2024年04月

2024年04月30日

影を斬る

 昔々、「影を斬る」というなかなか面白い時代劇を見て、最後に主人公が相手の武士と一対一の真剣勝負をする際に、太陽に向かう不利な位置を取りながら、柳生直伝の「影を斬る」秘伝で相手を斬るという結末が印象的でした。それに至る経緯は全部忘れていますが(笑)、ちょっと変わったこのタイトルと、たしか主演が市川雷蔵だった(はず)というのだけ記憶していました。

 先日偶然プライムビデオで時代劇を検索していたら、まさに「影を斬る」というタイトルで、市川雷蔵主演の映画があったので、これこれ、と思ってそれまで敬遠していたカドカワチャンネルとかいう14日間無量でみたい放題、そのあと毎月課金というシステムで、とりあえず無料でみられるシステムにのっかってこの作品を見たのです。

 ところが、最初からどうもおかしい。これは時代劇には違いないのですが、どうやらお笑いというのか、舞台は江戸時代の仙台藩青葉城で、みなちゃんとした武士の姿で登場するのですが、殿さまも主人公も現代人みたいにぐーたらで精神がたるんだ武士で、殿さまは将軍家の姫君を妻に迎えて、この妻に頭があがらないし、主人公は剣術指南役ながら夜ごと酒を食らい、女を抱くプレイボーイの日々で、剣の腕前のほうはさっぱりで、他流試合に来る武士にはいくばくか賂を渡して負けてもらって帰すという人物。これに藩の家老の娘が嫁ぐことになり、借金ばかりふえて困っていた主人公は渡りに船と承諾、ただしその娘がつけた条件がまず自分と立ち会って、彼が勝てば妻になるが、逆の場合は武者修行に出ることが条件。立ち会うとそのご息女のなぎなたの腕は並大抵でなく、主人公はふっとばされてしまいます。仕方なく江戸へ武者修行に出掛けた主人公でしたが、江戸でも修行そっちのけで飲むは抱くはの毎日。1年たってなにあの時は油断があったからで、今度は大丈夫と再び立ち会いますが、今回も自分のほうがノックアウトされ、再び江戸へ。それでも懲りない色男はまた同じ毎日を過ごすのですが、そこへ妻そっくりの芸者が現われ、初めは驚いた主人公もその美しさと心根に惹かれて、一時は妻ではないかと仙台のわが屋敷迄戻ってみますが、道場で女たちを相手になぎなたのトレーニングを指導しているのはまぎれもなく妻で、やはり別人かと江戸へ取って返し、妻に似て妻よりも心根のやさしいこの女に求婚し・・・という風なお話で、私が見て記憶している作品とは似ても似つかない、滑稽話で、最後は彼が本気で修行して三度目の勝負で妻を破り、無事二人は結ばれる。実はやはりあの芸者は妻だったけれど、それを主人公はとうに知っていて、妻や周囲の主人公の事を思う人たちの気持ちを察して、それに応えるに至る、という、まぁ人情ものでもあったわけです。

 これはこれで面白かったけれど、面白いということの中身が全然私の記憶していた映画とは違っていたので、ちょっとがっかり。「影を斬る」という別の作品がほんとうにあったのか、なかったのか、いまではよく分からなくなりました。色々検索して調べて見たけれどそれらしい作品に行き当たらないのです。

 しかし今日見たこの作品も、市川雷蔵が主人公で、その妻および芸者の二役が嵯峨美智子で、この嵯峨美智子がめちゃめちゃ綺麗で魅力的でした。昔からあれこれの映画で見てそれはわかったいましたが、このような軽い作品でも、きちっと居住まいをただして登場する彼女はほんとうにほれぼれするほど綺麗。目を見ていると引き込まれてしまいそうでした(笑)。まあ、嵯峨美智子のこんな素敵な表情が見られただけで、この軽い軽いチャンバラものを見た甲斐がありました。


今日の夕餉

★アボガド豆腐
 アボガド豆腐

★マカロニチーズグラタン
 ブロッコリ、シイタケ、ベーコン入りマカロニ・チーズグラタン

★茄子の揚げびたし
 茄子の揚げびたし

★砂肝のタマネギパクチーサラダ
 砂肝のタマネギ、パクチーサラダ

★豚の角煮
 ブタの角煮、ジャガイモ、卵、スナップエンドウ

★ホウレンソウの下ろしポン酢
 ホウレンソウのおろしポン酢

(以上でした)

 きょうは「帰郷」の第18章をエブリスタにアップしました。つなぎの章ですが、むしろそういうところのほうが難しくて難渋していました。ストップしてしまえば、それきりになるのがこれまで繰り返してきたパターンなので、どんなにひどいものになっても、そのときに書けることを書き継いでいくしか仕方がないということで、とにかく書いてしまって、いつか振り返りましょう、と。毎日食ったり飲んだりして排泄をくりかえすように・・・それにしては排泄の間隔がどんどん伸びているけれど(笑)







saysei at 20:42|PermalinkComments(0)

2024年04月29日

きょうの夕餉

★タケノコの木の芽和え
  竹の子の木の芽あえ

★タケノコごはん
 竹の子ごはん

★ワカタケ
 ワカタケ汁

★お刺身とろろかけ
 マグロの刺身のヤマカケ(味覚障害中の私にも味が分かるように舌にくっつくものということで)

★豚の角煮
 ブタの角煮(体には良くないかもしれないけれど、脂身が舌にじわっと広がって味が分かる)

