2025年01月

2025年01月31日

池谷裕二さんの『夢を叶えるために脳はある』を読む

 だいぶ前に、この本が小林秀雄賞を受賞した、というのを何かで知って、一度読んでみたいと思って、書店へいくついでに買おうと、気を付けて見ていたのですが、一度も見かけたことがなくて、じゃアマゾンで買おうかと思って一度調べたら、ちょっといまの私の懐具合に対しては高かった(税別2200円)ので、結局買わずにいました。

 たまたま今日、日本のAI関連のスタートアップを紹介した特集記事を掲載しているらしいForbsという雑誌がないかと書店を覗いたら、その雑誌はなかったけれど、この本を書架に見つけたので、つい衝動買いしてしまいました。

 早速読み始めましたが、本文だけで650ページに及ぶ分厚い本の、まだ100ページちょっとのところです。しかしこれまで読んだ印象ではなかなか興味深い内容で、どうやら途中で投げ出すようなもったいないことはしなくて済みそうです。

 わたしはテレビなどマスメディアに登場するような文化人(学者も含めて)というのはあまり好きではないし、おおむね信用もしていないという、まあ偏見に類するものが感覚的にあるものですから、超ベストセラーになった本を書いてテレビなどで引っ張りだこの歴史学者某にしても、この著者にしても、肝心の著書のほうはまだ一冊も読んだことがなくて、本より先にテレビで毎土曜日の夜、レギュラーのゲストとして登場するご本人のほうに先に(画面を通して)お目にかかっていたのです。

 それで、こうして著書を読んでいても、ついあの童顔(笑)を思い浮かべながら読んでしまうのがちょいと難といえば難ですが、本の中身は、私などまるで知らなかった最近の脳科学の達成について書かれているので、大いに啓蒙されるところがあります。
 それも高校生相手の3日間の実際の講義を下敷きにして、大幅に増補したり書き直したりしてできたものらしいけれど、高校生相手に問答しながらゆっくりと進めていくスタイルはそのまま採用されているので、語り口が易しく丁寧で、わたしのようなこうした分野にまったく無知な読者にも容易に理解できるようになっています。

 今まで読んだところで特に印象に残っているのは、ネズミの頭に地磁気センサーを埋め込んだら、ネズミが東西南北を感知してうまく迷路を潜り抜けることができた、というふうな、人工的な先端機器と人間の生体の一部である脳との連携なり結合なり融合?なりで、人間が生体としての脳の性能を超える能力を獲得するといった話です。

 今私が「連携」といったのは、たとえば赤ん坊の時は誰もが持っているのに成人するとほとんどが失う絶対音感がわかる能力に関して、もともとそれを感受できる脳の活動を人工知能で読み取って、その分析結果を本人(の脳)にフィードバックすることによって、ごく短期間に学習させ、その本来もっている能力をいわば目覚めさせるといったことを指しています。

 ほかにも将棋の打ち手だとか、日本人が苦手とするRとLの音の聞き分けだとか、いろいろ例が挙げられていましたが、もともと生理的な能力としてはどんな人(の脳)も備えているけれども、なんらかの理由で眠っている能力を、人工知能がその能力を解発するための情報を読み取って、脳にフィードバックしてやることで、脳が眠っている能力を発揮できるようにする、という類の話です。そうすることで人間の能力が飛躍的に高まると言ってもよいでしょう。

 私はずっと若いころに、技術の発達が人間そのものの改造に向かうなら、いずれ人類はもう一段大きな飛躍をして、今の人類の能力を格段に上回る能力を備えた、現生人類とは質的に異なるといっていいほどの、いわば「新人類」になっていく時が来るのではないか、と想像し、おそらく地球の危機に直面して地球を脱出して宇宙のどこかに生きる場所を求めるというようなことは、そういう飛躍がないと難しいだろうと思っていたことがありました。

 そういうSF的な話でなくても、例えばいつまでたっても国家と国家の戦争が絶えず、地球を何度も壊滅させて余りあるほどの兵器を生産しつづける愚かなことを繰り返し、また極端な一握りの富裕層にその他の膨大な貧困層が抑圧されるような社会の不合理が、従来の革命だの社会改革だのといった手法ではとうていあらたまりそうにもなく、おそらくそうした困難な問題は、生体としての人類自体がもうワンランク上の、困難な問題を解決しうる頭脳をもった、質的な飛躍を遂げた「新人類」に飛躍的進化をとげることなしには不可能なのではないか、と考えたのでした。

 ニーチェとは違って、人間の生理的な進化の果てを空想したSF的な「超人」思想ですが、池谷さんのこの本の上のような記述部分を読んでいると、あの空想がよみがえってきて、もうそういうことの入り口まで来ているな、と感じたのです。

