2024年05月

2024年05月28日

自家製ハーブいっぱいの夕食

★ミラノ風かつのディルのせ
 昨日は「きょうの夕餉」もアップせずに寝てしまいましたが、昨日の夕餉のメインディッシュは、このミラノ風カツのディルのせ。ディル、ルッコラ、クレソンは庭のプランターや鉢でいままさに絶好長で育っているハーブです。ジャガイモとロメインレタスは上賀茂の野菜自動販売機でゲットしてきた野菜。ロメインレタスは生野菜のサラダとして毎日のようにいただいていますが、こんな使い方をしてもおいしいですね。

★ボイルド野菜、パンとなすのディップ
 今年初物のとうもろこし、あとは上賀茂野菜のソラマメ、キュウリ、ブロッコリ、エンドウ豆、コールラビ(キャベツとカブの掛け合わせでできた野菜らしいです)など。ディップの下のはハーブを入れたいつものヨーグルト・マヨネーズソースですが、その上のは、パートナーが初めて試みたナスのディップで、これがとてもおいしかった。賀茂茄子をなんでもかんでも砕いてしまえる昔のミキサーの小型簡易版みたいな小道具(名前が出てこない)ですり下ろして、あれこれ微量の要素を加えて素敵なディップにしたみたいですが、私には結果しかわからない(笑)

★前菜
 あとは前菜に戸田さんちのトマトのこういうの(これも名前知らず、聞き忘れましたが・・)。
 昨夕は長男も一緒の夕食でした。先日彼にプレゼントしてもらったパソコンは私の希望で一体型なのですが、いまは一体型はなにもかも狭いスペースに詰め込んでいるから故障が多いと考えられて、あまり評判がよくなくて、ネットで販売している種類もごく少なくて、10万円以下の手ごろな価格のはほとんどこれしかなかったようです。私は中古品のごく安いのしか見ていなかったので、そんな高いのを申し訳ないなと思いましたが、使い心地は上々で、よほど不運でなければ、これが私の使い収めのパソコンになるでしょうから、愛用させてもらおうと思っています。今の私の作業台が、やや厚い一枚板の、幅の狭い長めのを、長い辺の一方を壁に固定して机代わりにしたものなので、穴も開いていないから本体を下において短い線でディスプレイその他と配線することもできないし、置くスペースも狭いので、ディスプレイを置くと、もう別途本体を置くことはちょっと難しい。それでいま故障したパソコンもネットで見て中古の一体型をたしか3万円くらいで購入したのだったと思います。もう5,6年以上使っていると思うから、中古品にしては致命的な故障もなく(もうDVDが使えなくなっていたり、USBソケットが不良だったり、あれこれ部分的な故障は起きていましたが)よく保ってくれたなぁとありがたく思っています。

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2024年05月23日

藤原伊周の作品を探してみる

 伊周の詠んだ和歌や漢詩のうち、手元にある本で読めるものがないか、探してみました。

 

『和漢朗詠集』662 (新潮日本古典集成61 『和漢朗詠集』大曽根章介・堀内秀晃校注 1983)

 

  玉扆日臨文鳳見 紅旗風巻画龍揚   朝拝 帥

 

  玉扆(ぎょくい)日隣臨んで文鳳(ぶんほう)見ゆ 紅旗風巻いて画龍(ぐわりょう)揚(あが)る

 

  天子のうしろに立っている屏風に日の光があたると、その文様の鳳凰がはっきりと見え、朝拝の庭に立っている紅の旗に風が吹く時には、旗に画かれた龍が空に揚がって行くように見える。

 

  こういう漢詩がいいかどうかなんて、私にはまるで分かりません。なんとなく勢いの良い華麗な言葉が使ってあるなぁという印象はありますが・・・

 

 

『漢和名詩類選評釋』(簡野道明講述、國語漢文研究會編 明治書院昭和6年刊)より

 

    秋日到入宋寂照上人舊房  藤原伊周

 

  五臺渺渺幾由旬。想像遙爲逆旅身。異郷縦無思我日。他生豈有忘君辰。山雲在昔去來物。魚鳥如今留守人。到此悵然歸未得。秋風暮處一霑巾。

  

  五臺(だい)渺渺(べうべう)たり幾由旬(いくゆじゅん)。想像す遙に逆旅(げきりょ)の身となれるを。異郷縦(たと)ひ我を思ふ日無きも。他生(たしょう)豈(あに)君を忘るる辰(とき)あらんや。山雲在昔(むかし)より去来の物(もの)。

魚鳥(ぎょちょう)如今(じょこん)留守(りうしゅ)の人。此(ここ)に到りて悵然(ちょうぜん)として歸ること未だ得ず。秋風暮るる處(ところ)一(いつ)に巾(きん)を霑(うるほ)す。

 

 (名高き寺のある)五臺山は、渺渺と遙かに幾千里を隔てたる天涯に在り、想像すれば此の房の主人は、今や求道のため彼の地に旅客の身となれり、さて異國にある上人が縦ひ我を思ひくるる日は無くとも、我は再生の時に至るまで君を忘るる時なかるべし、山の雲は昔より去来處を定めざる物として恰も行脚僧の身に似たるあり、山中の魚鳥は今は主人の留守居をして上人の歸るを待つものの如し、我も亦此の處に來り悵然として去り得ざる者あり、殊に秋風の吹く淋しき夕に上人を懐へば潜然としてただ涙の巾を霑すのみなりと切なる思慕の情を叙せしなり。(前掲書評釈欄より)

 

 寂照上人は、ウィキペディアによれば、「寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)。寂昭・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。」という人で、「文章・和歌に秀で図書頭・三河守を歴任、従五位下に至る。三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性[1]が亡くなったことから、永延2年(988年)、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。長保4618日、入宋のため旅立つ[2]。長保5年・咸平6年(1003年)渡海し、蘇州の僧録司に任じられ、皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った。また、天台山の知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた。日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ていい)の要請により、蘇州呉門寺にとどまった。その後、日本に帰国する事がないまま杭州で没した。豊川市西明寺に供養塔がある。」といった経歴の方です。

 

