2024年07月
2024年07月31日
藤原道綱のこと
「平安時代~気の向くままに」というタイトルで書いている歴史・文学のエッセイで、『蜻蛉日記』の第7回として、「道綱のこと」後篇をようやく今日書き終えてアップロードしました。少し時間がかかったのは、『蜻蛉日記』と『小右記』から道綱について書かれた記事を、とにかく全部辿ってみよう、と思って拾い始めたら、結局『蜻蛉日記』は全部、『小右記』も角川ソフィア文庫の抄録ではあるけれど、分厚い文庫本一冊全部、読み直すことになってしまったからでした。でもそのおかげで、ずいぶん楽しめました。
道綱は道長とは腹違いの兄弟で、本妻の子ではなく妾の子だったので、道長ら本妻の息子たちほどではなかったけれどもやはり父親のコネで大納言にまで出世はするのですが、権力の中枢に重要な座を占めるほどの公卿が当然備えるべき知識、経験、技量を養われる機会もなく、ただ夫の来訪を待ち、夫のつくる愛人に嫉妬の炎を燃やし、たった一人の息子道綱を溺愛するだけの「道綱の母」による事実上の母一人子一人の家庭で育てられた道綱は、筆頭大納言としての公務も満足にこなせず、身分・地位だけは高みに達しますが、同僚公卿たちからはまったくの無能者とみなされるようになってしまいます。形の上ではほとんど権力の頂点に達するほどの高みにのぼることができたのですが、まったく実質を伴わず、言ってみれば道長の手駒に使われただけに終わる、或る意味では哀れな存在に思えます。
彼の登場する記事を拾い集めてみても、なにか公的、政治的意味があるわけでも、個人としての深みが垣間見られるわけでもなく、たぶんほとんど意味はないのですが、道長らの影に隠れてほとんどまともに顧みられることもないこの人物が、どういう人間だったのか、ちょっと興味を覚えて辿ってみたわけです。彼の母が書いた『蜻蛉日記』に登場する限りでの、青年期二十歳くらいまでの彼は、ちょっとした宮廷の行事(賭弓や舞人としてのつとめなど)などでも人に勝るとも劣らない活躍を見せて両親が誇らしく感じるなど、むしろ優等生のようにさえ見えます。知性のほうはどうだったか分からないけれど、時折しか来ない父親と、よその女にうつつをぬかす夫を拒んだり反発したり心休まることのない母との間をなんとかつなごうと一所懸命なけなげな息子で、どこといって特別ひとに劣るような人物像にはみえません。
そうしてみると、やはり後に朝廷の官職を得て昇進していくにつれ、彼がもちまえの優しい心根だけではどうすることもできない、朝廷文化の伝統、しきたり、有職故実の知識と経験の圧倒的な不足が彼を苦しめ、周囲の公卿たちから軽んじられる主因となったのでしょう。
それは彼の資質的な能力や努力不足というよりは、やはりそうした環境に適応できるような教育をしてこなかった父兼家の罪ということになるでしょう。
当時の結婚をめぐる制度あるいは慣習、一夫多妻的な妾制度に苦しめられる女ごころをあからさまに描いたのが『蜻蛉日記』かもしれないけれど、一番の犠牲者は道綱であったといえるかもしれません。「道綱の母」には少なくともそうした自身のありようを選んだり拒んだりする選択の契機があったはずですが、その息子には自分が成人するまでそうした選択肢自体がなかったことは確かでしょうから。
実資に「小右記」で、自分の名前くらいしか書けず、一も二も分からないやつ、と蔑まれた道綱が、いささか哀れに思えました。
きょうの夕餉
トウガンと干し椎茸、豚肉のチキン味のスープ。蒸しどりを蒸したときにでてくる蒸し汁や、砂肝のコンフィの煮凝りなどを入れることで濃い奥行きのある味になったスープ。だからこのスープと蒸しどりの料理とはたいていセットになります。
蒸し鶏と砂肝の中華風あえ物。カイワレ、タマネギ、パクチー添え。からし醤油をつけていただきました。
もやしとゴーヤのチャンプルー。
ヒラスの味噌づけ。硬めの身ですが、味はとても美味しかった。
コリンキーの醤油漬け
茄子の糠漬け
食後に一口甘いもの、というので葛餅
(以上でした)
きょうも暑かった。このところ夕方6時すぎてから、庭の鉢などに水まきをします。さすがにこの暑さが続いて雨が降らないと、ハーブをはじめ葉っぱ類はしおれてしまいます。芙蓉は最初の一輪が咲いて喜んでいたら、あれから一輪も咲きません。あの一輪が先走りすぎていたのかな。たしかにうちの芙蓉はかなり咲くのが遅かったな、と思います。そのうちに咲いてくれるでしょう。
玄関脇の、われわれが「リュウゼツラン」だと思っていた植物が、ほったらかしなのに、今年も竜の舌のような棒状に巻いたような薄紫の花を幾本も咲かせています。サツキの並びには、先日來食べていたライチの種を埋めたので、芽が出ないかと毎日こちらも水をやっていますが、簡単には芽を出してくれそうにありません。
道綱は道長とは腹違いの兄弟で、本妻の子ではなく妾の子だったので、道長ら本妻の息子たちほどではなかったけれどもやはり父親のコネで大納言にまで出世はするのですが、権力の中枢に重要な座を占めるほどの公卿が当然備えるべき知識、経験、技量を養われる機会もなく、ただ夫の来訪を待ち、夫のつくる愛人に嫉妬の炎を燃やし、たった一人の息子道綱を溺愛するだけの「道綱の母」による事実上の母一人子一人の家庭で育てられた道綱は、筆頭大納言としての公務も満足にこなせず、身分・地位だけは高みに達しますが、同僚公卿たちからはまったくの無能者とみなされるようになってしまいます。形の上ではほとんど権力の頂点に達するほどの高みにのぼることができたのですが、まったく実質を伴わず、言ってみれば道長の手駒に使われただけに終わる、或る意味では哀れな存在に思えます。
彼の登場する記事を拾い集めてみても、なにか公的、政治的意味があるわけでも、個人としての深みが垣間見られるわけでもなく、たぶんほとんど意味はないのですが、道長らの影に隠れてほとんどまともに顧みられることもないこの人物が、どういう人間だったのか、ちょっと興味を覚えて辿ってみたわけです。彼の母が書いた『蜻蛉日記』に登場する限りでの、青年期二十歳くらいまでの彼は、ちょっとした宮廷の行事(賭弓や舞人としてのつとめなど)などでも人に勝るとも劣らない活躍を見せて両親が誇らしく感じるなど、むしろ優等生のようにさえ見えます。知性のほうはどうだったか分からないけれど、時折しか来ない父親と、よその女にうつつをぬかす夫を拒んだり反発したり心休まることのない母との間をなんとかつなごうと一所懸命なけなげな息子で、どこといって特別ひとに劣るような人物像にはみえません。
そうしてみると、やはり後に朝廷の官職を得て昇進していくにつれ、彼がもちまえの優しい心根だけではどうすることもできない、朝廷文化の伝統、しきたり、有職故実の知識と経験の圧倒的な不足が彼を苦しめ、周囲の公卿たちから軽んじられる主因となったのでしょう。
