2025年01月
2025年01月31日
池谷裕二さんの『夢を叶えるために脳はある』を読む
だいぶ前に、この本が小林秀雄賞を受賞した、というのを何かで知って、一度読んでみたいと思って、書店へいくついでに買おうと、気を付けて見ていたのですが、一度も見かけたことがなくて、じゃアマゾンで買おうかと思って一度調べたら、ちょっといまの私の懐具合に対しては高かった(税別2200円)ので、結局買わずにいました。
たまたま今日、日本のAI関連のスタートアップを紹介した特集記事を掲載しているらしいForbsという雑誌がないかと書店を覗いたら、その雑誌はなかったけれど、この本を書架に見つけたので、つい衝動買いしてしまいました。
早速読み始めましたが、本文だけで650ページに及ぶ分厚い本の、まだ100ページちょっとのところです。しかしこれまで読んだ印象ではなかなか興味深い内容で、どうやら途中で投げ出すようなもったいないことはしなくて済みそうです。
わたしはテレビなどマスメディアに登場するような文化人(学者も含めて)というのはあまり好きではないし、おおむね信用もしていないという、まあ偏見に類するものが感覚的にあるものですから、超ベストセラーになった本を書いてテレビなどで引っ張りだこの歴史学者某にしても、この著者にしても、肝心の著書のほうはまだ一冊も読んだことがなくて、本より先にテレビで毎土曜日の夜、レギュラーのゲストとして登場するご本人のほうに先に(画面を通して)お目にかかっていたのです。
それで、こうして著書を読んでいても、ついあの童顔(笑)を思い浮かべながら読んでしまうのがちょいと難といえば難ですが、本の中身は、私などまるで知らなかった最近の脳科学の達成について書かれているので、大いに啓蒙されるところがあります。
それも高校生相手の3日間の実際の講義を下敷きにして、大幅に増補したり書き直したりしてできたものらしいけれど、高校生相手に問答しながらゆっくりと進めていくスタイルはそのまま採用されているので、語り口が易しく丁寧で、わたしのようなこうした分野にまったく無知な読者にも容易に理解できるようになっています。
今まで読んだところで特に印象に残っているのは、ネズミの頭に地磁気センサーを埋め込んだら、ネズミが東西南北を感知してうまく迷路を潜り抜けることができた、というふうな、人工的な先端機器と人間の生体の一部である脳との連携なり結合なり融合?なりで、人間が生体としての脳の性能を超える能力を獲得するといった話です。
今私が「連携」といったのは、たとえば赤ん坊の時は誰もが持っているのに成人するとほとんどが失う絶対音感がわかる能力に関して、もともとそれを感受できる脳の活動を人工知能で読み取って、その分析結果を本人(の脳)にフィードバックすることによって、ごく短期間に学習させ、その本来もっている能力をいわば目覚めさせるといったことを指しています。
ほかにも将棋の打ち手だとか、日本人が苦手とするRとLの音の聞き分けだとか、いろいろ例が挙げられていましたが、もともと生理的な能力としてはどんな人(の脳)も備えているけれども、なんらかの理由で眠っている能力を、人工知能がその能力を解発するための情報を読み取って、脳にフィードバックしてやることで、脳が眠っている能力を発揮できるようにする、という類の話です。そうすることで人間の能力が飛躍的に高まると言ってもよいでしょう。
私はずっと若いころに、技術の発達が人間そのものの改造に向かうなら、いずれ人類はもう一段大きな飛躍をして、今の人類の能力を格段に上回る能力を備えた、現生人類とは質的に異なるといっていいほどの、いわば「新人類」になっていく時が来るのではないか、と想像し、おそらく地球の危機に直面して地球を脱出して宇宙のどこかに生きる場所を求めるというようなことは、そういう飛躍がないと難しいだろうと思っていたことがありました。
そういうSF的な話でなくても、例えばいつまでたっても国家と国家の戦争が絶えず、地球を何度も壊滅させて余りあるほどの兵器を生産しつづける愚かなことを繰り返し、また極端な一握りの富裕層にその他の膨大な貧困層が抑圧されるような社会の不合理が、従来の革命だの社会改革だのといった手法ではとうていあらたまりそうにもなく、おそらくそうした困難な問題は、生体としての人類自体がもうワンランク上の、困難な問題を解決しうる頭脳をもった、質的な飛躍を遂げた「新人類」に飛躍的進化をとげることなしには不可能なのではないか、と考えたのでした。
ニーチェとは違って、人間の生理的な進化の果てを空想したSF的な「超人」思想ですが、池谷さんのこの本の上のような記述部分を読んでいると、あの空想がよみがえってきて、もうそういうことの入り口まで来ているな、と感じたのです。
それはおそらく人間という存在のありようが根本的に変わっていく、ということであって、池谷さんも書いているとおり、当然様々な危惧、倫理的な激しい異論等々を引き起こすに違いないけれど、この種の技術の進化に関することは、その核に人間の無償の好奇心のようなもの、創造に向かう素朴な動因のようなものがあるので、いかなる危惧であれ、法であれ権力であれ、とどめることは不可能で、決して逆戻りすることなく、未知の世界を実現していってしまうことは疑いありません。
