2018年04月01日
詩仙堂
曼殊院道を桜が満開の川端から、東へ東へほぼまっすぐ歩いていくと、そば鶴の前を通り、東大路の延長のいわゆる「ラーメン街道」と交差し、啓文社の前を通り、叡電の一乗寺駅手前の踏切を渡り、白川通りを渡って、緩やかな坂道をなおも道なりに進むと、宮本武蔵が吉岡一門と決闘した一乗寺下り松で、「宮本武蔵決闘之地」という石碑が立っています。
そこをさらに道なりに山のほうへ上がって行くと、道が細くなって、やがて右手に詩仙堂に行き着きます。
江戸初期の儒学者石川丈山が晩年の30余年を過ごした住居で、正しくは、でこぼこした土地に建てた住居を意味する凹凸窠(おうとつか)という名称だそうですが、その一室である詩仙堂の名で知られています。
詩仙堂の名の由来は、自身が漢詩の大家だった丈山が、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を加納探幽に描かせ、その図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」を中心としているところから呼ばれたのだそうです。
学生時代も松ヶ崎というそう遠くないあたりに下宿をしていたので、詩仙堂も何回か訪れています。いまほど観光客も多くは無く、平日授業をさぼって一人で座敷でくつろいでぼーっとして庭を眺めて時間を過ごしていました。あれから半世紀たっても、何も変わっていません。
桜は一本だけ、きれいに咲いていましたが、詩仙堂には椿が似合っています。観光名所としては、5月のさつきと秋の紅葉が見どころでしょうか。
いまは椿のほかは、むしろ濃淡いろいろの緑の庭で、観光客もお花見の方に行ってこちらにはあまり来ないので、ゆったりと憩うことができます。
池の畔。
時折静寂を破って鹿威しの音が、コーンと澄んだ音を響かせています。
詩仙堂の近くには、曼殊院や八大神社があります。昔、次男のお友達が通っていた修学院小学校で、生徒が地域のことを調べて、地域史の冊子をつくるプロジェクトがあって、担当だったらしい八大神社のことを調べて要約するお手伝いをしたことがあります。そのときに、祀られている神様のことを調べていて、この神社には日本の八百万の神様(素戔嗚命)から中国、さらにインド(天竺)の祇園社(牛頭天王)まで、国を超えるスケールの神仏が絡み、習合されていることを知って、とても面白く思った記憶があります。
なお、八大神社は宮本武蔵が剣の道に開眼した場所だと案内板に書いてありました。でもそれはこの神社の境内だった一乗寺下り松の決闘の場に赴くとき、神社に祈ろうと足をとめながら、鰐口の鈴を鳴らさずに決闘に赴いた武蔵の「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」という武者修行者としての自力本願的な悟りだったと吉川英治などは解釈しているようです。
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