 遠い宋の国に入った寂照上人(1003年8月入宋)に思いをはせ、長徳の変(996年)で太宰府に配流されたわが身を回顧する詩ですね。伊周は翌年(997)には召還され、寛弘2年(100511月には朝議にも参与させられていますから、この詩はそのころ、寂照が入宋(1003)してしばらくしたころに作られたのでしょう。伊周が死んだのは寛弘7年(1010)の1月。37歳でした。

 

 世はすでに道長の全盛期で、1004年には法興院で万燈会を挙行、1006年には法性寺の五大堂を建立しています。ちょうど紫式部が源氏物語を書き終えたころのことです。伊周の妹で天皇への強力な手づるだった皇后定子も1000年には亡くなり、まだ彼女の存命中に道長の娘彰子が一条天皇の中宮となります。

 

 伊周は寛弘5年(1008)1月には大臣に准じ封土を賜うところまで復権しますが、翌年2月には再び、中宮彰子・敦成親王呪詛という事件に坐して朝参を停められています。

 呪詛なんてあの時代には現実的な威力を持つものとして恐れられもしたでしょうが、それでも合理主義的な考え方をする人物の中には、はなからそんなものを信じてなどいなかった者もあったでしょう。道長なんてのはそんな人物だったのではないかという気がします。そうすると、呪詛なんていうのは自分が危険だとみなす人物を排除するための、良い口実であったかもしれません。証拠なんていくらでも作ることができるし(呪詛の文言を書いた文書とか「厭物」と言われる呪詛の小道具とか)、あとは周囲の人々(この場合は宮中の人たち)が、あいつとあいつの関係からは、どうもあいつはやりそうだぜ、と思うような、つまり風聞の立ちやすいような関係性や背景さえあれば、いくらでもでっちあげることができたでしょう。

 

 まぁ、伊周も若くて血気にはやった、頭は切れるけれど深慮遠謀には程遠い、挫折知らずで育ったお坊ちゃんの弱みをもった人物ですから、道長にとっては扱いやすい軽率なふるまいの絶えなかった人物なのかもしれません。

 

 伊周は同6月には朝参を許されたようですが、何かと道長がらみで事件を引き起こしているというか、これが道長のたくらみだとすれば、引き起こされたというべきかもしれませんが、なにか起こしては罰せられるけれども、もと天皇の中宮の兄、関白(道隆)の長男という血筋の良さのせいか、漢詩の才をはじめ、たしかに当時の公卿が備えるべき才能と教養をごく若い時からふんだんに備えていたこともあって、父関白の強引な推しで他の公卿たちを押さえて早々と内大臣となり、病に倒れた父に代わる内覧をも任ぜられるといった出世頭(道長に内覧の役を奪われるまでは)として宮中で大きな存在感をもっていたせいか、罰の適用はきわめて曖昧で、なあなあのところがあり、すぐに許されて旧に復するような印象があります。

 

 それはライバルと目された伊周を長徳の変を好機に失墜させて権力を掌中におさめた道長が、自分の甥でもある、政治的、性格的には未熟で公卿たちの人気もないこの男を必ずしも抹殺したり、地の果てへ追いやってしまう気はなくて、権力の座を奪い合うような力は永遠に奪い取ってしまうけれども、自分の比較的身近な影響圏のうちに置いて監視しつつ用いるべきところは用いて、宮中で自分の力を見せつけ、同時に寛容さというのか、飼い殺しにする器量の大きさをも見せつけながら、害のない限り好きにさせておいて、ときおり行き過ぎたとみるや、ガツンと一発くらわす、そしてまた許してやる、というようなことを繰り返してきたのではないか、というふうに見ようと思えば見られなくもないと思います。

 

 

 

『後拾遺和歌集』(久保田淳・平田喜信校注 2019年刊 岩波文庫)

 

  筑紫に下り侍りけるに、明石といふ所にてよみ侍りける   帥前内大臣(そちのさきのないだいじん)

 529 物思ふ心の闇し暗ければあかしの浦もかひなかりけり

 

  物思いに沈む心は闇に閉ざされて暗いのに、明かしという名の浦を通っても何のかいもないことだ。

 

 

  筑紫より上りて、道雅三位の童(わらは)にて松君といはれ侍りけるを膝に据ゑて、久しく見ざりつるなどいひてよみ侍ける    帥内大臣

 

 1158 あさぢふに荒れにけれどもふるさとの松はこだかくなりにけるかな

 

  都を離れているうちに、旧宅は浅茅生と荒れはててしまったけれども、庭の松(松君)は大きくなったなあ。

 

 

 それぞれ、伊周の人生にとって、おそらく最大の危機であった「長徳の変」で大宰府へ配流(左遷)となって、その往きと復り(帰ってから)に詠んだ歌ということになります。529番歌は配流されていく闇に閉ざされた心の<暗さ>を言うのに、たまたま通った明石の浦の<明かし>という反対語にひっかけて、心は暗いのに<明かし>とこれいかに、という、当時の歌の言葉遊びのような作風の歌に詠んでみせた、というわけで、いま読めば、こんな言葉遊びで読まれる心の暗さだの闇だのといったものは、たかが知れたものだろうと思わずにいられません。

 

 実際の伊周の置かれた当時の状況は、それどころではない大変なものだったでしょうが、こういう歌でそれを深い思いとして表現することは難しかったでしょう。

 

 1158番歌は伊周の長男通雅が「松君」と呼ばれていたので、その成長を実際の松の木の成長にたとえて詠んだ素直な歌で、こちらは伊周の素直な親心が感じられる、好感のもてる歌だと思います。

 

 『枕草子』第108段に松君(道雅の幼名)が父・伊周と叔父・隆家に連れられて、中宮定子を訪ねた妹原子(淑景舎)や父道隆と定子が談笑するところへ現れる場面があります。

 

  ・・・など、ただ日一日、さるがう言をしたまふほどに、大納言殿、三位中将、松君もゐてまゐりたまへり。殿いつしかと抱き取りたまひて、膝にすゑたまへる、いとうつくし。せばき縁に、所せき昼の御装束の下襲など引き散らされたり。

 