それは彼の資質的な能力や努力不足というよりは、やはりそうした環境に適応できるような教育をしてこなかった父兼家の罪ということになるでしょう。
当時の結婚をめぐる制度あるいは慣習、一夫多妻的な妾制度に苦しめられる女ごころをあからさまに描いたのが『蜻蛉日記』かもしれないけれど、一番の犠牲者は道綱であったといえるかもしれません。「道綱の母」には少なくともそうした自身のありようを選んだり拒んだりする選択の契機があったはずですが、その息子には自分が成人するまでそうした選択肢自体がなかったことは確かでしょうから。
実資に「小右記」で、自分の名前くらいしか書けず、一も二も分からないやつ、と蔑まれた道綱が、いささか哀れに思えました。
きょうの夕餉
トウガンと干し椎茸、豚肉のチキン味のスープ。蒸しどりを蒸したときにでてくる蒸し汁や、砂肝のコンフィの煮凝りなどを入れることで濃い奥行きのある味になったスープ。だからこのスープと蒸しどりの料理とはたいていセットになります。
蒸し鶏と砂肝の中華風あえ物。カイワレ、タマネギ、パクチー添え。からし醤油をつけていただきました。
もやしとゴーヤのチャンプルー。
ヒラスの味噌づけ。硬めの身ですが、味はとても美味しかった。
コリンキーの醤油漬け
茄子の糠漬け
食後に一口甘いもの、というので葛餅
(以上でした)
きょうも暑かった。このところ夕方6時すぎてから、庭の鉢などに水まきをします。さすがにこの暑さが続いて雨が降らないと、ハーブをはじめ葉っぱ類はしおれてしまいます。芙蓉は最初の一輪が咲いて喜んでいたら、あれから一輪も咲きません。あの一輪が先走りすぎていたのかな。たしかにうちの芙蓉はかなり咲くのが遅かったな、と思います。そのうちに咲いてくれるでしょう。
玄関脇の、われわれが「リュウゼツラン」だと思っていた植物が、ほったらかしなのに、今年も竜の舌のような棒状に巻いたような薄紫の花を幾本も咲かせています。サツキの並びには、先日來食べていたライチの種を埋めたので、芽が出ないかと毎日こちらも水をやっていますが、簡単には芽を出してくれそうにありません。
saysei at 21:50|Permalink│Comments(0)│
柔道・判定の曖昧さ、真逆のフェンシング、失敗を許容するスケボー
今回のオリンピック柔道の試合では、何度も審判の判定の曖昧さや誤審とみられる判定が問題視されています。自国選手への身びいきもあり得るから、個々の判定がどうこうというのは、ここでは問題にしません。
しかし、これほど多くの不審を招き、実際わたし自身が素人目ながら見ていて、え?なぜもう「指導」なの?、あれは掛け逃げじゃないの?(技をかける気などなく足元に頭から飛び込んで技をかけるふりをして、あとはカメのようにうずくまって「待て!」を待つだけ・・・)、あれ?いま寝技がかかるところなのに、なぜ「待て!」なの?・・・等々といった疑問がわんさと沸いてくるような試合が、次から次へと展開されるので、ちょっと唖然とする思いでした。
阿部一二三のように圧倒的な強さとスピードで、終始先に攻め続け、誰の目にも絶対的に明らかな一本勝ちを収める場合は、審判の誤審や怪しげな判定も、さすがにありようがないけれど、そうでない場合は多かれ少なかれ、いくらでも異議を唱えることができそうな試合があまりにも多かったように思います。
柔道が今後まともな競技として残っていくためには、こういう曖昧さ、とんでもない誤審を完全にはなくせないまでも、限りなく減らし、選手も観客も納得できるような判定が一定の水準をもった審判ならだれでも可能になるよう、判定のありかたや、場合によってはルール全体を根底から見直す必要があるでしょう。行き当たりばったりで毎年のようにルールをちょこちょこ変えるような愚は、選手にとっても観客にとっても、まったく百害あって一利もないでしょう。
こうした競技審判のあり方に関しては、モデルがいくらでも他の多くの競技の中に見出されると思います。もちろん競技の性質が異なるから、そのまま引き写しできるわけではないけれど、ヒントがいくらでもあると思うのです。
問題の核心は、やはり判定が主審の主観に委ねられる比重が圧倒的に重くて、主審の技量や経験の熟度に大きく左右されるほか、その主観を制約し、それがのっとるべき確かな基準となるものが、誰の目にも明確で具体的なものとなっていないところにあることは、すでに明らかだろうと思います。
各種競技スポーツの中で、たまたま私が見ていたいくつかの競技の中で、そういう意味で判定に曖昧さがまったくない例としては、今回日本の男子選手が金メダルを獲得したフェンシング(エペ)です。これは判定を完全に電子化して、審判なる人間の主観が介入する余地を完全に払拭してしまいました。これなら、どんな選手も、観客も、文句のつけようがありません。
柔道でも、いずれ何台もの様々な方向、角度からのカメラ撮像をAIでたちどころに分析して、すべてを厳格なルールに照らしてAIが電子的に判定する時代が来るに違いないと思いますが、すぐには無理でしょう。
そうすると、理想としてはそういう厳格・正確な判定像を目指しながら、できるだけそれに近づく方法として、ひとつのヒントを与えるのは、私の知る限り、いまの相撲の判定方式です。直接に勝敗の判定をするのは行司ですが、その判定に異議がある場合、あるいは不明だが確認の必要がある、とみられる場合には、土俵脇の四方から見ている四人の審判員(柔道なら副審ということになるでしょうか)がただちに挙手して土俵の中央に集まって協議し、写真の撮像も参考にしながら判断し、最終的な判定を下しますね。これは比較的ましなやり方だと思います。少なくとも、主審(相撲の行司)の誤判定や主観による偏り、見逃しなどを極力避けることができます。
柔道にも副審はあると思いますが、その権限がルール上なのか慣習的になのかは分かりませんが弱いようで、主審の判定直後にその判定に異議をさしはさむようなことはない(あるいはできない?)ようで、主審ひとりにほとんど絶対的な権限が与えられているようです。これが主審の技量・経験の未熟さや主観的な偏り、ルール解釈の幅、あるいはやむをえない見落としなど、正確で公平な判定を妨げるあらゆる障害の介入を許す結果になっています。
柔道競技では最終的な勝敗の判定のみならず、「指導」「反則」「待て」「技あり」「一本」あるいはそれらの取り消しまで含めて、わずか4分ほどの正式の試合時間のうちに、数々の判定を必要とする場面があります。その一つ一つが勝敗に決定的な影響を及ぼしかねないことばかりです。その判定には細心の繊細な厳密さ、正確さ、公平さが必要であり、なによりもそれを可能とするゆるぎない基準の確立が不可欠です。それをたった一人の主審のそれぞれ大きな幅のある技量、経験、判断力に委ねてしまうことは、結局は誰もが納得する客観性を欠く、個人の主観に多くをゆだねる結果になります。
