2011年03月08日

佐藤泰志『海炭市叙景』

 久しぶりにいい小説を読んだ。1991年に出たものらしいけれど、この連環的な手法による作品を原作にした映画に対する好意的な幾つかの新聞の映画評を見て、この作品を知った。

 ロープウェイの駅でひたすら兄の下山を待つ女(「第一章 物語のはじまった崖~1.まだ若い廃墟」)、家庭に深刻な問題を抱えるプロパン配達の男、(4.裂けた爪)、クスリに手を出しているらしい同じ部屋の弟分のことを気遣いながら家族のもとへ帰っていく、わけありの男(6.夜の中の夜)、祖母が働いていた路地裏の夜の女たちのたむろする酒場でちょっとした騒ぎで男が追い出されるシーンに遭遇する若い男(8.裸足)、がらんとした産業道路をほろ酔いで車を運転し、速度違反で覆面パトカーにつかまって、俺の金で買った酒を飲んで何が悪いと開き直って暴れる職業訓練校の年長の男(第二章 物語は何も語らず~1.まっとうな男)、等々。

 みな作者のつくった仮構の都市「海炭市」という寒々とした土地の寒々しい色やわびしい匂いを身に深々と湛えて、もうこれ以上先へ進むこともできなければ退くこともできない、いまあるようにしかありえないかのような、ぎりぎりのところで生きている男女だ。

 酔っ払いが何人かすれ違った。彼らは肩を組み、歌を唄っていたり、ガードレールに身を乗り出して、吐こうとしたりしていた。腕を組み、男の胸に顔を埋めている女もいた。どんなことでも愉しみ、それが許される夜だった。この俺も、と幸郎は思った。心は海炭市には、すでになかった。店にもなかった。あの八年間にもなかった。そしてすでに、幸郎は幸郎ですらなかった。自分がかつて、首都の郊外の飯場で、ある男の頭を、鉈で、一撃のもとにかち割ったことなどずっと忘れてきた。おびただしい血しぶき。ずっしりした、手ごたえ。とても簡単だった。あんなに、あっけないとは思わなかった。ただの酒の上での口論がひくにひけなくなったのだ。それだけだ。血しぶきをあげたのは幸郎のほうだったかもしれないのだ。息子が六歳の時だった。遠い昔だ。(「夜の中の夜」)

 この街ならどこにでもいそうな、わけありの男の過去が、ほんの一瞬深い裂け目を覗かせながら、でもこんなふうに淡々と語られていく。

 何ひとつわかるものはない。あの時も、何故口論になったのか、いまだにわからない。もしかしたら、自分が本当は何者かもわからないのかもしれない。
 けれども、やはり彼はそんなことを考えて歩いていたわけではない。息子と女房に会いたいと思い、夜の中、そしてもうひとつ彼の内にある、自分すら気づいていない夜の中を、二重に歩いていた。それだけだった。(同前、ラスト)

 
そう、ここではなにごともが「それだけだった」かのように語られていく。外の世界でなら誰もが大騒ぎしそうなことが、淡々と「それだけだった」ように語られていく。たしかに一人一人は、このような地方都市にならどこにでもいそうな男女だし、彼らが語る言葉も振舞いも、どこにでもありそうな、どこにも新奇なところのないものだ。ここには近代小説の得意とする際立つ個性、といったものは見られない。強いて言えば、もっと生理的な特徴とか、性癖とか、気性のようなものしかない。けれどそれが持つ強度、それが発するインパクトは、曖昧な近代的個性よりも強い。

 そのありふれてみえる一人一人の男女の背負っているものは、まさにこの土地でそのような状況にあるその男なり女なりが背負うほかはない、固有名詞のような業とでもいうほかはないものだ。そんな業を背負ってぎりぎりのところで生きている男女を淡々とした語り口で語っていくと、一人一人の個性といったものではなくて、彼らを染め上げている土地の色や匂いが感じられてくるような気がしてくる。

 彼らを「海炭市叙景」として描きたかった作者の意図と方法はそんなところで体感できる。古代の歌謡が叙景を媒介することによって共同的な感性を表現したように、作者はこれらの人物たちの淡々とした「叙景」によって、日本の疲弊した地方の典型であるようなこの寒々とした土地に暮らす人々の共同的な感性に寄り添った表現を成就したのだろう。

 語り口が淡々としている分、読後感は切なく、この寒々とした「荒地」のような風景を生きる、顧みられることのない男女への切々とした愛惜の情が伝わってくる。 

 まだ20歳のころに愛読した井上光晴の短編を思い出しながら読んだ。


saysei at 00:17│Comments(0)TrackBack(0)

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