2016年06月26日

キム・ギドク「殺されたミンジュ」は・・・

 映画館でみないでDVDで見てあれこれ言うのもどうかと思いますが、あまり大きな画面で見たくない映画というのもある(笑)。

 冒頭に少女が複数の男たちに追われ、残酷な殺され方をするシーンが置かれ、そこまでは犯罪もの、刑事ものの映画でありきたりのシーンのように見ていて、いやだけれども現実には日々起きているような事件ですね、と見ていられるけれども、そこからがこの監督のいつものあらぬ方向へぶっ飛んでしまうような、非現実的な設定と、これでもか、これでもか、というショッキングな暴力シーン。

 少女を殺した男たちをひとりずつ捕まえては、五寸釘みたいなのが突き刺さった棍棒でぶん殴ったり、汚れた便器の水に頭を押さえつけて無理やり入れて溺れさせたり、電流拷問機械にかけたり、金槌で思い切り狂ったように手の甲を叩いて叩き潰したり、足を動けなくして五体を割くほど鎖で上半身をギリギリ 引き上げたり、まぁありとあらゆる拷問をして、それぞれ一枚の紙に、少女を殺した日に自分が何をしたかを書かせる、ということの繰り返し。

 少女を殺した犯人たちはみな「上の指示でやった」という、どうやら一本の線でつながる権力のヒエラルキーの末端から上へたどっていけるような連中らしく、これが最後のやつかと思えば、その彼もまだ「上の指示」と言う。

 他方、彼らをいためつける側は、最初は米軍の進駐軍(なつかしい言葉!・・笑)のような格好をしているから、そんな連中かと思えば、ヤクザの格好をしていたり、韓国軍の情報部の連中であるかのように相手が誤解するような服装であったり、色々「変装」(と作品の中で登場人物が言う)している。要するに全部フェイク。

 だけど、やっていることは相手の肉体の部分を潰すようなあからさまな暴力だから、やるほうの精神にも反作用があるし、見ているこちら(観客)のほうもフェイクとはいえない「痛み」がある。

 だんだんと復讐?するほうの得体のしれない、寄せ集めの連中の間で、中心人物であるチーム長についていけない若者が出てきて、最後は四分五裂、チーム長一人になってしまう。彼は街を見下ろす山の岩の上で座禅を組み、溜め込んだ「痛み」を、絶叫して吐き出しているときに、そこまでの暴力の権化みたいな彼の跡を継いでいくだろう 若者に殺されてしまう。

 必殺仕置人みたいな拷問チームの連中だが、先の少女を殺した連中のようなヒエラルキー的組織を構成せず、一見そう見える(最初は反共武装組織みたいにみえ、そんな掛け声もかけあっていたから)けれども、契約みたいな形でルールを決めて集まってきた(チーム長が集めてきた)寄せ集めの気弱な連中で、昼間の日常生活の中では 強者にいつも暴力を振るわれたり軽んじられて自尊心をずたずたにされたりがんじがらめに拘束されたりしている弱者だ。

 だからチーム長に暴力で支配されているわけではないし、それ以上やったら殺してしまう、殺したら大変だ、などと、やっていることとは裏腹な臆病なぼやきをチーム長の前で言うこともできる。このチームは「民主的」なのだ(笑)。

 だから、この連中が私たち自身の戯画ということになるのだろう。

 たしかにこの映画で繰り返される残虐なシーンは痛みを感じさせるし、その共有(共感)だけがこの監督の狙いなのかもしれないけれども、まともに見ていれば吹き出してしまうような戯画としての滑稽さを感じてしまう。でもそれは監督が狙ったものとは少し違う種類の滑稽さだという気がする。私たちが滑稽さだと思う部分で監督はむしろ大真面目なのだ。

 映画を専攻する映画学校や芸大の学生がつくる自主制作映画など(ごくごく稀にしか見たことはないが)を見ていて、ひどく残虐なシーンとかあるような大真面目な映画で、つい笑ってしまうようなところがある。普通はプロの映像作家なら決して残さないそういう尻尾が残っていて、作り手のねらいとは無関係にそのへんでにょろにょろとまだ尻尾だけ動いているような滑稽さ。私とは誰か?なんて・・・

 なにはともあれ、この映画は最初から最後までへんに理屈っぽい。社会批判めいたセリフがあったり、制作意図があったからといって、作品にハンディをつけて見てあげることはできませんよ、監督!どんなに苦しんで作ったかも関係ない。

 もちろんリアリズム映画ではなくて、この監督が他の作品でも特徴的な方法として採用している、一種の現代の寓話なのだが、率直に言って、寓話になっていない。 単なるベタな喩え話にしかなっていない。

 今までに見たキム・ギドクの作品の中で唯一、現代の寓話になっている、と思ったのは「悪い男」だけだった。そこにこの映画のような「喩え話」はない。

 あの映画も最初から最後まで暴力満開といった映画だけれど、へんな理屈っぽさも、ベタな喩え話もない。ただ男の狂おしいまでの女への想い、いや欲情と言っていいけれども、彼の肉体や性欲と吊り合わない、それを超越してしまうような、したがって、あくまでリアルでありながら、その極限で超越的な、むしろ聖なる、と言ってもいいような神の如き欲情に転化してしまうような想いが、ほかにどんな表しようもなく直接な暴力となって画面いっぱい炸裂する。

 女はそこでは徹底的に暴力に犯され、屈服させられ、汚され、汚辱の底へ沈んでいく。すべてを奪われ、頽廃と諦念の極限まで堕ちていく。そのときに観客の目にうつる光景に奇跡は起きる。そのとき女はほとんど聖マリアのように感じられる。

 「嘆きのピエタ」を映画館でみた時に、新聞でプロの映画評論家があまりべた褒めばかりするので、あれは褒められすぎ!とこのブログでつぶやいた記憶があるけれども、あれはそれほど悪い映画ではなかった。男優がとてもよかった。同じように現代の寓話だったけれど、中途半端なところが気に入らなかっただけだ。

 「悪い男」にはそんな中途半端なところがなかった。だから、それよりあとで作った「嘆きのピエタ」はもっといい作品を作れたはずじゃないか、という思いがあった。

 今回見た「殺されたミンジュ」はもっと最近の作品ではないだろうか。そうするとますます気に入らない。でも気になる監督なので(笑)次に新作が出たらやっぱり見るだろう。こんな気にさせるなんて、キム・ギドクは悪い男だ。こんどこそ、「悪い男」よりいい作品を作ってくださいね。 

saysei at 19:04│Comments(0)TrackBack(0)

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