2017年07月21日

キム・ギドク(総監督)「リアル・フィクション」

 2000年の作品。キム・ギドクが書いた脚本をもとに12人の監督がオムニバス的にシーンを撮ったのを、キム・ギドクが総監督としてまとめたらしくて、それも3時間20分で撮影されたという韓国映画史上最短の撮影時間で制作された作品とのこと。(ウィキペディアによる)

 小説にせよ映画にせよ、短時間でつくったかどうかは、出来栄えには関係が無いですね。太宰治の「駈け込み訴へ」は奥さんの証言によれば、なんと太宰が語るのを奥さんが筆記した、いわゆる口述筆記で、ほとんどつっかえることもなく、よどみなく口述したそうです。天才というのはそういうものなのでしょう。

 映画のほうでも私の好きなウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)なんか、彼らしく脚本なしに現場でどんどん撮っていった作品らしいけど、あのテンポのいい、シュールな映像は現場の疾走感がそのままフィルムに焼きついている感じです。撮影時間は知らないけど・・・

 さてこの「リアル・フィクション」、撮り方だけでなく、出来栄えも、とても面白い、実験的な作品です。主人公は公園で似顔絵を描きながら近くの公衆電話回線を盗聴している変な若者。イケメンですが。

 そして、客やら地回りやら、色んな周囲の人間に馬鹿にされたり、怒りをぶつけられ、暴力を振われても無抵抗。しかし、あるとき女の子に手をひかれてビルの中へ入って行くと、そこは舞台のような空間で、一人の役者らしい男がいて、これが最初は自分のことを喋っているのかと思ったら、そうではなくて、似顔絵描きの若者の分身なんですね。その若者の屈辱に満ちた過去のエピソードを語り始め、次第に今度は若者自身が興奮して自分の過去を語り始める。
 
 つまり自分の分身たる男に焚きつけられて、何の抵抗もできずに屈辱ばかり味わってきた自分の内部の中に隠されていた怒り、嫉妬、憎悪、攻撃性、暴力性、復讐心等々といった激しい感情を喚び起こし、即自分をコケにしてきた連中に対する復讐の行動に点火します。

 その境目になるのは、俳優らしい男にはがいじめされて、若者を連れてきた女の子の目に自分の恥部を無理やりさらされ、性的な屈辱のどん底を味わうところで、ここで一気にリビドーの奔出が起こり、彼は俳優らしき男を与えられた拳銃で殺し、女の子を殺して過去の自分を消去するための復讐の旅に出て行きます。

 こうして、彼は自分を騙し、馬鹿にし、攻撃してきた連中を次々襲います。カメラはそれぞれの場で生きる今の彼等の日常の情事やいさかいや退屈な日々を映し出して見せ、それが一区切りするころに似顔絵描きの青年を登場させ、暴力的な復讐のシーンの数々がつづきます。
 
 彼が似顔絵を描いているときからビデオカメラを彼に向けている女がいて、復讐劇を演じる若者をとらえているのは彼女のカメラのように見えるときもある。またそうではなくて、彼女の肩をなめるように若者の姿を捉えている映像もあって、こちらはこの映画の作り手の目ですね。

 このビデオを撮る女をなぜ登場させたのか。彼女は「現実」を捉えようとしているわけですね。若者の復讐の行動を逐一カメラにおさめていく。でも、その彼女を彼は撃ち殺してしまう。あとでこの若者の復讐劇は彼の妄想であり、現実ではない、つまり復讐劇を演じている彼は役者と同じ、つまり虚構の人であり、彼が演じているのはフィクショナルな現実にすぎない。そのフィクショナルな現実が、カメラでまさにそのフィクショナルな現実を撮っていた現実の女性を殺してしまうわけです。
 
 まぁこれはキム・ギドクが俺の作り出す世界はこんなふうに現実を食ってしまうほどのものなんだぜ、と言っているような気がしませんか?(笑)

 ラストシーンで、若者が殺したはずの地回りのチンピラ3人が生きて、ぬいぐるみ屋をゆすって暴力を振っているシーンがロングショットでとらえられます。ところが、このぬいぐるみ屋がキレて逆にやくざにナイフを振うにいたって、「ハイ、カット!」とどこかで声がかかり、それもまたお芝居であったことが観客の私たちに知らされます。

 この最後のロングショットの視線は、映画の撮影場面とそれを取り巻く町の人々、その中には似顔絵描きの若者も当然いるわけですが、そういう現実を捉える映像ですが、その中に若者の思い描く妄想の世界の登場人物(地回りやぬいぐるみ屋)が出て来るわけで、現実である映画の撮影場面と若者の頭の中のフィクショナルな世界とがシンクロしているわけです。

 キム・ギドクがどこかで、寓話的、象徴的なものと、現実的なものとを同時に描きたいというようなことを言っていたようですが、おそらくこの作品のラストはそれを象徴するような場面になっていたのではないかと思います。

 何の変哲もない現実から入って、妄想の迷路をくぐりぬけた果てに、メビウスの輪をたどっていくようにして、妄想の世界と現実とがシンクロするような現実にいつのまにか戻っている。それは同じ現実であるにも関わらず、観客の我々の目にはもう最初の平板な何でもないチンケな現実とはまるで違ったもののように見えます。それは私たちが確かに観るべきものを、つまりは若者の過去の人生の一コマ一コマを、その中で生きて若者に関わってきた周囲のこすっからい、ずるい、悪辣な、暴力的な人間たちの姿を見てきたからにほかならないでしょう。

saysei at 00:11│Comments(0)

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