2017年12月19日

掛谷誠著作集(第1巻)を手にして・・

 大学時代の友人で人類学者の掛谷誠の著作集全3巻が刊行される、というのは以前にこの作業にかかわっている共通の友人から聞いていたので、楽しみにしていました。第1巻はこの22日発売ということでした。念のため、アマゾンで見たらもう販売していた。昨日注文したところ、なんときょうの午前中に届きました。500ページに達するずっしりと重い本。

 おそろしく筆無精だった彼がこんなのを3冊も遺すほど書いていたのか、と妙な感慨を覚えました。さすが研究者(笑)。「語る人」としての彼は、誰もが認める卓抜な語り手でしたが、やっぱり学者さんは「書く人」でもあるなぁと。

 もう彼の硬い学術論文やモノグラフの類を読みとおす気力はないのですが、この中にあいつが詰まっていやがるんだな、と思うと傍に置いといて、時々手に取ってページを開いてみたいという気になります。どっちみち学問的な評価など門外漢の自分にはできないし、わかるわけもないのですが、面白いのは文字を読んでいるのに彼の声が聞こえて来る(笑)。いや、ほんとに。あの声で、あの独特の語り口で。

 トカラ調査の報告を除けば彼がはじめて「最小努力の法則」(論文では「最小努力の傾向性」)だの「食物の平均化の法則」(同、傾向性)だのといった、遠慮しがちな主張で実質的な学者デビューを遂げたトングゥエ族の社会の調査を見せてくれたとき、正直のところひどく遠慮がちなんだな、学者の世界ってのも、新米はこうも重武装して書かなきゃいかんのかいな、と思ったので、率直にそういうことを言ったら、いつもの彼らしく、そや、重武装してんのやな、と肯定していたのを思い出します。

 冷静で緻密な目配りの利いた調査と観察と客観的記述、その徹底性の上に、ようやく上記のような法則を導いているけれども、或る意味で、こんなことは行かんでもわかるやないか、あたりまえのことやないか、と素人の私は思って不満だったのです。彼なら最初からもっと大胆に踏み出すだろうと思っていたので。 

 もちろん、そういう法則性の背後に呪術の世界があって、ゆとりを生み出すような生産の増加をみればたちまち嫉妬と敵意で黒魔術によって呪われるような世界で裏打ちされている、だからこそまたこれらの法則性が法則性として安定性を持っているということで、彼はそこから呪術の奥深い世界へその後自ら呪術医になることによって分け入るのですが・・・未だ最初の論文ではちらっとそれが示唆されただけで、むしろこの論文では集落の住民が旅に出て客として他の住民の食糧によって自分の損失分を補うような形で食物消費のバランスを取り、平衡を保つ、というふうに、あくまで生産と商品の地平で辻褄を合わせるというのか合理的に解釈するようなスタンスで書かれています。そのへんは彼の実質的なデビュー作への意気込みを期待していた友人としては物足りなかったのです。言ってみれば国家論抜きで社会を生産力と生産関係だけで読み解くようなものへの不満だったのかもしれません。

 私が客観的にみても彼とごく親しい友人であった時期は学生時代のほんの1年か2年のあいだのことで、それ以降もつきあいはあっても、私の方は大学からドロップアウトして研究者の道は歩まなかったので、彼の研究者としての道行については時折送ってくれる著書や論文の抜き刷りにさっと目を通して、ふーん、こんなことをやっているんだ、と思っていだけでした。

 けれどもその頻繁に会って一日中お喋りしていた時期は、とても濃密な時間を共有して、こんなにフィーリングからものの考え方まで完全に理解し合え、共感できる人間はほかにいないと思えて、その感覚はのちにそんな関係でなくなってからも、記憶としては私の中にとどまりつづけ、その後ほかのいかなる人によっても置き換えられることはありませんでした。
 
 少し前のブログに二人のカリスマとして書いたうちの一人は彼のことですが、あのころ彼は周囲の同世代や後輩にとって一種のカリスマのような存在だったし、後に色々仄聞するところでは、彼が教鞭をとるようになってからも、若いお弟子さんたちにとって、或る種のカリスマ的な存在だったようです。ただ、私にとっての彼は学生時代からカリスマではなく、相互に理解しあえる対等な友人でした。