そもそも4分という短い試合時間の中で、いかに消極的な試合運びだったとしても、3度もの「指導」という主審の介入機会を認めて、「反則」をとるというふうなルールが必要かどうか、はなはだ疑問です。どんな競技でも、やる気のない試合はこびをしたり、体操のように美しさ、凛々しさを競う競技なら、だらけた競技ぶりを見せれば、大きく減点されて勝負にはぜったいに勝てないでしょう。柔道だってわずか4分間のことですから、その間に戦う気のない試合運びをする選手があっても、放置して4分後に、たとえ他方に技ありなどなくても、減点で敗北の判定を下せばよい。その判断が複数の審判による判定で、誰の目にも明らかに正しいと納得できるようなものなら、技ありがあろうとなかろうと一向にかまわないでしょう。それは戦線からの逃亡にほかならないでしょうから。
「指導」が早すぎるのと同様、「待て」も早すぎないか、と思われるようなケースが多かったようです。相手が亀のように固まってしまい、攻めるほうもそれ以上攻め手がない場合は仕方がないけれど(その場合は、そういう自己防御の姿勢のみを頻繁にとるような試合ぶりの選手は、最終的に減点すればいいけれど)、まだ寝技をかけようと攻める側が攻め続けているときに「待て」がかかるのは、見ていてなんとも納得しがたいところがあります。その判断も主審の主観に任されてしまっていて、主審は早く両者を立ち上がらせて戦わせたいあまり、「待て」による中断と試合の再開を急ぐ傾向が明らかにみられました。これでは立ち技から寝技に持ち込んで「じっくり攻める」ことなど、できようもありません。
やはりいまのルールと、その解釈に大きな問題があるように思います。問題の核心は、そうした問題の多くを主審ひとりの主観に委ねてしまうような判定制度になっているところにあると思います。私は出来る限りこうした競技は選手どうしの競い合いに委ね、審判など第三者の介入機会をできる限り減らすことが、競技を選手たちの真の実力を競う機会に近づけ、競技を見て面白いもの、選手にとっても観客にとっても面白いものにする条件だと思います。いまは主審が競技に介入する度合いが度外れて大きく、主審自身が競技の最大の障害物になっています。
昨日も「詩と恋」と題して、阿部詩(うた)選手の出場した柔道と、吉沢恋(ここ)選手の出場したスケートボードの競技とアスリートのありようを比較し、よくも悪しくも伝統的なものをひきずっている柔道に対して、それらから自由で開放的なスケートボードの競技の新しいありように、未来のあらゆるスポーツ競技とアスリートの姿を垣間見る思いがするということを書きました。
スケートボードもいろいろ競技種目によって異なるようですが、私が感心したことのひとつは、6回だか7回だかチャレンジして、そのうちで得点の高い2回の成績を最終的な本人の成績として競い合う、というルールです。これは競技の在り方自体が、失敗を容認する、ということにほかなりません。もちろんこれまでにも、スキーのジャンプなどで3回跳んで、一番良い結果で競い合う(のだと思う。スポーツに詳しくないので間違っているかもしれないけれど)という競技はこれまでもあったけれど、人は失敗することもあるし、挽回の機会がその競技本番の中にも組み込まれているシステムというのは、すごく良いなぁ、と思います。
そういうことがなければ、今回堀米選手が金メダルをとることはなかっただろうし、オリンピックに出場することすらかなわなかったでしょう。私はいま出場しているオリンピック選手の中で一番好きな選手は堀米雄斗選手です。若きも幼きもあこがれるあんなカッコいい競技で世界のトップに立ちながら、まったく気取った気配さえなく、謙虚で、自分に正直で、静謐な精神の落ち着きを備えた若者の姿を見るのは稀なことに思えます。それはスケボーのことも、彼のことも、なにも知らない私のような者にも、ただテレビのインタビューを受けて物静かに語る彼の言葉と表情を見ているだけで、確実に直観できるものです。
彼が今後も大きな怪我をしたりすることなく、またファンの期待や国家的栄誉など余計なものを背負ってプレッシャーに押しつぶされたりストレスを抱えることなく、ひとりのスケボー・スケーターとして、競技を楽しみ、技を極め、彼の姿にあこがれ彼を目指す若い人たち、幼い人たちに、自らの自然体で、スポーツの未来、アスリートの未来の姿を示唆するような存在でありつづけてほしいと願っています。ほんとうにおめでとう!
しかし、これほど多くの不審を招き、実際わたし自身が素人目ながら見ていて、え?なぜもう「指導」なの?、あれは掛け逃げじゃないの?(技をかける気などなく足元に頭から飛び込んで技をかけるふりをして、あとはカメのようにうずくまって「待て!」を待つだけ・・・)、あれ?いま寝技がかかるところなのに、なぜ「待て!」なの?・・・等々といった疑問がわんさと沸いてくるような試合が、次から次へと展開されるので、ちょっと唖然とする思いでした。
阿部一二三のように圧倒的な強さとスピードで、終始先に攻め続け、誰の目にも絶対的に明らかな一本勝ちを収める場合は、審判の誤審や怪しげな判定も、さすがにありようがないけれど、そうでない場合は多かれ少なかれ、いくらでも異議を唱えることができそうな試合があまりにも多かったように思います。
柔道が今後まともな競技として残っていくためには、こういう曖昧さ、とんでもない誤審を完全にはなくせないまでも、限りなく減らし、選手も観客も納得できるような判定が一定の水準をもった審判ならだれでも可能になるよう、判定のありかたや、場合によってはルール全体を根底から見直す必要があるでしょう。行き当たりばったりで毎年のようにルールをちょこちょこ変えるような愚は、選手にとっても観客にとっても、まったく百害あって一利もないでしょう。
こうした競技審判のあり方に関しては、モデルがいくらでも他の多くの競技の中に見出されると思います。もちろん競技の性質が異なるから、そのまま引き写しできるわけではないけれど、ヒントがいくらでもあると思うのです。
問題の核心は、やはり判定が主審の主観に委ねられる比重が圧倒的に重くて、主審の技量や経験の熟度に大きく左右されるほか、その主観を制約し、それがのっとるべき確かな基準となるものが、誰の目にも明確で具体的なものとなっていないところにあることは、すでに明らかだろうと思います。
