2024年11月

2024年11月30日

プルーン煮とシェパード・パイ

★鶏肉の白ワインプルーン煮
  わが家の定番になった、鶏肉の白ワインプルーン煮、リンゴとカブのソテー添え。八角とシナモンが隠し味として使われています。朝つくるフルーツカスピ海ヨーグルトに入れるリンゴは何の変哲もないリンゴですが、同じものがこうして使われるとすばらしく美味しい。プルーンにせよリンゴにせよ、洋食の中にアクセントのように入れられるこの種の果物の甘味は、料理全体を格段に美味しくしてくれるようです。
  そういえばロンドンで知り合った料理人のつくるカレーには干しブドウやパイナップルやリンゴのような果物類が色々入っていて、とても美味しかった。そういう甘味を加えるから、本来の辛いカレーの味に奥行きが生まれて一層美味しく感じられるのかもしれませんね。

★シェパードパイ
 最近見るものがなくなって、もっぱらプライムビデオだかネットフリックスだかで、イギリスの探偵ものみたいなシリーズもののドラマばかり見ているパートナー、ドラマに始終出てくるこのシェパード・バイが気に入って、このあいだから2度、3度つくっています。きょうは私が上賀茂の野菜自動販売機でゲットしてきたこの時期に珍しいディルを添えています。結構よく合いました。

★バターナッツかぼちゃのスープ、ディル入り
 バターナッツかぼちゃのスープ。これにもディルを浮かせています。ディルの強い香りや味、わが家ではたいへん好まれています。

パン
 レブレドォールの茸入り硬パン。これにブルーチーズの残りを載せていただきました。

きょうの比叡
 きょうの午後遅めの比叡(高野橋より)。

 私が上賀茂へ行っている間に先日Zoomで話した友人が、彼のうちで育てている二ホンミツバチの集めた蜂蜜を瓶に入れたのを持って来てくれていました。透明な黄金色に輝く実に綺麗な蜂蜜で、明日パンケーキにつけて食べるのを楽しみにしています。二ホンミツバチはいま群れの数が減少しているらしく、ハチミツも少ししかとれないそうで、貴重なもの。以前にオーストラリアの大橋巨泉がやっていたマヌカ蜂蜜というのを買っていたことがありましたが、ハチミツ自体の希少化と円安もあったのでしょうが急激に価格が高騰して、われわれにはとても定期的に買えるようなものではなくなって、購入をやめてしまいました。
 その後、スウェーデンで結婚してお子さんもできて幸せに暮らしている大学のゼミ生だったOGが一時帰国したときに、おみやげにいただいた中に、近所のお家でつくった蜂蜜だといってくださった蜂蜜を大切に使っていたのですが、これが素晴らしく美味しかった。やはり市販のものとは全然違うなぁとそのとき思ったものです。なぜだか、その理由は私にはわかりませんが・・・。

 ネットをちょっと見てみると、ミツバチの中でも二ホンミツバチは独特の習性をもっていて、クマバチが巣を偵察にくると、全員で激しく羽を振動させて巣の温度を上昇させ、その偵察バチをびっしり取り囲んで殺してしまうのだそうです。こんなことは二ホンミツバチだけにできる芸当らしく、外来種のミツバチはクマバチに襲われるとみんな殺されてしまうんだそうで、クマバチのほうもよく知っていて、二ホンミツバチと外来種のミツバチの巣が近くにあれば、外来種の方の巣を襲うのだそうです。また、二ホンミツバチは、外来種ミツバチが見向きもしない中国の蘭の一種に惹かれて集まる習性があるとか、同じミツバチと言っても、かなりそれぞれに特色があって習性が異なるようです。

 私などは蜂ときくと、子供の頃体中刺された悪夢のような体験や、高校生たちと杉の下生え刈に山へ入って長い柄の鎌で自分の丈ほども伸びた雑草を刈りながら、たくさんいるマムシにばかり気をとられていたら、ブーンと正面から羽音を立てて飛んできた蜂に首のあたりをチクリ、と刺された思い出とか、ろくな思い出がなくてちょっとぞっとしますが、ハチミツはこれに反して大好き(笑)。

 子供の頃の体験は、私が母の療養生活で、田舎の祖父母のもとに2年ほど預けられていた4,5歳のころの話です。村の悪ガキたちにくっついて遊んでいた時、かくれんぼでもしていたのか、村のたったひとつのお寺の鐘楼の裏のところへみんなで隠れて入っていったら、先頭のやつが蜂の巣にあたったみたいで、一斉に逃げ出し、最年少だった私だけが取り残されて、怒り狂った蜂たちに思う存分刺されてて、泣きながら帰ったのです。

 伯父が驚いて私を縁側に寝そべらせ、顔から首や背中、腕や足まで、とにかく皮膚が出ていたところはすべて噛まれて腫れあがっていたので、そこへアンモニアを塗っていくのを、私を置いて逃げた村の悪ガキたちがみんな見に来て、縁側のところでニヤニヤしながら眺めている中で、臭いやら極まりが悪いやらでたまらなかったことだけ覚えています。




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遺伝の不思議

 昨日いつものように朝食後のゆったりしたひととき、パートナーと雑談していて、食べ物の好みが孫と長男でそっくりだという話になったときのことです。

 長男は若いときスリムで、健康に悪そうな塩分の強いものや脂っこいものはかなり神経質に避けて、まるで菜食主義者みたいな印象だったように思います。パートナーがつくる料理についても、脂肪分の多そうなものはあまり食べたがらず、ちょっと塩っ気が強すぎると注文をつけたりすることがあったりしたと思います。

 ところが、近年、週一度くらい夕食を共にするようになってパートナーが気づいたことには、彼はほんとうはあっさりしたものよりも脂っこいものが好きで、魚でも脂ののったものが好きだし、美味しいと言って食べ、とんかつなんか大好きだし、彼が真っ先に箸をつけたり、最後まで美味いと言って食べているのはどちらかと言えば脂っこいものだというのがパートナーの観察です。

 わりと頭で考えて、生活上の振る舞いもそれに従ってコントロールできるタイプのようだから、油っ気の多いものや塩気の多いものは健康に悪いという観念で、やや過剰にそれらを摂取するのを制御してきたのではないかと思えますが、やはり体に悪いものほど美味しいもの(笑)ですから、最近は自己規制をやや緩和して、持ち前の味覚に従う機会が増えたのでしょう。

 面白いことに、この長男の食物に対する好みが、次男の長女である私の孫にそっくりそのまま引き継がれているらしい、ということです。幼いころから週に2,3度もわが家へきて祖母である私のパートナーの味に親しんできたせいかもしれないけれど、それでもパパである次男の方には全然似ていなくて、伯父にあたる長男の味覚にそっくりなのが面白く、わたしたちはいつも驚くと同時に可笑しくてなりません。

