2017年05月27日
チェ・ドンフン監督「暗殺」は<反日映画>か
1933年、日本統治下の朝鮮半島、京城を舞台に、日本政府の出先機関や軍、それに結託する親日派の実業家、それらの「悪玉」に対して韓国独立のために戦う軍隊の女性スナイパー、アン・オギュン(「猟奇的な彼女」のチョン・ジヒョン演じる)を隊長とする3人の暗殺部隊とこれに指示を出す韓国臨時政府の要人たち、それに金(おかね)のためにどちらにでもつく殺し屋の「ハワイ・ピストル」(ハ・ジョンウ演じる)とその連れ、そして臨時政府側要人でありながら日本政府の密偵でもあるヨム・ソクチン(イ・ジョンジェ演じる)が幾重にも絡み合い、交錯しあって、暗殺に至るドラマをテンポ良く描いた娯楽作品です。
韓国では619万人の観客動員を果たした大ヒット作も、日本では「反日映画」のレッテルを貼りたがる人もあるようで、あまりメジャーな配給ルートにのらなかったのか、私もビデオ屋の棚に見つけるまで知りませんでした。この時代の朝鮮を描いて、独立のために戦う人間を主人公にすれば、歴史を過去の事実とは正反対の世界として仮想的に描く特異なSF映画でもない限り、主人公たちが当時の日本政府や軍に敵対するのは当たり前ですから、「反日的」内容になるのは自明ですが、作り手の意図した「反日映画」などではありません。
そんなレッテルを貼るなら、太平洋戦争を背景とする日本映画はすべて「反米映画」で、クリント・イーストウッド監督の作品でさえ日本軍の視点を通して描いていれば「反米映画」になってしまうでしょう。そういうイデオロギー的な偏見と先入観による作品評はまったく不毛です。
この映画はテンポよし、役者よし、カメラよし、脚本よしで、スナイパーと殺し屋のロマンスで味付けしたスパイ活劇の娯楽映画としては十分に合格点以上の作品です。
とりわけ主役のチョン・ジヒョン(双子の姉妹を二役でこなす)、彼女を殺そうと追う腕利きの殺し屋で彼女とのラブロマンスで花を添えるハワイ・ピストルのハ・ジョンウ、それに戦後まで生き延びるこの作品では最高の敵役となるヨム・ソクチンを演じるイ・ジョンジェの3人が素晴らしい。脇役の、ハワイ・ピストルの同伴者「爺」を演じるオ・ダルスなどもいい味を出しています。
ロケなのかセットなのか、1933年の京城の町の風景がとてもいいし、最初のシーンがとても美しくて、見始めておっという感じ。ラストシーンは街中の隠れ家へヨムを引き込んだはずでしたが、裏手なのかどうか、塀の戸をあけて瀕死のヨムがよろめき出る外には荒野が広がっているので、あれ?という感じはあるけれども、まああれはシンボリックな風景なんだと、あまり目くじらを立てずに見ましょう。
登場人物の中には主人公たち暗殺隊に指示を出す側の組織の上層部に、キム・ウォンボンや、キム・グのような実在の人物が登場します。前者は韓国の独立運動家で、大韓民国臨時政府の光復軍副司令官を勤め、のちに意見対立から北朝鮮へ行って政治家になった実在の人物だし、後者は同臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理などを務め、1940年から47年にかけては主席まで務めたものの、李承晩と対立して1949年に暗殺されたという、これも実在の人物。(彼らの情報はウィキペディアによります。)
この作品では両者が手を結んで日本軍人と売国の韓国人実業家を暗殺することになりますが、実際のこの二人の人物は同じ独立運動家ではあっても対立していたそうで、作品の中でも、当時のこの種の反日独立運動家たちがそれぞれ「金の出どころが違う」多くの組織に分かれていて団結できないことが登場人物のちょっとしたセリフを借りて描かれています。
日本人については、たとえば主人公のオギュンが狙う標的の一人で、その婚約者である赤子のときに生き別れた双子の姉妹(親日派実業家の娘)に成りすまして近づこうとする若手将校などは、どこやらで一度に300人の朝鮮人市民を殺したことを自慢したあげくまだ年端もいかない少女を簡単にピストルで殺すような冷酷非情な侵略者として描かれてはいるけれど、悪い血さえ通っていない、マリオネットのように完全にパターン化された悪役で、どこか滑稽な存在としてしか描かれていません。ほんものの反日映画なら、娯楽作品であっても、もう少しはねっとりとしたどす黒い「血の通った」悪役として描くでしょう。
