2016年06月30日

柄谷行人『憲法の無意識』を読んで

 20代のころロンドンからそろそろ帰国しようと考えて、イタリア人の友人に話したところ、、そんな遠いところへ行ってしまったら、もう君は終わりだ、と世界の辺境へ去ってしまうような言い方で引き止められた。向こうにいるあいだに、そういう彼らの感覚はなんとなく理解できる感じになっていた。そうなんだろうな、彼らから見ればまったくそのとおりだろうな、と。

 それはこれだけ交通が発達して世界がほとんど1つになったとか、情報通信が発達した情報化社会で地球はひとつだ、などという脳天気な認識とはまったくちがう実感だった。けれども私自身はそのころ異国をさまよいながら、日本のほうばかり見ていたような気がする。ナショナルな心情に冒されていたわけでもないし、懐郷の念にとらわれていたわけでもなく、洋より和が好きなんて感覚もなかった。それにもかかわらず、なぜか自分は日本語と、日本的な空気の中でしか生きられないような気がしていた。 コスモポリタンな生き方に魅力を感じず、あこがれもなかった。

 ロンドンを出て半年ほど放浪した末に帰国し、彼に云わせれば私は「終わってしまった」わけだ。日本に帰ってきていろんな人の本を読んだ。就職して日本ではよく名の知れた知識人たちとも身近に接した。ある学者は自分の著作の仏訳がパリの書店に出たことを、「日本の思想家の著作がレヴィ=ストロース の著作と並んでいるんですよ」と誇らしげに言った。私はこの人はある分野の専門家として優れているのかもしれないけれど、まったく思想音痴なんだな、と思わずにいられなかった。

 日本の思想家の本を翻訳して欧米へ逆輸出すればいい、という人がいた。自分で外国語にできなければ翻訳家に頼めばいい、と。もちろんそれはそれほど難しいことではないだろう。でもそれが何だろう?と思った。そういう人たちにとっては思想もなにか電化製品や車と変わらない文明の利器で、こちらにこんないいものがありますよ、さあ使ってみて、とPRすれば、おぉ、ワンダフル、とたちまち普遍的な意味をもつようなものであるようだ。

 こういう目で眺めていて、ずっとちぐはぐな印象、うまく論理的な言葉にできないけれど、馬鹿馬鹿しい、と思い違和感を持ってそんな人達の書物を読み、接してきた。その中で、そんな違和感なしに読める人は吉本隆明という思想家だけだということにあらためて気づいた。あとはただ自然過程にすぎない知的上昇を、ちょうど社内での出世が自慢の鼻持ちならないエリート社員のような連中にすぎなかった。吉本という思想家だけが、世界へ足を運んだことも(私の知る限り)ないのに、なぜか外国かぶれの語彙を武器にしているような知識人たちがまるで脳天気に気づかない、その目もくらむような落差に気づいているたった一人の「考える人」だ、ということが若くて未熟な自分にも直観的にわかった。

 イタリア人の友人からみて「終わってしまった」自分の立ち位置を正確に測ることができたのは、この人の言葉だけだな、と感じた。
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 いま憲法論議がようやく喧しくかわされるようになってきた。憲法を改定して本音のところ自分の国を自分で守ることのできる国防軍を持ち、 またもちろん集団的自衛権をしっかり明記して国防に不可欠な軍事同盟を結んで相互の安全保障をゆるぎなくする、おそらくはその路線でわが国の国際的なプレゼンスを高めるために、北朝鮮と同じだけれども核武装にも踏み込む、たぶん保守派の最右翼はそのへんまでの長期展望をひそかに胸のうちには持っているのだろうし、そのために邪魔っけな9条だけでなく、憲法前文や各条に染み込んでいる理想主義的な平和志向や個人主義的な人権思想の匂いを全部とっぱらって、パワー・ポリティックスに立つ国家主義的な骨格や共同体へのロイヤリティを強調した文言で染め上げたい、というのが本音だろう。

