2025年03月
2025年03月09日
眠りの一日
昨日の疲れが抜けなかったのか、薬剤のせいか、今朝の共同庭の清掃に出たせいか(といっても竹ぼうきをもって家の裏の溝の上の枯葉を集めて木立の中へ移していただけですが)、きょうはそのあと昼食までと、昼食後も、2階の自分の机の前の椅子にねそべると、そのまま何もする気が起きずに、ずっとうとうと眠り続けて夕食の時刻まで、終日嗜眠症のように眠って、さきほどようやく夕食を終えたところです。

先日長男が買ってくれた火力の強い電気鍋で、鶏つくね・豚肉・ネギの水炊き。お昼がお餅二つで消化がよかったせいか、胃腸の調子がもう一つでも、ちゃんと食べることができました。

お鍋だと自然に野菜がたくさん食べられます。みんな上賀茂野菜で、野菜の味が美味しい。鍋のあとは雑炊を作って食べました。

鯵の干物 200円台のお魚で、パートナーは「可哀そうな魚」と言っています。

かぼちゃの煮もの
(以上です)
夕食を食べて少し元気が戻って来た感じです。昨夜から睡眠時間は14時間くらい 少し動いても咳が出るし、2階への階段は一段ずつ足をそっと運んでも息が切れ、血中酸素濃度は92-93とあまり芳しくありません。それでもまあ何とか生きています(笑) 90を下回ると呼吸不全ということになるので、いよいよ酸素ボンベのお世話にならないといけないようです。
自分の机の前に戻る時、周囲の本棚のタイトルがあれこれ目にはいって、それらはいつでも手に取れると思い、手に取って読み始めれば難なく読めるように思っていたけれど、さすがにこれだけ手近な本に手をのばす元気もない状態がつづくと、そうか、もうこれらはほとんど二度と読めないままなんだな、とあらためて思ったりします。
どんなものでも読めば、それなりに刺激を受けて自分の感想なり考えなりが触発された何か新鮮なものが湧いてくる喜びがあるものだけれど、そんなささやかなこともしづらくなると、自分にとって残されたわずかな楽しみもなくなるような気がして少々なさけない。もうすこし頑張ってわずかな時間でも読み書きがつづけられればと思っています。

先日長男が買ってくれた火力の強い電気鍋で、鶏つくね・豚肉・ネギの水炊き。お昼がお餅二つで消化がよかったせいか、胃腸の調子がもう一つでも、ちゃんと食べることができました。

お鍋だと自然に野菜がたくさん食べられます。みんな上賀茂野菜で、野菜の味が美味しい。鍋のあとは雑炊を作って食べました。

鯵の干物 200円台のお魚で、パートナーは「可哀そうな魚」と言っています。

かぼちゃの煮もの
(以上です)
夕食を食べて少し元気が戻って来た感じです。昨夜から睡眠時間は14時間くらい 少し動いても咳が出るし、2階への階段は一段ずつ足をそっと運んでも息が切れ、血中酸素濃度は92-93とあまり芳しくありません。それでもまあ何とか生きています(笑) 90を下回ると呼吸不全ということになるので、いよいよ酸素ボンベのお世話にならないといけないようです。
自分の机の前に戻る時、周囲の本棚のタイトルがあれこれ目にはいって、それらはいつでも手に取れると思い、手に取って読み始めれば難なく読めるように思っていたけれど、さすがにこれだけ手近な本に手をのばす元気もない状態がつづくと、そうか、もうこれらはほとんど二度と読めないままなんだな、とあらためて思ったりします。
どんなものでも読めば、それなりに刺激を受けて自分の感想なり考えなりが触発された何か新鮮なものが湧いてくる喜びがあるものだけれど、そんなささやかなこともしづらくなると、自分にとって残されたわずかな楽しみもなくなるような気がして少々なさけない。もうすこし頑張ってわずかな時間でも読み書きがつづけられればと思っています。
saysei at 20:48|Permalink│Comments(2)│
2025年03月08日
贈り物の花

きょうは次男一家三人がそろって、パートナーに贈り物のこの花瓶にいけた花を持って来てくれました。久しぶりに三人そろって、と何度も言うパートナーはとても嬉しそう。家族仲良く元気でいてくれるのが彼女にとっても私にとっても何より。

この花瓶はドイツ製なんだそうです。地合いのザクッとした力づよい感じに、この赤い色がすごくいいですね。

あまり動かないのもどうかと思って、きょうは電動アシスト自転車を走らせて上賀茂へ行ってきました。その収穫がこれらで、ダイコン、九条ネギ、トマト、菊菜、ラディッシュ、金時ニンジン、小松菜、それに写真にはないけれど、古漬けのスグキ、赤芯大根がありました。
でもきょうは花粉が大量に飛び交っていたせいか、帰ってくるとひどく疲れて、ようようのことで早めの入浴を済ませると、激しい咳が立て続けに出て苦しく、居間でしばらく横になって休まないと起き上がることもできない状態になってしまいました。咳止めやアスゲンを飲んで、夕食後は少しおさまっていますが、それでも体を動かすとダメです。血中酸素飽和度はふだんよりやや低く、92~93で、きょうも36.9℃の微熱がありました。おそらく花粉症に由来する副鼻腔炎のせいで微熱が出ているのでしょう。
やはり花粉の飛散量が多いときは外に出ない方が無難のようです。花粉症自体はうっとうしいけれど、どうってことないものですが、下手をすると呼吸器官の弱点と結びつくと、思わぬ陥穽にはまるおそれがありそうです。

これは今朝わが家の庭を歩いていた鳥です。頭から背にかけての羽の色は雀そっくりですが、雀よりもかなり大きく、ヒヨドリや鳩よりは小さいサイズで、これは前にも見たことのある「シロハラ」という鳥だと思います。おなかが白いからそういう名で呼ばれたようですが実に安易な名づけかたですね。
この鳥は飛ぶよりも歩くことが得意なようで、ひたすら庭の中をすたすた歩き回って、なにやら芝生の間から出ている芽をつついたりしておりました。もうアーちゃんの食べ残しの餌もおいていないので、あまり鳥たちが来なくなっていますが、それでもこうして時々思い出したようにやってきます。

なんというか、あまり見栄えのしない地味な鳥ですね。小さくもないので、可愛らしい小鳥という感じもない。歩くのが常態だからか足は太くてしっかりしていそうですね。
きょうの夕餉