 例えば二人ともタラコが大好物で、孫などは幼いころはタラコがなくてはご飯が食べられないほどで、自分のことを「タラ子と呼んでください!」と言っていたほどです。

 それに、そもそもお米のご飯が大好きで、パンかご飯かと訊くとぜったいにご飯!です。私たちと孫にママや長男も一緒に北欧から英国へ家族旅行をしたときには、最初の機内で家から用意していたおむすびを食べたのを最後に、旅行中基本的にはまったくコメのご飯が食べられなかったので、まったく不平を口にするような子ではなかったので、何も言わなかったけれど、むこうでどんなにご馳走を食べても、かなり閉口していたようです。
 ロンドンでの最終日に、ロンドン・アイ(テームズ河畔の大観覧車)のすぐ近くのレストランで「かつ丼」をみつけて食べたときには、よほどうれしかったと見えて、「旅行中食べた中で一番美味しかった!」と言って、せいぜい美味しい料理を食べさせてきたつもりの私などをいささかがっかりさせたほどでした。

 長男もその点はまったく同じで、ご飯が大好き。海外へ行こうとしないのはひとつには、毎食美味しいお米のご飯が食べられないことが理由なのではないか、と思うことがあります。
 孫は海外旅行の間もいろいろ退屈だったりしんどいこともあったと思うのですが、まったく泣いたりぐずったり、いやな顔をしたことがなく、終始にこにこして機嫌のよい子でしたが、おそらく彼女が内心で一番閉口していたのはお米のご飯が食べられないことだったのではないかと思います。

 いまでも、わが家で食事のときにご飯の「おかわり」をするのは長男と孫くらいのものです。だいたいいつもパートナーは彼らと共に食事をするときは張り切って食べきれないほど多種類の料理をつくって食卓に並べるので、私などはその中のいくつかを少しずつ味わうだけで満腹してしまって、ご飯は茶碗にごくわずかよそって食べるだけですが、料理が美味しければ美味しいだけ彼らはご飯も進むようで、自分で茶碗をもって炊飯器のところへおかわりをしにいくので、おぉやっぱり若いからよく食べるなぁといつも感心させられますが、ほんらいお米のご飯が好きなのでしょう。

 ほかにも、およそ幼い子の好みとは思えないような食べ物、たとえばいま私たちの食卓に載っているスグキや、琵琶湖の鮒寿司、へしこのように癖のあるものが結構好きだし、二人ともヒロウスが大好きで、食卓に森嘉さんのヒロウスがあったりしたら、真っ先に箸をつけています。ヒロウスなんてものが好きな子供っていますかね?(笑)

 また、二人とも魚が好きで、とくにお刺身は大好き。白身だろうが青身だろうがトロだろうが鳥貝やサザエだろうが、海の匂いのするものは大好き。それでいて肉も大好き(笑)。
 まだ幼いときにそば鶴で松茸の土瓶蒸しを食べたとき、その出汁をスプーンですくってフーフーしながら孫の口入れてやったら、「はぁーっ」とうっとりするようなため息を吐いたので、わたしたちも当時一緒だった亡父母も孫の満足気な表情を見て、この子はグルメだ、と大笑いしたことでした。椎茸は嫌いで長男も昔は「椎茸は子供の敵だ」などと言っていましたが、孫も幼いころ苦手だったものも大抵何でも食べるようになりましたが、シイタケだけはいまだに食べませんが、松茸は(あれば・・・)食べるのです。

 食べ物の好みが似ているのは、パートナーの料理に親しんできた後天的な影響もあるでしょうが、それならパパも同じであっていいはずなのにパパとは違い、伯父さんのほうにそっくりなのは、やはり遺伝子の引継ぎが味覚に関しては「長男➡孫」という経路をたどったに違いないと思います。

 身体的な能力なのか生理的能力とでもいうべきなのか分かりませんが、方向感覚とか地理的な俯瞰能力というのでしょうか、そういうものが著しく劣っているというか、ほとんど欠如しているに等しいところは、彼女の平均的にはとても高い能力の中でエアポケットのように低くなっている部分で、これもどちらかと言えばたぶん長男がもつ遺伝子の方を引き継いでいるのではないかと思いますが、もとは私です。
 小学校の3,4年生になっても、彼女は昨日友達の所へ遊びに行ってきた、と言いながら、「どこ?」と訊くとまず全然まともに答えられないのです。いや、初めての友達の家ばかりか、何度か行ったはずの場所であっても地理的な記憶が乏しいというか、もともとそこが全体の中でどういう位置にあったとか、自分のいまいる場所からどう到達する場所なのかといった地理的認識が成立していないようなのです。行った先の場所の像は頭に浮かんでいても、そこに至る地理的な道筋や景観については、まるで記憶がないのか、表現ができないのか、いつも答えるのが難しいようです。
 あれだけ賢く、記憶力も理解力も表現力も同世代のお友達の中でも抜群に高い彼女が、地理的な問題となると、なぜあんなに記憶が曖昧になり、地理的な情報を表現することがほとんどできないのか、理解に苦しむところですが、それはもう遺伝的、生理的な生来の性質としか言いようがないように思います。

 実はこれは私もそうなので、もともと地理的な認識が極度に弱く、道順とか地理的な位置をおぼえることは非常に困難で、何度か行ったことのあるところへも行きそびれることが頻繁にあります。いまでも覚えていますが、中学校ではじめて地理の授業というのを受けましたが、そのはじめての中間試験の時に出た一番大きな比重をしめた問題が、鉄道で山陽本線の広島駅(中学は広島でしたから)から発して大阪へ、そこから乗り換えて東京まで東海道線で行く列車に乗ったときに、左右の車窓からどんな景色が見えるか、というのをひとりの乗客の目で書いたような文章にしてあって、そのところどころにある空欄を埋める、という問題でした。たとえば、[         ]川の鉄橋を渡ると左手に[       ]連峰が見え、などと言う具合です。

 この問題、私はたしか一問も答えることができませんでした。地理の試験範囲のテキストはまじめに勉強して試験に臨んだのですが、地理的知識と感覚を試すようなこの良問の前に、知識はともかくまるで地理的感覚を欠いた私はまったく歯がたたなかったのです。
 たぶん孫もそうだったのではないか(笑)…間違っていたら謝らないといけないけれど、ふだんの彼女の地理オンチを知っている私にはそう思えてなりません。こういうものも遺伝するんだなぁ、と思わずにはいられないのです。パパについては地理的感覚が欠如しているとまで感じたことはなかったと思います。

 中学のときに友達と雑談していて、横浜が名古屋のこちらなのかむこうなのかを知らず、友達がそんなんも知らんのか、と笑ったところ、次男はまじめな顔をして「そんならおまえ、横浜へ行ったことあんの?」。
 友達が「ないけど?」と答えると、「そんなら、横浜が名古屋のどっちにあるなんてこと知ってることに何の意味があるの?」と反問して、友達が答に窮する、という現場を私たち夫婦が聞いていて、笑いをこらえるのに困ったことはあります。
 ただ、あれは地理オンチというよりは、彼は自分が関心のないことはまったく知ろうともしないし、記憶にも残らないタイプなので、その類のエピソードだったように思います。