 それでまずその突破口としての9条のところで、前哨戦が起きている。潜在的には第二次大戦後、朝鮮戦争と冷戦時代の米国による対日政策の転換からあと、ずっとそれは継続されてきた。それで、この柄谷の本にも引用してあるが(私も昔読んだことのあるエピソードだ)、敗戦直後には、共産党が自衛の軍隊まで失くしてはダメだと主張し、吉田茂が首相答弁で、いかなる国も自衛の名のもとに戦争をはじめなかった国はないので、自衛のためと称して軍隊を持つこと自体を禁じなければダメだと言い、いまそれがちょうど180度回転してそれぞれ正反対のことを言っている、というところまで来た。

 私はもちろん、保守派が本音のところでそう思っているかもしれないように日本が核武装したところで、別に国が守れるとは思っていない。そのことによってかえって日本は孤立するだけだろうし、無力な極東の島国であることを思い知るだけだろう。また、中国などはとうに長期的には日本の核武装は前提で考えているだろう。 

 けれども、こういうパワー・ポリティックス的なカウンター論理としてではなく、柄谷のこの本の言うところは、フロイトを援用しながら、日本人の集合的な「無意識」がこの9条の反戦条項を含む憲法を支えているので、「意識」として顕在化していたらとうに取っ払うことができただろうけれども、いくら保守政党が多数を占めたところで憲法を改定することができっこないのだ、ということらしい。憲法改定には国民投票が必要だから、それをやれば必ず改定は拒否される、という。

 はたしてそうだろうか。いますぐ9条を改定する、とっぱらう、という選択肢を掲げて国民投票をやれば、自民党は負けるだろう。けれども、国を外国の無法な侵攻から守るための緊急事態にも対応できない憲法ではだめだから、あるいはもう少し個人主義的色彩を弱めて共同体に奉仕する義務も入れましょうよ、というソフトな構えで、まず憲法を改正していいかどうか、ということだけを争点としてやりましょう、あとこまかい条文の検討はゆっくり審査会で検討して決めていきましょう、そこは専門家に任せるから国民投票は要りません、という具合に進むことはできない?いくらなんでもさあ9条の非戦条項を撤廃するか否か、という争点で選択を問いはしないでしょう。

 超自我は絶対的であるかどうか。超自我が外れるのはどんなときなのか。

 そもそもフロイトが個人の、いや吉本さん流にいえば対幻想の問題として定式化した自我とかエスとか超自我の話を、無造作に共同体の、つまりは共同幻想の話にぽんともってきていいものかどうか、とは思うけれども、私のように観念的な人間には、こういう「論理」というより、ある種の妄想的な喩のように感じられる見解というのはとても面白いし、なぜ第二次大戦後しばらくしてから米国も保守派も50年も60年も 武装日本を作りあげて共産主義への防波堤にしようとしてきたのに、なぜできなかったのか、ということへの納得できる答えがなかったことに対して、直観的にぴったりはまるような喩だと感じる。

 戦争は二度といやだ、という体験したものの思いが風化していくはずなのに、なぜこういう桁外れ、オクターブが一段も二段も高いような「理想主義的な」憲法を改定できないのか。保守派はそれは米国の軍事力の傘に守られて平和を無自覚に享受してきたからだ、というような答え方をするだろうけれど、そういう既得権に慣れて平和ボケしている、という保守派の言い分もそれほど説得力をもたない。

 では米国がトランプ大統領になって今よりずっと内向きになり、 日本が費用負担しない基地を引き払っていって、尖閣諸島に中国が侵攻してきたら、私たち日本人はたちまち憲法改定に傾き、9条を撤廃し、防衛軍を組織し、核武装を、と言うようになるだろうか。それしか道はないだろうか。

 パワー・ポリティックスの考え方からはそれが「現実的」な道行になるのかもしれない。しかし、それはそれで、多少時間的な猶予を私たちに与えるかもしれないけれども、確実に滅びに至る道だろう。また、あの友人の目のように、諸国の目には、辺境の島国が「終わってしまう」だけのことだろう。

