2016年07月29日
ジャン・ジャンクー監督「四川のうた」
すばらしい作品です。
もとのタイトルは「二十四城記」。三国志の舞台四川省成都にあった「420工場」('成発集団')と呼ばれた大規模な国営軍需工場と付随する団地の世界が民間に買われ、最新の巨大なマンション群に変わった、そのマンション群が「二十四城」で、国営工場取り壊しまでの歴史を徹底して、工場の労働者個人の語りで描いた作品。
ドキュメンタリー映画のスタイルではあるけれど、自らの半生を語る労働者の半数は監督の映画ではなじみの名優で、それが素人の語りとちっとも不自然でなく溶け合い、とくにプロの俳優4人の語りの部分が素晴らしい出来栄えになっています。
20代のはじめころは多少現代中国に関心をもち、つまらないプロパガンダ的な中国の小説を読んだり映画を何本か見、それらを忘れかけた40代で初めて、縁あって両親と、自分の生れた上海の路地の病院を訪れたことがあります。そのころに初めて「現代中国小説」らしい短編小説がいくつか集められた翻訳本を読んで、中国の庶民の現在を垣間見るような経験をしましたが、その後はすっかりご無沙汰でした。
今回この映画をみて、本当に久しぶりに現代中国の庶民の一人ひとりに触れることができたような気持になりました。もちろん、毛沢東の肝煎りで東北地方から疎開してつくられた超大規模な航空機部品など機密の軍需工場で働く人々とその家族の生活は、中国の一般の人々とは隔絶した特権的なものだったはずだし、学校から商業・文化施設まですべてその広大な団地の世界に内蔵して外界からはいわば閉じた世界を構成していたようですから、これが当時の一般の中国人の生活とはとても言えないでしょう。
それでもここには、過渡期の中国の歴史をその身に負った一人一人の庶民の姿が確かに刻まれています。
呂麗萍演じる大麗という女性は、国策に従って瀋陽の工場から夫とともにはるばる成都まで連れてこられ、途中で船を下りて土産を買ったときに子供を見失うが、戦中の軍隊の兵士と同じ規律の中で、出港の時が来て、見つからない子を置き去りにして失う悲劇を経験します。いまは歳をとって体を壊しているようで、点滴のチューブと液の入った瓶を高く片手で掲げたまま歩いています。彼女の働いていた420工場は機密工場だったため、毎月の給料に5元の機密費がついていたと言い、また一般には食料が乏しいときにも、ここの労働者は1.5キロの肉をもらっていた、と言います。航空機の部品を作り、1975年で給料は月58元。うち30元を預金し、故郷の瀋陽にも送金し、工場で着古した古着などを妹に送っていた、と言います。でもいまは逆に甥が500元送金してきたので、彼の母親である妹になぜかと問い合わせると、工場がいまは不景気でしょう、と言われた、と。まさか歳とって妹の世話になるとは、と嘆いているのです。
侯雨君という女性の、ほんものの労働者がバスの車中で、素朴な語り口で語るのは、同じく瀋陽から成都へ、家族と引き裂かれるようにして14年間親たちと離れ離れの生活を強いられた母の物語。、自分もまた、子供をかかえてリストラされ、200元の生活費しかなかったと苦しかった日々をどう耐えてきたかを語ります。
若いころ職場の花と囃され、映画女優に似ているからというので、「小花(シャオホワ)」と呼ばれた顧敏華(演じるのは陳沖~ジョアン・チェン)は、上海に住んでいましたが、20㎡の家に7人家族が集まる狭小な家を出て成都の420工場へやってきます。そこで軍需物資を作り、戦争が終わって不況になると電化製品をつくるようになった同じ工場で働きながら子を育て、男運にも恵まれず、過去を語る表情は決して明るいとは言えないけれど、いまは一人暮らし、それでいいの、といまの自分の生活を自分に言い聞かせるように肯定してみせます。
さらにいかにも現代中国のやり手の女性という感じがする蘇娜(スー・ナー。演じるのは女優趙濤~チャオ・タオ)は「420工場」の専属学校を出ますが勉強が不向きで父の望んだ進学校にも行けず、それゆえ大学にも行かず、モデルになりたかったけれどそれもできず、所在なく家を出て長年帰らずにいましたが、金持ちの有閑マダム相手に香港などで有名ブランド品を買い付けて売る商売で成功します。そんなあるとき、ちょっとした用で帰郷し、たまたま工場で働く母が腰を屈めて鋼鉄の塊を運ぶ傷ましい姿を目の当たりにしてショックを受けるのでした・・・・
