2024年12月

2024年12月29日

『ヘーゲル(再)入門』を読む

 昨日ときょう、たまたま手にとった川瀬和也という人の『ヘーゲル(再)入門』という集英社新書の本を読んでいて、夕方、ひととおり読み終えました。つい最近(12月22日付け)発行されたようで、新聞に広告が出ていたので、読んでみたいな、と思って、書店に行ったときに買っておいたのです。

 『精神現象学』を大体半分くらいでしょうか、やっと「精神」の初めの方まで読んで中断していたので、はやく戻りたいと思いながら、しばらく間があくと再開するのにちょっと気合が入らないといけない本なので(笑)、なかなかとりかかれずにいたので、「再入門」というから、ある程度はヘーゲルを読んだことがあって、こうだろうと見当がつく程度のことは知っていて、そういう常識的な見方をたぶんひっくり返そうという意図をもった本なんだろうな、と思って手にとったのですが、やはり幾分そういう意図をもって書かれた本のようです。

 私などの知らない英米系のヘーゲル研究者の近年の成果を踏まえて、著者なりのヘーゲル観として、ヘーゲルが通俗的な「正・反・合」の<弁証法>で対立物の矛盾を止揚するという例のいささか硬直した思考方法に則った哲学者なのではなくて、固定した思考の枠組みを常に徹底して流動化する動的な思考を貫いた哲学者だということを、ヘーゲルが生前に主著として公刊したただ二つの著書『精神現象学』といわゆる『大論理学』のいくつかのそれがはっきりとわかるようは記述を例にとりながら主張しています。

 実はその中のいくらかの説明は私にはうまく納得できず、首をかしげざるを得ないところもありましたが、おおむね言わんとするところは理解でき、またその主張にもおおむね同意というか、あらためて言われればなるほど、と納得できる点が多かったのですが、逆に言えば、こちらもヘーゲルは動的な思考の主だと感じていて、決して川瀬さんが言うような通俗的な硬い、固定的な思考の主だなんて思っていなかったので、そりゃそうだろう、当然じゃないか、と思うところも少なくなかったのは事実です。

 しかし、翻訳で読むせいかどうかはわかりませんが、ヘーゲルにも哲学者としての悪いところがうんとたくさんあって、あたりまえのことを難しい言葉でこねくりまわして、わざわざ難しい表現をするところがいたるところにあるし、ちょうどエンゲルスがヘーゲルから学んだ<弁証法>だと称して、自然の弁証法なるものを発明して、なんでもない力学的現象や生命現象や化学変化などを、いちいち「否定の否定」だの「対立物の統一」だの、「矛盾の止揚」だのといった言葉で「解釈」してみせた悪評高い『自然弁証法』がその見本みたいなものですが、なんでもない自然現象を、わざわざそういう「弁証法用語」で抽象的に、つまり曖昧に、難解にして語って見せるようなことの本家本元はまさしくヘーゲルなので、この本で川瀬さんが引用して、しきりに親切に解釈してみせてくれているような箇所にも、思わずそのもったいぶった言葉のこじつけぶりに笑ってしまうようなところがあります。

 そういう語法でいくと、「ある」は「ない」の対立物にみえて、実は同じものであり、「ある」はまた「ない」でもある、という禅問答のようなことになります。ヘーゲルが死んでからもうどのくらい歳月がたつのか正確には知らないけれど、もういいかげんそういう呪縛からは完全に解放されてもいいのではないでしょうか。いやいや、そういう呪縛のおかげで研究者として飯が食える(笑)という功徳はあるのかもしれないのですが・・・・

 けれども哲学のド素人としては、この川瀬さんの本からいろいろ教えられるところもたくさんありました。
 「主人と奴隷」の逆説、主人と奴隷のいずれが自律的で本質的な意識かといえば、奴隷を支配し言いなりにできる主人ではなく、その主人をおそれ、死をおそれる奴隷のほうだ、なぜなら奴隷にとってのその死の恐怖こそが彼を自律性へと反転させるからだ、という、その個所は読んだはずだけれど、すっかり忘れていたので、思い出して、しかもこの解説では必ずしもうまく納得できないので、また近々ヘーゲルの言葉自体を読んでみないと、と思ったのです。