  ・・・など、ただ一日中、こっけいな冗談を言っておいでになるうちに、大納言さま(伊周)と三位の中将(隆家)が、松君も連れて参上していらっしゃる。殿(道隆)は待ち遠しげに松君をお抱き取りになって、膝の上にお坐らせになっていらっしゃる、その松君の様子は、とてもかわいらしい。狭い縁に、仰山な正式の御衣裳の下襲(したがさね)などが無造作に引き散らされている。(小学館 日本古典文学全集 松尾聰・永井和子 校注・訳)

 

 正暦六年(995)年のことで、この前年8月、伊周は権大納言から内大臣に任じられていた。このとき22歳。弟の隆家は正暦三年左近中将、同五年八月從三位、長徳元年(995)四月権中納言。この齢十七歳。伊周の長男道雅(幼名松君)はこのとき四、五歳。祖父道隆が膝の上に引き取ってかわいがる様子が書かれています。道雅が祖父道隆に可愛がられたことが『大鏡』にも見えます。

 

    男君は、松の君とて、生れたまへりしより、祖父大臣(おほぢおとど)いみじきものに思して、迎へたてまつりたまふたびごとに、贈物をせさせたまふ。御乳母をも饗応したまひし君ぞかし。この頃三位しておはすめるは。

 

    伊周公のご子息道雅殿は、ご幼名を松の君といい、お生まれになったときから、御祖父道隆公が、たいそうかわゆく思しめして、お邸へお呼び迎えなさるたびごとに、かならず贈物をなさいます。御乳母までをもちやほやされたほど、だいじにされたお子様ですよ。近ごろ(万寿二年、1025年現在)三位になっていらっしゃるようですね。(小学館 日本古典文学全集20『大鏡』中 125 春宮亮道雅 p278 橘健二 校注・訳) 

 

 最後に前にも書き写しておいた、彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王を産んで百日目、「百日(ももか)」の儀式が執り行われ、公卿たちが寿ぐ歌を詠みあう、まあ宴会みたいなものが行われた際に、参会者が詠んだ歌全体の「序」を書く役割の藤原行成がその用意をしていると、伊周がその紙と筆を半ば強引に取って、伊周流の「序」を書きあげたという、その「序」をもう一度写しておきます。

 

    一條院御時中宮御産百日和歌序    

 

                     儀同三司

 

  第二皇子百日嘉辰。合宴於禁省矣。外祖左丞相以下。卿士大夫侍座者濟濟焉。望龍顔於咫尺。酌鸞觴於獻酬。醉恩之餘。私相語云。隆周之昭王穆王曆數長焉。我君又曆數長焉。本朝之延曆延喜胤子多矣。我君又胤子多焉。康哉帝道。誰不歡娯請課風俗。將獻壽詞云爾。

 

  柿村重松注『本朝文粋註釋』(冨山房 1968)を参照しながら、勝手流で書き下し、訓みをつけ、現代語に訳してみると次のようになるでしょうか。素人のことなので、誤りがあるかとは思いますがご容赦ねがいます。

 

 

    一條院ノ御時中宮御産百日和歌ノ序

                     

                         儀同三司

 

  第二皇子百日ノ嘉辰 禁省ニ合宴ス。外祖左丞相以下 卿士大夫。座ニ侍セル者濟濟タリ。龍顔ヲ咫尺ニ望ミ 鸞觴ヲ獻酬ニ酌ム。恩ニ醉フ之餘リ 私カニ相語リテ云ク。隆周之昭王穆王ハ曆數長シ。我ガ君又曆數長シ。本朝之延歷延喜ハ胤子多シ。我ガ君又胤子多シ。康イ哉帝道。誰カ歡娯セ不ラン。請フ風俗ヲ課シテ。將ニ壽詞ヲ獻ゼントスト爾云フ。

 

    

    いちじょういんの おんとき ちゅうぐう おさん ももかの わかの じょ

 

                         ぎどうさんし

 

  だいにおうじ ももかの かしん きんしょうに ごうえんす がいそ さしょうじょういか けい し たいふ ざに じせるもの さいさいたり りゅうがんを しせきに のぞみ らんしょうを けんしゅうに くむ おんに ようのあまり ひそかに あいかたりて いわく りゅうしゅうの しょうおう ぼくおうは れきすう ながし わがきみ また れきすう ながし ほんちょうの えんれき えんぎは いんし おおし わがきみ また いんし おおし やすいかな ていどう たれか かんご せざらん こう ふうぞくを かして まさに じゅしを けんぜんとすと しかいう

 

 

    一條院の御時の中宮(彰子)出産「百日(ももか)の祝い」の儀に詠まれた和歌の序

   

                         儀同三司(藤原伊周)

 

  第二の皇子(敦成:あつひら)百日(ももか)のめでたい日に、宮中に集い宴を催した。皇子の外祖父である左大臣(道長)以下、公卿・殿上人ら、座に列する者たちはみな威儀をつくろい、皇子の尊顔を間近に拝さんと望み、多くの盃を互いに酌み交わす。こうして恩澤に酔うあまり、ひそかにこんなことを語り合った。隆盛期の周の昭王や穆王(ぼくおう)の治世は長く続いた。わが君(一条天皇)の治世もまた長い。本朝の延暦の帝(桓武天皇)や延喜の帝(醍醐天皇)も御子が多いように、わが君もまた御子が多い。かくして皇統は安泰である。これを歓び愉しまない者があろうか。そこで皆々に和歌を課して今ここに寿詞をたてまつりたいいう趣旨である。

 

                         

 「儀同三司」というのは、もとは歴代中華王朝の官職でその内容にも変遷があるようですが(ウィキペディア)、わが国で上のように伊周がこれを使ったことに関しては、儀礼の格式が三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と同じだという意味で、准大臣の異称だと理解すればよいようです。伊周が「儀同三司」を自称したので、伊周の異称ともなったとのこと(Google search)

 

 私が見ている『本朝文粹註釋』(柿村重松註)で本文のあとに記された漢文での註によれば、ここで言及された古代中国の周朝の第4代昭王は前995~前977年の在位18年、第5代穆王の在位は前977~前922年の55年で、こちらはたしかに長い治世ですね。

