2016年07月13日
熊切和喜監督「ノン子36歳(家事手伝い)」
もとタレントでバツイチで、山あいの村の神社である実家へもどって家族との折り合いもよからず、自堕落な酒浸りの日々をすごしている幾重にも屈折を抱えた、どうしようもないドンヅマリ状態の30女を、坂井真紀という女優さんが好演しています。15歳未満お断りの映画のようだけれども、そういう部分も体当たりで熱演しています。
しかし2つの男女の濡場のシーンは、ともに男女の性というのはこんなにもみすぼらしい、どこか滑稽で哀れなものなのかと溜息がもれるような光景です。それはこの映画のノン子(のぶ子)の状況にはふさわしいものでしょうけれど、振り返ってこの監督の幾つかの作品の女性の描かれ方や男女の絡みのシーンを思い起こすと、この人は女性を、あるいは男女の性をこういうふうにしか描けないんじゃないか、とちょっと疑ってみたくなるようなところがないでもありません。
クリント・イーストウッドの相手役の女優がなんでこんな女優ばかりなのだろう?彼は本当は女性に嫌悪感をもつ監督なんじゃないか、と疑ってみたくなるのと似ているかも。
それはまぁ女優さんの罪ではなくて、この映画での坂井真紀はとてもいい演技、いい表情を見せてくれています。
この映画にはいくつか素敵なシーンがあって、私が一番好きなのは、ほとんどラストに近いシーンで、藤巻が祭の場で修羅場を演じたあと二人で手に手をとって逃げ、電車に並んで座っているときの、ノンこの表情をアップでとらえているシーン。
このシーンのすべてを振り捨てて晴れ晴れしたノン子の表情は本当に惚れ惚れするようないい表情ですし、思いを巡らせるうちに、その表情にふっと翳がさしてかわっていくのをそのままとらえているところ。
それから、これはこの映画を見る人はだれもがいいな、と思うでしょうし、つくる側もここはぜひ見せたくて撮っていることが誰にもわかるようなシーンですが、逃げた一匹のひよこを追っかけてノン子とまさるが花畑の中を右往左往して走り回るシーン。意地悪な見方をすればこれは常套手段というのか、少し見え透いていてあざとい、という印象がなくもないけれども、素直にみて楽しい。
それはラストの、たぶん藤巻のひよこが大きくなった鶏を、もう鬱々としたダメ女を卒業したかのようにさっぱりした表情、さっぱりした服装で自転車を走らせているノン子がみつけて追っかけ、捕まえるシーンにつながっていて、このラストもわざとらしいといえばわざとらしい、作り過ぎの印象を与えないといえば甘すぎるでしょうけれど、甘ちゃんの素人映画ファンの私としては心地よく見終わりました。
それから、似たようなシーンですが、藤巻に肩車してもらって、ノン子がおみくじの紙を高い樹の枝に結びつけるシーン。
こういうほっとする、心のなごむシーンが挿入されているから、鬱陶しい表情やシチュエーションのほうも生きてくるというのは確かでしょう。
何回か登場するこの山間の地方を走る電車とその背景をつくっている山の緑の風景も素敵です。
こんな田舎だからバツイチになってノン子が帰ってきた実家の父親のキャラや妹や周囲の人間の様子も理解はできるけれど、そこへ闖入してくる藤巻という若い頼りなげな青年が、こんな田舎の神社のお祭りに露店を出したいというのはさっぱり理解できません。なぜわざわざこんな山の中のおおいなかまでやってきて、ひなびた神社の祭でヒョコなんか売ろうというのか。彼の過去はなにも描かれないから観客には合点がいきません。
たしかにこの映画はノン子の視点で描かれているので、彼は単なる突然の闖入者で、どういう経緯で何を考えてこんなところまで来たのかはどうでもいい。ただ突然の闖入者でありさえすればいいので、それがノン子との出逢いで、ある種のリリーサー(解発因)としての役割を果たしてくれさえすればいい。ノン子が囚われているものから彼女を解き放ってくれさえすればいい、ということなのでしょう。
その役割があんまりさりげないのではドラマとして変化がなさすぎるので、藤巻くんが祭りでチェーンソーをかかえて大立ち回りを演じるのが、あとのカタルシスを呼びこんでいるわけで、これはこれで定石的な演出ながらいい展開です。
鶴見辰吾も実にいやらしい男の表情を演じ、彼も身体を張って(笑)いやらしい男を演じることで、坂井真紀が裸をさらして体当たりでみせているノン子の切ないまでのどん底のみすぼらしさを強調する役割を果たしていて、ラスト近くでのすべてフェイクだったことを露呈させる土下座シーンまで、ずっと藤巻と対照的な位置からノン子の現在を浮き彫りにしています。
