2018年02月20日
相原英雄監督「あしたはどっちだ、寺山修司」
出町座の2階で上映していた「あしたはどっちだ、寺山修司」を見てきました。
寺山修司が亡くなる瀬戸際まで実現したいと構想していた企画(街頭劇)とはいかなるものだったか、かつての妻九条今日子(映子)の「秘密は青森にある」という言葉に導かれるように、その問いに答えようとかつての天井桟敷の団員や寺山の学校時代の友人等々の話を聴いてまわり、寺山の生涯の足跡をたどって、寺山が破っては継ぎ合わせた家族写真の中で、唯一破らなかった、満開の桜の樹の下で、赤ん坊の寺山が祖母に抱かれ、幸せな家族そのままに両親のそろった家族写真に行き着くまでのドキュメンタリー。
私は寺山の良い読者ではないけれど、この映画は面白かった。寺山が天井桟敷や2度の街頭劇で演じた「劇」は、いまこういうドキュメンタリーのモノクロ映像で当時彼の影響下にあった若い演劇人たちやそのパフォーマンスに巻き込まれた観客や路上の人々の姿を見、とりわけ当時のトンガッタ若い演劇人であったような今はおじさんたちである人たちの口を通して聞くと、或る時代の状況と切り結んだ先端的な表現であったものが、時代の空気が失せ、曖昧模糊とした霧が晴れた後には、すっかり色あせて、ほとんど児戯に等しいドタバタ劇であったかのように見えてしまうのは、果して映画の制作者の意図したことかどうか・・・。
そんなふうに見えるのは、或いは私(たち)が今の時代の秩序にどっかりと腰を落として過ぎ去った時代をスタティックな絵巻のように繙いているからかもしれません。たとえ一瞬でも社会的な秩序の一端を切り裂いて、<ここではないどこか>の光景を垣間見させるようなアーチストの行為というのは、いつでも凡人からはそんなふうに見えるのかもしれない。ただ、今回この映画を見て、そんな風に見えるのは彼にも責任があるな、というふうに感じました。
それは、彼が街頭演劇に打って出るとき、演者と観客との境界を消そうと考えていたらしいことをこのドキュメンタリーが教えてくれたからです。舞台の上にあげれば、何でも許される。ならば現実を、街そのものを舞台にしてしまうことで、現実を変えてしまおうじゃないか、彼はそんなふうに考えたのだと、当時バイプレヤーであった登場人物たちが語り、映画の作り手もどうやらそう考えているらしいのです。
寺山修司がそう考えていたかどうかは、正確なところ彼をちゃんとたどったことのない私には分からないので、留保は必要ですが、彼の表現が劇場の舞台であれ、街自体を劇場とみなして街路を舞台としたものであれ、現実と虚構を区別する仮構線は劇の生成に不可欠な必要条件で、その消失は劇の消失にほかならないのは自明のことで、もし彼がそれを望んだとすれば、彼の劇は解体劇ではなくて、劇の解体にすぎなかったでしょう。
このドキュメンタリーが謎解きのように追い詰めていって明らかにしていく寺山が最後にもう一度やりたがっていた街頭劇は、現実の街へ劇団員が、何年もその土地に入り込んで根づき、決定的な時にその役割のために本性を顕わして立ち上がる忍者たちのように入り込み、当たり前の職業に就き、地域の人たちと関係を取り結び、例えばバスの運転手になって、あるとき日常的なルートを外して全然別のところへ乗客を乗せたまま行ってしまう、というようなパフォーマンスを、一斉にか逐次的にかやっていくような、町全体をハイジャックして、日常的なルールやそこに働く慣性の法則から逸脱するようなパフォーマンスを実現する、というようなものだったらしい。
それはとても面白い妄想ですが、その延長上に登場人物たちがしばしば使う「革命」なんてものは無いし、こうした「劇」によって寺山を「革命家」と評することには首を傾げざるを得ませんでした。