各種競技スポーツの中で、たまたま私が見ていたいくつかの競技の中で、そういう意味で判定に曖昧さがまったくない例としては、今回日本の男子選手が金メダルを獲得したフェンシング(エペ)です。これは判定を完全に電子化して、審判なる人間の主観が介入する余地を完全に払拭してしまいました。これなら、どんな選手も、観客も、文句のつけようがありません。
柔道でも、いずれ何台もの様々な方向、角度からのカメラ撮像をAIでたちどころに分析して、すべてを厳格なルールに照らしてAIが電子的に判定する時代が来るに違いないと思いますが、すぐには無理でしょう。
そうすると、理想としてはそういう厳格・正確な判定像を目指しながら、できるだけそれに近づく方法として、ひとつのヒントを与えるのは、私の知る限り、いまの相撲の判定方式です。直接に勝敗の判定をするのは行司ですが、その判定に異議がある場合、あるいは不明だが確認の必要がある、とみられる場合には、土俵脇の四方から見ている四人の審判員(柔道なら副審ということになるでしょうか)がただちに挙手して土俵の中央に集まって協議し、写真の撮像も参考にしながら判断し、最終的な判定を下しますね。これは比較的ましなやり方だと思います。少なくとも、主審(相撲の行司)の誤判定や主観による偏り、見逃しなどを極力避けることができます。
柔道にも副審はあると思いますが、その権限がルール上なのか慣習的になのかは分かりませんが弱いようで、主審の判定直後にその判定に異議をさしはさむようなことはない(あるいはできない?)ようで、主審ひとりにほとんど絶対的な権限が与えられているようです。これが主審の技量・経験の未熟さや主観的な偏り、ルール解釈の幅、あるいはやむをえない見落としなど、正確で公平な判定を妨げるあらゆる障害の介入を許す結果になっています。
柔道競技では最終的な勝敗の判定のみならず、「指導」「反則」「待て」「技あり」「一本」あるいはそれらの取り消しまで含めて、わずか4分ほどの正式の試合時間のうちに、数々の判定を必要とする場面があります。その一つ一つが勝敗に決定的な影響を及ぼしかねないことばかりです。その判定には細心の繊細な厳密さ、正確さ、公平さが必要であり、なによりもそれを可能とするゆるぎない基準の確立が不可欠です。それをたった一人の主審のそれぞれ大きな幅のある技量、経験、判断力に委ねてしまうことは、結局は誰もが納得する客観性を欠く、個人の主観に多くをゆだねる結果になります。
そもそも4分という短い試合時間の中で、いかに消極的な試合運びだったとしても、3度もの「指導」という主審の介入機会を認めて、「反則」をとるというふうなルールが必要かどうか、はなはだ疑問です。どんな競技でも、やる気のない試合はこびをしたり、体操のように美しさ、凛々しさを競う競技なら、だらけた競技ぶりを見せれば、大きく減点されて勝負にはぜったいに勝てないでしょう。柔道だってわずか4分間のことですから、その間に戦う気のない試合運びをする選手があっても、放置して4分後に、たとえ他方に技ありなどなくても、減点で敗北の判定を下せばよい。その判断が複数の審判による判定で、誰の目にも明らかに正しいと納得できるようなものなら、技ありがあろうとなかろうと一向にかまわないでしょう。それは戦線からの逃亡にほかならないでしょうから。
「指導」が早すぎるのと同様、「待て」も早すぎないか、と思われるようなケースが多かったようです。相手が亀のように固まってしまい、攻めるほうもそれ以上攻め手がない場合は仕方がないけれど(その場合は、そういう自己防御の姿勢のみを頻繁にとるような試合ぶりの選手は、最終的に減点すればいいけれど)、まだ寝技をかけようと攻める側が攻め続けているときに「待て」がかかるのは、見ていてなんとも納得しがたいところがあります。その判断も主審の主観に任されてしまっていて、主審は早く両者を立ち上がらせて戦わせたいあまり、「待て」による中断と試合の再開を急ぐ傾向が明らかにみられました。これでは立ち技から寝技に持ち込んで「じっくり攻める」ことなど、できようもありません。
やはりいまのルールと、その解釈に大きな問題があるように思います。問題の核心は、そうした問題の多くを主審ひとりの主観に委ねてしまうような判定制度になっているところにあると思います。私は出来る限りこうした競技は選手どうしの競い合いに委ね、審判など第三者の介入機会をできる限り減らすことが、競技を選手たちの真の実力を競う機会に近づけ、競技を見て面白いもの、選手にとっても観客にとっても面白いものにする条件だと思います。いまは主審が競技に介入する度合いが度外れて大きく、主審自身が競技の最大の障害物になっています。
昨日も「詩と恋」と題して、阿部詩(うた)選手の出場した柔道と、吉沢恋(ここ)選手の出場したスケートボードの競技とアスリートのありようを比較し、よくも悪しくも伝統的なものをひきずっている柔道に対して、それらから自由で開放的なスケートボードの競技の新しいありように、未来のあらゆるスポーツ競技とアスリートの姿を垣間見る思いがするということを書きました。
スケートボードもいろいろ競技種目によって異なるようですが、私が感心したことのひとつは、6回だか7回だかチャレンジして、そのうちで得点の高い2回の成績を最終的な本人の成績として競い合う、というルールです。これは競技の在り方自体が、失敗を容認する、ということにほかなりません。もちろんこれまでにも、スキーのジャンプなどで3回跳んで、一番良い結果で競い合う(のだと思う。スポーツに詳しくないので間違っているかもしれないけれど)という競技はこれまでもあったけれど、人は失敗することもあるし、挽回の機会がその競技本番の中にも組み込まれているシステムというのは、すごく良いなぁ、と思います。
そういうことがなければ、今回堀米選手が金メダルをとることはなかっただろうし、オリンピックに出場することすらかなわなかったでしょう。私はいま出場しているオリンピック選手の中で一番好きな選手は堀米雄斗選手です。若きも幼きもあこがれるあんなカッコいい競技で世界のトップに立ちながら、まったく気取った気配さえなく、謙虚で、自分に正直で、静謐な精神の落ち着きを備えた若者の姿を見るのは稀なことに思えます。それはスケボーのことも、彼のことも、なにも知らない私のような者にも、ただテレビのインタビューを受けて物静かに語る彼の言葉と表情を見ているだけで、確実に直観できるものです。
彼が今後も大きな怪我をしたりすることなく、またファンの期待や国家的栄誉など余計なものを背負ってプレッシャーに押しつぶされたりストレスを抱えることなく、ひとりのスケボー・スケーターとして、競技を楽しみ、技を極め、彼の姿にあこがれ彼を目指す若い人たち、幼い人たちに、自らの自然体で、スポーツの未来、アスリートの未来の姿を示唆するような存在でありつづけてほしいと願っています。ほんとうにおめでとう!
