2014年09月07日

ジョーン・ロビンソン『思い出のマーニー』

 映画を見た孫が、とっても良かった、と何度も言っていたので、映画をみたいと思っていたのですが、なんとなくずるずると仕事めいた野暮用に没頭して日が過ぎ、映画を見る気分になれなくて、気晴らしに原作のほうを、翻訳(松野正子訳)で読みました。上下2冊の本は、あとをパートナーにまわし、そのあと孫の手に渡ったので、一石三鳥というわけです。

 この物語を、実際に何が起きたのか、という正味の「現実」だけ透視するメガネで見れば、何一つ起きていない、といっていいほど動きの乏しい物語ですが、アンナの、そして作者のファンタジーの構成力が、マーニーが登場してからは、その長丁場をぐいぐい引っ張って行ってくれて、展開の乏しさを忘れさせてくれます。

  アンナは普通の意味ではとても不幸な少女。登場のはじめから身体ばかりか、心にはより深い傷を負っています。周囲の親切な人たちが差し伸べる手を拒み、自分を閉ざしているだけでなく、他者への目が意地わるく辛辣で、身近にこういう子がいたとすれば、なんて冷めきって表情のない、ひねこびた子だろう、と思うだろうような少女。彼女は自分を「捨てていった」母を怨み、他人の好意に甘えることを拒んでここまで育ってきました。

 その欠如が生み出した幻想がこの物語の本体を形づくっていると言ってもいいのでしょう。彼女が生きるためには、現実の致命的な欠如に拮抗するほど強力なファンタジーが必要だったに違いないからです。そのファンタジーを読むことは、同時に彼女の悲劇を解読していくことでもあります。

 そうして辿りつくのは、彼女の、だけではなく、彼女が自分を「捨てた」がゆえに怨んできた母親の、そしてまたその母親であるアンナの祖母の悲劇なのです。

 彼女自身が自分からさかのぼる三代の悲劇を知る時、私たち読者もまたこの悲劇の解読を終わり、そこから立ち上がってくるのは、それぞれに不可避の人生をけなげに生き抜いた人間の姿で、それは個別の、あるいはきわめて特殊な物語の主人公の生き方が私たちすべての人生に対して普遍性をもつかのように、ぴったりと重なり、わがことのように読み終えることのできる瞬間でもあります。

 アンナはそのような母や祖母の姿を知ったときに、なぜそれまでの「怨」の呪縛から、孤独から、解き放たれるのでしょう?また私たち自身も、アンナの認識の転換を既視感をもってわがことのように思えるのはなぜでしょう?昔の人たちが「運命」とか「宿命」と呼んできた、そうでしかありえず、そう生きるほかはない、あるいはそうして死んでいくことしかできない、そんな不可避性の中で、愛そうとして愛することができず、愛されたいと願って愛されることなく、深く傷つきながら、その傷を抱えてなお生きつづけ、人と関わりながら死んでいくのだということ。

 そのことに気づくとき、不可避性から、つまり「自由」とは正反対であるはずの「運命」や「宿命」から 、いつの間にか解き放たれているように感じる。その不思議さを思わずにいられません。




saysei at 00:21│Comments(0)TrackBack(0)

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