この蘇娜の話と私が 一番好きなのは陳建斌(チェン・ジェンビン)演じる宋衛東(ソン・ウェイドン)という成都生まれの工場の社長室副主任をしていた男の回想です。工場団地の外の世界の連中と喧嘩した小学校3年のころの思い出で、待ち伏せされて敵のリーダーのところに連れていかれ、観念したところ、きょうは周恩来首相が亡くなったから許してやると言われて家に帰ると両親が白い紙で花を作っていた、といった話。16歳で恋をするが、景気が悪くなったときで向こうの親が反対し、彼女からスケート場の網の向こうとこちらで向き合って別れの言葉を交わす思い出を語ります。女性が「わたしたち、まだ若すぎると思うわ」という。彼が「じゃ別れようか」と言うと、「あなたのほうが別れようと言ったのよ」と言って去っていった、と。彼女が最後にアイスクリームを渡して食べさせてくれた、そのとき手首に、当時はやっていた山口百恵の「赤い疑惑」にちなむ赤い布を手首に巻いていた、と。そんな初恋の思い出を語るのです。そのあと、「赤い疑惑」の主題歌?らしい歌も日本語で流れます。
こんなふうに、素人のほんものの労働者であれ、プロの俳優であれ、一人一人の中国の過渡期の歴史を生きていた労働者が、その暮らしぶり、職場のこと、家族のこと、恋愛や男関係まで含めて語ります。広大無辺の中国社会の現代史にほんの髪の毛一筋ほどの亀裂かもしれないけれどすっと切れ目を入れて、確かにその表層の内側にあって血の色をたたえた、そっとしておきたいような初々しい思い出や、ある場合には痛々しくただれた傷口のような、生身の人間の切れば鋭い痛みもあり血も流れる組織を見せてくれるのです。こんな経験は少なくとも中国の現代社会に関する限り、私にとってはきわめて稀なことでした。
カメラもとてもいい。物言わぬ一人一人の労働者の表情をアップで、あるいはバストショットで丁寧に、長まわしで、まるで静止画のポート例とを撮るように撮っています。その一人一人の名はあるけれどもいわば無名の労働者こそが主人公であり、その記念すべき記録であることをそのカメラが如実に語りかけています。」
時折、彼らが無言で歩いていく路地の光景が映ります。それがたまらなくいい。彼らがそこから生まれてきてそこへ帰っていく場所であるような、中国の街のあの路地。それに比べれば、みな同じ形、デザインの高層マンションが立ち並ぶ広い車道沿いの街の表通りの光景は殺風景です。
それから無用の長物となった軍需工場、機密ゆえ「420工場」などと番号で呼ばれた工場のバカでかい空間とそこに置かれた今の目で見れば古めかしい巨大な設備や鉄製の部品等々の光景も、すべてが移転して取り壊されるばかりになった工場と付属施設の昼なお暗いコンクリートの墓場のような空間、それらがある時代の終焉を映像的に鮮やかに印象づけられます。現在の目でみれば、この種の工場や設備、機械類はみな大きな玩具のようで、むしろ私たちの目にはレトロな遊園地の遊具のように見えます。
しんがりをつとめるのが蘇娜(スー・ナー)で、現代中国のビジネスレディとして成功している蘇娜がかつての420工場付属の学校へきて、自分の過去と両親への思いを語り、最後に「高価なのはわかっているけれど、両親に二十四城の家を買ってあげたい。」と将来の夢を語ります。その目がみつめる先、という感じで、ラストシーンは、現代の大都会成都の鳥瞰風景です。
ジャン・ジャンクーはすでに世界的に著名な監督で、これ以前にも以後にもすぐれた作品を作り続けているようですが、これ一本でも、こんな作品を一生にひとつ作れたら作家として本望だろうな、と思えるような、作家として見事に時代と、社会と切り結んだ作品でした。
もちろんいまの中国でまだ彼がちゃんと描きたくても描けないものがあることは、この作品からもうかがえます。文化大革命については、ちらっとその時期に、というような言葉が入るだけで、誰も本当の意味でその時代に踏み込もうとはしません。いつか彼らが文化大革命について、あるいは天安門について、この「420工場」について語るのと同じように、人間的尊厳と自由のうちに語ることができる日が来ることを期待したいと思います。