 また、皇子女の数の多さということで言及された桓武天皇は16皇子、19皇女、醍醐天皇は18皇子、18皇女をもうけたとあります。数だけで言えば、大変お盛んだった嵯峨天皇などはウィキペディアに掲載されている皇子女の名を数えるだけでざっと50人は下らない数ですが(笑)。ここは延暦・延喜と韻を踏んで並べたのでしょう。

 嵯峨天皇はあまり皇子女の数が多いため、身分の低い女性の子はどんどん臣下として源姓を賜ることになって、これがいわゆる「嵯峨源氏」の発祥ということになるようです。

 

 さて実資の『小右記』は、この敦成誕生百日目の祝いの宴の模様を次のように記録しています。

 

   今日、若宮の百日。・・・盃酌、頻りに巡り、既に酩酊に及ぶ。・・・斉信卿を陪膳と爲す。打敷を執り、午前に進む。而るに右大臣、座を離れ、更に打敷を取り替へて、陪膳を奉仕す。未だ其の由を知らず。満座、目を属す。泥酔の気有り。・・・・令有りて、左代弁行成卿、硯を執る。近くに進み、和歌を書かんと欲するに、帥、紙筆を乞ひ取りて序題を書く。満座、頗る傾き奇しむこと有り。帥、丞相に擬す。何ぞ輙(たちま)ち筆を執るや。身、亦、忌諱有り。思ひ知らざるに似る。大底、無心か。源中納言俊賢卿、同じく斯(こ)の旨を談ず。更に亦、左大弁を以て和歌を書かしむ。左大臣、御酒を供し、退帰す。御盃を以て酒台(しりざら)の机に置く間、顚仆(てんとう)す。上下、目を属(しょく)す。酔気の致す所か。・・・其の後、左府、天気を候ず。即ち御製有り。相府、御前に進み、仰せを奉(うけたまわ)り、伝へ書かしむ(左大弁。)。相府、御返しを献ず。頗る思ふ所有り。親王、後ろに向かふ間、小選(しばら)くして、主上、入御す。・・・

 

   今日、若宮(敦成親王)の百日(ももか)の儀が行なわれた。・・・盃酌が頻りに巡り、すでに酩酊に及んだ。・・・(藤原)斉信卿を給仕とした。敷物を執って、午前に進んだ。ところが右大臣(藤原顕光)が座を離れ、さらに敷物を取り替えて、給仕を奉仕した。いまだその理由を知らない。一同は目を向けた。泥酔の様子が有った。・・・命令が有って、左大弁(藤原)行成卿が硯を執った。近くに進んで、和歌を書こうとしたが、帥(藤原伊周)が紙を筆を乞い取って、序題を書いた。一同はとても傾き怪しむことが有った。帥は自分を大臣になぞらえた。どうしてたちまち筆を執ったのか。身にはまた、忌諱(きき)が有る。思い知っていないようなものである。おおよそ分別がないのか。源中納言(源)俊賢卿も、同じくこのような趣旨を談(かた)った。さらにまた、左大弁に和歌を書かせた。左大臣(藤原道長)は一条天皇に御酒(みき)を供そうとした。ところが、天皇の御盃を給わるという意向を得た。・・・右大臣は御酒を供して退いた。御盃を酒台(しりだい)の机に置いた際、顚倒した。上下の者は目を向けた。酔気の致したところか。・・・その後、左大臣は天皇の意向を承けた。すぐに御製が有った。大臣は午前に進んで、仰せを聞き、伝えて書かせた<左大弁。>。大臣(道長)は御返歌を献上した。とても思うところが有った。親王が後ろに向かった頃、しばらくして主上(一条天皇)が入御した。・・・(倉本一宏編 小右記 角川ソフィア文庫 寛弘五年 1008 1220日 敦成親王百日の儀/伊周序題を書く)

 

 倉本一宏さんは、この「序」について、こう述べています。

 

  一条には敦成の他にも皇子女が多く存在することをアピールしたうえ、「隆周」というのは、道()・伊()父子を意識したものであろうし、「康なるかな帝道」のうちの「康」は、敦()の名に通じる。これは敦成の誕生を祝う宴において、藤原定子所生の皇子女、特に第一皇子である敦康の存在を皆に再確認させようとした、伊周のパフォーマンスだったのである。(前掲書 p249)

 

 たしかにこれまで伊周がやってきたことを考え、いま彼のおかれている立場を考えれば、非常にきわどいリスキーな行動だったと思いますし、実資や俊賢が思っているように軽率極まりない行動だとも言えるでしょう。しかし、私は倉本さんの解説を読んで、逆に伊周はそんなことは承知でやっているので、周囲の反応も道長の反応なども読み切って、自分がどうしても言わなくてはならないことを言っておく、という思いで書いたものであって、よくもこんな風に巧みな文章にまとめあげたものだと、やはりその才には舌を巻く気持ちのほうが強かった。

 

 実資はかなり手厳しい言葉で語っていますが、道長の『御堂関白記』では天皇に盃をいただいたことには触れているけれど、伊周の行動や序については何も書いていないし、良成の『権記』にも天皇の盃を賜り、歌の唱和をして天皇は還御された、といったごく簡単な記述しかありません。それぞれの立場でしょうね。

 

 なお、紫式部はその日記で、敦成親王誕生五十日の祝いの日のことは事細かに書いていて、参加者たち一人一人の酩酊ぶりをあからさまに描いていたりして、そういう意味での面白さはそちらのほうがずっと面白いけれど、ここでは伊周の書いたものを追って、敦成誕生百日の祝いでの事件にたどり着いたので、それにはこれ以上触れないことにします。百日は「ももか」の祝い、五十日は「いか」の祝いとして、盛大にやったようですね。

 

 ところで伊周が敦成親王誕生百日の祝いに書いた「序」の一部(前掲の序の「隆周之昭王穆王~我君又胤子多矣」の部分)は、その後、平安朝の朗詠常用曲のひとつとなったようです。ウェブサイトで偶々みつけた青柳隆志氏の「平安朝の朗詠常用曲」(https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/56553/files/JLL_15-29.pdf)によれば、「隆周之昭王穆王」の朗詠記録は次のとおりだそうです。

 

