2024年04月
2024年04月30日
影を斬る
昔々、「影を斬る」というなかなか面白い時代劇を見て、最後に主人公が相手の武士と一対一の真剣勝負をする際に、太陽に向かう不利な位置を取りながら、柳生直伝の「影を斬る」秘伝で相手を斬るという結末が印象的でした。それに至る経緯は全部忘れていますが(笑)、ちょっと変わったこのタイトルと、たしか主演が市川雷蔵だった(はず)というのだけ記憶していました。
先日偶然プライムビデオで時代劇を検索していたら、まさに「影を斬る」というタイトルで、市川雷蔵主演の映画があったので、これこれ、と思ってそれまで敬遠していたカドカワチャンネルとかいう14日間無量でみたい放題、そのあと毎月課金というシステムで、とりあえず無料でみられるシステムにのっかってこの作品を見たのです。
ところが、最初からどうもおかしい。これは時代劇には違いないのですが、どうやらお笑いというのか、舞台は江戸時代の仙台藩青葉城で、みなちゃんとした武士の姿で登場するのですが、殿さまも主人公も現代人みたいにぐーたらで精神がたるんだ武士で、殿さまは将軍家の姫君を妻に迎えて、この妻に頭があがらないし、主人公は剣術指南役ながら夜ごと酒を食らい、女を抱くプレイボーイの日々で、剣の腕前のほうはさっぱりで、他流試合に来る武士にはいくばくか賂を渡して負けてもらって帰すという人物。これに藩の家老の娘が嫁ぐことになり、借金ばかりふえて困っていた主人公は渡りに船と承諾、ただしその娘がつけた条件がまず自分と立ち会って、彼が勝てば妻になるが、逆の場合は武者修行に出ることが条件。立ち会うとそのご息女のなぎなたの腕は並大抵でなく、主人公はふっとばされてしまいます。仕方なく江戸へ武者修行に出掛けた主人公でしたが、江戸でも修行そっちのけで飲むは抱くはの毎日。1年たってなにあの時は油断があったからで、今度は大丈夫と再び立ち会いますが、今回も自分のほうがノックアウトされ、再び江戸へ。それでも懲りない色男はまた同じ毎日を過ごすのですが、そこへ妻そっくりの芸者が現われ、初めは驚いた主人公もその美しさと心根に惹かれて、一時は妻ではないかと仙台のわが屋敷迄戻ってみますが、道場で女たちを相手になぎなたのトレーニングを指導しているのはまぎれもなく妻で、やはり別人かと江戸へ取って返し、妻に似て妻よりも心根のやさしいこの女に求婚し・・・という風なお話で、私が見て記憶している作品とは似ても似つかない、滑稽話で、最後は彼が本気で修行して三度目の勝負で妻を破り、無事二人は結ばれる。実はやはりあの芸者は妻だったけれど、それを主人公はとうに知っていて、妻や周囲の主人公の事を思う人たちの気持ちを察して、それに応えるに至る、という、まぁ人情ものでもあったわけです。
これはこれで面白かったけれど、面白いということの中身が全然私の記憶していた映画とは違っていたので、ちょっとがっかり。「影を斬る」という別の作品がほんとうにあったのか、なかったのか、いまではよく分からなくなりました。色々検索して調べて見たけれどそれらしい作品に行き当たらないのです。
しかし今日見たこの作品も、市川雷蔵が主人公で、その妻および芸者の二役が嵯峨美智子で、この嵯峨美智子がめちゃめちゃ綺麗で魅力的でした。昔からあれこれの映画で見てそれはわかったいましたが、このような軽い作品でも、きちっと居住まいをただして登場する彼女はほんとうにほれぼれするほど綺麗。目を見ていると引き込まれてしまいそうでした(笑)。まあ、嵯峨美智子のこんな素敵な表情が見られただけで、この軽い軽いチャンバラものを見た甲斐がありました。
今日の夕餉

アボガド豆腐

ブロッコリ、シイタケ、ベーコン入りマカロニ・チーズグラタン

茄子の揚げびたし

砂肝のタマネギ、パクチーサラダ

ブタの角煮、ジャガイモ、卵、スナップエンドウ

ホウレンソウのおろしポン酢
(以上でした)
きょうは「帰郷」の第18章をエブリスタにアップしました。つなぎの章ですが、むしろそういうところのほうが難しくて難渋していました。ストップしてしまえば、それきりになるのがこれまで繰り返してきたパターンなので、どんなにひどいものになっても、そのときに書けることを書き継いでいくしか仕方がないということで、とにかく書いてしまって、いつか振り返りましょう、と。毎日食ったり飲んだりして排泄をくりかえすように・・・それにしては排泄の間隔がどんどん伸びているけれど(笑)
先日偶然プライムビデオで時代劇を検索していたら、まさに「影を斬る」というタイトルで、市川雷蔵主演の映画があったので、これこれ、と思ってそれまで敬遠していたカドカワチャンネルとかいう14日間無量でみたい放題、そのあと毎月課金というシステムで、とりあえず無料でみられるシステムにのっかってこの作品を見たのです。
ところが、最初からどうもおかしい。これは時代劇には違いないのですが、どうやらお笑いというのか、舞台は江戸時代の仙台藩青葉城で、みなちゃんとした武士の姿で登場するのですが、殿さまも主人公も現代人みたいにぐーたらで精神がたるんだ武士で、殿さまは将軍家の姫君を妻に迎えて、この妻に頭があがらないし、主人公は剣術指南役ながら夜ごと酒を食らい、女を抱くプレイボーイの日々で、剣の腕前のほうはさっぱりで、他流試合に来る武士にはいくばくか賂を渡して負けてもらって帰すという人物。これに藩の家老の娘が嫁ぐことになり、借金ばかりふえて困っていた主人公は渡りに船と承諾、ただしその娘がつけた条件がまず自分と立ち会って、彼が勝てば妻になるが、逆の場合は武者修行に出ることが条件。立ち会うとそのご息女のなぎなたの腕は並大抵でなく、主人公はふっとばされてしまいます。仕方なく江戸へ武者修行に出掛けた主人公でしたが、江戸でも修行そっちのけで飲むは抱くはの毎日。1年たってなにあの時は油断があったからで、今度は大丈夫と再び立ち会いますが、今回も自分のほうがノックアウトされ、再び江戸へ。それでも懲りない色男はまた同じ毎日を過ごすのですが、そこへ妻そっくりの芸者が現われ、初めは驚いた主人公もその美しさと心根に惹かれて、一時は妻ではないかと仙台のわが屋敷迄戻ってみますが、道場で女たちを相手になぎなたのトレーニングを指導しているのはまぎれもなく妻で、やはり別人かと江戸へ取って返し、妻に似て妻よりも心根のやさしいこの女に求婚し・・・という風なお話で、私が見て記憶している作品とは似ても似つかない、滑稽話で、最後は彼が本気で修行して三度目の勝負で妻を破り、無事二人は結ばれる。実はやはりあの芸者は妻だったけれど、それを主人公はとうに知っていて、妻や周囲の主人公の事を思う人たちの気持ちを察して、それに応えるに至る、という、まぁ人情ものでもあったわけです。
これはこれで面白かったけれど、面白いということの中身が全然私の記憶していた映画とは違っていたので、ちょっとがっかり。「影を斬る」という別の作品がほんとうにあったのか、なかったのか、いまではよく分からなくなりました。色々検索して調べて見たけれどそれらしい作品に行き当たらないのです。
しかし今日見たこの作品も、市川雷蔵が主人公で、その妻および芸者の二役が嵯峨美智子で、この嵯峨美智子がめちゃめちゃ綺麗で魅力的でした。昔からあれこれの映画で見てそれはわかったいましたが、このような軽い作品でも、きちっと居住まいをただして登場する彼女はほんとうにほれぼれするほど綺麗。目を見ていると引き込まれてしまいそうでした(笑)。まあ、嵯峨美智子のこんな素敵な表情が見られただけで、この軽い軽いチャンバラものを見た甲斐がありました。
今日の夕餉

