2011年03月09日

D.カークパトリック『フェイスブック』

 いま本屋に山積みされている本の一つ、『フェイスブック』を読んでみた。500ページほどの大冊だけれど、面白くて一気に読めた。

 その一因は、あきらかに主人公である「フェイスブック」の創設者にして、当初から今にいたるまで絶対的な権力を掌握してきた、マーク・ザッカーバーグの、これはシンデレラ・ボーイとしての出世物語として面白さにある。

 ハーバード大学の寮のどこにでもいそうなやんちゃな学生たちの間で生まれた、ごく内輪の、つまり大学ローカルな、いかにも学生が思いついて作りそうなつまらないソフトウェアから出発して、それが学生たちのニーズにフィットし、たちまち学内を制覇すると、他の大学をも次々に侵蝕して、やがて学生という範疇を超えて一般へ、ビジネス利用へと広がって世界中で5億人もの利用者を獲得していく、彼ら自身の予想をも超える激烈な成長の過程が、その中心にいるザッカーバーグと、当初から彼のパートナーで、その後様々な運命をたどる創立メンバーや、後に加わって重要な役割を果たす人物、さらにはこの成長企業をまるごと買い取ろうと接触を試みる既成の大企業の大物経営者たちなどとの人間ドラマとして、生き生きと描き出されている。

 きっと、『昔話の形態学』のウラジーミル・プロップが抽出してみせた古今東西の物語を構成する要素などと照合してみたら、現代のオトギバナシとして典型的な要素を持っているに違いない。いまの世の中にもこういうことがあるんだな、と思わせるほど、それは現実離れした、オトギバナシの世界のできごとのような典型的な成功譚であり、出世物語だ。

 このオトギバナシの面白さの核心には、ザッカーバーグの人柄がある。そこに描かれている彼はほとんどビジネスマンではなくて、この世にあるかどうかもわからない宝ものを必ずあると信じ、その至宝を求めて放浪の旅に出る理想家膚の探検家のようなものだ。

 彼は、繰り返し襲い掛かる苦難に立ち向かいながら、同志たちとともに戦い、ときに動揺する同志たちに対して断固として当初の志を貫く、動かない定点の役割を果たし、北極星のように同志たちを導いて、ついに宝物を見つけ出すに至る、ドラゴン・クエストのようなゲームの世界の主人公といったほうがいい。

 けれども、これはフィクションではなくて、現実に起きたことなのだ。だから、この本の面白さのもう一つの側面は、言うまでもなく、彼が巻き込まれる(あるいは自ら引き起こす)一つ一つの波乱の中で、彼がどんな現実的困難に直面し、それをどんな姿勢、どんな具体的な処方によって、道を切り開いて行ったか、というビジネス上の判断の的確さ、その時々の状況と、それが強いる岐路と、そこで彼や彼のパートナーたちが採ろうとする選択肢、等々が、一種の優れたビジネス戦記として、たぶんビジネスに関心のあるすべての読者にとって同時代的な経営学のケーススタディ的なテキストとして読まれる可能性にあるだろう。

 この両方がうまく組み合わされて、稀に見る面白い読み物になっている。

 私にはヤフーが150億ドル(1兆5千億円)の値をつけた企業の絶対権力を持つザッカーバーグの、学生時代から一貫した超理想主義的なキャラクターがとても興味深かった。彼は利益よりも利用者の伸びに関心があり、それはフェイスブックが世界的な企業となっても変わらず、企業としてはシェリル・サンドバーグが来てから広告を軸とした収益構造を確立したとはいえ、サンドバーグ自身は終始、広告への関心が希薄だった、というのが面白い。

 どうやら彼は本気で、事実にもとづく情報の開放性、透明性を保障することが人々の平和、社会の改善への道だと信じているらしい。フェイスブックにおける数々の躓きも、彼のこの理想主義的な思いが先走った結果と思われる点がいくつも見出される。

 最初、フェイスブックはハーバード大学の学生間で、自分が履修しようと思う講義をどの学生が受けているかを知りたい、という学生の欲求や、こうしたメディアの発展の裏の世界での推進力としてしばしば言及されるセクシャルな動機付け(セックスパートナーを見つける手段としての「ボーク」)などによって受ける。そうした欲求は、実名主義と写真の投稿によってこのシステムの用意する世界で解き放たれ、フェイスブックは爆発的に普及していく。