子持ちカレイの煮つけ

湯豆腐、春菊添え

かぼちゃの煮もの

キュウリとわかめの酢の物

大根、シイタケ、アゲの味噌汁
(以上です)
そういえば今日のお昼は、先日長男がもってきてくれた電気コンロの初試用で、ホットケーキを一度に2枚焼いて、ちゃんとうまく全体に焼けることがわかりました。ただ、二つがくっついてしまった(笑) いままではフライパンで一枚ずつ焼いていたのです。
saysei at 21:37|Permalink│Comments(0)│
デモクリトス
昨日アップロードしたヒポクラテスがデモクリトスに会いに行ったときのことを報告する書簡を読んで、いくつか気づくことがあります。
ヒポクラテスは、アブデラ市民たちから、デモクリトスが精神に異常をきたし、笑いがとまらない精神錯乱の状態にあると聞き、彼らが一国の運命を左右するほどの賢人として大切に考えてきたデモクリトスの病を治癒してほしいという元老院の依頼を受けるわけですが、アブデラ市民の語るデモクリトスの行状は狂人のそれではなく、市民や家族らに何等迷惑をかけるわけでもなく、できるかぎり人との接触を避けて研究に没頭するために、山中に穴居し、あるいは樹陰に起居する隠者のそれであり、ただ人に対すればひたすら笑い、その笑いを止めることができない点に異様さがあるにすぎず、精神には何らの異常もない賢者にほかならない、とヒポクラテスは判断しています。
そうして実際にアブデラへ出かけて本人に会ってみると、はたせるかなヒポクラテスが想像したとおり、デモクリトスは自らの研究に没頭し、その哲学を完成させようと日々努めている類まれな賢者であり、人との接触を避けて山中の粗末な小屋に暮らし、動物の解剖に没頭し、あるいは狂気について考察しては記載し、さらに人間について探究しているにすぎなかったのです。彼はヒポクラテスの名声を知っており、彼を賓客として迎え、対話します。ヒポクラテスのみるところ、彼に病的なところがみられるとすれば、ただデモクリトスがひたすら笑いつづけて笑いを止める術を知らないように見える所だけだったと言っていいでしょう。
ヒポクラテスはデモクリトスが語るところに、ときに疑問を呈し、反論めいた言葉をさしはさみはしますが、すべてを聞き終えると、深い共感を覚え、感銘を受けて、むしろ自分が「精神治療を受けた」と自覚し、デモクリトスの言葉によって「人間の自然性をきわめる」ことができ、その「真理」を告知すべくここを去ることができる、とまで言います。そしてデモクリトスのおそらくは自制できない笑いの発作といったことはそのこととは別の「身体の治療」の問題として、医師である自身の領域だとみなし、翌日の再会を約しています。
これほどヒポクラテスの心を打ったデモクリトスの言葉とはどんなものだったのか。いまヒポクラテスが書簡で報告するデモクリトスとのやり取りや、デモクリトスの独演に近い長広舌を繰り返し読んでも、それを明確に取り出すのはなかなか困難に思えます。
しかし、デモクリトスの発言全体を見渡して最初に思ったのは、これは躁うつ病患者の躁状態のときの振る舞いに似ているな、ということです。もとより私は精神医療など何もしらない素人ですから、単に過去の経験から類推するばかりですが、これまでに接してきたひと(仕事上接した人もあればゼミの学生さんもありますが)の中に数人、心療内科にかかっていて、みずから躁うつ病だと言っていた人がいます。その中で典型的だった或る学生さんは、他のゼミ生と一緒にわが家へ食事に来た時、最初から最後までずーっと喋りづめで、なんの先入観も予備知識も持っていなかった家人もさすがに驚き気づいて、あとでそのことを話した覚えがあります。
その学生さんは平生はごく普通の学生さんで、言動におかしなところは何もないのですが、いつそういうことが起きるのかは私などには全然わからないのですが、或る時にはそんなふうに明るくしゃべりづめに喋ります。それは、最初のうちは社交性に富んだおしゃべりな人のようにみられ、座全体を明るく活気づけているのですが、次第にその度を超えた能動性に座の人たちが気づくようになると、座全体が微妙な雰囲気になります。他の人があまり喋られなくなると、ますます彼女一人のおしゃべりが座を席捲して、まったく外部からの(たとえば私や家人の)介入で話題や雰囲気をがらっと変えてしまわない限り、永遠に彼女の興奮状態のおしゃべりが続いてしまうような感じになります。
彼女の場合はそういった躁状態と、対照的な鬱状態とが交互にやってくるので、鬱状態のときは突然ゼミにも出てこれなくなるようです。ゼミで分担作業をしているような場合、彼女が資料を持ち帰ったりしていると不都合があるために、私や友人が連絡をとろうとしても、電話にも出ることができません。そんなときは一定の期間そっとしておかないとどうしようもなく、ある日また突然登校して、なにごともなかったように共同作業をしていたりします。
そういう例を身近に体験しているので、デモクリトスがほとんど独演会のように滔々と自説を展開する場面など読んでいると、ちょうどその躁状態のときとそっくりだな、と思わずにはいられません。
デモクリトスは大変な賢人ですから、ひとつひとつの言葉は論理的に正当な意味をもって伝わってくるものだし、ヒポクラテスが共感し、感銘を受け、むしろ自分のほうが「精神治療を受けた」と思うほど深い思想の表現も見られるのかもしれません。けれども、その表現は決して論理的にひとつのテーマを追及し、それを解き明かしていく論理的な手順に即して語るような言葉から成ってはいません。むしろ正反対に、唐突に或ることが語られたかとおもえば、また唐突に別のことに飛び、なにか断定的(独断的)なことが言われ、また別の主題にとびうつっていくというふうに、構成としてはいわば支離滅裂な印象を受けます。
ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によれば、「デモクリトスはまさしく本当に哲学の領域における五種競技の選手だった」(岩波文庫同書下巻p125-126加来彰俊訳)そうで、トラシュロスが記録したというデモクリトスの著作リストを次のように掲載しています。
倫理学関係の著作
Ⅰ ピュタゴラス
賢者のあり方 について
ハデス(冥界)にいる者たちについて
トリートゲネイア(アテネ女神)
Ⅱ 男の卓越性について、あるいは徳(勇気)について
(山羊神)アマルテイアの角(つの)
快活さ(エウテュミアー)について
倫理学覚書
自然科学の著作
Ⅲ 大宇宙体系
小宇宙体系
世界形状論
諸惑星について
Ⅳ 自然について、第一
人間の本性について(あるいは、肉体について)-(自然ンいついて)、第二
知性について
感性について
Ⅴ 味について
色について
種々の形態(アトム)について
形態(アトム)の変換について
Ⅵ 学説の補強
映像(エイド―ロン)について、あるいは、(未来の)予知について
論理学上の規準について、三巻
問題集
(四部作集としては分類されていないもの)
天体現象の諸現象
空中の現象の諸原因
地上の現象の諸原因
火、および火のなかにあるものについての諸原因
音に関する諸原因
種子、植物、および果実に関する諸原因
動物に関する諸原因、三巻
原因雑纂
磁石について
数学関係の著作
Ⅶ 意見の相違について、あるいは、円や球との接触について
幾何学について
幾何学の諸問題
数
Ⅷ 通約不可能な線分と立体について、二巻
(渾天儀の)投影図
大年、あるいは、天文学、暦
水時計<と天(の時間)と>の争い
Ⅸ 天界の記述
大地の記述(地理学)
極地の記述
光線論
文芸・音楽関係の著作
Ⅹ 韻律と調和について
詩作について
詩句の美しさについて
発音しやすい文字と発音しにくい文字について
Ⅺ ホメロス論、あるいは、正しい措辞と稀語について
歌について
語句論
語彙論
技術関係の著作
Ⅻ 予後
養生について、あるいは、養生論
医療の心得
時期外れのものと季節にかなったものに関する諸原因
XIII 農業について、あるいは、土地測定論
絵画について
戦術論、および
重武装戦闘論
(その他)
バビュロンの神聖な文書について
メロエーの神聖な文書について
オケアノス(大洋)の周航
歴史研究について
カルダイオス人の言説
プリュギア人の言説
発熱、および病気のために咳をしている人たちについて
法律の原因(起源)
手製の防具
いやはやすさまじい博学ぶりですね。
わたしたち日本人が中学か高校くらいで習ってきたデモクリトスというのは、古代原子論の創始者または大成者といったところではなかったでしょうか。 前掲『ギリシア哲学者列伝』はその核心を要領よく伝えています。
彼の学説は以下のようなものである。万有全体の始元はアトムと空虚(ケノン)であり、それ以外のものはすべて始元であると信じられているだけのものにすぎない。そして世界は数限りなくあり、生成し消滅するものである。また、何ものもあらぬものから生ずることはないし、あらぬものへと消滅することもない。さらに、アトムは大きさと数において限りのないものであり、それらは万有のなかを渦を巻いて運ばれているのである。そしてそのようにしてすべての合成物を、つまり、火や水や空気や土を生み出すのである。なぜなら、これらのものもまた、ある種のアトムの集積物だからである。また、これらのアトムが作用を受けぬもの、変化しないものであるのは、それらが堅固な性質のものだからである。また、太陽や月は、それらにふいさわしい滑らかで球形の塊り(アトム)から合成されているし、魂(プシュケー)もまた同様である。そしてその魂はまた知性(ヌゥス)と同一のものである。また、われわれがものを見るのは、(対象から生ずる)映像(エイドーロン)が(われわれの眼の上に)落ちてくることによるのである。(前掲書P131-132)
