃ならとっくに森の外へ逃げてるんだよ!」
 稔は腫れ上がった瞼の奥の、細長い白目の中で瞳を動かし、
「わだっきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」

 
いよっ!大統領!と声をかけたくなる(笑)、なかなか痛快な場面です。もっとも作品自体は、終始一貫、ここで全否定される主人公歩の視点で語られているので、ラストは「もう悲鳴と嗚咽を留めることができず、顔中を血と汗と涙でぐしゃぐしゃにし、金切声を上げながら黒い森を駈け」て命からがら逃げに逃げて意識を失い、闇の底で横たわり、ようやく意識をとりもどした歩の「糊付けされたように貼り付いている」瞼を引きはがしたときに見える光景ゆえ、ずいぶん歪んだものとなっています。

 焔と河の畔には、三体の巨大な藁人形が置かれていた。一つの影が、松明の炎を藁人形の頭部へと掲げる。藁人形の頭が燃え盛り、無数の火の粉が山の淵の闇へ吸われていく。それは習わしに違いないが、しかし灯籠流しではなく、三人のうちの最初の一人の人間を、手始めに焼き殺しているようにしか見えない。

 
まるで自分が焼き殺されるのを目撃するような恐怖を味わっているみたいですね。歩は実際には殺されずに逃げおおせたけれど、ここで、もう一度自分が無残な殺され方をする擬似体験をしているようなもので、先に引いた一節にある稔の一声で、実際にグサッと魂の奥底まで刺されわけでしょう。このあたりのラストの文体は密度があって、それにふさわしいリズムが出て来て、好きです。

saysei at 22:52│Comments(0)

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