 彼と私の共通のベースは小林秀雄だったのだろうという気がします。彼はもともと工学部の電気の秀才だったのが、当時の人類学の泰斗たちがみんな参加していた探検部を通じて伊谷さんを紹介されて人類学をやろうとして理学部のほうへ移ってきたのですが、そのときに学士入学のために1年留年していて、その間、小林秀雄に没頭していたと言っていました。私もそのころまでに小林秀雄の著作集は全部読み、吉本隆明を愛読していたので、感性の裏付けをもった論理的な言葉の使い方とか、展開の仕方が互いに手に取るようによくわかり、その点では周囲の友人たちとは段違いに通じあえると感じられる友人だったのです。

 小林秀雄の言葉は、日常的な箸の上げ下ろしから天下国家まで、あるいは学問の話まで、上下左右自在に語れる融通無礙の柔軟さがあって、ひどく理屈っぽい話から、異性の話まで、頭のてっぺん雲の上の話から下半身の話まで、心のひだに分け入るように、あるいは抽象の彼方に飛翔するまで、共に語り合い、分かり合うことができる、私たちにとってそんな言語だったように思います。

 そういうものを若いころの単なる思い込み、錯覚、未熟さゆえの無自覚な誤解、対幻想の結晶作用のごときものとみなすことは簡単でしょう。わたし自身、或る意味ではそういった幻想性を全部剥ぎ取ってきたような気がします。けれども幻想もまた関係の絶対性のもとで、その後の無数の現実のフィルター、無数の人々との関係性のフィルターを潜り抜けてなお、一人の人間に決定的な経験として刻まれている・・・刻むという言葉どおり、ナイフで傷つけるように、魂のどこかに彼の負わせた傷が古傷のように残っているのを感じることが、いまでもあります。それは傷みを感じさせることはなくて、もう懐かしい、こそばゆい古傷に過ぎないのですが。

 今回、先に寺嶋秀明氏の解題を読んで、私がほとんど知らなかった彼の研究者としての歩みが、これを3期に分けて要領よく解説した文章でよく理解できました。トカラ列島の調査や、はじめてのアフリカ・トングウェ族の調査など、彼が掲載誌や抜き刷りを送ってくれた、駆け出しの研究者の頃の第一期、それから政治的・社会的な変化への外圧がアフリカの彼が対象としてきたような自然と人とが抑制的なバランスを保って共存した地域をも襲い、急激にその地域社会が変貌していき、調査する研究者の側が、「適応の生態学」から「変容の生態学」への転換を余儀なくされていく第2期、さらにその延長上でアフリカ地域研究センターに拠って同時代のアフリカの運命に実践的に関わっていかざる得なくなる第3期云々。

 自分なりに勝手な要約をしながら、間歇的に会って来た彼とのその都度の私的な接触に引き寄せてみると、あぁあの頃、彼はそんなところに居て、こんなことに直面していたのか・・・と色々思い出されてきます。

 アフリカから帰ってきたら筑波へいくことが決まっていた・・・あのとき珍しく長い電話で彼の口からまぁ普通の人の言葉で言えば愚痴にあたるような言葉を聞いた記憶・・・そしてアフリカ地域研究センターへ行った頃の彼の暗い表情、あれはもう第3期にはいってからでしょう。私が関空の設計をやった岡部憲明さんにあるホテルでヒアリングのために会っていたら、偶然階上で人類の集まりがあるから、とやってきた掛谷に出遭い、ひと目にはにっこり笑顔をうかべて、ひとことふたこと交わしただけでしたが、彼が階上へ去ったとき、はじめて彼と会った岡部さんは深々とため息をついてひとこと、「暗いですねぇ・・・」。

 自然と人間の関わりを軸に構想されてきた伊谷さんの直弟子としての掛谷の生態人類学は、その対象であったアフリカの地域社会の急激な変容を前にして、乱暴な言い方をするば無効になる、という危機感を彼は持たざるを得なかったのではないでしょうか。

 彼は新婚の奥さん(彼女も同じ専攻の学科で、有能な研究助手の役割が果たせる方)と暮らしたアフリカの地域社会では研究の初期のころいつも幸せで、日本よりアフリカのほうがずっといい、と言い、日本に帰って来たくなさそうでした。自然と人とが抑制的なバランスを保ち、人が自然の一部として自然に適応的に生きる暮らしが、彼(ら)の性に合っていたことは疑いもないところで、その地域社会の崩壊は何よりも彼(ら)を心底落胆させるものだったでしょうし、それに応じて、アフリカ社会の今日的な政治・社会の課題に向き合い、生態人類学的な立場から実践的な地域社会論的な立場への転換を、対象のありようからも、また大学の制度的な変革からも強制されることは、彼にとってどんなに辛いことだったか、門外漢の私にも理解できる気がします。