人生の目的については次のような説を唱えたとされています。
万物は必然(アナンケー)によって生じるのであるが、それは、彼が「必然」と呼んでいるところの渦動(ディーネ―)が、万物の生成の原因だからである。また、「快活さ(晴れやかな心境)」(エウテュミアー)が人生の終局目的であるが、これは、一部の人たちが聞き間違えて受けとったように、快楽と同じものではなく、いかなる恐怖や、迷信や、その他何らかの情念によっても乱されないで、魂(心)がそれによって穏やかに落ちついた状態で時を過すことになるもののことである。しかし彼は、この状態を「仕合せ」(エウエストー)とも、またその他多くの名前でも呼んでいる。また、事物のもろもろの性質は、法律や習慣(ノモス)の上でだけあるにすぎず、自然の本来(ピュシス)においては、アトムと空虚(ケノン)があるだけだとしている。― 以上が、彼の考えであった。(同前p132)
デモクリトスの思想をわずかにうかがうことができるのは、ほぼこの記述だけのようです。同書によれば、アリストクセノスが『歴史覚書』で書いているそうですが、プラトンがデモクリトスの著作をすべて燃やしてしまおうとしたそうですが、ピュタゴラス派のアミュクラスとクレイ二アスが、そんなことをしても何の益にもならない、それらの書物はすでに多くの人たちの間に出回っているのだからと言って、プラトンにそのことを思いとどまらせたということです。プラトンはどうやら、哲学者たちのなかで最もすぐれたものになろうとすれば、ソクラテスと同時代の最大の哲学者であったデモクリトスが、自分の競争者になるだろうということを良く知っていたからだ、というのがこの列伝の著者の書いているところです。プラトンがデモクリトスの著作を集めて焼却しようとしたことの傍証として、列伝の著者は、プラトンが「昔の哲学者たちのほとんどすべての人に言及しているのに、デモクリトスには一度もはっきりと言及していないばかりか、デモクリトスに対して何らかの反論をする必要がある場合にさえも、言及していない」ことを挙げています。とても人間くさい話ですね(笑)。
しかしたしかにプラトンにはそういう強引なところがあります。師ソクラテスを慕い尊敬するあまり、本来のソクラテスの思想とは異なる、自分が思い定めたソクラテス像に固執して、著書を一冊も残さなかったソクラテスに代わって、まったく新たな哲学体系を創り出し、「ソクラテス以前」の哲学者たちをいわば抹殺する役割を果たした人物だと言っても過言ではないでしょう。
それはともかく、デモクリトスのこうした宇宙から人間の魂にまで至るすべてを相手にした博学と思考の広がりには、医者として深く医療を極め、医の思想においては抜群のものを備えていたヒポクラテスも幻惑されざるを得なかったかもしれません。デモクリトスの語る言葉は構成的には支離滅裂であったけれど、部分部分をみればそこに高度な知性を感じさせるもので、決して精神錯乱とか精神を病んだというようなものでなかったことは確かでしょうから。
たしかにデモクリトスは「哲学の領域における五種競技の選手」と評されるにふさわしい博学の人で、高度の知性を備えた人物だったのでしょう。しかし、彼の著作リストにあるようなこの世界の万般についての知識をおさめている、ということは、ただ彼が人並み外れた好奇心をもち、彼の生きた時代に知りうる情報をできるかぎりかき集めて、極限まで知的上昇過程をのぼりつめた、ということを意味するだけで、かれがほんものの知性を備えた「賢人」であったかどうかは、それだけでは分からないと私は思います。
ヒポクラテスはデモクリトスに会って彼の語る所を聴き、深く共感し、感銘を受けて帰っていくのですが、私はヒポクラテスとデモクリトスはまったく違うタイプの知識人だろうと思います。ヒポクラテスは当時の医術、医療に関する知識と技術を身に着け、実際に数多くの病人に向き合い、寄り添って、注意深く観察し、病の原因をつきとめるべく推論し、様々な条件を繰り込みながら治療法を考え、実際に治療をほどこして、その経過をつぶさに見、その結果を引き受けてきた実践的な経験を蓄積してきた医師です。彼の活動はできあいの知識の習得による知的上昇、知的対象の拡張にとどまるものではなく、未知の患者に向き合い、自らの知識と技術の有効性の検証を常にもとめられ、それによって自身の知のあり方そのものを不断に修正して再び現実の患者に、病に向き合うという現実過程をその思想に繰り入れることなしには成り立たない活動です。
これに対してデモクリトスの知的探求に、ヒポクラテスの患者あるいは病に相当する現実をその思想に繰り入れる契機がはたしてあったかどうかは、私たちに残された彼の事績や言葉からだけでは正確には判断できかねます。彼が人に会い、交わることを極力忌避し、山中の小屋に独居するような隠遁者のような生活を送っていたという、ヒポクラテスの書簡が伝えることが事実であれば、彼の思想は、動物の死骸の解剖の例のようなごく部分的な実証的契機をもつことはあっても、おおむね既存の知識と、これを再編成する彼の思考力が生み出す思弁的なものであったのではないか、と考える方が自然であるように思います。
彼のいわゆる原子論はその典型的なもので、これを近代の実証的な原子論に結び付けるのは見当違いといわなくてはならないでしょう。
もとより思弁的な哲学に価値がないわけではなく、それ自体が人間の思考の形、ある種の法則性を示すものとして考察の対象となり、論理学的なあるいは心理学的な遺産となることは申すまでもありません。しかし、その思弁が解明をめざした対象の構造や本質をあきらかにするという点では、決定的な時代的制約を蒙らざるを得ないでしょう。実証的な諸学が発達した後世の観点から見れば、その思弁が解き明かしたと信じた対象の姿は、ただその思弁の特徴的なありようを示すだけで、私たちに対象それ自体について何も伝えてくれるわけではないでしょう。
いまヒポクラテスを読んで、彼が時代の思想に倣って人間の構成要素として、血液、粘液、白胆汁、黒胆汁などを挙げるとき、そうした思弁的な部分には何らの価値が認められないとしても、彼が観察した同時代の病の諸症状、患者の姿、そして多くの制約の中で彼が患者に施した治療とその経過、彼がその無数の経験の中から導き出した病というものの姿、医師と患者の関係等々といったことの記述は、二千数百年を経た現在においても、私たちに大きな示唆を与えるものとなっており、他方でデモクリトスがせっかく動物の死骸を解剖しながら思弁的に組み立てた胆汁と理性のありようとの関係といったものは私たちに何も与えてはくれないでしょう。
またデモクリトスがその視野の広さのままに、世の人々の様々な行状をあげつらい、嘲笑するのを聞いても、そこに隠遁者特有の俗世間の人々に対する蔑みの感情をみとめても、私たちの生き方に示唆を与えてくれるようには見えません。むしろヒポクラテスが「このことは家政の上に、舟を造る上に、その他人間生活のあらゆる必要上やむを得ぬところです。」と弱弱しく反論を試みているように、デモクリトスが軽侮し、嘲笑する人々の生きようのほうに、それだけの必然性、「必要性」があるので、デモクリトスの言葉はその必然性に切り込むことはまったくできず、単に外部から隠遁者の眼で嘲笑し、蔑んでみせるだけです。
デモクリトスの長広舌の内容を、あらためて、きわめておおざっぱに三つに分けて考えてみましょう。
ひとつは、ヒポクラテスが訪れたとき、デモクリトスの手には動物の解剖された死体があり、彼の周辺にもそうした動物たちの死骸が集積していて、デモクリトスは「私が動物体を解剖するのは、神の創作に対する私の嫌悪からではなく、膽汁の所在と性質を研究するためです。人間において理知を欠く原因は膽汁の為で、膽汁の多量なところに理知の欠陥があるのです。膽汁は誰にでも自然に備わっています。しかしその量は人々によって異なります。それが過剰にあることは病気です。しかしそのもの自身は良いことの原因でもあれば悪いことの原因でもあります。」と説明しています。
当時、人間を構成する要素として、血液、胆汁、粘液といった単一の要素を主張して、それが変化するのだという言説があったことは、ヒポクラテスの「人間の本性について」という一文の中で知られますが、ヒポクラテスはそのような一元論をとらず、人間はそうした単一のものではないからこそ、治療法も多様でありうるのだと述べていました。しかし、当時はどうやら「胆汁」というのが人間の身体の重要な攻勢要素であり、またその働きを左右する本質的な要素の少なくともひとつだと考えられていたようで、ヒポクラテス自身も次のように述べています。(「人間の自然本性について」)
さて、人間を構成していると私が主張するものは、慣習においても自然本性においても、つねに同一であることを示すと言ったが、これらは血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁であると主張することにする。(「人間の自然本性について」p149 國方栄二編訳『ヒポクラテス医学論集』岩波文庫2022)