saysei at 11:37|Permalink│Comments(0)│
2024年07月30日
鶏肉のプルーン煮込み
きょうの夕餉、メインは鶏肉のプルーン煮込み、ソーセージとじゃがいものガーリックバターローズマリー炒め、パプリカとピーマンのマリネ。
鶏肉のプルーン煮込みはこのところパートナーが会得したメニューで、とても美味しい。鶏肉とプルーンを一緒に食べるとめっちゃ合っていておいしいのですが、実は隠し味の八角とシナモンがよく効いているのだそうです。
これがその八角(左)とシナモン(右)で、シナモンの味と香りは昔ニッキと言ったやつですね。八角の香りは素晴らしい。大好きな匂いです。これらを一緒に煮込むのですが、最後まで煮込んでいないで、途中でこの二つは取り去るのだそうです。しかし隠し味としてしっかり効いているということで、出来上がりの料理がとても美味しくなっています。
また、ソーセージはこの近所ではどこやらでしか売っていない、パートナーによればイギリス風のパサパサした塩味のソーセージで、ほかに美味しいソーセージはいくらもあるけれども、これがまさにイギリスで食べた味だ、という素朴なソーセージ。これがジャガイモと一緒に食べると実によく合うのですね。そういえばイギリスにいたときは安いホステルの食事に、毎度毎度うんざりするほどのポテトが出て、帰国して半年くらいはじゃがいもの顔を見るのがいやになったほどでした。まぁ日本のコメにあたるのはパンじゃなくてじゃがいもなんだな、と思ったことでした。いまはジャガイモ、大好きですが。
ラタトゥイユの冷製カペッリー二。トマトの冷製カペッリー二は実にあっさりした触感ですが、こちらは各種野菜の粘りと甘味が十分に出ていて、何というか粘り、濃い触感がありますが、美味しい点は同じ。
きょうはお昼が結構ボリュームがあったので、夜はシンプルに、あとはトウモロコシと
いつものグリーンサラダでした。
saysei at 22:26|Permalink│Comments(0)│
2024年07月29日
詩と恋
<詩>は今回は不運にも敗れてメダルを逸し、<恋>は14歳の初舞台で金メダルを勝ち取りました。これまで外野席で眺めていると、何かこの二人のアスリートのありようが、対照的なものに見えます。
いずれもそれぞれの競技でのたぐいまれな資質と才能に恵まれた上に、彼女たちの日常生活も競技に向かう自分を中心にまわるような、厳しくたゆみないトレーニングを積み重ねてきた点では共通するところがあるに違いありません。
<詩>が自身の関わる競技や日常的なトレーニングに向き合う姿勢は、どちらかといえば、その分野で過去の長い時間をかけて形成されてきた伝統的、正統的なもので、その道の競争において勝ちぬき、栄冠をつかむために、いわば自分の心身をいじめぬく苦行のような修練を自身に課し、競技以外のことについては極めて禁欲的な姿勢をつらぬくように見えます。
それに耐えた者だけがアマチュアとは画然と区別されるプロフェッショナルな競技者になりうるのです。そして、勝敗を競い、勝てば何よりの栄誉であり、負ければ屈辱以外のなにものでもありません。そのような競争的な勝敗の価値観を植え付けられているからです。
また、その背中にはしばしば指導者層に代表されるような彼女自身もそこから生まれてきた伝統的な競技団体やその長い伝統、あるいはときに国家までをも負うことになるのが見られます。
他方<恋>の競技や日常的なトレーニングに向き合う姿勢は、徹底した個人ベースでの楽しみであり、好きで好きでたまらないし、だから四六時中やっていると、昨日できなかったことが明日できるようになる、それが嬉しくてさらにのめり込んでいく、そうしたことの繰り返しの日々から、若いというよりまだ幼い年齢のうちから、突出した才能が開花した、というふうな現象が、これはつい最近になって私たちの目に触れるようになった、まったく新しい競技アスリートの出現です。
そこにはアマチュアとプロの境はなく、スケボーで遊ぶ幼い子供からトップアスリートまで切れ目なく自然につながる一連の成長の過程に過ぎません。
競技者どうしは同じ競技を愛するゆえの共感で結ばれた親密な友のようであり、年齢その他による上下関係など一切なく、ましてや組織や伝統等々に支配されることなどありえない、互いにまったく対等な個人の絆によって結ばれているようです。
技の優劣で勝敗を競い合っても、結果としての勝敗に栄誉か屈辱かという一面的な価値観による評価や感じ方がないようです。むしろ優れた技、新たな技を生み出した仲間を心から祝福し、称えて駆け寄る笑顔がすべての競技者に見られるようです。その競技のありよう、トレーニングのありよう、競技者どうしの人間関係等々、すべてが開放的で、みんな本当に楽しくてたまらないように見えます。
実際、今回金メダルをとった<恋>は、オリンピックって楽しいね、と言っていたようです。彼女の言葉は、たぶん金メダルがとれたから楽しいという意味ではないでしょう。
私は柔道とスケートボードのありようを比較して前者を貶めようとするのではありません。スケートボードはスポーツとして知られるようになったのは、ごく最近のことでしょうし、それだけ自由度が高いのも当然でしょう。柔道は嘉納治五郎から数えても、すでに百数十年の歴史を経て、良きものも悪しきものも数多くひきずって歩まざるを得ない面があるのもまた当然でしょう。
競技種目がまるで異なるので、スポーツとしての在り方やアスリートのありようを単純に比較することもできないことは分かり切ったことです。
それでもスポーツはスポーツとしての、アスリートはアスリートとしての共通点があるに違いない、と私は思います。その共通点に立って考えるとき、これまでの少なくとも日本のスポーツのありかた、アスリートの在り方は、圧倒的に「柔道」的なそれに拠っていたように感じます。そこへまったくその固定したありよう、考え方に風穴を開けるように、「スケートボード」的なものが生まれてきたという印象を拭えません。
私はそれが単にスケートボード的なスポーツにとどまらず、逆に、すべてのスポーツ、すべてのアスリートが、「スケートボード」的なものになっていく、最初の兆なのではないかと感じています。そして、そうであればいいな、と思っています。
きょうの夕餉
モロヘイヤのポタージュ。野菜は何でもポタージュスープになるようです。とても美味しかった。
鶏つくねのポルチーニクリーム煮
ラタトゥイユ。昨日パートナーがつくっていた、ありとあらゆる野菜の集合体。すっごく美味しい。
チキンの白ワインクリーム煮。プラムと鶏肉を一緒に食べると美味しい。
砂肝のコンフィ
サツマイモ(+チーズ+クルミ等々)のサラダ
写真を撮り忘れましたが、デザートにはほぼほぼこれが最後というマンゴーをいただきました。めちゃめちゃ美味しかった。
きょうは長男も一緒の夕餉でした。
朝方には、次男も家の鍵をどこやらへ置いてきたとかでわが家の予備キーを仮にきて顔をみせました。こうして、息子らが、ときどきでも、ただ顔を見せて、ふたことみこと言葉を交わすだけでも、つつがなく過ごしていることがわかって、なんとなく私達老夫婦は安堵するところがあります。
きょうの京都市最高気温は36℃だったそうです。今週はずっとそんな高温が続くようで、「危険な暑さ」というやつで、私のような老人は外に出ないのが賢明なようです。
ようやくGoogleサイトに移転したHPの読書感想の欄も、旧来のHPに出していた本の感想は全部アップしてリンクを張りました。あとは項目数の多い映画の感想欄だけですから、まぁほかのことをしながら、ぼちぼちやっていきます。