★マカロニサラダ
 マカロニサラダ

★てんぷら
 ゴボウの茎と人参の掻き揚げ、鱈のフライ

★ほうれんそう
 ほうれんそうのおひたし

sunagimo
 砂肝炒めにパクチーなどふんだんに載せて中華風に

★きゅうり
 きゅうり
(以上でした。きょうは長男も一緒の夕食でした)

 味覚障害のひどいわたしですが、きょうの食事の大方はなんとか味わうことが出来て、少しずつですが、おいしくいただきました。とくにタケノコの木の芽和えは、木の芽の香りが立って、とても美味しかった。

saysei at 22:28|PermalinkComments(0)

『蜻蛉日記』を読む ⑥

 『蜻蛉日記』の作者道綱の母にとって、おそらくは生涯最大のイベントであり、この作品のハイライトでもあるのは、鳴滝参籠でしょう。 
               
 幼いころから結婚以前の娘時代までのことなどは何も伝わっていないので不明ですが、少なくとも19歳で兼家に嫁いでからの彼女は、与えられた屋敷で侍女たちにかしずかれながら、ひたすら兼家の訪れを待つ二号さんの身ですから、せいぜい体調のよくないときにしばらく山寺で過ごしてみたり、石山寺詣に出掛けたり、初瀬詣に(2度)出掛けたり、気晴らしに唐橋へ行ったり、賀茂祭の見物に出掛けたりすることが、数少ない非日常的なイベントであったに違いありません。

  この日記では兼家との関係に揺れ動く作者の心を率直に表現することが中心になっているので、心のうちの喜びや悲しみの起伏がクローズアップされるように前面に出て来ていますが、その日常生活を想像すると、物質的には何不自由ない環境を与えられて兼家の訪れを待ち、彼が来ればお相手をするということが「仕事」ですから、自分の意志でほうぼうに出掛けたり、なにか新たなことを始めるということもほとんどない、起伏に乏しい、そう言ってよければ外見上は平穏無事な日常生活であったでしょう。

 作者の内面世界にとっては疾風怒濤のごとき苦しみ、悲しみ、煩悶の日々であったかもしれませんが、兼家との関係にしても、少なくとも外見上は、つまり世間の人々の目には、長く連れ添う安定した夫婦に見えたであろうことは、内面に嵐を孕むかのような作者自身も自覚しています。

  思ひもしるく、ただひとり臥し起きす。おほかたの世のうちあはぬことはなければ、ただ人の心の思はずなるを、われのみならず、年ごろのところにも絶えにたなりと聞きて、文など通ふことありければ、五月三四日のほどに、かくいひやる。
  そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらむ
 返し、
  真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそこ (p139)

  (思ったとおり、ひとりぼっちで日を暮らす。世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはないので、ただひとつ、あの人の心がわたしの望むところとくい違っていることだけが、どうにもならないのだが、わたしばかりでなく、年来のお方(時姫)の所にもすっかり途絶えてしまったらしいと聞いて、これまでも手紙などやりとりしたことがあったので、五月三、四日ごろに、こんな歌をおくった。
  あの人は、あなたさまのもとへも訪れなくなったそうですが、いったいどんな女の所に居ついているのでございましょうか。
 返歌、
  あの人が寄りつかぬというのは私の所のこと、居ついているのはあなたさまの所とか伺いましたが)

  これは天暦10年5月ころのやりとりです。作者は21歳、兼家と結婚してまだ2年ですが、彼はもう「町の小路の女」にぞっこんで、公然と通うまでになっていて、3月の桃の節句にも作者のところには帰って来ようともしなかったのでした。それでも「世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはない」し、作者自身もそれはよく分かっています。

  かくて、人憎からぬさまにて、十といひて一つ二つの年はあまりにけり。されど、明け暮れ、世の中の人のやうならぬを嘆きつつ、つきせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうは、夜とても、人の見えおこたる時は、人少なに心細う、いまはひとりを頼むたのもし人は、この十余年のほど、あがたありきにのみあり、たまさかに京なるほども、四五条のほどなりければ、われは左近の馬場をかたきにしたれば、いとはるかなり。かかるところをも、とりつくろひかかはる人もなければ、いと悪しくのみなりゆく。これをつれなく出で入りするは、ことに心細う思ふらむなど、深う思ひよらぬなめりなど、ちぐさに思ひみだる。ことしげしといふは、なにか、この荒れたる宿の蓬よりもしげげなりと、思ひながむるに、八月(はづき)ばかりになりにけり。(p182-183)

   (こんなふうにして、一見なじみあっている夫婦といった状態で、わたしたちの結婚生活は十一、二年が過ぎた。けれども、内実は、明け暮れ、世間の人並みでもない身の不幸を嘆きながら、尽きせぬ物思いをしつづけて暮らしているのだった。それもそのはず、わが身のありさまといったら、夜になってもあの人が訪れてこない時には、人少なで心細く、今ではただひとり頼みにしている父は、この十年あまり受領として地方まわりばかりしていて、たまに京にいる時も四五条あたりに住んでいたし、わたしの家は左近の馬場(一条西洞院)の横にあったので、ずいぶん隔たっている。こんな心細いありさまで暮らしている家を、修理し世話してくれる人もいないから、だんだんとひどく荒れてゆくばかりである。これを平気であの人が出入りしているのは、わたしがひどく心細く思っているだろうとは、たいして気にかけていないらしいなどと、さまざまなに思い乱れる。用務繁忙でと言っているのは、なにさ、この荒れたわが家に生い茂っている蓬よりも多そうな口ぶりだと、物思いに沈んでいるうちに、八月ごろになってしまった。)