かくして、これらの要素の増減によって、人間の体の状態にも変化が起きるとされるのです。
夏になると、血液がまだ強いが、体内で胆汁が増えてきて、秋まで続く。秋になると、血液が減少するが、これは秋の自然本性が血液と反対であるからである。一方、夏から秋にかけて体を支配するのは胆汁である。このことは次のことから知られるだろう。この季節には、人々はひとりでに胆汁を吐き出し、薬を使うと胆汁が一番混じったものを排出する。この事は人々の発熱や体の色からも明らかである。粘液のほうは夏に最も微弱になる。この季節は乾燥して暑いために、粘液の自然本性と反対であるからである。
人間の体で血液が最も減少するのは秋である。秋が乾燥して、既に人間の体を冷やし始めているからである。一方、黒胆汁は秋に最も多く、最も力が強い。しかし、再び冬になると、胆汁は冷却され減少する。そして、雨が多くなり、夜が長くなってくると、そのために粘液が再び増加してくる。(前掲書p154)
デモクリトスが胆汁の働きを研究し、理知との関係を探ろうとしているのも、こういった当時の医学思想のベースの上でのことでしょうし、それはヒポクラテスにとっても馴染み深い考え方だったでしょう。心身相関についての素朴な考え方の中でのことではあっても、実際に動物の死体を解剖して胆汁の流れを把握し、その働きを極めようとする姿勢は、ヒポクラテス同様に、今の言葉で言えば実証主義的な姿勢と言ってよいでしょう。それはあきらかにエンペドクレスなどのような、人間は火と水と土と空気から成る、などという観念的な原素を立てて人間を解釈しようとする「ものを書く技術に属している」(「古い医術について」p40)所説とは異なる、「技術」としての医術によって立つ思想として、ヒポクラテスがデモクリトスと共感しあえる姿勢であったといえるでしょう。
しかし、デモクリトスの胆汁論は動物を解剖して、胆汁がどう体内を流れるかといったことを確認するようなところは実証的であっても、その胆汁の多寡が理知の有無にかかわるかのように考えるのはまったく思弁的な妄想にすぎないことは申すまでもありません。そのため、せっかく彼が多くの動物の死骸を解剖して精密な記述を残したとしても、それが探究として意味をもつのは、その客観的な記述だけだったでしょう。そして記述された対象の人体における働き等々といったことについての思弁的な解釈は、後世からみればすべて無意味なたわごとに過ぎないでしょう。
デモクリトスの長広舌の大部分をなす第二の内容は、いわば人間すべてのいまのありように対する批判的な観点で、デモクリトスが人々との接触を避けて独居し、隠棲者のような生活をするに至った原因のひとつでもあったでしょう。
彼の語るところは多岐にわたり、ごく普通の生活を営む人々の生き方の中にある惰性的なもの、怠惰な繰り返し、無意味な財への執着、無意味な互いの争闘、自制なき欲望、他者への嫉妬、悪意、吝嗇等々、否定的な要素を様々にあげつらい、それらを笑うべきものとして、自身の自制のきかない笑いを正当化するような言辞を弄するのです。
それはそれで俗世間を離れて、隠遁者の眼でその俗世間を見るときに見えるだろう景色一般と変わるところはありません。なにも賢人でなければ見えない景色ではないのです。ここではデモクリトスは、自分だけをそうした俗世間の笑うべきことどもから自由な立場であるかのように、ごくふつうの人々を見下し、嘲笑してみせる、とても凡庸なひとりの隠遁者に見えます。ここでは先に述べたように、彼らには彼らなりの必要性、必然性があるのではないか、というヒポクラテスの言葉のほうが、ずっと重いのです。デモクリトスには、そういう市民生活への凡庸な批判を繰り返す自身を相対化する視点がありません。
最後に、デモクリトスの語った言葉を内容で分類してみたとき、三つ目にあたるのは、医術に触れた部分です。念のため、その部分を再度引用してみます。
「自分は医術というものは何らこれに役立たぬことを懼れる。中庸を得ないために8れは医術に対する猜疑と忘恩とから発するのです。それでひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。多くのものはまた(自分の力で自然に治癒したのだというふうに)自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そしてそれとは反対に、(患者が死んだり治癒しないなど)悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです。術に関して何等の知識を持たぬ多くの人々は身体のためにしてはならないことをします。愚かなものたちは医師に心服せず、また医師が術の証明を与えないために医師の忠言を受け入れないのです。この場合にもまた猜疑ということが働くのです。あなたはこのような人々の愚昧な振る舞いをみていないのでだろうか。」
デモクリトスはその前の長広舌で批判してきた、ごく普通の市民たちの日常生活における様々な場面での否定的なありようを、ヒポクラテスが専門とする医術で直せるとは思わない、そこでは医術は役に立たないだろう、と最初に言います。それはそうでしょう。しかし彼は医術の価値を低くみつもっているわけではなく、非常に高く評価していることが、そのあとに続く言葉でわかります。ただ、その医術の価値を人々は理解しないだろう、とそこまでに批判してきた人々が医術に対してもその価値がわからないだろうと言っているわけです。
私が依拠した訳文は、 「ひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。多くのものはまた自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そして悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです」 と書かれていて、上の引用における括弧内の言葉、「自分の力で自然に治癒したのだというふうに」、「患者が死んだり治癒しないなど」は、私が付け加えたものです。元の訳文ではわかりにくいけれど、こういう意味だと思います。
これと同じ趣旨のことが、ヒポクラテスの「技術について」(岩波文庫『ヒポクラテス医学論集』所収)で述べられています。 つまりヒポクラテスの生きた時代には、医術という技術それ自体を認めようとしないソフィストやいかがわしい方法で病を治すと称して金銭をせしめるような呪術師の類がたくさんいたようです。彼らは、医術による治療を受けた人が健康を回復すれば、それは患者の自然力が回復させたのだ(つまりいまでいう自然治癒ですね)、とか単に運が良かっただけだと主張して、医術の役割を認めようとせず、逆に医術をほどこした患者の中に治癒しない者があるときには、医術には何の効力もないのだと主張するわけですね。まさにああいえばこういうで、その種のソフィストがたくさん跋扈していたのでしょう。ヒポクラテスはそういう世界で淡々と患者に向き合い、治療し、医術という技術の価値を正当に主張し、次第に人々の信頼と名声を勝ち得ていくわけです。
デモクリトスのここでの言葉は、彼がそれまでに述べてきた愚昧な人々のありように対する批判の一貫として、ひとつの事例として医術に対する人々の愚かな振る舞いをあげつらった言葉ですが、たぶん医術の例を最後にもってきたのは、喋っている相手がヒポクラテスであり、その医術に対する敬意を表するために、こういう言葉をのべたのでしょう。この部分はヒポクラテスが平生から思っていたこととぴったり一致したはずですから、彼も喜んで聞いたでしょう。ひょっとすると、書簡でデモクリトスとの対話を報告する際に、自分のふだんからの医術に対する考え方や、医術を貶めるような連中への批判をひとことデモクリトスの言葉として付け加えたかもしれませんが(笑)
これでだいたいデモクリトスとヒポクラテスの出会いの場面についての私の感想も終わりですが、以前にも引用したことがありますが、ひとつこの出会いに関する面白いエピソードを前掲の『ギリシア哲学者列伝』の著者が書いているので、もう一度それを引用しておきます。
さて、アテノドロスは『散策』第八巻のなかで、次のような話を伝えている。ヒッポクラテスが彼(デモクリトス)のところへ訪ねてきたときに、彼はミルクを持ってくるように頼んでおいた。そして、持って来たミルクを彼は眺めた上で、これは初子を産んだ黒色の雌山羊のものだろうと言った。それで、彼の観察の正確さに、ヒッポクラテスは驚嘆したのだった。いや、そればかりでなく、ヒッポクラテスには若い娘が同伴していたのだが、最初の日には、彼はその娘に、「今日は、娘さん」と挨拶したが、次の日には、「今日は、奥さん」と挨拶したのだった。実際、その娘は夜の間に処女を失ってしまっていたのである。(岩波文庫前掲書下巻p130)
ちょっとできすぎたエピソードで、笑いをとるために作者または後世の誰かが付け加えた創作じゃないかと思いますが(笑)
saysei at 13:58|Permalink│Comments(0)│
2025年03月07日
きょうもヒポクラテス―デモクリトスの会話を楽しみ