 『精神現象学』のいままで読んだところまでは、いわば「意識」を主人公とするビルドゥングス・ロマンを読むような感じで読んできたので、いわば「物語」の筋、メインストリームだけを読んできたような感じで、その過程で語られている個々のエピソードや喩についてあまり深く考えて読み解くようなことはしてこなかったので、すっとばしてきたんだと思います。

 カントをはじめ、多くの思想家にとっては、感性によって得られる直接的な情報が認識の基礎で、すべてのはじまりを為す最も重要な契機ですが、ヘーゲルにおいては、その直接性と対立させられる媒介性こそが重要であって、いわば世界への通路は媒介性だということになるのかもしれません。
 そのあたりも、ああこれはもう少し丁寧に読んで考えて見ないとだめだな、と思わされました。具体的には、直観と概念のところですね。
 カントを読んだときに、感性と悟性をつなぐものは何か、カントはそこに「想像力」を想定するのだろうと思いますが、そこはカント思想のアポリアだな、と何となく直観的に感じたものでしたが、ヘーゲルがそれをカントのように直接的な感性こそが認識の唯一の最初の契機で客観性を保証するものだとは考えずに、それは最初から概念と一体(同一)のものだと考えた、というのは、私はそういう風に明確にヘーゲルのカント批判を理解していませんでした。これも読み直しが必要だな、と思った箇所でした。

 私にとってあらためて面白いな、鮮やかなもんだな、と思われたのは、無限をめぐるヘーゲルの考え方(に対する川瀬さんの解説)でした。無限なものと有限なものを対立させて考えると、無限であるはずのものが有限ではないものとして限界をもつために、有限なものとなってしまう(このレトリック自体がわかりにくいけれど)。これは悪無限であり、実は有限なものにほかならない。そうではなく真の無限は有限性の内にあって、自身を超えていくところにある、という、この考え方にはハッとさせられ、非常に魅力的ですね。ヘーゲルの思考の鮮やかさが如何なく発揮されるのはこういうところだな、と感じさせられます。

 まあすべては関連しあっているので、けっきょく全部読みなおさないといけなくなるのは目に見えていますが、「大論理学」の方は、前に少し拾い読みしただけで、まだ手をつけてないので、近いうちにちゃんと読んでみたいと思います。
 いわゆる「小論理学」のほうは以前に通して文庫本で読んだことがあって、こちらはそんなに難解だとは思わずに読んだ記憶があるのですが、まあ言葉づらだけの斜め読みだったのでしょう。ヘーゲルが一筋縄でいくとは思っていないので、とりかかるのにもちょっと気合が要るので(笑)、少々時間がかかりそうですが。それでも「代理人」と語らっていても仕方がないので、ヘーゲルならヘーゲルさんご本人に会いに行かなくては話になりませんから、まぁこちらのいのちがそこまでもてば、頑張ってみたいと思います。



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メジロがきょうはつがいで

メジロ2羽アップ
  今朝、空っぽになっていた植木鉢の下に敷く皿の鳥餌(アーちゃんの食べ残し)を入れておいたら、十羽も二十羽も集まって来た雀たちが非常に用心深く周囲の木の枝にとまって様子を見たうえで次々に舞い降りてきて、ほとんど食べてしまいました。餌がよほどおいしいとみえて、ものすごい食欲です。

  午後のある時刻に覗いてみると、なんと芙蓉の切り株の間にはさんだ皿のほうに、庭のメジロが来て、エサを啄んでいました。すぐに飛び去って、また雀たちの群れに占領されてしまいましたが、メジロたちもここに餌があることを学習してくれたようです。

メジロ2羽2

  雀たちでも、そのおっかなびっくりの様子を見ているだけで飽きませんが、やっぱりめったには専有庭まで下りて来ないメジロの訪れはなんだかとても嬉しい。そのうちに胸の毛色が鮮やかな朱色のジョウビタキなんか来てくれないかな、などと期待しているのですが・・・


きょうの夕餉

★水炊き
 きょうの夕餉は水炊きです。鶏のつくね、豚のスライス。

★鍋の追加の具
 野菜の具

ねぎとおろし
 おろしとネギもたっぷり

★おじや
 鍋のあとは残りを使って卵を入れて雑炊に。葱とおろしも残り全部入れて

★シイタケのガーリックバター焼き
 シイタケのガーリックバター焼き

★煮物の残り
 大根とおあげの煮物(のこり)

