2017年05月31日

東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅲ

 柄にもなく小難しそうな本をタイトルに惹かれて読んでみたら、とても面白かったので、つい長々と感想を書いてきました。まだ途中ですが、ときどき私のブログを見てくれているらしいので私が顔を思い浮かべながら書いているチャーミングな(もと)女子大生のあくび顔が目に浮かぶようなので、今回でやめておこうと思います。せめて、この著者の過去の主著の一つや二つ、それに彼がキーコンセプトをつくるのに批判的に読んでこの本に挙げているくらいの本を読んでからにしないと、何も理解できないまま頓珍漢なことを書きつづけることになりそうですからね。

 

 とりわけ第3章(「二層構造」)のあたりは、いくら何でもこの頭脳明晰な著者が、私の言うような、昔ながらの市民社会と国家の「二層構造」との違いを明確にせずに、単にグローバリズムだの反グローバリズムだのといった現象に惑わされて古い酒を新しい革袋に入れているだけとは思えないから、きっと私が新しい酒の味が分からないだけでしょう。

 ヘーゲルやマルクスを媒介にして立論してくれていたら、学生時代に読んだのを思い起こして、それは違うぜ、くらいは言えたかもしれませんが
()、二回り半くらいは違うんだろうと思う若い(論壇ではもう若くはないんでしょうが)著者はネグリの「帝国」だの「マルチチュード」だの私の読んだこともない本をネタにして自分の考えを展開しているので、せめてそんなのに目を通してからにしましょう。読む元気がまだ残っていれば、ですが()・・・

 

 さて、今回は、東さんが第1章から主張してきた「観光客の哲学」の考えを、人文系特有の曖昧なイメージの提示に終わらせずに、堅固な理論的基礎を与えたいと考えて、ネットワーク論を援用して、その哲学を補強し、かつ過去の「郵便的(誤配)」の理論との整合性も確認しながら展開した第4章「郵便的マルチチュードへ」です。

 

 ネットワーク論の専門家ならその立場から色々言いたいことも出て来るのでしょうが、私は東さん自身が「ぼくは数学の専門的な教育を受けていないので、以下の説明は、10年ほどまえに出版された入門書の要約にすぎない」と記しているのと同様の、入門的知識しかネットワークについて持っていません。だからまあその点だけは同じ条件ということで、私にも読めるかな、と思いつつ読み進めてみます。

 

 この章のネットワーク論の援用の仕方を通読してみて、やっぱり一番気になるのは、ネットワークの数学的理論というのは、数学的な要素を用いた操作とそれによって生じる構造の記述の内部では確かに数学的な厳密さが保証されるのかもしれないけれど、これを現実の要素や構造のモデルとするとき、そのモデルが現実の要素や構造と対応する保証はない、ということです。

 

 ネットワークの場合は「頂点」と「枝」の関係の仕方、それが作る構造しかないわけだから、この抽象化されたモデルによって、せいぜい「現実の構造がよりよく説明できる」(かもしれない)、というだけで、こうしたモデルに投影された要素と構造の変換処理が、現実の要素と構造の変貌のダイナミズムに対応するという保証はどこにもないんじゃないでしょうか。

 

 そもそもそうした数学モデルとの対応自体が粗っぽくて、著者が「頂点」に擬しているのはいったい生身の人間(身体性)なのか、その属性なのか、などと思っていたら、いつの間にか国家や地域になっているようでもあり、現実のモデルとして使うなら、その対応が恣意的だとその都度使い捨ての、それこそイメージ()にすぎなくなってしまう、という印象を覚えました。

 

 まあ少し順番に行きましょうか。その前にちょっと揚げ足取り()

 

 「ツリーとリゾームは異なったネットワークの異なったかたちを名指す言葉だった。だから重ね合わせることができなかった」(182頁)

 

 ツリーを2つ重ね合わせたらリゾームになるんじゃなかったんでしょうか。ネットワークの言葉で言い換えれば、頂点から頂点へ、つなぎかえが起きれば、もはやツリーはツリーではなくなるでしょう。なぜネットワーク論なら連続的に考えられて、ツリーやリゾームになるとそうでないんでしょうね。

 

 「ドゥルーズたちは、リゾームについてじつにあいまいな観点しかもっていなかった。・・・すべてはイメージの話でしかなった。」(181頁)

 

 ネットワークもモデルに過ぎないんで、多少その実体(構造)に踏み込めるかもしれないけれど、数学的平面に投影されたイメージに過ぎないんじゃないでしょうか。リゾームもツリーとは異なるネットワークの構造を示したわけで、その一種だったということでは?