銀鱈の味噌漬け

鶏のスープ煮、ダイコン、ニンジン、白菜、ジャガイモ、タマネギ入り

ほうれん草のおひたし

モズクきゅうり酢
きょうは長男が昨日のスキヤキの電気鍋が非常にたけるのが遅かったので、熱量の大きい電気鍋を買ってくれたらしくて、パエリャが炊けるかというので、その予定にしていたようでしたが、私の体調があまりよくなくて、微熱がつづき、胃腸も悪く、食欲がなかったので、急遽上のようなシンプルな夕餉に変更してもらいました。
今日は昨日現代語にしたヒポクラテスとデモクリトスとの対話をもう一度読み直し、いろいろ考えて楽しんでいました。明日にでもそのことは書いておこうと思います。
saysei at 22:08|Permalink│Comments(0)│
2025年03月06日
ヒポクラテスがデモクリトスに会いに行く
ヒポクラテスがアブデラの市民の要請で、精神に異常をきたしたのではないかと市民たちが危惧する、アブデラの重要人物、賢人デモクリトスに会いにいったときのことが、ヒポクラテスの書簡集に収められたいくつかの友人宛ての書簡に報告されています。国立国会図書館のデジタル化された文献の中の次の資料にそれが見られます。ただし戦前の古い本なので、訳文も文語体で読みにくいので、およそがわかればよろしい、というわけで、勝手に現代文になおしてみました。
ヒポクラテス書簡集
ヒポクラテス全集 今 裕 訳編 岩波書店 昭和6年4月
以下は上記の出典文を現代語にあらためたものですが、とりわけ最後のデモクリトスの言葉の中には、意味不明の箇所も少なくなかったので、適宜省略し、補い、前後関係から解釈して若干の変更を加えるなどして、大意が伝えられればよしと考えての処置をほどこしています。
ヒポクラテスがアブデラ元老院及び人民に寄せた書簡
あなたがたの市民であるアメラサゴラスが過日コスの島に来られた。ちょうどそのおりは、祭礼の当日にあたり、扁栢(かしわ)の森に美しく着飾った人々が集まって神を祀る習慣であったが、同氏の様子と言葉つきが急を要するもののように察せられたので、私はその手紙を取り急ぎ閲読した。およそ一人の人間が国家を作り、またこれを破壊する力のあることは、誠に驚くほかはない。実に城塔でもなく城壁でもなく、偉人、ことに賢人の賢明な忠言によって自分たちが護られていることを認知する人民は幸福である。
また私に言わせれば、およそ「術」というものは神からの遣わしものであり、人間は神の作品である。どうか誤解しないでほしい、アブデラの人々よ。いまあなた方が私をあなたがたのところへ来るように促したことは、また神が病によって死に瀕する自身の作品を救うために私を促したものである。だから私はいま、あなたがたの求めに応じ、神々の信じるところに従って、病めるデモクリトスを救うためにあなた方のもとに急ぐ。・・・(中略)・・・私はデモクリトスが精神の錯乱に悩むと聞くことを心から悲しむ。デモクリトスは健康者として私の友人である。彼の疾患を私が治すことができれば、彼は私の友人として一層その友情を深めるにいたるものではないか。
ヒポクラテスのフィロボーム宛書簡
私はあなた方の都からの便りを、使者から受け取った。それによってあなた方が私に歓待の意を示されたご好意に感謝する。私はあなた方の都に対する大きな期待をもって、喜んで幸福な旅に出たい。
文面によれば、彼は妄想を懐くことなく、健全な精神をもち、妻子親戚および家人を悩ますことなく、日夜穴居し、あるいは荒野や樹陰や芝生や滝の傍らに独居していることがわかる。こうしたことは、鬱病者にはしばしば見られるものであり、静座孤独を好み、他人に接見することを避けるものである。他人と共にあることは患者自身に適せぬと思うためだ。熱心に学術に精進し、知識に専念する人においては、あらゆる心配事が除外されるべきことは当然である。奴隷や下婢が家内で騒ぎたて、狼藉を働いているときに、女主人が現われるなら、驚いてたちまち沈黙するのと同様に、煩悩というものも悪の奴隷であって、理知が現われれば奴僕のように静まるものである。
洞窟を探し寂寞を求めるものは、単に妄想をもつものだけではなく、人間のふるまいを嫌い避け、静寂を愛するためにすることもある。人の精神が外界の心配のために煩わされて、身体を休めことができないときには、父母兄弟親戚はもちろん、奴僕その他一切の煩わしい偶然の事柄のない真理の場所を求めるものである。そこには邪魔になるものは一切なく、なんらの妨害を受けることもない。
こうしてこのような場所には諸々の芸術や道徳や、技術の神々や、妖魔が存在し、またそこには決断および熟考があり、星を戴く輝かしい遥かな蒼天が覆っている。デモクリトスはおそらく知識を求めようとして、その境界に行っているのである。そして彼は市井のあらゆる俗事を逃れて旅しているのである。寂寞を欲していることによって、私は彼が妄想に悩むものと思う。デモクリトスのこの精神を理解しないために、アブデラの人々は金を投じて彼の容体を検診させようとするのだ。ともあれ私の一行を待ち受けられよ。私はいま混乱している都市にさらに不安を掻き立てるようなことはしたくない。特に私の旧い親友が今回の主役であるゆえになおさらである。
ヒポクラテスのダマゲット宛書簡
・・・・・私は急遽アブデラ市民の治療に赴く必要がある。かの地においては、一人の病めるデモクリトスのために全市を挙げて病に罹っている。恐らくあなたはこの人の名声をすでに承知しておられることと思う。彼の同郷人は彼を精神錯乱者と考えているのだ。しかし私は彼が真に狂人ではなく、ただ市民がそう信じているだけのことだと思う。市民のいうところは、彼が何事に対しても止めどなく笑っている。そのため、これを妄想の兆候とするものである。だからあなたの友人たちにも笑いすぎることなく、また泣きすぎて中庸を失わないよう注意されよ。親切に真面目に道徳に専念するようにするがよい。
なにごとに対しても笑うということは不快なことである。無礼ということが不快である以上、笑うということはどんな目的においても良くないことである。私はデモクリトスに告げようと思う、人が病に悩み、殺され、または死ぬ、あるいはその他の不快なことに陥っている時、これに対して笑うべきであろうか。世に喜悦と悲哀との両者が存在するにもかかわらず、その一方を認めないということは、神の智に逆らうものではないか。君の父母、妻子、友人が病に罹るようなことがなく、つねに君が自分の笑いを続けていくことができるなら、それはまことに幸福なことである。しかし彼らが病むときに笑い、彼らが死ぬときに喜び、なにごとか凶報を聞くときにも喜ぶとすれば、あなたは悪人であって賢者とははるかに遠ざかるものである。もしあなたがこれらのすべてを悪と考えない場合は、あなたはメランコリーである。そしてあなたはただ単なる一アブデラ人と変わるところはない、と。
ヒポクラテスのフィロボーム宛書簡
私は当夜、デモクリトスの傍で種々熟考し、かつまた彼に気を付けて休んだ。朝夢を見たがその夢の中では別段危険が起るとも見えなかった。しかし私は奇妙に夢から覚めた。私はその夢の中でエスクラビオスと共にアブデラの門の前に立っていたと思う。しかしエスクラビオスは通常画像に示されているような温和な相貌ではなく、狂暴で忿怒の様をあらわし、蛇性の龍を随え、龍体は長い輪を描いて進んでいた。そのありさまは、ぞっとするほど恐ろしいもので、峡谷や荒野において笛声を聴く時のようだった。またそれには密閉した薬瓶を擔う奴隷が従っていた。やがてエスタラビオスは私に手を差し伸べ、私も喜悦してこれを握り、そして彼が私と共に赴きかつ治療に際し常に私を守ってくれるよう嘆願した。彼は私に告げて言うに、現在の場合、お前は自分に仕える要はない。しかしわたしはおまえに死生共通な一人の女神を附随させるだろう、と。
私がふり返って見たとき、そこには美しい白衣を纏った女がいた。彼女の両眼は輝く星のように清らかな光をやどしていた。龍はこのときすでに消え去っていた。この美女は私の手を握り、しずかに街を歩んで私を誘った。そして私が親切な接待をうける家の前に来た時に、彼女は忽然と消え去った。その際、彼女は明日デモクリトスのところであなたに会いましょうと言い残した。そこで私は振り返って彼女に呼びかけた。おお、全能の神よ、貴女は一体誰で、何という名のお方なのですか、と。彼女は答えた。「真理だ」、と。またそこに現れたものを見ると、それは大胆で粗暴な顔貌を持っている女性だった。彼女は「迷信」と名乗るものでアブデラに住むものだった。
私は目覚めてから夢によってデモクリトスは医師を要しないものだと解釈した。なぜなら、治療の神はすでに過ぎ去り、そこには何ら治療すべき対象は存在しなかったからである。真理はデモクリトスが健全であるがゆえに、彼と共にとどまっている。しかしデモクリトスが病んでいるという迷信がアブデラ人にあるのだ。わがフィロボームよ、私はこれを真だと思う。そして、それは実際に真である。私は一定の秩序あるものであればその夢を軽んじない。医術と占術は甚だ似たものである。アポロンはこの両術の父であって、彼は現在及び将来の病を予言し、現在病みつつあるもの、またまさに病まんとするものを救うわれらの先祖である。
ヒポクラテスのクラチウス宛書簡
私はあなたが最良の薬草収集家であることを知っている。あなたの熟練においても、また名声においても、それは祖父クラテウスに劣らぬものである。あなにお願いしたいのは、私のためになるべく多種の薬草を数多く集めてください。私の薬は欠乏しているのです。私は全国家にも比儔すべき一人の人のために、すなわち一人のアブデラ人であるデモクリトスのためにそれを送っていただくことを希望するのです。
