2015年09月27日

スナップショット⑤ 田村隆一

 前の職場(シンクタンク)にいたときのこと。ある日突然、詩人の田村隆一が職場へやってきました。
 まだ職場が河原町御池の信用金庫支店の上の階にあったころのこと。市役所の斜交い向かいで交差点に面して建っており、祇園祭の山鉾巡行のときは山鉾が方向を変える辻回しをほぼ真上から見、その山鉾が御池通りを西へゆっくりと去っていくのを眺めることができる絶好の場所でした。

 

 職場には仕事の性質上、株仲間と呼ばれるわずかずつの株を持ってもらっている株主で実際的には必要なときにお金より知恵の方を借りることが目的の文化人、有識者がよく出入りしていましたが、詩人というのはいなかったし、田村さんとは縁もゆかりもなかったはずです。

 しかし、もちろんよく知られた詩人で私も彼の詩は読んでいたし、なによりも愛読していた吉本さんが通った今氏乙治塾のたしか先輩でもあったことで親しみを感じていたので、この突然の来訪は驚きであると同時に嬉しく、仕事を放り出して私も喜んでお相手をしたのです。

 

 「ここへ来たら旨い酒が飲める、ということだけ覚えていたんだ」と開口一番、彼は言い、めったに飲む機会もなく飾り物になっていた応接間のブランデーだったかウィスキーだったかをうまそうに飲みはじめます。だれかわが社に出入りする文化人につれられて一度か二度来たことがあるらしく、うちでは夜のアイディア会議の席などでは酒を酌み交わしながら気軽なサロンの雰囲気でやっていたので、それに味をしめたというわけです。

 

 それにしても、よく覚えていましたね、と私の同僚が驚いて言ったものですが、田村さんは、酒飲みの嗅覚だよ、旨い酒のあるところは、ちゃんと覚えている、というようなことを言って笑っていました。

 

一目見て、この人はその詩から伺えるとおり、すごく頭の切れるシャープな印象の人だな、と思ったのと同時に、その容貌・容姿に触れて、きっと若いころは女性にモテモテにもてた人だったろうな、と思いました。

 

 もちろん、私が遭遇したときは、もうシワシワのお爺ちゃんだったけれど、でもとってもダンディな紳士の面影は失せていませんでした。少しアル中気味の感じではあったけれど()

 

 その日も男子の学生が2人ついていて、「いまから大学で講演をしなきゃいけないから、見張り役でついてきているんだ。」と言いながら、結構グラスをあけて、お守りの学生さんが心配そうな表情でいつもうそろそろと声をかければいいかと伺っている様子でした。

 

 彼は饒舌でしたが、何を喋ったかは記憶力の悪い私はほとんど覚えていません。ただ、「さっきまで阿部昭と一緒だったんだ」というので、「それは残念、一緒に来て下さればよかったのに」と私が応じ、「いまの作家の中では阿部さんが一番好きです」と言うと、彼は居住まいを正すように「彼はほんものの散文家ですよ」と言いました。

 

 そのあと「ほんものの詩人はここに居るがね」とは言わなかった()。私がこの彼の言葉だけを覚えているのは、それまで好々爺のように笑顔で洋酒を飲みながら機嫌よく軽口を叩いていた彼が、阿部さんへのこの評言だけは、妙に生真面目に、若い私に教え諭すように、自分の文学的評価の本心で断定する、というように言い切ったからで、そのころ阿部さんの小説を片っ端から全部読んでいた私にはとても嬉しい評価だったせいでしょう。

 

 実際の時間にすればほんの20分か30分のことだったでしょうが、彼はお守役の学生を気遣うように、これで一息ついた、というようなことを言って立ち上がり、大学での講演に戻って行きました。ただそれだけの出会い、たった一度きりの遭遇でしたが、私には彼のダンディな姿がいまも強く印象に残っています。



saysei at 12:27│Comments(0)TrackBack(0)

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