 朗詠の場に記された「三夜産養」「五夜産養」「九夜産養」は、それぞれ皇子女の誕生3日目、5日目、9日目の「うぶやしない」の祝い。「殿上淵酔」(てんじょうえんずい)というのは、「正月や五節の大礼などのあと,清涼殿の殿上に天皇が出席し,蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。正月の場合は2日,3日中の吉日を選んで行われた。」(出典:コトバンク)ものだそうです。「清暑堂」は平安京大内裏内の殿舎。豊楽殿の北、不老門の南にあり、古くは大嘗会五節 が行われた。」(出典:goo辞書)ということです。「五節淵酔」は、「(『淵酔』は深く酔う意五節第二日の寅の日に殿上で催す宴会。公卿・殿上人などが、朗詠・今様などをうたい、酒三献(さんこん)の後、乱舞がある。」(出典:コトバンク)とのことです。

 

およそ、そういう場での宴の際に朗詠されたんでしょうね。もともと伊周の書いた序は皇子の誕生を寿ぐ文ですから、それにふさわしい内容だったので、その種の朗詠曲として定番化されたのでしょうね。青柳さんによれば、主として皇子の誕生を寿ぐ場で朗詠された、とされています。最初が康和五年(1103)宗仁親王の五夜産養だったそうです。

 

西暦

朗詠の場

朗詠者

西暦

朗詠の場

朗詠者

1103

五夜産養

藤原宗忠

1178

三夜産養

藤原師長

1118

殿上淵酔

藤原伊通

1178

九夜産養

源 資賢

1124

三夜産養

藤原為隆

1187

作文

藤原公時

1124

九夜産養

藤原為隆

1190

五節淵酔

藤原定能

1139

三夜産養

藤原伊通

1191

五節淵酔

藤原隆房

1168

清暑堂

藤原宗家

 

 

 

 

 伊周の序がけっこう不穏な意図を込めたものであったこととは関係なく、おもてむきの文字通りの皇子誕生寿ぎの曲として継承されていったのは面白いですね。

 

 いまのところ私が伊周の書いたものを手近で見つけられないか、と手持ちの本やネットやら何やら探してみつけたのは以上でした。



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2024年05月22日

昨夜は夕餉の記録も忘れ・・・

 昨日は「きょうの夕餉」の写真を撮ってスマホからPCへ送りながら、処理するのもアップするのもすっかり忘れて…何をしていたんだろう?と考えてみると、昨日はパソコンを新しいパソコンが月末には届くようなことを長男が言っていたので、いまのPCがなんとか起動するうちに必要なファイルをバックアップしておこうと思って、ファイルの選別やら外付けHDへのコピーやらを昼間やっていたつづきで、食後もそんなことをしていたのですね。

 PCは、一度電源オフするとなかなか立ち上がらないので、朝一度付けたらずっとオンにしてあるのですが、処理速度は極端に遅くなっているので、画像なんかをコピーするのはものすごく時間がかかります。新しいPCに丸ごとコピーするようなソフトがあるのは知っていますが、いらないファイルもいっぱいあるので、この際、最小限必要なものだけ残して、新しいPCにはできるだけ最小限のファイルしか移さずに、外付けHDに入れておこうと考えているものだから、けっこう選別とコピーに時間がかかる、ということを以前にPCを替えたときのことを思い出して、そういえば大変だったな、といまさらのようにうんざりしています。もう残しておかなければいけないようなドキュメントも写真等もほとんどないのですが、やっぱり何かやっていて参照したくなったときに何もかも消去していたら困るかな、いやかえってさっぱりとあきらめがついていいかな、とか迷いますね。

 そんなわけで、何十年もPCを使っているうちに、外付けHDがいっぱいたまってしまいましたが、こんなもの残されたら息子たちも迷惑するでしょうね。そのまま捨てるには個人情報など入っているかもしれないし、全部完全に消去するなり、破壊してしまわないといけないでしょうから、自分がそれをやれるうちに始末しておかないと、とは思うのですが、そういう過去のものの処分というのは生産的な感じがしないので、限られた時間をそういうのに使うのがなんとなくおっくうで、ついつい先延ばしになってしまっています。

 さすがに女子大にいたときの学生さん関連の情報はほぼ文書はシュレッダーにかけて廃棄、デジタルな情報は古いPCはHDまで露出させたうえで物理的にHDを破壊したり、DVDにコピーされていたものはDVDを物理的に破壊したりして、ほぼ抹消したと思いますが、それでも古いものがどこかに結構たくさんかためて残っている可能性があるけれども、もう半地下倉庫や押し入れの奥の整理箱に入っているようなのは、それを取り出して選別するだけの体力がなくなってしまいました。

 あるとき家の電気系統なのかガスや水道なのかわからないけれど、機能系の配管がとおっていて点検するためらしい、半地下の点検孔(ほんとうは地下室なんかではなくて、土がむき出しの単なる点検のための隙間と言っていい空間)を物置きに使えるというので、プラスチックの下に敷くものを入れて、そこにプラスチックの大きな整理箱など入れて、本やらメモリーに類する古玩具などを入れていたのですが、ふえるばかりだし、だんだんこちらの体力が、それらを取り出すこともできないくらい弱ってくるのが目に見えて予測できたので、中身だけほとんど全部取り出したことがあります。

 それは正解でした。いまではもうあんなところへしゃがみこんで入って、なにか重いものを取り出すなんてことは体力的に全然できなくなっています。大事なものは何もなくて、子供の古い玩具とか、息子たちがいらなくなってほうりこんだ学校で使った参考書やプリントみたいなものだとか、もう誰も使わなくなった、そのときそのときの自分たちのはやりのもの(釣り道具だとか)を放り込んである、文字通りの物置気変わりに過ぎないので、もう使うこともないでしょう。日本の庶民の家屋は「ウサギ小屋」と欧米人に揶揄されたように、狭小で、とくに収納スペースが乏しいので、こういう空間が少しでもあると、つい物を放り込んで、いつのまにか、取り出せなくなるくらいわけのわからないものでいっぱいになってしまうのですね。

