2010年01月17日

『ごはんのことばかり100話とちょっと』(吉本ばなな)

 パートナーが読みたいというので、アマゾンに注文していたけれど、新聞の書評欄でも好意的な評が出たりしたこともあって、人気があるのだろう。一時的に品切れだったのか、何でもすぐ届くアマゾンにしては手元に届くまで異常に時間がかかった。

 で、パートナーは一気に読んでしまった。面白いし、読みやすいし、というので、私にも薦める。彼女の推薦の辞は、「『あぁ、いまの若い人は食について、料理について、こういうふうに考えるんだろうなぁ』というふうに、いまどきの若い人の考え方が分かる」のだそうだ。

 もっともパートナーにとっての「若い人」なので、ばななさんの世代も含むわけだろうけれど。

 私は昔から食べ物にも食べるという行為にも関心が薄くて、忍者のように丸薬で済ませられればいいのに、と思っていたくらいだから、ましてや料理など全くできないので、この種の本は手に取ったことがない。

 だから私の関心は「吉本家の日々」のほうにある。作家吉本ばななのいい読者ではないけれど、お父さんのほうの膨大な著書は普通の読者に手に入る限りは全部読んでいるはずだし、それ以外にも若いときは一般の書店では大きなところでも扱わないような雑誌に載ったのまで、出る端から読んでいた時期もある。

 その吉本パパには結構「食」について書いた文章があり、パパの視点での吉本家の「食」の一端や、食についての彼の考え方は知っていたけれど、娘さんの側からの視点でそれがどんなふうに描かれるのかには興味があった。

 そういう意味ではやっぱり吉本パパが出てくるところを探して読むような感じの読み方になってしまうけれど、読んで、あぁ、やっぱりか、と思ったのは、吉本パパが娘のために作っていた弁当のことだ。

 一番「やっぱり」と思ったのは、ごはんが三分の一、あとの三分の二がいちご(!)で、ほかは何も入っていないという弁当だ。これは料理が下手だとか、男の料理だとかいうものではない。たぶん吉本パパのような人しか作らないチョー観念的な弁当だと思う。

 私の知る限り、弁当をもし無理にでも作らなければならなくなったとすれば、こういう弁当を作るだろうと思うのは、若い頃失業中の私を一時的にアルバイト仕事で使ってくれた、故・八木俊樹ただ一人だ。(知らない人のためにいうと、八木さんは書家石川九楊の三部作のひとつ『中國書史』の跋文を書いている人で、京都大学学術出版会の産みの親です。)

 思想家の作る弁当、とでも言うしかないか・・・。

 吉本パパのところを拾い読みするように読んだ私だけれど、ばななさんの夫の父親が押し付けるように若夫婦に持たせた腐った桃の話のように、パートナーの言葉を借りれば「いい掌編小説になりそうな」話もあって、料理音痴の私にも楽しめる一冊だった。 

 

 

saysei at 15:45│Comments(0)TrackBack(0)

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