★すぐき
 すぐき古漬け

なべ
 (以上でした)

 きょうは午後10時からNHKで大谷特集があるようですね。それに合わせて発表したのでしょうか、いいタイミングで赤ちゃんができるらしいというニュースが飛び込んできました。発表の仕方はいつも大谷選手は言葉が上手だな、と思いますが、今回もお洒落な発表の仕方だったようです。

 発表のとき添えられた写真の、ピンク色の産着を見て、女の子ってわかったのかな、なんて言っていて、よく見ると靴だったか履物はブルーで男の子用だとか(笑) SNSでは、きっとデコピンが嫉妬するだろうなぁ、と心配する人がいたり、久しぶりの明るい話題に沸き立っているそうです。これほど日本中、いや少なくとも野球が盛んな国はたぶん例外なく国中から祝福されるようなお子さん誕生というのも例がないかもしれませんね。

 きっと大谷選手は来季、ますます活躍することでしょう。彼が高校時代かなにかにつくった人生の計画表の項目で達成していないのは、ヤング賞くらいじゃないんでしょうか。それもたぶん時間の問題でしょう。彼のような選手が同時代に活躍するのを刻々知ったり見たりできるわたしたちも本当にラッキーですね。












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2024年12月28日

西脇順三郎の詩

西脇順三郎


『Ambarvalia』      昭和八年                               『あむばるわりあ』   昭和二十二年

                                                                                    
  LE MONDE ANCIEN            LE MONDE ANCIEN

  ギリシア的抒情詩             毒李

    天気                   天気

      (覆された宝石)のやうな朝       (覆された宝石)のやうな朝
      何人か戸口にて誰かとさゝやく       何人か戸口に誰かとささやく
      それは神の生誕の日。           それは神の生誕の日


    カブリの牧人               カブリの牧人 

      春の朝でも                  春の朝でも
      我がシゝリヤのパイプは秋の音がする。     我がシシリヤの角笛は秋の音がする
      幾千年の思ひをたどり。            幾千年の思ひをたどり


    雨                    雨

      南風は柔い女神をもたらした。       南の風に柔い女神がやつて来た
      青銅をぬらした、噴水をぬらした、     青銅をぬらし噴水をぬらし
      ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、       燕の腹と黄金の毛をぬらした
      静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、     潮を抱き砂をなめ魚を飲んだ
      この静かな柔い女神の行列が             ひそかに寺院風呂場劇場をぬらし
      私の舌をぬらした。            この白金の絃琴の乱れの
                           女神の舌はひそかに
                                                                                 我が舌をぬらした


(『定本 西脇順三郎全詩集』 昭和五十六年 筑摩書房)

 先日、定本全詩集をとにもかくにも、最初の詩から最後の詩までひととおり目を通した、1200ページを超える西脇順三郎の全詩集、そろそろ売りに出そうと、もう一度付箋をつけておいた詩だけ拾い読みしたのですが、結局ノートしておこうと思ったのは戦中の処女詩集と、戦後にその改訂版として出された詩集の同じこの詩だけでした。

 基本的に肌合いの合わない詩人で、なにが「あむばりわりあ」だ!なにがカブリだ!シシリアだ!と思わなくはないけれど、まだこの頃の喩は素直で初々しいところがあって悪くないと思ったのです。「風呂場」がいいしね!(笑)細雨が舌を濡らすのを女神の舌とちょいと艶な言い方をしたところなどなかなかのものです。

 
 
 しょっぱなの「(覆された宝石)のやうな朝」もいいですね。宝石箱をひっくりかえしたようなありさまが、寝起きの頭の中なのか心のありようなのか、あるいは散らかった部屋のありさまなのか、お天気もようなのか、特定のあれこれを指し示しはしないけれど、それらをみな含む、とり散らかった乱雑さの印象ながら、陽光を浴びて宝石のようにきらきらと輝く<朝>を表現して過不足ありません。