アボガド豆腐

ブロッコリ、シイタケ、ベーコン入りマカロニ・チーズグラタン

茄子の揚げびたし

砂肝のタマネギ、パクチーサラダ

ブタの角煮、ジャガイモ、卵、スナップエンドウ

ホウレンソウのおろしポン酢
(以上でした)
きょうは「帰郷」の第18章をエブリスタにアップしました。つなぎの章ですが、むしろそういうところのほうが難しくて難渋していました。ストップしてしまえば、それきりになるのがこれまで繰り返してきたパターンなので、どんなにひどいものになっても、そのときに書けることを書き継いでいくしか仕方がないということで、とにかく書いてしまって、いつか振り返りましょう、と。毎日食ったり飲んだりして排泄をくりかえすように・・・それにしては排泄の間隔がどんどん伸びているけれど(笑)
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2024年04月29日
『蜻蛉日記』を読む ⑥
『蜻蛉日記』の作者道綱の母にとって、おそらくは生涯最大のイベントであり、この作品のハイライトでもあるのは、鳴滝参籠でしょう。
幼いころから結婚以前の娘時代までのことなどは何も伝わっていないので不明ですが、少なくとも19歳で兼家に嫁いでからの彼女は、与えられた屋敷で侍女たちにかしずかれながら、ひたすら兼家の訪れを待つ二号さんの身ですから、せいぜい体調のよくないときにしばらく山寺で過ごしてみたり、石山寺詣に出掛けたり、初瀬詣に(2度)出掛けたり、気晴らしに唐橋へ行ったり、賀茂祭の見物に出掛けたりすることが、数少ない非日常的なイベントであったに違いありません。
この日記では兼家との関係に揺れ動く作者の心を率直に表現することが中心になっているので、心のうちの喜びや悲しみの起伏がクローズアップされるように前面に出て来ていますが、その日常生活を想像すると、物質的には何不自由ない環境を与えられて兼家の訪れを待ち、彼が来ればお相手をするということが「仕事」ですから、自分の意志でほうぼうに出掛けたり、なにか新たなことを始めるということもほとんどない、起伏に乏しい、そう言ってよければ外見上は平穏無事な日常生活であったでしょう。
この日記では兼家との関係に揺れ動く作者の心を率直に表現することが中心になっているので、心のうちの喜びや悲しみの起伏がクローズアップされるように前面に出て来ていますが、その日常生活を想像すると、物質的には何不自由ない環境を与えられて兼家の訪れを待ち、彼が来ればお相手をするということが「仕事」ですから、自分の意志でほうぼうに出掛けたり、なにか新たなことを始めるということもほとんどない、起伏に乏しい、そう言ってよければ外見上は平穏無事な日常生活であったでしょう。
作者の内面世界にとっては疾風怒濤のごとき苦しみ、悲しみ、煩悶の日々であったかもしれませんが、兼家との関係にしても、少なくとも外見上は、つまり世間の人々の目には、長く連れ添う安定した夫婦に見えたであろうことは、内面に嵐を孕むかのような作者自身も自覚しています。
思ひもしるく、ただひとり臥し起きす。おほかたの世のうちあはぬことはなければ、ただ人の心の思はずなるを、われのみならず、年ごろのところにも絶えにたなりと聞きて、文など通ふことありければ、五月三四日のほどに、かくいひやる。
そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらむ
返し、
真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそこ (p139)
(思ったとおり、ひとりぼっちで日を暮らす。世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはないので、ただひとつ、あの人の心がわたしの望むところとくい違っていることだけが、どうにもならないのだが、わたしばかりでなく、年来のお方(時姫)の所にもすっかり途絶えてしまったらしいと聞いて、これまでも手紙などやりとりしたことがあったので、五月三、四日ごろに、こんな歌をおくった。
あの人は、あなたさまのもとへも訪れなくなったそうですが、いったいどんな女の所に居ついているのでございましょうか。
返歌、
あの人が寄りつかぬというのは私の所のこと、居ついているのはあなたさまの所とか伺いましたが)
これは天暦10年5月ころのやりとりです。作者は21歳、兼家と結婚してまだ2年ですが、彼はもう「町の小路の女」にぞっこんで、公然と通うまでになっていて、3月の桃の節句にも作者のところには帰って来ようともしなかったのでした。それでも「世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはない」し、作者自身もそれはよく分かっています。
かくて、人憎からぬさまにて、十といひて一つ二つの年はあまりにけり。されど、明け暮れ、世の中の人のやうならぬを嘆きつつ、つきせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうは、夜とても、人の見えおこたる時は、人少なに心細う、いまはひとりを頼むたのもし人は、この十余年のほど、あがたありきにのみあり、たまさかに京なるほども、四五条のほどなりければ、われは左近の馬場をかたきにしたれば、いとはるかなり。かかるところをも、とりつくろひかかはる人もなければ、いと悪しくのみなりゆく。これをつれなく出で入りするは、ことに心細う思ふらむなど、深う思ひよらぬなめりなど、ちぐさに思ひみだる。ことしげしといふは、なにか、この荒れたる宿の蓬よりもしげげなりと、思ひながむるに、八月(はづき)ばかりになりにけり。(p182-183)
(こんなふうにして、一見なじみあっている夫婦といった状態で、わたしたちの結婚生活は十一、二年が過ぎた。けれども、内実は、明け暮れ、世間の人並みでもない身の不幸を嘆きながら、尽きせぬ物思いをしつづけて暮らしているのだった。それもそのはず、わが身のありさまといったら、夜になってもあの人が訪れてこない時には、人少なで心細く、今ではただひとり頼みにしている父は、この十年あまり受領として地方まわりばかりしていて、たまに京にいる時も四五条あたりに住んでいたし、わたしの家は左近の馬場(一条西洞院)の横にあったので、ずいぶん隔たっている。こんな心細いありさまで暮らしている家を、修理し世話してくれる人もいないから、だんだんとひどく荒れてゆくばかりである。これを平気であの人が出入りしているのは、わたしがひどく心細く思っているだろうとは、たいして気にかけていないらしいなどと、さまざまなに思い乱れる。用務繁忙でと言っているのは、なにさ、この荒れたわが家に生い茂っている蓬よりも多そうな口ぶりだと、物思いに沈んでいるうちに、八月ごろになってしまった。)
これは康保三年五月から八月にかけて、作者31歳のころです。結婚したてのころから、道長の行動は全然変わっていないし、それに振り回される作者の気持ちのありようも、ほとんど変わってはいません。
しかし、世間的には「人憎からぬさまにて(一見なじみあっている夫婦といった状態で)」十一、二年をすごしてきていること、「おほかたの世のうちあはぬことはなければ(世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはないので)」という状態であることは作者も重々わかっています。しかし、それによって、内心の煩悶は鎮まるどころか、ますますその外見上の平穏と大きく乖離し、兼家が作者のところを訪れても、喜んでいい顔で迎えるどころか、門を閉ざして入れなかったㇼ、入れても口をきかなかったり、口をきけば嫌味を言ったり、言葉を交わせばつまらぬことで互いが機嫌を損ねたり、といったことの繰り返しになって、益々自分自身を追い詰めてしまいます。
しかし、世間的には「人憎からぬさまにて(一見なじみあっている夫婦といった状態で)」十一、二年をすごしてきていること、「おほかたの世のうちあはぬことはなければ(世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはないので)」という状態であることは作者も重々わかっています。しかし、それによって、内心の煩悶は鎮まるどころか、ますますその外見上の平穏と大きく乖離し、兼家が作者のところを訪れても、喜んでいい顔で迎えるどころか、門を閉ざして入れなかったㇼ、入れても口をきかなかったり、口をきけば嫌味を言ったり、言葉を交わせばつまらぬことで互いが機嫌を損ねたり、といったことの繰り返しになって、益々自分自身を追い詰めてしまいます。
そんな気持ちが極まった天禄二年三月、かねてそうしようと考えていた「長精進」を初めることにし、息子の道綱にも同道するように言って、準備を始めます。20日ほど勤行に努め、仏に祈るものの、その心はこんなふうです。
われはた、初めよりもことごとしうはあらず、ただ土器(かはらけ)に香うち盛りて、脇息(けふそく)の上に置きて、やがておしかかりて、仏を念じたてまつる。その心ばへ、ただ、きはめて幸ひなかりける身なり、年ごろをだに、世に心ゆるびなく憂しと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ、とくしなさせたまひて、菩提かなへたまへとぞ、行なふままに、涙ぞほろほろとこおるる。あはれ、今様は、女も数珠ひきさげ、経ひきさげぬなし、と聞きし時、あな、まさり顔な、さる者ぞやもめにはなるてふなど、もどきし心はいづちかゆきけむ。夜の明け暮るるも心もとなく、いとまなきまで、そこはかともなけれど、行なふとそそくままに、あはれ、さいひしを聞く人、いかにをかしと思ひ見るらむ、はかなかりける世を、などてさいひけむ、と思ふ思ふ行なへば、片時涙浮かばぬ時なし。人目ぞいとまさり顔なく恥づかしければ、おしかへしつつ、明かし暮らす。(p255-256)
(わたしは、初めから大げさではなく、ただ土器に香を盛って脇息の上に置き、そのまま寄りかかって、み仏に祈りを捧げる。その趣は、ただ、この上なく不幸な身でございます、今までの長い年月でさえ、すこしも気の休まる時とてなくつらいと思っておりましたが、今ではいよいよこのようにあきれるほどの夫婦仲になってしまいました。早く仏道を成就させ、煩悩を解脱させてください、というふうに、勤行をしながら、涙がぽろぽろとこぼれる。ああ、当節は女でも数珠を手にし経を持たぬ者はいないと聞いた時、まあ、みじめたらしいこと、そんな女にかぎって寡婦になるというのに、などと悪口を言った、あの気持はどこへ消え失せたのだろう。夜が明け日が暮れるのもじれったい思いで、余念なくーそうしてみても、どうなるのか、はっきりしためやすもないけれどもー勤行に精出しながら、ああ、あんなふうに言ったのを聞く人は、どんなにかおかしいと思って見ていることだろう、今にして思えばはかない夫婦仲だったのに、どうしてあんなことを言ったのかしら、と思い思い、勤行をしていると、片時も涙の浮かばぬ時はない。人に見られたらさぞみじめにうつるだろうと恥ずかしいので、涙をこらえながら日を過ごす)
かつては数珠を手に経を誦む女などみじめったらしい、そんな女に限って寡婦になるわよ、などと嘲っていた自分が、そんなふうに数珠を手に経を誦んでいる、その意識は二重に彼女をみじめにし、打ちのめしたことでしょう。
この場合も、彼女の思いが、かつての彼女の言葉を耳にし、いままた彼女の姿を見ているであろう身近な周囲の人々の目を媒介にして「恥」の意識として生じていることは、いかにも日本的だと思います。これが西洋の貴族の女性などであれば、かつて自分がそんなことを言ったことが、自尊心を一層傷つけるだろうことは同じでしょうが、周囲の侍女等々がかつての自分の言葉を聞き、今の自分の姿を見てどう思うだろうかという、他者の目を媒介にした意識にはならなかったのではないかと思います。
この場合も、彼女の思いが、かつての彼女の言葉を耳にし、いままた彼女の姿を見ているであろう身近な周囲の人々の目を媒介にして「恥」の意識として生じていることは、いかにも日本的だと思います。これが西洋の貴族の女性などであれば、かつて自分がそんなことを言ったことが、自尊心を一層傷つけるだろうことは同じでしょうが、周囲の侍女等々がかつての自分の言葉を聞き、今の自分の姿を見てどう思うだろうかという、他者の目を媒介にした意識にはならなかったのではないかと思います。
それはともかく、過去にそういう悪口を言っていた自分を引き合いに出して、いまの自分のみじめな姿をいっそう耐え難いみじめなものとして描き出す上で、この過去の彼女の言葉をひきあいに出したのは非常に効果的で、文学として見れば非常に巧みなエピソードの挿入だと思います。
天禄2年5月、物忌が終って家にもどり、兼家が立ち寄ろうともしない相変わらずの心のうちを見定めるようにして、6月4日、兼家には手紙を届けさせて、かねて計画どおり、長精進のための出発します。
兼家にとっては突然のことであったので、行くのはどの寺か、思いとどまるように、相談したいこともあるから今すぐそちらへ行く、といった返事が届いたので、いっそう気がせいて出発します。途中、おひきとめするようにと言いつかってきた兼家の使いを受けた留守居役からの手紙が届きます。彼女がありのままを兼家の使いに伝えると、精進の趣を深刻に受け取ったらしく泣いて兼家に報告するために帰って行った、と書いてあり、きっとそちらにも兼家の沙汰があるだろうから、その心づもりをなさいますよう、などと書いてきています。これを読んだ作者はこう思います。
兼家にとっては突然のことであったので、行くのはどの寺か、思いとどまるように、相談したいこともあるから今すぐそちらへ行く、といった返事が届いたので、いっそう気がせいて出発します。途中、おひきとめするようにと言いつかってきた兼家の使いを受けた留守居役からの手紙が届きます。彼女がありのままを兼家の使いに伝えると、精進の趣を深刻に受け取ったらしく泣いて兼家に報告するために帰って行った、と書いてあり、きっとそちらにも兼家の沙汰があるだろうから、その心づもりをなさいますよう、などと書いてきています。これを読んだ作者はこう思います。
うたて、心幼くおどろおどろしげにもやしないつらむ、いとものしくもあるかな、穢れなどせば、明日明後日なども出でなむとするものを、と思ひつつ、湯のこと急がして堂に上りぬ。(p262)
いやだわ、深い考えもなく、大げさに話したのではないかしら、ほんとにやりきれないわ、月の障りにでもなったら、明日明後日にも寺を出るつもりなのに、と思いながら、湯の用意を急がせ身を清めて、御堂にのぼった。
こういう作者の反応をみると、「長精進」というのも見かけだけで、実際には彼女にはそれほど長く山寺に逗留する気持もなく、ひとつには兼家へのあてつけと、自身の欝々とした気分を晴らすとして出て来たので、だからこそ兼家が止めに来たらそのまま、説得されて家に留まることになるでしょうから、彼と顔を合わせないようにして、さっさと出て来たのだという察しがつきます。
