2018年03月01日
「臨床医学の誕生」の拾い読み
人の紹介に頼ってあれこれ考えているのもなぁ、というわけで、ご本人の弁を拝聴することにして、フーコーの「臨床医学の誕生」でいま考えてみたい論点に関係の深い第8章「屍体解剖」を読んでみました。
ビシャという医学者のことは全く知りませんでしたが、フーコーは「分布としての死」の着眼はビシャの「諸膜論」(1799年)をはじめとする解剖学の仕事に多くを負っているようです。
「ビシャは死の概念を相対化し、それが分割不能の、決定的な、恢復不可能な事件のようにみえていた絶対的な地位から、これを失墜させた。彼は死を気化させ、こまかな死、部分的な死、進行的な死、死そのもののかなたでやっと終結するようなゆっくりした死、などという形で死を生の中に配分したのである。」
フーコーのような才人というのか知的巨人の文章はお洒落過ぎて、私のような田舎者の鈍才にはついていくのが難しいところが殆どです。
でも、理解できそうな僅かな部分だけ見ても、うまいこと言うもんだなぁ、とにんまりしたくなるような箇所が多いですね。だから、これだけすごい人なんだから、あんまり誰がどう言ったああ言った、と自分が恩恵を受けた過去の知的遺産を丁寧に辿って、その引き継ぐべき点と捨てるべき点を評価し、細かく腑分けしてみせた上でしか物が言えない凡庸な学者スタイルなんか捨てて、あなたがどう考えるのか端的に言ってくれないかな、そのほうがずっと分かり良いよ、と時々言いたくなりながら、まぁこの章だけは読ませてもらいました。
でも、理解できそうな僅かな部分だけ見ても、うまいこと言うもんだなぁ、とにんまりしたくなるような箇所が多いですね。だから、これだけすごい人なんだから、あんまり誰がどう言ったああ言った、と自分が恩恵を受けた過去の知的遺産を丁寧に辿って、その引き継ぐべき点と捨てるべき点を評価し、細かく腑分けしてみせた上でしか物が言えない凡庸な学者スタイルなんか捨てて、あなたがどう考えるのか端的に言ってくれないかな、そのほうがずっと分かり良いよ、と時々言いたくなりながら、まぁこの章だけは読ませてもらいました。
私流にフーコーの語るビシャを受け止めれば、ビシャという医学者は、死の方から人間の生を、またその病を見た人なんだそうです。分割不可能な身体的時間性の決定的な切断としての死ではなく、死に至る刻々のいわば微分化された時間的な「死化」の過程としての死を見出した人。
また同様に分割不可能な身体的空間性の切断あるいは生から死への反転としての死ではなく、この組織、あの器官ともろもろの微分化された身体の空間的な「分布としての死」を見出した人。
また同様に分割不可能な身体的空間性の切断あるいは生から死への反転としての死ではなく、この組織、あの器官ともろもろの微分化された身体の空間的な「分布としての死」を見出した人。
もちろんそんな視点は屍体解剖によってはじめて可能となったもので、屍体は確かに既に死んだとみなされる肉体だけれども、そのいわゆる死と、それに限りなく近いがまだ生きている身体との時間的な隔たりを極小化していけば、生と死とを画然と区別する形而上学的な死の概念は揺らぎ、そこに浮かび上がってくるのは、「過程としての死」であり、「分布としての死」だということでしょう。
ここまでは私のいう「死の微分化」と言い換えてもよく、それによって見えて来る「死」の構造です。でも今回フーコーの原典にあたってみて私が感じたのは、フーコーの見ているもの=ビシャの見ていたものの確かさ、コンクリートネスとでもいうような確かさでした。
つまりピジャもそれを称えるフーコーも、死に至る人間の肉体の刻々の死、あるいは死の分布を、まさに個々の肉体の組織、器官の「死化」の過程あるいは分布として、きわめて具体的な実体として見ているわけで、フーコーの死の思想、彼の死についての形而上学は、この形而下的な具体的な事実の観察像と固く結びついたものだ、ということをあらためて実感しました。
つまりピジャもそれを称えるフーコーも、死に至る人間の肉体の刻々の死、あるいは死の分布を、まさに個々の肉体の組織、器官の「死化」の過程あるいは分布として、きわめて具体的な実体として見ているわけで、フーコーの死の思想、彼の死についての形而上学は、この形而下的な具体的な事実の観察像と固く結びついたものだ、ということをあらためて実感しました。