 そんな朝寝床でようやく目覚めてみると、戸口のほうで、姿は見えないけれど、誰かが誰かと語らう声だけが聞こえてくる・・・ああ、そんなことがあったなぁ、これはどこかで自分も経験したことがある場面のようだなぁ、と思えませんか?
 まだ寝起きのぼんやりした意識と、姿が見えずに声だけが戸口のほうから聞こえてくる。聴覚を通してだけ伝わってくることで、声の方をうかがう心の動きまで表現しえているように思えます。そういう場面のリアリティと完結した印象が自分も経験した場面であるかのように思えるのかもしれません。

  「パイプ」を改訂版で「角笛」に変えたのはわかります。秋の空気に澄んで響くのはパイプより角笛でしょう。しかしバグパイプの音というのも、なにか懐かしい感情を呼び起こすようなところがあって捨てがたいところもあります。

 糸のように降り続く細雨が、しめやかな「静かな柔い女神の行列」である以上に、「白金の絃琴の乱れ」のように華麗である必要があるか、「潮を抱き砂をなめ魚を飲」む必要があるかは、好みの分かれるところでしょう。確かにこうした喩を担う指示名詞を増やす強調が一般論として修辞的な価値を高めることは否定しませんが、詩をそうした修辞的美学の産物としかみなさない詩観自体に疑念を抱く者としてはこうした表現にただ修辞的過剰しか見ることができません。

 もう彼の詩を読むことは二度とないでしょうが、最後にひととおりは彼のこの全詩集におさめられた詩の字面だけは最初から最後まで全部追うことができたのは、ひょっとして自分の心をも打つような素晴らしい詩を読み落としてきたのではないか、といった余計な心残りがなくて幸いだったと思います。





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2024年12月27日

菜っぱ類が消え

きょうの比叡

 今日は朝から夕方まで綺麗に空が晴れ渡って、家の中からガラス戸越しに見ていると、外に出たくなるような一面青空の上天気。でも午後3時過ぎにいつものように電動アシスト自転車で出てみると、昨日とは違ってきょうはとても寒かった。少し風があったせいでしょうが、その風が冷たかった。大量に流れ出てくるハナミズをぬぐうのに苦労しながら、それでも上賀茂の六つばかりの野菜自動販売機を覗いてきました。

 このところ、概してどの自動販売機も出品が少なくて、大方はスグキを出しているだけで、あとは大根、カブ、カボチャ、ネギといったところで、菜っぱ類がすっかり姿を消しています。かろうじて白菜と小松菜が出ていたのでゲットしてきましたが、パートナー御注文の菊菜、ほうれん草、水菜などはどれも六ケ所の販売機のどこにも見当たりません。キャベツなどはもうずーっと見たことがありません。冬だから仕方がないとはいえ、周囲の畑を見ると、結構青々とした菜っぱ類が育っているのですが、いま値段が高騰しているから正規のルートで市場に出すと高く売れるから、こういう非正規?の自動販売機には置かないのかもしれません。

 わが家はいまやおおかたの野菜をこの新鮮で安くて美味しい自動販売機の野菜に頼っているので、こう品薄になってくると困ります。もちろんどこのスーパーでも生協でも野菜は全国の様々な地域から届くのを売ってはいますが、正直言ってまずくて高くて新鮮じゃない(笑)。上賀茂で私がゲットしてくるその日の朝採りの新鮮で味がほんもので、しかも市販より何割か安い野菜とは比べ物になりません。

 最近はみんなそのことに気づいたのでしょう、おそらく販売機いっぱいに出品されていても、すぐになくなるのだろうと思います。私のように自転車で20分、30分かかるところからでも、晴れた日は毎日のように覗いてまわる人はあまりいないかもしれないけれど、地域の人で自分で毎日調理する人なら、きまって毎日のように覗いて行く人はきっとあるに違いないし、個人営業の店の人など、よそで仕入れるよりもずっと新鮮で安くて味の良い農家直売の販売機で、曜日を決めて仕入れにきている人もきっとあるのではないかと思います。

 そうなると、私などはある日ある時刻に行って、たまたま運よく残っている野菜をゲットしてくる以外に仕方がないので、6か所が自転車で一筆書きのような道順で容易にまわれるので、必ず6か所全部覗くようにしているので、その中の一ヵ所か二か所くらいは、ひとつふたつほしい野菜が残っていることが多いので、なんとかいまのところ上賀茂詣がつづいています。


