2017年10月31日
旧作「ブレードランナー」再見
今日観に行きたかったのはブレードランナーの続編で、そのために昨夜わざわざ古いビデオを取り出して予習したのですが、体調不良で行けませんでした。
私が持っているのはディレクターズカットのファイナル版ですが、先日の新聞の全面広告で映画好きの鼎談みたいなのが載っていて、この映画には8種ものバージョンがあるそうで、その鼎談のパネリストが会場の人に、この中で8種とも見た人は?と訊いたら8割もの人が手を挙げたと書いてありました。これにはパネリストも「コワイですねぇ」(笑)。
世の中にはそういうマニアがいっぱい居るんでしょうね。そういう世界じゃ、プロでもうかつなことは言えない。こちらは何事にもド素人をもって任じているので、なんであれ好き放題言ったり書いたりで気が楽です。
その気楽さで言えば、「ブレードランナー」って、いまあらためて見ると、へんな映画ですね。たしかにあの「アジア的」に猥雑な未来都市の光景や上からの視点で撮った未来都市の夜景なんか斬新な映像だし、役者もハリソン・フォードもいいけれど、敵役が素晴らしく、ルトガー・バウアーなんか素晴らしくて、その最後の言葉や死んでいく姿は哀切きわまりなく美しいし、ダリル・ハンナのプリスの死にざまも良かった。
一角獣の暗示するところが、噂されるようにデッカードもレプリカントであることを示唆しているとか、最後に二人で逃げていく場面で終わって、これからどうなる、と思わせる含みもあって、魅力的な作品になっているのは分かりますが、ここで起きていることは、別の星で人間に反乱を起こしたレプリカントが地球へ帰ってきて隠れ住んでいるのを見つけて破壊するという話で、ごく単純なだけでなく、前提となる話はファイナル版では文字で冒頭に説明されるだけで、映像のドラマとして表現されるわけでもありません。
そうすると逃げ隠れするレプリカントとそれを追うブレードランナーの戦いで、追い詰められたレプリカントが必死の抵抗をするが・・・という、ただそれだけの物語です。
これがSF映画のひとつのエポックをなすような作品とされるのはやはり映像の新鮮さだったのでしょう。公開のときはさほどでもなかったのが、徐々に評価が高まって、SF映画の金字塔といった高い評価が定着したとのことで、最初受けなかったのは、分かりにくさのせいだと考えられているようですが、物語性のようなところで見ると、すごく単純な話で、「人間とは何かという深い問いがある」(きょうの夕刊にたまたま続編を紹介した記事に、前作を評したそんな言葉がありましたが)というのは深読みに過ぎるように思います。そういうことを言い出せば、ロボットやアンドロイドを扱ったSFはみな人間とは?という「深い問い」があることになってしまうでしょう。
むしろそういう部分を削ぎ落してしまうことで、エンターテインメントとして、シンプルで新鮮な映像を生み出しているのではなかったか、という気がします。
ただ、そう言ったのではこの映画の新鮮さに言及できないという感じはするので付け加えるなら、この作品ではむしろ単純なのはデッカードらブレードランナー、つまり人間の側で、追われるレプリカントの側はルトガー・バウアー演じる白髪のロイ・バティなどのほうがより頭脳も高度で、移植された記憶プラス生きた時間も人間をはるかに超える苛酷な経験をして複雑な感情を備えているように見えます。これはむしろレプリカントの側から、つまり狩られる側から描かれた映画と言ってもいいでしょう。そこがこの作品に単純なカウボーイのインディアン狩りとは違った深い陰影を与えている理由ではないかと思います。
それはデッカードが実は人間かもしれない、という一種の謎かけのような小細工とは異なるもので、この作品の映像自体にちゃんと表現されています。それに比べれば、夢の一角獣や部屋に落ちていた一角獣の折り紙みたいな紙片は、この作品に関する限り、マニア向けの付加サービスのようにしか見えません。