2016年06月29日

いまおかしんじ監督「つぐない~新宿ゴールデン街の女~」

 新宿ゴールデン街で小さな飲み屋「罪ほろぼし」を営む年増の女、霞(かすみ)の店。常連が他愛無いやりとりをして騒いでいる中、このへんではみかけない女が店の周囲にそぐわない、いかにも訳ありの女といった感じで座っている。

 

 これが、自分を裏切った愛人を殺そうとして、その男の女を殺してしまって刑務所に入り、刑期を終えて出所した女、東子(とうこ)。

実家山梨へ帰ろう帰ろうとしながら、「なんとなく」新宿ゴールデン街で飲み屋を経営する霞(かすみ)の紐になっている男(郡司)のところへ戻ってきてしまったのだ。

 

彼女はいわば現在という時間に突然闖入してきた過去であって、淡々とした日常の淀んだ流れに放り込まれた小石のように波紋を生じる。

すねに傷持ちながらそれを隠し、そのことに互いに触れないことを暗黙のルールに、顔見知りと慣れ合いの笑顔を交わし、言葉をかわし、ともに食べ、ともにセックスをし、退廃的でもあり、どこか逞しくもあるようなこの街の住人たちの日常生活に投げ込まれた異和のように。

 

 かつての愛人郡司は彼女に、何しにきたと冷たく言い放ち、二度と来るなと拒む。しかし東子はすぐに実家へ足を向けることができず、彼女につきまとう女たらしの山科という男にずるずると付いて行き、関係をもったり、かすみの店を再度訪ねたり、ゴールデン街を徘徊する。彼女はこの街でどこにも居場所がない。

 

 ただ受動的に女たらしに連れられ、郡司の過去に引き寄せられて、この街をあてどもなく徘徊するしかない。実家へ帰ろうとしながら帰れず、男を、この街をふっきれないでいる女の気持ちがふっきれるまでの話だ。でも、よくできている。

 

 人間はだれしも多かれ少なかれ、この街の住民に似て、あばかれたくもない、忘れてしまいたい過去をひきずりながら、それを隠し、自分でも見ないようにして生きている存在なのだろう。

 

それでも過去は消し去られてしまうことをいわば生理的に拒む。霞という女はちょうど東子が刺し殺した女とおなじように、腹に刺された深い傷跡があり、それを交わる男にいたぶられると極度の快感か耐え難い苦痛か境が無くなるかのように肉体が激しく反応する。

 

霞を抱く郡司の行為は彼の生きるしたたかな日常性の強い存在感を伝えてくると同時に、その物狂おしい行為のありように、彼自身の引きずる過去が強いる生理のようにも見え、ある種の切なさを感じさせる。

 

私たちこの作品を見る者は、そうやって過去を引きずり、過去にある種の生理的な痛みを強いられながら、そのことを隠し、現在をひっそりと、でもその生理を養うためにめしをくらい、セックスに励んで、或る意味で逞しく生々しく生きている彼らの姿に、小さな「つぐない」を積み重ねながら生きている姿を見て取ることができる。

 

そして、東子が山科の実家へ帰ることを決意して、最後にナイフを握る手の形をつくり、送ってきた郡司にぶつかっていく素晴らしいラストシーンに、東子が男の「つぐない」の日々を納得して自分の思いをふっきったことを、或る愛おしさとともに理解する。

 

 彼らの「今」は、日々一緒に食事をし、一緒にセックスをし、客を相手に愛想笑いしながら他愛無い馬鹿話をして過ごす、バタ臭い日常生活を生きるだけ。私が一番好きな場面は、郡司と霞が狭い部屋の食卓で向き合って、まるで愛しあう平穏な夫婦のように食事をする場面だ。けれど、その二人の間にも、別に揺るぎない安定した愛情とそれに裏打ちされた生活などがあるわけではない。

 

 東子はこういう彼らの表面からは隠されてきた生理を呼び起こし、ささやかな波紋を生じる。なぜいまごろになって、忘れてしまいたい過去をほじくり返す?それが郡司(たち)の戸惑いと拒絶の言葉だろう。それでもうずく生理があり、揺れ動く心があって、波紋が広がる。

 

 過去の生々しい映像があるわけではない。生々しい形で過去が現在に侵入してくるわけでは、もうない。東子の居場所はもうない。女たらしの自堕落な男の相手をするくらいしか、いまの東子の居場所はない。それはただ東子を傷つけるだけだ。(その男も放火をしてそのことを隠してきた過去を引きずっているのだが・・・)

 

 一方、霞は、つねづね自分が好きだ、と公言していたなじみ客の若いエリートサラリーマンの気持ちに沿って、彼が一人で住む家に行き、交わるが、彼を拘束もせず、彼に拘束もされず、これまでどおりの距離感をきっちり保とうとする。そこにあるのは愛でも裏切りでもない。いまという時だけを生きる若い男を、今と過去を同時に生きる自分の世界へ引き入れることを潔しとしない、むしろ潔癖なけじめがある。

 

 両方の世界、見に見えない境をまるで目に見える境界線があるかのように、くっきりと区別し、立ち入らず、立ち入らせない。これは郡司が東子を拒むのと同じだ。東子は完全に過去に生きているが、男は過去をひきずりながら現在に生きようとするから、東子を拒んでいる。

 

 郡司も霞も過去を引きずりながら現在を生きるしかない。その現在は彼らの食事の場面やセックスの場面になによりも生々しい存在感をもって表現されている。この日常の強さが、“劇的であること”を拒んでいて、過去の重さと拮抗している。それは同時に、この作品がセミポルノとして作られながら、ポルノで終わることを拒んでいる。 



saysei at 12:38│Comments(0)TrackBack(0)

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