2018年02月28日
<死>の微分
「<死>の構造」を論じて吉本さんがいたく感心して、吉本さん流に紹介していたフーコーの「分布としての<死>」という考え方はとても面白いと思いましたが、それは自分なりに考えてみると、死の概念を微分してみようじゃないか、ということではないかと思い、先日そんなことを書きました。
死を時間的・空間的な一瞬の切断だと考えずに、その「一瞬」とか微細な空間性というのを、さらに微細な部分に分割することで動態化しよう、そうすれば、私たちが死を他人の死としてしか体験できず、自分の死と他人の死とがつねに分裂し、矛盾としてある、というのではなくて、もう少し自分の体験として死という概念を追い詰めていけるんじゃないか、ということだと思います。
少し俗化することになるかもしれませんが、ふつう、生きて死ぬことを単純な曲線みたいなもので描いて説明するとき、生命曲線というのか、誕生を原点にとれば、そこから曲線が立ち上がって、生命活動を表わす指標が縦軸、時間の経過なり生命活動の展開される空間なりが横軸だとすれば、はじめのうちどんどん曲線が正の傾きをもって上昇していって、壮年のあたりでプラトー(高原状の安定)に達して、そこからはもうどんどん降下線を描いていって、どこかでプツンと途切れてしまう・・・という感じでしょうか。
たしかに、生命を外側から、いわば人間と死とが向き合っているのを第三者的な視点から眺めていればそういうことになりますが、その線の内側にいる人間というのか、その線を生きている人間にとっては、その客観的な線なんてものは存在しないので、刻々の生が刻んだ痕跡に過ぎません。
いまここにこうして「ある」自分というのは、言ってみれば瞬時に生まれ瞬時に消える点のようなもので、それも実在の鉛筆の炭素で描かれたサイズのある点ではなくて、数学的に考えられたサイズのない点のようなもので、一瞬そこに「ある」かと思い、とらえたかと思えば既に「ない」ような何かではないでしょうか。「ない」ならばそれはもちろんイコール死だと言ってもいいわけで、そのつど私たちは一瞬前のわたしの死によって生を成り立たせているわけで、生と死は私が生きることにおいて、どちらでもあり、どちらでもない、まるで粒子でもあり波でもある光のように不確定性原理に支配されたものなんだろうと思います。
ただ、そういうありようと言うのは、別に神秘的なことでも何でもなくて、世の中の運動というのはすべからくそのようなもので、過去の偉人たちがそういう軌跡、つまり私たちの生の痕跡にすぎないものから生の動態的なありようを再現する方法を編み出してくれたわけで、それが曲線の接線の傾きの変化を追い詰めて到達する微分という概念ではないかと思いますがどうでしょう。
こういう死生観からどんな生き方の指針が見出せるのかは興味深いところです。
サルトルの「死」は、ここでいうような「死」を捨て去る、いわば思慮の外に置くことで「生」を導いているでしょうし、ハイデッガーの「死」はつねに「死」をいわば3歩先にみながら歩く「覚悟」の伴う「生」を導いているとすれば、フーコーの「死」は吉本さん流に言えば、過程としての死であり、分布としての死なので、のこりの生を全うせしめよ、ということになり、吉本さんは臓器移植に批判的です。
微分としての死は、同時に微分としての生をもたらすでしょうから、一瞬一瞬の生又は死がすべて。どのような人の生=死も等価であり、儚く、同時に無限の価値を備えることになるのではないかと思います。
ぼんやりしているときそんな妄想をしてみました(笑)。
死を時間的・空間的な一瞬の切断だと考えずに、その「一瞬」とか微細な空間性というのを、さらに微細な部分に分割することで動態化しよう、そうすれば、私たちが死を他人の死としてしか体験できず、自分の死と他人の死とがつねに分裂し、矛盾としてある、というのではなくて、もう少し自分の体験として死という概念を追い詰めていけるんじゃないか、ということだと思います。
少し俗化することになるかもしれませんが、ふつう、生きて死ぬことを単純な曲線みたいなもので描いて説明するとき、生命曲線というのか、誕生を原点にとれば、そこから曲線が立ち上がって、生命活動を表わす指標が縦軸、時間の経過なり生命活動の展開される空間なりが横軸だとすれば、はじめのうちどんどん曲線が正の傾きをもって上昇していって、壮年のあたりでプラトー(高原状の安定)に達して、そこからはもうどんどん降下線を描いていって、どこかでプツンと途切れてしまう・・・という感じでしょうか。
たしかに、生命を外側から、いわば人間と死とが向き合っているのを第三者的な視点から眺めていればそういうことになりますが、その線の内側にいる人間というのか、その線を生きている人間にとっては、その客観的な線なんてものは存在しないので、刻々の生が刻んだ痕跡に過ぎません。
いまここにこうして「ある」自分というのは、言ってみれば瞬時に生まれ瞬時に消える点のようなもので、それも実在の鉛筆の炭素で描かれたサイズのある点ではなくて、数学的に考えられたサイズのない点のようなもので、一瞬そこに「ある」かと思い、とらえたかと思えば既に「ない」ような何かではないでしょうか。「ない」ならばそれはもちろんイコール死だと言ってもいいわけで、そのつど私たちは一瞬前のわたしの死によって生を成り立たせているわけで、生と死は私が生きることにおいて、どちらでもあり、どちらでもない、まるで粒子でもあり波でもある光のように不確定性原理に支配されたものなんだろうと思います。
ただ、そういうありようと言うのは、別に神秘的なことでも何でもなくて、世の中の運動というのはすべからくそのようなもので、過去の偉人たちがそういう軌跡、つまり私たちの生の痕跡にすぎないものから生の動態的なありようを再現する方法を編み出してくれたわけで、それが曲線の接線の傾きの変化を追い詰めて到達する微分という概念ではないかと思いますがどうでしょう。
こういう死生観からどんな生き方の指針が見出せるのかは興味深いところです。
サルトルの「死」は、ここでいうような「死」を捨て去る、いわば思慮の外に置くことで「生」を導いているでしょうし、ハイデッガーの「死」はつねに「死」をいわば3歩先にみながら歩く「覚悟」の伴う「生」を導いているとすれば、フーコーの「死」は吉本さん流に言えば、過程としての死であり、分布としての死なので、のこりの生を全うせしめよ、ということになり、吉本さんは臓器移植に批判的です。
微分としての死は、同時に微分としての生をもたらすでしょうから、一瞬一瞬の生又は死がすべて。どのような人の生=死も等価であり、儚く、同時に無限の価値を備えることになるのではないかと思います。
ぼんやりしているときそんな妄想をしてみました(笑)。
saysei at 12:57│Comments(0)│