いずれもそれぞれの競技でのたぐいまれな資質と才能に恵まれた上に、彼女たちの日常生活も競技に向かう自分を中心にまわるような、厳しくたゆみないトレーニングを積み重ねてきた点では共通するところがあるに違いありません。
<詩>が自身の関わる競技や日常的なトレーニングに向き合う姿勢は、どちらかといえば、その分野で過去の長い時間をかけて形成されてきた伝統的、正統的なもので、その道の競争において勝ちぬき、栄冠をつかむために、いわば自分の心身をいじめぬく苦行のような修練を自身に課し、競技以外のことについては極めて禁欲的な姿勢をつらぬくように見えます。
それに耐えた者だけがアマチュアとは画然と区別されるプロフェッショナルな競技者になりうるのです。そして、勝敗を競い、勝てば何よりの栄誉であり、負ければ屈辱以外のなにものでもありません。そのような競争的な勝敗の価値観を植え付けられているからです。
また、その背中にはしばしば指導者層に代表されるような彼女自身もそこから生まれてきた伝統的な競技団体やその長い伝統、あるいはときに国家までをも負うことになるのが見られます。
他方<恋>の競技や日常的なトレーニングに向き合う姿勢は、徹底した個人ベースでの楽しみであり、好きで好きでたまらないし、だから四六時中やっていると、昨日できなかったことが明日できるようになる、それが嬉しくてさらにのめり込んでいく、そうしたことの繰り返しの日々から、若いというよりまだ幼い年齢のうちから、突出した才能が開花した、というふうな現象が、これはつい最近になって私たちの目に触れるようになった、まったく新しい競技アスリートの出現です。
そこにはアマチュアとプロの境はなく、スケボーで遊ぶ幼い子供からトップアスリートまで切れ目なく自然につながる一連の成長の過程に過ぎません。
競技者どうしは同じ競技を愛するゆえの共感で結ばれた親密な友のようであり、年齢その他による上下関係など一切なく、ましてや組織や伝統等々に支配されることなどありえない、互いにまったく対等な個人の絆によって結ばれているようです。
技の優劣で勝敗を競い合っても、結果としての勝敗に栄誉か屈辱かという一面的な価値観による評価や感じ方がないようです。むしろ優れた技、新たな技を生み出した仲間を心から祝福し、称えて駆け寄る笑顔がすべての競技者に見られるようです。その競技のありよう、トレーニングのありよう、競技者どうしの人間関係等々、すべてが開放的で、みんな本当に楽しくてたまらないように見えます。
実際、今回金メダルをとった<恋>は、オリンピックって楽しいね、と言っていたようです。彼女の言葉は、たぶん金メダルがとれたから楽しいという意味ではないでしょう。
私は柔道とスケートボードのありようを比較して前者を貶めようとするのではありません。スケートボードはスポーツとして知られるようになったのは、ごく最近のことでしょうし、それだけ自由度が高いのも当然でしょう。柔道は嘉納治五郎から数えても、すでに百数十年の歴史を経て、良きものも悪しきものも数多くひきずって歩まざるを得ない面があるのもまた当然でしょう。
競技種目がまるで異なるので、スポーツとしての在り方やアスリートのありようを単純に比較することもできないことは分かり切ったことです。
それでもスポーツはスポーツとしての、アスリートはアスリートとしての共通点があるに違いない、と私は思います。その共通点に立って考えるとき、これまでの少なくとも日本のスポーツのありかた、アスリートの在り方は、圧倒的に「柔道」的なそれに拠っていたように感じます。そこへまったくその固定したありよう、考え方に風穴を開けるように、「スケートボード」的なものが生まれてきたという印象を拭えません。
私はそれが単にスケートボード的なスポーツにとどまらず、逆に、すべてのスポーツ、すべてのアスリートが、「スケートボード」的なものになっていく、最初の兆なのではないかと感じています。そして、そうであればいいな、と思っています。
きょうの夕餉
モロヘイヤのポタージュ。野菜は何でもポタージュスープになるようです。とても美味しかった。
鶏つくねのポルチーニクリーム煮
ラタトゥイユ。昨日パートナーがつくっていた、ありとあらゆる野菜の集合体。すっごく美味しい。
チキンの白ワインクリーム煮。プラムと鶏肉を一緒に食べると美味しい。
砂肝のコンフィ
サツマイモ(+チーズ+クルミ等々)のサラダ
写真を撮り忘れましたが、デザートにはほぼほぼこれが最後というマンゴーをいただきました。めちゃめちゃ美味しかった。
きょうは長男も一緒の夕餉でした。
朝方には、次男も家の鍵をどこやらへ置いてきたとかでわが家の予備キーを仮にきて顔をみせました。こうして、息子らが、ときどきでも、ただ顔を見せて、ふたことみこと言葉を交わすだけでも、つつがなく過ごしていることがわかって、なんとなく私達老夫婦は安堵するところがあります。
きょうの京都市最高気温は36℃だったそうです。今週はずっとそんな高温が続くようで、「危険な暑さ」というやつで、私のような老人は外に出ないのが賢明なようです。
ようやくGoogleサイトに移転したHPの読書感想の欄も、旧来のHPに出していた本の感想は全部アップしてリンクを張りました。あとは項目数の多い映画の感想欄だけですから、まぁほかのことをしながら、ぼちぼちやっていきます。
saysei at 22:18|Permalink│Comments(0)│
2024年07月28日
オリンピック悲喜こもごも
夕食直前に、「光る君」BS版を見終わって、柔道に切り替えると、阿部詩選手が2回戦でウズベキスタンの選手に敗けた、というニュースが飛び込んできました。昨日は、卓球で早田ー張本ペアが北朝鮮に敗れたと。また、バスケットボールもバレーボールも、それぞれ初戦、ドイツに敗れたとか。
阿部詩選手についてはつい一日二日前にテレビの密着取材みたいなので見ていたら、去年の10月くらいから、きつい腰痛に苦しんでいたらしいが、トルコでのグランドスラム・アンタルヤ大会に出て勝ったら綺麗に腰痛が消えたという話をしていて、長く腰痛に苦しんできたわがパートナーは、腰痛は精神的なストレスと密接な関係がある、というのが持論で、きっと彼女は絶対に金メダルと自他ともに認めているオリンピックを目前にしてやはりものすごいプレッシャーがあるんだと思う、と言っていました。いくら絶対的に強いと言われ、金メダル確実と言われていて、常勝が当たり前と思われているほど圧倒的に強い選手でも、そういう評価が当然視されるほどに、周囲も、ひょっとしたら本人も気づかない心身の深みでものすごいプレッシャーを受け、ストレスを抱えているものなのかもしれません。
彼女が敗けたと聞いて、パートナーは、やっぱり・・・とひとこと。ほんとうに可哀そうやわ、と。日本中の人が勝つのが当然と思い、金メダルを期待し、応援してるからね、と心から送り出し・・・それはすべて悪いことではないのだけれど、それがひとりの優れたアスリートの人生を、一つ間違えば潰してしまう怖さがあるということに慄然とします。
私がオリンピックを好きになれないのは、国民の税金を湯水のように使って、結局はIOCに巣くうファシストの子孫たち、政治家、大手広告代理店、一部の企業などの懐を豊かにするだけで、それもまず間違いなく、明らかになろうがなるまいが、汚職まみれのビッグプロジェクトになるから、と思っていたけれど、ほんとうは一人一人の優れたアスリートの、アスリート本来のありようをゆがめてしまうから、ということも大きな理由かもしれません。