 それはおそらく人間という存在のありようが根本的に変わっていく、ということであって、池谷さんも書いているとおり、当然様々な危惧、倫理的な激しい異論等々を引き起こすに違いないけれど、この種の技術の進化に関することは、その核に人間の無償の好奇心のようなもの、創造に向かう素朴な動因のようなものがあるので、いかなる危惧であれ、法であれ権力であれ、とどめることは不可能で、決して逆戻りすることなく、未知の世界を実現していってしまうことは疑いありません。

 これまでのアンドロイドのようなものは、まだ人間と技術がつくりだす人工物との不器用な接続のイメージでしかなく、私が空想したような生身の人間自体がもう一段高い性能をもった質的に新しい地平を開くような「新人類」に進化するというのとは違って、いまの人間がそのままで人工物(メディア)だけが高度化し、それを単に使いこなすだけで、本質的には現在となにもかわりません。

 しかし池谷さんが書いているような事例は、人工物(メディア)を高度化することで、逆に人間の持つ情報を精細にとらえてこれを人間にフィードバックすることによって、生身の人間の性能(能力)自体を(潜在的に持っている能力を<覚醒させる>ことによって)飛躍的に向上させるということ、つまり生身の人間(脳の性能)自体が質的に変わるということで、少なくともその入り口にあたるような試みを明確な展望をもってやっている、ということだと思います。そこが非常に興味を惹く点です。

 まだほんの入り口にさしかかったばかりのようだから、池谷さんらの試みも実に危なっかしいもののうように見えなくはないけれど、人類がそういう段階にさしかかっていることを示すひとつの兆候として興味深く読んだのでした。

 ところでこの本の前に、昨日から読んでいたのは、だいぶ前に買ってツンドク状態だった飽本一裕さんという人の『今日から使える微分方程式』という新書判の本です。
 私はいちおう大学で最初に入学したのは理学部だったので、最初の2年間は数学や物理へ進むやつも生物系や地質鉱物なんて言う学科へ進むやつもまぜこぜになって一般教養と将来の理系の基礎になる知識や実験を経験するようなことをしていたので、微分方程式の初歩くらいはやったはずなのですが、例によってすっかり忘れています。

 また、工学部と違って理学部はたとえ学んでももっぱら理論だけで、実社会のいろんな場面での具体的な応用にすぐ転化できるような形での学び方はしないのが通例でしたから、何も知らないも同然。
 
 それでこの本を読むと基礎的な数式の説明だけでなく、それが現実にどういう場面でどう使われて役立っているかが懇切丁寧に説明されているので、とても面白い。
 まだこれも100ページほど読んだだけですが、私のような数学オンチを自称する者でも面白く読めるので、もう少し楽しんで読んでいきたいと思います。

 ただし、どうしてこの式が導き出されたのかは、書いてはあっても、計算ができるようになりたいわけではないので、そこは省略。いまは計算するだけなら、AIにでもやらせればすぐ答えを導いてくれるでしょうから、自分が設計するために新しい計算方式を試みようとでもするのでなければ、既存の計算式の行間を埋める作業はわたしのようなド素人には必要ないでしょう。

saysei at 22:02|PermalinkComments(0)

今朝の新聞から

 日経新聞の朝刊に、東京五輪・パラリンピックをめぐる談合事件で、電通グループに求刑通り罰金3億円の判決が出たと載っています。当然のことだし、電通にとっては3億円など痛くもかゆくもない罰金でしょうが、オリンピックなどの国家的イベントのたびごとに権力とむすびついて繰り返して来た汚職、国民の税金を公然とかすめ取っていく犯罪のデパートのような巨悪に一矢報いる象徴的な意味だけはあったでしょう。すぐに控訴したそうですから、巨悪が反省などすることないし、また同じことを繰り返すつもりなのでしょう。

 この件では電通の元スポーツ局長補が、組織委員会の元次長(執行猶予つき有罪判決が確定しているそうです)と共謀して、競技ごとの落札業者を割り振ったリストをつくって、受注予定事業者を決定したことはまだ記憶に新しいし、予備段階のこの汚職が、金額が桁違いに大きくなる本大会の受注に直結していたことは当時報道された通りですが、そうしたからくり(本大会での受注との関連)についても東京地裁は認定したようです。これも当然のことでしょう。

  本大会での巨額の発注を人為的にコントロールすることが目立たないように、金額の圧倒的に小さい前段階の発注先をコントロールしておいて、本大会ではその同じ発注先に委ねただけ、というスタイルをとって国民の目をごまかそうとしたわけですから、その関連を認定しなければお話になりません。そこを明確に認定して、主役を演じた電通を有罪としたことは、司法が政治の闇に左右されず、最小限自分たちの役割を果たしたので、まずもってめでたしめでたし、と評すべきでしょう。


