2010年06月06日
『下流の宴』(林真理子 著)
車中で読んでいても、途中で居眠りをすることが多くて、なかなか読めなかった。ようやく読み終える。
睡眠時間が短くて眠いせいもあったけれど、読んでいてしんどくなってくる小説。
難しいわけではない。いまどきどこにでもいるパターン化された人物が次々に登場し、パターン化された行動をとり、パターンかされた言葉をかわす、わかりよすぎるほどわかりよい中間小説だ。
なぜ読むのがしんどいかといえば、そこに何ひとつハッとさせられるような新鮮な視点も新鮮な感覚も新鮮な思考もみあたらず、ただ世の中にこういう人間がおり、こういう感じ方や考え方をする人間が居る、と週刊誌やテレビのワイド番組やゴマンとある中間小説が「上から目線」で取り上げて小馬鹿にしながら描写するような教育ママや無責任亭主やフリーターや芋姐ちゃんややセレブ気取りの女やサラブレッド気取りの種馬みたいな男たちが次々に出てきて、彼らにふさわしい浅はかなからみをくりひろげるだけだ。
こういう挿話をつなげていくなら、いまの世の中にそれこそゴマンとこんな人間はいるだろうし、こんなシーンはあるだろうし、積み木何十個かの組み合わせで幾百幾千の物語でも作れてしまうだろうな、という気がする。その積み木の組み合わせにプロの中間小説作家としての腕があるのだろうけれど、こういう登場人物のうちにほんとうの人間が描かれるはずだ、という錯覚があるだろうという一点で、この種の作品は決定的に私などが考えている文学から遠く隔たってしまう。
いわゆる純文学をかたくなに信奉する立場なら、これは文学ではない、と言い切るのかもしれないけれど、そう言い切ることを躊躇させるのは、その高みから見下す描写の中にひそむ誇張や、戯画化に、僅かな作者の批評性が含まれているからだ。
人物の設定とその動かし方がみせてくると、結果はすぐに想像がつくが、このような動かし方の中では案外予想がつかず、面白いのは誇張され、戯画化される人物に対する作者のまなざしを仮託された翔だろう。
自然、彼は一番誇張や戯画化の度合いが小さく、最初から最後まで自分の生き方、感じ方、考え方にブレがない。高揚もないが幻滅もない。最初から作者が世俗的な価値観だと考えているらしいものからみれば最低線のところに位置して、そこを動こうともしない。
誇張や戯画化の批評性というのは、この翔の位置から作者が設定した「世俗的な価値観」の仮構線上で生きる、それなりにバラエティをもった他の人物たちとの距離感によって生じている。
しかし、ここに作者の勘違いがある、と私などは思う。この作品を読むと、作者はきっと、この作品でいまの世の中にはびこる「世俗的な価値観」を適度な誇張とそこから生じる滑稽味も皮肉も交えて、小気味よく切ってみせた、と得意なのだろうな、と思えてしまう。
けれども、ほんとうはこの程度の翔の視点などで足許をすくわれるような人間なんてたかが知れている。ここに登場するような人物はみな作者の「世俗」の観念が作り上げた血の通わない木偶にすぎない。
それは、一見「自由」な翔の「最低線」自体が、作者の「上から目線」をカモフラージュするだけのつまらないフィクションに過ぎないためだ。
週刊誌のコラム子が「世俗の群像」を揶揄して悦に入るように、作者は翔の「下から目線」を借りて、自分の設定した上昇志向にとりつかれた「世俗」の群像を揶揄して悦に入っているようにみえる。
その得意顔の揶揄や皮肉は、いまの社会に生きる人々の喜怒哀楽の井戸の底には届きそうもない。作者は彼女が考える最低線よりも上にではなく、下に、現在の社会に生きる人々の喜怒哀楽の仮構線を設定すべきだったのだと思う。
睡眠時間が短くて眠いせいもあったけれど、読んでいてしんどくなってくる小説。
難しいわけではない。いまどきどこにでもいるパターン化された人物が次々に登場し、パターン化された行動をとり、パターンかされた言葉をかわす、わかりよすぎるほどわかりよい中間小説だ。
なぜ読むのがしんどいかといえば、そこに何ひとつハッとさせられるような新鮮な視点も新鮮な感覚も新鮮な思考もみあたらず、ただ世の中にこういう人間がおり、こういう感じ方や考え方をする人間が居る、と週刊誌やテレビのワイド番組やゴマンとある中間小説が「上から目線」で取り上げて小馬鹿にしながら描写するような教育ママや無責任亭主やフリーターや芋姐ちゃんややセレブ気取りの女やサラブレッド気取りの種馬みたいな男たちが次々に出てきて、彼らにふさわしい浅はかなからみをくりひろげるだけだ。
こういう挿話をつなげていくなら、いまの世の中にそれこそゴマンとこんな人間はいるだろうし、こんなシーンはあるだろうし、積み木何十個かの組み合わせで幾百幾千の物語でも作れてしまうだろうな、という気がする。その積み木の組み合わせにプロの中間小説作家としての腕があるのだろうけれど、こういう登場人物のうちにほんとうの人間が描かれるはずだ、という錯覚があるだろうという一点で、この種の作品は決定的に私などが考えている文学から遠く隔たってしまう。
いわゆる純文学をかたくなに信奉する立場なら、これは文学ではない、と言い切るのかもしれないけれど、そう言い切ることを躊躇させるのは、その高みから見下す描写の中にひそむ誇張や、戯画化に、僅かな作者の批評性が含まれているからだ。
人物の設定とその動かし方がみせてくると、結果はすぐに想像がつくが、このような動かし方の中では案外予想がつかず、面白いのは誇張され、戯画化される人物に対する作者のまなざしを仮託された翔だろう。
自然、彼は一番誇張や戯画化の度合いが小さく、最初から最後まで自分の生き方、感じ方、考え方にブレがない。高揚もないが幻滅もない。最初から作者が世俗的な価値観だと考えているらしいものからみれば最低線のところに位置して、そこを動こうともしない。
誇張や戯画化の批評性というのは、この翔の位置から作者が設定した「世俗的な価値観」の仮構線上で生きる、それなりにバラエティをもった他の人物たちとの距離感によって生じている。
しかし、ここに作者の勘違いがある、と私などは思う。この作品を読むと、作者はきっと、この作品でいまの世の中にはびこる「世俗的な価値観」を適度な誇張とそこから生じる滑稽味も皮肉も交えて、小気味よく切ってみせた、と得意なのだろうな、と思えてしまう。
けれども、ほんとうはこの程度の翔の視点などで足許をすくわれるような人間なんてたかが知れている。ここに登場するような人物はみな作者の「世俗」の観念が作り上げた血の通わない木偶にすぎない。
それは、一見「自由」な翔の「最低線」自体が、作者の「上から目線」をカモフラージュするだけのつまらないフィクションに過ぎないためだ。
週刊誌のコラム子が「世俗の群像」を揶揄して悦に入るように、作者は翔の「下から目線」を借りて、自分の設定した上昇志向にとりつかれた「世俗」の群像を揶揄して悦に入っているようにみえる。
その得意顔の揶揄や皮肉は、いまの社会に生きる人々の喜怒哀楽の井戸の底には届きそうもない。作者は彼女が考える最低線よりも上にではなく、下に、現在の社会に生きる人々の喜怒哀楽の仮構線を設定すべきだったのだと思う。
saysei at 15:09│Comments(0)│TrackBack(0)│