世界選手権のように毎年、その年に誰が一番強いかを競い合うような各ジャンルの大会は当然あってよいけれど、4年間その大会に出て勝つためにだけ自分のすべてを擲ってきました、というような生き方をアスリートに強いるオリンピックなど、まったく百害あって一利なし、これからの時代のアスリートの在り方を考えるとき、無用の長物の類ではないかという気がします。
野球の大谷選手のように野球好きの少年がそのまま大きくなって、いまも野球をやっている、というような姿がアスリートの本来的な姿ではないか、と思います。負けたって、ま、いいか、勝つときもありゃ負けるときもあるさ。来年また頑張るよ、とカラッと笑って相手を讃えて帰ってこれるようなスポーツであってほしいと思います。
絶対強い、と期待された阿部詩選手が負け、同様に期待された早田選手らが負け、絶対強いと言われるほど危ない、というのが本当に聞こえてしまいそうです。
先日これもテレビでの密着取材の様子を見た、体操の橋本選手なども、見ていて、以前のような生き生きとした、自信にあふれた生気がみなぎる表情が影をひそめ、何か一回り小さくなったように、勢いが失われた印象をもちました。杞憂であればいいのですが・・・・彼もつい先ごろまで指のケガで苦しんでいたようだし、一度金メダルまで取って燃え尽き症候群的な状態になったようだし、今回のオリンピックには、最初に金を目指していたときよりも何倍ものプレッシャーがかかり、はるかに大きなストレスを心身深くに抱えているに違いありません。
もうそろそろこういうかけがえのない世界中のトップアスリートたちを、オリンピックというつまらないストレス源から解放してあげるべきなのではないかと思います。
私が(見るのが)好きな柔道では、昨日も触れた巴投げ+関節技の角田選手が金メダルをとったそうです。彼女は、高校を卒業するとき柔道はやめようと思っていたらしいのですが、大学からの誘いと勧めがあって続けたけれど、さしたるめざましい戦績も残せずにいたところ、あるとき柔術の講習会か何かに参加して興味をもち、自分の父親が整骨を仕事にしているヒトらしくて、もともと人の骨格や筋肉については詳しかったこともあって、独自の関節技を磨きあげて、巴投げと合わせて自分の得意技として、そこから彼女独特のトップにのぼりつめる行程が始まったのだそうです。
それでも五十何キロ級では阿部詩という巨大な壁が立ちはだかっていたので、やむなくひとつ軽いクラスへ転向して、今日に至る道を切り開いて来たらしい。
今回のオリンピックでは、彼女の道を妨げた阿部詩選手が2回戦で敗れてメダルなし、昔その阿部詩選手に敗れて階級を一つ下げた角田選手が金メダル、という運命の女神が皮肉な差配をする結果となりました。世の中、えてしてそういうものなんだな、と妙に納得するところがあるような気がします。
もちろん阿部詩選手はまだまだ若くて、これからもっともっと強くなって日本の女子柔道を牽引していく選手になるでしょうから、こんな一度の敗北などじきに乗り越えていくでしょう。
それにしてもスポーツ界全体が大きく変わり始めていること、アスリートの考え方や、トレーニングの仕方、その生き方までが、大きく変わってきているのが、門外漢である私などにも感じられます。それを一番強く感じたのは、大谷選手の活躍と共に彼のトレーニングの様子や、彼がどんな日常生活を過ごしているか、彼がどういう考え方をしているかといったことが、逐一事細かに報道されるようになってからのことのように思います。WBCの全試合がそのすべてを集約したようなものでしたが、そこで見る大谷選手は、従来の野球選手のみならず、すべてのアスリートというもののイメージを転倒してしまうほどのインパクトがあったように思います。
それは私のような素人だけでなく、WBCに参加した日本の若い選手たち全員に共有された感覚のようで、その後の彼らの活躍の裏にみられる考え方の変化、日常生活も含めた彼らの行動様式の変化等々に如実に表れているようにい思います。しかし、大谷選手がたった一人の特異なアスリートだということではなくて、彼が典型的なロールモデルのような人物となったことは確かですが、たぶんダルビッシュだってそうだろうし、次々にヨーロッパのクラブチームに入って何年も活躍している日本の若い「海外組」のサッカー選手たちもそうだろうし、槍投げの北口選手なども、この競技に強い、よい指導者のいる国へ行って何年も修行していたようなことも聞きました。みな従来の日本的な「根性と頑張り」だけのアスリート像を脱皮して、新しい時代のアスリート像を求めてきた人たちなのだろうと思います。こういう選手たちが次々に出てきて活躍するのを見るのは、個々の勝った、負けたよりも、よほど楽しみだし、深い楽しみがあると思います。
きょうの夕餉
今日は久しぶりに手巻き寿司でした。
きゅうり、カイワレ、アゲの甘煮、ニンジンの甘煮、卵焼き、たくあん、牛肉の甘辛煮、梅干し、蟹、サーモン、大葉・・・・といったものを大きく切った海苔に、すし飯と一緒に巻き込んでいただきました。
すし飯と海苔
あとは豆腐とアゲの味噌汁と
のこりもの。
これはお昼の冷麺。
これは明日のためにパートナーガ作ったラタトゥイユ。いろんな上賀茂野菜がふんだんに使われていて、その野菜の甘味、酸味(トマトの)が、ほとんどほかの混ぜ物を必要とせずに、すばらしい味を醸し出してくれます。
(以上でした)
今日も少しHPの読書感想文のアップロードをしていましたが、それよりも、今までアップしたところを点検していたら、たくさんリンケージを間違っていて、リンクで開くはずのページが開かなかったりするところが見つかって、そういうのを修復するのに少々手間がかかりました。
先日來、パートナーがネットフリックスで華流歴史ドラマ「始皇帝」を見ていて、いろいろと教えてくれるので、少し刺激されて(笑)、いまさらながら、始皇帝も愛読していたという韓非子を読んでみようと思って古本の岩波文庫を4冊割安で仕入れました。孔孟、老荘などは曲がりなりにも拾い読みしてきていますが、韓非子までは手がまわらず、中国思想の解説みたいなので、およそこんな思想なんだな、という見当はつけていても、実際に読んだことがなかったのです。実際に為政者の役に立ったのは、孔孟、老荘思想などよりも、韓非子や荀子などの法治国家の思想だったかもしれませんね。やっぱり原典で一通り読んでみないと、どういうものだったかは分からないと思うので、またまた寄り道先が増えただけのことですが、読んでみたいと思っています。
阿部詩選手についてはつい一日二日前にテレビの密着取材みたいなので見ていたら、去年の10月くらいから、きつい腰痛に苦しんでいたらしいが、トルコでのグランドスラム・アンタルヤ大会に出て勝ったら綺麗に腰痛が消えたという話をしていて、長く腰痛に苦しんできたわがパートナーは、腰痛は精神的なストレスと密接な関係がある、というのが持論で、きっと彼女は絶対に金メダルと自他ともに認めているオリンピックを目前にしてやはりものすごいプレッシャーがあるんだと思う、と言っていました。いくら絶対的に強いと言われ、金メダル確実と言われていて、常勝が当たり前と思われているほど圧倒的に強い選手でも、そういう評価が当然視されるほどに、周囲も、ひょっとしたら本人も気づかない心身の深みでものすごいプレッシャーを受け、ストレスを抱えているものなのかもしれません。