 彼は学生時代から学問のための学問を明確に否定してきたし、研究者としての生き方の根底に、一人の生活者としての確乎とした生き方に関する思想を求めてやまず、常に「自分は何のために学問をするのか」という自問を手放すことのない人間でした。初期の研究生活は、そんな彼の「生き方」の思想とぴったり一致するところがあったに違いありません。その理想は最初のアフリカ調査でトングウェ族の社会で暮らす中で実現するように彼には感じられたことでしょう。

 彼が研究対象とするアフリカ地域社会の崩壊と、彼の研究基盤の崩壊の危機の中で、本当に彼にトレスを与えていたのは、そういった地域の中で研究生活を送り、自分もまた自然の一部として人と自然の関わりの世界に融けていられるような生き方の根底を否定されることだったのではないでしょうか。

 こういう変容の兆しのみえる第2期を表現するものとして解題が指摘していた、この第1巻の最後に掲載された第16章「アフリカ農耕民研究と生態人類学」という、自分が編集者としてほかの研究者の論文を編纂して一本を編んだときの編集者あとがきか、まえがきかにあたるような文章を読むと、そんな彼の気持ちが幾分か伝わってくるようです。

 急激な変容を強いられたアフリカの地域社会は多様な変貌を遂げていく、それが各論文の執筆者によって報告されていて、うまく変貌を遂げたのもあれば、そうでない者もある、その多様性に目配りしながら、彼はむしろ各地域の伝統的な生産様式の在り方や文化に活路を見出していこうとしているように見えます。それは決して現在起きている急激な変貌から眼をそらすわけでもなければ、伝統に回帰しようということでもなく、むしろアフリカの地域社会だからこそ各地に残っている伝統的な自然と人間の適応し合う生き方がらみのありようを未来へ投げかけていこうとする、いわば生態人類学の見出した空間を時間軸に転換して活路を見出そうとするような発想を志向しているようにみえます。

 私はちょうど彼がそんなことを考えていた頃ではないかと、今思うのですが、同じ京都に住みながらもう何年もあっていなかった彼と、ひょっこり河原町の書店で出くわしたのです。おう、と昔のように彼は声をかけ、喫茶店でもいこか、ということで近くの喫茶店(まだ我々にとってはカフェではなく喫茶店でしたが)へ入って、しばらくおしゃべりしました。そのとき彼が駸々堂だったかで買って来て手にしていた本が吉本隆明の『アフリカ的段階について』(笑)。何年ぶりかでまったく偶然私に出会った時買って来ていた本が、私の愛読する吉本さんの本、というのは本当に因縁めいていると思いました。

 私ももちろんその本は吉本さんが「試行」を廃刊するときに、前もって誌代を払い込んでいた長年の読者に自分の最新刊であったこの著書を送ってきてくれていたので、読んでいました。そのときは掛谷がどんなことに直面して何を考えているかなんて知らなかったので、この本についてもちょっと言葉をかわしただけでした。でもいま考えてみれば、吉本さんがこの著書の中で言っていることは、アフリカを彼の言うアフリカ的段階という、まあヘーゲル流の文明の大雑把な進化的段階論の言葉を借りて新たな意味を込めて使おうという概念でとらえられたアフリカという空間的概念を時間軸に転換して現代の世界が直面している困難な諸問題に活路を開くものとして未来へ投げかけていくような発想だったので、それはたぶん「適応の生態人類学」を「変容の生態人類学」に転換して活路を開こうと考えていたのだろう掛谷が、いわば相同的な試みを並行してやっていたのかもしれないな、という気がするのです。

 もちろんこんなことは、研究者でも何でもない私の妄想にすぎないけれど、ふとそんなことを考えると、自分が学生のころ、掛谷と張り合うことを避けずに共に同じ教室を目指し、院に進み、いつもそばにいる研究の相棒として、こんなことが議論できたらどうだったろう・・・と、そんな夢想をしてみることもあるのです。

 

saysei at 00:13│Comments(0)

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