人々は彼が精神錯乱に陥っているから<排泄>を施す要があると言う。しかしそれはいままで全然試みられていないので、私はそうした施術には慎重を期すべきだと信じます。私は従来しばしば、あなたの収集された薬草を見、その性質の善良なことと、設備の完備していること、さらにあなたの国土の動物・植物・食物・医薬等に富んでいることを驚嘆賛美しています。かつまた、この依頼にはいささかも貪欲な動機はありません。アブデラの人は報酬を払って十人の秀才と共に私を招く以外に何等の考えももっていません。・・・(中略)・・・私はデモクリトスが薬剤を要することなく健康を回復するであろうとは思っています。しかし、もし自然力と時とその他の事柄が順当を欠くときは我々の不明を明らかにするよう全力を尽くす考えです。
ヒポクラテスのダマゲット宛書簡
わがダマゲットよ。事実は我々の想像した通りであって、デモクリトスは狂気ではなく精神の確かなものであった。彼は我々の知識を富ませ、またわれらを通じて、ここの人々を啓発せしめた。私たちの一行は実に幸福にかつ適確に航行し、私が約束の当日アブデラに到着することができた。我々はアブデラの老若男女が門ごとに愁いを湛えて我々を待ち受けているのを見た。また子供たちが不作法に神々の殿堂の傍らにつどうのさえも見た。これらの人々はいずれもデモクリトスが精神錯乱をきたした結果として、このようなありさまを呈しているのだった。しかし事実は、ちょうどそのときに、デモクリトスは彼の哲学を完成したところだったのだ。
さて街の人々は私たちの一行を見て、生気回復の観を呈し、希望に輝くように見受けられた。フィロボームは私たちの一行を我らを迎えるにふさわしい彼の家に案内したいと言った。私は彼らに告げた。アブデラの人々よ、私はただデモクリトスに会うことのほかは何も欲しない。人民はこの言葉を聞いて私を褒め讃え歓喜し、群がり集まって私を案内した。或る者は私に続き、或る者は道の両側に立って、助けよ、活かせよ、救えよとの叫びを挙げた。私は群衆を制止して、彼はおそらく病気ではあるまい、万一病気であってもおそらく治癒するだろうことを彼らに告げた。私はこのように叫びながら進んだ。家までは遠くはなかった。実にこのような状態が国のすべてにまで及んでいたのだった。
私たちはついに目的の場所に到達した。そこは城壁の近くであった。人民らは私たちをおもむろにここに導いた。城塔の後ろには小高い丘があった。丈高く繁茂した白楊の鬱蒼とした蔭にデモクリトスの小さい家があった。デモクリトス自身は低く覆い広がっているプラタンの樹下に、粗衣を身にまとい、裸足で直かに石の腰掛に座し、顔色は蒼然、身体は痩せ、髯を生やしていた。
家の傍には清らかな小川がさらさらと流れていた。また丘の上には礼拝堂があって、ニンフを祀っているようだった。その堂は天然性の葡萄蔓で覆われていた。
デモクリトスの膝の上には美装の本があり、その傍にも同様の本があった。彼の傍には片々に切断された動物の屍が積み重ねられていた。彼自身は沈思しては記載したり、また沈思に戻ったりしていた。そうかと思うと今度は立ち上がり、歩き回り、動物の内臓を観察しては再び下に置き、歩いてはまた座に戻ったりしていた。
私の周囲にいたアブデラ人は悲哀に沈み、ほとんど泣かんばかりに私に語った。ヒポクラテスよ、デモクリトスの生活を見よ。彼はまったく狂気となり、何を彼がなすか、何事を思うかすら分からないのだ、と。デモクリトスの狂気を一層切実に示そうとして、一人が子の瀕死を訴える母親のような声を発し、物を失った漂泊者のような挙動で歩き回った。
デモクリトスはこの声を聴いて高らかに笑い、一言も発せずに頭を振った。そこで私は言った。アブデラの人々よ、私はこの人の精神及び肉体を良く知り、真に病の有無を見極めるまでこの場所にとどまろうと。こう叫びながら私は静かに降り下った。道はけわしく、私はやっとのことで降りていったのだった。
デモクリトスはこの声を聴いて高らかに笑い、一言も発せずに頭を振った。そこで私は言った。アブデラの人々よ、私はこの人の精神及び肉体を良く知り、真に病の有無を見極めるまでこの場所にとどまろうと。こう叫びながら私は静かに降り下った。道はけわしく、私はやっとのことで降りていったのだった。
私が近づくと彼は興奮して精一杯に叫んだ。そこで私は立ち止まり、彼が静まる時を待った。彼は熱心な記述を終わってから私を見、私が彼に近付くとこう言った。
「見知らぬ人よ」。
「見知らぬ人よ」。
私はこれに答えた。「デモクリトスよ。無上の賢者よ。」
デモクリトスは恥らうようすで私に次のように問うた。これはおそらく私を知らないためであった。
「あなたは何と名乗られるか。自分はあなたの名を知らないので、見知らぬ人と呼んだのだが。」
「私はヒポクラテスという医師です。」
「エスクラブ族の名門!あなたの医術に於ける名声はわが国までも響いている。あなたはどんな用件で来られたのか。とにかく座られよ。あなたはまだ柔らかく青く快い葉の座に坐ることが、一時的幸福の妬みの座よりも満足すべきことを知られることと思う。」
私が座ったとき彼は更に問うた。
「あなたがここに来られたのは私用ですか。それとも公用ですか。私たちの力の及ぶかぎり、わたしたちはあなたをお助けしましょう。」
私は彼に言った。
「真の用件はあなたという無上の賢者と会うためです。あなたの故国が私に使者を送って、あなたのために私の来診を促したのです。」
「そうであるなら、どうか私の賓客となってください。わたしは幸い、出来れば人間について精密に究めたいと思っているのです。人間というものは不可解なものではない。」
「あなたはあなたの民であるフィロボームを御存じですか。」
「私は彼を良く知っています。あなたはヘルマイスの泉の傍に住むダモの子息のことを言っておられるのですか。」
「いかにもその人のことです。私は彼とは両親以来懇意の間柄です。デモクリトスよ、どうかあなたの家に私を迎え入れてください。然しその前にとにかくあなたが何をし、何を記載しておられるのか教えてください。」
デモクリトスは少し躊躇して言うには
「狂気について記載しているのです。」
そこで私は叫んだ。
「おおゼウスの大神よ。あなたは国家のためにそれを記しているのですね。」
「わがヒポクラテスよ、国家のためとはどんな国家を指すのですか。」
「わがデモクリトスよ、私は何事も言いません。しかしこの言葉を忘れることが出来ましょうか。さりながらいったい狂気について何事を書いているのですか。」
「狂気の症候とはどんなものか、いかに人間に宿りまたその治癒法がどうかというようなことではありません。」
デモクリトスはさらに言葉を継いで、
「見られるとおり、私が動物体を解剖するのは、神の創作に対する私の嫌悪からではなく、膽汁の所在と性質を研究するためです。人間において理知を欠く原因は膽汁の為で、膽汁の多量なところに理知の欠陥があるのです。膽汁は誰にでも自然に備わっています。しかしその量は人々によって異なります。それが過剰にあることは病気です。しかしそのもの自身は良いことの原因でもあれば悪いことの原因でもあります。」
「私はゼウスに誓って言いますが、デモクリトスよ、あなたのいうことはまことに真理です。私はあなたがあなたの時間をその研究に使うことを賞讃します。その仕事を妨げることは私の許されないところです。」
「ヒポクラテスよ、それは何故ですか。」
「政治、家政、子供塔、金銭、病死、奴僕、結婚といったようなことは我々の貴重な時間を奪うものです。」
デモクリトスは持ち前の病気すなわち笑いを発し、笑って笑い抜いた。しかしその他の点には異常はなかった。私はさらに言った。
「なにゆえにあなたは笑うのですか。」
彼は益々笑い続けた。アブデラの人々は小山の上からこのありさまを見て、或る者は頭を叩き、或る者は髪をむしった。後に聞くところによれば、この偉大な笑者が治ったのだと思ったということだった。
私はまた問うた。
「デモクリトスよ。賢者の最も卓越している者よ。私はあなたの悩みの原因を聞きたいのです。あなたは私を笑い、私の言葉を笑う。その原因はなんでしょうか。もしその理由がわかれば、私はその原因を取り除きたいのです。もしその原因が闡明せられたならば、あなたは、その時ならぬ笑いを控えてください。」
ここでデモクリトスは
「自分はヘリクレスに誓って言う。もしあなたが私を論破できれば、あたたは初めて私を治すことができるのですよ、ヒポクラテス。」と答えた。
「至上の友よ。どうしてあなたを論破できないことがありましょうか。あなたは人間の死、病、狂乱、鬱憂、殺人、あるいはその他の凶事を笑い、さらにまた、結婚、祝辞、出産、神事、集会、名誉等の好事を笑うことは不穏当であるとは思いませんか。ともに悲しむべき時にあなたは笑い、ともに喜ぶべきときにあなたは笑う。すなわちあなたにおいては好事と悪事の識別がないようです。」
「あなたの言われることはもっともです。わがヒポクラテスよ。しかしあなたはまだ私の笑いの原因を知らない。もしあなたがその原因を認めるならば、あなたが今回の派遣に対する酬いとして、私の笑いを確かにあなた自身およびあなたの祖国に持ち帰るでしょう。この笑いは人々を賢明にする卓越した治療なのです。あなたはあらゆる人間が努力する価値のない事柄に熱心に従事し、かつ笑うべき生活をしていることを認めるとき、その治療法を私に教えられますか。」
私はこれに答えた。
「諸々の神かけて私は申します。全世界において総ての人間が病んでいるということは隠れもない事実で、どこに治者を求めるべきかを知らないでいます。この世界以外、更に何があり得ましょうか。」
彼は答えた。
「世界には無限の空間がある。あなたは豊富な自然をかくも狭い範囲に限って、これを軽蔑すべきではありません。」