 これは康保三年五月から八月にかけて、作者31歳のころです。結婚したてのころから、道長の行動は全然変わっていないし、それに振り回される作者の気持ちのありようも、ほとんど変わってはいません。
   しかし、世間的には「人憎からぬさまにて(一見なじみあっている夫婦といった状態で)」十一、二年をすごしてきていること、「おほかたの世のうちあはぬことはなければ(世間的にはわたしども夫婦の関係に具合いの悪いようなことはないので)」という状態であることは作者も重々わかっています。しかし、それによって、内心の煩悶は鎮まるどころか、ますますその外見上の平穏と大きく乖離し、兼家が作者のところを訪れても、喜んでいい顔で迎えるどころか、門を閉ざして入れなかったㇼ、入れても口をきかなかったり、口をきけば嫌味を言ったり、言葉を交わせばつまらぬことで互いが機嫌を損ねたり、といったことの繰り返しになって、益々自分自身を追い詰めてしまいます。

 そんな気持ちが極まった天禄二年三月、かねてそうしようと考えていた「長精進」を初めることにし、息子の道綱にも同道するように言って、準備を始めます。20日ほど勤行に努め、仏に祈るものの、その心はこんなふうです。

  われはた、初めよりもことごとしうはあらず、ただ土器(かはらけ)に香うち盛りて、脇息(けふそく)の上に置きて、やがておしかかりて、仏を念じたてまつる。その心ばへ、ただ、きはめて幸ひなかりける身なり、年ごろをだに、世に心ゆるびなく憂しと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ、とくしなさせたまひて、菩提かなへたまへとぞ、行なふままに、涙ぞほろほろとこおるる。あはれ、今様は、女も数珠ひきさげ、経ひきさげぬなし、と聞きし時、あな、まさり顔な、さる者ぞやもめにはなるてふなど、もどきし心はいづちかゆきけむ。夜の明け暮るるも心もとなく、いとまなきまで、そこはかともなけれど、行なふとそそくままに、あはれ、さいひしを聞く人、いかにをかしと思ひ見るらむ、はかなかりける世を、などてさいひけむ、と思ふ思ふ行なへば、片時涙浮かばぬ時なし。人目ぞいとまさり顔なく恥づかしければ、おしかへしつつ、明かし暮らす。(p255-256)

  (わたしは、初めから大げさではなく、ただ土器に香を盛って脇息の上に置き、そのまま寄りかかって、み仏に祈りを捧げる。その趣は、ただ、この上なく不幸な身でございます、今までの長い年月でさえ、すこしも気の休まる時とてなくつらいと思っておりましたが、今ではいよいよこのようにあきれるほどの夫婦仲になってしまいました。早く仏道を成就させ、煩悩を解脱させてください、というふうに、勤行をしながら、涙がぽろぽろとこぼれる。ああ、当節は女でも数珠を手にし経を持たぬ者はいないと聞いた時、まあ、みじめたらしいこと、そんな女にかぎって寡婦になるというのに、などと悪口を言った、あの気持はどこへ消え失せたのだろう。夜が明け日が暮れるのもじれったい思いで、余念なくーそうしてみても、どうなるのか、はっきりしためやすもないけれどもー勤行に精出しながら、ああ、あんなふうに言ったのを聞く人は、どんなにかおかしいと思って見ていることだろう、今にして思えばはかない夫婦仲だったのに、どうしてあんなことを言ったのかしら、と思い思い、勤行をしていると、片時も涙の浮かばぬ時はない。人に見られたらさぞみじめにうつるだろうと恥ずかしいので、涙をこらえながら日を過ごす)

 かつては数珠を手に経を誦む女などみじめったらしい、そんな女に限って寡婦になるわよ、などと嘲っていた自分が、そんなふうに数珠を手に経を誦んでいる、その意識は二重に彼女をみじめにし、打ちのめしたことでしょう。
   この場合も、彼女の思いが、かつての彼女の言葉を耳にし、いままた彼女の姿を見ているであろう身近な周囲の人々の目を媒介にして「恥」の意識として生じていることは、いかにも日本的だと思います。これが西洋の貴族の女性などであれば、かつて自分がそんなことを言ったことが、自尊心を一層傷つけるだろうことは同じでしょうが、周囲の侍女等々がかつての自分の言葉を聞き、今の自分の姿を見てどう思うだろうかという、他者の目を媒介にした意識にはならなかったのではないかと思います。

 それはともかく、過去にそういう悪口を言っていた自分を引き合いに出して、いまの自分のみじめな姿をいっそう耐え難いみじめなものとして描き出す上で、この過去の彼女の言葉をひきあいに出したのは非常に効果的で、文学として見れば非常に巧みなエピソードの挿入だと思います。

 天禄2年5月、物忌が終って家にもどり、兼家が立ち寄ろうともしない相変わらずの心のうちを見定めるようにして、6月4日、兼家には手紙を届けさせて、かねて計画どおり、長精進のための出発します。
   兼家にとっては突然のことであったので、行くのはどの寺か、思いとどまるように、相談したいこともあるから今すぐそちらへ行く、といった返事が届いたので、いっそう気がせいて出発します。途中、おひきとめするようにと言いつかってきた兼家の使いを受けた留守居役からの手紙が届きます。彼女がありのままを兼家の使いに伝えると、精進の趣を深刻に受け取ったらしく泣いて兼家に報告するために帰って行った、と書いてあり、きっとそちらにも兼家の沙汰があるだろうから、その心づもりをなさいますよう、などと書いてきています。これを読んだ作者はこう思います。

