2018年02月20日
タナダユキ監督「ふがいない僕は空を見た」
休憩をかねていつもレンタルビデオで何本か借りて来ておいては、見るときも見ないまま返してしまうこともあるけれど、たまたま昨日みた「ふがいない僕は空を見た」は日本映画では久しぶりにみる「面白い」映画でした。
不倫やマザコン亭主や変態やコスプレやネットを使ったリベンジポルノ?やできちゃった婚だの自然分娩だの幼児的な嬢ちゃん先生だの経済格差問題等々、もうありとあらゆる現代風俗のアイテムを詰め込んだ欲張った映画で、それはそれで現代日本風俗百科(百貨?百花?)として面白いし、いまの日本社会の戯画を笑ってみることのできる作品ですが、そういう面白おかしく、どうしようもない日常の中で、戯画を戯画として成立させる構造の要に位置する、アニメおたくのコスプレ不倫主婦「あんず」こと里美が、田畑智子という女優さんによって、とても生き生きと存在感を持って演じられていて、彼女の存在が戯画を戯画たらしめる批評性を支えていて、ほとんど彼女の魅力がこの作品の魅力だと言っていいほどです。
ただ、ごく普通の写実的なストーリー漫画よりもとんがった批評性のある漫画のほうが或る意味で難しいように、戯画というのはちょっとターゲットがずれたり、批評性のある笑いが受け手の通俗性に媚びる笑いに置き換えられたリすると、とたんに本当につまらない弛緩した空虚なポンチ絵になってしまうところがあって、なかなか難しいものだな、と思います。
中心的なところでそれを言えば、「あんず」が経済的にめぐまれ、外目には何不自由ない家庭の主婦として暮らす中で、夫への愛のない空虚な心をアニメやコスプレに向けていたのが、暗示される結婚以前の放埓の日々を封じ込めていたのを解き放つかのように、その欲望が若い(高校生の)卓巳との不倫に向けられていて、卓巳のほうは時にこんなことでいいのか、と躊躇するけれども、「あんず」にとってはきわめて自然な欲望の解放のように見ている者には見えるところがあります。ここでは彼女のそういうありよう、存在感自体が、アニメやコスプレという戯画的な小道具に彩られながらも、平凡で幸せそうな家庭を、夫婦関係、男女の関係に別の視角をもたらし、私たちが日々生きている日常性を根底から鋭く問い返すような批評性を孕むものになっています。
しかし、夫の母親があらわれて彼女に対峙し、すべてが露見していったとき、「あんず」が古典的な人妻のような姿で義母の前に跪き、不妊症を疑われる夫との子を授かるために三人で米国へ行くことになるという成り行きは、この戯画の批評性を損なってしまうような展開だと思わずには見ていられませんでした。前半の「あんず」なら、もっとカラッと爽やかに義母をやりすごすなり拒むなり跳ぶなりするでしょう。マザコン母子と嫁姑の関係に関しては、この映画の持つ批評性を孕んだ戯画から外れた、悪い意味でマンガチックなポンチ絵にしかなっていません。それは、批評のターゲットがまともにとらえられていないからです。
その存在そのものでこの作品にとってプラスの批評性を支えていたのは、「あんず」と、もうひとり、卓巳の親友、福田良太でしょうか。「あんず」に比べれば設定そのものが古典的で凡庸ではあるけれど、演じる窪田正孝の好演にも救われて、卓巳への批評性、卓巳を通して卓巳と里美への批評性を担保して、日常性への<変態>的視点からの批評性を相対化するいい位置を見せていたと思います。彼と行動を共にする純子役の小篠恵奈も良かった。
同じ意味合いで、原美枝子演じる穏やかな助産師寿美子(卓巳の母親)と訪れる身勝手な妊婦に歯に衣を着せぬ言葉を投げつける助手役の光代(梶原阿貴)がとてもいい対照的なコンビで、「できちゃった」をいとも簡単に見破られて慌てるお嬢さん先生と光代のやりとり場面などは声を挙げて笑ってしまいました。
自然分娩を望んで寿美子の自宅兼助産院を訪れる`自然’志向の妊婦あや(吉田羊演じる)が帰っていったあと光代がこの種の頭でっかちな’自然’主義者を罵る言葉や、お嬢さん先生とのやりとりの場面にみるような、いまの世の中で大手を振ってまかりとおっている、ご本人たちはそれがいいことのように思っていたり、別に悪い事とは思っていない、どこかおかしな足が地につかない借りものの思想のようなものの考え方、生きる上での姿勢、信条、あるいはそう大げさなものでないなら、彼らが「自然」のように思って呼吸している今の社会の空気みたいなものに対する、いくらかは地に足がついた人間の、まっとうな視線は、批評の対象も、その視線もありふれたものではあるけれど、こうして両者を対決させ、対比させる場面を作り出すことで、批評性を持った戯画として、クリアに浮かび上がってくるところがあります。
これがこの作品の良質の生地を作っていることは確かで、さらにそれを突き破るような形で、主軸の戯画を演じているのが「あんず」だと思います。「あんず」が最後までその戯画を演じ切れるような展開ができれば、この作品はちょっと凄みのある映画になったのではないか、という気がします。
