2011年04月04日
吉田修一『悪人』
2006年の3月から翌年1月まで朝日新聞に連載され、2007年の4月に単行本で出た作品で、420ページの分厚い単行本を買ったものの、小説は原則として通勤車中でしか読まないことにしていたので、どうしても分厚くて重いこの種の力作は文庫本のある古典でもないとなかなかカバンに入れていく気にならなくて、4年ほど「ツンドク」(積読)ということになっていた。
「ハル」以来、演技がうまくて好きな女優さんの一人である深津絵里が演じて映画化され、評判も良かったけれど、これも見逃して、今回DVDが出たので、先に原作を読んでおこうと思って、分厚くて重いのは我慢してカバンに入れた。
読み始めると、読みやすくて面白いので、重さを苦にする間もなく、一気に読んでしまった。純文学にしてエンターテインメント、といったところか。物語が一人の語りによって客観描写されるのでなく、順繰りに複数の登場人物の視点に寄り添って語られるために、何が起きたのかが当初はなかなか掴みにくい。各登場人物の日常に、語り手の視点が登場人物の視点とからみあって踏み込んでいくところで、一人一人の人物の日常性とそれを生きる人物像がリアリティをもって浮かび上がってくるけれども、その男がほんとうに殺したのかどうか、実際には何があったのか、彼はどうしようとしているのか、この作品の軸になるストーリーがなかなかクリアにならない。
そこに一種の推理小説的なサスペンス(文字通り読者が宙吊り状態にされる)が生じていて、先へ先へ読み進むことになる。ただ、その推理小説的ストーリーの軸だけみれば、終わってみればごく単純な、平凡といっていいような出来事の顛末であって、それを語ってもこの作品を語ることにはなりそうにもない。その意味ではこの作品は平凡なエンターテインメントにすぎない。
むしろ、そのような世の中にごくありふれた事件をなぞるようなストーリー(つまりは状況)の中にはめこまれた祐一、光代、増尾が、さらには殺された佳乃の父親である佳男や妻里子、さらには祖母房枝が、あるいは佳乃の友達沙里や眞子が、互いのやり取りの中でどんなことを思い、どう振舞うか、その一つ一つの細部に、平凡なようでいて平凡でないものがある。読者が読みながら、従ってまた作者が書きながら発見していく人間の心理の動きや思いもよらない振る舞いがある。そこのところがエンターテインメントに終わらないこの作品の価値を決めている。
佳乃はなぜ殺されなければならなかったのか。祐一はなぜ殺さなければならなかったのか。平凡なOLにすぎない光代はなぜ殺人者とわかってからも祐一と行動を共にするのか。娘を殺された佳男はなぜ、手は下さずとも実質的には娘を殺したも同然の増尾を追い詰めながら決定的な瞬間に凶器となるはずのスパナを捨てて立ち去るのか。そして何よりも、祐一はなぜ最後にこの作品のような振る舞いに及び、虚偽の証言をするのか。この作品を書いている作者にも、最初から登場人物たちのこういうものの考え方や振舞い方が分かってはいなかったのではないか。書いていくうちに彼らはそれぞれの振舞い方を見出して、結果的にこのように振舞ったのだ、と思える。そこに作者の発見があり、私たち読者を引き寄せ、先へ先へ読み進ませる力の源があるようだ。
この作品の登場人物の中で、そういう発見の乏しい、一番平凡な人物は増尾ではないかと思う。彼は、いまでは私たちの中にいくらでも見られる、こういう基本的に弱い人間、ええかっこしいのこずるい人間の一人で、ある種の典型的な人物像で、先日新聞をみていたら、読者の感想で一番嫌いな人物像の上のほうにきていて、増尾こそがタイトルの「悪人」だというようなことが書いてあった。それはたしかにそうかもしれないが、逆にこういう人物ならそこらじゅうにあふれていて、つまりは私たちの住む世界ではごく平凡な人物ということも言える。そして、考えてみると先程挙げたような主要人物を除く人々というのは、多かれ少なかれそういうごくありふれた世間の人々にほかならないことに気付く。
佳男が怒りをぶつけようとした増尾やその仲間たちも、殺された佳乃を含む仲良し三人組で眞子だけがある種の違和感をおぼえていた佳乃や沙里も、また孫の佳乃が出会い系サイトを通じてふしだらなことをしていたという世間の目に対して、あるいは悪質商法で脅しをかけてくる男たちに対して、腹をくくって立ち向かおうとする祖母房枝の戦おうとしている相手も、みな考えてみればいま私たちのまわりにいくらでも居るようなありふれた連中だ。逆にこれら多数の人物たちがギリシャ劇のコーラスのように背後にあって、その中でさきの主要登場人物たちだけが異分子としてくっきり浮かび上がってくる。
終わってみると、これら事件に関わりを持ち、ありえないような体験をする特異な登場人物たちこそが、リアリティをもった人間らしい人間としての像を結び、その背後に海のように広範に存在する、彼らを忌避し、排除し、惧れ、遠ざけようとしている、私たちの中にいくらでもあるごく普通の人々のほうが、得たいの知れない「悪人」に見えてくる。それは増尾だけではない。
「・・・でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」とつぶやく祐一の姿は、昔々見た映画「汚れた顔の天使」のジェームズ・キャグニーに重なって見えた。