きょうの夕餉

★手羽先のから揚げ
 手羽先のから揚げ

★ぶりの塩焼き
 ぶりの塩焼き

★白和え
 手前は鰤の塩焼きにつける、辛味大根のおろしにポン酢かけ。右は菊菜とラディッシュの葉とシイタケのシラアエ。ラディッシュの葉を使うのは珍しいでしょうが、新鮮で綺麗だったので使ってみたのだそうで、何の抵抗もなく、さわやかな味で美味しかった。 左はいつものモズクきゅうり酢。

★大根葉のジャコキンピラ
 大根の葉のジャコキンピラ。わが家は大根は葉も全部使います。ご飯にかけていただくと美味しい。

★トウガンと肉団子のスープ煮
 トウガンと肉団子のスープ煮。先日買って来ていたトウガンが、やっときょうで終わったそうです。買ってしばらくは台所の床にころがしておいても、けっこう長くもちますが、いったん包丁を入れて切るとやはり早めに食べたほうがいいので、3回くらいに分けてなにかの料理に使うようにしてくれています。毎日でもあきるので、数日おきに3回というと、けっこう長く使えます。なにしろモノが大きいので・・・ わたしはトウガンが大好きです。それ自体にはこれといって味はないのですが、水分が多くて、いろんな味をたっぷり吸収するので、鶏の出汁でスープ煮などに使うと本当に美味しい。寒い時はアツアツの料理として、水分もたっぷりとれるし、消化にいいし、利尿剤でもあるらしいし、とてもいい食材だと思います。小学校低学年のころ、広島の社宅の庭の板塀にトウガンの蔓を這わせていて、ものすごく大きな実をつけていたので、とてもよく覚えているし、なつかしい食材でもあります。

★スグキ、もろ子佃煮
 右は昨日もいただいた、パートナーの友人が送ってくれたという琵琶湖産のモロコの佃煮。わが家はだいたい薄味で、みなあっさりしているので、その中でこういう凝縮した濃い味を舌にのせると、すごく新鮮でアクセントとして美味しい。そして、シメはやはりスグキの古漬け。

 きょうたまたま100おじさん(なんでもall 100 yen と書いて売られている販売機)のところで小松菜をゲットしていたとき、通りがかりの若い男性が、横の家の板戸に「すぐきあります」と大きく書いた張り紙を見て呼び鈴をならすと、そこからじゃなく、路地の向かいの背後の家から奥さんが何でしょうか、と出てきました。すぐきがほしいんですが、と男性が言うと、家の中へ招き入れるので、私も背後についていきました。いつも戸田農園さんの美味しい古漬けを食べていて、ほかの自動販売機のスグキは前にひととおり食べたことがあるのですが、野菜同様にいずれも戸田さんの古漬けには敵いませんでした。でもこの100円おじさんの販売機の立っているところの家で売っているらしいスグキは食べたことがなかったので、おいしそうなら一つ試してみようと思ったのです。

 それで、男性が買って出ていくと、「古漬けがありますか?」と訊いてみると、そこにいたご主人らしい人は残念そうな顔をして、古漬けはもう無いんですよ、と言いました。今年漬けた新しいのは有ったようだけれど、わが家はみな癖のあるよくよく漬かった古漬けが好きなので、新しいのは遠慮して、ではまた、と帰ってきました。戸田さんのところ以外では、古漬けと明記して売っている販売機はないので、ますます戸田さんの古漬けは貴重品という感じになってきました。パートナーによれば、私が戸田さんのところでゲットしてきた400円とか500の古漬けと同じくらいの大きさのが、市販では700円、800円もしているそうです。名の知れた漬物屋のなどは1000円以上の値をつけているのもあるそうです。でも私たちにとっては、今食べている戸田農園さんの古漬けが味では最高で、どんな料亭で出されるものにもひけをとらない味だと思っています。こういうのを食事の最後にいつもひときれ味わってシメられるのは、なんという幸せか(笑)

 以前はスグキはちょっと…と敬遠して持って帰らなかった長男も最近はその味がわかったらしくて、勧めると持ち帰るようだし、もともと味覚ではたぶん家族で一番シャープな孫も、スグキは大好き。だから彼女に食べさせるためのスグキはちゃんとまだ冷蔵庫にとってあるそうです。