もとのタイトルは「二十四城記」。三国志の舞台四川省成都にあった「420工場」('成発集団')と呼ばれた大規模な国営軍需工場と付随する団地の世界が民間に買われ、最新の巨大なマンション群に変わった、そのマンション群が「二十四城」で、国営工場取り壊しまでの歴史を徹底して、工場の労働者個人の語りで描いた作品。
ドキュメンタリー映画のスタイルではあるけれど、自らの半生を語る労働者の半数は監督の映画ではなじみの名優で、それが素人の語りとちっとも不自然でなく溶け合い、とくにプロの俳優4人の語りの部分が素晴らしい出来栄えになっています。
20代のはじめころは多少現代中国に関心をもち、つまらないプロパガンダ的な中国の小説を読んだり映画を何本か見、それらを忘れかけた40代で初めて、縁あって両親と、自分の生れた上海の路地の病院を訪れたことがあります。そのころに初めて「現代中国小説」らしい短編小説がいくつか集められた翻訳本を読んで、中国の庶民の現在を垣間見るような経験をしましたが、その後はすっかりご無沙汰でした。
今回この映画をみて、本当に久しぶりに現代中国の庶民の一人ひとりに触れることができたような気持になりました。もちろん、毛沢東の肝煎りで東北地方から疎開してつくられた超大規模な航空機部品など機密の軍需工場で働く人々とその家族の生活は、中国の一般の人々とは隔絶した特権的なものだったはずだし、学校から商業・文化施設まですべてその広大な団地の世界に内蔵して外界からはいわば閉じた世界を構成していたようですから、これが当時の一般の中国人の生活とはとても言えないでしょう。
それでもここには、過渡期の中国の歴史をその身に負った一人一人の庶民の姿が確かに刻まれています。
呂麗萍演じる大麗という女性は、国策に従って瀋陽の工場から夫とともにはるばる成都まで連れてこられ、途中で船を下りて土産を買ったときに子供を見失うが、戦中の軍隊の兵士と同じ規律の中で、出港の時が来て、見つからない子を置き去りにして失う悲劇を経験します。いまは歳をとって体を壊しているようで、点滴のチューブと液の入った瓶を高く片手で掲げたまま歩いています。彼女の働いていた420工場は機密工場だったため、毎月の給料に5元の機密費がついていたと言い、また一般には食料が乏しいときにも、ここの労働者は1.5キロの肉をもらっていた、と言います。航空機の部品を作り、1975年で給料は月58元。うち30元を預金し、故郷の瀋陽にも送金し、工場で着古した古着などを妹に送っていた、と言います。でもいまは逆に甥が500元送金してきたので、彼の母親である妹になぜかと問い合わせると、工場がいまは不景気でしょう、と言われた、と。まさか歳とって妹の世話になるとは、と嘆いているのです。
侯雨君という女性の、ほんものの労働者がバスの車中で、素朴な語り口で語るのは、同じく瀋陽から成都へ、家族と引き裂かれるようにして14年間親たちと離れ離れの生活を強いられた母の物語。、自分もまた、子供をかかえてリストラされ、200元の生活費しかなかったと苦しかった日々をどう耐えてきたかを語ります。
若いころ職場の花と囃され、映画女優に似ているからというので、「小花(シャオホワ)」と呼ばれた顧敏華(演じるのは陳沖~ジョアン・チェン)は、上海に住んでいましたが、20㎡の家に7人家族が集まる狭小な家を出て成都の420工場へやってきます。そこで軍需物資を作り、戦争が終わって不況になると電化製品をつくるようになった同じ工場で働きながら子を育て、男運にも恵まれず、過去を語る表情は決して明るいとは言えないけれど、いまは一人暮らし、それでいいの、といまの自分の生活を自分に言い聞かせるように肯定してみせます。
さらにいかにも現代中国のやり手の女性という感じがする蘇娜(スー・ナー。演じるのは女優趙濤~チャオ・タオ)は「420工場」の専属学校を出ますが勉強が不向きで父の望んだ進学校にも行けず、それゆえ大学にも行かず、モデルになりたかったけれどそれもできず、所在なく家を出て長年帰らずにいましたが、金持ちの有閑マダム相手に香港などで有名ブランド品を買い付けて売る商売で成功します。そんなあるとき、ちょっとした用で帰郷し、たまたま工場で働く母が腰を屈めて鋼鉄の塊を運ぶ傷ましい姿を目の当たりにしてショックを受けるのでした・・・・