これまでのアンドロイドのようなものは、まだ人間と技術がつくりだす人工物との不器用な接続のイメージでしかなく、私が空想したような生身の人間自体がもう一段高い性能をもった質的に新しい地平を開くような「新人類」に進化するというのとは違って、いまの人間がそのままで人工物(メディア)だけが高度化し、それを単に使いこなすだけで、本質的には現在となにもかわりません。
しかし池谷さんが書いているような事例は、人工物(メディア)を高度化することで、逆に人間の持つ情報を精細にとらえてこれを人間にフィードバックすることによって、生身の人間の性能(能力)自体を(潜在的に持っている能力を<覚醒させる>ことによって)飛躍的に向上させるということ、つまり生身の人間(脳の性能)自体が質的に変わるということで、少なくともその入り口にあたるような試みを明確な展望をもってやっている、ということだと思います。そこが非常に興味を惹く点です。
まだほんの入り口にさしかかったばかりのようだから、池谷さんらの試みも実に危なっかしいもののうように見えなくはないけれど、人類がそういう段階にさしかかっていることを示すひとつの兆候として興味深く読んだのでした。
ところでこの本の前に、昨日から読んでいたのは、だいぶ前に買ってツンドク状態だった飽本一裕さんという人の『今日から使える微分方程式』という新書判の本です。
私はいちおう大学で最初に入学したのは理学部だったので、最初の2年間は数学や物理へ進むやつも生物系や地質鉱物なんて言う学科へ進むやつもまぜこぜになって一般教養と将来の理系の基礎になる知識や実験を経験するようなことをしていたので、微分方程式の初歩くらいはやったはずなのですが、例によってすっかり忘れています。
また、工学部と違って理学部はたとえ学んでももっぱら理論だけで、実社会のいろんな場面での具体的な応用にすぐ転化できるような形での学び方はしないのが通例でしたから、何も知らないも同然。
それでこの本を読むと基礎的な数式の説明だけでなく、それが現実にどういう場面でどう使われて役立っているかが懇切丁寧に説明されているので、とても面白い。
まだこれも100ページほど読んだだけですが、私のような数学オンチを自称する者でも面白く読めるので、もう少し楽しんで読んでいきたいと思います。
ただし、どうしてこの式が導き出されたのかは、書いてはあっても、計算ができるようになりたいわけではないので、そこは省略。いまは計算するだけなら、AIにでもやらせればすぐ答えを導いてくれるでしょうから、自分が設計するために新しい計算方式を試みようとでもするのでなければ、既存の計算式の行間を埋める作業はわたしのようなド素人には必要ないでしょう。
たまたま今日、日本のAI関連のスタートアップを紹介した特集記事を掲載しているらしいForbsという雑誌がないかと書店を覗いたら、その雑誌はなかったけれど、この本を書架に見つけたので、つい衝動買いしてしまいました。
早速読み始めましたが、本文だけで650ページに及ぶ分厚い本の、まだ100ページちょっとのところです。しかしこれまで読んだ印象ではなかなか興味深い内容で、どうやら途中で投げ出すようなもったいないことはしなくて済みそうです。
わたしはテレビなどマスメディアに登場するような文化人(学者も含めて)というのはあまり好きではないし、おおむね信用もしていないという、まあ偏見に類するものが感覚的にあるものですから、超ベストセラーになった本を書いてテレビなどで引っ張りだこの歴史学者某にしても、この著者にしても、肝心の著書のほうはまだ一冊も読んだことがなくて、本より先にテレビで毎土曜日の夜、レギュラーのゲストとして登場するご本人のほうに先に(画面を通して)お目にかかっていたのです。
それで、こうして著書を読んでいても、ついあの童顔(笑)を思い浮かべながら読んでしまうのがちょいと難といえば難ですが、本の中身は、私などまるで知らなかった最近の脳科学の達成について書かれているので、大いに啓蒙されるところがあります。
それも高校生相手の3日間の実際の講義を下敷きにして、大幅に増補したり書き直したりしてできたものらしいけれど、高校生相手に問答しながらゆっくりと進めていくスタイルはそのまま採用されているので、語り口が易しく丁寧で、わたしのようなこうした分野にまったく無知な読者にも容易に理解できるようになっています。
今まで読んだところで特に印象に残っているのは、ネズミの頭に地磁気センサーを埋め込んだら、ネズミが東西南北を感知してうまく迷路を潜り抜けることができた、というふうな、人工的な先端機器と人間の生体の一部である脳との連携なり結合なり融合?なりで、人間が生体としての脳の性能を超える能力を獲得するといった話です。
今私が「連携」といったのは、たとえば赤ん坊の時は誰もが持っているのに成人するとほとんどが失う絶対音感がわかる能力に関して、もともとそれを感受できる脳の活動を人工知能で読み取って、その分析結果を本人(の脳)にフィードバックすることによって、ごく短期間に学習させ、その本来もっている能力をいわば目覚めさせるといったことを指しています。