  うたて、心幼くおどろおどろしげにもやしないつらむ、いとものしくもあるかな、穢れなどせば、明日明後日なども出でなむとするものを、と思ひつつ、湯のこと急がして堂に上りぬ。(p262)

  いやだわ、深い考えもなく、大げさに話したのではないかしら、ほんとにやりきれないわ、月の障りにでもなったら、明日明後日にも寺を出るつもりなのに、と思いながら、湯の用意を急がせ身を清めて、御堂にのぼった。

 こういう作者の反応をみると、「長精進」というのも見かけだけで、実際には彼女にはそれほど長く山寺に逗留する気持もなく、ひとつには兼家へのあてつけと、自身の欝々とした気分を晴らすとして出て来たので、だからこそ兼家が止めに来たらそのまま、説得されて家に留まることになるでしょうから、彼と顔を合わせないようにして、さっさと出て来たのだという察しがつきます。
 兼家のほうも、ひょっとしたら、という思いはあるものの、実際にはそれほど深刻なものとは考えていなかったでしょうし、ましてそのまま出家するなどというふうには考えていないでしょう。

 作者自身の脳裏を、いっそ出家してしまえたら、という気持ちが過ることがなかったとは言いきれないにしても、彼女自身がそれ以前に書いているように、一人息子道綱の将来を思えば、自分と兼家のつながりは道綱がしかるべき地位に上がって行くための絶対条件であって、彼を残して自分が出家してしまえば道綱もそれでおわりなのですから、そんなことが現実にできるはずもなかったのです。

 したがって、この鳴滝参籠のエピソードは、究極的には作者の出家もあり得ないことではない仮想の一つとして関係者がみな脳裏にとどめながら、実際にはこじれた夫婦仲の果てに、我慢できなくなった作者の不実な夫に対するぎりぎりの自己主張、ここまでしなければあんたには私の気持ちがわからないのか、という訴え、或る種のいやがらせの一形態であって、そのことは本当は彼女自身も、兼家も、彼女を迎えに来る道隆も、主要な関係者はみな分かっていたでしょう。

 しかし、つとめてこれはよくよくのことである、深刻な事態である、と信じるふりをして、みなそれぞれの役割、つまりは彼女をひきとめ、思いとどまらせ、家へ連れて帰るために、寺まで足を運び、彼女を説得し、彼女を連れ戻そうというパフォーマンスを演じようとするわけです。

 その意味ではこの鳴滝参籠は現実に起きた事件というよりは、人生のベテランの演者たちが彼女の本心を充分わきまえた上で演じてみせる一大パフォーマンスであり、彼女自身をも含めた黙契の上に成り立つ劇であり、イベントだったのだと考えるほうが理解しやすいと思います。

 まずは山寺で初夜の勤行をしているうちに夜亥の刻(午後10時ころ)になって兼家が迎えに来ます。しかし、作者は「などてかさらにものすべき」(どうしても帰るわけにはまいりません)と言い切ってしまったので、兼家は「よしよし、わたしはこのように穢れがあるから、とどまることはできない」と車に牛を掛けよと命じて帰って行ってしまいます。
 
 作者は兼家に向けて、翌日自身の言動をやわらげるような手紙を書いて、その端に、「昔、ごいっしょして、あなたも御覧になった道だと思いながら、寺まで参りましたがーその昔を思い出して、この上なくなつかしく存じましたわーまもなく、すぐに帰るつもりでございます」と書くのです。
 それなら最初からこんなところへ来るのを思いとどまるなり、迎えに来てくれたら素直に帰りゃよいものを、と思わなくもないけれど(笑)そこがお互い本音は読みあった上での硬軟とりまぜたパフォーマンスなのだと思います。
 
 手紙を届けに行った息子が戻ってきて、本人が不在だったから召使どもに預けてきたと報告すると、作者は「そうでなくても返事はあるまいと思う」のですが、実際そのとおりで、彼女のほうが「軟化」した表情を見せれば、兼家のほうが「硬化」した表情をしてシカトを決め込むといった按配です。
 
 作者は月の障りになったので、京へ帰るつもりでいたようですが、「京はみなかたち異に言ひなしたるには、いとはしたなきここちすべしと思ひて、さし離れたる屋に下りぬ。」(京ではみな、わたしが尼になったとうわさしているのだとしたら、帰ってもひどくきまり悪い思いをするにちがいないと思って、寺から離れた家にさがった)[p266]

 京からは叔母にあたる人が訪ねてきて少しは世間話などして気が晴れますが、自ら求めての山ごもりだから、訪ねたり見舞ったりする人がほかにいるわけでもありません。そのぶん、心やすらかに過ごせるのですが、こんな山住まいまでするように定められていた前世からの宿命なのかと思うと悲しくなってきます。それに長精進を続けてきた道綱がすっかり弱ってきたことに作者は心をいためます。かわりに世話を頼む人もいないので山寺にこもりきりで作者と同じ粗末な精進料理ばかりたべていたせいか、食事もすらすら喉を通らないようなのです。