兼家のほうも、ひょっとしたら、という思いはあるものの、実際にはそれほど深刻なものとは考えていなかったでしょうし、ましてそのまま出家するなどというふうには考えていないでしょう。
作者自身の脳裏を、いっそ出家してしまえたら、という気持ちが過ることがなかったとは言いきれないにしても、彼女自身がそれ以前に書いているように、一人息子道綱の将来を思えば、自分と兼家のつながりは道綱がしかるべき地位に上がって行くための絶対条件であって、彼を残して自分が出家してしまえば道綱もそれでおわりなのですから、そんなことが現実にできるはずもなかったのです。
したがって、この鳴滝参籠のエピソードは、究極的には作者の出家もあり得ないことではない仮想の一つとして関係者がみな脳裏にとどめながら、実際にはこじれた夫婦仲の果てに、我慢できなくなった作者の不実な夫に対するぎりぎりの自己主張、ここまでしなければあんたには私の気持ちがわからないのか、という訴え、或る種のいやがらせの一形態であって、そのことは本当は彼女自身も、兼家も、彼女を迎えに来る道隆も、主要な関係者はみな分かっていたでしょう。
しかし、つとめてこれはよくよくのことである、深刻な事態である、と信じるふりをして、みなそれぞれの役割、つまりは彼女をひきとめ、思いとどまらせ、家へ連れて帰るために、寺まで足を運び、彼女を説得し、彼女を連れ戻そうというパフォーマンスを演じようとするわけです。
兼家のほうも、ひょっとしたら、という思いはあるものの、実際にはそれほど深刻なものとは考えていなかったでしょうし、ましてそのまま出家するなどというふうには考えていないでしょう。
作者自身の脳裏を、いっそ出家してしまえたら、という気持ちが過ることがなかったとは言いきれないにしても、彼女自身がそれ以前に書いているように、一人息子道綱の将来を思えば、自分と兼家のつながりは道綱がしかるべき地位に上がって行くための絶対条件であって、彼を残して自分が出家してしまえば道綱もそれでおわりなのですから、そんなことが現実にできるはずもなかったのです。
したがって、この鳴滝参籠のエピソードは、究極的には作者の出家もあり得ないことではない仮想の一つとして関係者がみな脳裏にとどめながら、実際にはこじれた夫婦仲の果てに、我慢できなくなった作者の不実な夫に対するぎりぎりの自己主張、ここまでしなければあんたには私の気持ちがわからないのか、という訴え、或る種のいやがらせの一形態であって、そのことは本当は彼女自身も、兼家も、彼女を迎えに来る道隆も、主要な関係者はみな分かっていたでしょう。
しかし、つとめてこれはよくよくのことである、深刻な事態である、と信じるふりをして、みなそれぞれの役割、つまりは彼女をひきとめ、思いとどまらせ、家へ連れて帰るために、寺まで足を運び、彼女を説得し、彼女を連れ戻そうというパフォーマンスを演じようとするわけです。
その意味ではこの鳴滝参籠は現実に起きた事件というよりは、人生のベテランの演者たちが彼女の本心を充分わきまえた上で演じてみせる一大パフォーマンスであり、彼女自身をも含めた黙契の上に成り立つ劇であり、イベントだったのだと考えるほうが理解しやすいと思います。
まずは山寺で初夜の勤行をしているうちに夜亥の刻(午後10時ころ)になって兼家が迎えに来ます。しかし、作者は「などてかさらにものすべき」(どうしても帰るわけにはまいりません)と言い切ってしまったので、兼家は「よしよし、わたしはこのように穢れがあるから、とどまることはできない」と車に牛を掛けよと命じて帰って行ってしまいます。
作者は兼家に向けて、翌日自身の言動をやわらげるような手紙を書いて、その端に、「昔、ごいっしょして、あなたも御覧になった道だと思いながら、寺まで参りましたがーその昔を思い出して、この上なくなつかしく存じましたわーまもなく、すぐに帰るつもりでございます」と書くのです。
それなら最初からこんなところへ来るのを思いとどまるなり、迎えに来てくれたら素直に帰りゃよいものを、と思わなくもないけれど(笑)そこがお互い本音は読みあった上での硬軟とりまぜたパフォーマンスなのだと思います。
手紙を届けに行った息子が戻ってきて、本人が不在だったから召使どもに預けてきたと報告すると、作者は「そうでなくても返事はあるまいと思う」のですが、実際そのとおりで、彼女のほうが「軟化」した表情を見せれば、兼家のほうが「硬化」した表情をしてシカトを決め込むといった按配です。
作者は兼家に向けて、翌日自身の言動をやわらげるような手紙を書いて、その端に、「昔、ごいっしょして、あなたも御覧になった道だと思いながら、寺まで参りましたがーその昔を思い出して、この上なくなつかしく存じましたわーまもなく、すぐに帰るつもりでございます」と書くのです。
それなら最初からこんなところへ来るのを思いとどまるなり、迎えに来てくれたら素直に帰りゃよいものを、と思わなくもないけれど(笑)そこがお互い本音は読みあった上での硬軟とりまぜたパフォーマンスなのだと思います。
手紙を届けに行った息子が戻ってきて、本人が不在だったから召使どもに預けてきたと報告すると、作者は「そうでなくても返事はあるまいと思う」のですが、実際そのとおりで、彼女のほうが「軟化」した表情を見せれば、兼家のほうが「硬化」した表情をしてシカトを決め込むといった按配です。
作者は月の障りになったので、京へ帰るつもりでいたようですが、「京はみなかたち異に言ひなしたるには、いとはしたなきここちすべしと思ひて、さし離れたる屋に下りぬ。」(京ではみな、わたしが尼になったとうわさしているのだとしたら、帰ってもひどくきまり悪い思いをするにちがいないと思って、寺から離れた家にさがった)[p266]
京からは叔母にあたる人が訪ねてきて少しは世間話などして気が晴れますが、自ら求めての山ごもりだから、訪ねたり見舞ったりする人がほかにいるわけでもありません。そのぶん、心やすらかに過ごせるのですが、こんな山住まいまでするように定められていた前世からの宿命なのかと思うと悲しくなってきます。それに長精進を続けてきた道綱がすっかり弱ってきたことに作者は心をいためます。かわりに世話を頼む人もいないので山寺にこもりきりで作者と同じ粗末な精進料理ばかりたべていたせいか、食事もすらすら喉を通らないようなのです。
叔母が帰って行くと、京の家に一緒に住んでいる妹が他のひとと連れだって訪れ、その人里離れた寂しいところを見て涙を流し、泣いたり笑ったり語りあかします。そのあと、兼家のところの「美しく着飾った人たちが大勢」車二台で訪ねてきて、兼家が、「こうこうして出向いたが寺から下りなかった。また行っても同じだろう。わたしが行ったのではだめだと思うので、行く気になれぬ。山寺へ行っておたしなめ申しあげよ」と命じたということで、お布施や帷子、反物などをたくさん持って来て配りちらした。そして、「殿の仰せもなくなってから、御帰宅になってお暮しになるのも、おかしな具合いでございましょう。それにしても、もう一度はお迎えにお越しになると存じます。その際にもお帰りにならなければ、まったくの物笑いにおなりになってしまいましょう」など、えらそうにまくしたてます。
いつ帰ろうとも考えていないのかと問われて作者は「今のところは、なんとも考えていません。そのうちに帰らねばならぬことがおきたら、おりましょう。どっちみち、所在なくすごしているところなのですから」などと答えますが、
とてもかくても、出でむも、をこなるべき、さや思ひなるとて、出づまじと思ふなる人のいはするならむ、里とても、何わざをかせむずると思へば、「かくてあべきほどばかりと思ふなり」といへば、「期もなく思すにこそあなれ。よろづのことよりも、この君のかくそぞろなる精進をしておはするよ」と、かつうち泣きつつ、車にものすれば、ここなるこれかれ、送りに立ちいでたれば、「おもとたちもみな勘当にあたりたまふなり。よくきこえて、はや出だしたてまつりたまへ」など、言ひ散らして帰る。(p271-272)
(心の中では、どういう帰りかたをしても、今さら出ていっては笑いものになるにちがいない、そう考えて下山しないのであろうと思っているあの人が言わせているのだろう、そんなふうでは、里にもどっても、勤行よりほかい何をすることがあろうかと思ったので、「こうしていられる間だけはと思っているのです」と言うと、「際限もなくお考えなのですね。何はさておき、この若君がこんないわれのない精進をしておいでなのがお気の毒で」と、泣きながら車に乗るので、こちらの侍女たちが見送りに出たところ、「あなたたちもみな、殿のおしかりを受けておいでです。よくお話申し上げて、早く山からお出し申しあげるようになさい」など、さんざん言って帰って行く。)
このあと道綱を促して、魚など食べておいで、と京へ送り出したり、兼家と文のやり取りがありますが、彼は相変わらずです(笑)。
「いとあさましくて帰りにしかば、またまたも、さこそはあらめ、憂く思ひ果てにためればと、思ひてなむ。もしたまあかに出づべき日あらば、告げよ。迎へはせむ。恐しきものに思ひ果てにためれば、近くはえ思はず」(p273)
(「先日はまったくあきれる思いで帰ってきたので、このうえまた迎えに行っても、同じことであろう、世の中をすっかりいやだと思いこんでいるようだから、と思ってね。もし、ひょっとして帰る予定の日がきまったら、知らせてほしい。迎えには行こう。恐ろしく感じるほどに思いこんでおられるようなので、ここ当分は、そちらへ行く気になれない」)
こういう手紙を作者のいまの心境のときにうけとれば、一層ハラワタが煮えくり返るような思いがして相手を憎たらしいとおもうでしょうね(笑)。それでいて、世間的な夫としての義務として迎えにだけは行ってやろう、と言っています。食えない男ですね。
世間的には夫たる自分があちこちで女を関係して子をなしたりしたのが原因で、妻がみずから出家したということになれば、一夫多妻の容認されていた社会とはいえ、あまり体裁のよいものではなかったんじゃないかと思いますが、どうなんでしょうか。
たとえそうだったとしても、その程度のことは無視できるような社会的地位はすでに得て、ここで道綱母を突き放してしまうことも彼には可能だったでしょうし、そうなれば彼女も覚悟をきめて出家するしか仕方がなかったでしょうが、ぎりぎりのところで兼家は当時の社会的な常識の範囲で許容される夫婦関係を保とうとする意志はあるわけですね。
そして彼は道綱母の気持ちを読み切っていて、彼女が遠からず自分の気持ちを抑えて戻って来ざるを得ないこと、そんなに深刻な事態ではないことを心得ているのだとことが、その半ば手をさしのべ、半ば突き放すような文言でわかります。
あなたがあくまでそう思うなら思うようにしたら?と言いつつ、わたしはやめておくように言ったからね、それ以上あなたが自分の思い込みで我が道を行くなら、それは私にもどうしようもないことだからね、と。これは心を尽くすように見えて、本当は随分冷たい言葉ですよね。
彼女もそれが分かっているから、そう簡単に折れて彼に従っていくことができません。けれども結局はそうすることしか自分にはできない、ということも分かっているでしょう。
世間的には夫たる自分があちこちで女を関係して子をなしたりしたのが原因で、妻がみずから出家したということになれば、一夫多妻の容認されていた社会とはいえ、あまり体裁のよいものではなかったんじゃないかと思いますが、どうなんでしょうか。
たとえそうだったとしても、その程度のことは無視できるような社会的地位はすでに得て、ここで道綱母を突き放してしまうことも彼には可能だったでしょうし、そうなれば彼女も覚悟をきめて出家するしか仕方がなかったでしょうが、ぎりぎりのところで兼家は当時の社会的な常識の範囲で許容される夫婦関係を保とうとする意志はあるわけですね。
そして彼は道綱母の気持ちを読み切っていて、彼女が遠からず自分の気持ちを抑えて戻って来ざるを得ないこと、そんなに深刻な事態ではないことを心得ているのだとことが、その半ば手をさしのべ、半ば突き放すような文言でわかります。
あなたがあくまでそう思うなら思うようにしたら?と言いつつ、わたしはやめておくように言ったからね、それ以上あなたが自分の思い込みで我が道を行くなら、それは私にもどうしようもないことだからね、と。これは心を尽くすように見えて、本当は随分冷たい言葉ですよね。
彼女もそれが分かっているから、そう簡単に折れて彼に従っていくことができません。けれども結局はそうすることしか自分にはできない、ということも分かっているでしょう。
兼家やその他の人たちとの文のやりとり、見舞いにきた親族との語らいなどがこのあとに続きます。その中で、この山寺のありどころが「鳴滝」だということが初めて文中に出てきます。「鳴滝といふぞ、この前より行く水なりける」(鳴滝というのは、実はこの寺の前を流れる川だったのである)[p278]。鳴滝は今も残る地名で京都市右京区ですが、これによって、作者の籠った寺が般若寺だと推測できるそうです。
いまは現存しないそうですが、訳註によれば(p259注11)右京区に般若寺町の名があり、小さな稲荷の祠の前に、「五台山般若寺」と刻んだ石碑が立っているそうです。鳴滝の北の位置だとか。
これまでにも文通のあった藤原登子(尚侍)からも見舞いの文が届きます。登子は藤原師輔の娘で、兼家とは異母姉弟、はじめ重明親王の妃となり、親王の死後、村上天皇に召されて入内しました。
村上天皇の中宮で同母姉の安子の死後のことです。東宮時代の円融天皇の養育に当たり、東宮守平親王の親のような役割を果たしたと言われています。そのことは『蜻蛉日記』にも書かれています。
村上天皇崩御のあと、登子は道綱母の邸の西の対にさがって、一時はそこで暮らしています。(p189)
康保4年12月のことで、そのあたりから安和元年3月のころ、登子と歌をやりとりしていることが書かれていて、「この御方、東宮の御親のごとしてさぶらひたまへば、まゐりたまひぬべし」(このお方は、東宮様の御親がわりとしてお仕えになっていらっしゃるので、まもなく参内なさらなければならないのだった)[p191]と触れられています。
道綱母には小姑の関係になるのでしょうが、道綱母は登子に対して尊敬と親愛の情を持っていたようで、親密な関係だったようです。作者が返信の上書きに「西山より」と書いたのに対して、次の登子の返事には「東の大里より」とあって、作者がとてもおもしろく思った、と言います。
作者の「西山」に対照させて京の町を「東の大里」としたもので、機知に富んだ女性だったようです。
また、姉安子が村上天皇の中宮として存命の時から、宮中に出入りして村上天皇がその美しさに惹かれて、安子の死後は入内させ、寵愛するに至ったとされていて、美しい女性でもあったようで、いまをときめく女性として、作者のあこがれでもあったのかもしれませんね。