ほかにも将棋の打ち手だとか、日本人が苦手とするRとLの音の聞き分けだとか、いろいろ例が挙げられていましたが、もともと生理的な能力としてはどんな人(の脳)も備えているけれども、なんらかの理由で眠っている能力を、人工知能がその能力を解発するための情報を読み取って、脳にフィードバックしてやることで、脳が眠っている能力を発揮できるようにする、という類の話です。そうすることで人間の能力が飛躍的に高まると言ってもよいでしょう。
私はずっと若いころに、技術の発達が人間そのものの改造に向かうなら、いずれ人類はもう一段大きな飛躍をして、今の人類の能力を格段に上回る能力を備えた、現生人類とは質的に異なるといっていいほどの、いわば「新人類」になっていく時が来るのではないか、と想像し、おそらく地球の危機に直面して地球を脱出して宇宙のどこかに生きる場所を求めるというようなことは、そういう飛躍がないと難しいだろうと思っていたことがありました。
そういうSF的な話でなくても、例えばいつまでたっても国家と国家の戦争が絶えず、地球を何度も壊滅させて余りあるほどの兵器を生産しつづける愚かなことを繰り返し、また極端な一握りの富裕層にその他の膨大な貧困層が抑圧されるような社会の不合理が、従来の革命だの社会改革だのといった手法ではとうていあらたまりそうにもなく、おそらくそうした困難な問題は、生体としての人類自体がもうワンランク上の、困難な問題を解決しうる頭脳をもった、質的な飛躍を遂げた「新人類」に飛躍的進化をとげることなしには不可能なのではないか、と考えたのでした。
ニーチェとは違って、人間の生理的な進化の果てを空想したSF的な「超人」思想ですが、池谷さんのこの本の上のような記述部分を読んでいると、あの空想がよみがえってきて、もうそういうことの入り口まで来ているな、と感じたのです。
それはおそらく人間という存在のありようが根本的に変わっていく、ということであって、池谷さんも書いているとおり、当然様々な危惧、倫理的な激しい異論等々を引き起こすに違いないけれど、この種の技術の進化に関することは、その核に人間の無償の好奇心のようなもの、創造に向かう素朴な動因のようなものがあるので、いかなる危惧であれ、法であれ権力であれ、とどめることは不可能で、決して逆戻りすることなく、未知の世界を実現していってしまうことは疑いありません。
これまでのアンドロイドのようなものは、まだ人間と技術がつくりだす人工物との不器用な接続のイメージでしかなく、私が空想したような生身の人間自体がもう一段高い性能をもった質的に新しい地平を開くような「新人類」に進化するというのとは違って、いまの人間がそのままで人工物(メディア)だけが高度化し、それを単に使いこなすだけで、本質的には現在となにもかわりません。
しかし池谷さんが書いているような事例は、人工物(メディア)を高度化することで、逆に人間の持つ情報を精細にとらえてこれを人間にフィードバックすることによって、生身の人間の性能(能力)自体を(潜在的に持っている能力を<覚醒させる>ことによって)飛躍的に向上させるということ、つまり生身の人間(脳の性能)自体が質的に変わるということで、少なくともその入り口にあたるような試みを明確な展望をもってやっている、ということだと思います。そこが非常に興味を惹く点です。
まだほんの入り口にさしかかったばかりのようだから、池谷さんらの試みも実に危なっかしいもののうように見えなくはないけれど、人類がそういう段階にさしかかっていることを示すひとつの兆候として興味深く読んだのでした。
ところでこの本の前に、昨日から読んでいたのは、だいぶ前に買ってツンドク状態だった飽本一裕さんという人の『今日から使える微分方程式』という新書判の本です。
私はいちおう大学で最初に入学したのは理学部だったので、最初の2年間は数学や物理へ進むやつも生物系や地質鉱物なんて言う学科へ進むやつもまぜこぜになって一般教養と将来の理系の基礎になる知識や実験を経験するようなことをしていたので、微分方程式の初歩くらいはやったはずなのですが、例によってすっかり忘れています。
また、工学部と違って理学部はたとえ学んでももっぱら理論だけで、実社会のいろんな場面での具体的な応用にすぐ転化できるような形での学び方はしないのが通例でしたから、何も知らないも同然。
それでこの本を読むと基礎的な数式の説明だけでなく、それが現実にどういう場面でどう使われて役立っているかが懇切丁寧に説明されているので、とても面白い。
まだこれも100ページほど読んだだけですが、私のような数学オンチを自称する者でも面白く読めるので、もう少し楽しんで読んでいきたいと思います。
ただし、どうしてこの式が導き出されたのかは、書いてはあっても、計算ができるようになりたいわけではないので、そこは省略。いまは計算するだけなら、AIにでもやらせればすぐ答えを導いてくれるでしょうから、自分が設計するために新しい計算方式を試みようとでもするのでなければ、既存の計算式の行間を埋める作業はわたしのようなド素人には必要ないでしょう。
saysei at 22:02|Permalink│Comments(0)│
上賀茂野菜きょうの収穫