 叔母が帰って行くと、京の家に一緒に住んでいる妹が他のひとと連れだって訪れ、その人里離れた寂しいところを見て涙を流し、泣いたり笑ったり語りあかします。そのあと、兼家のところの「美しく着飾った人たちが大勢」車二台で訪ねてきて、兼家が、「こうこうして出向いたが寺から下りなかった。また行っても同じだろう。わたしが行ったのではだめだと思うので、行く気になれぬ。山寺へ行っておたしなめ申しあげよ」と命じたということで、お布施や帷子、反物などをたくさん持って来て配りちらした。そして、「殿の仰せもなくなってから、御帰宅になってお暮しになるのも、おかしな具合いでございましょう。それにしても、もう一度はお迎えにお越しになると存じます。その際にもお帰りにならなければ、まったくの物笑いにおなりになってしまいましょう」など、えらそうにまくしたてます。

 いつ帰ろうとも考えていないのかと問われて作者は「今のところは、なんとも考えていません。そのうちに帰らねばならぬことがおきたら、おりましょう。どっちみち、所在なくすごしているところなのですから」などと答えますが、

   とてもかくても、出でむも、をこなるべき、さや思ひなるとて、出づまじと思ふなる人のいはするならむ、里とても、何わざをかせむずると思へば、「かくてあべきほどばかりと思ふなり」といへば、「期もなく思すにこそあなれ。よろづのことよりも、この君のかくそぞろなる精進をしておはするよ」と、かつうち泣きつつ、車にものすれば、ここなるこれかれ、送りに立ちいでたれば、「おもとたちもみな勘当にあたりたまふなり。よくきこえて、はや出だしたてまつりたまへ」など、言ひ散らして帰る。(p271-272)

  (心の中では、どういう帰りかたをしても、今さら出ていっては笑いものになるにちがいない、そう考えて下山しないのであろうと思っているあの人が言わせているのだろう、そんなふうでは、里にもどっても、勤行よりほかい何をすることがあろうかと思ったので、「こうしていられる間だけはと思っているのです」と言うと、「際限もなくお考えなのですね。何はさておき、この若君がこんないわれのない精進をしておいでなのがお気の毒で」と、泣きながら車に乗るので、こちらの侍女たちが見送りに出たところ、「あなたたちもみな、殿のおしかりを受けておいでです。よくお話申し上げて、早く山からお出し申しあげるようになさい」など、さんざん言って帰って行く。)

 このあと道綱を促して、魚など食べておいで、と京へ送り出したり、兼家と文のやり取りがありますが、彼は相変わらずです(笑)。

 「いとあさましくて帰りにしかば、またまたも、さこそはあらめ、憂く思ひ果てにためればと、思ひてなむ。もしたまあかに出づべき日あらば、告げよ。迎へはせむ。恐しきものに思ひ果てにためれば、近くはえ思はず」(p273)

  (「先日はまったくあきれる思いで帰ってきたので、このうえまた迎えに行っても、同じことであろう、世の中をすっかりいやだと思いこんでいるようだから、と思ってね。もし、ひょっとして帰る予定の日がきまったら、知らせてほしい。迎えには行こう。恐ろしく感じるほどに思いこんでおられるようなので、ここ当分は、そちらへ行く気になれない」)

 こういう手紙を作者のいまの心境のときにうけとれば、一層ハラワタが煮えくり返るような思いがして相手を憎たらしいとおもうでしょうね(笑)。それでいて、世間的な夫としての義務として迎えにだけは行ってやろう、と言っています。食えない男ですね。

 世間的には夫たる自分があちこちで女を関係して子をなしたりしたのが原因で、妻がみずから出家したということになれば、一夫多妻の容認されていた社会とはいえ、あまり体裁のよいものではなかったんじゃないかと思いますが、どうなんでしょうか。
 たとえそうだったとしても、その程度のことは無視できるような社会的地位はすでに得て、ここで道綱母を突き放してしまうことも彼には可能だったでしょうし、そうなれば彼女も覚悟をきめて出家するしか仕方がなかったでしょうが、ぎりぎりのところで兼家は当時の社会的な常識の範囲で許容される夫婦関係を保とうとする意志はあるわけですね。

 そして彼は道綱母の気持ちを読み切っていて、彼女が遠からず自分の気持ちを抑えて戻って来ざるを得ないこと、そんなに深刻な事態ではないことを心得ているのだとことが、その半ば手をさしのべ、半ば突き放すような文言でわかります。
 あなたがあくまでそう思うなら思うようにしたら?と言いつつ、わたしはやめておくように言ったからね、それ以上あなたが自分の思い込みで我が道を行くなら、それは私にもどうしようもないことだからね、と。これは心を尽くすように見えて、本当は随分冷たい言葉ですよね。
 彼女もそれが分かっているから、そう簡単に折れて彼に従っていくことができません。けれども結局はそうすることしか自分にはできない、ということも分かっているでしょう。

 兼家やその他の人たちとの文のやりとり、見舞いにきた親族との語らいなどがこのあとに続きます。その中で、この山寺のありどころが「鳴滝」だということが初めて文中に出てきます。「鳴滝といふぞ、この前より行く水なりける」(鳴滝というのは、実はこの寺の前を流れる川だったのである)[p278]。鳴滝は今も残る地名で京都市右京区ですが、これによって、作者の籠った寺が般若寺だと推測できるそうです。
 いまは現存しないそうですが、訳註によれば(p259注11)右京区に般若寺町の名があり、小さな稲荷の祠の前に、「五台山般若寺」と刻んだ石碑が立っているそうです。鳴滝の北の位置だとか。