不倫やマザコン亭主や変態やコスプレやネットを使ったリベンジポルノ?やできちゃった婚だの自然分娩だの幼児的な嬢ちゃん先生だの経済格差問題等々、もうありとあらゆる現代風俗のアイテムを詰め込んだ欲張った映画で、それはそれで現代日本風俗百科(百貨?百花?)として面白いし、いまの日本社会の戯画を笑ってみることのできる作品ですが、そういう面白おかしく、どうしようもない日常の中で、戯画を戯画として成立させる構造の要に位置する、アニメおたくのコスプレ不倫主婦「あんず」こと里美が、田畑智子という女優さんによって、とても生き生きと存在感を持って演じられていて、彼女の存在が戯画を戯画たらしめる批評性を支えていて、ほとんど彼女の魅力がこの作品の魅力だと言っていいほどです。
ただ、ごく普通の写実的なストーリー漫画よりもとんがった批評性のある漫画のほうが或る意味で難しいように、戯画というのはちょっとターゲットがずれたり、批評性のある笑いが受け手の通俗性に媚びる笑いに置き換えられたリすると、とたんに本当につまらない弛緩した空虚なポンチ絵になってしまうところがあって、なかなか難しいものだな、と思います。
中心的なところでそれを言えば、「あんず」が経済的にめぐまれ、外目には何不自由ない家庭の主婦として暮らす中で、夫への愛のない空虚な心をアニメやコスプレに向けていたのが、暗示される結婚以前の放埓の日々を封じ込めていたのを解き放つかのように、その欲望が若い(高校生の)卓巳との不倫に向けられていて、卓巳のほうは時にこんなことでいいのか、と躊躇するけれども、「あんず」にとってはきわめて自然な欲望の解放のように見ている者には見えるところがあります。ここでは彼女のそういうありよう、存在感自体が、アニメやコスプレという戯画的な小道具に彩られながらも、平凡で幸せそうな家庭を、夫婦関係、男女の関係に別の視角をもたらし、私たちが日々生きている日常性を根底から鋭く問い返すような批評性を孕むものになっています。
しかし、夫の母親があらわれて彼女に対峙し、すべてが露見していったとき、「あんず」が古典的な人妻のような姿で義母の前に跪き、不妊症を疑われる夫との子を授かるために三人で米国へ行くことになるという成り行きは、この戯画の批評性を損なってしまうような展開だと思わずには見ていられませんでした。前半の「あんず」なら、もっとカラッと爽やかに義母をやりすごすなり拒むなり跳ぶなりするでしょう。マザコン母子と嫁姑の関係に関しては、この映画の持つ批評性を孕んだ戯画から外れた、悪い意味でマンガチックなポンチ絵にしかなっていません。それは、批評のターゲットがまともにとらえられていないからです。
その存在そのものでこの作品にとってプラスの批評性を支えていたのは、「あんず」と、もうひとり、卓巳の親友、福田良太でしょうか。「あんず」に比べれば設定そのものが古典的で凡庸ではあるけれど、演じる窪田正孝の好演にも救われて、卓巳への批評性、卓巳を通して卓巳と里美への批評性を担保して、日常性への<変態>的視点からの批評性を相対化するいい位置を見せていたと思います。彼と行動を共にする純子役の小篠恵奈も良かった。
同じ意味合いで、原美枝子演じる穏やかな助産師寿美子(卓巳の母親)と訪れる身勝手な妊婦に歯に衣を着せぬ言葉を投げつける助手役の光代(梶原阿貴)がとてもいい対照的なコンビで、「できちゃった」をいとも簡単に見破られて慌てるお嬢さん先生と光代のやりとり場面などは声を挙げて笑ってしまいました。
自然分娩を望んで寿美子の自宅兼助産院を訪れる`自然’志向の妊婦あや(吉田羊演じる)が帰っていったあと光代がこの種の頭でっかちな’自然’主義者を罵る言葉や、お嬢さん先生とのやりとりの場面にみるような、いまの世の中で大手を振ってまかりとおっている、ご本人たちはそれがいいことのように思っていたり、別に悪い事とは思っていない、どこかおかしな足が地につかない借りものの思想のようなものの考え方、生きる上での姿勢、信条、あるいはそう大げさなものでないなら、彼らが「自然」のように思って呼吸している今の社会の空気みたいなものに対する、いくらかは地に足がついた人間の、まっとうな視線は、批評の対象も、その視線もありふれたものではあるけれど、こうして両者を対決させ、対比させる場面を作り出すことで、批評性を持った戯画として、クリアに浮かび上がってくるところがあります。
これがこの作品の良質の生地を作っていることは確かで、さらにそれを突き破るような形で、主軸の戯画を演じているのが「あんず」だと思います。「あんず」が最後までその戯画を演じ切れるような展開ができれば、この作品はちょっと凄みのある映画になったのではないか、という気がします。
saysei at 12:29│Comments(0)│