2017年05月30日
東浩紀「観光客の哲学」を読む Ⅰ
2,3日前から読み始めて、昨日読み終わった「観光客の哲学」。この種の小難しい本としては珍しく、ちょっとワクワクするような面白さがありました。
もちろん、”哲学者村”の住人の慣習として、数多くの参照文献、それも大抵は海外で流行の今ふうの思想的言語にいちいちつきあって吟味し、批判し、それを修正したりひっくり返したりして自分の考えを押し出していく、私たち村人ではない者にとっては、わずらわしい部分も多くて、うんざりさせられるところがあるのは、日本で書かれる”哲学書”としてはやむを得ないのでしょう。
それでもなお300頁ものお堅い論文を、文字通り「ゲンロン」なる言論雑誌の一冊として書きおろし、自身で出版してしまう、というメディアの使い方も含めて、十分刺激的でした。
著者によれば、この論考は、これまでリベラル派言論人によって謳われてきた「共同体の外部を尊重すべきだという思想」が、トランプ大統領やわが国のヘイトスピーチに象徴されるような、「他者とつきあうのは疲れた」という支配的な空気の中で分が悪くなっているのに対して、もう一度、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想」したい、という意図で書かれたようです。
なんだか上から目線ふうだった「他者」論、あるいは「外部」論のようなものを、もっと軽い「観光客」に置き換えたところがミソで、これもスキゾキッズ風の脱構築の一種なのかもしれません。
観光とは著者によれば「本来なら行く必要がないはずの場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のないひとに会う行為」であり、「観光客にとっては、訪問先のすべての事物が商品であり展示物であり、中立的で無為な、つまりは偶然のまなざしの対象」です。
「観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して帰っていく」まったく無責任な、偶発的存在に過ぎません。
こういうものは、従来は哲学者などがまじめに考えるべき対象ではなく(社会学者のようないい加減なやつに任せておくべきで・・・(笑))、無視されるかネガティブな捉え方しかされてこなかった、というのですね。
そして、「だからこそ」これが、いまの進歩派がことごとく行き詰ってしまったこの思想的状況を打破していくための武器になるんじゃないか、そう著者は考えているようです。
この観光客の存在、まなざし、行動の偶発性というのが、著者の前著のキーワードらしい「郵便的(誤配)」という概念につながるようですが、すみません、私はこの人の著作は以前買ったままツンドクで、今回読ませてもらうのが初めてなので、そのへんのところはカッコに入れたまま読んでいくしかありません。
この論文の第1部が「観光客の哲学」で、その第1章が「観光」、そのあとに「付論」として「二次創作」についての論考が挟まっています。これは「観光客」のような「ふまじめな存在」について、以前から「二次創作」という言葉で考えていた、と著者の理論的背景について補足した文章です。
「二次創作」というのは、オタク文化ではよく知られた言葉で、「マンガやアニメから、一部のキャラクターや設定だけを取り出し、『原作』から離れて、自分の楽しみのためだけに別の物語を作りあげる創作活動のこと」だそうです。
つまり原作の一部を、原作者が期待した読み方とは別の読み方を、原作者に責任を負わずに勝手に生み出していくこと。これを著者はいま、観光客が観光地へ来て、住民が期待した楽しみ方とは別の勝手な楽しみ方をして帰る構造と同じだと言及しているんですね。
そして、そういう偶発的で、ディスコミュニケーションの情景としてネガティブにしかとらえられてこなかった行動を、それが観光客自身の利害や気持ちにかなった自発的行動であり、しかも彼の言う「郵便的」な偶発的な「誤配」、訪ねるほうも受け入れるほうも予期しなかったfindingsがあり、なにか新しいものがそこから立ち上がってくる可能性に満ちた「散種」(デリダの言葉らしいです。スパームを撒き散らす行為とでもイメージしましょうか・・・(笑))にほかならない、ということで肯定的、積極的に押し出していこうじゃないか、ということですね。
これは実に面白い、愉快な発想で、頭の柔らかい秀才しか思いつかないような発想やなぁ、と思って感心して読みました。
しかし、賛成したわけではありません(笑)。
彼は「二次創作」についてさらに述べています。「現在のオタク文化は二次創作なしには成立しない。いくら二次創作が嫌いで否定したいと思ったとしても、もはや原作の市場そのものがそれなしには経済的に成立しない。同じように、いまや少なからぬ地方自治体の経済が観光に依存している。」(46ページ)
こうして、彼は1995年以降、オタク系コンテンツは、多かれ少なかれ、最初から二次創作の想像力を内面化するようになった、と言います。そして、これはオタク文化に限ったことではなく、ポストモダン社会ではごく一般的な現象であり、「現代社会においては、ある作品が、それ自体の価値だけで評価され流通することはほとんどない。あらゆる作品は、『ほかの消費者がその作品をどう評価するか』、そして『自分がこの作品に評価を与えたとして、ほかの消費者は自分のその評価についてどう考えるか』といった『他者の視線』を内包したかたちで消費されることになる。」と。
