2017年07月23日
「俳優は俳優だ」
「映画は映画だ」の次は「俳優は俳優だ」か。キム・ギドクは面白い監督ですね。好きというわけではないけれど、気になる監督というのは分るような気がします。ただし女性はどれも見たくはない映画でしょう。作品の出来栄えだけで言えば、私にとっては「悪い男」と「サマリア」があれば、あとは要らないようなものだけれど、いい作品が生まれるには色々悪戦苦闘の跡が残ることにも理由があるでしょう。
「俳優は俳優だ」も「映画は映画だ」と同じように、フィクショナルな映画の世界とリアルな現実とが次第に重なり合い、境界を曖昧にして溶融するような世界を描いています。「映画は映画だ」は幾分マンガ的に対立の輪郭がはっきりしていたけれど、こちらは主人公オ・ヨンという新人俳優がやや病的ではあるけれども純粋にリアルな良い演技を求めて過剰な行動をとっては周囲に波風を立てていたのが、彼の才能に目をつけた野心家のマネージャーと組むことで人気俳優となる野心に目覚めてひたすらその道をのぼりつめて成功するものの、いつか初心を忘れ、かつて自分が反発した人気俳優と結局は変わらない傲慢でわがままな俳優に変わっていき、興行界にありがちな金と女とやくざの絡みににっちもさっちもいかないような状況にどんどん追い詰められていって、最後はかつての自分のような新人に座を追われて失墜し、それでも俳優がやめられずに新人の相手をする殴られ役の端役をつとめる、というような話。
それにしても、いまさらスクリーンの上では美しく逞しくクリーンにみえる俳優も裏を返せば、現実はこういう汚い連中ですよ、なんて言っても何の新鮮味もないし、また一見華やかに見える映画界も金とやくざと女にまみれた薄汚い世界ですよ、というのも陳腐すぎてテーマとしては話にならないでしょう。だから、いくらなんでもキム・ギドクがそんなことを描きたかったわけではないでしょう。
たぶんそんなふうにフィクションと現実を対立させて、表と裏に振り分けて、真実はこちら、と言いたいわけではない。どちらが真実でどちらが虚構かが分からなくなるような映像こそがこの作品の見どころでしょう。実際、現実だと思っていると、実はそれが撮影中の演技だったり、ということは幾度もこの作品を見ている中で経験することです。
そもそも最初からオ・ヨンは撮影中なのに、台本にないアドリブは連発するわ、これも台本を外れてほんとうに女優の首をしめ、ナイフをつきつけたりして、女優をおびえさせます。気が狂ったわけではなくて、そうするほうがいい演技になると思って、といつも彼は言います。そうういう演技をしているときの彼の表情はまさに病的なリアルさで、観客として観ていて、これは撮影場面ではなくて現実ではないか、と錯覚させられるような切迫感があります。
車の中で女優とセックスをして車から二人が出てきて「カット!」と声がかかるときは、あ、これも撮影だったのか、と意外な感じをもつほどです。
こういう映像はあきらかに監督が意図的に撮っているので、現実とフィクショナルな世界を溶融させたいわけでしょう。そして、おそらくオ・ヨンのように、フィクションに現実を重ね、侵食させることによって、逆にフィクションが現実に重なり、現実を侵食することができるのだ、と言いたげです。
「俳優は俳優だ」も「映画は映画だ」と同じように、フィクショナルな映画の世界とリアルな現実とが次第に重なり合い、境界を曖昧にして溶融するような世界を描いています。「映画は映画だ」は幾分マンガ的に対立の輪郭がはっきりしていたけれど、こちらは主人公オ・ヨンという新人俳優がやや病的ではあるけれども純粋にリアルな良い演技を求めて過剰な行動をとっては周囲に波風を立てていたのが、彼の才能に目をつけた野心家のマネージャーと組むことで人気俳優となる野心に目覚めてひたすらその道をのぼりつめて成功するものの、いつか初心を忘れ、かつて自分が反発した人気俳優と結局は変わらない傲慢でわがままな俳優に変わっていき、興行界にありがちな金と女とやくざの絡みににっちもさっちもいかないような状況にどんどん追い詰められていって、最後はかつての自分のような新人に座を追われて失墜し、それでも俳優がやめられずに新人の相手をする殴られ役の端役をつとめる、というような話。
それにしても、いまさらスクリーンの上では美しく逞しくクリーンにみえる俳優も裏を返せば、現実はこういう汚い連中ですよ、なんて言っても何の新鮮味もないし、また一見華やかに見える映画界も金とやくざと女にまみれた薄汚い世界ですよ、というのも陳腐すぎてテーマとしては話にならないでしょう。だから、いくらなんでもキム・ギドクがそんなことを描きたかったわけではないでしょう。
たぶんそんなふうにフィクションと現実を対立させて、表と裏に振り分けて、真実はこちら、と言いたいわけではない。どちらが真実でどちらが虚構かが分からなくなるような映像こそがこの作品の見どころでしょう。実際、現実だと思っていると、実はそれが撮影中の演技だったり、ということは幾度もこの作品を見ている中で経験することです。
そもそも最初からオ・ヨンは撮影中なのに、台本にないアドリブは連発するわ、これも台本を外れてほんとうに女優の首をしめ、ナイフをつきつけたりして、女優をおびえさせます。気が狂ったわけではなくて、そうするほうがいい演技になると思って、といつも彼は言います。そうういう演技をしているときの彼の表情はまさに病的なリアルさで、観客として観ていて、これは撮影場面ではなくて現実ではないか、と錯覚させられるような切迫感があります。
車の中で女優とセックスをして車から二人が出てきて「カット!」と声がかかるときは、あ、これも撮影だったのか、と意外な感じをもつほどです。
こういう映像はあきらかに監督が意図的に撮っているので、現実とフィクショナルな世界を溶融させたいわけでしょう。そして、おそらくオ・ヨンのように、フィクションに現実を重ね、侵食させることによって、逆にフィクションが現実に重なり、現実を侵食することができるのだ、と言いたげです。
saysei at 01:24│Comments(0)│