南の夕空
  夕暮れ時の南の空

  先日は以前職場でいつも私を支えてくれていた研究員の女性からクリスマスカードをもらいました。私が賀状仕舞いの葉書を出したのに対して、近況をひとこと書いてクリスマスカードを送ってくださったのです。本当に久しぶりで、近年は賀状をかわすだけになっていたので、とても嬉しかった。近々お嬢さんが結婚なさるとのこと。実はそのお嬢さんとは私も二度お目にかかっていて、最初はまだ幼児のころに一度会社へ連れて来られたとき。そのころひとり、ふたり、退職した女性がお子さんをもうけられて会社へつれてこられることがあったせいか、私は後日、彼女のお子さんは男の子だと誤解してしまっていたのです。

 ところが、次に会ったのは、もうそのお子さんが確か高校生のころで、地下鉄のプラットホームで偶然出会い、娘です、と紹介されるので驚いて、思わず、「えっ?男のお子さんじゃなかった?」なんて言ってしまったのです。当然その素敵なお嬢さんは、なんだこのおじさんは!と向こうを向いてしまった(ように後ろめたかった私には思えた)のでしたが、それがそのお嬢さんにもお母さんにも会った最後でしたから、もう何年前のことやら・・・

 同じ会社では私の片腕のような役割をしてくれていた人で、性格が穏やかで決して激高するようなことがなく、結構意地悪で厳しい上司だった私の依頼する仕事をどれも着実に正確にこなしてくれる安心のできる人でした。痩せても枯れてもシンクタンクなどという職種では、しかし、そういうジェネラリスト的な能力、つまり常識が豊かでいろんな意味で人間的にも能力的にもバランスがとれていて、読み書き、表現したり、理解したりする能力が偏りなく、相当な水準にある、といった人に対する評価は必ずしも高くなく、たてまえどおり「備えていて当然の常識、能力」であるかのようにみなしがちです。

 どちらかといえば、能力的にも性格的にもひどく偏ってバランスを欠いていても、なにか特殊な能力を持っているとか、特殊な領域に詳しいとか、そういう人材を高く評価する傾向があるといっていいでしょう。ほんとうはもちろん、そういうスペシャリスト的な人材も、ジェネラリスト的な人材もともに必要不可欠なのですが、前者はほかの人間で替えられないところがあり、後者は万一のことがあれば代替となる人をみつけることができるのではないか、と考えがちなのです。実際には、高度な能力を備え、人格的にもバランスのとれた人というのは、なまじなスペシャリストよりもずっと得難いものなのですが、そういうことが分かるようになるのは、長く実際に一緒に働いてみてはじめてわかることで、その過程では同じ研究員どうしの間でも、なんとなくスペシャリストタイプの人がより敬意を払われているようにみえ、また本人たちも少々鼻が高かったり(笑)、周囲もそれをまあこの人は特別な能力を持っている人だから、と許容するところがあったりしがちです。

 実際にはなにかが得意だけれども能力的にも性格的にもバランスを欠く人というのは、欠点のほうもひとよりもはるかに大きくて、それがあまり芳しくない影響を及ぼす機会も稀ではないので、よくいろんな仕事をもらったクライアントで、親しくなった担当者たちから、「〇〇さんは稀代の猛獣使いやなぁ。よくあんな難しい人が使いこなせるねえ」と皮肉としか思えないようなことを、冗談っぽい口調で言われたものでした。

 今になって振り返れば、そういう「猛獣たち」とは対照的な研究員だった彼女は、得難いジェネラリストとして、過不足ない高い水準での総合的な能力や人格的なバランスを備えた人だったな、ということがよくわかります。長い間こんな小うるさい上司と良く付き合ってくれたものだと思い、またせめて給与面でもそれに報いるだけのことができずにきたことに、内心おおいに忸怩たる思いがあるのも正直のところです。だからこそ、彼女からのたよりは、ほんとうに心から嬉しいものでした。

 もう一通のクリスマスカードは昨日届きました。綺麗なクリスマスの絵柄の表をひっくり返すと、私への宛名宛先と、下に私信が書かれていて、二人のお子さんの子育てに元気で奮闘している旨の近況が書かれていました。ところが、どこにも送り主の名や連絡先などが書かれていないのです。