 これまでにも文通のあった藤原登子(尚侍)からも見舞いの文が届きます。登子は藤原師輔の娘で、兼家とは異母姉弟、はじめ重明親王の妃となり、親王の死後、村上天皇に召されて入内しました。
 村上天皇の中宮で同母姉の安子の死後のことです。東宮時代の円融天皇の養育に当たり、東宮守平親王の親のような役割を果たしたと言われています。そのことは『蜻蛉日記』にも書かれています。
 村上天皇崩御のあと、登子は道綱母の邸の西の対にさがって、一時はそこで暮らしています。(p189)
 康保4年12月のことで、そのあたりから安和元年3月のころ、登子と歌をやりとりしていることが書かれていて、「この御方、東宮の御親のごとしてさぶらひたまへば、まゐりたまひぬべし」(このお方は、東宮様の御親がわりとしてお仕えになっていらっしゃるので、まもなく参内なさらなければならないのだった)[p191]と触れられています。
 道綱母には小姑の関係になるのでしょうが、道綱母は登子に対して尊敬と親愛の情を持っていたようで、親密な関係だったようです。作者が返信の上書きに「西山より」と書いたのに対して、次の登子の返事には「東の大里より」とあって、作者がとてもおもしろく思った、と言います。
 作者の「西山」に対照させて京の町を「東の大里」としたもので、機知に富んだ女性だったようです。
 また、姉安子が村上天皇の中宮として存命の時から、宮中に出入りして村上天皇がその美しさに惹かれて、安子の死後は入内させ、寵愛するに至ったとされていて、美しい女性でもあったようで、いまをときめく女性として、作者のあこがれでもあったのかもしれませんね。

 その後、突然、兼家の息子藤原道隆がやってきます。義理の息子だけれど、ほとんど逢うようなこともないので、作者が「昔、私にお会いくださったことは、おぼえていらっしゃいますか」と尋ねると、「どうしてどうして、実にはっきりとおぼえております。」などと答えています。彼は父親から聞いて、彼女の気持ちが相当深刻なものだと思って訪れているらしいことが、次のような作者の書きぶりでわかります。

 「御声など変はらせたまふなるは、いとことわりにはあれど、さらにかくおぼさじ。よにかくてやみたまふやうはあらじ」など、ひがざまに思ひなしてにやあらむ、いふ。「『かくまゐらば、よくきこえあはめよ』などのたまひつる」といへば、「などか。人のさのたまはずとも、いまにもなむ」などいへば、「さらば、おなじくは、今日出でさせたまへ。やがて御供つかうまつらむ。‥(以下略)」(p280)
 
 (お声などお変わりなさいました御様子、まことにごもっともではございますが、決してそのようにお思いつめになることはないと存じます。よもやこのままで終わってしまわれることはございますまい」などと、わたしの気持ちを勘違いしたのだろうか、そんなことを言う。また、「父上は、『こうして参上したら、よくよくおたしなめ申し上げよ』などと、おっしゃいました」と言うので、「どうしてそんなふうに言われるのでしょう。あちらからそのような仰せがなくとも、そのうちにも下山いたしますよ」と言うと、「では、同じことなら、きょうお帰りなさいませ。このままお供つかまつりましょう。…(以下略)」

   しかし、もちろん作者は道隆に連れられて都へ帰ったりはしません。道隆は仕方なく、しばらくぐずぐずしていて帰って行きます。彼も兼家に言われて義務的にその役割を果たしにきたのでしょう。
 そうこうするうちに京のあれこれの人のもとから手紙が来ますが、その中身はほとんど同じで、兼家が今日にもそちらへ行く予定だと聞いているが、今度も山を下りなければ、ほんとに人間味がないと世間でも思うだろうし、兼家ももう二度とはいかないだろう、そうなってから下山するのは世間の物笑いの種でしょうよ、と。

 作者は腑に落ちないことだ、しかし今度は有無を言わせず連れ戻そうとするに違いないが、どうしたらよかろうかと落ち着かない気持ちでいると、頼りにしていた父親が、任国からたったいま上京したその足でやってきます。彼はありとあらゆる言葉を尽くして、しばらく勤行するのもよいと思ったが、道綱がすっかり弱ってしまっている。やはり早く京へお帰りなさい、きょうでも明日にでも、とそれが当然だというように言うので、作者はがっくりして途方にくれてしまいます。父親は、それではやはり明日、といって帰ってしまいます。

 心を決めかねているところへ、今度は兼家がやってきて、何はばかることなく入って来て、香を盛って置き、数珠を手にさげ、お経を置いたりしている作者の様子をみて、「あな恐し。いとかくは思はずこそありつれ。いみじく気疎くてもおはしけるかな。もし出でたまひぬべくやと思ひて、まうで来つれど、かへりては罪得べかめり。(以下略)」(ああ、恐ろしい。まさかこれほどとは思わなかったよ。まったく近づきがたい様子でいらっしゃるなあ。ひょっとした下山なさるかもしれないと思って参ったのだが、かえって罰が当たりそうだ。)[p282-283]と、道綱の方を向いて、どうだ、こんなにしてばかりいるのをどう思うかね、と問うと、道綱は、「大変つろうございますが、いたしかたございません」と答えて、うつむいているので、「かわいそうに」と言い、作者に対していわば最後通牒を突き付けます。

  「さらば、ともかくもきんぢが心。出でたまひぬべくは車寄せさせよ」(p283)
       
  (「それでは、どちらにしろ、そなたの気持次第だ。山をお出になるようだったら、車を寄せさせなさい」)