著者はここでも、ケインズの「美人投票」の話、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」、社会システム理論の「二重の偶有性」とこれでもか、これでもかと教養を押し出し、そういうのを読んだこともない読者にも、フェイスブックの「いいね!」機能を考えればわかるでしょ、と親切に教えて下さっています。
たしかに思い当たりますよね。こういう現象はある。テレビのクイズ番組で、唯一の正解があるような問い方ではなくて、スタジオに立ち会いに来ている視聴者たちにボタンを押させて、一番多くなるのはどれか、みたいなのを当てる、ケインズの「美人投票」のような番組を思い浮かべたりしますが、人は人の評価するものを評価しようとし、人が並ぶところに列を作る、ってのは私たちが日常的に体験していることですから。
しかし、それは果たして、例えばオタク文化であろうとおかたい純文学であろうとかまわないけれども、その価値のありようをとらえたことになるでしょうか。
たしかに「現代社会においては、ある作品が、それ自体の価値だけで評価され流通することはほとんどない」かもしれないけれど、この言い方の中でさえ、「それ自体の価値」が否定されているわけではありませんね。それが市場で流通するかどうかが、市場のニーズだかウォンツだかに応えたものであればあるほど売れる道理でしょう。しかしそれは「それ自体の価値」と無関係ではないけれども、イコールではない。市場で売れる、売れないは経済学的問題であるか、社会学的問題ではあっても、それほど芸術的価値の問題とは関わりが無いのではないでしょうか。
オタク文化であれ純文学であれ、もし作品として、表現としての価値を問題にするのであれば、それが市場で売れるかどうか、という経済学的問題や社会学的問題と、表現としての価値とを混同すべきではありません。
もちろん、オタク文化にせよ、エンターテインメント小説にせよ、市場の動向をその創作過程に取り込もうとするでしょう。純文学のような従来の狭義の芸術価値をもつと考えられているアートの表現であっても、時代と切り結んで生まれて来る以上、直接的な市場の需給に左右されるのではなくても、作者の社会への関心のありようによって変化することは当然あるわけです。それは否定しません。しかし、そのことと、表現の価値を市場価値なり社会現象としての情報価値のようなものとを混同することはできません。
その点、著者がさらに踏み込んで「作品の内部と外部(消費環境)を切り離し、前者だけを対象として『純粋な』批評や研究を行うという態度、それそのものが成立しない」(49頁)というのは、あきらかな踏み外しです。
たとえば全く新しい技術から生まれる工業製品を考えてみればいいでしょう。次々に技術革新が行われ、新しい製品が生み出され、市場に出ていく。これはもちろん市場がそういう商品を欲しているから企業がそれを供給しようとしているわけで、そういう意味では製造される商品が「外部(消費環境)」と切り離せないことは明らかですが、だからといって、新しい商品を生み出す技術革新そのものを消費市場が指定できるわけではありません。
そんなことが出来るのは、既存の商品、既存の技術の組み合わせだけで、これとこれを組み合わせてつくってくれ、というのならできますが、テレビのなかったところへテレビを創り出し、トランジスタのなかったところへトランジスタを創り出すのが消費市場だというのは、結果と原因の取り違えにすぎません。新しい技術は技術の進化の内部から生まれてきます。その働きがなければ、そもそも技術革新というものが成り立ちません。
たとえば文学にしても、言葉で書かれるから既存の言葉の組み合わせにすぎず、消費市場の要求を繰り込むことでその組み合わせが決まるんだ、と考えるのでなければ、工業製品の技術革新と同じように、そこでは消費市場で売れるか売れないかにはかかわりのない表現者の創造の働きがなければ、新しい作品は生まれないでしょう。オタク文化の多くは既存の要素の組み合わせで作られるのかどうか、それは私は知りませんが・・・。
かつて吉本(隆明)さんが『言語にとって美とはなにか』で、日本の近代小説を素材に文学的言語の価値の更新を自己表出の転移として描き出したときに、例えば新感覚派の作品に対する海外文学の影響をまったく捨象して、そうした表現史がたどれるのか?という疑問がたくさん出されました。しかし吉本さんの考えでは、新感覚派のヨーロッパ風の意匠は彼のいう言語の指示表出の広がりに過ぎないので、文学としての表現価値を更新していくのは、あくまでも自己表出から見た言語だということでした。
このへんの考え方の違いは、東さんの観光客の哲学における、偶発的で私的な観光客の存在様式に思想状況を突き破る手掛かりを見る観点と、その振る舞いを地域整備のありように取り込みながらも、あくまでも地域の歴史性、社会性に根ざした街づくりを進めようとする観点との違いとパラレルに考えらえるような気がします。