 さあ困った。ここに書いてある年齢のお子さんを二人もってママになっているOGで、消印に一字だけヒントになりそうな文字があったので、どうやら神戸市在住の人らしい、と見当がつきました。それで住所録を最初から見て行って、神戸在住の何人かのOGをひろいだし、今年もらった彼女たちの賀状をひろいだしてみると・・・みつかりました!ぴったりその年齢のお子さん二人の写真つきの賀状をくれた、消印の文字を含む住所に住んでいるはずのOGが・・・

 おそらく彼女に間違いないだろうと、返事を書かせてもらったのですが、自分の名を書き忘れるそのアワテンボぶりも、考えてみれば彼女らしいかも、とひとり笑いがこみあげてきました。彼女はゼミの中でもいつも仲間を明るい雰囲気にし、活性化してくれる陽性でひとなつっこい性格の女性で、彼女はきっと幸せな家庭で、すなおにのびのび育って来たんだろうな、という印象をもっていました。きっと彼女自身がつくっている家庭もそういう明るい幸せな家庭に違いない、と思えました。賀状にうつっているお兄ちゃんは、もうすっかりお兄ちゃんらしい安定した落ち着いた笑顔を見せていて、まだ1歳の弟君はいくぶん不思議そうな、少し緊張した表情なのだけれど、おっとりした、見ているだけで抱きしめたくなるような可愛らしい表情でした。子供たちの表情を見るだけで、彼らがいかに豊かな愛情を注がれて育っているか、ひとめでわかるものですね。

 彼女も私の賀状仕舞いに対するレスポンスとして、このカードを送ってくれたのですが、こうしてごくまれにでも元気でいる様子を知らせるたよりをもらうと、ほんとうにこちらまで幸せな気持ちになります。彼女たちがいつまでも幸せでありますように。






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2024年12月26日

炬燵に入りたかったクマ

 昨日のニュースで、家に帰ってみると、クマが入り込んで、炬燵にあたまをつっこんでいた、というのがありました。熊もおなかは減るし寒いし、炬燵にはいりたかったのでしょうか。なんだか哀れな感じです。麻酔薬をつけた吹き矢で眠らせて、山へ返したそうで、殺されてしまわなかったのは良かったと思いますが、人の住居に入り込んで食べ物を食べた経験は、またお腹が減ると思い出されて、同じことを繰り返すかもしれませんね。体長90センチというから、小さいとは言えないかもしれないけれど、まだオトナというには小柄だし、きっと子熊だったのではないでしょうか。

 以前には山小屋へ戻ってみると、子熊が一頭いて、なんと助けてくれというように、行った人の脚にしがみついて離さないようすが写真にとらえられていました。どうやら親クマにはぐれて、その小屋に迷い込んでいたらしいのですが、心細くて、クマとヒトの区別もどこへやら、親クマにすがりつくように立ち上がって両腕でその人の脚にしがみついているのです。これもほんとに哀れを催す姿でした。(この子熊は保護されて、飼育施設へ引き取られたように聞いています。)

 もちろん腹をすかした大きなクマが飼われている牛を殺したり、最悪の場合人間を襲って怪我を負わせたりする事件も頻発しているので、可哀そうだとばかり言ってはいられないし、クマが出るような地域の人たちはいつどこでクマに出くわすかと戦々恐々でしょう。

 もともとは人間が経済的利益のために開発の手を広げたいだけ広げて、動物たちの棲み処を奪ってきたことが根本的な原因ではあるのですが、いまさらそれを言っても仕方がないので、今の原状を踏まえて、あらためて人間と動物の共存の仕方というのものをしっかり根本から考え、当事者であるそうした接触にさらされている人たちをはじめ、多くの人々が納得できるような基本的な考え方を打ち立てて、それに基づいた現実的な対策(隔離策なり緩衝地帯の設定なり)をとる必要があるのではないかと思います。

 いまのようにいきあたりばったりの対症療法みたいなことを繰り返していると、行政から依頼されて猟銃でそうした生き物を殺す人が悪者扱いされたり、直接生命の危険にさらされたり飼育牛をころされれたりするような人たちと、そうでない人たちとの間など、そうした地域の内部でさえも人々の考え方に亀裂、断絶が生じ、対立、分断が固定化していくおそれがあるように思います。