 もうひとつ裁判関係で重要な動きがありました。安部元首相が暗殺されて、事件そのものが風化気味でしたが、こちらは財務省が政治の闇に左右された事件。

   例の森友事件で安部夫人の名が登場する財務省文書の改竄をめぐって、改竄を指示したのが誰か、どのような経緯で改竄が指示されるに至ったのかなどを検証する上で不可欠な、財務省文書を捜査段階で財務省は大阪地検に提出したはずですが、上司の指示で決裁文書の改竄を行なって、事件の発覚する渦中に自殺をとげた財務局元職員赤木俊夫さんの奥さんが、真実を明らかにしてほしい、とその文書の開示を求めていたのに対して、財務省は不開示決定をしてこれを拒否し、総務省の審査会が不開示決定を取り消すべきだとの答申を出していたにもかかわらず、これをも拒否して頑なに文書を隠蔽していたのです。

  これに対して、30日、大阪高裁は文書不開示の取り消しを指示したとのことです。
  財務省という役所は、安部さん自身の回顧録でも、省益のためには首相の首をすげかえるくらいのことは平気でやってのける恐ろしい役所だと言われていますが、森友事件における安部首相の関わりが鋭く追及され、政権の行方にも影響を及ぼしかねない状況の中で、そのかかわりを証拠立て、あるいは示唆するような財務省文書の記述の改竄をして証拠隠滅を図ろうとした財務省内の権力が職員であった赤木さんに圧力をかけて改竄させたことは、報道された情報からだけで誰にでも察しがつく明々白々なことでした。

 しかし、それを犯罪として摘発するためには明白な物証が必要なのが司法ですから、いったん裁判となれば犯罪を犯した権力者たちは居直って罪を認めようとしないので、そういう輩でも認めざるを得ない証拠をつきつけ、真実を暴露するには、想像を絶するほどの努力と時間がかかることになります。
 
 その長い苦しい戦いを、夫の死を契機に続けてきたのがこの赤木夫人です。彼女は実に粘り強くこの巨大な権力に立ち向かい、その闇の権力構造を少しでも明るみにだし、亡夫を自死にまで追い詰めた圧力がどのようなものであったかを暴こうと戦い続けています。

 その赤木夫人の訴えに、司法は今回、少なくとも財務省のように門前払いをくわせることなく、わずかな一歩とはいえ、真実にいたる最初の扉を開いたわけで、これもよいニュースでした。しかし、自らのうちに深い権力の闇を宿し、それを隠蔽することで強大な権力を保って来た財務省が素直に開示に動くはずもなく、ただちに控訴するようですから、まだまだ道は気が遠くなるほど遠いのでしょう。

 
  裁判以外の記事で私が注目したのは、先日の生成AIの新たなモデルで世界に衝撃を与えたディープシークの創業者梁文鋒に対して、2024年7月に行われたというインタビューを掲載した記事でした。それは2024年5月に発表された大規模言語モデル「ディープシークV2」がシリコンバレーに衝撃を与えたことを契機に行われたインタビューだったようです。

  そこで梁文鋒が語っているのはこんなことです。
  「米国では日々大量のイノベーションがごく普通に生まれている。その中で、ディープシークV2はとりたてて特別な存在ではない。彼らが驚いたのは、これが中国企業に手によって生まれたことだ。これまで追随するばかりだった中国企業が、今回はイノベーターとしてそのフィールドに参入したからだと思う。」

  実に冷静で、自分たちの世界における位置を正確に見据えているな、と思います。彼は、これまでの中国は欧米の先端技術の開発に追随して、それを応用し、普及させ、経済的な利益を得ることに邁進してきたが、経済成長を遂げたいま、それではだめで、イノベーションの側にまわって技術の発展に貢献していく必要がある、と言います。

 そして、イノベーションは単なる「イノベーションドリブン」つまり金儲けを動機として成功するものではなく、創造意欲から生まれてくるものだ、と。そして、イノベーションには個人や個々の企業の努力だけでなく、成熟した技術コミュニティーや産業全体の努力が必要で、エヌビディアが今日の地位を築いたのも、背後にそうした条件があったからで、中国の場合にもこのような「エコシステム」の形成が不可分な条件になる。中国で国産チップの開発が進まないのも、技術コミュニティのサポートが不足していて、最新の情報が入ってこないからだ、と指摘しています。
 これらは非常に的確な指摘だと思います。