 

 私が一番ひっかかったのは、「スモールワールド性」を「スケールフリー性」(両方とも変な言葉ですね。「性」って何?)と対立させるようなニュアンスで使った上で、「国民国家」を前者に、「帝国」を後者に対応させるかのような記述です。

 

 そもそも「スモールワールド」と「スケールフリー」は対立する性質のものではなく、対立する概念でもないと思います。単に人のつながりを「頂点」と「枝」だけで示すグラフで表現したとき、人間社会の人と人とのつながり方の実際に近いと考えられるモデルの備える二つの特徴であるにすぎません。

 

 「スモールワールド」のほうは、クラスター係数(人の繋がりで言えば、自分がK人と知り合いだとして、そのK人が互いにどれくらい知り合いかを論理的に考えられる全ての「枝」数で割った値、つまり自分の知り合いどうしが知り合いである確率)が或る程度大きいことと、固有パス長(任意の2人が平均何人の知り合いの鎖を通じてつながっているか)が短いことの2条件で定義され、「スケールフリー」のほうは、ネットワークを形成する人(「頂点」)自体が増えていくことと、その場合に、つながり(「枝」)の多い人(「頂点」)により多くの人(「頂点」)がつながろうとする、ということで、この二つの契機によってネットワークの構造が膨大な「枝」のついたごく少数の「頂点」と、ほとんど「枝」のない膨大な数の「頂点」とからなる頂点のべき乗分布が成立する、ということですね。

 

 いうまでもなく「スモールワールド」というのは、決して閉鎖的な人間関係に閉じた「村」的な狭い範囲の人間関係(格子状で表現される)ではなくて(それは単にクラスターの存在を示すだけです)、ウェブの世界に例をとればわかるように、膨大な数の「頂点」と「枝」から成るサイズの大きいネットワークであっても、一定以上の大きさのクラスター係数と短い固有パス長をもつという条件を満たせば、つまり沢山のクラスターをひょいと離れたクラスターをつなぐ補助線がいくつかあるような条件さえ備えていれば成立します。

 

 「スモール」(小さい)という言葉のイメージで誤解してはいけないので、それはネットワークの内部の各「頂点」が閉じたクラスターのうちに押し込められているのではない。それだけなら決してスモールワールドは実現しませんが、そうしたクラスターをつなぐいわば弱い絆がそう多くはない確率で存在することで、ネットワーク全体の構造として、例えば「6人の隔たり」で地球上のすべての他人とつながる人類社会のような、固有パス長の短い「スモールワールド」が実現するわけでしょう。

 

 これを経済に着目して地域間の関係としてみれば、個々の地域どうしはそれぞれの圏域でクラスターをつくり、他方でそれらの地域は遠い産地なり市場なりと直接つながって、国民経済や世界経済と一体化しています。そのネットワークは「スモールワールド」であると同時に大資本が集中するごく少数の地域と大多数のそうでない地域がべき乗分布を描く「スケールフリー」なネットワークでもあります。

 

 いま私が書いたことと、次のような東さんの著書の中の言葉との間には微妙な違いがあるのではないでしょうか。

 

 「人間の社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。一方には多数のクラスターがつくる狭い世界があり、他方には次数のべき乗分布がつくりだす不平等な世界がある。ここまでは数学的真理である。」(182~183頁)

 

 私が述べたように、「スモールワールド」と「スケールフリー」は、ネットワークの内部で「一方には××があり、他方には〇〇がある」というようなものではないと思うのです。それはちっとも「数学的真理」などではありません。

 