 それにしても、最近パートナーがしきりに動物たちを素人市民が撮って投稿したほっこり動画をよく見せてくれるので、なんだか動物観が少し変わって来たような気がします。とりわけ人間の赤ちゃんに対する動物たちの態度というのは、なぜああも優しいのか、教えられもしないのに、本能のように弱いものを守ろうという意志が自然に働くようで、その姿にはほんとうに驚くと同時に感動させられます。最近は人間の親のほうがよほどひどいことをするので、人間よりよほど優しいと思わずにいられないことも少なくありません。


きょうの夕餉

★パスタ
 ポルチーニ、レバー、ブロッコリ、チキン、マッシュルム、タマネギのクリームパスタ


★スープ
  ハクサイ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、ダイコン、ブロッコリ、肉団子のトマト野菜スープ

★サラミ
 サラミ

★チーズ
 チーズ  新しい美味しいチーズを長男が注文してくれたので、その前に近所の店で買っていた安物のチーズは心置きなく食べられる、というので早速きょうはそのチーズをたくさんいただきました。おいしい高いほうのチーズ(笑)は、お正月用の楽しみに。

 あとはいつも朝食で食べているミニ食パン(ドンクのパンドママ)の端の部分をパリッと焼いたのがあって、これにチーズをのせて食べると最高に美味しい。そのパンの端がほしいために、いつも六枚切りのを買っています。三枚切りのには端がついていないので・・・

 きょうは昨日までより少し暖かで、自転車に乗っても風がこごえるような寒風に感じられなかったし、夕方風呂に入って湯船からでたときも、寒さに震える感じが無く、裸でいても平気でした。きょうの最高気温は13℃だったそうですから、10℃を超えていれば、そう寒くはないようですね。きょうなぜかアーちゃんの部屋の暖房のスイッチが切れていたのにパートナーが夕方気づいてあわててつけたそうです。カーテンの開閉のときにでも、エアコンのボタンに触れたのかもしれません。

 アーちゃんは24時間暖房という、わが家では誰よりも贅沢な御身分です。われわれは冬はエアコンはほとんどつけたことがなく、居間は吹き抜けで天井も高く、2階とつうつうなので暖房を入れてもあまりきかないこともあって、ホットカーペットだけ。寒ければショーツみたいなのを羽織ったり、体を巻いたりしてしのいでいます。
 DKも食卓の下の床に置かれた一枚の電熱板(40年前後使っている)があるだけです。寝室だけは、ふつうの布団の中に入れる炬燵は使わないので、安全なオイルヒーターを窓の脇に置いて、寝る前に一番ゆるい暖房をかけています。窓一枚だし、コンクリート長屋でもあるので、その底にある寝室は、朝方はやはりかなり冷えます。 

 病院の待合室で読みかけたフリードマンの『資本主義と自由』が面白く読めています。前にも大恐慌の時のことを論じた論文やなにかを読んだり、最強の経済学者とか銘打った伝記を読んだりしましたが、その前にケインズってすごいなぁ、と感心していたこともあって、フリードマンに対しては少し偏見をもっていたかもしれません。読んでみるとこれはこれで秀才らしい文章は明晰で歯切れがよくて、言わんとすることがよくわかり、納得もできます。いまさら新自由主義者になるつもりもないけれど(笑)・・・あまり偏見を持たずに少し読んでみようと思います。経済については自分なりの経済学思想とでもいうべき芯をつくるほど学んでいないので、もし時間が許すなら、代表的ないくつかの経済学思想をひととおりはたどってみたいな、と思っていますが、もう時間切れかもしれません。そのまえに「ひととおりたどりたい」ものがたくさんあるので(笑)

柿の和菓子
  これは昨日長男がちょっと寄ったときに置いて行ってくれた、友恵堂さんの、柿の実を象った和菓子。

柚子の和菓子
 同じく、これは柚子の実を象った和菓子。中身は柚子は入っていないし、柚子の香りもつけてありません。そんなのをつけると田舎臭くなりますが、ただ姿かたちだけ似せて、みごとな色形をつくってみせるのが京風でしょう。いつもながら、小さな老夫婦だけで半世紀以上やっている町の和菓子屋さんのわざの見事さに感動します。





saysei at 21:33|PermalinkComments(0)
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