2010年06月26日
『夜行観覧車』(湊かなえ)
職場の本棚には、これまでに出版された(私の知らないものがあれば別だけれど)湊かなえの小説は全部単行本でそろえてある。
たまたま出身校ということで職場の売店にも積み上げてあるし、なにしろいま書店で一番派手に平積みしてあるような作家の作品群なので、ふだんめったに小説など読まない学生さんでも、「湊かなえさんの本ある?」と訪ねてきたりする。
彼女の作品が本屋大賞に選ばれて、全国の書店が販売に協力したことも大きな力だろうし、『告白』が映画化され、同時に文庫本化された相乗効果も大きいようだ。
それらは風俗現象にすぎないので、どちらかというと冷ややかに見守るといった気分で見ているけれど、ではそんなに読まれているのはどんな作品だろう?という関心は強いので、これまでも一通りはすべて読んできた。
その都度このブログで感想を書いてきたけれど、振り返ってみるとあまり好意的な感想を書いていない(苦笑)。
まだ若い新人なのだし、学生たちにとってもいわばアカデミックな「遠縁」くらいにあたる作家なのだし、書店で手にとるときは、今度はいい作品かもしれないし、そしたら、読め、読め、と学生さんたちにお勧めして、自分も贔屓にしたい気持ちはある。
けれど、読みおわると、いつも、う~ん・・・という微妙な気分になる。
どっちみち、ここまでベストセラー作家になって世間で評価を受けているのだから、私の応援などもとより不要だし(笑)、熱烈なファンには悪いけれど、読者極少ブログで率直な極私的感想を書き付けるくらいは許してもらいたい、とは思うけれど。
ただ、今回は、それほど一人の素直な読者として不満はなかった。
とくにいいな、と思ったところから言うと、これは好みの問題だけれど、今回のタイトルは嫌いじゃない。一件落着後のラストで、バイプレヤーの小島さと子が「マーくん」への手紙に、「あと、このあいだ知ったんだけど、さ来年、海の近くに観覧車ができるんですって。」と書いて登場するにすぎない観覧車だけれど、これを「夜行観覧車」としてタイトルにしたのは、うまいなぁ、と思う。
最後の2~3行。
「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら。」
この作品をここまで読んできて、この行を読むと、これまで一人称的な主観に入り込んで事件の内部を生きてきた読者は、自分の目がロングショットを撮るカメラのようにすっと引いていって、いままで自分がその間を行ったりきたりしていた幾つかの家庭の姿が、一軒一軒の家の形が見える程度の上空から、その家々の明かりを見下ろすような遠景としてみるような印象をもつ。
そして、帯で映画「告白」に主演した松たか子が書いているように、家々の明かりが、それぞれの傷ついたり傷つけあったりしてボロボロになりばらばらになりそうな家族のけなげな営み、それでも家族でありつづけている姿を、なにかいとおしいもののように眺めている自分に気づく。
つまり、ここまで読んできてこの一行を読むと、この「夜行観覧車」からの見え方の変化の中に、作者が作品を通じて伝えたかった主題が全部集約されているような気がしてくる。
これだけ言えば、もういいかな(笑)、と思う。そういうことを感じさせるというのは、大したものだと思う。
広い意味の推理小説でもあるのだし、人物が平板で、パターン化された人物しか出てこないとか、文体がどうとか、この国の文壇ではエンターテインメントとして別段欠点とは考えられていないことをあれこれ言っても詮無いことだろう。
それより、そのつど語り手の主観に入り込んで、ぐいぐい引っ張っていく、『告白』以来の方法は、もともとは異なる人物をしっかりと造形し、ブロックを積むように客観描写を積み重ねて堅固な構造を持った構築物をつくる力量の不足している新人作家が、単調ではあっても、若い作家ならではの鋭い感性や勢いを武器に、切実なモチーフを精一杯紙の上にぶつける方法であったと思うけれど(そしていまもそういう意味合いを感じはするけれども)、この作品では、それがあまり違和感なく、すでに作者独特の方法として定着しようとしているのを感じる。
もうモノローグの単調さや、人物が二人、三人になっても同じ人物が感じ考えしゃべっているような単調な印象は、あまり感じられない。作家として成熟ということなのだろう。