 すでにこの初期の段階から、私(たち)は首をかしげたくなる。フェイスブックに実名で写真を投稿する学生たちは、そうした個人情報を公開することに不安はなかったのだろうか、と。むろん、ハーバード大学というエリート校内部の閉鎖的なシステムとして用いられ、しかも利用者が個々に公開相手を限定する設定は可能だ、としてもだ。

 実際、後に「ニュースフィールド」の機能を付け加えて、友人たちに自分のプライベートな行動の一部始終が伝えられるようになったとき、ユーザーたちからかなり大きな反発が起きる。これはその後も様々な機能が付け加わるたびに繰り返されるプライバシーとフェイスブックのシステムの原理との基本的な矛盾が露呈したものだと思う。

 ザッカーバーグ自身は前述のような理想主義的な「情報透明」の世界を思い描いているために、まだ世界のユーザーのほうがそうした事態になれていないだけで、当面は情報公開を個々に制御し得る歯止め措置を講じることによって、長期的には正面突破できる、と考えているようだ。

 その点は読んでいてかなり大きな疑問として残った。私自身はフェイスブックを使っていないし、いまのシステムがどこまでそうした歯止め措置が整備されているか詳しくはないから評価できない。ただ、この本で少しずつ紹介されている個人情報の不本意な流出によるトラブルの事例を垣間見るだけでも、それは少数例として看過できない深刻な問題であるように思われる。

 むろん5億人による天文学的数字になるだろう情報のやり取りの中で、そうした問題は統計的比率としては無視しえるほど僅かな生起確率であるのかもしれないが、そうした「事故」に遭遇するユーザーにとっては致命的な深手を負うようなものである可能性が小さくないと思われるからだ。

 フェイスブックを解説した別の本によれば、日本でもフェイスブックというシステムの性格について論議があったようだ。発祥地の米国では、フェイスブックは親しい友人の範囲の間での情報共有に使われていて、それは他のSNSとは異質だ、という意見に対して、それは事実認識として誤っていると反駁している人もあるようだ。

 カークパトリックのこの本を読む限りでは、当初は大学内の親しい友人間での情報共有という性格が強かったかもしれないが、様々な機能拡張を繰り返し、ユーザーを爆発的に広げていく過程で、そのつど情報公開の範囲を制御する機能を付加してはいるけれども、決してそれはもはや「親しい友人の間での情報共有に限定した使い方がされている」とは言い得ないし、システムとしてもそういう使い方が保障されていない、つまり個人情報の遺漏、プライバシー侵害という問題は、いまもフェイスブックにつきまとうカインの額の烙印のようなものである可能性が高い、と感じざるを得ない。

 日本でもここ半年くらいの間にバタバタとフェイスブックの概説書のようなものが何冊も出版され、フェイスブックの成長する過程を描いたすぐれた映画も公開されて、急激に注目を集めるようになってきた。

 こうしたことに反応の早い学生たちに訊いてみると、すでにユーザーとして利用しているらしい。けれども、使い方としてはやはりかなり慎重で、見知らぬ人から友人登録の許諾を求められても、原則として拒絶する姿勢をとっているようなので、彼らの間でユーザーが指数関数的に増加していく兆候はいまのところはみられない。

 ただ、しばらく海外にいたOGなどは平気で見知らぬ人からの要請を受け入れているために、短期間で数百人の友人登録が入っているとのことで、両者の使い方はずいぶん違ったものになるだろう。

 今後日本でどれだけ普及し、どんな使い方がされていくのか、興味深いところではあるけれども、こういうシステムというのは、ツイッターにしてもそうだけれど、自分が使ってみないと、ほんとうのところ内在的な評価ができない。

 使う上で、ほかの人に迷惑がかかるようなリスクがあるなら、それぞれの立場上、利用は避けたほうがいい、というようなこともあるのではないか。新しいメディアに関心はあっても、そのへんは私自身にとっても考えどころで、とりあえずは古いメディアで、古めかしい遣り方で独り言をつぶやいている程度にとどめておくのが無難かも、などど考えています。

 いずれにせよ、なかなか刺激的な本でした。メディアに関心のある方はぜひ読まれるといいでしょう。


 



 



 

 

saysei at 13:29│Comments(0)TrackBack(0)

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