いまは現存しないそうですが、訳註によれば(p259注11)右京区に般若寺町の名があり、小さな稲荷の祠の前に、「五台山般若寺」と刻んだ石碑が立っているそうです。鳴滝の北の位置だとか。
これまでにも文通のあった藤原登子(尚侍)からも見舞いの文が届きます。登子は藤原師輔の娘で、兼家とは異母姉弟、はじめ重明親王の妃となり、親王の死後、村上天皇に召されて入内しました。
村上天皇の中宮で同母姉の安子の死後のことです。東宮時代の円融天皇の養育に当たり、東宮守平親王の親のような役割を果たしたと言われています。そのことは『蜻蛉日記』にも書かれています。
村上天皇崩御のあと、登子は道綱母の邸の西の対にさがって、一時はそこで暮らしています。(p189)
康保4年12月のことで、そのあたりから安和元年3月のころ、登子と歌をやりとりしていることが書かれていて、「この御方、東宮の御親のごとしてさぶらひたまへば、まゐりたまひぬべし」(このお方は、東宮様の御親がわりとしてお仕えになっていらっしゃるので、まもなく参内なさらなければならないのだった)[p191]と触れられています。
道綱母には小姑の関係になるのでしょうが、道綱母は登子に対して尊敬と親愛の情を持っていたようで、親密な関係だったようです。作者が返信の上書きに「西山より」と書いたのに対して、次の登子の返事には「東の大里より」とあって、作者がとてもおもしろく思った、と言います。
作者の「西山」に対照させて京の町を「東の大里」としたもので、機知に富んだ女性だったようです。
また、姉安子が村上天皇の中宮として存命の時から、宮中に出入りして村上天皇がその美しさに惹かれて、安子の死後は入内させ、寵愛するに至ったとされていて、美しい女性でもあったようで、いまをときめく女性として、作者のあこがれでもあったのかもしれませんね。
その後、突然、兼家の息子藤原道隆がやってきます。義理の息子だけれど、ほとんど逢うようなこともないので、作者が「昔、私にお会いくださったことは、おぼえていらっしゃいますか」と尋ねると、「どうしてどうして、実にはっきりとおぼえております。」などと答えています。彼は父親から聞いて、彼女の気持ちが相当深刻なものだと思って訪れているらしいことが、次のような作者の書きぶりでわかります。
「御声など変はらせたまふなるは、いとことわりにはあれど、さらにかくおぼさじ。よにかくてやみたまふやうはあらじ」など、ひがざまに思ひなしてにやあらむ、いふ。「『かくまゐらば、よくきこえあはめよ』などのたまひつる」といへば、「などか。人のさのたまはずとも、いまにもなむ」などいへば、「さらば、おなじくは、今日出でさせたまへ。やがて御供つかうまつらむ。‥(以下略)」(p280)
(お声などお変わりなさいました御様子、まことにごもっともではございますが、決してそのようにお思いつめになることはないと存じます。よもやこのままで終わってしまわれることはございますまい」などと、わたしの気持ちを勘違いしたのだろうか、そんなことを言う。また、「父上は、『こうして参上したら、よくよくおたしなめ申し上げよ』などと、おっしゃいました」と言うので、「どうしてそんなふうに言われるのでしょう。あちらからそのような仰せがなくとも、そのうちにも下山いたしますよ」と言うと、「では、同じことなら、きょうお帰りなさいませ。このままお供つかまつりましょう。…(以下略)」
しかし、もちろん作者は道隆に連れられて都へ帰ったりはしません。道隆は仕方なく、しばらくぐずぐずしていて帰って行きます。彼も兼家に言われて義務的にその役割を果たしにきたのでしょう。
そうこうするうちに京のあれこれの人のもとから手紙が来ますが、その中身はほとんど同じで、兼家が今日にもそちらへ行く予定だと聞いているが、今度も山を下りなければ、ほんとに人間味がないと世間でも思うだろうし、兼家ももう二度とはいかないだろう、そうなってから下山するのは世間の物笑いの種でしょうよ、と。
作者は腑に落ちないことだ、しかし今度は有無を言わせず連れ戻そうとするに違いないが、どうしたらよかろうかと落ち着かない気持ちでいると、頼りにしていた父親が、任国からたったいま上京したその足でやってきます。彼はありとあらゆる言葉を尽くして、しばらく勤行するのもよいと思ったが、道綱がすっかり弱ってしまっている。やはり早く京へお帰りなさい、きょうでも明日にでも、とそれが当然だというように言うので、作者はがっくりして途方にくれてしまいます。父親は、それではやはり明日、といって帰ってしまいます。
心を決めかねているところへ、今度は兼家がやってきて、何はばかることなく入って来て、香を盛って置き、数珠を手にさげ、お経を置いたりしている作者の様子をみて、「あな恐し。いとかくは思はずこそありつれ。いみじく気疎くてもおはしけるかな。もし出でたまひぬべくやと思ひて、まうで来つれど、かへりては罪得べかめり。(以下略)」(ああ、恐ろしい。まさかこれほどとは思わなかったよ。まったく近づきがたい様子でいらっしゃるなあ。ひょっとした下山なさるかもしれないと思って参ったのだが、かえって罰が当たりそうだ。)[p282-283]と、道綱の方を向いて、どうだ、こんなにしてばかりいるのをどう思うかね、と問うと、道綱は、「大変つろうございますが、いたしかたございません」と答えて、うつむいているので、「かわいそうに」と言い、作者に対していわば最後通牒を突き付けます。
「さらば、ともかくもきんぢが心。出でたまひぬべくは車寄せさせよ」(p283)
(「それでは、どちらにしろ、そなたの気持次第だ。山をお出になるようだったら、車を寄せさせなさい」)
兼家がこう言い終わらないうちに、道綱は立ち上がって走り回り、散らかっている身のまわりの物などを、どんどん取って、包や袋に入れるべき物は入れて、車にみな積みこませ、引き回してある軟障(ぜじょう=網を通して張った幕)などもはずし、立ててある調度などをみしみしと取りのけるので、作者はただ茫然としています。道綱もこの機会に帰らなければ二度とそのチャンスは来ない、と思って、是が非でも母を兼家に連れて帰ってもらおうと必死です。
ここちは呆れて、あれか人かにてあれば、人は目をくはせつつ、いとよく笑みてまぼりゐたるべし。「このこと、かくすれば、出でたまひぬべきにこそはあめれ。仏にことのよし申したまへ。例の作法なる」とて、天下(てんげ)の猿楽言(さるがうごと)を言ひののしらるめれど、ゆめにものも言はれず、涙のみ浮けれど、念じかへしてあるに、車寄せていと久しくなりぬ。申の時ばかりにものせしを、火ともすほごになりにけり。つれなくて動かねば、「よしよし、われは出でなむ。きんぢにまかす」とて、立ち出でぬれば、「とくとく」と、手を取りて、泣きぬばかりにいへば、いふかひもなさに出づるここちぞ、さらにわれにもあらぬ。(p283-284)
(わたしはすっかりあきれてしまって、ただ茫然としていると、あの人はわたしの方をちらちら見ながら、満面笑みをたたえて、取り片づけの模様を見守っていたようである。「この片づけを、このとおりすませたからには、お立ちにならなければならぬようだな。み仏にその旨を申しあげなさい。きまった作法だよ」と言って、ぎょうさんな冗談を大きな声で言われたようだけれども、わたしはまったく言葉もなく、涙ばかり浮かんでくるが、それをじっとこらえているうちに、車を寄せてからずいぶん時間がたってしまった。あの人は申の時ごろに訪れて訪れてきたのだが、もう灯ともしごろになってしまっていた。わたしがそしらぬ顔をして立とうともしないので、「よいよい、わたしは帰ろう。あとはそなたに任す」と言って、出ていってしまうと、大夫(道綱)が、「早く早く」と、わたしの手を取って、泣かんばかりに言うので、仕方もなく出てゆく気持といったら、まるで夢のようである。)
作者を帰らざるを得ない状況まで追い込んで、上機嫌で目配せしたり、冗談さえ飛び出して満面笑みをたたえた兼家を前に、ぎりぎりまで作者は強情を張って(というのは男の側の視点で、彼女にしてみれば、悲しみで茫然としていて)立とうとはしなかったのですが、いよいよ兼家が「すきにされるがいい」、と最後のひとことを残して出て行ってしまうと、道綱がほとんど泣きながら作者を強く促し、その手を引いて車へ連れて行きます。
作者はその間も自らの悲しみにひたるばかりで、それ以上何も言葉を返すことも発することもできず、ただされるがままになっています。まるで息子の道綱が無理に引っ張ってそうされたかのような書きぶりですが、彼女自身の本心が帰りたがっているし、帰るほかはないと了解していながら、そういう気持ちに抵抗する「裏切られた女」としての意地と自尊心が捨てきれないので、そんな表現にならざるを得ないのであって、ほんとうは帰りたがっているし、帰ろうと立ち上がって車寄せのところへ行くのも彼女の意志には違いないのです。どっちみち両人ともお芝居の中で演技してきたのだとすれば、この二人のお芝居の場面では、兼家の完勝に終わります。
作者はその間も自らの悲しみにひたるばかりで、それ以上何も言葉を返すことも発することもできず、ただされるがままになっています。まるで息子の道綱が無理に引っ張ってそうされたかのような書きぶりですが、彼女自身の本心が帰りたがっているし、帰るほかはないと了解していながら、そういう気持ちに抵抗する「裏切られた女」としての意地と自尊心が捨てきれないので、そんな表現にならざるを得ないのであって、ほんとうは帰りたがっているし、帰ろうと立ち上がって車寄せのところへ行くのも彼女の意志には違いないのです。どっちみち両人ともお芝居の中で演技してきたのだとすれば、この二人のお芝居の場面では、兼家の完勝に終わります。
大門引き出づれば、乗り加はりて、道すがら、うちも笑ひぬべきことどもを、ふさにあれど、夢路かものぞ言はれぬ。このもろともなりつる人も、暗ければあへなむとて、おなじ車にあれば、それぞ時々いらへなどする。はるばるといたるほどに、亥の時になりにたり。京には、昼さるよしいひたりつる人々、心遣ひし、塵かいはらひ、門も開けたりければ、あれにもあらずながら、降りぬ。(p284)
(大門から車を引き出すと、あの人も乗り込んできて、道々、吹き出してしまいそうな冗談を、ずいぶんと振りまくが、わたしは夢路をたどるような心持で、何も言えない。このいっしょだった妹も、暗いからかまわないだろうということで、同じ車に乗っていたので、それが時々うけこたえなどする。はるばるとやってきて帰りつくと、夜中近い亥の時になってしまっていた。京の家では、昼間あの人の来訪を知らせてくれた人々が、気をつかって、掃除をし、門も開けていたので、そのまま中へはいり、茫然とした気持のまま車を降りた。)
このあと邸のうちで横になってからも、兼家はなおも上機嫌で冗談を飛ばしています。このへんの兼家の言動の描写は、実に鮮やかに兼家の磊落な、私が読むととても魅力的な性格を描き出していると思います。
こうして作者道綱母にとっては、なんでもないことと人には言うものの、相当な決意をもって臨んだ鳴滝参籠でしたが、結果的には自分がひとり苦しい思いをしたわりには、兼家にはその気持ちが通じたとは思えぬまま、彼女の気持ちとしては無理やりに連れ帰られた形で、この夫婦喧嘩のドラマは彼女の完敗で終わり、その後も兼家の訪れは途絶えがちになり、作者の憂愁は深まるばかりです。
彼女の抱える矛盾は、この時代の一夫多妻制度に裏付けられた夫の複数の女性との交情と、作者との間の生理に裏付けられた対(対)の男女としての愛の欲求との矛盾であって、後者を貫こうとすれば前者に身も心も染め上げられている相手をはじめ周囲の人々の抵抗ばかりか、制度的な裏付けを伴う経済的な事情をはじめ、様々な不都合が立ちはだかって、後者は所詮抽象的な理想に留まるほかはないのでしょう。
道綱母が求めたものはしかしながらその後者であって、彼女の悲しみも怒りも満たされぬ心も、すべては彼女が兼家にもその理想形である男女一対の愛のありようを求めながら得られないことにのみよるもののようにみえます。
こういうところから逃れて、人を愛することから生じる煩悩に囚われることを断つためには、みずからのその欲望そのものを断ち切るほかはなく、おそらく出家でもしてしまう以外に当時としては方法がなかったでしょう。
本気でその方法を選ぶとすれば、道綱は今以上にみじめな将来しか想定できないし、彼女自身も今の自分のすべてを捨ててかからねばなりません。鳴滝に籠る彼女には最初からそこまでの覚悟はなかったようです。
だとすれば、それもこれもみな兼家の掌の上で踊る類のパフォーマンスに過ぎず、兼家には最初から結果はよく分かっていて、そのとおりに事は運び、処理してのけたわけですが、万が一彼のプランをはみ出す結果になっても、彼にとっては痛くもかゆくもなかったでしょう。
そこが時代環境が味方する、彼の強味であって、最初から彼の完勝が約束されていたという意味ではこの『蜻蛉日記』の作者にとって真の悲劇はそういう自分の生きる世界の絶対的な(つまり彼女にとってどうにもできない)構図そのものだということになるのかもしれません。
彼女の抱える矛盾は、この時代の一夫多妻制度に裏付けられた夫の複数の女性との交情と、作者との間の生理に裏付けられた対(対)の男女としての愛の欲求との矛盾であって、後者を貫こうとすれば前者に身も心も染め上げられている相手をはじめ周囲の人々の抵抗ばかりか、制度的な裏付けを伴う経済的な事情をはじめ、様々な不都合が立ちはだかって、後者は所詮抽象的な理想に留まるほかはないのでしょう。
道綱母が求めたものはしかしながらその後者であって、彼女の悲しみも怒りも満たされぬ心も、すべては彼女が兼家にもその理想形である男女一対の愛のありようを求めながら得られないことにのみよるもののようにみえます。
こういうところから逃れて、人を愛することから生じる煩悩に囚われることを断つためには、みずからのその欲望そのものを断ち切るほかはなく、おそらく出家でもしてしまう以外に当時としては方法がなかったでしょう。
本気でその方法を選ぶとすれば、道綱は今以上にみじめな将来しか想定できないし、彼女自身も今の自分のすべてを捨ててかからねばなりません。鳴滝に籠る彼女には最初からそこまでの覚悟はなかったようです。
だとすれば、それもこれもみな兼家の掌の上で踊る類のパフォーマンスに過ぎず、兼家には最初から結果はよく分かっていて、そのとおりに事は運び、処理してのけたわけですが、万が一彼のプランをはみ出す結果になっても、彼にとっては痛くもかゆくもなかったでしょう。
そこが時代環境が味方する、彼の強味であって、最初から彼の完勝が約束されていたという意味ではこの『蜻蛉日記』の作者にとって真の悲劇はそういう自分の生きる世界の絶対的な(つまり彼女にとってどうにもできない)構図そのものだということになるのかもしれません。
saysei at 22:09|Permalink│Comments(0)│
鏡の中の恋人