 兼家がこう言い終わらないうちに、道綱は立ち上がって走り回り、散らかっている身のまわりの物などを、どんどん取って、包や袋に入れるべき物は入れて、車にみな積みこませ、引き回してある軟障(ぜじょう=網を通して張った幕)などもはずし、立ててある調度などをみしみしと取りのけるので、作者はただ茫然としています。道綱もこの機会に帰らなければ二度とそのチャンスは来ない、と思って、是が非でも母を兼家に連れて帰ってもらおうと必死です。

  ここちは呆れて、あれか人かにてあれば、人は目をくはせつつ、いとよく笑みてまぼりゐたるべし。「このこと、かくすれば、出でたまひぬべきにこそはあめれ。仏にことのよし申したまへ。例の作法なる」とて、天下(てんげ)の猿楽言(さるがうごと)を言ひののしらるめれど、ゆめにものも言はれず、涙のみ浮けれど、念じかへしてあるに、車寄せていと久しくなりぬ。申の時ばかりにものせしを、火ともすほごになりにけり。つれなくて動かねば、「よしよし、われは出でなむ。きんぢにまかす」とて、立ち出でぬれば、「とくとく」と、手を取りて、泣きぬばかりにいへば、いふかひもなさに出づるここちぞ、さらにわれにもあらぬ。(p283-284)

     (わたしはすっかりあきれてしまって、ただ茫然としていると、あの人はわたしの方をちらちら見ながら、満面笑みをたたえて、取り片づけの模様を見守っていたようである。「この片づけを、このとおりすませたからには、お立ちにならなければならぬようだな。み仏にその旨を申しあげなさい。きまった作法だよ」と言って、ぎょうさんな冗談を大きな声で言われたようだけれども、わたしはまったく言葉もなく、涙ばかり浮かんでくるが、それをじっとこらえているうちに、車を寄せてからずいぶん時間がたってしまった。あの人は申の時ごろに訪れて訪れてきたのだが、もう灯ともしごろになってしまっていた。わたしがそしらぬ顔をして立とうともしないので、「よいよい、わたしは帰ろう。あとはそなたに任す」と言って、出ていってしまうと、大夫(道綱)が、「早く早く」と、わたしの手を取って、泣かんばかりに言うので、仕方もなく出てゆく気持といったら、まるで夢のようである。)

 作者を帰らざるを得ない状況まで追い込んで、上機嫌で目配せしたり、冗談さえ飛び出して満面笑みをたたえた兼家を前に、ぎりぎりまで作者は強情を張って(というのは男の側の視点で、彼女にしてみれば、悲しみで茫然としていて)立とうとはしなかったのですが、いよいよ兼家が「すきにされるがいい」、と最後のひとことを残して出て行ってしまうと、道綱がほとんど泣きながら作者を強く促し、その手を引いて車へ連れて行きます。
 
 作者はその間も自らの悲しみにひたるばかりで、それ以上何も言葉を返すことも発することもできず、ただされるがままになっています。まるで息子の道綱が無理に引っ張ってそうされたかのような書きぶりですが、彼女自身の本心が帰りたがっているし、帰るほかはないと了解していながら、そういう気持ちに抵抗する「裏切られた女」としての意地と自尊心が捨てきれないので、そんな表現にならざるを得ないのであって、ほんとうは帰りたがっているし、帰ろうと立ち上がって車寄せのところへ行くのも彼女の意志には違いないのです。どっちみち両人ともお芝居の中で演技してきたのだとすれば、この二人のお芝居の場面では、兼家の完勝に終わります。

  大門引き出づれば、乗り加はりて、道すがら、うちも笑ひぬべきことどもを、ふさにあれど、夢路かものぞ言はれぬ。このもろともなりつる人も、暗ければあへなむとて、おなじ車にあれば、それぞ時々いらへなどする。はるばるといたるほどに、亥の時になりにたり。京には、昼さるよしいひたりつる人々、心遣ひし、塵かいはらひ、門も開けたりければ、あれにもあらずながら、降りぬ。(p284)

   (大門から車を引き出すと、あの人も乗り込んできて、道々、吹き出してしまいそうな冗談を、ずいぶんと振りまくが、わたしは夢路をたどるような心持で、何も言えない。このいっしょだった妹も、暗いからかまわないだろうということで、同じ車に乗っていたので、それが時々うけこたえなどする。はるばるとやってきて帰りつくと、夜中近い亥の時になってしまっていた。京の家では、昼間あの人の来訪を知らせてくれた人々が、気をつかって、掃除をし、門も開けていたので、そのまま中へはいり、茫然とした気持のまま車を降りた。)

 このあと邸のうちで横になってからも、兼家はなおも上機嫌で冗談を飛ばしています。このへんの兼家の言動の描写は、実に鮮やかに兼家の磊落な、私が読むととても魅力的な性格を描き出していると思います。

 こうして作者道綱母にとっては、なんでもないことと人には言うものの、相当な決意をもって臨んだ鳴滝参籠でしたが、結果的には自分がひとり苦しい思いをしたわりには、兼家にはその気持ちが通じたとは思えぬまま、彼女の気持ちとしては無理やりに連れ帰られた形で、この夫婦喧嘩のドラマは彼女の完敗で終わり、その後も兼家の訪れは途絶えがちになり、作者の憂愁は深まるばかりです。