 では孫がパパから受け継いだ遺伝子はどういうものかと言えば、誰でもすぐ気づくのはその丸顔が基本の顔かたちで、一度義母のうちへ一緒に行ったときにわたしが彼女を抱いて車から降りたとたんに、迎えに出てきた義妹が私と孫の顔を見比べて挨拶するいとまもなく吹き出して、「そっくり!」と笑い出したので、私はそんなに似ているかなぁ、と思ったのですが、血のつながりのない第三者から見るとそう見えるもののようです。
 私も丸顔で、これは亡父からゆずりうけた顔立ちで、長男はまるで違うのですが、「亡父➡わたし➡次男➡孫」の系列へ引き継がれていったようです。

 孫がすぐに言葉や文字を覚えたり、言葉を巧みにあやつり、絵本にはじまった本を読み、きちんと筋道立てて考えることや表現することができ、幼いころから大人の言葉をたやすく理解するといった能力を持っているところは次男よりも長男に似ているのですが、感覚的に繊細でとても情緒豊かな感性のすぐれた面をもっているようなところは次男のほうに似ているな、とかねがね思っていて、それはたぶん私よりもパートナーのほうだから、「パートナー➡次男➡孫」という遺伝子の受け渡しがあったのだろうと推測されます。
 彼女がパパと同様に、生来のリズム感を備え、運動神経が悪くないのもこの遺伝系列のせいでしょう。幼いころからヤンチャで乱暴なことをしがちなのは次男のほうでしたが、それでも次男は不思議と怪我などすることがなく、しょっちゅう怪我をするのは慎重な長男のほうでした。一緒に風呂へ入って私が入っている湯船へあとから入る時、必ず私の脚を踏んづけるのは長男のほうで、なんて不器用なんだろうと思うことがありましたが、やんちゃで動作も乱暴だった次男の方は、一度も私の脚を踏んづけたりするようなことはなかったのです。

 しかし、昨日パートナーと話していて彼女から指摘されて、わたしもハッと気づいたのは、幼い時の資質だけでなく、今の彼らのありようにつながる、性格的な面での相似性でした。それは、たとえば大勢の人がいる人前へ出てひとりで何かしゃべるようなとき、全然緊張もせず、あがることもなく、おちついて喋ることができるし、むしろそういう舞台のような場へ出ること、あるいはそういう現場に関わることが好きだ、ということです。

 長男などは幼稚園か小学校のころだったか、習っていたピアノの発表会があって、ごく内輪の小さな集いにもかかわらず、自分の番になって舞台へ登場する足取りは手と足が左は左、右は右で揃ってしまってピノキオが歩いているみたいだったし、深々とお辞儀をしたのはいいけれど、まっすぐにならずに硬直したまま斜めに傾いていまにも倒れてしまいそうだったりして、ものすごく緊張していることが誰の目にも明らかといったありさまでした。めっちゃ「あがる」タイプなのですね。

 実はわたしも幼いころからこのタイプだったので、人前で喋らされたりするのが何よりも厭でした。けれども当時の教師はそんなことにはお構いなしに、たんにちょっとふだん教師の受けがよかったりするだけで、朝礼のときに台の上に上げられて大勢の生徒の前でなにか言わなくてはならなかったり、教育委員会だのよその学校の視察があるときは、教室に入ってくるそれらの見知らぬ人たちや、同級生の前で、「あたるなよ、あたるなよ」と思えば思うほど教師はわたしを指名して、なにかを答えさせたりするので、本当に嫌な目に遭ってきました。だいたいそういうときに一人立って何か言おうにも、緊張して頭は真っ白だし、ろくなことは言えなくて、ただただ嫌な思いをしただけでした。

 だから、私は次男もてっきりそういうタイプだと思っていたのです。
 ところが彼が大学を卒業して映画を撮るようになり、一度その2本目の長編作品を京都シネマで上映してもらったときに、上映後に監督として挨拶したのですが、観客席で私が見ていると、彼があまりに自然態で落ち着いて挨拶し、観客の質問にもきちんと応えていたので、やつにあんなことができるのか!と驚いてしまいました。
 その後注意してその種の機会のいくつかに遭遇してきたのですが、どうやら彼は全然あがったりするということがなくて、人前でも全然平気で、おちついて喋ることが出来るらしいのです。これは私にとっては新しい発見でした。彼が繊細な神経、繊細な感性の持ち主だということは幼いころから彼を見て来て知っていたけれど、いつでも自然態で大勢の人の前でふるまうことができる、という彼の性質については、自分と似たり寄ったりだろうと思い込んでいたものですから、まったく驚きでした。

 パートナーがいうには、彼には幼いころからそういうところがあって、例えば近所で習いに行っていたピアノは嫌いで練習も全然しなかったけれど、ミュージカルみたいな催しをやったときには好きだったようで、それがあるからピアノをやっていたらしいとのこと。
 のちに高校生になってパートナーの友人のピアノを教えている女性に習うようになってからも、頼まれると発表会に出ていたし、そういうミュージカル的な企画には喜んで参加していたようです。
 中学、高校くらいになると、あまりその種の発表会には出たがらないらしいのですが、先生が出てくれる?と頼んだら彼は快く引き受けてくれたと先生の方が喜んでいたそうです。会が終わってから、彼女からパートナーに電話がかかってきて、その発表会には自分の先輩筋にあたるピアノの演奏家だか教師をしている人が来ていて、次男が弾くのを聴いて、あれは誰ですかと訊き、習い始めてはまだ一年くらいだと聞くと驚いて、とても感情のこもる弾き方ができる子だと高く評価していた、と言い、いささか興奮した声で、「彼は才能があるから、ぜったい親が邪魔したらあかんよ!」とパートナーに釘を刺すようなことを言っていたらしいのです。

 まあピアノ演奏の才能があったかどうかは今となっては分かりませんが(笑)、ピアノの演奏にせよ何にせよ、彼が感情をこめて表現することができる資質を持っていることは、私も彼が高校生のころ家でピアノを自由に弾いているのを何気なく聞いていたら、どういうわけか引き込まれるような感覚をおぼえたことがあって、おや、いつのまにあんなにうまくなったんだろう、と思ったことがあったり、その後ただ自分の心象や感情を素直に表現するような作詞作曲をしてCDを出したりしたのを聴いても、そういう思いは変わりませんでした。

 しかし、それを人前で披露して全然あがることもなく、むしろそういう場に出ることが好きなんだということは、それとは正反対の私には本当に意外で、驚かされたことでした。
 確かにその後の彼の道行をみていると、映画だけではなくて、作詞作曲した自作曲をギターで賀茂川の四条大橋の袂かどこかで弾いたり、市内や大阪のさまざまな場所にある小さなクラブの舞台で演奏したり、ほんとうに学芸会的な舞台に立って人前で演奏したり話したりすることが好きだということが分かります。

 長男は学究生活でもあり、和英の論文を書くこと以外は、大学の教室や学会などのごく限られた専門家や学生を相手に発表するだけで、インターネットの世界に顔を出すことにも非常に慎重で、サイバー空間でも自分をさらけ出すことはないようです。
 しかし次男は対照的に、クラブや街頭で演奏し、語り、さらにサイバー空間でも名前を検索すればたくさんの演奏しているときの動画が出てくるほど自分をさらけ出しているようです。そういうことがあまり苦にならないようだし、むしろそういう場を通じて不特定多数の関心をもってくれる人たちや好みが通じるひとたちに知られることが喜ばしく感じられるようです。