 デジタルな情報だって同じで、いくら物とは違ってかさばらないと言っても、どんどん記憶装置に放り込んでいくと収拾がつかないことになってしまいます。今度はそれをどう完全に消去するかが大きな問題です。私が使っているセキュリティソフトでは、ファイルをある簡単な消去の指示だけで、消去した上に、7回も上書きして、完全に再生できないようにしてしまう、という機能がついているらしいので、個人情報の類があれば、それで消去するのがよさそうです。なんだかスパイ映画の話みたいですが、消去してもいまはかなり再生してしまうような技術もあるようですから、それくらい徹底しないと個人情報が守れないんだそうです。

 まぁそれ以前に外部と色々通信して情報を発信したりしていれば、それを管理する組織やシステムのほうに、それだけの万全なセキュリティ対策が施されているかどうかもよくわからないし、非常に高度なセキュリティシステムをもっていても、その防御を破られたり、公権力の重要な情報などになると、防御も高度なら破ろうとする側も高度な技術で攻めるのでしょうから、いたちごっこで、どっちみち完全ということはないのでしょう。

 我々ごく普通の庶民の場合はいろいろ個人情報を盗まれれば、その被害者にとっては非常に大きな被害を被る可能性があるけれど、加害者の側にはそんな任意の一人の市民の個人情報を盗むことによる利益はそのリスクや労力のわりに小さなものでしょうから、ひととおりの基礎的なセキュリティ対策がほどこしてあるなら、確率的にはめったにそういう災難に遭わずに済んでいるということなのかもしれません。

 さて、前置きが長くなりましたが、昨日の夕餉・・・メモもなくしてしまったので、正確じゃないかもしれませんが・・・基本的には長男が一緒だった一昨日のメニューが多かったので、そののこりを中心にしたものでした。

☆鶏肉、ゴボウのから揚げ
 鶏肉とゴボウのから揚げ

☆ぶりのアラダキ
 ぶりのアラダキ

☆しらあえ
 シイタケ、ニンジン、キュウリ、スナップエンドウなどのしらあえ

☆ポテトサラダ2
 ポテトサラダ

☆ジャガイモのサラダ
 ジャガイモ(とチーズ、ピクルス、くるみ)のサラダののこり

☆モズク
 もずくキュウリ酢

☆スグキ
 スグキ

(以上でした)







saysei at 11:03|PermalinkComments(0)

2024年05月20日

自家製ハーブづくしのサラダ

☆ハーブづくしグリーンサラダ
 きょうの夕餉の華は、この自家製ハーブづくしのグリーンサラダ。私が種を撒いたプランター育ちのルッコラ、ディル、クレソンが立派に育ち、その間引きしたやつを中心に、あとは上賀茂の野菜から、ロメインレタス、タマネギ、キュウリ、ミョウガ、セロリを加えたグリーンサラダに、パクチー入りヨーグルトマヨネーズかもうひとつのオリーブオイルをきかしたふわふわソース(名前を忘れました)をつけていただきました。まだ成長しはじめたところですが、クレソンはクレソンらしい辛味があり、ディルはあの独特の味と香り、みんなバリバリ食べて飽きません。

☆冷製トマトバジルのパスタ
 料理のほうは、わが家の夏の定番、冷製トマトとバジルのパスタ。これに合うのはきまった細いパスタに限るようです。トマトは上賀茂の戸田農園さんがいま出している、甘くて酸っぱい、ちゃんとトマトの濃い味がする真っ赤なトマト。トマトをおろして残る皮ももったいないと、つくりながらパートナーガ皮を食べていました。なぜ戸田さんのトマトだけが、あんな味になるのか不思議です。

☆豚のホワイトワインポルチーニクリーム煮
 豚肉の白ワイン・ポルチーニ・クリーム煮。

☆サツマイモ、クルミのサラダ
 これも定番の、サツマイモ・チーズ・ピクルス・クルミのサラダ

☆バケット
 バケット(ブレドォルの)

(以上でした。)

IMG_3394
 きょう川端を通ったとき、川のへりの遊歩道を駆けていくおじさんがすぐそばを通っても全然動じずにサギが一羽佇んでいて、私の前をいく自転車のおばさんが驚いたように自転車をとめてサギを見ていました。

sagi
 けっこう大きなサギでしたから、突然そばで翼を広げて飛び立たれたら、こちらがびっくりさせられるでしょう。一度、お隣が鯉を飼っていた狭い生け簀みたいなところに大きなサギがきて、パートナーがわが家の今のガラス戸を開けたとたんに、驚いてバサバサッと羽音を立てて飛び立ったそうで、すぐ目の前だたので、「こちらが怖かったわよ」と言っていました。私も誰も他に訪れる人もない思い出のある寺へ自転車で訪ねていって、池を正面に見る座敷へ上がったとたんに、池の淵でどうやら鯉を狙ってきていたらしい大きなサギが、ザァーッと飛び立っていったのを目撃したことがあります。これくらいのおおきさになると、目の前で飛び立たれるとかなり迫力がありますね。でも、ほんとにあんなお寺の池で泳いでいる鯉を捕っていったりするんでしょうかね。鯉のほうも相当太っているから(笑)いくらサギが大きいといっても、その爪で鷲掴み、いや鷺掴みして飛んでいけるものかどうか・・・

高野橋から見た比叡
 きょうの比叡。きょうは先日写しておいた、藤原伊周が一条帝の第二皇子(道長の娘彰子のはじめての子)敦成親王誕生100日を祝う宴席で、強引に行成から筆と紙を取り上げて私的な思いをこめて書いた漢文の「序」の注釈でもないかと思って、府立大の図書館へ行ったので、鹿さんのいつもいるあたりは通らずに、左京区役所の前を通ってまっすぐ下り坂の道をひたすら西へ行ったら突き当りが府立大だという近道を通ったので、鹿さんたちの動向は不明です。

 めあての「序」を収めた『本朝文粋』の注釈書が一冊(上下ですが)あったので、伊周の「序」のところだけコピーしてきました。短い文章ですが、明日にでもゆっくり読んでみようと思います。原文自体は手元の抄本でも載っていたのですが、漢文だけで、こちらに逐一意味が理解できるような訳も注もなかったので、もう少し親切な解説がないかと思って探してみたのですが、古い本だけれど、ほぼ目的を達せそうな注釈本がみつかってよかった。大体の意味は分かっても、漢文の文章を逐一理解しようにも、ちょっと基礎教養がなさすぎで心もとなかったので・・・







saysei at 21:31|PermalinkComments(2)

