2018年07月23日

山本周五郎『青べか物語』

 先日このblogに感想を書いた篠原徹の『民俗学断章』の中で、篠原が昔から大好きでよく話題にしていた深沢七郎と、もうひとり山本周五郎の描く庶民のありようを、彼が従来の民俗学者たちの描く常民像を厳しく排して、彼自身が思い描く理想の民俗学が到達しようとして到達できないゴールに在るものの姿のように思い描いて「土俗」と彼が呼んでいたことから、彼が引用した山本周五郎の短編連作『青べか物語』の「対話(砂について)」と「経済原理」を読んでみたくなって、これらと幾篇かを読んでみました。

 話の発端になる不格好な舟を買う「「青べか」を買った話」には、さっそく、語り手のインテリ「蒸気河岸の先生」が、子供でさえどうしようもないと嘲るようなボロ舟を、ちょっとしたやりとりの中で見事に「罠にかかって」買わされるはめになる、食えない爺さんが登場します。読みながら、あぁこれこれ、こういう爺さんのことを篠原はよく話していたなぁ、と思い出しました。そのうちの一人のことを伊谷先生が亡くなられたときに私が書いた文章の中で触れています。

 Sがかねてから懇意にしている土地の古老は,なかなか食えぬ爺さまで,過去に沢山の研究者が調査と称して現地入りするのにつきあい,何食わぬ顔で案内などしているが,ほんとうは,なまじっかな学者よりはるかに物知りで,講釈をたれる学者を逆に観察し,独特の尺度で評価している。 
 その爺さまが,伊谷先生と一緒に歩いたあとで,「わしもこれまで数え切れんほどの博士(これを彼は「バカセ」と濁って発音していた由)を見てきたが,あれほどエライ博士は初めてだ」とSに漏らしていたそうだ。   

 こういう食えない爺様は知識を詰め込んだだけの学者先生では手も足も出ない。青べか物語に登場する「浦粕町」の住人たちは老人から子供まで、まさにこういう「土俗」の民なのです。そして何かにつけて彼らの相談に乗ってやっているはずの「蒸気河岸の先生」はいつも彼らに見事にしてやられ、そのことを楽しんでここに居を構えているのです。

 村の子供たちが鮒をとっているのを見て、つい売ってくれぬかと申し出たために、彼らがどんどん欲望をエスカレートさせて「蒸気河岸の先生」のふところが空っぽになるまで、あの手この手で鮒の値をつりあげて買わせながら、ついにどう懐をはたいても買えなくなったとみるや、子供たちが当初の子供たちにもどって、鮒をただで置いていくという「経済原理」もまことに見事な佳品ですが、読んでさらに面白かったのは「対話(砂について)」でした。

 これは富なあこ、倉なあこ、という浦粕の二人が沖へ魚を踏みに来てかわす会話だけで成立している物語なのですが、その掛け合いがめちゃくちゃ面白い。中身は砂というものは生きていて徐々に川を遡ってついには大岩にまでなっていくんだ、という無茶苦茶な話で、無知このうえない二人が大真面目にそういうそんな話をするというだけなのですが、その大真面目な議論を聞いているとまさに抱腹絶倒なのです。こんな荒唐無稽な話を大真面目な富なあこがどうもっともらしい彼一流の擬似科学的描写でもって語るか、そして倉なあこのほうも、それをはじめは半信半疑で聴きながら相槌を打っていくうちにノッてきて、それがまた富なあこの語りを煽っていくような掛け合いの面白さ!

 たしかにこれはインテリが庶民を見下ろす「上から目線」でとらえられた庶民の姿ではありません。篠原が『民俗学断章』で吉本隆明の初期の詩を引用して言うような、「生まれ、婚姻し、子を生み、育て、老いた無数の人たち」の「生きる方法」を<同じ地平から見る>目がとらえた庶民の姿でしょう。

 ただ、「同じ地平」というのは上からでも下からでもないという意味であって、決して「蒸気河岸の先生」がこの富なあこや倉なあこになれるわけではありません。そこには篠原自身が言うように「他者理解は最終的には不可能」であり、せいぜい、ただ「限りなく漸近線的に近づく方法はないものだろうか」と模索することができるだけなのでしょう。

 ただ、私はそのような到達不可能な距離の向こうに描かれるゴールに立つ「土俗」もまた、篠原らしい民俗幻想ではないか、と先日の感想で書きました。篠原自身も、その「土俗」が山本周五郎や深沢七郎の小説、あるいは会田綱雄の詩「伝説」には確かにとらえられていると直観していて、ただそれはこうした詩的想像力によってしかとらえられないものではないかと自問していたのです。

 たしかに「漸近線的に近づく」ほかはないようなものであれば、決して到達することはないわけです。ゼノンのアキレスと亀ではないけれど、漸近線というのはそういうものでしょうから。

 けれども、彼のいう「土俗」と「蒸気河岸の先生」のような存在のとの関係を、距離で考えずに、そこに捩れがあり、転倒があると考えれば、宇宙空間を折りたたんでワープするようなことが或いは可能ではないか。

 私たちはいつもこんなことを考えるとき、最善の場合でも、「蒸気河岸の先生」のような視線で「土俗」をとらえようとしています。あくまでもこちら側を中心に。でも「土俗」の側から見れば、こちら側のよって立つ土台そのものがすでに転倒したものでしかないでしょう。従って「蒸気河岸の先生」が見ている「土俗」はすでに逆立ちした「土俗」の虚像にほかならず、いくら漸近線的に近づこうと、じかにとらえることのできないものではないか。

 たぶんこれは観測そのものが対象の在り方に干渉する素粒子の世界のように観測の在り方そのものの構造を明らかにすることと対象をとらえることとが同時並行的に行われていかないと解決しない問題ではないか、という気がします。

 

 


saysei at 21:20│Comments(0)

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