彼女が敗けたと聞いて、パートナーは、やっぱり・・・とひとこと。ほんとうに可哀そうやわ、と。日本中の人が勝つのが当然と思い、金メダルを期待し、応援してるからね、と心から送り出し・・・それはすべて悪いことではないのだけれど、それがひとりの優れたアスリートの人生を、一つ間違えば潰してしまう怖さがあるということに慄然とします。
私がオリンピックを好きになれないのは、国民の税金を湯水のように使って、結局はIOCに巣くうファシストの子孫たち、政治家、大手広告代理店、一部の企業などの懐を豊かにするだけで、それもまず間違いなく、明らかになろうがなるまいが、汚職まみれのビッグプロジェクトになるから、と思っていたけれど、ほんとうは一人一人の優れたアスリートの、アスリート本来のありようをゆがめてしまうから、ということも大きな理由かもしれません。
世界選手権のように毎年、その年に誰が一番強いかを競い合うような各ジャンルの大会は当然あってよいけれど、4年間その大会に出て勝つためにだけ自分のすべてを擲ってきました、というような生き方をアスリートに強いるオリンピックなど、まったく百害あって一利なし、これからの時代のアスリートの在り方を考えるとき、無用の長物の類ではないかという気がします。
野球の大谷選手のように野球好きの少年がそのまま大きくなって、いまも野球をやっている、というような姿がアスリートの本来的な姿ではないか、と思います。負けたって、ま、いいか、勝つときもありゃ負けるときもあるさ。来年また頑張るよ、とカラッと笑って相手を讃えて帰ってこれるようなスポーツであってほしいと思います。
絶対強い、と期待された阿部詩選手が負け、同様に期待された早田選手らが負け、絶対強いと言われるほど危ない、というのが本当に聞こえてしまいそうです。
先日これもテレビでの密着取材の様子を見た、体操の橋本選手なども、見ていて、以前のような生き生きとした、自信にあふれた生気がみなぎる表情が影をひそめ、何か一回り小さくなったように、勢いが失われた印象をもちました。杞憂であればいいのですが・・・・彼もつい先ごろまで指のケガで苦しんでいたようだし、一度金メダルまで取って燃え尽き症候群的な状態になったようだし、今回のオリンピックには、最初に金を目指していたときよりも何倍ものプレッシャーがかかり、はるかに大きなストレスを心身深くに抱えているに違いありません。
もうそろそろこういうかけがえのない世界中のトップアスリートたちを、オリンピックというつまらないストレス源から解放してあげるべきなのではないかと思います。
私が(見るのが)好きな柔道では、昨日も触れた巴投げ+関節技の角田選手が金メダルをとったそうです。彼女は、高校を卒業するとき柔道はやめようと思っていたらしいのですが、大学からの誘いと勧めがあって続けたけれど、さしたるめざましい戦績も残せずにいたところ、あるとき柔術の講習会か何かに参加して興味をもち、自分の父親が整骨を仕事にしているヒトらしくて、もともと人の骨格や筋肉については詳しかったこともあって、独自の関節技を磨きあげて、巴投げと合わせて自分の得意技として、そこから彼女独特のトップにのぼりつめる行程が始まったのだそうです。
それでも五十何キロ級では阿部詩という巨大な壁が立ちはだかっていたので、やむなくひとつ軽いクラスへ転向して、今日に至る道を切り開いて来たらしい。
今回のオリンピックでは、彼女の道を妨げた阿部詩選手が2回戦で敗れてメダルなし、昔その阿部詩選手に敗れて階級を一つ下げた角田選手が金メダル、という運命の女神が皮肉な差配をする結果となりました。世の中、えてしてそういうものなんだな、と妙に納得するところがあるような気がします。
もちろん阿部詩選手はまだまだ若くて、これからもっともっと強くなって日本の女子柔道を牽引していく選手になるでしょうから、こんな一度の敗北などじきに乗り越えていくでしょう。
それにしてもスポーツ界全体が大きく変わり始めていること、アスリートの考え方や、トレーニングの仕方、その生き方までが、大きく変わってきているのが、門外漢である私などにも感じられます。それを一番強く感じたのは、大谷選手の活躍と共に彼のトレーニングの様子や、彼がどんな日常生活を過ごしているか、彼がどういう考え方をしているかといったことが、逐一事細かに報道されるようになってからのことのように思います。WBCの全試合がそのすべてを集約したようなものでしたが、そこで見る大谷選手は、従来の野球選手のみならず、すべてのアスリートというもののイメージを転倒してしまうほどのインパクトがあったように思います。
それは私のような素人だけでなく、WBCに参加した日本の若い選手たち全員に共有された感覚のようで、その後の彼らの活躍の裏にみられる考え方の変化、日常生活も含めた彼らの行動様式の変化等々に如実に表れているようにい思います。しかし、大谷選手がたった一人の特異なアスリートだということではなくて、彼が典型的なロールモデルのような人物となったことは確かですが、たぶんダルビッシュだってそうだろうし、次々にヨーロッパのクラブチームに入って何年も活躍している日本の若い「海外組」のサッカー選手たちもそうだろうし、槍投げの北口選手なども、この競技に強い、よい指導者のいる国へ行って何年も修行していたようなことも聞きました。みな従来の日本的な「根性と頑張り」だけのアスリート像を脱皮して、新しい時代のアスリート像を求めてきた人たちなのだろうと思います。こういう選手たちが次々に出てきて活躍するのを見るのは、個々の勝った、負けたよりも、よほど楽しみだし、深い楽しみがあると思います。
きょうの夕餉
今日は久しぶりに手巻き寿司でした。
きゅうり、カイワレ、アゲの甘煮、ニンジンの甘煮、卵焼き、たくあん、牛肉の甘辛煮、梅干し、蟹、サーモン、大葉・・・・といったものを大きく切った海苔に、すし飯と一緒に巻き込んでいただきました。
すし飯と海苔
あとは豆腐とアゲの味噌汁と
のこりもの。
これはお昼の冷麺。
これは明日のためにパートナーガ作ったラタトゥイユ。いろんな上賀茂野菜がふんだんに使われていて、その野菜の甘味、酸味(トマトの)が、ほとんどほかの混ぜ物を必要とせずに、すばらしい味を醸し出してくれます。
(以上でした)
今日も少しHPの読書感想文のアップロードをしていましたが、それよりも、今までアップしたところを点検していたら、たくさんリンケージを間違っていて、リンクで開くはずのページが開かなかったりするところが見つかって、そういうのを修復するのに少々手間がかかりました。
先日來、パートナーがネットフリックスで華流歴史ドラマ「始皇帝」を見ていて、いろいろと教えてくれるので、少し刺激されて(笑)、いまさらながら、始皇帝も愛読していたという韓非子を読んでみようと思って古本の岩波文庫を4冊割安で仕入れました。孔孟、老荘などは曲がりなりにも拾い読みしてきていますが、韓非子までは手がまわらず、中国思想の解説みたいなので、およそこんな思想なんだな、という見当はつけていても、実際に読んだことがなかったのです。実際に為政者の役に立ったのは、孔孟、老荘思想などよりも、韓非子や荀子などの法治国家の思想だったかもしれませんね。やっぱり原典で一通り読んでみないと、どういうものだったかは分からないと思うので、またまた寄り道先が増えただけのことですが、読んでみたいと思っています。
saysei at 22:06|Permalink│Comments(0)│