主人公の標的ではあっても、それら日本人はこの映画の作り手が観客の憎悪や嫌悪感を導こうとした標的ではなく、どちらかといえば無視し、冷笑して通り過ぎる相手であって、ほんものの標的は「裏切者」たちにあります。この物語の主軸はそこにあり、主人公の実の父親が売国奴の実業家であり、自分たち暗殺隊を組織し、指示した上司が裏切者の密偵なのです。そして、この物語は日本を打ち破って歓喜に湧く市民を映して終わるわけにはいかないので、最後にその最も憎むべき裏切者を主人公と独立運動家の手で始末しなければ終わらないのです。
当初の標的であった日本政府の要人と売国実業家の暗殺を実行しようとしながら、主人公オギュンは「あの二人を殺しても独立できるわけじゃない。それでも、独立のために戦い続けている者が居ることを知らせなくては・・」という意味のことを言います。これはペシミスティックな言葉ですが、同時に彼女たちが単なるテロリストではなく、あくまでも亡命臨時政府の一員、韓国軍の一兵卒として敵を殺すのだ、という使命感と矜持の表現で、それはそのまま映画の作り手である監督たちの意図でもあるでしょう。
大真面目に歴史の一コマを描いた映画作品などというものではないけれど、それだけの思いは持って作られていて、それが娯楽作品ながら、薄っぺらなスパイ活劇よりはもう少しだけ、奥行きのある作品に仕上がっているのは、そういう側面があるからでしょう。
スナイパーが標的である売国的実業家の双子の娘の片割れで、あとの片割れと宿命的な出会いをはたし、その姉に化けて暗殺現場へ入り込むとか、暗殺者とそれを殺すことを命じられた殺し屋との恋情だとか、圧倒的に多勢に無勢の銃撃戦でも主人公は死なないとか、「リアル」には程遠い点は山ほどありますが、そんなのはみな娯楽作品ではありふれたご都合主義であって、作り手もあまり気にしてはいないでしょうし、私たちも気にせずに楽しめばよいのではないでしょうか。
「反日映画」というようなものではないけれども、ついでですから、少しそういうことを書いておけば、戦前の日本のアジア侵略については、「侵略」を「進出」などと言い換えたい政府だけでなく、私たち「ふつ~の」国民の多くも、できるだけ正視したくない、本音のところでは忘れてしまいたい歴史的事実なのではないでしょうか。
慰安婦問題をめぐる日韓の政府言うところの「決着」について、わざわざこれを不可逆的な最終決着というような文言をもちろん安倍政権の強い意向で入れたことについても、韓国民の大多数が批判的なのは当然でしょうし、日本の一部のリベラルな人たちにも批判はあるのでしょうが、日本国民の多くはどこかでほっと安堵しているのではないかと思います。「安倍嫌い」と称する人たちでも、胸の内を覗いてみれば、案外、そういうところがないかどうか。
だとすれば、これはドイツの戦争処理の仕方について以前に読んだ本で知った、ドイツの戦争犯罪に対する過半のドイツ国民の受け止め方とはずいぶん様相を異にしているようです。
実際、第二次大戦後に生まれたいわゆる戦後世代の私たちは、ずいぶんリベラルな教育を受け、初期の頃には小中学校の教員が生徒に「インターナショナル」を歌って聞かせたり、「原爆許すまじ」の歌を教えたり、というふうなことがあったのは、わたし自身児童として体験して来ているし、全然育った土地の違うパートナーに聴いても、事情は似たり寄ったりでした。
それでも、今振り返れば、日本の朝鮮半島や台湾統治の話を具体的に教えられたことは、ほんの一行、二行、中高の日本史の教科書に登場はしても、それ以上は「リベラル」だったはずの教員からでさえ、一歩も踏み込んで教えられた記憶はなく、周囲にもそういうことを話してくれる大人はいませんでした。
大陸の学校で学び、民間人としては結構長期間中国にいた父や、結婚して大陸に渡って同じく比較的長期にわたって上海にいた母にしても、ごくたまに父の属した柔道部の話だの、武義だか武漢だかの山で蛍石を採掘する工場の工場長だったとか、上海の自宅に若い中国の青年に日本語を教えていたとか、敗戦の色が濃くなったころには銃弾がかすめるような危ない目にあったとか、そんな切れ切れの断片は耳にしたものの、こちらにその生活や地域社会のイメージが形成されるほどの話はついに両親とも亡くなるまで聞くことはありませんでした。
