2017年05月30日
東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅱ
思わず長くなってしまいそうです。まあそれだけ面白い本だったので、しばらくおつきあいください。
さていよいよ第2章です。
この章は私の読んだ限りでは最も精彩があり、ルソーやカントといった先人の著作への読みについても、とても大きな刺激を受けました。
「人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくはないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。」(64頁)
もろ手をあげて賛成です。著者によれば(著者の以前の著書『一般意志2.0』はルソー再読を企図したものだそうです)ルソーの「一般意志」は、ひきこもりやコミュニケーション障害の人々の為に構想された、社会性の媒介なしに社会を生み出してしまう逆説的な装置として読むべきだというのです。
そういう仕掛けとして、著者自身は「観光客」を提案しています。「『観光客』は、まさに、社会などつくるつもりがないが、にもかかわらず社会をつくってしまう存在の範例」(64頁)だと言います。
ところが、ルソーについて著者が読み取ったような思想はその後中心にならず、かわりに、人間は人間が好きで、社会=国家をつくり、その中で自らを高めていくものだ、というヘーゲル主義のドグマが支配的になっていった、というのが著者の見立てです。こうして公共性のある人間とない人間、公的人間と私的人間、まじめ人間とふまじめ人間が切り分けられていった、と。こういう二項的な思考のうちでは、ルソーが分裂してみえるし、観光客やテロリストも正確にとらえることができないんだ、と。
以前に、学生時代の友人から「おまえはふまじめじゃないかもしれんけど<非真面目>なやつや」と言われた私としては、このへんはもろ手をあげて賛成(笑)。
カントの「永遠平和のために」の読みはワクワクしました。カントによれば、彼のいう永遠平和の要件は3つ。
1.各国家における市民的体制は共和的でなければならない。
2.国際法は自主的な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
3.世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない。
1,2はいまでは自明。3がよくわからない、というのは、著者と同様、私もそうでしたから、著者の読みによって目から鱗のような経験をしました。この「普遍的な友好をもたらす諸条件」は友愛とかではなくて、権利の保障に関することなんだ、と。そして、カントは「訪問権」について語っている、と。
“すなわち、国家連合に参加した国の国民は、互いの国を自由に訪問しあうことができなければいけない。それはあくまでも訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない。・・・”
著者はこういうカントの言葉を、いま読むと「観光の権利のように読める」と持論に引き寄せていきます。
「ぼくの考えでは、この第三条項の追加でカントが提示しようとしたのは、国家と法が動因となる永遠平和への道とはべつに、個人と『利己心』『商業精神』が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能だという認識である。」(81頁)
ここはすばらしい。
カントの第一補説。
“・・・しかし自然は他方ではまた、互いの利己心を通じて諸民族を結合するのであって、実際、世界市民法の概念だけでは、暴力や戦争に対して、諸民族の安全は保障されなかったであろう。・・・”
いいですね。こういう考え方は実に現実的で、目が覚めるように鮮やか。そういえば、カントが「統一政府としての世界共和国の実現性を否定して、主権国家が平和を望まなくても結果的に平和を実現してしまうような『消極的な代替物』をかんがえようとした」(永遠平和の要件の第2項に関する著者の註)のも、実にリアルな認識ですね。
カントも彼を論じるこの著者も、カール・シュミットの「友敵理論」(政治の本質は敵か味方かの二項対立で、それ以外の経済云々の外在的要素を混入すべきではないとする)のような思想、あるいはヘーゲルの「市民社会の自己意識としての国家」、そういう国家の一員だという自覚を抱いたとき、つまり国家意志を私的意志として内面化したとき、人は初めて人になる、つまり市民として成熟するんだというような思想に対抗するために、そうした閉じた思想の外部に存在する、自分の利害得失しか考えないような偶発性で「ふまじめ」な存在をこそ、人間として押し出してくるのですね。このへんはワクワクして読ませてもらいました。
さて、ここから第3章の「二層構造」になると、ちょっと私には???が多くなります。まぁそれは哲学者さんと違って、不勉強で、ここで援用しつつ乗り越えようとしているらしいネグリの「帝国」なんて大冊も本屋で眺めたことはあるけれど読んでいないし、孫引き的に著者の紹介を読みながら考えても、よくわからないので仕方がありません。哲学者でもなんでもない一介の市井の、ほとんど難しい本を読まず頭もほとんど使ってこなかった老人としてはこれが限界でしょう(笑)。
ものすごく図式的な言い方をすれば(東さんの挙げている例を再録すると)、二層構造を表わす対立的な二項は、たとえば、人間では身体と精神、あるいは下半身(欲望の場所)と上半身(思考の場所)、無意識と意識、動物の層と人間の層、市民社会と国家、経済と政治、グローバリズムとナショナリズム、等々です。
21世紀は著者によれば、ネーションそのものがこわれたのではなく、ただネーションの統合性が毀れただけで、これらの異質な二項対立的な原理が、統合されることなく、異なった秩序を作り上げている、という状況です。
著者は諸星大二郎の「生物都市」(1994)に登場する怪物のイメージでそれを分り易く示し、ひとつにつながった「身体」(市民社会)の上に、バラバラに「顔」(国家)だけがくっついている、と説明してくれています。
でも私に一番分り易かったのは、次のような箇所です(笑)。