明日から天気が下り坂で、しかも寒さが一層厳しくなると聞いて、きょうのうちにと上賀茂の野菜自動販売機めぐりをしてきました。ボックスが空っぽの販売所もあったけれど、6か所回ると実に豊富な多種多様の野菜が手に入りました。
大根(200円)、丸大根(200円)、小カブ(200円)、ラディッシュ(100円)、ネギ(200円)、からし菜(100円)、小松菜(100円)、ほうれん草(100円)、セロリ(200円)、金時ニンジン(100円)、トマト(400円)、スナップエンドウ(200円)・・・だったと思います。
10円玉、50円玉でも買える販売機を備えたところもあるので、小銭入れにたまっていた10円玉、50円玉を総動員して、足りなくなると100円玉を使い、さらに千円札を一枚両替できる販売所で百円玉に換えさせてもらって、なんとか間にあいました。これでしばらく悪天候で野菜を買いに行けなくてもよさそうです。
どれものびのびと育った新鮮そのものの野菜で、味も濃く、ダイコンはダイコンの、カブはカブの、トマトはトマトのまさしく本物の味がして、充実しています。

セロリの葉なども驚くほど威勢よく伸びて広がり、パートナーが切って水洗いしようと手にして思わず「見るからに元気な野菜やねぇ!」と感嘆の声を挙げるほどです。
セロリと言えば、茎のパリパリ歯ごたえの良い半透明の薫り高い部分がを食べるのが普通でしょうけれど、もったいないからわが家では葉も全部使い、きょう早速セロリの葉のキンピラをこしらえて、あつあつご飯にかけていただきました。味も香りも素晴らしかった。