こちらもそう聞きたい話ではなかったけれど、両親のほうから積極的に話そうという姿勢はまったくなかったのです。
この映画は娯楽映画ではあるけれど、その日本統治下の京城などの光景を曲がりなりにも背景としている点だけでも珍しく、娯楽作品としてはとても面白く作ってあって、偶然こういう作品に出逢って思わぬ拾い物をしたようなお得感がありました。
韓国では619万人の観客動員を果たした大ヒット作も、日本では「反日映画」のレッテルを貼りたがる人もあるようで、あまりメジャーな配給ルートにのらなかったのか、私もビデオ屋の棚に見つけるまで知りませんでした。この時代の朝鮮を描いて、独立のために戦う人間を主人公にすれば、歴史を過去の事実とは正反対の世界として仮想的に描く特異なSF映画でもない限り、主人公たちが当時の日本政府や軍に敵対するのは当たり前ですから、「反日的」内容になるのは自明ですが、作り手の意図した「反日映画」などではありません。
そんなレッテルを貼るなら、太平洋戦争を背景とする日本映画はすべて「反米映画」で、クリント・イーストウッド監督の作品でさえ日本軍の視点を通して描いていれば「反米映画」になってしまうでしょう。そういうイデオロギー的な偏見と先入観による作品評はまったく不毛です。
この映画はテンポよし、役者よし、カメラよし、脚本よしで、スナイパーと殺し屋のロマンスで味付けしたスパイ活劇の娯楽映画としては十分に合格点以上の作品です。
とりわけ主役のチョン・ジヒョン(双子の姉妹を二役でこなす)、彼女を殺そうと追う腕利きの殺し屋で彼女とのラブロマンスで花を添えるハワイ・ピストルのハ・ジョンウ、それに戦後まで生き延びるこの作品では最高の敵役となるヨム・ソクチンを演じるイ・ジョンジェの3人が素晴らしい。脇役の、ハワイ・ピストルの同伴者「爺」を演じるオ・ダルスなどもいい味を出しています。
ロケなのかセットなのか、1933年の京城の町の風景がとてもいいし、最初のシーンがとても美しくて、見始めておっという感じ。ラストシーンは街中の隠れ家へヨムを引き込んだはずでしたが、裏手なのかどうか、塀の戸をあけて瀕死のヨムがよろめき出る外には荒野が広がっているので、あれ?という感じはあるけれども、まああれはシンボリックな風景なんだと、あまり目くじらを立てずに見ましょう。
登場人物の中には主人公たち暗殺隊に指示を出す側の組織の上層部に、キム・ウォンボンや、キム・グのような実在の人物が登場します。前者は韓国の独立運動家で、大韓民国臨時政府の光復軍副司令官を勤め、のちに意見対立から北朝鮮へ行って政治家になった実在の人物だし、後者は同臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理などを務め、1940年から47年にかけては主席まで務めたものの、李承晩と対立して1949年に暗殺されたという、これも実在の人物。(彼らの情報はウィキペディアによります。)
この作品では両者が手を結んで日本軍人と売国の韓国人実業家を暗殺することになりますが、実際のこの二人の人物は同じ独立運動家ではあっても対立していたそうで、作品の中でも、当時のこの種の反日独立運動家たちがそれぞれ「金の出どころが違う」多くの組織に分かれていて団結できないことが登場人物のちょっとしたセリフを借りて描かれています。
日本人については、たとえば主人公のオギュンが狙う標的の一人で、その婚約者である赤子のときに生き別れた双子の姉妹(親日派実業家の娘)に成りすまして近づこうとする若手将校などは、どこやらで一度に300人の朝鮮人市民を殺したことを自慢したあげくまだ年端もいかない少女を簡単にピストルで殺すような冷酷非情な侵略者として描かれてはいるけれど、悪い血さえ通っていない、マリオネットのように完全にパターン化された悪役で、どこか滑稽な存在としてしか描かれていません。ほんものの反日映画なら、娯楽作品であっても、もう少しはねっとりとしたどす黒い「血の通った」悪役として描くでしょう。
主人公の標的ではあっても、それら日本人はこの映画の作り手が観客の憎悪や嫌悪感を導こうとした標的ではなく、どちらかといえば無視し、冷笑して通り過ぎる相手であって、ほんものの標的は「裏切者」たちにあります。この物語の主軸はそこにあり、主人公の実の父親が売国奴の実業家であり、自分たち暗殺隊を組織し、指示した上司が裏切者の密偵なのです。そして、この物語は日本を打ち破って歓喜に湧く市民を映して終わるわけにはいかないので、最後にその最も憎むべき裏切者を主人公と独立運動家の手で始末しなければ終わらないのです。