観光客のまなざしや振る舞いがもたらすものは、吉本さんのいう言語を指示表出の面から見たときの広がりに対応し、それは地域の街づくりのありように様々な意匠を与え、豊富化はするでしょうが、そこから地域の未来が拓かれるような契機となるかどうかは疑問だという、これはもちろんまだわたしの直観に過ぎませんが、そんな疑問を持ちながら読みました。
言語が別段自己表出と指示表出に分離されるわけでも何でもなく、それは構造として言語を構成する側面にすぎず、いわば私たちが言語に分け入るときの角度の問題にすぎないわけですから、指示表出の広がり自体が、自己表出の高まり、たとえば山に登るときに、より高い位置にまで来ることによって、より広い山裾の風景が広がる眺望が可能になったり、またそのような風景の広がりが、一層高い視点の位置へと登山者を導くような交互作用があることは言うまでもありません。
また、同じものを見ても(指示しても)、カメラでズームアップするように、目を近づけて仔細に見ようとすれば、その指示対象自体が対象領域は狭くても、全く別の光景として視野に入ってくるでしょう。このような両方の契機の相互的なダイナミズムを考慮せずに言語にせよ人間の行動一般にせよ、適切にとらえていくことはできないのではないでしょうか。
こんなことを思っている私などからみると、二次創作を考慮せずには原作が成立しない、とか、観光客のありようを取り込まずに地域計画は成立しない、といった言説は、どんな権威ある流行の哲学者の言葉を借りてもあまり納得はできそうにありません。
それはある程度考慮しないといけませんよね、という程度の当たり前のことを、「他者の欲望を欲望すること」だの「再帰的近代化」だのといったもってまわった言い方を借りて、ポストモダニズムの思想なんて言われても、ちょっと眉に唾して聞かなくてはなりません。
しかし、「観光客の視線による分析が、現代のコミュニティ分析や地域研究では最初から必要だ」ということ、「観光客の視線をあらかじめ内面化し、町並みやコミュニティをつくる」ことが大切だ、ということは、エンターテインメント小説が読者の泣きたいところで泣かせる泣かせ方を考え、創り出せるのがプロ、というような商業主義的な意味合いでは当然のことだし、間違ってもいません。
ただ、そういう「すべてがテーマパーク化している」という状況は、いま現に生じている支配的な趨勢だというだけで、それが唯一の町づくりのありかたでもなければ、コミュニティづくりのありかたでもないことは自明のことです。著者はこのへんは少し、結果としての状況を追認してテーゼ化しようとするところがあって、そういうところには首を傾げざるを得ません。
もちろん、観光客の喜びそうなイベントを用意し、テーマパーク的な街並みを拵えるようなところも多くなっているでしょう。しかし、そうではなく、昔からある町や村の行事をそのままの形でコミュニティの大切な行事として守り、楽しむところも少なくはないでしょう。そこへ観光客が訪れるのはかまわないけれど、なにもそういう日常的な姿を観光客の意向を織り込んで変えなければならない必要はまったくありません。
むしろ、私が観光客なら、観光客の視線など決して織り込まないで、そこに生きる人が幸せに、楽しんで生きるようなコミュニティを訪れてみたいと思うでしょう。
「21世紀のポストモダンあるいは再帰的近代の世界においては、二次創作の可能性を織り込むことなしにはだれも原作が作れず、観光客の視線を織り込むことなしには誰もコミュニティがつくれない」(51頁)なんてことは全く事実に反する言説でありましょう。
第2の補足として、著者は自身による実践にかかる「福島第一原発観光地化計画」について述べています。私は著者がこんな批判を受けたと書いているような、福島と観光地化計画を結びつけること自体が被災地を傷つけるような話だと批難するような視点は持ち合わせていません。
ただ、それは考え得る方法のひとつであって、「『原作』たる福島を見てもらうには一度『二次創作』を通らなければならない」「二次創作がなければ原作への回帰もない」という著者の言葉が正しいと考えるからではありません。
また、仮に著者のこういう言葉にのっかるとしても、その「二次創作」が原発でなければならない理由はないと思います。
それは私の出身地(被爆はしていませんが)である広島という「原作への回帰」のための二次創作が、原爆観光でなければならない、ということはないと思うのと同じことです。広島はむしろ、広島以外のあらゆる人たちの二次創作が「原爆観光」であることに、長い間苦しんできたように思います。
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少し長くなりそうなので、ここらで一休み。To be continued ということで・・・
なお、「カッコ」内の引用はすべて、『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀(著者・編集人・発行人)、㈱ゲンロン発行 2017 によります。私はとても面白く読ませてもらったので、久しぶりにこの種の本について感想を書いておこうという気になったのですが、もとより哲学のトレーニングを積んだ人間でも何でもない市井の老人のある日の読書感想文に過ぎないので、興味を持たれた方は是非、東さんの本を読まれるようおすすめします。