ネギと焼きアゲの辛子酢味噌和え。葱もまた育ち放題育っていて、それでいて柔らかく、味もすばらしい。葱はわが家ではいろんなところでふんだんに使います。

この味噌汁には、上賀茂のカブラやスナップエンドウが使われています。それら素材の味が美味しいので味噌汁もほんとに美味しい。

ほうれん草のおひたし。これもむろん上賀茂のほうれん草。

これは昨日のおでんののこりですが、これに使ったダイコンやジャガイモも昨日書いたとおり上賀茂の美味しい野菜たち。

いまやわが家の食卓は野菜が主役であるかのようで、単純なおひたしやあえものにしつらえた野菜の小鉢でも、立派な一品料理として食べ応えが感じられ、上賀茂野菜が食卓の彩も味も豊かにしてくれています。
この新鮮で美味しい、豊富な上賀茂野菜のおかげで、なんだか私たちの暮らし全体がとても豊かで満ち足りているような気がして幸せです。ふところは寂しくても、ね。もちろん毎日それらの野菜たちを工夫して調理してくれるパートナーのおかげでもあるのですが。
普通の意味での今日の夕餉のメインディッシュは、この子持ちカレイの煮つけだったと思います。大きな鰈が三きれに切り分けて売られていて、200円台で買えた安い両端のふたつを買ってきたのだそうですが、それにしては驚くほど大きな子を抱えていました。さすがに私のコレステロールには悪かろうと思って、パートナーのほうにもついていたようだけれど、私のも半分パートナーに食べてもらいましたが、新鮮だったとみえて、身の方も実に美味しかった。

きょうの比叡は霞んでいました。

きょう庭の餌場へ来てアーちゃんののこりものを啄んでいた小鳥は、背中しか見せてくれずに一瞬ののち飛び去ってしまいましたが、背中の羽はいつもよく見るメジロのような黄緑色(俗にいうウグイス色)をしていますが、このボケた写真でも、目の縁の白い輪の片りんも見えませんし、飛び去るときもメジロならあの白い目を囲む輪だけは目立つものですが、それが見られませんでした。
だから、これはメジロじゃなくて目のところが黒いウグイスではないか、と思うのですがいかがでしょうか。それでもスマホでウグイスの写真など見ると、その羽の色は千差万別で、必ずしもあのウグイス餅の鮮やかなウグイス色ではなくて、もっと茶色っぽいのが多いのですね。季節にもよるのかもしれないし、ジョウビタキみたいに雄と雌でずいぶん羽の色も違うのかもしれませんが・・・

