2017年12月23日

「少年アート」

 先日、私の「終活本」の一冊としてマーケットプレイスに出していた、中村信夫著「少年アート」を買って下さった方があって手放しました。

 この本は少し愛着があってずっと手元においていたので、迷っていたのですが、もう物に拘泥する時でもないだろうと手放したのですが、私にとってのさわりの部分は以前にコピーを取っておいたことがあったので手元に残っています。

 なぜこの本に愛着があったかというと、この著者は私より5つくらい若いのですが、私が大学をやめて海外へ実質的にはヒッピーみたいに一人で放浪の旅に出たのと、ほぼ同じころ、彼が21歳のとき、「何ら考えることなく日本を離れ」(あとがき)て、わたしと同じようにイギリスにわたり、ロンドンで暮らす中で、とくに日本にいるとき美術をやっていたわけでも、特別な関心を持っていたわけでもないのに、自然な形で現代美術に近づいていく、その様子がとても率直に語られていて、わたしには自分のことのように感覚的に彼の道行が理解でき、深く共感できるような気がしたのです。

 もちろん、この本を読んだのは帰国して仕事(文化専門のシンクタンクの研究員)につき、長年そんな仕事をした後のことで、たまたま私の仕事が文化施設の構想・計画の立案だったり、様々な文化事業を企画するようなことだったので、その事例集めなどしている中で、鉄の街北九州市で、その鉄を活かしたアートに着目した芸術祭を開催する企画があり、そのディレクターかコーディネーターかの役割を頼まれていたのが中村さんで、彼が学んだ英国の美術大学の教授で鉄を使ったアーチストがいて、中村さんがその方を招いて全体の企画をコーディネートするような仕事をされていたと思います。

 そのときに彼がこういう本を出していることを知り、読んでみて、すごく共感するところがあったのでした。
 彼は「ロンドンで自分を探索していく中で、まず日記をつけ始めました。とにかく毎日毎日を見つけることから始めてみようと思ったのです。」というふうなスタートをしたロンドン生活の中で、たまたままだ学生だったトニー・クラーグというアーチストに出会います。彼が見せてくれた写真の作品というのが、「毎日、自分の家から学校まで走った時間を何年何月…何分何秒と記録したものだったのです。その時に走った靴、走った姿の写真を添えた一年間の記録をエキジビションとして出して」いたというようなものでした。

 「美術を一切知らないし、絵具を塗ったことすらなかった」中村さんでしたが、この作品に「非常に新鮮な驚き」を覚え強烈な刺激を受けます。「作品を作るだけがアーティストではなく、毎日何をしているのかという個人史を作品化するのもアートなんだ」と。日記をつけて挫折していた彼は、「ただ日記を書くだけではなく、プラス何かをつけくわえて、その一日を全部記録する方法もあるんだなと」思い至ります。

 彼はアルバイトの休日には街をこまめに歩き、ギャラリーや美術館も歩き廻り、「漠然とですが、アートに魅かれていたのかも知れません」という私と同じような体験をする中で、そのトニーの作品に出合って、おそらく美術とはこういうものだ、と思っていた認識自体を根底から揺さぶられたのでしょうね。
 
 そこからアーティストの考え方に興味をもつようになり、彼なりに勉強していく中で、日記の代わりに毎日1時間、貼り絵をすることを自分に課し、バウハウスのヨハネス・イトゥンの教育法に倣って「基本型」の丸、三角、四角という単純な図形で直径5ミリほどの三色の紙きれを、ひたすら貼っていくような手仕事を続けて、最初の1年でノート4,5冊をつくり、最終的には40冊まで作り続けたそうです。それらの形のバランスのとり方を色々変えて工夫をすることで、結果的にはコンセプチュアル・アートの基本的なトレーニングをしていたことになるでしょう。

 滞在2年目になって彼は学校へ行ってみたいと思い、アカデミックな場所は結構資格が難しいので、家具の職業訓練所にはいり、デザインを学ぶのですが、そこから彫刻学科への編入を決意して、ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツの彫刻の教授のところへ行って、面接で貼り紙の絵日記を見せます。
 2時間ほども見た末に、ここは彫刻のクラスなんだよ、三次元でないと、と言われて、とっさに中村さんは日記を半分に開いてパッと立てて、いま三次元になっています、と言う(笑)。そしたら先生はにっこり笑って彼を彫刻学科のスタジオに連れて行って、ここへきて働いてよろしい、と。そして、学長に談判して3年コースに入れてくれて、学費も無料に・・・と驚くようなトントン拍子で美術の世界に入って行きます。

 このへんの中村さんの体験の記述がそのまま日本とは大きな違いのある英国のこの種の教育機関の柔軟さ、教授たちのものの考え方や後進の育成についての考え方がわかるようになっていて、とても面白かったのです。

 あのころ日本の若者が一人で最小限の旅費だけもってヨーロッパへ行き、留学のように明確な目的もなくロンドンやパリのような大都市で語学学校に通いながら自分探しをするような例が数多くありました。ひとつは日本で大学闘争が潰され、大学へ大人しく戻ることも潔しとせず、かといってすぐに既成の社会に順応してその部分に収まって行く気にもなれず、目標を失ってドロップアウトした若者が日本とかかわりのない場へ抜け出していくような志向があったと思います。

 その点で中村さんが振り返って書いている自画像の初期の状況というのは私自身も共有していたし、その時代背景も空気もよく理解できるような気がしました。そこからちゃんと自分の道を見出していくところは彼がとても立派な、すぐれた資質と能力をもち、それだけの努力をする人だったのに対して、私は怠け者で、結果的にはただの風来坊としてヨーロッパを彷徨しただけに終わるという大きな違いですが、でも彼がチャンスをつかみとっていくプロセスもそのきっかけになるようなことも、そのときの気持ちも手に取るように理解でき、共感できる気がしました。

 たぶん私にもほんとうは運命の女神が微笑んでいた瞬間はあのロンドンにいた時期のどこかにあったのだろうな、とまるで自分にありえた別の人生を眺めるように、中村さんの本が読めたのです。現実の私はたぶん女神の微笑みに気付かず、書くことを通しても、私の場合は、自分が半ば捨ててきたはずの遠い国のほうばかり眺めていたのでしょう。

 私がこの本に愛着を持っていたのは、自分にあり得たかもしれないもうひとつの人生を愛するように愛着を持っていたのかもしれないな、といまは思えます。

 

saysei at 00:16│Comments(0)

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