 産業技術におけるイノベーションであれ、芸術文化あるいは学術などの分野におけるイノベーション、つまり新たな段階を画するような創造的な技術が生まれてくるためには、個々人や個々の集団、企業等々の努力だけではどうにもならないところがあって、それを支える幅広く多様な分野の技術、情報、人材等々の組織的な社会的基盤、彼の言う「エコシステム」の形成がなければ不可能だ、ということでしょう。

 今回ディープシークがなしとげた、米国のIT産業をも驚かすような開発についても、エヌビディアに追いつき、ひょっとしたら追い越したぞ、と誇るわけでもなく、自身の、あるいは母国のAI産業の立ち位置を非常によく自覚し、その問題点を見据えた冷静な認識を披歴していて感心します。

 今回の新たなモデルの開発については、オープンAIのモデルからの盗用だとか、その性能も数学では正答率が17%しかなかったらしいとか、あれこれSNS上では同社をけなし、その価値を低く見なそうという悪口雑言がかしましく上がっているようですが、報道でわずかに垣間見える創業者の発言からは、そんな無責任な噂とはまるで無縁なすぐれた技術者の姿が見えるようです。

saysei at 19:11|PermalinkComments(0)

2025年01月29日

生成AIで中国が先んじる

 わたしたちの社会を根底から変えてしまいそうな生成AIの開発競争は、もっぱら大量の資金を投入でき、その開発に不可欠と思われた最先端の高度な機能をもつ半導体の確保でも圧倒的優位に立つ米国の一人勝ちかと思われていましたが、昨日、突然そういう漠然とした思いをひっくり返されるようなニュースが飛び込んできました。(以下、情報は日経新聞長官総合2面「AIチャイナショック」によります)

 中国の一ユニコーン企業「ディープシーク」(杭州深度求索人工智能基礎技術研究)が、革新モデル「RI」を開発したというニュースで、米国の生成AIでひとつのモデルを開発する費用の十分の一で、同等ないしそれ以上の性能を備えたモデルを短期間で開発した、というのです。

 このニュースが世界をかけめぐり、米国のAIを牽引する高性能半導体を製造するエヌビディアの時価総額はなんと1日で5900億ドル(約91兆円)減少したほか、米日のテック企業の株が軒並み急落したと報じられています。 

 日経新聞の記事はこの成功には、中国の「二つの<ない>」と「二つの<ある>」が原動力があったという、なかなか分かりやすい鮮やかな解説をしています。
 先ず中国に<ない>ものとは、米国のAI企業が市場で集める膨大な資金量、開発のための投資資金です。AIモデル開発で一番コストがかかるのは、模範解答を学習させる「トレーニング」過程だそうです。RIはAIに人間のような推論能力を持たせ、知らない問題でも思考の末に答えを導く「自己進化」を可能とすることによって、このハードルを越えたようです。
 もちろんほかの生成AIもやっているように、公開技術を組み合わせていいとこどりする「蒸留」方式で効率よく学習させもしたでしょうが、推論能力を持たせることで飛躍的な効率化を果たしたことは想像に難くありません。

  いまひとつの中国に<ない>ものとは、生成AIモデルの開発に不可欠な、Chat-GPTなどで使用される最先端のAI半導体(その8割のシェアをエヌビディアが持っている)です。米国の高性能半導体の禁輸措置などで益々中国はそうした半導体の入手が困難になっています。ところがRIは半導体のメモリ使用量を大幅に減らす構造設計を開発して、数量的にも、また質的にも最先端でない半導体を使ってこの成果を達成してしまったのです。

  ディープシークの発表によれば、開発期間は2か月、開発費用は560万ドル(8億6千万円)で、米グーグルの一世代前のAI「Geminiウルトラ」開発では1億9100万ドル(300億円)、米オープンAIの「GPT-4」は7800万ドル(120億円)かかっているらしいから、まさに桁違いの低コストで開発されています。
  そしてその性能は、様々な質問に多言語で答えたり、難易度の高い数学の問題を解くなどする20項目の過半で、オープンAIやアンソロピックなどのモデルを上回ったといいます。
  
  ではAI開発に必要な中国に「ある」ものとは何かといえば、ひとつは豊富な人材です。いまや北京大学、清華大学はじめ中国の主な大学がみなAI部門を拡張して人材を大量に輩出し、世界のAI研究者の半数近くが中国で学ぶようになっているのだそうです。また、このディープシークは浙江省出身で1980年代生まれだという梁文鋒が起業した杭州市のユニコーン企業だそうで、約140人の開発チームが偉業をなしとげたようですが、その社員は20代中心で、全員が海外経験のない本土人材だそうです。
  もう米国で学んで本国へ持ち帰って、という段階は終わって、中国は内生的にどんどんAI技術者を輩出するフェイズに入っているわけです。