インコのアーチャンは、最近水を替えたり餌を替えたり、掃除をしたりするときに、無性に外へ出たがって、ケージの前面を手前へ倒して水平にしてやると、おぼつかない足取り(老齢で爪が皆ひん曲がっていてまともにモノにつかまれない)で手前に出てくると、以前のようにそこからさあどうしようかと考え込んだり躊躇したりせずに、パッと飛び立って部屋の中を旋回して、ケージの向こう隅にはりつき、そこで間近に見える鏡の中の自分を向きあって、なにか呟きながら遊んでいます

きょうは首をうんと伸ばして、くちばしとくちばしをくっつけ合い、ときに額を寄せ合って実に仲良くしていました。おそらく我々のように「自分」という自我の意識がないので、鏡の中の分身が自分だとは分からないのでしょう。これはインスタグラムなどでよく見る犬や猫の鏡に対する反応(そこにほかの仲間が居ると思って、鏡の裏を覗き込んだりする)をみても分かるように、犬猫でもその程度などで、ましてアーちゃんにはそれが自分であるとは気づけないでしょう。でも敵対的な感じではなくて、実に親密な恋人という感じなので、結構かと思います。近ごろはケージを開けると、待ちかねたように鏡の中の恋人と触れ合える位置へ飛んでいきます。