まあいずれまた来てくれるでしょうから、そのうちには正体がわかることでしょう。これを見たとき、やはりほんの一瞬ですが、同種の小鳥が2羽いたと思います。非常にすばやく水平に庭を横切るようにして飛び去ったので、その姿はとまっていた一瞬を覗くと文字通り「目にもとまらぬ」速さで視界から消え去ってしまいました。
saysei at 20:58|Permalink│Comments(0)│
今朝の新聞から
日経新聞の朝刊に、東京五輪・パラリンピックをめぐる談合事件で、電通グループに求刑通り罰金3億円の判決が出たと載っています。当然のことだし、電通にとっては3億円など痛くもかゆくもない罰金でしょうが、オリンピックなどの国家的イベントのたびごとに権力とむすびついて繰り返して来た汚職、国民の税金を公然とかすめ取っていく犯罪のデパートのような巨悪に一矢報いる象徴的な意味だけはあったでしょう。すぐに控訴したそうですから、巨悪が反省などすることないし、また同じことを繰り返すつもりなのでしょう。
この件では電通の元スポーツ局長補が、組織委員会の元次長(執行猶予つき有罪判決が確定しているそうです)と共謀して、競技ごとの落札業者を割り振ったリストをつくって、受注予定事業者を決定したことはまだ記憶に新しいし、予備段階のこの汚職が、金額が桁違いに大きくなる本大会の受注に直結していたことは当時報道された通りですが、そうしたからくり(本大会での受注との関連)についても東京地裁は認定したようです。これも当然のことでしょう。
本大会での巨額の発注を人為的にコントロールすることが目立たないように、金額の圧倒的に小さい前段階の発注先をコントロールしておいて、本大会ではその同じ発注先に委ねただけ、というスタイルをとって国民の目をごまかそうとしたわけですから、その関連を認定しなければお話になりません。そこを明確に認定して、主役を演じた電通を有罪としたことは、司法が政治の闇に左右されず、最小限自分たちの役割を果たしたので、まずもってめでたしめでたし、と評すべきでしょう。
もうひとつ裁判関係で重要な動きがありました。安部元首相が暗殺されて、事件そのものが風化気味でしたが、こちらは財務省が政治の闇に左右された事件。
例の森友事件で安部夫人の名が登場する財務省文書の改竄をめぐって、改竄を指示したのが誰か、どのような経緯で改竄が指示されるに至ったのかなどを検証する上で不可欠な、財務省文書を捜査段階で財務省は大阪地検に提出したはずですが、上司の指示で決裁文書の改竄を行なって、事件の発覚する渦中に自殺をとげた財務局元職員赤木俊夫さんの奥さんが、真実を明らかにしてほしい、とその文書の開示を求めていたのに対して、財務省は不開示決定をしてこれを拒否し、総務省の審査会が不開示決定を取り消すべきだとの答申を出していたにもかかわらず、これをも拒否して頑なに文書を隠蔽していたのです。
これに対して、30日、大阪高裁は文書不開示の取り消しを指示したとのことです。
財務省という役所は、安部さん自身の回顧録でも、省益のためには首相の首をすげかえるくらいのことは平気でやってのける恐ろしい役所だと言われていますが、森友事件における安部首相の関わりが鋭く追及され、政権の行方にも影響を及ぼしかねない状況の中で、そのかかわりを証拠立て、あるいは示唆するような財務省文書の記述の改竄をして証拠隠滅を図ろうとした財務省内の権力が職員であった赤木さんに圧力をかけて改竄させたことは、報道された情報からだけで誰にでも察しがつく明々白々なことでした。
しかし、それを犯罪として摘発するためには明白な物証が必要なのが司法ですから、いったん裁判となれば犯罪を犯した権力者たちは居直って罪を認めようとしないので、そういう輩でも認めざるを得ない証拠をつきつけ、真実を暴露するには、想像を絶するほどの努力と時間がかかることになります。
その長い苦しい戦いを、夫の死を契機に続けてきたのがこの赤木夫人です。彼女は実に粘り強くこの巨大な権力に立ち向かい、その闇の権力構造を少しでも明るみにだし、亡夫を自死にまで追い詰めた圧力がどのようなものであったかを暴こうと戦い続けています。
その赤木夫人の訴えに、司法は今回、少なくとも財務省のように門前払いをくわせることなく、わずかな一歩とはいえ、真実にいたる最初の扉を開いたわけで、これもよいニュースでした。しかし、自らのうちに深い権力の闇を宿し、それを隠蔽することで強大な権力を保って来た財務省が素直に開示に動くはずもなく、ただちに控訴するようですから、まだまだ道は気が遠くなるほど遠いのでしょう。
裁判以外の記事で私が注目したのは、先日の生成AIの新たなモデルで世界に衝撃を与えたディープシークの創業者梁文鋒に対して、2024年7月に行われたというインタビューを掲載した記事でした。それは2024年5月に発表された大規模言語モデル「ディープシークV2」がシリコンバレーに衝撃を与えたことを契機に行われたインタビューだったようです。
そこで梁文鋒が語っているのはこんなことです。
「米国では日々大量のイノベーションがごく普通に生まれている。その中で、ディープシークV2はとりたてて特別な存在ではない。彼らが驚いたのは、これが中国企業に手によって生まれたことだ。これまで追随するばかりだった中国企業が、今回はイノベーターとしてそのフィールドに参入したからだと思う。」
実に冷静で、自分たちの世界における位置を正確に見据えているな、と思います。彼は、これまでの中国は欧米の先端技術の開発に追随して、それを応用し、普及させ、経済的な利益を得ることに邁進してきたが、経済成長を遂げたいま、それではだめで、イノベーションの側にまわって技術の発展に貢献していく必要がある、と言います。
そして、イノベーションは単なる「イノベーションドリブン」つまり金儲けを動機として成功するものではなく、創造意欲から生まれてくるものだ、と。そして、イノベーションには個人や個々の企業の努力だけでなく、成熟した技術コミュニティーや産業全体の努力が必要で、エヌビディアが今日の地位を築いたのも、背後にそうした条件があったからで、中国の場合にもこのような「エコシステム」の形成が不可分な条件になる。中国で国産チップの開発が進まないのも、技術コミュニティのサポートが不足していて、最新の情報が入ってこないからだ、と指摘しています。
これらは非常に的確な指摘だと思います。
産業技術におけるイノベーションであれ、芸術文化あるいは学術などの分野におけるイノベーション、つまり新たな段階を画するような創造的な技術が生まれてくるためには、個々人や個々の集団、企業等々の努力だけではどうにもならないところがあって、それを支える幅広く多様な分野の技術、情報、人材等々の組織的な社会的基盤、彼の言う「エコシステム」の形成がなければ不可能だ、ということでしょう。
今回ディープシークがなしとげた、米国のIT産業をも驚かすような開発についても、エヌビディアに追いつき、ひょっとしたら追い越したぞ、と誇るわけでもなく、自身の、あるいは母国のAI産業の立ち位置を非常によく自覚し、その問題点を見据えた冷静な認識を披歴していて感心します。
