2011年03月10日

湊かなえ『花の鎖』

 人気作家の最新作。職場にちょっとした縁があり、学生たちの間に憧れもあって、部屋に置いておくと誰彼となくもって行って読んでいるようなので、新刊が出れば必ず買って読んでいる。

 ただ、もともと推理小説好きという読者ではないので、少し辛いところがある。日本語として読みにくい文体ではないし、話の中身は糸がほぐれてみれば単純なので、わかりにくい小説ではないけれど、作者の書き方のせいでずいぶん読みにくかった。

 各章ごとに、3人の異なる語り手の視点で語られる。こういう手法では時間的には同じ時間帯を生きている異なる登場人物それぞれの視点で一つの事件が内在的に語られて、それらが全体として一つの客観的な事件の様相を浮き上がらせるとか、異なる視点で描かれてきた経緯の糸が一つに結びついて全貌があきらかになる、といったスタイルが一般的だろう。

 はじめ視点がかわるのを、そんなふうに読んでいくと、何が起きているのかがわからなくて、多少イライラする。
 この3人の生きている時間帯~世代~がまったく異なるところから来ているということが分かるのは、だいぶあとのことだ。

 これも推理小説の一種だろうから、ネタバレになるようなことは書かないようにしたいけれど、この書き方は形式的技法としては整然としてよく計算されたものだと思うけれど、読者が作品を読んでいく内的な体験としては、自然にその設定が頭に入ってこない。どこかひどく人工的で無理をしているようで、あまり心地よいものではない。

 自然な時間をたどるように「現在」の物語が進行し、その登場人物の記憶に、或いは語り手が振り返る先に、過去が、また大過去が見えてくる、というふうであってなぜいけないのかな、そのほうがずっと自然に心にしみる書き方ができるのにな、と思わないでもない。

 もしそんな「自然な」プロットで構成されていたら、この物語は登場人物たちのあいだの葛藤やそれぞれの喜怒哀楽にもっと深い錘を下ろすことができたはずだと思えるような中身を持っているのだけれど、そちらへ向かうべきエネルギーが、形式的なプロットの構成のほうに費やされているような気がしてならない。

 とくに殺人事件が起きるわけでもなく、通常の犯罪と言えるようなものが起きるわけでもないので、必ずしも作者はこれを推理小説として書く必要はなかったのではないか、というふうにも言えば言えそうだ。

 それでも、ストーリー展開のところどころを伏字にして作者や登場人物の一部には分かっている情報を読者と或る語り手に対しては伏せ、次第にそれを明かして最後に一切を明らかにすれば、一篇の「推理小説」ができあがるのだろうか?

 これは、私の、この作者に対する、というよりは、「推理小説」というもの一般に対する疑問、というか一種の不信のようなものなのかもしれない。作者は全知全能で、ゴールをちゃんと知っている。でも、そこに至る道筋をスリリングにするために、ところどころで読者を、登場人物を迷わせる迷路を設け、与えられるべき情報を伏せ、読者をサスペンス状態に置く。そういうものが「推理小説」なのか?

 そして、そんな仕掛けの多彩さを、新工夫を競うのが、「推理小説」としての価値評価なのだろうか?これが推理小説音痴の私の疑問。

 ただ、この作者の面白いところは、そういう形式的な仕掛けにエネルギーを注ぎながら、きっとそういうことよりも、人と人とがかかわりあうときの人間性の酷薄さのようなものに引き寄せられるところがあるのだろうな、と思える点だ。

 それはデビュー作「告白」以来変わらない持ち味のようで、この作品でも、陽介の和弥への感情、美雪の陽介への感情、紗月の希美子への感情等々、いたるところに、あの人間性の暗がりが垣間見え、酷薄な負の感情が見え隠れしている。

 いや、そんな負の感情は誰もが持ち合わせているものだろうけれど、そのことに何か意味があるかのようにアクセントを感じさせ、露出させるところが、この作者固有の問題だという気がする。

 

saysei at 01:18│Comments(0)TrackBack(0)

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