私は答えて言う。
「わがデモクリトスよ、拙速な説明をする気はありませんが、あなたは無限を計量するかのように、笑い始めればとめどない。あなたの笑いの原因を私に告げるべきことを思いだしてくださいよ。」
デモクリトスは私を一瞥していった。
「人々は馬鹿げたことに没頭し、何等の善いことひとつなさず、馬鹿らしいことに心を定め、理由のない仕事をし、際限ない欲に駆られて世界の隅々まで金銀を探し求め、これに努力して心身を共に困憊せしめているが、私は全てかような人間を笑うのみです。
彼らは幸福でないまでも、貧乏人ではなく、また恥を掻かぬようにとそれを行なうのです。また彼らは時に手づから土を掘り開き、時に降りかかる土塊を相手にしながら、微細な芥のはてまでも金銀を探し、これらを溶かし集めて母土から不用物を除き、その収穫に陶酔乱舞しています。
実に隠れた土に愛着し、表面に現れている土を等閑に付するとはなんと笑うべきことではありませんか。また犬を飼うものがあり、馬を飼うものがあります。広く土地を区画して自分の所有物と心得、また或る者は多くのものを支配しようと望んで自己を支配すべきことを知りません。又彼らは婦女子を娶っては総てそれを逐い出し、一度愛してはそれを斥けます。また大いなる愛をもってもうけた子供の成長するに及んで、これを放逐したりしています。
このような彼らの行為こそ全く狂人と区別し得ないではありませんか。なおまた彼らは自ら争ってやめることを知らず、王を推鼓したかと思えばまたこれを斥け、土を掘っては白銀を求めるに汲々としています。そして白銀を発見するやその土地を買いたいがために生産物を売り、生産物を売ることによって金を儲ける。いかに循環的にそれを回転させるか、またいかに不真面目にその回転を計るか。富なきときは富を得ることを望み、富を得てはこれを隠匿する。
私は人々がこのような益のないことを行なうことに対して笑うのです。またもしも彼らが行なってしかも良くない結果を収めるとき、なお一層これを笑わざるを得ません。彼らは真理の法則に違背しています。即ち彼らは熱心を以て自らに対し又兄弟両親及び同一市民に対して争闘しています。しかもその争いは自己の死後何等の用のない財貨の為にするものです。
このようなことに彼らは不断の努力を払い、貧困な友には蔑視を投げかけるが、彼らの富なるものこそ価値なくかつ生命なきものです。彼らは物を言うかのように真に迫っているからと彫刻物を買うけれども、真に物言うものを嫌うのです。全て容易に得難いものを得ようと努めます。大陸に住む者は海へ行こうと願い、島に住む者は大陸に住むことを願望します。
すべてこの人々はいずれもその欲望の虜になるのです。彼らは戦争においてこそ勇敢な行為を賞讃しますが、しかし一方においては毎日放縦と吝嗇に身を任せています。こうして彼らは諸々の悩みに苦しみ、煩わしい生活を営んでいます。
すべてこの人々はいずれもその欲望の虜になるのです。彼らは戦争においてこそ勇敢な行為を賞讃しますが、しかし一方においては毎日放縦と吝嗇に身を任せています。こうして彼らは諸々の悩みに苦しみ、煩わしい生活を営んでいます。
ヒポクラテスよ。君は私の笑いを果たして非難することができますか。すべて人たるものは何人も自分の愚を笑わずして常に他人の愚を笑うものです。自ら飲酒せぬものは泥酔者を笑い、病無きものは大病人を笑い、またある人は航海者を笑い、他の者は農事を嘲う。彼らは術に置いてもまた仕事においても、不調和を醸しているのです。」
ここにおいて私はデモクリトスに言った。
「デモクリトスよ、それはまことに真理です。この哀れな人間の行為を表わすにふさわしい適切な言葉に苦しむほどです。しかしこのことは家政の上に、舟を造る上に、その他人間生活のあらゆる必要上やむを得ぬところです。自然は人間を遊ばせておくために造ったのではありません。人間たちが過度の熱心のためにその正当な精神を昏まされてその成果には誤りがないものと信ずるのです。
しかしいまだ明らかでないことを予見することは至難の業です。デモクリトスよ、人が或る婦人と結婚してその病気や離別の場合を懼れ、または子供を養育して死亡を怖れるとき、またあ耕作あるいは航海に際して官憲を恐れるとき、総ての人間が生活上悪を願わずに善事を希うとき、則ち少しも不幸な出来事を考えない時、あなたの笑いはまったく当てはまらないものではないでしょうか。」
しかしいまだ明らかでないことを予見することは至難の業です。デモクリトスよ、人が或る婦人と結婚してその病気や離別の場合を懼れ、または子供を養育して死亡を怖れるとき、またあ耕作あるいは航海に際して官憲を恐れるとき、総ての人間が生活上悪を願わずに善事を希うとき、則ち少しも不幸な出来事を考えない時、あなたの笑いはまったく当てはまらないものではないでしょうか。」
デモクリトスは答えて言う。
「あなたには私の考えが容易には分からないでしょう。あなたに冷静な熟考と無暗な性急とを峻別する規矩がなければ私の考えは到底わからないでしょう。
人間が理知と熟考とをもって事をなしさえすれば、私の笑いは容易に取り去ることができるのです。しかしながら、いま人間は盲目同然で、生活上の変態に気づかず、あたかも彼らの生活が常態であるかのように心得、秩序のない理知に頼って不条理不自然な彼らの業に注意を払いません。
もう繰り返しは沢山です。こうしたことを速やかに変化させ、出来るだけ変転をなすことが必要です。人間は事物が不変であるかのように思い、全く日常の状態の変換を忘れている。
学問によって研究して自分の力を知り、自分の欲望を無限にひろげることなく、万物の養育者たる自然の与えるところをもって自足するとき、始めて常住不変の生活ができるのです。
健康なる身体に疾病の危険があるように、幸福の大いなる増進もやはり危険を伴う。不幸の中にもまた幸運が認められる。われらはその近くに起ることがわからないと同様に、自分が未熟なことを忘れがちなものです。
長命についてたとえれば、何人も長生きし得るかどうか未来のことは予見できないように、明白なことも未熟なために不明のことと同じく予見できないのです。これが私の笑いの種子なのです。
おお、順逆の転倒、吝嗇、敵対、奸計、隠謀等無限な悪事に向かって罪罰を払う愚かなる人々よ。詐謀の錬磨によって互いに悪事をただ心中に包蔵してこれを行ない合っている。さらにいっそう悪いことは道徳の偶像者です。彼らは熱心に自らを詐くことに努力し規律に従わずに享楽を求め、人間が耳も目もないもののように自説を説くのです。
人間が理知と熟考とをもって事をなしさえすれば、私の笑いは容易に取り去ることができるのです。しかしながら、いま人間は盲目同然で、生活上の変態に気づかず、あたかも彼らの生活が常態であるかのように心得、秩序のない理知に頼って不条理不自然な彼らの業に注意を払いません。
もう繰り返しは沢山です。こうしたことを速やかに変化させ、出来るだけ変転をなすことが必要です。人間は事物が不変であるかのように思い、全く日常の状態の変換を忘れている。
学問によって研究して自分の力を知り、自分の欲望を無限にひろげることなく、万物の養育者たる自然の与えるところをもって自足するとき、始めて常住不変の生活ができるのです。
健康なる身体に疾病の危険があるように、幸福の大いなる増進もやはり危険を伴う。不幸の中にもまた幸運が認められる。われらはその近くに起ることがわからないと同様に、自分が未熟なことを忘れがちなものです。
長命についてたとえれば、何人も長生きし得るかどうか未来のことは予見できないように、明白なことも未熟なために不明のことと同じく予見できないのです。これが私の笑いの種子なのです。
おお、順逆の転倒、吝嗇、敵対、奸計、隠謀等無限な悪事に向かって罪罰を払う愚かなる人々よ。詐謀の錬磨によって互いに悪事をただ心中に包蔵してこれを行ない合っている。さらにいっそう悪いことは道徳の偶像者です。彼らは熱心に自らを詐くことに努力し規律に従わずに享楽を求め、人間が耳も目もないもののように自説を説くのです。
人々は何物にも満足することなく、同じところに後戻りしています。彼らは航海を終わるや否やまたこれを始め、耕作を棄ててはまた畑を耕します。彼らはまた妻を放逐してはまた他の女と結婚します。
また生まれた子供を彼らは葬り、これを葬ってはまた子をもうけます。彼らは長生きを望み、高齢に達すれば嘆息し、何事に対しても恒久性の精神を持ちません。
王侯は市民の幸福を羨み、市民は支配権を羨む。官憲は芸術家を危険のない業として讃美し、芸術家はまた官憲の権力の絶大なるを羨望します。純潔で平坦な道徳の正道を求めず、また何人もこの正道を歩むことを敢えてしない。
彼らは道徳と相反する迂曲した邪道を進み、多くのものは追跡されるもののように喘ぎつつ堕落し、または争闘します。また或る者は人の妻女に対して野望を抱き、破廉恥にもこれを敢行するものさえある。また或る者は互いに陥穽を設け合い、また或る者は自ら驕慢し、そのために危険の頂点に立つ。また或る者は破壊してはこれを建設する。また或る者は人に好意を向けるが、やがてそれを後悔して友情の権利を中止し、敵愾心を起こし、また争いのために近親の権利を滅している。
総てこれらのものにあっては吝嗇ということが罪の原因です。彼らは忠言に対する何等の判断なく、ただ偶然性を喜ぶこと遊ぶ児童と何ら選ぶところがない。
野獣は飽満に際して自制力を有するが、彼らは何等か野獣と異なるところがあるでしょうか。一体、ライオンにして金を地中に埋蔵するものありや。牡牛にして不用の物の為に争うものがあるか。虎にして際限なく餌を貪るものあるか。野猪にして水に足りてもその上になお水を欲するものがあるか。狼といえども自己に必要な量の食物を得た上は静かなものです。