ケージの中にいるときは、鏡との間に隙間があって直接触れ合えないので、こうしてケージを出ると鏡面に直接触れられますから、最近はそれに夢中です。
彼は脚の先の爪は曲がっていて、うまくつかまれないこともありますが、ほかは実に元気で、よく食べ、よく遊び、そして自己主張が強くて結構わがままです。それが長生きの秘訣なのかも知れません。
saysei at 15:36|Permalink│Comments(0)│
2024年04月26日
『蜻蛉日記』を読む ⑤
兼家の「ひととなり」を、道綱母に対する彼の態度や言葉からうかがってみたいと思います。男女の愛情のもつれについては、前回かなり拾っておいたので、兼家がほかの女のところへ通いながら、けっこう図々しく何もなかったような顔をして道綱母の所を訪れ、愚にもつかない言い訳をし、怒っている道綱母をからかうような振舞いさえしてごまかし、和解に持ち込んでしまうような手練手管を心得た男だということはすでに明らかだと思います。
わたしが使っているテキスト(小学館日本古典文学全集9)の巻末年表によれば、兼家の身分、官職は次のように変遷しています。
天暦3年(949)4月12日(21歳)昇殿(公卿補任)
同 5年(951) 5月23日 (23歳)右兵衛佐(補任)
同 10年 (956) 9月11日(28歳)少納言(補任)
応和 2年(962) 正月7日 (34歳)従四位下
同 5月 16日 兵部大輔(公卿補任)
同 3年(963) 1月3日 (35歳) 還り殿上(補任)
康保元年(964) 3月27日 (36歳) 左京大夫(補任)
康保4年(967) 2月5日 (39歳) 東宮亮を兼ねる(補任)
同 6月10日 (39歳) 蔵人頭(補任)
安和元年(968) 11月 (40歳) 従三位(10月入内の娘超子の女御宣下に伴う)
安和2年(969) 2月7日 (41歳) 中納言。東宮大夫を兼ねる(補任)
安和2年(969) 2月7日 (41歳) 中納言。東宮大夫を兼ねる(補任)
同 8月13日 (41歳) 昇殿。東宮大夫を止む。
同 9月21日 正三位(補任)
天禄元年(970) 8月5日 (42歳) 司召。兼家、右大将を兼ねる。(補任)
同 3年(972) 1月24日 (44歳) 権大納言(補任)
同 2月29日 (44歳) 大納言(補任)
天延3年(975) 1月26日 (47歳) 按察使を兼ねる(補任)
貞元2年(977)10月11日 (49歳) 右大将の兼任を解かれ治部卿に任ぜらる。(不仲の兄兼通最後の嫌がらせ)
天元元年(978)10月2日 (50歳) 右大臣に昇進。
寛和2年(986)6月24日 (58歳) 摂政となる。(「寛和の変」で花山天皇退位、孫の懐仁親王が践祚、兼家は天皇の外戚となる)
同 8月27日 三宮に准ぜらる。(右大臣を辞し、関白藤原頼忠、左大臣源雅信の下僚の地位を脱却)
永延2年(988)3月16日 (60歳) 法性寺にて兼家六十の賀
永祚元年(989)12月20日 (61歳) 太政大臣となる。(頼忠死去による)
正暦元年(990)7月2日 (62歳) 兼家没す
兼家は当然政治家としての敵やライバルも多いけれど、着実に出世して行きます。夫の出世していく姿に注がれる道綱母のまなざしは、夫に自分を託しきって満たされている妻のような期待に満ち、夫の出世をわがこととして共に喜び合うようなものとは違って、ずいぶん冷ややかなものです。康保四年五月、村上天皇崩御の際の記述です。
五月(さつき)にもなりぬ。十余日に、内裏(うち)の御薬のことありてののしるほどもなくて、二十余日のほどに、かくれさせたまひぬ。東宮、すなはち代はりゐさせたまふ。東宮亮(とうぐうのすけ)といひつる人は、蔵人頭(くらうどのとう)などいひてののしれば、悲しびはおほかたのことにて、御(おほん)よろこびといふことのみきこゆ。あひこたへなどして、すこし人ここちすれど、わたくしの心はなほおなじごとあれど、ひきかへたるやうに騒がしくなどあり。(p188)
(五月になった。十日過ぎに、帝の御病気という事態が生じて、騒ぎたっていたが、まもなく、二十日過ぎに、おかくれあそばされた。東宮さまが、すぐにかわって即位あそばされる。東宮亮であったあの人は、蔵人頭に任ぜられたなどといって騒いでいるので、崩御の悲しみは表向きのことで、実は昇進のお祝いということばかり言上に来る。会って答礼などして、すこし人並みになった気持がするが、夫によって満たされることのない私個人の気持は相変わらずであった、しかし、これまでとはうって変わったように、身辺が騒々しく感じられるのだった。)
世間の人々の憧憬、賞賛、ときに嫉妬をも集める、社会的には申し分のない存在感をもつ夫の颯爽たる姿を眺める道綱母のアンビバレントな感情がよくあらわれた記述が中巻の天禄元年八月から十月辺りの記述にみられます。天禄元年の夏と言えば、兼家が近江か先帝の皇女のもとにしげしげと通っているとの噂も作者の耳に入り、すでに兼家への気持ちは冷めて、兼家が来ても、今度が最後になるかもしれないな、と思い、子ども(道綱)に出家の意志を語って子どもを泣かせてしまったりし、石山詣でに出掛けていく年だし、翌年には鳴滝の山寺へ参籠に出掛けようというときで、彼女の側から見ればもう兼家との夫婦生活は破綻に瀕して、殆ど後戻りできないところまで来ているタイミングです。
実際、翌天禄二年には兼家と近江との結婚が成立した(三夜つづけて泊って行く)との噂も聞きます。一方、兼家は出世街道を突っ走っていて、天禄元年の8月5日には司召で右大将を兼ねることになり、天禄三年早々には権大納言、翌年二月には大納言になっています。
実際、翌天禄二年には兼家と近江との結婚が成立した(三夜つづけて泊って行く)との噂も聞きます。一方、兼家は出世街道を突っ走っていて、天禄元年の8月5日には司召で右大将を兼ねることになり、天禄三年早々には権大納言、翌年二月には大納言になっています。
五日の日は司召とて、大将になど、いとどさかえまさりて、いともめでたし。それより後ぞ、すこししばしば見えたる。「この大嘗会に院の御給(たう)ばり申さむ。幼き人にかうぶりせさせてむ。十九日」とさだめてす。ことども例のごとし。引入(ひきいれ)に源氏の大納言、ものしたまへり。ことはてて、方塞(かたふた)がりたれど、夜更けぬるをとて、とどまれり。かかれども、こたみやかぎりならむと思ふ心になりにたり。(p245)
(五日は司召ということで、大将に昇進などと、いよいよ栄進して、まことにめでたいことである。それから後、いくらかしげしげと姿を見せる。「こしの大嘗会に、院に叙爵をお願いするつもりだ。あの子に元服させておこう。十九日に」ときめて、とり行なう。万事決まり通りである。引入には、源氏の大納言(源兼明。高明の兄)さまがおなりになった。行事が終わって、方角がふさがっていたけれども、夜がふけてしまったからということで、こちらにとまった。しかしながら、二人の仲も今度が最後ではないかしらという思いにわたしの心は沈んでいった。)
これに続く大嘗会の御禊(十一月の大嘗会の前の十月下旬に、天皇が賀茂川原でおこなうみそぎ)の見物の描写では、燦然と輝かんばかりの夫の姿を誇らしく思う素直な妻の気持ちと、平生の夫との間にできてしまった距離、どうしようもなく冷え込んでしまっている自分の女性としてのもはや隠しようもない気持ちとの相剋がよくあらわれています。
九月十月(ながつきかみなづき)もおなじさまにて過ぐすめり。世には、大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい)とて騒ぐ。われも人も、物見る桟敷とて、渡り見れば、御輿のつら近く、つらしとは思へど、目くれておぼゆるに、これかれ、「や、いで、なほ人にすぐれたまへりかし。あなあたらし」などもいふめり。聞くにも、いとどもののみすべなし。(p245-246)
(九月、十月も、同じような状態で過ごしたようだ。世間では、大嘗会の御禊だと騒ぎたっている。わたしも家の者も、物見の席があるというので、行って見物すると、あの人は鳳輦のおそば近く供奉していて、夫としての薄情さを思わずにはいられないのだが、さすがにその堂々たる様子に目もくらむほどに感じていると、まわりの人々が、「ほんとにまあ、やっぱり人に抜きんでていらっしゃいますね。ああ、いつまでも見ていたいわ」など言ったりしているようである。それを聞くにつけ、いよいよどうしようもなく悲しい気持になる。)
兼家は、世間の人の目には、或いは作者の身近な侍女たちの間でも、公の場に居並ぶ貴族たちの中でも、抜きんでて立派な風格を備え、威風堂々、抜群の存在感をもった人物として目立つのですね。それを一緒に見物していて妻である作者は、一方では誇らしい感情をもって眺め、又周囲の人たちの賞賛を喜ばしい気持ちで受け止めるのが本来の妻の姿なのでしょうが、そういう感情がないわけではないに違いないので、「目もくらむ」ような思いをしているわけですが、他方で、家庭人として、夫としての兼家の不実、薄情さを身に染みて味あわされてきた彼女には、素直にそうした喜ばしい気持ちにも誇らしい気持ちにもなれず、夫が人に賞賛され、出世していけばいくほど、ただただ夫が自分から離れて遠い世界へ行ってしまうように思われて、どうしようもなく悲しい気持ちになるのですね。
たしかに兼家はよそで幾人もの女性とまじわり、ときには公然と通って、作者を傷つけてきたのですが、少し公平に見れば、当時の貴族社会で認められていた「一夫多妻制度」のもとでは、約束事としてはなんら非難されるべき振舞いではなかったのではないか、と思います。兼家ほどの地位を得て、権力も富もだれよりも多く掌中におさめていくことになるこの人物にとって、妻妾を7~9人程度持つことは、むしろ当然で、彼の「甲斐性」のうちと周囲からみなされていたのではないでしょうか。
それでも、そんな社会的な制度だの因習だのといったものによる関係よりも、一対の男女としての愛情を守り育てることを夢見て手放そうとはしなかった道綱母という女性にとっては、兼家のふるまいは結婚の時に信じた愛のありようを裏切るものであり、どうしても許すことができない不実なありようだったのでしょう。そのことが兼家の社会的な栄達や彼が人間として、政治家としてますます大きな存在になっていくこととの間に、彼女の内部でどんどん乖離が大きくなり、年月を経るに従ってもう耐えられないところまで来てしまった、ということなのでしょう。
これはしかし、兼家のひとりの人間としてのありように対する評価を著しく貶めるものとは思えないところがあります。彼は人間としても男性としても、非常に魅力的な人物だったように思えます。当時の貴族社会で公認されていただろう一夫多妻制を楯にして自分の行為を正当化して、作者の異議申し立てを無視し、抑え込んでしまうかと言えば、そんなことはしません。むしろ色々と言い訳をし、自分が悪かったというのを冗談でまぎらわせながらではあっても、はっきり表現して、作者のご機嫌をとろうと試み、ほかの女性とのことはそれはそれとしておいて、作者を公認の妻として認め、大切にし、その気持をなんとかほぐそうと、彼なりの努力はしているように見えます。
彼女の側からみればみんな見え透いた言い訳であり、手管であって、口先だけだと思えるでしょうし、よくもぬけぬけと、とますます頭にきたりするのですが、彼は彼なりに周囲の侍女たちも巻き込んで笑いの中に不穏な空気を解消してしまおうと努力したり、作者の一人息子を大切にし引き立ててやったり、それなりに彼女の気持ちを汲んでそれに沿うようなこともしているのだと思います。
彼女の側からみればみんな見え透いた言い訳であり、手管であって、口先だけだと思えるでしょうし、よくもぬけぬけと、とますます頭にきたりするのですが、彼は彼なりに周囲の侍女たちも巻き込んで笑いの中に不穏な空気を解消してしまおうと努力したり、作者の一人息子を大切にし引き立ててやったり、それなりに彼女の気持ちを汲んでそれに沿うようなこともしているのだと思います。
彼のそういう人格的な魅力と言うのは、この蜻蛉日記の中では、作者や周辺の人たちを巻き込むような笑いを誘う兼家のジョークによく表れていると思います。