生身の人間であれ、街路であれ、街全体であれ、それを実際の、あるいは仮構された「舞台」にのせる限りは、それは幻想としての人間であり、幻想としての街路であり、幻想としての街なのであって、これを現実の生身の人間、街路、街と混同することは、原理的な誤謬に過ぎません。そうした劇を体験することを通じて、人々の現実を見る眼差しが変わり、現実への関わり方が変わることはあるでしょう。けれどもそれは人々の多様性のままに、多様な、いわば勝手気ままな形でそうあり得る、というだけのことで、劇が革命なのでも、革命を引き起こせるわけでもないのは自明のことです。ただ人々が日常的な惰性の思考を揺るがされ、<ここではないどこか>の光景を幻視するような瞬間を体験する、ということを比喩的に「革命」と呼ぶなら、寺山に限らず、また劇場の中の舞台であろうと街を舞台にしようと、演劇人ならだれでもなしとげようと常に挑んでいるでしょう。
彼の街頭劇が多くの観客を巻き込み、一種の小さな騒擾の渦を作って、警察の規制を受けたというようなことをもって、反権力とか革命とかいうのは滑稽なことで、警察はただ無許可な街頭集団行動を規制し、道路交通法違反だとか、軽犯罪法違反だとかの、個別の実際の行為の違法性を問うたに過ぎないでしょうし、寺山の街頭劇のほうもこうした法の思想自体に挑むような思想性を備えていたようには見えません。それは、彼の最後の町全体を舞台とする街頭劇が彼の個人幻想の繰り出す仮構線の延長上に広がるものではあっても、それをどれだけ延長しても革命になど行きつくはずもないのと同様だと思います。
寺山のいた時代ならともかく、没後何年も経たいまつくられる作品であるなら、そうした寺山の足跡の意味は、現在の視点でクリアにされるべきだという気がします。それは決して寺山の優れた才能を貶めることにはならないはずです。
このドキュメンタリーの見どころは、彼の身近な人々から母親や祖母についての率直な証言を引き出し、彼の生い立ちを明らかにして、一枚の写真に行きつくあたりにあるように思いました。
もちろん一人の多才な作家の姿はその表現のうちに見出されるべきで、生まれ育ちの情報はただある種の作家への理解を確信させるための情報に過ぎないでしょうし、そこには私たちをひょっとすると新たに間違った物語へ導くものがあるかもしれませんが、私にはよくできた物語のように感じられました。
寺山修司が亡くなる瀬戸際まで実現したいと構想していた企画(街頭劇)とはいかなるものだったか、かつての妻九条今日子(映子)の「秘密は青森にある」という言葉に導かれるように、その問いに答えようとかつての天井桟敷の団員や寺山の学校時代の友人等々の話を聴いてまわり、寺山の生涯の足跡をたどって、寺山が破っては継ぎ合わせた家族写真の中で、唯一破らなかった、満開の桜の樹の下で、赤ん坊の寺山が祖母に抱かれ、幸せな家族そのままに両親のそろった家族写真に行き着くまでのドキュメンタリー。
私は寺山の良い読者ではないけれど、この映画は面白かった。寺山が天井桟敷や2度の街頭劇で演じた「劇」は、いまこういうドキュメンタリーのモノクロ映像で当時彼の影響下にあった若い演劇人たちやそのパフォーマンスに巻き込まれた観客や路上の人々の姿を見、とりわけ当時のトンガッタ若い演劇人であったような今はおじさんたちである人たちの口を通して聞くと、或る時代の状況と切り結んだ先端的な表現であったものが、時代の空気が失せ、曖昧模糊とした霧が晴れた後には、すっかり色あせて、ほとんど児戯に等しいドタバタ劇であったかのように見えてしまうのは、果して映画の制作者の意図したことかどうか・・・。
そんなふうに見えるのは、或いは私(たち)が今の時代の秩序にどっかりと腰を落として過ぎ去った時代をスタティックな絵巻のように繙いているからかもしれません。たとえ一瞬でも社会的な秩序の一端を切り裂いて、<ここではないどこか>の光景を垣間見させるようなアーチストの行為というのは、いつでも凡人からはそんなふうに見えるのかもしれない。ただ、今回この映画を見て、そんな風に見えるのは彼にも責任があるな、というふうに感じました。
それは、彼が街頭演劇に打って出るとき、演者と観客との境界を消そうと考えていたらしいことをこのドキュメンタリーが教えてくれたからです。舞台の上にあげれば、何でも許される。ならば現実を、街そのものを舞台にしてしまうことで、現実を変えてしまおうじゃないか、彼はそんなふうに考えたのだと、当時バイプレヤーであった登場人物たちが語り、映画の作り手もどうやらそう考えているらしいのです。