この蘇娜の話と私が 一番好きなのは陳建斌(チェン・ジェンビン)演じる宋衛東(ソン・ウェイドン)という成都生まれの工場の社長室副主任をしていた男の回想です。工場団地の外の世界の連中と喧嘩した小学校3年のころの思い出で、待ち伏せされて敵のリーダーのところに連れていかれ、観念したところ、きょうは周恩来首相が亡くなったから許してやると言われて家に帰ると両親が白い紙で花を作っていた、といった話。16歳で恋をするが、景気が悪くなったときで向こうの親が反対し、彼女からスケート場の網の向こうとこちらで向き合って別れの言葉を交わす思い出を語ります。女性が「わたしたち、まだ若すぎると思うわ」という。彼が「じゃ別れようか」と言うと、「あなたのほうが別れようと言ったのよ」と言って去っていった、と。彼女が最後にアイスクリームを渡して食べさせてくれた、そのとき手首に、当時はやっていた山口百恵の「赤い疑惑」にちなむ赤い布を手首に巻いていた、と。そんな初恋の思い出を語るのです。そのあと、「赤い疑惑」の主題歌?らしい歌も日本語で流れます。
こんなふうに、素人のほんものの労働者であれ、プロの俳優であれ、一人一人の中国の過渡期の歴史を生きていた労働者が、その暮らしぶり、職場のこと、家族のこと、恋愛や男関係まで含めて語ります。広大無辺の中国社会の現代史にほんの髪の毛一筋ほどの亀裂かもしれないけれどすっと切れ目を入れて、確かにその表層の内側にあって血の色をたたえた、そっとしておきたいような初々しい思い出や、ある場合には痛々しくただれた傷口のような、生身の人間の切れば鋭い痛みもあり血も流れる組織を見せてくれるのです。こんな経験は少なくとも中国の現代社会に関する限り、私にとってはきわめて稀なことでした。
カメラもとてもいい。物言わぬ一人一人の労働者の表情をアップで、あるいはバストショットで丁寧に、長まわしで、まるで静止画のポート例とを撮るように撮っています。その一人一人の名はあるけれどもいわば無名の労働者こそが主人公であり、その記念すべき記録であることをそのカメラが如実に語りかけています。」
時折、彼らが無言で歩いていく路地の光景が映ります。それがたまらなくいい。彼らがそこから生まれてきてそこへ帰っていく場所であるような、中国の街のあの路地。それに比べれば、みな同じ形、デザインの高層マンションが立ち並ぶ広い車道沿いの街の表通りの光景は殺風景です。
それから無用の長物となった軍需工場、機密ゆえ「420工場」などと番号で呼ばれた工場のバカでかい空間とそこに置かれた今の目で見れば古めかしい巨大な設備や鉄製の部品等々の光景も、すべてが移転して取り壊されるばかりになった工場と付属施設の昼なお暗いコンクリートの墓場のような空間、それらがある時代の終焉を映像的に鮮やかに印象づけられます。現在の目でみれば、この種の工場や設備、機械類はみな大きな玩具のようで、むしろ私たちの目にはレトロな遊園地の遊具のように見えます。
しんがりをつとめるのが蘇娜(スー・ナー)で、現代中国のビジネスレディとして成功している蘇娜がかつての420工場付属の学校へきて、自分の過去と両親への思いを語り、最後に「高価なのはわかっているけれど、両親に二十四城の家を買ってあげたい。」と将来の夢を語ります。その目がみつめる先、という感じで、ラストシーンは、現代の大都会成都の鳥瞰風景です。
ジャン・ジャンクーはすでに世界的に著名な監督で、これ以前にも以後にもすぐれた作品を作り続けているようですが、これ一本でも、こんな作品を一生にひとつ作れたら作家として本望だろうな、と思えるような、作家として見事に時代と、社会と切り結んだ作品でした。
もちろんいまの中国でまだ彼がちゃんと描きたくても描けないものがあることは、この作品からもうかがえます。文化大革命については、ちらっとその時期に、というような言葉が入るだけで、誰も本当の意味でその時代に踏み込もうとはしません。いつか彼らが文化大革命について、あるいは天安門について、この「420工場」について語るのと同じように、人間的尊厳と自由のうちに語ることができる日が来ることを期待したいと思います。
saysei at 01:16│Comments(0)│TrackBack(0)│