2024年05月15日

日を一日勘違い

 なぜか昨日が15日だと勘違いして、賀茂祭にしては上賀茂神社周辺も静かだなぁ、と思い、もう午後も遅めの時刻だからかな、などと調べもせずに思って、そのまま疑いもせずに思い込んだところがコワイ(笑)。そろそろ認知症が始まっているんじゃないか、とこの齢になると、そんな危惧も頭をかすめます。パートナーは、「それは今に始まったことではないよ。若い頃からそうだった」!と言うのですが。

 昨日も、夕餉の食卓の写真を撮ろうとして、スマホがない、ない、と大騒ぎし、「どこで最後に使ったの?」というから、「家に帰ってからは撮っていない。ポケットは滑り落ちやすいから、いつも鞄に入れている」と答え、「かばんはよく見た?」と言われて、「もちろん!いつも全部中身をぶっちゃけて確かめるように云われているから、そうしたよ!でもなかった!」と言い切って、一所懸命ほかを探して、写真は一眼レフで撮って、夕食のときも、いやだなぁ、外で失くしたとすると、K察に届けないといけないし、面倒なことになるなぁ・・・と気がかりで、せっかくの好物の冷製トマト&バジルパスタや鶏肉のクリーム煮もいくぶんうわの空で食べました。

 パートナーが私のスマホ宛て電話をかけたり、メールを送って、受信通知音が家の中のどこかで聞こえないか、何度か試したのですが、私は働いていたときの習慣で、スマホは大抵マナーモードにするか、最小の音量にしているので、反応が無かったのです。

 で、いつも食べるのが早いパートナーが先に食べ終わって2階へ行ったのですが、それから3分もたたないうちに「ありました」。

 「エッ?どこに?と訊くと、「あなたのかばんの中です」(^^;

     「そんな馬鹿な、中身は鞄を逆さにして全部机の上に出して確かめたのに・・」と抗弁したのですが、やや縦に長いナップザック状の布かばんの底に近い内部の側面に、小さなポケットがつけられていて、どうやらスマホを放り込んだときに、そのポケットに滑り込んだらしく、おまけにティッシュが一緒に入っていたから、逆さにしてもスマホが滑り出さずにその小さなポケットの中にきっちり納まっていたらしいのです。上から覗いてもそのポケット口がぱっくり空いているわけでもないし、薄いスマホが滑り込んでいてもポケットが膨らんでいるようには見えないし、かばんは空っぽとしか思えなかったのです。

 結果的にはなくしていなくてホッとしましたが、こういう物探しに関しての無能ぶりをまたさらけ出して、一層信用をなくしました。こういうとき、私はすぐ「齢をとると・・・」と一言いいわけしそうになるのですが、「いいえ、あなたは若いころからそうでした!」とすぐに遮られ、断言されます。まぁ、そう言われればそうかも・・・と思わずにはいられないところが情けないけれど・・・

 だから曜日を間違えて、日曜日に夕刊がない!と言って見たり、ゴミ出しの火・金だと思って前日にせっせと自分のところのゴミをまとめて階下へ降りて、明日じゃないよ!と言われたりといったことは始終あるし、めったにない予定である病院の予約日や時刻も、DKの壁にかけてある書き込み用のカレンダーに大きな字で書き、2階の自分の作業スペースの目の前の壁に張った自作カレンダーにも記入し、毎日の簡単な記録と予定を書き入れる少し大きめの手帳にも書き入れ、スマホのカレンダーにも通知機能、予備通知機能もつけて記録しておかないと、その日をうっかり忘れたり、間違って思い込んでいたりすることが、わりと頻繁にあります。それが歳をとってからではなくて、若いころかららしい(笑)。

 記憶に関しては非常に記憶力が乏しいことは以前から気付いていましたが、とくに数字とか、人の名前とかはもう全然記憶していられなくなりました。(いや、以前からかもしれませんが・・・)このあいだ、少し書棚を整理していたら、大学づとめのときの写真などがまだ残っていたのが出て来たので、なんとはなしに眺めていて気付いたのは、もうよほど親しく一緒にコンパで飲んだり食事したりどこかへ行ったりしたような学生さんたちの名が、頭の中で出てこなくなっているということでした。さすがに顔はそういうよく接した人については覚えているけれど、名前が出てこない。これはいかん、と思って思い出しておかないと、そのまま二度と思い出せないかもしれない、と思って、あいうえお順に、アイダ、アエバ、アオキ、アオヤマ、・・・イイダ、イシダ、イソダ、イタミ、・・・ウ、ウア、ウイ、・・・と、ずーっと語感で思い当たる名がないか辿ってみて、ようやく思い出したり(笑)

 とくにファーストネームはいいけれど、ファミリーネームのほうは彼女らがおおむねすでに結婚して姓が変わっていて、それを賀状などで知らせてくれたりしているのが、もう全然わからなくなってしまっている、ということをあらためて思い知りました。去る者は日々に疎し。コロナのこともあって、リスクを避けてもう何年も誰にも会わずにいたせいもあって、実感的な絆のようなものが失われてきたことは、多かれ少なかれそうなってしまうだろうな、と自分で覚悟の上でのことなので、仕方ないところはあるのですが、それにしても、かくも見事なまでに記憶というのは失われるものなのか、と少々がっくりこなくもありません。

 始終過去の記録を振り返っているわけではないし、むしろここ数年はほとんどそういう機会もなくて、いつ逝っても悔いのないようにという思いもあって、パートナーをはじめ数人の家族と接しながらあとは自分の作業場で読んだり書いたりするだけの日常を過不足なく愉しみとしてきたので、その分、それ以外のこと、それ以外の人たちとの実際的な関わりはもちろんのこと、意識するしない、思い出す、出さないといった記憶の世界の心理的な絆も、ごく淡く細いものになってしまっていることは事実です。