  もうひとつの中国に「ある」ものとは、日経新聞の書き方によれば、「逆説的な<自由>」だといいます。確かに中国政府は政治的な批判等に対しては過敏でたちまち弾圧的な措置にでるけれど、技術開発等の枠内では、むしろ欧米よりもずっと自由というか、ほとんど放任状態なので、好き勝手に開発を進めることができるようです。
 例えばヨーロッパでは、知的財産権の問題、倫理的な問題、軍事利用の制限などについて開発者、開発企業に厳しい制約を課す傾向にあり、米国も多かれ少なかれそれに準じた姿勢をとってきました。しかし中国ではそうしたことはおかまいなしなので、制約を感じることなく純粋に技術的観点からのみ開発を進めることができるようです。

  なんだかこうして並べていくと、習近平が「われわれの政治体制のほうが欧米流のいわゆる民主主義体制よりもすぐれている」と嘯き、ドヤ顔をするのが目に見えるようです。

  やっぱり技術的な優劣なんてほんの一瞬で変わってしまうものですね。日本も産業の再振興にはなによりも人材育成こそ急務と言って、あわててAIはじめ情報技術系人材の育成を拡充しているようだけれど、その方向を誤れば役に立たないことに時間と金を費やすだけになりそうです。

  そして、人口そのものに10倍以上の格差がある中国が本気を出して、必要な分野の人材育成にかかればこんなふうにあっという間に優秀な専門技術者集団を組織してしまえて、ほんの短期間海外の優れた研究機関で学んだら、あとは自前でどんどん人材を育成していけるんですね。

  しかし単なる人海戦術ではなくて、ちゃんとふたつの「ない」という制約を踏まえて、それを克服するより効率的な方法を創造して、質的に格段に優秀で、効率的で、特別な素材を必要としない国産技術で可能な、しかもうんと安上がりな方策を見出したところは、率直に言ってすごいな、と感心せざるを得ません。

  日本でAI人材育成といっていても、結局米国方式の後追いでは、資源において、資金において、人材の量において圧倒的に乏しいから、先端に躍り出ることは非常にまれな個人の才能をあてにするほかには成功しそうにありません。
 その点で、米国のAIとは異なる設計を考え出し、米国が独占しようとする先端半導体を大量に必要とはしない方法で、同等以上のモデルを短期間に低コストで実現してしまった今回のディープシークの快挙には、世界中の技術者たちも脱帽せざるを得なかったようです。

 もう目の前に来ている次の社会の基盤的技術の核心をなすといわれる生成AIで、はっきりと中国が先頭に躍り出たことを象徴するような出来事でした。

 日経新聞のこの記事と同じページのコラム欄には、今まで主流だったAIモデル開発の方式とは異なるディープシークのような新たな開発方式の比較表のようなものが出ています。そこには日本発のAIユニコーン「サカナAI」というのも挙がっています。「24年3月、公開済みの複数のAIの大規模言語モデルを掛け合わせて短期間ですぐれたAIモデルを生み出す手法を発表」というふうな簡単な説明があります。同社については、私もテレビで一度紹介されるのを見たことがあります。そういうオリジナルな開発方式を模索する動きもごくごくわずかながら見られるのは、希望ですね。

 同じ表の最後に、「カリフォルニア大学バークレー校」の名のもとに、「450ドル未満、19時間で開発したモデルが大手の性能に匹敵と公表」とあるのは一体何でしょうか。これだけではさっぱりわかりません。まるでフェイクニュースみたいですね(笑)。490ドル?19時間で開発?大手の(生成AIの)性能に匹敵?ほんまかいな・・・

 でもド素人にもこういう先端的な開発競争の行方は興味深いですね。これこそ人間の創造的能力の究極の競い合いで、一旦革新的な技術が開発されれば、それまでの技術的優位はすっかりひっくり返って、その古い技術も、それに不可欠だったAI半導体みたいな素材も、その技術を習熟した技術者も無価値(とはいえないかもしれないけれど)になってしまって、また新たな競争が始まる・・・それはたぶんスポーツ選手がそれぞれの競技で人間の限界を超えていくのを見るスリリングな経験と似ているのかもしれませんが、より複雑、より劇的で、より私たちの生活それ自体にそう遠くない日に直接大きな影響を及ぼす点で格段に興味深いところがあります。

saysei at 13:04|PermalinkComments(0)