たまたま出身校ということで職場の売店にも積み上げてあるし、なにしろいま書店で一番派手に平積みしてあるような作家の作品群なので、ふだんめったに小説など読まない学生さんでも、「湊かなえさんの本ある?」と訪ねてきたりする。
彼女の作品が本屋大賞に選ばれて、全国の書店が販売に協力したことも大きな力だろうし、『告白』が映画化され、同時に文庫本化された相乗効果も大きいようだ。
それらは風俗現象にすぎないので、どちらかというと冷ややかに見守るといった気分で見ているけれど、ではそんなに読まれているのはどんな作品だろう?という関心は強いので、これまでも一通りはすべて読んできた。
その都度このブログで感想を書いてきたけれど、振り返ってみるとあまり好意的な感想を書いていない(苦笑)。
まだ若い新人なのだし、学生たちにとってもいわばアカデミックな「遠縁」くらいにあたる作家なのだし、書店で手にとるときは、今度はいい作品かもしれないし、そしたら、読め、読め、と学生さんたちにお勧めして、自分も贔屓にしたい気持ちはある。
けれど、読みおわると、いつも、う~ん・・・という微妙な気分になる。
どっちみち、ここまでベストセラー作家になって世間で評価を受けているのだから、私の応援などもとより不要だし(笑)、熱烈なファンには悪いけれど、読者極少ブログで率直な極私的感想を書き付けるくらいは許してもらいたい、とは思うけれど。
ただ、今回は、それほど一人の素直な読者として不満はなかった。
とくにいいな、と思ったところから言うと、これは好みの問題だけれど、今回のタイトルは嫌いじゃない。一件落着後のラストで、バイプレヤーの小島さと子が「マーくん」への手紙に、「あと、このあいだ知ったんだけど、さ来年、海の近くに観覧車ができるんですって。」と書いて登場するにすぎない観覧車だけれど、これを「夜行観覧車」としてタイトルにしたのは、うまいなぁ、と思う。
最後の2~3行。
「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら。」
この作品をここまで読んできて、この行を読むと、これまで一人称的な主観に入り込んで事件の内部を生きてきた読者は、自分の目がロングショットを撮るカメラのようにすっと引いていって、いままで自分がその間を行ったりきたりしていた幾つかの家庭の姿が、一軒一軒の家の形が見える程度の上空から、その家々の明かりを見下ろすような遠景としてみるような印象をもつ。
そして、帯で映画「告白」に主演した松たか子が書いているように、家々の明かりが、それぞれの傷ついたり傷つけあったりしてボロボロになりばらばらになりそうな家族のけなげな営み、それでも家族でありつづけている姿を、なにかいとおしいもののように眺めている自分に気づく。
つまり、ここまで読んできてこの一行を読むと、この「夜行観覧車」からの見え方の変化の中に、作者が作品を通じて伝えたかった主題が全部集約されているような気がしてくる。
これだけ言えば、もういいかな(笑)、と思う。そういうことを感じさせるというのは、大したものだと思う。
広い意味の推理小説でもあるのだし、人物が平板で、パターン化された人物しか出てこないとか、文体がどうとか、この国の文壇ではエンターテインメントとして別段欠点とは考えられていないことをあれこれ言っても詮無いことだろう。
それより、そのつど語り手の主観に入り込んで、ぐいぐい引っ張っていく、『告白』以来の方法は、もともとは異なる人物をしっかりと造形し、ブロックを積むように客観描写を積み重ねて堅固な構造を持った構築物をつくる力量の不足している新人作家が、単調ではあっても、若い作家ならではの鋭い感性や勢いを武器に、切実なモチーフを精一杯紙の上にぶつける方法であったと思うけれど(そしていまもそういう意味合いを感じはするけれども)、この作品では、それがあまり違和感なく、すでに作者独特の方法として定着しようとしているのを感じる。
もうモノローグの単調さや、人物が二人、三人になっても同じ人物が感じ考えしゃべっているような単調な印象は、あまり感じられない。作家として成熟ということなのだろう。
saysei at 11:09│Comments(0)│TrackBack(0)│