 彼女の抱える矛盾は、この時代の一夫多妻制度に裏付けられた夫の複数の女性との交情と、作者との間の生理に裏付けられた対(対)の男女としての愛の欲求との矛盾であって、後者を貫こうとすれば前者に身も心も染め上げられている相手をはじめ周囲の人々の抵抗ばかりか、制度的な裏付けを伴う経済的な事情をはじめ、様々な不都合が立ちはだかって、後者は所詮抽象的な理想に留まるほかはないのでしょう。
 道綱母が求めたものはしかしながらその後者であって、彼女の悲しみも怒りも満たされぬ心も、すべては彼女が兼家にもその理想形である男女一対の愛のありようを求めながら得られないことにのみよるもののようにみえます。

 こういうところから逃れて、人を愛することから生じる煩悩に囚われることを断つためには、みずからのその欲望そのものを断ち切るほかはなく、おそらく出家でもしてしまう以外に当時としては方法がなかったでしょう。
 本気でその方法を選ぶとすれば、道綱は今以上にみじめな将来しか想定できないし、彼女自身も今の自分のすべてを捨ててかからねばなりません。鳴滝に籠る彼女には最初からそこまでの覚悟はなかったようです。
 だとすれば、それもこれもみな兼家の掌の上で踊る類のパフォーマンスに過ぎず、兼家には最初から結果はよく分かっていて、そのとおりに事は運び、処理してのけたわけですが、万が一彼のプランをはみ出す結果になっても、彼にとっては痛くもかゆくもなかったでしょう。
 そこが時代環境が味方する、彼の強味であって、最初から彼の完勝が約束されていたという意味ではこの『蜻蛉日記』の作者にとって真の悲劇はそういう自分の生きる世界の絶対的な(つまり彼女にとってどうにもできない)構図そのものだということになるのかもしれません。
 


saysei at 22:09|PermalinkComments(0)

鏡の中の恋人

あーちゃん0
  インコのアーチャンは、最近水を替えたり餌を替えたり、掃除をしたりするときに、無性に外へ出たがって、ケージの前面を手前へ倒して水平にしてやると、おぼつかない足取り(老齢で爪が皆ひん曲がっていてまともにモノにつかまれない)で手前に出てくると、以前のようにそこからさあどうしようかと考え込んだり躊躇したりせずに、パッと飛び立って部屋の中を旋回して、ケージの向こう隅にはりつき、そこで間近に見える鏡の中の自分を向きあって、なにか呟きながら遊んでいます

あーちゃん1
 きょうは首をうんと伸ばして、くちばしとくちばしをくっつけ合い、ときに額を寄せ合って実に仲良くしていました。おそらく我々のように「自分」という自我の意識がないので、鏡の中の分身が自分だとは分からないのでしょう。これはインスタグラムなどでよく見る犬や猫の鏡に対する反応(そこにほかの仲間が居ると思って、鏡の裏を覗き込んだりする)をみても分かるように、犬猫でもその程度などで、ましてアーちゃんにはそれが自分であるとは気づけないでしょう。でも敵対的な感じではなくて、実に親密な恋人という感じなので、結構かと思います。近ごろはケージを開けると、待ちかねたように鏡の中の恋人と触れ合える位置へ飛んでいきます。

あーちゃん2
 ケージの中にいるときは、鏡との間に隙間があって直接触れ合えないので、こうしてケージを出ると鏡面に直接触れられますから、最近はそれに夢中です。
 彼は脚の先の爪は曲がっていて、うまくつかまれないこともありますが、ほかは実に元気で、よく食べ、よく遊び、そして自己主張が強くて結構わがままです。それが長生きの秘訣なのかも知れません。




saysei at 15:36|PermalinkComments(0)

4月末の庭

ツルキキョウ
  ツルキキョウ(つるにちにちそう)

シラーペルピアナ
 シラーペルピアナ(・・・というらしいです。ウェブ上に出ている写真と照らし合わせると・・・)
 これは昨日あたりから咲いている新顔です。そういえば毎年何本か花壇で咲いていました。わが家では花壇にも水を撒く程度で、不断何も手当しないので、残っているのやらいないのやら、われわれも知らないので、その分、毎年どんなものが出て来るのか、楽しみではあります。

オレンジレモンのつぼみ

 オレンジレモンが沢山のつぼみをつけています。ほとんどは落ちてしまって実にはならないのですが。

葉を鑑賞するらしい
 子の白っぽいハート形の大きな葉は、パートナーによれば、綺麗だから石垣の縁なんかに植えられるとか。色々ウェブサイトで調べてみましたが名前はわかりませんでした。たしかに葉としてはきれいです。狭いわが家の庭ではキンカンの樹の下で、フキとツワブキの葉に押され気味ですが・・・

カシワバアシサイ
 カシワバアジサイ。たくさんつぼみらしきものが育ってきています。これは白い大きな花房をつけ、けっこう賑やかな花です。

共同庭の桜
 共同庭はまだ先日来の八重桜が散ったあとが地面(簡易タイル敷木)にへばりついて遠目には綺麗です。

シャガ
 シャガもまだ咲いています。

バジルの芽
 わが家の庭に置いた鉢の中でバジルが目を出しました。

パクチーの芽
 なかなか芽の出なかったパクチー(コリアンダー)もやっとほんの少しだけ芽が出てきました

ディルの芽
 ディルは活発に芽を噴いています

クレソンの芽
 ルッコラがこれだったか・・・

クレソンか
 これはクレソンだったか・・・わからなくなってきた(笑)

蓮華じゃなかった
 共同庭の中心部にはお隣の方が植えられた蓮華がいつもこの時期咲いていたのですが、近寄って見ると全然別の赤い花、多分雑草の花でしょうが、咲いていました。

















saysei at 15:24|PermalinkComments(2)
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