水道水に高濃度PFAS(有機フッ素化合物)~岡山県吉備中央町

 今朝の日経新聞は社会面で、岡山県規模中央町の水道水が、発がん性などが疑われている有機フッ素化合物(PFAS)で汚染され、昨年11~12月に町が実施した709人の住民の血液検査の結果、血液中の濃度が平均151.5ng/mlと、米国学術機関が健康リスクが高いとする濃度20ng/mlの7.5倍あまりの高濃度であることがわかったと報じています。検査をうけた住民の9割近くがこの値以上だったそうです。PFASの一種でWHOが発がん性があるとするPFOA(ぺルフルオロオクタン酸)の血液中の濃度が最も高かった人は718.8mg/mlもの高い値を示したといいます。

 これらの有機フッ素化合物は、耐熱性、耐薬品性にすぐれ、撥水剤や泡消火剤として利用されているそうですが、人体に取り込まると発がん性や腎臓障害を引き起こすリスクが高く、難分離性、高蓄積性、長距離移動性などの性質から環境中での残留性が高いことから、いまわが国では製造や輸入が禁じられているようです。吉備中央町で浄水場の水にPFASが高濃度でみつかったようで、そうした有毒物質が高濃度で水道水の源に混入した経緯は今回の記事ではつまびらかにされていません。

 昨夜のテレビでもこのことは報じられていましたが、あれは厚労省だったか環境省だったか、長官が出て来て国会答弁らしき場で答えているのを見ましたが、PFASの血中濃度の数値が高いだけで健康にどれだけ影響があるかは不明だから、国のほうでは何もしないと「承知しております」などと奇怪な答弁をしていました。国民の健康、安全を守るのが国家の第一の存在理由であるのに、この国の大臣も関連省庁も、住民の健康や命を脅かす恐れのある事態が生じているのに、これらの地域の住民を見捨て、小さな町の行政が住民の健康と命を守ろうと動き出しているのを無視し、何の手立ても講じないというのです。

 ニュースの解説などによれば、日本では厚労省が、PFOSおよびPFOA(ともにPFASの種類)を水質管理目標設定項目として位置付け、その合算値の暫定目標を50mg/L以下としているようで、水質については曲がりなりにも基準を設けて管理しようとしているようですが、血中濃度の基準に関して知見が不十分だというので基準値を定めていないらしく、それを口実にして動こうとしないようです。
 米国の学術機関は、毒性の強い7種類のPFASの合計が、血液中で1ml当たり20ナノグラムを超えると健康に影響するリスクが増す、との見解を示しているそうです。

 こういうことになると、国の対応はいつも後ろ手にまわり、水俣病や薬害エイズ事件のように、国が無視し、放置したために、多くの患者が長年にわたって苦しむような結果になっていることは国民にとって忘れられない痛ましい記憶となっているはずですが、国のお役人が変われば、また同じようなことを繰り返すのでしょうか。現状調査や今後の健康への影響、さらにそうした化学物質混入の経緯など、この町のことだけではないでしょうから、国が全国的にしっかり調査し、いま基準値が定められていないなら、その設定に向けて専門家の協力を得て設定していけばいいことだし、結果的に健康への影響がないと判明すれば、住民たちも安心して生活できるでしょう。なにもかも曖昧なまま、異常な結果が出てきて住民の不安が高まっているのに、まったく無視を決め込んでいる厚労省や環境省の姿勢は国の行政機関としての存在理由をみずから否定しているようなものです。
 こういうときこそ、政治家が怠惰な役人をひっぱたいてでも、積極的な対応をとらせなければ彼らも政治家として存在する価値がないでしょう。

 なお、わが京都市は浄水場の水質検査の結果では、厚労省の暫定目標50ng/Lをはるかに下回る、一桁の数値だったようで、いまのところは心配することはなさそうです。

saysei at 12:54|PermalinkComments(0)

2025年01月26日

『私の「戦争論」』再読

今日の比叡
  きょうはよい天気で、気温は2~9℃とやや寒いけれど、午後3時ころに電動アシスト自転車で上賀茂まで往復するには、まずまず快適な日和でした。カブラ(2個100円)、ほうれん草(一把100円)、戸田農園さんの古漬けスグキ(350円)、スナップエンドウ(1袋200円)をゲットし、上賀茂のなかむらで自分専用おやつ(ときどきパートナーが分けてちょうだい、とおねだりに来ますが)として「寒天フルーツゼリー」「海苔ピー」それと青森県産の綺麗なニンニクを2個買って帰りました。