この解剖学的な視点は、人々が死という概念に許してきた特権的な地位を剥奪して、これまでは生の方から、あるいは病の延長として、生の中でとらえられてきた死を、生や死の系列とは異なる死の系列、ただ死へ近づいていく過程であり分布であるようなものとして理解することで、逆にその死のほうから生や病の系列を正確に分析することを可能にした、とフーコーは言っているようです。
「何千年もの昔から、人間は生の中に病の脅威をおき、病の中に間近な死の存在をおいて、つねにその思いにつきまとわれて来たのだが、その古くからの連続性は断ち切られた。その代りに、一つの三角形の形象があらわれ、その頂点は、死によって規定されている。死の高みからこそ、ひとは生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析することができるのだ。・・・(中略)・・・死の非時間性の特権は、死が切迫していることの意識と同様に古くからあったものにちがいないが、この特権が初めて一つの技術的な道具に転化され、この道具によって生の真理と、その病の本性を把握する手がかりをあたえられることになる。」(神谷美恵子訳)
「技術的な道具」、ですか(笑)。なるほどね。
ここで解剖学的な視点から言われていることを、もし一定の概念的な手続きを経て、観念としての人間の内在的な死を追い詰めていくときにも展開できるとするなら、ここはほとんど親鸞の往相・還相、吉本さんの上昇と下降と相同の構造が透けて見えるようです。
上の引用部分のすぐあとに、「死とは大いなる分析者であって、もろもろのむすびつきをほどいてみせ、解体のきびしさの中で、発生というものの脅威をあざやかに照らし出す。」と「死の高みからこそ」見えるということの内容が再度強調され、そのあとで「死を見てしまった眼のまなざし」という言葉が登場します。これはほとんど「帰りがけの目」と言い換えてもいいでしょう。
上の引用部分のすぐあとに、「死とは大いなる分析者であって、もろもろのむすびつきをほどいてみせ、解体のきびしさの中で、発生というものの脅威をあざやかに照らし出す。」と「死の高みからこそ」見えるということの内容が再度強調され、そのあとで「死を見てしまった眼のまなざし」という言葉が登場します。これはほとんど「帰りがけの目」と言い換えてもいいでしょう。
かくしてフーコーにとって、私流に読めば、死は微分化された過程であり、分布であって、それを彼はこうまとめています。
「こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散しているものである。それを起点として、時間が停止し、逆転するというような、かの絶対的、特権的時点ではない。死は病そのものと同じように、多くのものが集まっている存在であって、分析によって、時間と空間の中に配分されうるものなのである。」
先に「死化」と書きましたが、もちろんそれはフーコーのこの文章で使われている言葉で、微分的にとらえられた死の過程的構造を示す言葉で、訳書でも”「死化」mortificationの過程が存在する”と言う風に訳されています。
フーコーは、これを疾患そのものの過程と明確に区別して、それは疾患がなくては起きなかったかもしれないが、疾患そのものではなく、疾患の経過の裏面に伴う或る別の発展過程なのだというふうに述べています。
そして、それは未来を予測させる「徴候」(シーニュ)とは違って、「成就しつつある一つの過程を示すだけのもの」であって、この死に至る過程は、「疾病形態だけに沿って行くものではなく」て、「生体に固有な抵抗の少ない線(ファシリタシオン)に沿って進行する」と。これはなかなか面白い言い方ですね。
フーコーは、これを疾患そのものの過程と明確に区別して、それは疾患がなくては起きなかったかもしれないが、疾患そのものではなく、疾患の経過の裏面に伴う或る別の発展過程なのだというふうに述べています。
そして、それは未来を予測させる「徴候」(シーニュ)とは違って、「成就しつつある一つの過程を示すだけのもの」であって、この死に至る過程は、「疾病形態だけに沿って行くものではなく」て、「生体に固有な抵抗の少ない線(ファシリタシオン)に沿って進行する」と。これはなかなか面白い言い方ですね。
じゃ「生体に固有な抵抗の少ない線」って具体的に何なのだ、というと、それがビシャの著作のタイトル「諸膜論」の「膜」を入口にした身体組織の系列なのですね。