今回の新たなモデルの開発については、オープンAIのモデルからの盗用だとか、その性能も数学では正答率が17%しかなかったらしいとか、あれこれSNS上では同社をけなし、その価値を低く見なそうという悪口雑言がかしましく上がっているようですが、報道でわずかに垣間見える創業者の発言からは、そんな無責任な噂とはまるで無縁なすぐれた技術者の姿が見えるようです。
この件では電通の元スポーツ局長補が、組織委員会の元次長(執行猶予つき有罪判決が確定しているそうです)と共謀して、競技ごとの落札業者を割り振ったリストをつくって、受注予定事業者を決定したことはまだ記憶に新しいし、予備段階のこの汚職が、金額が桁違いに大きくなる本大会の受注に直結していたことは当時報道された通りですが、そうしたからくり(本大会での受注との関連)についても東京地裁は認定したようです。これも当然のことでしょう。
本大会での巨額の発注を人為的にコントロールすることが目立たないように、金額の圧倒的に小さい前段階の発注先をコントロールしておいて、本大会ではその同じ発注先に委ねただけ、というスタイルをとって国民の目をごまかそうとしたわけですから、その関連を認定しなければお話になりません。そこを明確に認定して、主役を演じた電通を有罪としたことは、司法が政治の闇に左右されず、最小限自分たちの役割を果たしたので、まずもってめでたしめでたし、と評すべきでしょう。
もうひとつ裁判関係で重要な動きがありました。安部元首相が暗殺されて、事件そのものが風化気味でしたが、こちらは財務省が政治の闇に左右された事件。
例の森友事件で安部夫人の名が登場する財務省文書の改竄をめぐって、改竄を指示したのが誰か、どのような経緯で改竄が指示されるに至ったのかなどを検証する上で不可欠な、財務省文書を捜査段階で財務省は大阪地検に提出したはずですが、上司の指示で決裁文書の改竄を行なって、事件の発覚する渦中に自殺をとげた財務局元職員赤木俊夫さんの奥さんが、真実を明らかにしてほしい、とその文書の開示を求めていたのに対して、財務省は不開示決定をしてこれを拒否し、総務省の審査会が不開示決定を取り消すべきだとの答申を出していたにもかかわらず、これをも拒否して頑なに文書を隠蔽していたのです。
これに対して、30日、大阪高裁は文書不開示の取り消しを指示したとのことです。
財務省という役所は、安部さん自身の回顧録でも、省益のためには首相の首をすげかえるくらいのことは平気でやってのける恐ろしい役所だと言われていますが、森友事件における安部首相の関わりが鋭く追及され、政権の行方にも影響を及ぼしかねない状況の中で、そのかかわりを証拠立て、あるいは示唆するような財務省文書の記述の改竄をして証拠隠滅を図ろうとした財務省内の権力が職員であった赤木さんに圧力をかけて改竄させたことは、報道された情報からだけで誰にでも察しがつく明々白々なことでした。
しかし、それを犯罪として摘発するためには明白な物証が必要なのが司法ですから、いったん裁判となれば犯罪を犯した権力者たちは居直って罪を認めようとしないので、そういう輩でも認めざるを得ない証拠をつきつけ、真実を暴露するには、想像を絶するほどの努力と時間がかかることになります。
その長い苦しい戦いを、夫の死を契機に続けてきたのがこの赤木夫人です。彼女は実に粘り強くこの巨大な権力に立ち向かい、その闇の権力構造を少しでも明るみにだし、亡夫を自死にまで追い詰めた圧力がどのようなものであったかを暴こうと戦い続けています。
その赤木夫人の訴えに、司法は今回、少なくとも財務省のように門前払いをくわせることなく、わずかな一歩とはいえ、真実にいたる最初の扉を開いたわけで、これもよいニュースでした。しかし、自らのうちに深い権力の闇を宿し、それを隠蔽することで強大な権力を保って来た財務省が素直に開示に動くはずもなく、ただちに控訴するようですから、まだまだ道は気が遠くなるほど遠いのでしょう。
裁判以外の記事で私が注目したのは、先日の生成AIの新たなモデルで世界に衝撃を与えたディープシークの創業者梁文鋒に対して、2024年7月に行われたというインタビューを掲載した記事でした。それは2024年5月に発表された大規模言語モデル「ディープシークV2」がシリコンバレーに衝撃を与えたことを契機に行われたインタビューだったようです。
そこで梁文鋒が語っているのはこんなことです。
「米国では日々大量のイノベーションがごく普通に生まれている。その中で、ディープシークV2はとりたてて特別な存在ではない。彼らが驚いたのは、これが中国企業に手によって生まれたことだ。これまで追随するばかりだった中国企業が、今回はイノベーターとしてそのフィールドに参入したからだと思う。」
実に冷静で、自分たちの世界における位置を正確に見据えているな、と思います。彼は、これまでの中国は欧米の先端技術の開発に追随して、それを応用し、普及させ、経済的な利益を得ることに邁進してきたが、経済成長を遂げたいま、それではだめで、イノベーションの側にまわって技術の発展に貢献していく必要がある、と言います。
そして、イノベーションは単なる「イノベーションドリブン」つまり金儲けを動機として成功するものではなく、創造意欲から生まれてくるものだ、と。そして、イノベーションには個人や個々の企業の努力だけでなく、成熟した技術コミュニティーや産業全体の努力が必要で、エヌビディアが今日の地位を築いたのも、背後にそうした条件があったからで、中国の場合にもこのような「エコシステム」の形成が不可分な条件になる。中国で国産チップの開発が進まないのも、技術コミュニティのサポートが不足していて、最新の情報が入ってこないからだ、と指摘しています。
これらは非常に的確な指摘だと思います。
産業技術におけるイノベーションであれ、芸術文化あるいは学術などの分野におけるイノベーション、つまり新たな段階を画するような創造的な技術が生まれてくるためには、個々人や個々の集団、企業等々の努力だけではどうにもならないところがあって、それを支える幅広く多様な分野の技術、情報、人材等々の組織的な社会的基盤、彼の言う「エコシステム」の形成がなければ不可能だ、ということでしょう。
今回ディープシークがなしとげた、米国のIT産業をも驚かすような開発についても、エヌビディアに追いつき、ひょっとしたら追い越したぞ、と誇るわけでもなく、自身の、あるいは母国のAI産業の立ち位置を非常によく自覚し、その問題点を見据えた冷静な認識を披歴していて感心します。
今回の新たなモデルの開発については、オープンAIのモデルからの盗用だとか、その性能も数学では正答率が17%しかなかったらしいとか、あれこれSNS上では同社をけなし、その価値を低く見なそうという悪口雑言がかしましく上がっているようですが、報道でわずかに垣間見える創業者の発言からは、そんな無責任な噂とはまるで無縁なすぐれた技術者の姿が見えるようです。
saysei at 19:11|Permalink│Comments(0)│
2025年01月30日
おでん