前回引用した中巻の天禄2年の大饗の日に、宴会の場が作者の所に近いので今日こそは寄るだろうと車の音がするたびに待って居たが、待てど暮らせど兼家はやって来ず、車は皆門前を素通りして行ってしまった。あくる日、兼家から手紙が来るが、頭に来ている作者は返事もしません。 また二日ばかりして「わたしの怠慢といえば怠慢だが、実に用事の多い時節でね。夜分に行こうと思うが、どうだろう。恐ろしくて」など便りが届きます。恐ろしいというのは兼家の大げさなジョークで、本心から作者の不機嫌を怖れているわけではありません。それが証拠に、作者が「気分のすぐれぬ時で、お返事できかねます」といってやると、なにくわぬ顔でやってきます。「あきれたことだと思っていると、遠慮もなくふざけるので、ほんとにいまいましくなって、こんなにもつらく長かった月日、じっとこらえてきた不満をぶちまけてやったが、何とも一言の返事もせずに、寝たふりをしている。」(p250-251)というのですから、相当したたかです。
「聞きながら寝てしまったのがふと目をさましたといった様子で、『どうした、もうお休みなの』と言って笑い、きまりが悪いほどであるが、わたしは石木(いわき)のように感情をおしころし身を固くして夜を明かしたので、翌朝は、ものも言わずに帰っていった。」
このときの兼家の様子など目に浮かぶようですね。狸寝入りをして不都合なことは聞きそびれたふりをして、そしらぬ顔で、いま目が覚めた、というように笑って声をかけたり、ほんとうに食えないやつで、作者が「ほんとにいまいましくなる」のも分かりますが、こういう見え透いた対応をして、すべてを笑いの中でおさめてしまおうという本能的な手管をなにげなくとれるのは、まだ彼が作者を可愛らしいと思って愛情をもっているからでしょう。作者にもそれは判っているはずですが、だんだん半面の否定的なところだけを生真面目に受け取るようになってくると、作者は兼家を拒んで自分自身を追い詰めて行かざるを得なくなるでしょう。
天禄元年八月のこと。
二日の夜さりがた、にはかに見えたり。あやしと思ふに、「明日は物忌なっるを、門(かど)強くささせよ」などうち言ひちらす。いとあさましく、もののわくやうにおぼゆるに、これさし寄り、かれひき寄せ、「念ぜよ念ぜよ」と耳おしそへつつ、まねびささめきまどはせば、われか人かのおれ者にて、向かひゐたれば、むげに屈(くん)じはてにたりと見えけむ。またの日もひぐらし言ふこと、「わが心のたがはぬを、人のあしう見なして」とのみあり。いといふかひもなし。(p244-245)
(二日の灯ともしごろ、突然姿を見せた。変だと思っていると、「あすは物忌だから、門をしっかりしめさせよ」などと言い散らす。まったくあきれて、胸が煮えかえるような思いでいると、侍女をだれかれとなくつかまえては、そばへ寄ったり引き寄せたりして、「御機嫌ななめだが、じっと我慢しておれよ」と、耳もとへ口を押しつけ押しつけ、わたしの不機嫌ぶりのまねをし、ささやき、困惑させるので、わたしは茫然とばかみたいになって、対座していたが、それはすっかりめいりこんだあわれな姿に見えたことであろう。あくる日も一日中じゅうあの人の言うことは「わたしの気持は変わらないのに、あなたが悪くとって」の一点張りだった。ほんとにどうしようもない。)
つむじを曲げた作者を尻目に、兼家は侍女たちのだれかれとなく捕まえては、いま奥様はご機嫌斜めだから、じっと我慢しておれよ、などと、おそらくは作者に聞こえるように、耳元へささやくように言い、また作者の不機嫌そうな表情や振る舞いを面白おかしく真似してみせる、というのですから、作者の方も、そんなのを見て噴き出してしまったら敗けだと思って、よけいに頑なになって無視しようとするけれど、はらわたが煮えくり返るほどイラついているんでしょうね。でも、こんな子供っぽいことをしてみせる兼家は、なかなか魅力的な人物だと思いませんか?
天禄二年三月の末、忌違え方々地方官歴任の父の家に行き、長精進を始めるつもりでいる頃に、兼家から「おとがめは依然として重いのでしょうか。お許しがあれば夕方伺いたい。どんな様子か」といってきます。作者は拒むつもりですが、侍女たちが知って「このようにとりつく島もなくしてしまうのは、大変よくないことです。やはり今度だけでもお返事を。ほうってはおけないことでもありますから」とうるさく言うので、ただ「『月も見るなくに』どうしたことか・・・」とだけいってやります。そして、まさか来はしまいと思ったので、父親の家に移ったが、兼家は平然と夜が更けてからやってきます。作者のほうは「胸の煮えかえることも多かった」ものの、手狭で大勢の人がごたごたしている所だったので、息もできず、胸に手を置いたような苦しいありさまで一夜を明かした、と書いています。
ここでも兼家の態度は不都合なことはすっかり忘れてしまったように平然と振舞い、侍女たちもそれに合わせて、傷んだ二人の関係の修復を心掛けるように、作者にひとときの和解を促します。ただ作者一人がそれではなかなかおさまらないのですね。
鳴滝への参籠も、みながやめておくように言い、行けば行ったで兼家はもちろん道隆までが帰って来るようにと迎えにきたりするのですが、作者は帰ろうという気にはなかなかなれません。そうかといってこのまま出家してしまおうという決心がつくわけでもなく、ただそこに留まって動けないかのようです。任国から戻った父も迎えに来て、作者が連れて来た道綱が(精進料理みたいなものしか食べていないし)弱ってきているから、と促されますが、なかなか決心がつきません。
そうこうするうち兼家が再度迎えに来て、また冗談を言い、作者に目配せして帰宅を促すのですが、作者が素知らぬ顔をして動かず、時間だけがたってしまってもう夕暮れ時になるので、兼家は「よいよい、わたしは帰ろう。あとはそなたに任す」と言って出て行ってしまいます。
道綱が慌てて作者をせかし、その手を取って泣かんばかりに言うので、仕方なく出て行きます。「大門から車を引き出すと、あの人も乗り込んできて、道々、噴き出してしまいそうな冗談を、ずいぶんと振りまくが、わたしは夢路をたどるような心持で、何も言えない」でいます。
こんなときでも、兼家はきっと冗談を振りまいて作者らを笑わそうとし、作者は頑なにその手にはのらぬというかのようにこわばった表情で無視してかかっている様子がよく分かります。帰宅してからも、留守居の者が今すぐ言わなくてもよさそうなこと、「撫子の種を取ろうといたしましたけれども、枯れて根もなくなっておりました。呉竹も一本倒れていました。それは手入れさせましたけれども」などと言うのを、兼家は、同じ車で帰って来た妹がふすまを隔てて寝ているのへ向って、「お聞きになりましたか。一大事です。この世を捨てて家を出て菩提を求める人に、ただ今ここの連中が言うのを聞くと、なんとまあ、撫子はなでるように大切に育てたとか、呉竹は立てたとか、言っているではありませんか」と語り掛けたので、それを聞く妹はとてつもなく笑う、というシーンがあります。
兼家は実に磊落な性格で、極度に機嫌が悪くて几帳を隔てて横になって返事もしない作者がつくりだしている気まずい空気を破ろうと、こんなふうにいつも冗談を飛ばして周囲を笑わせようとしているのです。
そうこうするうち兼家が再度迎えに来て、また冗談を言い、作者に目配せして帰宅を促すのですが、作者が素知らぬ顔をして動かず、時間だけがたってしまってもう夕暮れ時になるので、兼家は「よいよい、わたしは帰ろう。あとはそなたに任す」と言って出て行ってしまいます。
道綱が慌てて作者をせかし、その手を取って泣かんばかりに言うので、仕方なく出て行きます。「大門から車を引き出すと、あの人も乗り込んできて、道々、噴き出してしまいそうな冗談を、ずいぶんと振りまくが、わたしは夢路をたどるような心持で、何も言えない」でいます。
こんなときでも、兼家はきっと冗談を振りまいて作者らを笑わそうとし、作者は頑なにその手にはのらぬというかのようにこわばった表情で無視してかかっている様子がよく分かります。帰宅してからも、留守居の者が今すぐ言わなくてもよさそうなこと、「撫子の種を取ろうといたしましたけれども、枯れて根もなくなっておりました。呉竹も一本倒れていました。それは手入れさせましたけれども」などと言うのを、兼家は、同じ車で帰って来た妹がふすまを隔てて寝ているのへ向って、「お聞きになりましたか。一大事です。この世を捨てて家を出て菩提を求める人に、ただ今ここの連中が言うのを聞くと、なんとまあ、撫子はなでるように大切に育てたとか、呉竹は立てたとか、言っているではありませんか」と語り掛けたので、それを聞く妹はとてつもなく笑う、というシーンがあります。
兼家は実に磊落な性格で、極度に機嫌が悪くて几帳を隔てて横になって返事もしない作者がつくりだしている気まずい空気を破ろうと、こんなふうにいつも冗談を飛ばして周囲を笑わせようとしているのです。
兼家は侍女たちからも、きっと単にご主人様の大切な方として敬われるだけではなくて、憧れられ、カッコイイと思われるような男性だったに違いないし、たいていは明るく磊落で、ジョークを連発したり、人まねをして笑わせ、深刻な空気を巧みにやわらげてしまうような術をよく心得た器の大きな人物と思われていたのではないでしょうか。
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理解できない「ハワイへ行きたい」
昨日テレビのニュース番組だったか、なにげなく見ていたら、連休直前で、今年はコロナ以降、海外旅行解禁の初年だとかで、海外へ行く人がどの程度増えるかが注目される、というような内容だったと思いますが、円安のせいか2019年当時の水準までは海外旅行に行くこの時期の日本人観光客は回復していないといったことでした。まあ当然予想されることでした。
しかし、驚いたのは、それでも結構この時期に海外へ出かける人が結構多いことと、たまたまでしょうがその番組で焦点をしぼっていたハワイへ行く人が多くて、ツーリストのスタッフらしい人が言うには、向こうの観光向けのなんとかビーチに来ている観光客のなんと7割が日本人だというのです。
そして、一体どんな人が何をしにハワイなんかに出掛けるのかと不思議に思って見ていると、なんと日本のコンビニで安いインスタント食品を買い込んで、それをわざわざハワイへ持参して、ハワイではそれを自炊で食べているという方まであるのですね(笑)。
むこうでは物価とりわけ日常の食品が日本の5倍くらいになっているようで、日本のコンビニなら1万円で満杯になるような段ボール箱に、ハワイではせいぜい10点前後の食品が入って、これでもう日本円にすれば1万円とられてしまう、と。
預金口座など見ないほどのお金持ちなら、そんなことどうでもいいでしょうが、まさか彼等は日本のコンビニで食材を買ってハワイまで持っていって、自炊して余暇を過ごそうなんて考えないでしょう。
ごく普通なみの生活レベルの日本人観光客だと思いますが、そうまでしてハワイへ行きたいという、どんな魅力がハワイにあるんだろう?と不思議でなりませんでした。
蓼食う虫も好き好き、と言いますから、そりゃ観光地のどこが好きだろうと、どこへ熱烈に行きたがろうと、ひとにあれこれ言われる筋合いはないわけですが、少なくとも私などにはとても理解できず、昔から、ハワイやグァムへ行くという人の気がしれない(笑)と思ってきました。
いくら海辺が綺麗に整備されていて海が綺麗で視覚的にも快適で、のんびりできると言っても、そんな場所はほかにも無数にあるし、国内にも遙かに快適で美しい景色が楽しめる海岸はあるでしょう。
しかもハワイやグァムのようなところは昔から観光ビジネスで日本人の新婚旅行客なんかをカモにして儲けてきたところですから、それこそスレッカラシの観光地で、海岸以外に何も見るべきものも、訪れるべきところもなさそうなのに、物価だけは観光客向けのべらぼうな価格で、それを一生一度の新婚旅行だから、というので気前よく落としてくるのがそういうところへいく日本人観光客だったのではなかったでしょうか。