 次男については映画で世の中に出てからは、なんとなく、そうなんだな、自分とはまるで対照的な性格なんだな、というのを感じていたのですが、孫についてはまだ高校生だったし、小学校までは日々とても密接につきあってきたけれど、中学以後は節目節目で会ったり、一緒に食事をする機会がある程度で、ふだんどんなことを考え何をしているのか、ほとんど知らずにいたので、学校の吹奏楽部にはいって、忙しく練習したり、発表会で出たりしていることは知っていたけれど、まあそれは学校のクラブ活動として何かをやるのは誰もがすることで、ただ音楽が好きなんだなと思っていただけでした。

 ところが、高校を卒業する段になって、大学には行かない、とわりと早くから自分で決めて、いろんな学校を物色し、訪ねてまわって、大阪の音楽関係の学校(民間のいわゆる各種学校の一種でしょう)へ行くというので、よほど音楽が好きなんだな、と思っていたのですが、その後分かったことは、彼女が学んでいるのは演奏ではなくて、音楽系のイベントを企画したり催したりするノウハウや経験を積むような形での学びなのだということでした。
 先般わが家で夕食を共にしたときも、今度なにかの催しの企画を課題としてあたえられて、それを考えているところだと、楽し気に話していました。その企画が通れば実際に実現していくもののようです。そういう現場と結びついた学びのできるのが、大学とは一味ちがう、その種の学校の良いところであり、講師陣も現役のそういう現場に関わっている人たちが大部分を占めるようです。

 だから、考えてみると、彼女もいわば学芸会の延長のような、そういう不特定多数の人たちの同好の人たちを相手に音楽などのなにか魅力的な催しごとを企画・実現するような、そういう仕事やそういう現場に関わること自体が好きだったのだな、ということです。これはまさにパパから受け継いだ遺伝子以外のなにものでもないように、いまの私には思えます。

 彼女は幼いころから「ママ大好き」の子で、典型的なお母さんっ子でした。パパはまあ自由業的な仕事のせいもあって、家にいたりいなかったり、距離をおいて見守っている存在ではあるけれども、いつも「パパはきょうは家にいるの?」と訊いても「さあ・・・」だし、いないというので「どこへ行っているの?」と訊いても「さあ・・・」。「いつ帰ってくるの?」と訊いても「知らない」だったので、ほとんど一般的な意味での親子のコミュニケーションがとれてなくて、お互いにどこで何をしているのか、その存在を把握していないけれども、いちおう親子として同じ家で安心はできる存在として暮らしている、という、はたからみるとそんな感じでした。

 しかし、或る時次男とわたしたちが何気ない会話の中で、彼らが飼っていた2匹の猫の話になったときに、なぜ猫を飼い始めたのか、なにげなくパートナーが訊くと、それは新型コロナが猛威を振るって人との接触が非常にしづらい状況になっていたとき、孫がちょっと精神的に心配なようすだったから、という意味のことを言ったので、パートナーも私も胸を衝かれたことがありました。それぞれ好きなことをして互いが何をしているのかも知らず、ただ同居しているだけでわれ関せずのようにみえて、次男はやはりとてもよく孫のことを見ていたのだろうな、とあとで二人で話したことでした。

 幼いころから次男は周囲のおとなたちのことや友達のことでも、非常によく見ていて、たまにひとことふたこと漏らすその人についての評というか、感じ方というのが、非常に的確で鋭いことは、わたしたちも気づいていましたが、親になってわが子にまったく干渉しない姿勢をつらぬきながら、やっぱりつねにわが子が精神的にどういう状態にあるかを見てきたのだろうと思いました。

 ただ、孫にパパのことを訊いてもほとんど答えられなかったし、実際、知らなかったのでしょう。パパは映画の仕事をしたり、作曲や演奏や音楽に関わる仕事をしているわけですが、音楽が好きでもパパのそういう面については、まったく関心をもっていなかったようで、パパのやっていることはパパの仕事、自分のやっている音楽などとは何の関係もない、と思っていたというか、彼女の中の位置づけとしてそんなところだったのかもしれません。

 したがって、直接パパから音楽について何か薫陶を受けるなんてことはまったく無かったでしょうし、むしろパパは娘にそういうことを言ったりするのを干渉として嫌っていて、徹底して無干渉の立場でいたと思うので、すべては彼女が自分で考え、自分で決めたことだと思います。ママは、大学に行かないことを多少心配もしていたようですから、ママと相談してアドバイスを受けて決めたことでもなかったようです。

 しかし、今になって考えてみると、彼女はいろいろ迷ったかもしれないけれど、試行錯誤の結果、独力で、自分の資質、自分の性格、自分の好みに最適な解を見出したんだな、と思います。
 若いころはいろんなことに影響され、いろんな迷いを生じ、自分の資質を見誤ったり、自分がほんとうは何が好きなのかさえ分からなくなるようなところに陥ってしまうことがよくあるものです。孫はこの一、二年の間にそういう時期を乗り越えて、正しく自分の資質を見出し、自分の好みがどこにあるかを的確に見出して、もはやだれの意見に左右されることもなく、確固として自分の進むべき道を決めることができたのでしょう。いま彼女はほんとうに生き生きと、同好の仲間たちとの、日々の教室や現場での学びの過程を楽しんでいるようです。

 その姿を見て、私たちも安堵すると同時に、彼女の中に引き継がれたパパの好ましい性格・資質、人前でも緊張することなく自然態で落ち着いて語り、振る舞うことができ、舞台に出るだけでなくある種のスペクタクル的な催事を企画し、製作に関わり、現場に関わることが楽しくて仕方がないという、ポジティブな性格をはじめてしっかりと確認することができたのでした。

 長い人生にとっておそらく一番大事なことは、自分の性格や資質に合った道を探し、みつけ出すことかもしれません。それを見出しさえすれば、あとは好きだから、楽しいから、ひたすらその道を邁進していくだけで、おのずから豊かな経験が積み重ねられ、その世界が広がり、深められていくでしょう。

 次男は中学3年生のときに、もう学校のほとんどの教科を学ぶことがいやだ、と言い、私を戸惑わせたことがありました。
 じゃ何が好きなんだ、と訊いて、かろうじて音楽と映画かな、という答えを得て、じゃそれを一所懸命やればいいじゃないか、とアドバイスともいえないようなアドバイスをしたことを覚えています。
 しかし何かひとつくらいは自分の武器を持つ方がいいから、映画が好きなら毎日一本映画を見続けたら、二十歳になるまでに何千本か見られるよ、というような話をしたのですが、彼は翌日から毎日レンタルビデオ屋で借りて来た映画をねっころがってみていました。
 パートナーは心配していましたが、私はあれが彼の勉強だから、と干渉しないように言っていました。そうやって彼は学科試験などのない大学の映画学科へ進学し、まじめに映画の知識や技法を学び、卒業制作で一本長編を撮り、卒業直後に手掛けた二本目の長編で、ぴあのフィルムフェスティバルの或る部門で入賞して、いちおう新人映画監督としての登竜門をくぐることができ、その後現在に至るまで、幸い映画製作の仕事をしつづけて、なんとか食っていける状態にまでこぎつけたようです。