上賀茂でだいぶ前に買ったお化けダイコン、やっと当初の五分の一くらいを残すのみとなり、今日は少々寒かったので、夕餉にはこれを使っておでん。

それにしても、丸太ん棒のようにデカいのに、どこから切っても、このようにスがひとつなくて、びっしり中身が詰まっていて、いまでも生き生きしています。

大根はお鍋の底に礎石のように沈んでいますが、やっぱりおでんの具では大根、じゃがいも、たまごが一番おいしい。よく味が染みていて、上賀茂の大根は煮るとすぐに柔らかくなるのですが、それでいて形は崩れません。ジャガイモもだいぶ前に戸田農園さんで出たとき買っておいた小粒の新ジャガ、卵はわが家の愛用している生で殻を割ると、表面張力が強くて黄身が丸く盛り上がり、少々では崩れない、新鮮で美味しい卵。

ほうれん草のおひたし

鰆の塩焼き。薄い塩味を付けてくれていたけれど、とっても美味しかった。

モズクきゅうり酢。
(以上です)
今日は寒くていま(午後9時前)もスマホの京都市の気温は2℃。きょう一日は0℃~5℃となっていますが、「体感温度」は-2℃だそうで、自転車で買い物に出たパートナーも、風が冷たかったと言っていました。
今日は週刊誌が出る日ですが、文春もフジテレビの「社員A氏」が女性を誘ったとか、件のタレントと引き合わせる場をセッティングしたというようなことを書いたのが、そもそもの今回フジテレビグループの経営陣をみんな引っ張り出して世間を騒がせた発端だったはずだけれど、その記事が間違いで、誘ったのは当のタレントだった、という記事をいまごろになって掲載したとか、昨日報じられていたので、アホらしくて買う気にもなりませんでした。
まあもともと週刊誌の「売れればいい」式の記事はだれだって眉に唾つけながら読んでいるには違いないでしょうが、それでも田中角栄の金脈の洗い出しなど、大手メディアも含めて凡百のマスコミ各社がまったく報じることができなかった、この社会の影に踏み込んで、様々な巨悪の影くらいはあぶりだすきっかけをつくる役割を果たして来たから、クマさん八ッつあん的喝采を送るようなこともあったのです。
しかし、今回はまったくチョンボだったようです。文春は記事の誤りは認めながら、いまだに社員Aが関わったことは関わったんだとか何とか強弁しているらしいけれど、こんなチョンボをやらかしては、フジテレビが当初から一貫して「社員は現場に関わっていない」と言ってきたほうに誰しも真実味を感じることでしょう。
こういうことは、具体的な証拠物件をもって追及しなければダメで、その肝心のところで事実誤認していたとあれば全面降伏しかないでしょう。
しかし、もちろん、だからといってフジテレビが客観的にみて無罪放免というわけではないことは申すまでもありません。
証拠はなけれども、わたしだって、社員Aが具体的にセッティングしたというふうな関わり方ではなかったとしても、社員Bだか社員Cだか知らないけれども、とにかくフジテレビそのものが「社として」この事件全体の構図に深くかかわっていたに違いない、と思っています。
社員Aが現場にいようがいまいが、また直接タレントと女性を会わせるセッティングをしようがすまいが、今回の事件の大きな構図として、直接的な指示によろうが間接的、心理的なプレッシャーをかけるような陰湿な方法によってであろうが、それさえ意識しない社の「うるわしい伝統」(笑)なり「社風」なりとして、ごく当然のこととしてやらせたにせよ、自社の女子アナを、あたかも贈答品のようにタレントに「献上」するかのごとき構図が透けて見える、というのが、この事件を見守る多くの人々のみるところではないでしょうか。
だとすれば、10時間以上にも及ぶ記者会見に出て来て反省の弁を述べ、役職の辞任も予定されているらしいフジテレビ及び関連親会社?の幹部たち、この件に少なくとも立場上直接責任があるとみなされる連中だけの問題ではなく、そうしたことを平然と慣行としておこない、彼ら経営陣までが当然のように泥んできた全社的な体質、いわゆる企業風土の根幹に問題があることは明らかです。
そういういわば反時代的な企業風土を形作り、固執し続けてきた源になにがあるのか。記者会見に出て来た幹部たちは、フジテレビに創業以来だったか君臨する影の?実力者某について、「大きな影響力があることは確かです」と語りながら、ひたすら彼は今回の件には関係ないから、とかばうような言動を繰り返していました。
しかし、彼ら経営陣をかくも時代錯誤な考え方や行動様式に駆り立てた力の根源に、その権力を体現するような人物があったとすれば、それは誰なのか。なぜ彼は今回陰に隠れていて、記者会見にも姿を現わさないのか。そうした質問が記者会見で幾人もの記者たちからなされたようです。当然のことでしょう。
それに対する幹部たち(社長や会長の肩書はもっていても、実質的な権力をいまだに握る人物の前では無力な下っ端に等しい幹部たち)の言い訳は、その人物は今回の件には関わりがないから、という形式的なもので、とうてい記者たちを納得させるものではなかったようです。
現場でなにがおきたか、それに直接・間接に具体的なかかわりをもった者や、立場上その監督責任を負うべき役職者たちだけ出せばいいだろう、と言いたげなフジテレビの幹部たちの言い訳は、この事件の構図が上にのべたように、深くフジテレビの体質、社風、企業文化に根差したものであることが明らかになりつつある現在、もはや滑稽な逃げ口上でしかなく、下っ端幹部たちがよってたかって自分たちが首根っこをおさえられている影の実力者、フジテレビのまさにその社風、企業文化をつくってきて、それを体現しているらしい真の権力者をかばおうとして、本人をなんとしてもおもてに出すまいと必死で守ろうとしている、という情けない姿を、大勢の記者たちやテレビの視聴者全ての前にさらけ出したのでした。
フジテレビの数多くのスポンサー企業や、フジテレビの大株主たちが、いまだにフジテレビの姿勢があらためられると信じることができず、広告出稿を停止したり、きびしいコメントを出しているのも、彼らが今回の事件の核心が、たんなる一タレントの出来心や担当者の心得違いなどといった偶発的なものではなく、創業以来のフジテレビの企業風土、企業文化に深く根差した病根に起因するものであることを正しく見抜いており、そのいまだに秘された病根を体現するかのような影の権力者が姿を現わすことなく、或いは真の責任者であるその人物が責任をとって辞任するのかどうか、いまのまま隠れ通して居座るのか、態度が明らかにされていないという事実が、いくら下っ端役員が辞任しようが、反省の弁を述べようが、フジテレビがほんとうに変わるとは思えない、という深い疑念を抱かせているからでしょう。
わたしはフジテレビの番組などみたこともない(たぶん)し、件のタレントにも興味がないので、今回の事件に何の関心もないのですが、惰性的習慣で世の中の風俗現象を一週間ごとにざっと見出しだけでも見ておくといった気分で文春と新潮(おもしろくないので買わないことも多いけれど)だけ木曜の発売日にはたいてい買ってくるので、いちおう顛末は知っているし、こうテレビのニュースで何度も報道されればおよそのことは見えてくるので、まあちょっと感じていることを書いてみました。
saysei at 21:59|Permalink│Comments(0)│
2025年01月29日
ロールキャベツ

先日、硬いなぁと言ったら、一番上の皮だからね、捨てようかと思ったけどもったいないから、と言われたキャベツ、いよいよ本体のほうで、きょうは私にとっては「母の味」として好物のひとつ、ロールキャベツを作ってくれました。よく煮込んだというとおり、きょうのキャベツはほどよい柔らかさで、美味しく、スープが極上のコンソメスープのようでした。

カスレのクリームパスタ。カスレは月曜の夕餉のときの、美味しかったカスレの残りです。

これも月曜の夕餉の残りの、砂肝のコンフィ。

カブ、キュウリ、スナップエンドウ、やわらかキャベツ、カリフロール、セロリ ディルソース添え

チーズ。きょうは山羊のチーズ、最後のひときれまでいただきました。
(以上です)
きょうは、ひたすらヒポクラテス医学論集を読んでいました。いま読むともちろん病の原因として語られる内容はほとんど間違っていると思うけれど、ヒポクラテスのすごいところは、原因を主として食物や水のような今日でも合理的な病因に求め、それ以外でも風土など人間と環境とのかかわりの中に病因を求めていて、決して怪しげなオカルト的原因に求めることは無く、したがってまた、医術は哲学などが追及する人間とは何かといった知識を前提にすることなく、ただ人間の身体に関わる技術だけで完結でき、自立しうるものとみなし、それ以外の「哲学的」な前提が必要とするような見解は、ものを書く技術の方に属するものだ、と明確に切り分け、斥けているところです。紀元前5世紀後半から前4世紀のはじめにかけて活躍した人のようですが、当時から全ギリシャにその名が知られるようなすぐれた医師だったようです。前に読んだ時も、いまの医者に読ませたいと思うほどすばらしい言葉を残しています。今回もう一度じっくり全部読むのが楽しみです。
saysei at 22:01|Permalink│Comments(0)│