「ある病的状態がつづく場合、『死化』によって最初におかされる組織は、いつも、栄養が最も活発なところ(諸粘膜)である。次には、諸器官の実質で、末期においては、腱や腱膜である」
こういう言い方というのは私たちの日常に照らして腑に落ちるところがあります。
私はあんまり身体が強いほうじゃないから、毎年必ずひどい風邪をひいて弱るのですが、それはもう確実に喉、鼻、目といった「粘膜」からの身体へのウィルスの侵入から始まっています。
そして気管をやられ、肺をやられ、胃や腸をやられ、最後は足腰までいたくなる(笑)。
死に至る病ではないけれども、きっと死に至る病のときも同じなのでしょう。けれども、その死は、必ずしも個々の私の抱えている持病をはじめ、そのつど罹患する種々の疾病の延長線上にあるわけではないでしょう。
そして気管をやられ、肺をやられ、胃や腸をやられ、最後は足腰までいたくなる(笑)。
死に至る病ではないけれども、きっと死に至る病のときも同じなのでしょう。けれども、その死は、必ずしも個々の私の抱えている持病をはじめ、そのつど罹患する種々の疾病の延長線上にあるわけではないでしょう。
私の場合は肺だけじゃなく、心臓も腎臓も膵臓も実は以前から問題を抱えているのですが(笑)、そういう疾病のどれかの順調な(?笑)延長上に死が来るというものではない。逆に死のほうから見た時に、それらの疾病がどのように絡み合い、関係しあって「発展」してくるかが、はじめて分析的に見えるのでしょう。
死は生成ではなくて解体なので、なにか個々の要素の発展や組織化の延長上に見えるものではなく、むしろ時間的、空間的なマトリックスとして存在する身体の過程的・分布的な解体として捉えられなくてはいけない、とフーコーは言っているように思います。
小さな「部分」として微分化された身体マトリックスの、あるセルに黄信号がともったと思えば、あちらの片隅のセルが点滅し、こちらでは別のセルに赤信号がともり、またあちらでは最後の光が消滅する、というふうに、マトリックスが解体していくとき、そのセルとセルの点滅の間には、それぞれのセルに付随するであろう疾病の系列とは異なる「抵抗の少ない線」が描けるに違いないでしょう。
小さな「部分」として微分化された身体マトリックスの、あるセルに黄信号がともったと思えば、あちらの片隅のセルが点滅し、こちらでは別のセルに赤信号がともり、またあちらでは最後の光が消滅する、というふうに、マトリックスが解体していくとき、そのセルとセルの点滅の間には、それぞれのセルに付随するであろう疾病の系列とは異なる「抵抗の少ない線」が描けるに違いないでしょう。
死が解体だという言い方は、ごく平凡な事実ですが、個々の疾病だとか事故だとか自死や殺人等々とは別の系列だということだけ取り出せば、エントロピーの増大の過程なんだと言ってしまえば、生物から情報まで共通したイメージで一貫できるのかもしれません。
組織化というのはエントロピーの増大に抗うことで、生体としての秩序の維持・形成、解体はエントロピーの増大、無秩序さの増大ということになります。身体組織や器官などから、さらに細胞レベル、そして分子レベルまで見て行けば、エントロピーの増大を過程的、分布的に見ていくことができるでしょう。そしてそこから、エントロピーの増大に寄与したあらゆる要素を分析的に見ていくこともできるでしょう。
組織化というのはエントロピーの増大に抗うことで、生体としての秩序の維持・形成、解体はエントロピーの増大、無秩序さの増大ということになります。身体組織や器官などから、さらに細胞レベル、そして分子レベルまで見て行けば、エントロピーの増大を過程的、分布的に見ていくことができるでしょう。そしてそこから、エントロピーの増大に寄与したあらゆる要素を分析的に見ていくこともできるでしょう。
また解体の果てになにがあるかと言えば、それはいつのことか分からないけれど、自己組織化があるのでしょう。宇宙の塵となって消え、またその宇宙の塵は自然に集い、やがて新しい星になっていく・・・輪廻転生ですね(笑)。
「老人のゆっくりした自然死は、子供や胎児、もしかすれば植物においてさえ見られる生命の発達と逆の方向をたどる。『自然死によって間もなく死のうとしている動物の状態は、その動物が母胎にいた時の状態に近づく。』(X.Bichat, Recherches physiologiques)」(Michal Foucault『臨床医学の誕生』)
saysei at 15:13│Comments(0)│