 第一、「スモールワールド」は、「多数のクラスターがつくる狭い世界」ではない。村のような狭い世界を遠く離れた別の場所へつなぐ適当な数のランダムな補助線があるからこそ、人と人との到達距離が短くなり、村がネットワークの世界へ開かれ、「スモールワールド」という構造的性質を持つのではないでしょうか。

 

 せっかく数学を援用するなら、それぞれ成立要件があるのだから、「何々性」なんていう曖昧な言葉を使わない方がいいでしょう。

 著者は、自らが「数学的真理」だということを解釈して、「それは、ぼくたち人間が、同じ社会をまえにして、そこにスモールワールド性を感じるときと、スケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。」(183頁)と書いています。

 

 そして、「スモールワールド性」のほうは、「ネットワークのかたちに注目したときの解釈であり」、「スケールフリー性」のほうは、「次数分布に注目したときの解釈である」と書いています。果たしてそうでしょうか?

 

 「スモールワールド」は、クラスター係数が大きく、固有パス長が短い性質を持つネットワークを指すので、もし「かたち」という像的表現がしたいのなら、著者が増田直紀・今野紀雄『「複雑ネットワーク」とは何か』78頁をもとに制作として引用している166頁の、ワッツとストロガッツの頂点を環状に配置したネットワーク図bに示されるネットワーク像でありましょう。

 

 決して彼の言うような「一本の枝で結ばれたふたつの対等な頂点」として解釈されるようなものではありません。彼の言うようなものは、単に、無数の頂点と枝がある中の、任意の一本の枝に着目した、というだけのことで、ネットワークの「かたち」や性質をその視点で指示することはまったく不可能です。単に他の実際に存在する枝を無視しているだけのことで、頂点は最初からネットワークを考える上で質を捨象した点にすぎないのですから、「対等」なのは当たり前です。それは単に、数学的な操作の対象となる要素としてこういう質を捨象した「頂点」と「枝」を考えます、というグラフ理論の前提を言っているだけです。

 

 「スケールフリー」も、著者が言うような、個々の頂点の偶発的な枝の多寡をいうのではありません。ネットワーク全体の構造的特徴として、枝の多寡について分布のありかたが不平等(べき乗に従う)ということで、あくまでもネットワークの「かたち」の問題です。なぜ「スモールワールド」が「かたち」で、「スケールフリー」はそうではないような書き方をするのか理解できません。

 

 彼が引用した166頁の図は、もとはワッツとストロガッツがクラスター化の度合いを実証したときの論文で使った図で、現実のネットワークに近いモデルとして提唱した「スモールワールド・ネットワーク」の図bでしょう。

 この図には、スモールワールドの要件(クラスター係数、固有パス長)は示されていますが、このモデルにはスケールフリーは入る余地がありません。でもそれは描こうと思えばすぐに描けます。

 

 図bの頂点から出る枝の数をひとつふたつの頂点に集中させるようにつけかえればよいのです。これで、スモールワールドにしてスケールフリーのネットワークは表現できるでしょう。これが「かたち」でなくて何でしょう?

 

 ネットワークとか頂点とか枝とか、せっかく数学的なニュートラルな言葉を使いながら、「哲学」に引き戻すときには、数学モデルを考えたときに排除したはずの質を与えて、頂点どうしが対等であるとか、枝が多いから対等でないとか、へんな擬人化?をしているのはまことに奇妙です。

 

 こうした私にいわせれば奇妙な観点から、アーレントや「20世紀の人文系の思想家たち」を批判し、彼らが、「対等な頂点」と同時に「不平等な頂点」を見ることもできる二面性をもつのに、前者だけが「人間本来のありかた」で、後者では「人間の条件」が剥奪されていると考えた、と批判しています。

 