 その彼が、まだ海のものとも山のものとも分からない、大学卒業前のころだったでしょうか、彼の祖母にあたる私の母が死に瀕した病院のベッドで彼に対して、映画づくりの世界というのはきっとふつうのサラリーマンなどの世界と違って、大きな失敗や挫折を味わうようなことがあると思うけれど、くじけないで頑張って、というようなことを言うと、彼は「ぼくはいまやっていることが好きだから、失敗してもやっていること自体が楽しいので、別にかまわない」というふうな応え方をしていました。

 自分の性格や資質に適合し、自分の好みを見出したことであれば、それが何であれ、また結果的に何か事業として失敗しようが成功しようが、それにたずさわっている過程自体が楽しく、生きている手ごたえが感じられるから、まったく後悔などすることはありえない、ということなのでしょう。

 考えてみれば、彼の性格は亡母譲りだなぁと思います。亡母は田舎暮らしの娘時代に、こともあろうに宝塚歌劇に入団したい、と言って父親の猛反対を受け、叔母(彼女の妹)によれば、亡母はそのとき大声で父親と激論していた二階から足音も高くダダダッと階段を駆け下りてきて、そのまま家を飛び出し、夜になっても帰らないので、母親や兄姉らが探し回ってみつけるまで、戻ってこなかったということがあったようです。
 かなりエキセントリックな性格で、もともとはその男勝りな性格と学業の優秀さが父親にはいたく気に入られて多くの姉妹(兄弟姉妹は計12人)の中で長兄(田舎の中学から東大へ行き、三菱重工へ入って若くして病死)以外では父親の一番のお気に入りだったとか。その彼女は歌劇の舞台のような華やかな現場が大好きだったし、自分でも日本舞踊を習って見たり、私のような引っ込み思案とは対照的な、「出たがり」だったようです。

 孫に流れている血は、こういう面では、「亡母(祖母)➡次男(パパ)➡孫(本人)」という流れで受け継がれてきたもののように思われます。

 そんな話をしていると家族の話題でもあり、そういえばこんなこともあった、あんなこともあった、と思い出されるエピソードも多く、楽しい老夫婦の雑談タイムでした。

saysei at 13:21|PermalinkComments(0)

2024年11月29日

五羽のメジロ

 きょう庭を見ていると、右手庭隅のクヌギ、その左のキンカン、その下で花を咲かせているツワブキ、お隣のアジサイ、そして左手の花壇の外側で咲いているツワブキの花、そのあたりを私が数えられた限りでは全部で5羽の小さなメジロがぴょんぴょんスイスイ、せわしなく右へ左へ枝から枝へと飛び移って楽し気に遊んでいる光景にぶつかりました。

 以前からメジロはキンカンの実が熟れたころにやってきて、それを啄んでいるのをよく見かけて、このブログにも写真を載せたことがありますが、その後も共同庭を飛び回っているのをちょくちょくみかけました。でもきょうの午後のように5羽ものメジロが同時にやってきて、わが家の狭い専有庭で遊ぶのを見たのは初めてです。遊んでいたのか、なにか蕾だか花の蜜だかを吸っていたのか、私にはメジロが何をしていたのかは分かりませんが、まさに楽し気に飛び回って遊んでいる、という光景で、こちらも楽しくなりました。

 同じキンカンの実を食べにくる鳥でも、大きなヒヨドリだとちょっと憎らしくなって、音をたてて追い払ってしまいます。ちょっとつついていたな、と思うと、たくさんの実が半分齧られて果汁がしたたりおちていて、キンカンの被害も相当なものです。でもメジロだと小さくて被害も知れているので、いいよいいよ、好きなだけお食べ、と言ってやりたくなります。

 うちのセキセイインコのアーちゃんよりも、もう一回り小さく見えるメジロは、色が鮮やかな淡緑で、その名のとおり目を囲んでよく目立つ白い輪の紋様がついているので、私のようにあの鳥とこの鳥の区別が全然つかないような者にもすぐに、あっ、メジロだ!と分かります。

 ほんとに小さくてすばしっこく枝から枝へ飛び移り、なぜか低い位置に咲いているツワブキの花の間に飛びいると、花やまっすぐに伸びた茎が不規則に揺れるので、中にいるのはわかるけれど、小さいためにツワブキの花程度でも姿を見せずにいられるようで、外から見ているとうまくその姿がとらえられません。そのうちにパッと飛ぶので、あ、やっぱりここにもいた!と確認できます。そんなの少なくとも5羽も遊びに来ていたのです。

 実は昨日、アーちゃんに与えているいろいろな種類の餌を、ほとんど毎日替えているので、無駄になる部分がけっこう多くなります。で、ふと思いついて、それを植木鉢の底に敷く皿にでも入れて庭に出しておいたら、メジロが来て啄むんじゃないか、とやってみたのです。地面に置くと、ヒヨドリや烏みたいなデカい鳥が来て居座ると厭だな、と思ったので、エサを入れたプラスチック製の皿を生垣のプリペット枝葉の平らな所を選んで置き、あと小さな皿を二つ、これは先日枝を短く刈った芙蓉の枝の間に挟むようにしてのせておきました。

 それで、昨日の夕方も今朝も、きょうの夕方も、それらの皿に小鳥が来ていないかな、とそれとなく見るようにしていたのです。共同庭にはヒヨドリも来ていたし、メジロだったかもしれない小鳥も飛び回っていましたが、わたしが置いた皿の餌にはどの鳥も関心を示さなかったようでした。

 午後おそめにみつけた5羽のメジロたちも、わたしが置いた餌を目当てに来たわけではなかったようで、そこへはまったく近寄ろうともせず、飛びまわっていてもいつも素通りでした。どうも彼らの食べ物とアーちゃんの食べ物とは違うのかもしれません。

 メジロがわが庭に来たのはキンカンを食べに来たときでしたから、ひょっとしたら小さめの柑橘類の実でも置いたほうが来てくれるのかもしれません。それにしても、庭の地面をなにか啄みながら歩いていた雀なども、わたしの餌には関心を示さなかったか、気づかなかったようで、まったくわたしの与えた餌は手つかずのままでした。

 ところでアーちゃんはきょう初めて私の前腕部に乗りました。これまでは、いくら乗ってごらん、と掌や腕を差し出しても乗ろうとはせず、すごく迷っているようなしぐさをして、結局は乗らずにおわっていたのですが、いつものようにアーちゃんが食べた殻つきのエン麦の殻が餌の上に重なって摘まれているのを、スプーンで除けてやろうとすると、それまでケージの上で鏡と遊んでいたアーちゃんが、これもいつもどおり降りて来て、なにやら気に食わないという表情をみせるので、これは殻ばっかりやろ、キレイキレイしてあげてるだけやで、などと言いながら続けていると、その私の腕にぴょんと乗って、私の来ていたカーディガンの記事を嘴でつついて、ひっぱるのです。