 私は学生時代にいわゆる「反戦デモ」に類するような意思表示を、ベトナム戦争たけなわのころだから、したことがある。そのころから、この憲法の問題は、つねに保守派の攻撃にさらされ、いわゆる革新政党の側は平和を守るということと、保守派を保守反動と罵ることについては別にどうということはなかったけれども、じゃお隣さんが攻めてきたらどうするんだ?というパワー・ポリティックス的な問いに対して、まともに同じ次元で答えられないという弱みがあることに、直観的にはずっと気づいていた。それは誰だってそうだったろうと思う。

 そういういいかげんさを自分たちに許していたのは、まだ「革命」を経てきたソ連や中国の歴史的進歩性というものに日本の進歩的知識人たちの多くにも、学生だった私達にも幻想が残っていたからだと思う。

 保守派のほうがどうみても論理的には現実的にみえ、それに反論する進歩派の非武装中立論は理念的で非現実的 にみえた。それは保守派を嫌う立場からは、いつか正面から見据えて現実的な反論ができなければおかしいのではないか、しかし「現実的」な議論の地平に引きずり込まれると負けてしまう、というジレンマを抱えていたと思う。

 そういう長い時間の中での経緯を振り返るとき、柄谷の仮説は直観的な根拠を与えてくれるようにみえる。

 私は別に国士的キャラの人間ではないから、これからの日本、なんて考える柄ではないけれども、イタリアの友人の目に「遠い辺境に去って終わってしまう」人間とうつる自分にとって、何ができるのか、どんな存在でありえるのか、と考えてみれば、いまではこのあらゆる戦争を放棄する、という世界に類のない条項をもち、1オクターブ高い「理想主義的な」平和主義と人権主義で染め上げた憲法の言葉を世界へ差し出す以外にない、という柄谷のこの本の、こんどは贈与論を武器にした独特の論理から導かれた結論に賛意を表したいと思う。

 柄谷は別途進めてきた人類史にみられる交換様式についての巨視的な考察をベースに、日本国憲法を差し出すことが国際社会に対する贈与であり、その純粋贈与はいわばどんな権力、武力よりも強い呪力のような力を持つのだと言っている。実に面白い。彼の交換様式論をまともにたどる用意はないけれども、この「理想主義的な」日本国憲法が、逆にそれゆえに現在の世界にあっては現実的な力を持つのであって、保守派が考えるようなパワー・ポリティックスに立脚した憲法などは逆に非現実的なものにすぎない、という鮮やかな逆転が、目から鱗が落ちるように、直観的に真実だと思わせるだけの魅力を持っている。

 現在の日本を30年代の再来のようにみなすのは誤りで、日清戦争、日露戦争前夜の光景の再来なんだ、という60年ごとの「平和」な時代と「帝国主義」の時代が交代するという120年サイクル論をもっとはるかな昔にまで遡って展開するくだりなども、ちょうど大学に入った頃英語の授業で読まされたトインビーの歴史の研究のエッセンスのように気宇壮大な話で、こちらにその当否をあげつらう知識も見識もないから、ほんまかいや、と眉に唾つけながら読みはしても、これまた大層面白い読み物だった。

 柄谷のほかの著作は論理的な厳密さを数学基礎論のように追い詰めるかのような反復的な、迷路を堂々巡りするかのような文体でまことにたどるのが一苦労だけれども、今回の新書は、いくつかの講演を編集してつくられたようで、その分口頭で一般の人にわかりやすく伝える配慮があるせいか、珍しくわかりやすく、楽しんで読めた。
 カント、フロイト、マルクス、ウォーラーステイン等々と歴史的な思想家に寄り添いながら、それらを特定の分野の専門家としてではなく、連想結合的に思考の通底する部分で自在に引っぱってきて展開する叙述や柄谷自身の展開してきた交換様式論などをベースにした展開は、こういう抽象的な思考に慣れない人にはわかりにくいかもしれないけれど、少し慣れれば、先に述べたような妄想的喩のような観念の網で従来の考え方や史実を捉え返すことで、目から鱗のように、非現実的に見えた憲法がとてもリアルな存在感を持つものに見えてくるかもしれない面白さがあるので、若い人にはおすすめ。

saysei at 00:57│Comments(0)TrackBack(0)

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