2010年09月30日

湊 かなえ 『往復書簡』(感想)

 湊かなえの『往復書簡』は、三篇の独立した作品を収めた作品集だけれど、三篇とも書簡体の小説である点、どれも語り手たちにとって遠く過ぎ去った学校時代に事件が起きていて、これを何らかのきっかけで、振り返ることになり、そのことで時のベールに隠されていた、当時は見えなかった真実が明らかになってくるという内容において、共通している。

 書簡体小説も、現在から振り返って過去の事件の真相が明らかになる構造も、珍しくはないけれど、それぞれに工夫があって、推理小説として楽しんで読める。

 この作者の作品で単行本化された小説はデビュー作から全部読んできたけれど、主要な登場人物が複数であっても、同じ語り手が声色だけ変えて何度も登場してくるような、どこかモノトーンな印象があって、平板な印象をぬぐえなかった。

 ひとつには私が「推理小説」というふうなジャンル小説に比較的冷淡で、推理小説であろうと、SFであろうと、ホラーであろうと、ライトノベルであろうと、同じ価値観、同じ読み方でしか読まず、すぐれた作品とそうでない作品があるだけ、という読み方しかできないので、きっと推理小説ファンからすれば、こんな面白いどんでん返しはないぜ、とか、こういう伏線の張り方やトリックは見事だとか、推理小説ならではの評価の仕方があるに違いないので、別段自分の評価をひとさまに押し付けようとは思ってこなかった。

 だから、学生さんがこの自分たちと同じ母校をもつ、いまでは全国的なベストセラー作家となった人気作家の作品を私のところから借りていって、返すとき、予想通り、「すごく面白かった!」という人と、「全然つまらなかった」という人とに極端に分かれるのを不思議とも思わず、そうだろうな、という感じで受け止めてきた。

 その「モノトーン」は『告白』では、一人の女教師の独白で語りが一貫しているから、それ自体としては作品の欠陥にはならなかったけれども、この処女作から作者の作品のそうした特徴は今に至るまで変わっていないようにみえ、その後主要人物が交互にそれぞれの視点で語り手となる作品では、それが他者から見て区別がつかないほどよく似た二人の女子高生という設定そのものから、故意に語りの文体をまぎらわしくしているのだという、当然ありえる解釈で、なるほどと誰もが納得できるか、それとも作者の力量的な未熟の言い訳にすぎないようにしかみえないか、読み手によって評価が分かれるだろう、と思えるところがあった。

 今回の作品でも、この「モノトーン」の印象は払拭できないけれど、面白いのは、とくに最初の「十年後の卒業文集」では、ひょっとすると手紙の書き手が別の人物を騙っているかもしれない、と読み手が疑い、その疑いを読者も共有するような構造になっていて、実際、そういう作中人物の思惑と相互の関わり方が錯綜して謎が謎を呼び、最後まで引っ張っていく、その推理小説の本領としての展開と、この「モノトーン」とが響きあうところがあって、上記の「モノトーン」が欠陥とみえるほうに判断が傾いた作品とは違って、今回の作品では、むしろこの文体がひとつの「効果」という印象を与えてくれるところが、以前とは違っているな、と思われた。

 三篇のなかでは、この作品が読後の後味もよくて、私は一番楽しく読めた。

 「二十年後の宿題」も作品の構造をつくっている語りの仕掛けは、とてもよく考えられていて感嘆する(枠組みそのものは単純で単調な印象をもつ読者もあるだろうけれど、それは反面分かりやすいということでもある)し、「十五年後の補習」も、推理小説らしいどんでん返しの仕掛けがよく工夫されているけれども、これらについても、気のせいか「モノトーン」の印象は尾を引いて、しかも「二十年後の宿題」のような手紙の書き手と読み手が本当にそう名のっているとおりの人物なのかどうかという揺れが、文体のモノトーンな印象とマッチして、方法的な効果を与えている印象がないために、ある種の平板さと感じられるところはある。

 それと、これも『告白』以来のすべての作品に一貫するものだけれど、ここに作り上げられる世界の核心的な部分に、どこか私の人間観と相容れない、酷薄なところがある。それはむろん犯罪またはそれに類した人間性に反する(あるいはそれこそが人間性の裏面に不可避的に存在する人間性そのものだ、ともいえるかもしれないのではあるけれど)行動や考え方・感じ方と、それが引き起こす人間どうしの衝突や軋みを扱う推理小説、犯罪小説であれば、当然そうした人間の心の闇に筆が届かねば書けないであろうけれども、それでもなお、そこに生きてある人間(たとえ極悪人の犯罪者であっても)に対する作者の視線というのは、あるときは主人公の、あるときは脇役の言葉や行動や思いとして、あるいはまた語り手の語りの中に、さらにまたそれらをも客観化する作者の視線の中に必ずや表現されるはずだと思うし、その眼差しが温かく感じられるものであるか、それとも冷淡あるいは酷薄な印象を与えるものであるかは、一読者としての私にとっては、かなり重要なことになる。

 才能のある書き手であり、よく考えられた工夫があり、作品ごとの研鑽があって、衆目を集める中で、ここまで一作ごとに新しい工夫をこらした作品を書かれることに感嘆しながら、私にとって、この作品を愛惜する、というに至らないのは、これまでどの作品の底にもその種のうす寒い酷薄さを感じ、それが推理小説というジャンル小説に固有の、作者の恣意でどうにでもなるテクニカルな作品の仕掛けとのみ考えられるならどうということもないのだけれど、私のように作品の向こうに作者をみるような古典的な読み方をする読者にとっては、一種の疑念として自分の感情移入を抑制する要素となっているからであろう、と考えられる。
 
 後味がよいと述べた「十年後の卒業文集」は、或いは私の疑念の出口になるかもしれないし、いつか心からこの作家と作品を愛する日がくるといいな、と期待しながら、次の作品を待っていたいと思った。



saysei at 13:50│Comments(0)TrackBack(0)

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