当初の標的であった日本政府の要人と売国実業家の暗殺を実行しようとしながら、主人公オギュンは「あの二人を殺しても独立できるわけじゃない。それでも、独立のために戦い続けている者が居ることを知らせなくては・・」という意味のことを言います。これはペシミスティックな言葉ですが、同時に彼女たちが単なるテロリストではなく、あくまでも亡命臨時政府の一員、韓国軍の一兵卒として敵を殺すのだ、という使命感と矜持の表現で、それはそのまま映画の作り手である監督たちの意図でもあるでしょう。
大真面目に歴史の一コマを描いた映画作品などというものではないけれど、それだけの思いは持って作られていて、それが娯楽作品ながら、薄っぺらなスパイ活劇よりはもう少しだけ、奥行きのある作品に仕上がっているのは、そういう側面があるからでしょう。
スナイパーが標的である売国的実業家の双子の娘の片割れで、あとの片割れと宿命的な出会いをはたし、その姉に化けて暗殺現場へ入り込むとか、暗殺者とそれを殺すことを命じられた殺し屋との恋情だとか、圧倒的に多勢に無勢の銃撃戦でも主人公は死なないとか、「リアル」には程遠い点は山ほどありますが、そんなのはみな娯楽作品ではありふれたご都合主義であって、作り手もあまり気にしてはいないでしょうし、私たちも気にせずに楽しめばよいのではないでしょうか。
「反日映画」というようなものではないけれども、ついでですから、少しそういうことを書いておけば、戦前の日本のアジア侵略については、「侵略」を「進出」などと言い換えたい政府だけでなく、私たち「ふつ~の」国民の多くも、できるだけ正視したくない、本音のところでは忘れてしまいたい歴史的事実なのではないでしょうか。
慰安婦問題をめぐる日韓の政府言うところの「決着」について、わざわざこれを不可逆的な最終決着というような文言をもちろん安倍政権の強い意向で入れたことについても、韓国民の大多数が批判的なのは当然でしょうし、日本の一部のリベラルな人たちにも批判はあるのでしょうが、日本国民の多くはどこかでほっと安堵しているのではないかと思います。「安倍嫌い」と称する人たちでも、胸の内を覗いてみれば、案外、そういうところがないかどうか。
だとすれば、これはドイツの戦争処理の仕方について以前に読んだ本で知った、ドイツの戦争犯罪に対する過半のドイツ国民の受け止め方とはずいぶん様相を異にしているようです。
実際、第二次大戦後に生まれたいわゆる戦後世代の私たちは、ずいぶんリベラルな教育を受け、初期の頃には小中学校の教員が生徒に「インターナショナル」を歌って聞かせたり、「原爆許すまじ」の歌を教えたり、というふうなことがあったのは、わたし自身児童として体験して来ているし、全然育った土地の違うパートナーに聴いても、事情は似たり寄ったりでした。
それでも、今振り返れば、日本の朝鮮半島や台湾統治の話を具体的に教えられたことは、ほんの一行、二行、中高の日本史の教科書に登場はしても、それ以上は「リベラル」だったはずの教員からでさえ、一歩も踏み込んで教えられた記憶はなく、周囲にもそういうことを話してくれる大人はいませんでした。
大陸の学校で学び、民間人としては結構長期間中国にいた父や、結婚して大陸に渡って同じく比較的長期にわたって上海にいた母にしても、ごくたまに父の属した柔道部の話だの、武義だか武漢だかの山で蛍石を採掘する工場の工場長だったとか、上海の自宅に若い中国の青年に日本語を教えていたとか、敗戦の色が濃くなったころには銃弾がかすめるような危ない目にあったとか、そんな切れ切れの断片は耳にしたものの、こちらにその生活や地域社会のイメージが形成されるほどの話はついに両親とも亡くなるまで聞くことはありませんでした。
こちらもそう聞きたい話ではなかったけれど、両親のほうから積極的に話そうという姿勢はまったくなかったのです。
この映画は娯楽映画ではあるけれど、その日本統治下の京城などの光景を曲がりなりにも背景としている点だけでも珍しく、娯楽作品としてはとても面白く作ってあって、偶然こういう作品に出逢って思わぬ拾い物をしたようなお得感がありました。
saysei at 16:37│Comments(0)│TrackBack(0)│