きょうの夕餉

★子持ちカレイの煮つけ
 子持ちカレイの煮つけ

★春巻き
 春巻き 久しぶりで、美味しかった。「キャベツがえらく硬いなぁ」と言ったら、「一番上の皮だからよ。捨てようかと思ったけど、もったいなくて・・・」。たしかに、キャベツが高騰していますから、外の皮まで大事に残さず食べないといけないような気分になりますわな。まあ胃の中へはいってしまえば、キャベジンってキャベツのエッセンスを薬にした胃薬があるくらいで、それ自体が消化剤みたいなもんだから、硬くてもすぐ消化してしまうでしょう。

★ほうれん草のジャコおろしポン酢
 ほうれん草のジャコおろしポン酢

★味噌汁
 豆腐、あげ、カブラの味噌汁

★スグキ、キムチ
 古漬けスグキ、キムチなど

(以上です)

 きょうはふと手にした吉本さんの『私の「戦争論」』という、もちろん単行本で出たときに一度読み、さらに文庫化されたときにまた全部読んだことのある本ですが、これをまた読み出して、インタビュー構成で読みやすかったせいもあって、すぐにまた全部読んでしまいました。

 まあここで吉本さんが語っているようなことは、もう私も含めて吉本ファンにとっては常識化してしまっていることばかりで、こんなことを言っていたのか、というふうな新たな発見はゼロでした。

 しかし、最初に単行本で出たのは1999年だそうだから、すでに四半世紀も前の発言です。本の中で聞き手が述べているように、当時は小林よしのりの漫画『戦争論』が50万部も売れるベストセラーになっていたり、従軍慰安婦問題や南京大虐殺の真相をめぐって保守派の物書きが、それまで幅をきかせていた朝日新聞などをはじめとするいわゆる進歩派(左派系)ジャーナリズムに寄生する文化人を挑発するような論陣を張って、物議をかもしたりしていた時期(あるいはその少しあとくらい)でしょう。

 吉本さんの時評的な発言はそうした先祖返りする保守の論陣を切って捨てると、返す刀でそれまで言論界を牛耳っていた左派系文化人や党派もバッサリ切って捨てる、時代の言論風景から一頭地を抜く吉本さんらしい発言が並んでいます。

 時評的発言といっても彼の場合はつねに確固とした彼独自の思想的原則があって、そこから裁断していくので、すべてが有機的につながっていて、一貫性がある点で、その都度遭遇する問題にいきあたりばったりの発言をしているような文化人の時評などとは本質的に違っていることはすぐにわかります。
 
 残念ながら彼のようにいついかなる時にも、いかなる問題に対しても指南力をもった発言ができる用意のできているような人は、もういなくなってしまいました。

   きょう読んだこの本の中で一番気に入った部分は次のゴミ処理問題についての一節です。京都市長にも読ませたいような文章ですね。

(引用開始)
・・・・民衆と同じ目線の高さで物事を考えられるかどうかということでいえば、それが典型的に現れてくるのはゴミ処理問題なんですね。東京都民にとって東京都知事とは何者であるのか。都民はどこで都政というものに日常的に一番接触するのかといえば、それはゴミ処理問題なんです。都民からすれば、ゴミ処理がうまくて、丁寧であれば、それは「いい行政だ」「いい都知事だ」ってことになるんですよ。

 ゴミ処理という観点から評価できたのは、鈴木俊一都知事なんです。都の行政の一環として、清掃車でゴミ集めにくるわけですが、鈴木都知事のときは、そのゴミ集めにくる人たち自体が、非常に懇切丁寧でした。細かい気配りをして、ゴミ集めをしているんです。あれは、よほど都庁の内部で、「都民の反感を買わないように」という教育をやっていたんだと思います。
 というのは、その前の美濃部亮吉都知事のゴミ集めが、ひでえもんだったからです。「生意気じゃねえか」と思うくらい、ゴミ集めの人たちが威張っていたんです。仕事も全然丁寧じゃない。そこらへんにまだゴミが残っているのに、拾い集めもせず、そのまま平気でいっちゃうとか。もう、露骨なんですよ。美濃部都知事は「革新都政」を売りものにしていましたから、労働者の味方だということで、都庁で働いている労働者たちを甘やかした。その結果なんだろうと思います。
 それが鈴木都知事になって改善されたわけですが、今度は青島幸男都知事になって、ゴミ処理はまた悪くなっちゃったんです。「古雑誌」「ボール紙」「瓶」なんかは、ちゃんと分別して、ゴミ出せ、細分化してゴミを出せっていいはじめたんです。以前は、「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」の二種類の分別で済んでいたのに、ですよ。青島都知事は都民の負担を多くしちゃった、都民に迷惑を及ぼしちゃったわけです。代わりに楽をしたのは誰かというと、それは都庁のお役人たちです。こんな行政は、大間違いです。面倒なことは役所が引き受けるべきです。「労働者を尊重する」というのは、そういうことです。
 都庁に勤める労働者たちも、もちろん労働者ですが、ゴミ処理は公務員としての義務であってね。その義務はきちっと果たしてもらわないと、困るわけです。それで仕事が増えた、重労働になっちゃったというなら、ゴミ処理に携わる人たちの給料を上げてやればいいんです。青島都知事がやったことは、ある意味で、美濃部都知事がやったことと同じなんです。お役人たちにとっては、「いいことをしてくれた」ということにはなっても、都民にとっては、「とんでもないことをしてくれた」ということになっちゃうんです。「労働者を尊重する」ということを、はき違えているんです。その結果、都民に残されたものは何かといえば、財政赤字と悪いゴミ処理だけなんです。
 ダイオキシンの問題にしても、大型の高温焼却炉を何基かつくって、それをフル稼働させれば、それで問題は解決しちゃうんです。大型の高温焼却炉でゴミを燃やせば、ダイオキシンは出ませんから、都の財政だけではその建設費がまかなえないというなら、国から予算をつけてもらえばいいんです。(p161-163) 吉本隆明『私の「戦争論」』 ちくま文庫2002 (単行本:ぶんか社 1999.9.30)(引用終了)[下線ゴチックは引用者]