「国民国家(ネーション)間の関係は、愛を確認しないまま肉体関係だけ先に結んでしまったようなもの・・・」(126頁)
欲望はつながっているのに、思考がつながらない。ほんとうは関係をつつしむべきなのに、すでに快楽を知ってしまって関係が切れない。思考が快楽を統御できない。こうして関係が切れないのなら、愛を育てるしかないのではないか、というのが著者の考えなんですね。これはメチャクチャよくわかる(笑)。
しかし、です。こういう二項対立って、ほんとうに21世紀固有のものでしょうか?社会と国家、経済と政治、無意識と意識、下半身と上半身・・・たしかにグローバリズムなんてのは技術が発達し、交通が発達し、経済が広がり、情報技術が発達し・・・というような「下半身」の発達がなければ成立しないでしょうが、こういう二項対立そのものは国家の成立以来のものではないのでしょうか。古代国家と近代国家ではずいぶん様相は違うでしょうが、いずれにせよ、こういう二項対立でとらえられることは21世紀にいたって生じたことではありません。
マルクス主義が下部構造と呼んできたようなものの発展が上部構造とされてきたような国家のありようを支えると同時に時に動揺させてきたし、国家が別の国家を呑み込んだり、国家がまるごと消滅したり、ということもあった。国家が経済を制御できないなんて常態で、むしろ安定しているほうが例外的なのかもしれません。
たしかにいまグローバル化とそれに対する反発も生じているけれど、だからといって国家がなくなったわけでも、突然下部構造を制御できなくなったわけでもないでしょう。いくら企業が世界的な交通を果たしても、そのありようは国家に規制され、国家の保障なしに動けるわけでもありません。
しかし、いつでも下半身はみだらに上半身の制御を超えてはみ出してしまうし、無意識は意識のコントロールをはみ出すのと同様、市民社会は国家をはみ出していく部分を持っています。欲望に従い、利己心に従い、快適さを求めて、動物は人間の層をはみ出して勝手な行動をとります。そういう意味でつねに市民社会は国家よりも大きく、ラディカルでもあります。
だから、そこに国家的なもの、著者の言うヘーゲル的なものへの抵抗の根拠があることは確かでしょう。だから、動物であり、下半身であり、市民社会であるところの層にある(そしてそのわがまま勝手さ、動物性、偶発性等々を象徴するところの)「観光客」にそれを求めることは、その意味ではよく理解できます。
けれども、それはただ観光客のそのような性質を挙げることによって、いわばそれらの代表選手としてそういう言葉を与えるというだけで、別段従来どおり、国家に対する市民社会の市民、と言ってもいいはずです。それは国民として国家の「うち」にありながら、同時に、それをはみ出す市民社会の市民として生きている人間なわけで、だからこそ、市民として国家の抑圧に対しては異議申し立てをし、抗うこともできます。
そのような従来言われてきた国家と市民社会の「二層性」(著者がそう言いたければ)と、この著者が言う二層性、そこから出て来る観光客の戦略というものとは、どこがどう違うのでしょうか。そこはよくわからないところです。
ただ、確かに従来のマルクス主義などが想定した「階級」概念が現実的な有効性を持たなくなったことは誰にでもわかります。それに代えて、では観光客が戦略的理念の核になり得るのかどうか。
偶発的に「利己心」からよその土地へやってきて無責任に見て回り、帰って行く観光客が、たしかに予期せぬものを見、予期せぬ偶発的な出会いを経験するかもしれませんが、それが果たして私たちを覆う国家という幻想の共同体に、どんな抗いの武器を与えてくれるのでしょうか。
少し先走れば、著者はそこに郵便的誤配の再誤配の企てを戦略とし、「不気味なもの」としての「家族」という概念を持ち出し、またルソーの「憐み」というふうな偶発的な出会いの際に発生する交感のようなイメージを読者に提供してくれているようです。残念ながら私はそこまではついていけません。つまり納得しながらついていくことができません。
郵便的誤配にせよ、観光客の振る舞いにせよ、私には市民社会の個別的な「はみ出し」にすぎないように思います。そのような「はみ出し」があること、市民社会のほうが基体であり、市民社会のほうが国家よりもつねに大きく、国家がその上にかぶさった共同の幻想にすぎないことはヘーゲルの法哲学批判をしたマルクスやそれを拡張して共同幻想論を展開した吉本さんにならって認めますが、その市民の私的な「観光客」としての振る舞いがこの状況に風穴をあける突破口になるとは思いません。それはむしろ、社会の中の多様なありようの一つに留まるでしょう。
それは「二次創作」の章での表現論における著者との考え方の違いと関わっています。原作にいくら多様な二次創作があろうと、それは市場の広がりには対応するかもしれませんが、創作価値の更新になるかどうかはまた別問題です。
時代が変わり、社会が変われば、創作に描かれる世界はどんどん変わって行くでしょう。でもそれがいくら変わり、広がっても、それは創作価値を高めることにはなりません。関係がないとは言えませんが、そのような言語なり絵画なり音楽なりが指示する対象が広がることが言語や絵画や音楽の表現価値を高めることにはなりません。ただその多様性をとらえる目が巨視的になったり、きめこまかになるとすれば、そこに見る眼の変化が表現価値の変化として付け加わって行く可能性は生じます。
観光客がいくら増えても、それをいくら組織化しても、私は小説や絵画に描かれる人物や風景が変わり、その要素が増える以上の意味を見出すことは難しいと思います。むしろ、その描き方が変わるとき、表現の価値が変わって行きます。それは観光客が観光客でなくなるとき、なのではないか、という気がします。
でも著者のいう観光客の哲学が魅力的なのは、現在否定的にとらえられているこの観光客という存在をまるごとその負の性質を正の性質に転化し、武器として編成しようとするチャレンジングな試みが私たちをワクワクさせるからであり、また実際に日々世界から訪れる多数多様な観光客に接する機会が劇的に増加している現状と照応して、実感に訴えるところがあるからだろうと思います。
(to be continued ・・・)