 昨日も、ケージの蓋に乗ったままで私のカーディガンをつついて、それをするな、と止めるように嘴に挟んで引っ張ったのですが、きょうはそれでは止めよらん、と思ったのか、前腕部に乗っかって、上も見上げずにひたすら下を向いてカーディガンの生地を嘴であちこちつついていました。

 木綿の生地らしいから、嘴でつついて、つつき心地が悪くなかったのかもしれませんが、そこまでしつこくつついて抗議するのは初めてのことでした。自己主張の非常にはっきりしたアーちゃんです。

 こちらも手をつつかれると痛いので、掌には薄手の軍手をはめて、袖口もカーディガンの袖で隠して膚が露出しないようにしていたから、アーちゃんもほんとは、この手が悪いのか!と以前やったことがあるように、私の手首を噛みにきたかったのかもしれず、一度は手首のほうへ来たのですが、腕同様に覆われていたのであきらめて、前腕部のカーディガンの袖をしきりにつついて攻撃していました。

 しかし、私がスプーンで殻を除去する作業をやめると、つつくのをやめて、もとのところへ飛んで帰ろうとしたのですが、カーディガンの柔らかい生地に彼の変形した脚の先がひっかかったらしくて、ちょっとバタバタしていました。だからもう乗らないかもしれませんが、若し引き続ききょうのようなことが續くとすれば、ひょっとしたら慣れてくれば手乗りのトレーニングができるかもしれません。高齢になってから飼い始めたし、何の芸も仕込まれてはいなかったので、ダメだろうと諦めていたのですが、彼の学習能力は私たちの予想以上だったし、日々なにか新しいことをやってみせてくれるようなところがあるので、まだまだわかりません。こんな小さな生き物でも、生き物というのはほんとうに大したものだな、とつくづく思います。


きょうの夕餉

★鯵のフライ、胡麻マヨ
 鯵のフライ。自家製胡麻マヨネーズ添え。きょうもちょっと荷物を送る用で宅配サービスの営業所へ行くとき、帰りにHELPでなにか魚をみつくろってきて、と言われて、魚屋さんの店頭を覗いて、一番新鮮そうで、美味しそうだったのが、「産地直送、特選」とキャッチコピーをつけた、この小さな鯵でした。もう一つの候補は、キンキという赤っぽい白身のスリムな魚で、そちらのほうが珍しいというか、少なくともありきたりではないので、食べて見たくもあって少し迷ったのですが、一尾が700円以上して、しかも二人で一尾だとちょっと小さすぎるかな、と思えたので鯵を選びました。

 なによりも見た目、ほんとうに輝くほど新鮮であることがすぐに見て取れたし、すっごく美味しそうだったのです。しかも、このフライにして皿にのせてあるのは、半分でしかなくて、あとの半分は後日南蛮漬けにでもするわ、といって冷蔵庫(冷凍庫?)にとってあるので、この倍の数があるわけですが、それで全部で230円でした。つまりきょうのおかずになった鯵のフライは、二人分で115円!

 ところが勝って帰った直後は、これ、パートナーには不評でした。なぜかというと「この小さいのを三枚におろすのが結構面倒なのよ」と。人によっては、そういう処理ができない人もあるのだそうで、それを魚屋にやってもらったら、もっと値段が高くなるところ、漁港から送られてきたのをそのまま店に並べているから安いのだそうです。「そんなん、買う前に言ってくれないとわからないよ」と反論すると、「だって店にきょう何が出ているか分からないもん、そんなの分からないじゃない」と。

 たしかにそれもそうです。「あなたは自分が料理しないから分からないけどさぁ」と言われるとこちらは弱い(笑)

 まあ買って帰ったときは、あまり御機嫌がよろしくなかったパートナーでしたが、フライにして自分が食べてみたら、この上なく美味しかったので、やっぱり魚のチョイスはあなたに任せたほうがいいね、どんどん目利きになってるわよ、と妙におだてたりして(笑)、すっかり御機嫌は治りました。三枚におろしているときから、まったく臭みがなかったから、どんなに新鮮かがすぐわかったそうで、食べてみるとほんとうに美味しかった。やっぱり魚は新鮮さが第一なのかもしれません。こんな一口で食べられるような小さな魚をいちいち三枚におろすのは、たしかになかなか面倒な作業なのでしょうが、それだけの価値のある商品でした。食べてほんとうに美味しいかどうかは、値段には実はかかわりがないのでしょうね。

★大根葉ほしえびキムチベーコン入り大根餅風ちぢみ
 大根葉、干しエビ、キムチ、ベーコン入りの大根餅風ちぢみ。たぶんこんな材料をほうりこむのはパートナーのオリジナルでしょう。上賀茂の大根やカブは、わが家では商品についてくるでっかい葉の束も隅々まで活用して、ジャコキンピラにしてご飯に掛けたり、きょうのように辛子和えにして食べたり、またこのチヂミのようなものに入れて、実にシャキシャキした歯ごたえで、ふつうのチヂミとはちょっと違った食感が得られるようなことを試してみる、ということがよくあります。大根やカブの葉を捨ててしまうのはもったいないことで、きっと栄養価も高いと思うし、実際調理の仕方次第で、おいしいもう一品、あるいはご飯の友になるようです。葉を切って本体と別に保管したり処理したりするのは本体がいたむのを遅らせるためだそうで、どちらも捨てるわけではないようです。

★カブの葉の辛し和え
 これがカブの葉の辛し和え。すごく美味しくて、あつあつご飯にかけて最後にかきこみました。

★キュウリ、チキンの辛子マヨドレ和え生トマトソース
 キュウリとチキンの辛子マヨネーズドレッシング和えに生トマトソース

★かぼちゃの煮もの
 かぼちゃの煮もの

★豆腐の味噌汁
 豆腐とお揚げ、ネギの味噌汁

★すぐき
 このところ戸田農園さんで美味しそうなスグキの古漬けがたくさん出ていたので、かなり幾つも確保して冷蔵庫にストックがあるので、安心して毎日少しずついただいています。最後のシメにこれを一切れ食べるだけで、この古漬けの醗酵食品特有の味と香りがじわっと口の中に広がって最高のシメになります。

(以上でした)

 昨日、いつもの週刊誌2誌を買いに書店へいったとき、これまで買ったことも読んだことも一度もない保守系の雑誌「WiLL」の1月号を買ったのですが、きょうはじめてそのいくつかの記事を読みました。ひとつには、石破政権がとても長命だとは思えないし、たぶん次は小泉でなけりゃ高市政権ということになるんだろうし、首相にならなくてもこの高市という人はそれなりに自分の保守的な信条を曲げずに貫いているところがあって、他の政治家のように権力の匂いに惹かれて右往左往というのではないところがあるし、もともと自民党の綱領にそのまま従っていけば高市の主張のようなことになるので、さきの総選挙のリバウンドで自民党が次に大勝するときには、リベラルなほうへいくのではなくて、一挙に高市のような保守反動まで回帰していくんじゃないか、というあまりよくない予感がするので、まあたまには彼女やそのシンパに類する連中が何を言っているのか聞いておいても悪くはないだろう、と思ったのです。