 あまり人と喋ったり、直接会ったりする機会がないと、刺激が乏しくなって早くぼけるよ、と言われていると思いますが、たしかにそういうところはあるかも知れません。刺激はごく乏しくなっていることは確かですし、むしろ避けてきたと言っていいでしょう。それでもまあパートナーガテレビやスマホから入って来る新しい世間の情報を伝えてくれるのを聞き、二人であれこれそのことをしゃべり、一人のときは書物から新たな刺激をもらい、書くことで自ら刺激をつくり、といったことで、この齢にまずまず相応しい程度の刺激がないわけじゃないんだろうと思っています。たとえ平安時代の古典でも、自分にとって新鮮な情報や考え方であれば、非常に新鮮な刺激になり得るし、それをきっかけになにか感情をかきたてられたり、考えたり、書いたりできれば、それはそれで能動的な刺激を自ら作り出して脳細胞を少しは活性化しておけるのではないでしょうか。

 そういえば最後まで生きている友人の中では一番親しくつきあってきた友人とも、考えてみるともう4,5カ月何の連絡も互いにしていないな、と思い当たりました。これまでは間があいても、だいたい2,3カ月に一度くらいは近況報告を兼ねてメールを出したり、なにかそれまでに書き溜めたものを送ったり、あちらからもどこかに書いた論文やエッセイを送って来て、それに感想を書いたりしていたのですが、それも次第に間遠になってしまっています。まあ便りのないのは元気でいる証拠、みたいに感じているところもあるのでしょうが、そうこうするうちに、いつのまにか居なくなってしまう、というのが私たちの世代の差し掛かっている年頃ですから、そろそろ近況でも伝えて、あちらの様子もうかがってみようかな、と思っていたところです。

 ひとつには、こんなことを考えていても、なにかひとつ別のことを考えはじめたり、読み始めたりすると、だいたい何をやってもスローペースで時間がかかるので、もうほかのことを意識する間もなく一日が終わってしまって、何をしようと思っていたかも忘れてしまって、また翌日がくる、というような具合いなので、先へ先へのばしているうちに、一週間、一カ月、半年、とすぐに経ってしまいます。  

 それは不幸なことではなくて、平穏無事に、なにも切実な切羽詰まったやらなくてはならない事などなく過ごしていられる、幸せな状態なのかもしれません。

 わたしがいまだにたまに見るいやな夢は、たいてい大学の前に勤務していたシンクタンクで仕事をしていて、締め切りをとうに過ぎて、まだ報告書の原稿が白紙のまま書けないで焦っていたり、クライアントにどう言い訳しようかと悩んでいるような夢で、時限を切られてそれまでにやらなくてはならない(対価を得るために)仕事というのをつねにかかえていることのストレスというのが、いかに人間の心を深く痛めつけ、のちのちまで記憶から払拭することのできない傷を負わせるか、ということを如実に証明していると思います。生計を立てるためにする仕事というのは、ほとんどがそういうものですね。夢の世界はともかく、現実世界ではそんな仕事から解放されて、ほんとうに幸せだったと思います。仕事をなんだかんだと美化して勤労を称えるような言辞は、みな資本家たちの自分たちに都合のよい策略であり陰謀である(笑)という気さえします。

 話はかわりますが、一昨日長男が夕食をともにしに来た折に、私のパソコンが故障していることを聞いていたので、私の誕生日祝いにプレゼントしようかと言ってくれたので、息子にそんなことさせるのも申し訳ないなと思いはしたのですが、パートナーも買ってもらい!買ってもらい!と言うので(笑)、お言葉に甘えさせてもらうことにしました。

 6~7万もあればそこそこのが買えるだろうと言うので、そんな高級なのを考えてはいなかったし、いま置く場所も狭いので、デスクトップで一体型希望ということだけ言って、特別な機能も要らないし、中古で2ー3万円代くらいのを買おうと思っていたので、安いのでいいから、と言っておいたら、適当にみつくろっておく、ということでした。

 しかし、昨日早速、すでに発注したと連絡してくれました。ただ注文生産?だったか何だったかの業者のほうの事情で、商品が届くのは月末になるとのこと。もとより、いま使っているパソコンも、10回くらい電源をon/offしていると、そのうちに起動してくれて、いま文章を打っているこのとおり、いったん立ち上がれば、5時間スリープしないように設定しておけば、そのあいだはずっと使えるので、特段の不便はありません。

 この齢になっても、あたらしいパソコンというのはちょっとワクワクするところがあります。色々アプリとかアンチウィルスだとか、設定、導入に時間がかかるでしょうが、それもひとつひとつやっていって、使いやすい自分のマシンになっていくのが楽しみです。
 こんどは私自身よりもパソコンの寿命のほうが確実に長いでしょうから(笑)、もう故障に悩まされることもないでしょう。セキュリティ関係のアプリの中には有効期限が3年後くらいのがありますが、まあそのほうが割安だと思って購入するのですが、まてよ、3年後まで自分が生きている可能性はあるのかな(笑)と考えると、いやぁ、とりあえず1年契約にしといたらよかったなぁ、とか思うことがあります。
 こればっかりは、損したことになるか、いやこうしておいて良かった、と思えることになるのか、先は分かりません。

 ところで賀茂祭(葵祭)は本日15日で、500人ほどの平安時代の装束を纏った人たちの行列が、午前10時半ころに御所の建礼門を出て、河原町通りを北上して下鴨神社に11時40分到着、いまごろはそこで神事を済ませて昼の休憩をしているのでしょうか。下鴨神社を出るのが午后2時20分の予定で、賀茂川西岸の街道を北上して御園橋を渡って上賀茂神社の境内に到着するのが午后3時30分頃の予定だそうです。そう言えばそういう時間の使い方でしたね。ようやく前に行列を見た時のことを思い出しました。

 上賀茂神社で神事があり、境内の芝生で見物するための初穂料が1000円だそうで、二ノ鳥居の内での見物には5000円要るそうです。

 境内に入ってからすべてが終るまでけっこう長くかかるみたいで、終了は午后6時の予定だとの事。以上はネットで検索したら出てきました。



saysei at 12:21|PermalinkComments(0)
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