 話は変わりますが、アーちゃんは最近夜の就寝時刻(10時)になると、ちゃんとケージの中へ入っていることが多くて、わたしはケージの扉を閉じて、「またあした! おやすみ!」というだけで済みます。
 ただ、そのあとアーちゃんがべたべたと食餌の跡をつけている姿見にアルコールを吹きかけ、ティッシュペーパーでごしごしこすって綺麗にしておく役目がありますが…。それでもいくら言ってもケージに入ろうとしなくて追いかけまわして無理やりケージの中へ入れていたころにくらべれば、ずいぶん楽になりました。その時刻になると、そろそろ寝かせにくるな、ということと、自分がケージに入って寝る時間なんだな、ということが自覚できるようになってきたのでしょう。たまにケージの外にいても、ケージの戸口を指さして、ここへおいで、もうおうちへお帰り、と二度、三度諭してやると、少し考えるような顔をしたり、首をかしげたりしても、じきに降りて来て、自分でケージへ入っていきます。

 こういうことが学習できるというのは、あの小さな頭脳で、たいしたものだと感心せずにはいられません。それで、いつも、アーちゃんは賢いなぁ、と感心したように言ってやるのですが、どうやらその言葉の調子で、自分がほめられた、ということも分かっているのではないかと思います。

 これまでは裸の掌に乗せると必ずきつい嚙み方をするので、痛いし、ときには出血するほどなので、必ず薄手の軍手みたいな手袋をはめているのですが、これをはめていると、掌を差し出してもそこへ乗ろうとはせず、むしろ避けて逃げていました。そして、その手袋をはめた手で餌の上にたまった殻を取り除く作業をしていると、エサをとられると思うのか、いつも手袋をはめた手の上にのっかってきて、激しく手袋の上から噛みつくようになっていました。

 何してるの?痛いからやめてくれ!と言っても、しつこく下を向いて嘴で手袋の上から手をつつきつづけたりして、左手指でやめさせようとすると、そちらの指先にも噛みついてきて攻撃する構えをみせます。しかし、他の所を攻撃するわけではなく、顔などいくら近づけても攻撃的な威嚇などしたことはないので、手袋をはめた手に噛みつくのも、一種のアソビなのかもしれません。「甘噛み」というにはけっこうきつい噛み方ですが・・・。

 それでも、そうやって攻撃するためではあっても、私の不安定な手の上にとびのって、しばらくそこにとまっていること自体にだんだん慣れてきたようで、昨日はかなり頻繁にそれを繰り返して、私がエサの殻を処理しているのではないときに、手袋をはめた手を差し出すだけで、そこへぴょんと飛び乘ってくることも2度ばかりありました。

 どうやら少しずつではありますが、「手乗り」へと近づいてきているようです。まだ攻撃的だから油断はできませんが、そのうちに手の上におとなしくとまっているようになるかもしれません。彼もほんとうはそうやって私の手の上でくつろいで親密な時間を過ごしたいに違いないのですが、なかなか急にはそれができないようです。

 それでもわが家へ来た時はケージの止まり木からいっこうに動こうともせず、われわれには無関心なように何を語りかけても、指を出してやっても全然無反応で、感情のない動物のようにみえたときとはえらい違いです。これは歳をとってから飼われたこの種の小鳥としては大変な進歩だし、大変な学習能力だとわたしたちは感心しています。






saysei at 21:35|PermalinkComments(0)
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