そうそう、藤巻くんの大暴れでひっくり返ったひよこ箱から沢山のひよこたちが溢れでて神社の境内に広がるシーンも鮮やかでしたね。全部がひっくり返り、露出され、ノン子の中につっかえているものが解き放たれる瞬間を黄色い無数のひよっこたちが象徴しているいいシーンでした。
しかし2つの男女の濡場のシーンは、ともに男女の性というのはこんなにもみすぼらしい、どこか滑稽で哀れなものなのかと溜息がもれるような光景です。それはこの映画のノン子(のぶ子)の状況にはふさわしいものでしょうけれど、振り返ってこの監督の幾つかの作品の女性の描かれ方や男女の絡みのシーンを思い起こすと、この人は女性を、あるいは男女の性をこういうふうにしか描けないんじゃないか、とちょっと疑ってみたくなるようなところがないでもありません。
クリント・イーストウッドの相手役の女優がなんでこんな女優ばかりなのだろう?彼は本当は女性に嫌悪感をもつ監督なんじゃないか、と疑ってみたくなるのと似ているかも。
それはまぁ女優さんの罪ではなくて、この映画での坂井真紀はとてもいい演技、いい表情を見せてくれています。
この映画にはいくつか素敵なシーンがあって、私が一番好きなのは、ほとんどラストに近いシーンで、藤巻が祭の場で修羅場を演じたあと二人で手に手をとって逃げ、電車に並んで座っているときの、ノンこの表情をアップでとらえているシーン。
このシーンのすべてを振り捨てて晴れ晴れしたノン子の表情は本当に惚れ惚れするようないい表情ですし、思いを巡らせるうちに、その表情にふっと翳がさしてかわっていくのをそのままとらえているところ。
それから、これはこの映画を見る人はだれもがいいな、と思うでしょうし、つくる側もここはぜひ見せたくて撮っていることが誰にもわかるようなシーンですが、逃げた一匹のひよこを追っかけてノン子とまさるが花畑の中を右往左往して走り回るシーン。意地悪な見方をすればこれは常套手段というのか、少し見え透いていてあざとい、という印象がなくもないけれども、素直にみて楽しい。
それはラストの、たぶん藤巻のひよこが大きくなった鶏を、もう鬱々としたダメ女を卒業したかのようにさっぱりした表情、さっぱりした服装で自転車を走らせているノン子がみつけて追っかけ、捕まえるシーンにつながっていて、このラストもわざとらしいといえばわざとらしい、作り過ぎの印象を与えないといえば甘すぎるでしょうけれど、甘ちゃんの素人映画ファンの私としては心地よく見終わりました。
それから、似たようなシーンですが、藤巻に肩車してもらって、ノン子がおみくじの紙を高い樹の枝に結びつけるシーン。
こういうほっとする、心のなごむシーンが挿入されているから、鬱陶しい表情やシチュエーションのほうも生きてくるというのは確かでしょう。
何回か登場するこの山間の地方を走る電車とその背景をつくっている山の緑の風景も素敵です。
こんな田舎だからバツイチになってノン子が帰ってきた実家の父親のキャラや妹や周囲の人間の様子も理解はできるけれど、そこへ闖入してくる藤巻という若い頼りなげな青年が、こんな田舎の神社のお祭りに露店を出したいというのはさっぱり理解できません。なぜわざわざこんな山の中のおおいなかまでやってきて、ひなびた神社の祭でヒョコなんか売ろうというのか。彼の過去はなにも描かれないから観客には合点がいきません。
たしかにこの映画はノン子の視点で描かれているので、彼は単なる突然の闖入者で、どういう経緯で何を考えてこんなところまで来たのかはどうでもいい。ただ突然の闖入者でありさえすればいいので、それがノン子との出逢いで、ある種のリリーサー(解発因)としての役割を果たしてくれさえすればいい。ノン子が囚われているものから彼女を解き放ってくれさえすればいい、ということなのでしょう。
その役割があんまりさりげないのではドラマとして変化がなさすぎるので、藤巻くんが祭りでチェーンソーをかかえて大立ち回りを演じるのが、あとのカタルシスを呼びこんでいるわけで、これはこれで定石的な演出ながらいい展開です。
鶴見辰吾も実にいやらしい男の表情を演じ、彼も身体を張って(笑)いやらしい男を演じることで、坂井真紀が裸をさらして体当たりでみせているノン子の切ないまでのどん底のみすぼらしさを強調する役割を果たしていて、ラスト近くでのすべてフェイクだったことを露呈させる土下座シーンまで、ずっと藤巻と対照的な位置からノン子の現在を浮き彫りにしています。
そうそう、藤巻くんの大暴れでひっくり返ったひよこ箱から沢山のひよこたちが溢れでて神社の境内に広がるシーンも鮮やかでしたね。全部がひっくり返り、露出され、ノン子の中につっかえているものが解き放たれる瞬間を黄色い無数のひよっこたちが象徴しているいいシーンでした。
saysei at 15:31│Comments(0)│TrackBack(0)│