 私などが若いころは、戦後民主主義を謳歌するような雰囲気が色濃く、また共産主義への幻想が覚めない時代だったから、そもそも保守的な論客なんてものは朝焼けの空に消えて無くなった星みたいなもので、ほとんど存在すらできなかったし、猪木正道だの高坂正堯だのといった程度でもゴリゴリの保守反動反共勢力の親玉みたいな扱いをされて、論壇では異端でしかなかったような印象があります。しかしいまやこういう保守反動(笑)の雑誌が堂々と売られ、それなりの発行部数を売り切って、けっこう若い層の支持を受けているようです。

 もちろんそれには、それまで内情が知られなかったソ連や中国などいわゆる社会主義圏の国々の実情が世界に知られるようにもなり、それらの国々の内部で自壊自滅が連鎖的に起ったというような世界的な外在的事情もあれば、国内もまたそれに対応するようにして、左翼が自壊自滅していくようなことしかやってこなかったり、戦後のいわゆる革新勢力を支えた労働組合がたぶんあらゆる組織という組織の中で、最も進歩することのない時代に遅れたどうしようもない組織に成り下がっていったこととか、いわゆる革新系だのリベラル派だのといった連中の自壊自滅によって、今日のような状況が導かれてきたわけで、韓国の慰安婦問題での朝日新聞のオオミステイクなどはそれを象徴するようなできごとだったのでしょう。いまや民主主義の世界的なホープだった米国で民主主義なんて壊しちゃえばいいと半数以上の国民が考えるようになってきたようですから、そこにどんな希望もないのです。

 現在が第二次大戦前の状況によく似ているとか、ナチスの政権奪取前のドイツの状況に似ているとか、いろいろなところで言われ始めているけれど、それはよほど鈍感な人でないかぎり、実感的にも薄気味の悪さとして多くの人に感じられていることではないかと思います。




 











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2024年11月28日

俳句に縁の深い友人

 昨日のZoomでの会話による”発見”は、半世紀細々ながらつきあってきた学生時代の友人が、ずいぶん以前から俳句を詠む人だったということを知ったことでした。いろんな機会にちょこちょこ話す機会はあったのに、彼から俳句の話題を聴いた記憶がなかったのです。いや、ひょっとしたら一度くらい聞いたのかもしれないけれど、わたしの方に関心がなかったから、ふーん、という感じで聞き流してしまっていたのかもしれません。

 もちろん彼の本業は生物学者で、プロの俳人というわけではないけれど、私が最初聴いたときに思っていたほど、ちょっと趣味で俳句を詠むこともある、という程度のことではなくて、相当以前からのめり込んできた、年季の入った俳句詠みらしくて、きょう彼が送ってくれた「京大俳句会」の会誌の終刊号をざっと読んでみると、この第三次「京大俳句会」という京大関係者に限らず一般の俳句好きも自由に参加できたらしい会の、彼は会員だったらしく、その活動に積極的に関わって、世話役までやっていたようで、会誌にも多くの句を載せて、仲間たちに一目置かれてもいたらしい様子が伺えました。

 この第三次「京大俳句会」というのは、植物園の樹木伐採に反対して集まった京大の関係者を中心とする人たちが、たまたま句会を催し、それがきっかけで戦前から、第一次、第二次とあって弾圧を受けてつぶれた「京大俳句会」の名を継いだ会を再興したものらしいのですが(私はまったく知らない世界だったので、こういう乱暴な要約は間違っているかもしれませんが)、とくに会を仕切る主宰者のような役割を設けず、とくに会員のしばりになるような理念を掲げた会というのでもなく、ただただ俳句が好きで、いろいろなところへ出かけて俳句をつくって披露しあい、俳句を通じて交流を深めるといったまったく自由な組織だったようです。

 今年の3月に最終的に活動を終え、会誌も終刊号を出して終わったということのようですが、わたしの友人も含めていろんな人が会のことを書いているのを読むと、私も過去の勤め先で多少の縁があった上野千鶴子さんがある時期この会で俳句をつくっていたり、ひとの紹介で一度だけあったことのある、早逝した俳人中谷寛章さんとかも登場して、意外なところで思わぬ人に出遭ったように、へーえ、と思いながら読ませてもらいました。

 私は人間関係がきわめて狭い範囲にしぼられていて、友人・知人の数も極端に少ないので、というか因果は逆かもしれませんが、とにかくこの種の、なにかをみんなで一緒にやりましょう、というのが苦手で、ほとんどどんな組織なり集いなりにも所属したり参加したり、ということがないので、比較的よく知っている人が何かその種の会員組織に属して何かの活動をしている、ということも本人がとくに語らない限り、ほとんど知らないで付き合っていることが多いのだろうと思います。だからこうして半世紀もつきあってきて、いまごろになって、へえ、彼はそんなことをしていたのか、なんて”発見”する次第です。

 みんな様々な活動のレパートリーを持っていて、それに従って、種々多様な団体なり集いなりに参加してその一員として活発に活動し、多くの人と交流して親交を温めているのですね。たしかにそれは自分の世界が広がり、様々な刺激も受け、さらに活動をひろげていくきっかけになるでしょうね。マルクスの言葉だったでしょうか、人間とは「関係のアンサンブル」だ、という定義みたいな言葉がありますが、そういう意味では関係性が豊かであればあるほど、人生が豊かで、人間としても豊かだということになるかもしれません。

 そういう点では、困ったことに(わたし自身は困ってはいないのですが・・・笑)、わたしの場合は若いころは自分が望もうと望むまいと、ある程度自然に、あるいは社会的に生きるためにやむをえない形で、誰もがそうであるように幾重もの関係性をもって生きてきたので、人間とは「関係のアンサンブルだ」という言葉を聞いて、なるほどそうかもしれないな、と思っていたのですが、歳をとるごとにそうしたもののうち、やむをえざる関係性というのはなくしてしまっても差し支えないことになって、むしろどちらかといえば積極的にそぎ落としていくような傾向が生じてきました。こちらから関係を断つわけではないけれど、自然に関係が希薄になって関係そのものがフェイドアウトしていくような感じですね。ときには、自分が相手にとっての「やむをえざる関係性」の一つになっているかもしれないな、と思えば、黙って立ち去るといったこともあることはありますが。

 そうやって、どんどん関係をそぎ落としていくと、まあ家族とかいろいろこの世のしがらみはあるので、現実にはゼロにはならないのですが、理念的に極限まで考えていくと、どんどんゼロに近付きます。そして最後は「関係のアンサンブル」ではなくなって、結局自分ひとりが残るのではないか、と思います。

 それはマルクスなら、そんなことはありえない、それは単なる観念的な思考実験の結果に過ぎず、現実に生きている人間は社会的存在であって、それは「関係の束」であり「関係のアンサンブル」なんだ、と言うかもしれませんね。けれども私は「関係のアンサンブル」=0=わたし、という反転がそこでありうるのではないかと思っていて、それがいいとか悪いとかではなくて、人間と言うのは本来そういうものなのではないか、という人間の根本規定は、決して「関係のアンサンブル」なんかではなくて、それが0になる極限値で考えられる「わたし」以外にありえないのではないか、と考えているのですが、どうでしょうか。