しかし人間のみは昼夜の境もなく貪婪あくことを知らない。時節に従って野獣の情欲には一定の限定があります。しかし人間はそのことがない。
また生まれた子供を彼らは葬り、これを葬ってはまた子をもうけます。彼らは長生きを望み、高齢に達すれば嘆息し、何事に対しても恒久性の精神を持ちません。
王侯は市民の幸福を羨み、市民は支配権を羨む。官憲は芸術家を危険のない業として讃美し、芸術家はまた官憲の権力の絶大なるを羨望します。純潔で平坦な道徳の正道を求めず、また何人もこの正道を歩むことを敢えてしない。
彼らは道徳と相反する迂曲した邪道を進み、多くのものは追跡されるもののように喘ぎつつ堕落し、または争闘します。また或る者は人の妻女に対して野望を抱き、破廉恥にもこれを敢行するものさえある。また或る者は互いに陥穽を設け合い、また或る者は自ら驕慢し、そのために危険の頂点に立つ。また或る者は破壊してはこれを建設する。また或る者は人に好意を向けるが、やがてそれを後悔して友情の権利を中止し、敵愾心を起こし、また争いのために近親の権利を滅している。
総てこれらのものにあっては吝嗇ということが罪の原因です。彼らは忠言に対する何等の判断なく、ただ偶然性を喜ぶこと遊ぶ児童と何ら選ぶところがない。
野獣は飽満に際して自制力を有するが、彼らは何等か野獣と異なるところがあるでしょうか。一体、ライオンにして金を地中に埋蔵するものありや。牡牛にして不用の物の為に争うものがあるか。虎にして際限なく餌を貪るものあるか。野猪にして水に足りてもその上になお水を欲するものがあるか。狼といえども自己に必要な量の食物を得た上は静かなものです。
しかし人間のみは昼夜の境もなく貪婪あくことを知らない。時節に従って野獣の情欲には一定の限定があります。しかし人間はそのことがない。
ヒポクラテスよ。何等の利益がないにも拘わらず際限もない彼らの欲望を私は笑わずにいられようか。なおまた何人でも断崖を渡り深海に航する冒険者となることこそなおさら笑わざるを得ない。
ことにまた多くの宝を海底の藻屑と失ってから、海を呪うに至ったものを笑わずにいられようか。
しかし私はただ嘲笑者と見られたくない。否、私は彼らに対する私の憤怒を表現する工夫に盡きてこのように笑っているのです。こうするよりほかに私は彼らを矯正する道がなく、またこれを活かす薬剤を調製することも望みがないためです。
ことにまた多くの宝を海底の藻屑と失ってから、海を呪うに至ったものを笑わずにいられようか。
しかし私はただ嘲笑者と見られたくない。否、私は彼らに対する私の憤怒を表現する工夫に盡きてこのように笑っているのです。こうするよりほかに私は彼らを矯正する道がなく、またこれを活かす薬剤を調製することも望みがないためです。
人間は生来病に罹っています。彼は育成される間、何等の役にも立たず他人の助力に俟つより外なく、成長する間は制御すべからざるかつ理解力なきものであって、これに教師を要するものです。
またその青春期においては向こう見ずです。人間はかようなものとして穢辱の子宮より生み出され、或る者は怒り易く、或る者は節度を欠いて強暴であり、また或る者は常に不幸との闘争の生活の中にあります。
また或る者は破廉恥の中にあり、或る者は泥酔し、或る者は他の事柄に執着します。また或る者は消費に耽っています。もしも家毎にその閉ざされた扉を開いて、その蔭で行われる真相を見究める力があるとすれば、或る者は食事を取って居り、或る者は吐いており、懲罰を加えるものあり、薬剤を混じているものあり、詐謀を企むものあり、或る者は喜び、或る者は泣き、その友を訴えているもの、または高慢にして理性を失うものあるのを見るでしょう。
これらの行為が心中に深く蔵されている場合ももちろん多いでしょう。これらの中には若者もあり、老人もあり、貧しきもあり、また富めるもあり、飢餓に直面しているものもあり、有り余る財物を擔っているものもあり、穢きものもあり、桎梏を被むるものもある。また自己に耽溺するもの、死ぬるもの、埋葬されるもの、自己の持っているものをうっちゃっておいて他人のものを欲するもの、破廉恥なるあり、節約するあり、飽くなき欲望を抱くものもある。
またその青春期においては向こう見ずです。人間はかようなものとして穢辱の子宮より生み出され、或る者は怒り易く、或る者は節度を欠いて強暴であり、また或る者は常に不幸との闘争の生活の中にあります。
また或る者は破廉恥の中にあり、或る者は泥酔し、或る者は他の事柄に執着します。また或る者は消費に耽っています。もしも家毎にその閉ざされた扉を開いて、その蔭で行われる真相を見究める力があるとすれば、或る者は食事を取って居り、或る者は吐いており、懲罰を加えるものあり、薬剤を混じているものあり、詐謀を企むものあり、或る者は喜び、或る者は泣き、その友を訴えているもの、または高慢にして理性を失うものあるのを見るでしょう。
これらの行為が心中に深く蔵されている場合ももちろん多いでしょう。これらの中には若者もあり、老人もあり、貧しきもあり、また富めるもあり、飢餓に直面しているものもあり、有り余る財物を擔っているものもあり、穢きものもあり、桎梏を被むるものもある。また自己に耽溺するもの、死ぬるもの、埋葬されるもの、自己の持っているものをうっちゃっておいて他人のものを欲するもの、破廉恥なるあり、節約するあり、飽くなき欲望を抱くものもある。
また或る者は打ち、或る者は打たれ、或る者は高慢であり、或る者は虚栄の妄想に満ちている。又これらのうちのさらに或る者は馬、人間、犬、医師、材木、真鍮、また絵画の監督者であり、或る者は使者であり、或る者は軍人であり、或る者は祭祝に勤めている。或る者は冠を戴き、或る者は武装し、或る者は殺される。
これらの者のうちではまた、海戦に従事し、農業に従事し、荷役に働くものもある。或る者は博物館に、或る者は寺院に、或る者は劇場で働く。或る者は隠遁し、或る者は享楽に耽る。或る者は閑暇と睡眠とに耽っている。我々がさように価値のない、かつ不幸な多くの例をみるとき、いかにして彼らの度を過ぎたその生活を嘲わずにいられようか。
自分は医術というものは何らこれに役立たぬことを懼れます。中庸を得ないために人々は総てのことに不満を抱くのです。それ故彼らは賢者をもって愚者と見るのです。
私は彼らがあなたの術の大部分を非難するだろうと思います。これは医術に対する猜疑と忘恩とから発するのです。それでひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。
多くのものはまた(自分の力で自然に治癒したのだというふうに)自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そしてそれとは反対に、(患者が死んだり治癒しないなど)悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです。
術に関して何等の知識を持たぬ多くの人々は身体のためにしてはならないことをします。愚かなものたちは医師に心服せず、また医師が術の証明を与えないために医師の忠言を受け入れないのです。この場合にもまた猜疑ということが働くのです。あなたはこのような人々の愚昧な振る舞いをみていないのでしょうか。」
私は彼らがあなたの術の大部分を非難するだろうと思います。これは医術に対する猜疑と忘恩とから発するのです。それでひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。
多くのものはまた(自分の力で自然に治癒したのだというふうに)自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そしてそれとは反対に、(患者が死んだり治癒しないなど)悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです。
術に関して何等の知識を持たぬ多くの人々は身体のためにしてはならないことをします。愚かなものたちは医師に心服せず、また医師が術の証明を与えないために医師の忠言を受け入れないのです。この場合にもまた猜疑ということが働くのです。あなたはこのような人々の愚昧な振る舞いをみていないのでしょうか。」
デモクリトスは笑いながらこのように語った。その態度は神々しく以前の狂気染みた状態とは全然一変していることが分かった。私は彼に答えて行った。
「我が尊敬すべきデモクリトスよ、私はこの大いなるあなたの友情の土産をコス島に持ち帰ります。あなたは実に私に賢明な知識を十分に与えてくれました。私はあなたによって人間の自然性をきわめることができ、あなたの真理の告知者としてここを去ることができます。
私はいわばあなたから精神治療を受けたわけですが、あなたの身体の治療のほうは私の方の問題なので、明日続いてここでお目にかかりたいと思います。」
私はいわばあなたから精神治療を受けたわけですが、あなたの身体の治療のほうは私の方の問題なので、明日続いてここでお目にかかりたいと思います。」
こういって私は立ち上がった。このときデモクリトスは私に続こうとしていたが、ちょうどそこへ入って来た見知らぬ一人の男に本を手渡した。私は待たせておいたアブデラ人の方に急いで行った。私はそこで彼らに告げた。
「人々よ。私はあなた方に深く感謝したい。私はデモクリトスにおいて最上の賢者すなわち人間を賢明ならしめることを最も良く理解している者を見いだしたのです。」
わがダマゲットよ、以上は私が喜んでデモクリトスについて報告する事柄である。
saysei at 22:12|Permalink│Comments(0)│