寺山修司がそう考えていたかどうかは、正確なところ彼をちゃんとたどったことのない私には分からないので、留保は必要ですが、彼の表現が劇場の舞台であれ、街自体を劇場とみなして街路を舞台としたものであれ、現実と虚構を区別する仮構線は劇の生成に不可欠な必要条件で、その消失は劇の消失にほかならないのは自明のことで、もし彼がそれを望んだとすれば、彼の劇は解体劇ではなくて、劇の解体にすぎなかったでしょう。
このドキュメンタリーが謎解きのように追い詰めていって明らかにしていく寺山が最後にもう一度やりたがっていた街頭劇は、現実の街へ劇団員が、何年もその土地に入り込んで根づき、決定的な時にその役割のために本性を顕わして立ち上がる忍者たちのように入り込み、当たり前の職業に就き、地域の人たちと関係を取り結び、例えばバスの運転手になって、あるとき日常的なルートを外して全然別のところへ乗客を乗せたまま行ってしまう、というようなパフォーマンスを、一斉にか逐次的にかやっていくような、町全体をハイジャックして、日常的なルールやそこに働く慣性の法則から逸脱するようなパフォーマンスを実現する、というようなものだったらしい。
それはとても面白い妄想ですが、その延長上に登場人物たちがしばしば使う「革命」なんてものは無いし、こうした「劇」によって寺山を「革命家」と評することには首を傾げざるを得ませんでした。
生身の人間であれ、街路であれ、街全体であれ、それを実際の、あるいは仮構された「舞台」にのせる限りは、それは幻想としての人間であり、幻想としての街路であり、幻想としての街なのであって、これを現実の生身の人間、街路、街と混同することは、原理的な誤謬に過ぎません。そうした劇を体験することを通じて、人々の現実を見る眼差しが変わり、現実への関わり方が変わることはあるでしょう。けれどもそれは人々の多様性のままに、多様な、いわば勝手気ままな形でそうあり得る、というだけのことで、劇が革命なのでも、革命を引き起こせるわけでもないのは自明のことです。ただ人々が日常的な惰性の思考を揺るがされ、<ここではないどこか>の光景を幻視するような瞬間を体験する、ということを比喩的に「革命」と呼ぶなら、寺山に限らず、また劇場の中の舞台であろうと街を舞台にしようと、演劇人ならだれでもなしとげようと常に挑んでいるでしょう。
彼の街頭劇が多くの観客を巻き込み、一種の小さな騒擾の渦を作って、警察の規制を受けたというようなことをもって、反権力とか革命とかいうのは滑稽なことで、警察はただ無許可な街頭集団行動を規制し、道路交通法違反だとか、軽犯罪法違反だとかの、個別の実際の行為の違法性を問うたに過ぎないでしょうし、寺山の街頭劇のほうもこうした法の思想自体に挑むような思想性を備えていたようには見えません。それは、彼の最後の町全体を舞台とする街頭劇が彼の個人幻想の繰り出す仮構線の延長上に広がるものではあっても、それをどれだけ延長しても革命になど行きつくはずもないのと同様だと思います。
寺山のいた時代ならともかく、没後何年も経たいまつくられる作品であるなら、そうした寺山の足跡の意味は、現在の視点でクリアにされるべきだという気がします。それは決して寺山の優れた才能を貶めることにはならないはずです。
このドキュメンタリーの見どころは、彼の身近な人々から母親や祖母についての率直な証言を引き出し、彼の生い立ちを明らかにして、一枚の写真に行きつくあたりにあるように思いました。
もちろん一人の多才な作家の姿はその表現のうちに見出されるべきで、生まれ育ちの情報はただある種の作家への理解を確信させるための情報に過ぎないでしょうし、そこには私たちをひょっとすると新たに間違った物語へ導くものがあるかもしれませんが、私にはよくできた物語のように感じられました。
saysei at 18:49│Comments(0)│