もうそんなふうに新婚さんが憧れるような場所ではなくなっているはずだし、いま行くなら歴史も何もないハワイやグァムなんかより、ヨーロッパやそのほかの歴史のある場所へ出かけて、奥行きのある多様な楽しみ方をしようとするのが、年配者は言うまでもなく若い人でも普通になっているのではないでしょうか。
だからますます、こんなときにハワイへ行こうという観光客の心理がまったく理解できないのです。円高のときには、「舶来」のブランドものが日本で買うより何割か安く買える、というので、そういうブランド好きの女性などが、いくらか安く買えるブランドものに釣られて出掛けもしたでしょうが、いまはむしろ日本国内でのほうが安く買えるでしょうから、それもハワイなんぞへ出かける合理的な理由にはなりそうにもありません。
私の大学時代の友人にも、季節ごとにハワイへ出かけて、コンドミニアムかなにか借りて、1カ月だか2カ月だか暮らしているという人がいましたが、彼の場合はふだん仕事に有能であれこれ忙しくしているので、夏休みのような長期休暇の際には、一切そういう雑事(仕事も彼には「雑事」)を忘れて、何もしないで海岸でぼぉーっとしていることが彼にとっては一番快適な時間なのだろうと、それなりに理解できなくもなかったし、彼もそんな言い方をしていたような気がします。
しかし、別にそれはハワイという特定の場所を指定するような理由にはならないので、単にハワイが選ばれたのは、たまたま何かの縁があったり、日本からの距離が適度であったり、コンドミニアムを借りて或る程度の期間自炊して滞在するのに良い環境が整っていたり、費用がリーゾナブルであったり、といった現実的な諸条件が適当であったために選ばれたのでしょう。
もっとも、彼自身の好みも私とは正反対で、彼が出かけてきて、良かったでぇ、というのは、いつもカナダの、ほかには何もない大自然の中だとか、オーストラリアの広大な自然だとか、やはり何もないハワイだとか(笑)、そんなところばかりなので、私は正直のところ彼が良かったという観光地で自分も一度行ってみたいと思えるような場所がありませんでした。
そんな何もないところへ行ってどうするんだろう?なにが楽しいんだろう?と思ってしまうのですが、彼は何もしないで、そういうところでのんびりしていることが何よりの楽しみ、ということなのでしょう。その否定的な肯定の仕方というのは分からなくはありませんが、カナダやオーストラリアの大自然の中ならまあ理解できなくもないけれど、それが「俗」のシンボルみたいなハワイだと言われると首をかしげたくなったものです。
私もスカンジナヴィア半島の北端まで行ったことがあり、それこそ何もない自然の中で、なにも考えることもなくただのんびり過ごしたこともありますし、国内でも北海道の当時は観光客もそう多くは無くて静かで美しいまま残された自然を、知床半島や利尻島の利尻富士で、あるいはサロマ湖、摩周湖、阿寒湖のほとりで、北見で等々味わい過ごしたり、沖縄の貸し切りの海岸で遊んだり、といったこともありますが、それは一度きりで、そういう場所は一度行ってみれば十分。そんなところにあこがれて何度も訪れたり、長く逗留したり、といったことは思いもよりません。
行くなら、また少しは長逗留もしたいと思うのは、やっぱり人間の活動の跡が刻まれた、長い歴史をもつ都市、とりわけ日本とは違った文明、文化を生み出してきたような都市で、路地のようなものがあることは必須条件で、散策できる路地もないようなのっぺらぼうの都市には何の魅力もありません。
その意味では、米国もヨーロッパに比べれば非常に薄っぺらで、その薄っぺらな時間は都市の風貌、都市の顔立ちにいやおうなく刻まれているので、どんなに巨大だったり豪華だったりする建物がつくられていても、引き寄せられるような魅力は乏しいもので、ヨーロッパの古い歴史を持つ片田舎の都市にも及ばないのです。
かといって、私はなにか遺跡が発掘されて一般公開され現地見学会があるというと、遠くから駆け付ける歴史オタクのように、歴史好きだから歴史のある都市が好きなわけではありません。
ただ、たとえば破壊される前の北京の路地へ入って胡同(フートン)のようなところへ迷いこむと、そこに百年単位だか千年単位だか暮らしてきた無数の人々の日々の生活の匂いが沁み込んだような、その朽ちかけた家屋のしみ、汚れ、顕わな壁土や、崩れかけた石垣、土間のひっそりとした暗がり、そこに無造作に掛けられた鍋、向いの家屋の住人の見るともなく注がれる視線、どこかから聞こえてくる飼い鳥の鳴き声、共同井戸で水を汲み上げる音・・・・そんなものにゾクゾクするような魅力を覚えるというだけのことです。
それがウィーンの石畳の路地であってもいいし、アムステルダムの飾り窓の連なる運河沿いの小道であってもいい、ロンドンのコヴェントガーデンのフリーマーケットでもいいし、貴族たちの邸宅をつなぐ小路だったパリのいくつかのパサージュであってもいい。ただ、それがアメリカの空虚のシンボルのように何もないハワイでは困る・・・(笑)
しかし、驚いたのは、それでも結構この時期に海外へ出かける人が結構多いことと、たまたまでしょうがその番組で焦点をしぼっていたハワイへ行く人が多くて、ツーリストのスタッフらしい人が言うには、向こうの観光向けのなんとかビーチに来ている観光客のなんと7割が日本人だというのです。
そして、一体どんな人が何をしにハワイなんかに出掛けるのかと不思議に思って見ていると、なんと日本のコンビニで安いインスタント食品を買い込んで、それをわざわざハワイへ持参して、ハワイではそれを自炊で食べているという方まであるのですね(笑)。
むこうでは物価とりわけ日常の食品が日本の5倍くらいになっているようで、日本のコンビニなら1万円で満杯になるような段ボール箱に、ハワイではせいぜい10点前後の食品が入って、これでもう日本円にすれば1万円とられてしまう、と。
預金口座など見ないほどのお金持ちなら、そんなことどうでもいいでしょうが、まさか彼等は日本のコンビニで食材を買ってハワイまで持っていって、自炊して余暇を過ごそうなんて考えないでしょう。
ごく普通なみの生活レベルの日本人観光客だと思いますが、そうまでしてハワイへ行きたいという、どんな魅力がハワイにあるんだろう?と不思議でなりませんでした。
蓼食う虫も好き好き、と言いますから、そりゃ観光地のどこが好きだろうと、どこへ熱烈に行きたがろうと、ひとにあれこれ言われる筋合いはないわけですが、少なくとも私などにはとても理解できず、昔から、ハワイやグァムへ行くという人の気がしれない(笑)と思ってきました。
いくら海辺が綺麗に整備されていて海が綺麗で視覚的にも快適で、のんびりできると言っても、そんな場所はほかにも無数にあるし、国内にも遙かに快適で美しい景色が楽しめる海岸はあるでしょう。
しかもハワイやグァムのようなところは昔から観光ビジネスで日本人の新婚旅行客なんかをカモにして儲けてきたところですから、それこそスレッカラシの観光地で、海岸以外に何も見るべきものも、訪れるべきところもなさそうなのに、物価だけは観光客向けのべらぼうな価格で、それを一生一度の新婚旅行だから、というので気前よく落としてくるのがそういうところへいく日本人観光客だったのではなかったでしょうか。
もうそんなふうに新婚さんが憧れるような場所ではなくなっているはずだし、いま行くなら歴史も何もないハワイやグァムなんかより、ヨーロッパやそのほかの歴史のある場所へ出かけて、奥行きのある多様な楽しみ方をしようとするのが、年配者は言うまでもなく若い人でも普通になっているのではないでしょうか。
だからますます、こんなときにハワイへ行こうという観光客の心理がまったく理解できないのです。円高のときには、「舶来」のブランドものが日本で買うより何割か安く買える、というので、そういうブランド好きの女性などが、いくらか安く買えるブランドものに釣られて出掛けもしたでしょうが、いまはむしろ日本国内でのほうが安く買えるでしょうから、それもハワイなんぞへ出かける合理的な理由にはなりそうにもありません。
私の大学時代の友人にも、季節ごとにハワイへ出かけて、コンドミニアムかなにか借りて、1カ月だか2カ月だか暮らしているという人がいましたが、彼の場合はふだん仕事に有能であれこれ忙しくしているので、夏休みのような長期休暇の際には、一切そういう雑事(仕事も彼には「雑事」)を忘れて、何もしないで海岸でぼぉーっとしていることが彼にとっては一番快適な時間なのだろうと、それなりに理解できなくもなかったし、彼もそんな言い方をしていたような気がします。
しかし、別にそれはハワイという特定の場所を指定するような理由にはならないので、単にハワイが選ばれたのは、たまたま何かの縁があったり、日本からの距離が適度であったり、コンドミニアムを借りて或る程度の期間自炊して滞在するのに良い環境が整っていたり、費用がリーゾナブルであったり、といった現実的な諸条件が適当であったために選ばれたのでしょう。
もっとも、彼自身の好みも私とは正反対で、彼が出かけてきて、良かったでぇ、というのは、いつもカナダの、ほかには何もない大自然の中だとか、オーストラリアの広大な自然だとか、やはり何もないハワイだとか(笑)、そんなところばかりなので、私は正直のところ彼が良かったという観光地で自分も一度行ってみたいと思えるような場所がありませんでした。
そんな何もないところへ行ってどうするんだろう?なにが楽しいんだろう?と思ってしまうのですが、彼は何もしないで、そういうところでのんびりしていることが何よりの楽しみ、ということなのでしょう。その否定的な肯定の仕方というのは分からなくはありませんが、カナダやオーストラリアの大自然の中ならまあ理解できなくもないけれど、それが「俗」のシンボルみたいなハワイだと言われると首をかしげたくなったものです。
私もスカンジナヴィア半島の北端まで行ったことがあり、それこそ何もない自然の中で、なにも考えることもなくただのんびり過ごしたこともありますし、国内でも北海道の当時は観光客もそう多くは無くて静かで美しいまま残された自然を、知床半島や利尻島の利尻富士で、あるいはサロマ湖、摩周湖、阿寒湖のほとりで、北見で等々味わい過ごしたり、沖縄の貸し切りの海岸で遊んだり、といったこともありますが、それは一度きりで、そういう場所は一度行ってみれば十分。そんなところにあこがれて何度も訪れたり、長く逗留したり、といったことは思いもよりません。
行くなら、また少しは長逗留もしたいと思うのは、やっぱり人間の活動の跡が刻まれた、長い歴史をもつ都市、とりわけ日本とは違った文明、文化を生み出してきたような都市で、路地のようなものがあることは必須条件で、散策できる路地もないようなのっぺらぼうの都市には何の魅力もありません。
その意味では、米国もヨーロッパに比べれば非常に薄っぺらで、その薄っぺらな時間は都市の風貌、都市の顔立ちにいやおうなく刻まれているので、どんなに巨大だったり豪華だったりする建物がつくられていても、引き寄せられるような魅力は乏しいもので、ヨーロッパの古い歴史を持つ片田舎の都市にも及ばないのです。
かといって、私はなにか遺跡が発掘されて一般公開され現地見学会があるというと、遠くから駆け付ける歴史オタクのように、歴史好きだから歴史のある都市が好きなわけではありません。
ただ、たとえば破壊される前の北京の路地へ入って胡同(フートン)のようなところへ迷いこむと、そこに百年単位だか千年単位だか暮らしてきた無数の人々の日々の生活の匂いが沁み込んだような、その朽ちかけた家屋のしみ、汚れ、顕わな壁土や、崩れかけた石垣、土間のひっそりとした暗がり、そこに無造作に掛けられた鍋、向いの家屋の住人の見るともなく注がれる視線、どこかから聞こえてくる飼い鳥の鳴き声、共同井戸で水を汲み上げる音・・・・そんなものにゾクゾクするような魅力を覚えるというだけのことです。
それがウィーンの石畳の路地であってもいいし、アムステルダムの飾り窓の連なる運河沿いの小道であってもいい、ロンドンのコヴェントガーデンのフリーマーケットでもいいし、貴族たちの邸宅をつなぐ小路だったパリのいくつかのパサージュであってもいい。ただ、それがアメリカの空虚のシンボルのように何もないハワイでは困る・・・(笑)
saysei at 11:47|Permalink│Comments(0)│