 しかし、そんな馬鹿なことはないでしょう。「対等」とか「対等でない」という言い方自体が著者の思い入れにすぎないと思います。

 ためしにこの「頂点」に善良な市民をイメージせずに、もとフライト・アテンダントのフランス系カナダ人ガエタン・デュガのような人物を代入してみてください。彼は年間約250人と関係を持ち、10年間に2500人と性交渉を持った男性同性愛者のネットワークの中心人物で、19824月までにエイズの診断を受けた248人中、少なくとも40人が直接、間接にデュガと性交渉を持っていたそうです。(この話はネットワーク論の入門的な解説書のどれかで拾ってメモしたことがあったのですが、引用元を書いておかなかったために、もとの本をみななくしてしまっているいま、引用もとがわかりません。申し訳ない。)

 

 モデルに現実の質を対応させれば、プラスのネットワークもマイナスのネットワークもあるでしょう。そこに思い入れするのは勝手だけれど、モデルとしてのネットワークの構造の話は価値に対してニュートラルです。

 

 「同じひとつの社会的実体のふたつの権力論的解釈として同時に生成する・・・」(184頁)

 権力の問題に転じるには、構造的な媒介が必要だと思います。「国民国家」を「スモールワールドの秩序」に、「帝国」を「スケールフリーの秩序」に振り分け、重ねようとする著者の議論がわかりにくいのは、私が不勉強でネグリの「帝国」さえ読んでいないせいばかりではないのではないでしょうか。

 

 一人一人の市民のつながりを考えれば、家族、血縁集団、部族、・・・国家という共同体的な組織化が、クラスターの形成に重ねやすく、 経済的な交易、交通する人間として共同体を出てその境を介して繋がっていく市民社会のひろがり、グローバル社会にいたる道筋を、スケールフリーな構造の生成に重ねやすいのは理解できます。

 

 しかし、すでに述べたように、それは市民社会と国家との「二層性」あるいは古い言い方をすれば、矛盾というものと、どこがどう違うのでしょう。ほんとうに新しい時代の哲学というなら、その違いを単に技術の発達や経済の発展で拡張されただけではない、構造的な違い、本質的な違いを、別にネットワークのモデルを使おうと使うまいときちんと論理的に説明してもらわないと、依然として、市民社会のほうからどう戦略が立ち上がってくるのかが明らかにはなりません。

 

 ネットワーク論の援用だけでは無理な理由は、市民社会と国家との私たちが古く使っていた言葉でいう「矛盾」は、著者のいう「二層性」という無矛盾な要素として数学的に処理することができないからだろうと思います。

 

 国家にいたる共同幻想が高次化していく過程と、技術や経済の発展で欲望の原理で交易が拡張されていく過程とはかかわり合いながら、別の原理で解いていくしかないプロセスで、グローバル化と言われる現代のような状況でなくても、市民社会と国家との矛盾は数学的なモデルに還元した諸要素の操作的な論理で解いていくことができない古くて新しい問題なのではないか、という気がします。

 

 共同体クラスターの三角形をつなぎかえるプロセスは、「家族から市民社会への変化の過程に相当する。三角形が家族あるいはその拡張としての部族共同体や村落共同体を示すとすれば、つなぎかえで結ばれる三角形の集積は、匿名の市民が集まる市民社会だと考えられるだろう」(188頁)と言います。果たしてそうでしょうか。

 

 家族が村落共同体になり、国家になって行くのはそういう平面的な操作でモデル化できるような過程なのでしょうか。

 

 ここらでもうやめておきましょう。第2部「家族の哲学(序論)」は、個別には刺激的な論考を含んでいますが、「観光客の哲学」の全体の中では、ここでいきなり「家族」が登場することに、唐突な飛躍を感じずにはいられません。

 

 「個人でも国家(ネーション)でもないアイデンティティの核としての利用可能な概念が見当たらないから」(209-210頁)というのは消極的な理由で、積極的に「家族」が持ち出される理由をこの本の中にたどることは難しいように思いました。ここから先はまだぼんやりした霧の中を歩くような読書体験になりました。

 

 ほんとうに柄になくこんな難しい本を手に取って、なんだかよくわからないけれど刺激的だったので、自分なりの反応を書き留めておこうと思っただけで、ふだんの私のブログを見て下さる方には長々と退屈させてしまってすみませんでした。

 これで一応完結、というか中断で終了・・・(笑)



saysei at 01:13│Comments(0)TrackBack(0)

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