きょうの比叡2
 きょうの比叡。午後遅め、区役所へ通じる道路にかかる橋から。

きょうの夕餉

★酢豚
 メインは酢豚。わが家のは脂を処理したアッサリ系。でも久しぶりで美味しかった。

★白菜入りワンタンスープ
 白菜入りワンタンスープ。昨日上賀茂で買ってきた白菜はまるごと一個で200円。きょうパートナーがどこやらで売っているのを見た白菜は4分の1で200円だったそうで、一個のは500円台だったそうです。ものすごく野菜が値上がりしています。

★バンバンジン(蒸し鶏の胡麻だれかけサラダ)
 「バンバンジン」と聞こえたのですが合っているでしょうか。蒸し鶏のゴマダレかけサラダのことだそうです。

★小松菜のおひたし
 小松菜のおひたし

IMG_5596
 ごはんの友いろいろ

(以上でした)

夕暮れの比叡夕暮れの比叡


 きょうはその教養部時代の友人の送ってくれた会誌をみていて、明日、もうひとりの俳句をやる学部時代の友人の俳句と民俗学を論じた2冊の本を送ってあげようと思っているのですが、もう一度ざっと読んでおこうと思って、『民俗の記憶』と『自然を詠む~俳句と民俗自然誌』をざっと再読していました。彼の俳句への入れ込み方は民俗学を通してだけれど、相当本格的なもので、ただ俳句を詠むというより、学究的な民俗語彙と季語など俳諧語との関係を本質的に問う問題意識に貫かれた本格的な探求で、いま読んでも読みごたえがありました。

 そういえば彼に芭蕉七部集をもらって、猿蓑の途中で平安時代にもどってしまって、中断してるなぁと思いだしました。なんとか表現としての文学の思想の中にこの俳諧と言う難物をちゃんと取り込みたいと思い、そのためには発句だけ扱っていてもだめで、やはり連句をちゃんと解釈できないとな、と思っていたのですが、いつ平安時代から戻ってこられるやら(笑)・・・

野菜
 きょう上賀茂でゲットしてきたカブ(100円)とバターナッツかぼちゃ(大きい方、300円)。





saysei at 22:06|PermalinkComments(0)

2024年11月27日

Zoom初体験

 きょうは学生時代(教養部)の友人が提案してくれていたZoomでの対話というのを、はじめて体験しました。いまでは大学や企業でZoomは必需品みたいに利用されているようですが、私が大学に奉職していたころは、そういうアプリができていたのかどうか、少なくとも一般に普及していなかったことは確かで、周囲でそんなのを使っているという人もみたことがありませんでした。

 しかし、新型コロナウイルスで大学でも企業でも対面接触を回避するようになると、あっという間にこのZoomが普及し、どこでも使うようになったようです。一昨日の夕方長男が来た時に、私のパソコンでZoomの利用ができ、マイクも映像も受送信できることを確認してくれていたので、今日も最初は音声が聞こえなかったりして戸惑ったけれど、なんとかすぐに解決して、あとは無料で利用可能な40分近く、相手の表情を目の前に見ながら自由に会話を楽しむことができました。

 話しているうちに、彼が俳句をやっていたことを初めて知りました。彼が同じ化學科へ進んだ、教養部時代に別のクラスだった友人から、私の友人Sが俳句をやっていることを聴いたそうで、その友人のことを話題にしたので、私は彼からもらった本や買った本で手元に俳句と民俗学に関わる彼の本があるので、こんど送ることにしました。同じ理学部にいたけれど、教養部でのクラスが異なり、進んだ学科も化学と生物で異なっていたので、顔を合わせることはあったかもしれないけれど、同様に研究者の道を歩んだ二人だけれど、個人的には殆ど互いに知らずにいたようです。Zoomを利用したおかげで、そんなことが話題にのぼったりして、なかなか愉快な時間でした。

 Zoomというアプリは、本来はグループで大勢のメンバーがいても同時に情報をやりとりできるグループコミュニケーションのツールなのでしょうが、こうして一対一のテレビ電話としても利用できるので、離れたところに暮らす老親と子供あるいは孫と、顔をみながらおしゃべりできる、素敵なツールになります。もっとも、息子や孫のほうがやってくれないとダメですが(苦笑)。離れた場所だけれど、同時にパソコンに向かっていないと対話はできないから、そんな暇ないよ!って言われそうですけど ^^;)

    でもこの齢になって、こういうことを初体験できるのは、なんかワクワクして楽しいものです。相手がOGでなくてもね(笑)

 きょうも「宛所に尋ねあたりません」と例の葉書がまた一通戻ってきました。調べてみると、今年の賀状に住所かわりました、と書いてあったのに、住所録の方を変更し忘れていたようで、旧住所に送ってしまったようです。はがきと住所録を一枚ずつ確認したつもりだったのに、漏れがあったようで、うかつさはなかなか治りません。

 きょうもいちおう上賀茂の販売機を覗いてまわり、白菜と戸田さんの古漬けスグキをまたゲットしてきました。きょうのスグキはこれまでで一番大きくて、食べ応えがありそうでした。

 あとは昨日につづいて、ほうりっぱなしだった沢山のコピーの山をファイリングして、手に取りやすくする作業をしていました。いままでコピーの束の山の中から探して引っ張り出していたのが、本棚に立てて、ファイルの背をみてさっと取り出せるのは大変便利。なぜこんなになるまでほうっておいたかといまさらに思ったことでした。

夕暮れの比叡
 夕方の比叡

きょうの夕餉

★豆鯛の干物
 昨日届いた、マメダイの干物。長男のふるさと納税だったか、株主優待の品だったかのおすそ分け。
 マメダイって豆鯛と書くのでしょうが、どうみても鯛の仲間ではなくて、皮も銀色で薄いし、形からしても、味からしても、こりゃウオゼとそっくりだね、と言っていたのですが、ネットで調べると、やはりマメダイ=イボダイ=しず=ウオゼのようで、ところによって呼び名が異なるだけのようです。ウオゼならよく煮物にして食べていますが、干物もとても脂がのっていて美味しかった。

冬瓜、白菜、エノキ、蟹のチキンスープ煮
 トウガン、白菜、エノキ、蟹のチキンスープ煮

★蒸し鶏
 鶏の胸肉の蒸し物、野菜添え 上のスープには、この鶏を蒸したときに出る汁を活用したそうです。

★茄子の味噌田楽
 茄子の味噌田楽

★カブラとニンジンの甘酢かけ
 カブラとニンジンの甘酢かけ

★もずくきゅうり
 モズクきゅうり酢

ごはんのとも
 ご飯の友いろいろ

(以上でした)

公園の黄葉
 上賀茂の公園の黄葉。そう輝くように鮮やかな黄葉ではないけれど、綺麗でした。










saysei at 21:02|PermalinkComments(0)
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