2024年03月

2024年03月31日

「尾張国郡司百姓等解」が話題に~きょうの「光る君へ」

 きょう夕食前にBSで「光る君へ」を見ていたら、地方などから出される様々な訴状などを審議する場面で、国司があくどいことをして地方の住民から訴えが出ているのをどうするかで、道長の兄道隆らが、そんなものをいちいち取り上げていたら、ますます地方の民が増長して訴えてくるぞ、というので取り上げず、帝にもお見せしない、と決めかける場面で、異論はないですな?と念押ししたら、末席近くにいた道長が、これはきちんと向き合って審議すべきだ、民あっての我々ではないか、と異論を呈する場面がありました。

 そのときに歴史的に良く知られた尾張国で郡司百姓等が国司藤原元命の法を逸脱した権力の行使で自分の利益を図ったことを告発したときのことがチラッと出てきました。以前(2024年02月23日)に、私も「尾張国郡司百姓等解」を読むで取り上げたことがあります。

 あのときにも書きましたが、藤原行成の『權紀』に、地方からの貢納する米の減免に関する文書について、部下が作ったその文書を天皇の最終決済に回す文書から行成が一存で外したことで道長が機嫌を損ねたという記述がありました。道長は自分たちの貴族社会の基盤がそうした地方の生産にあることをよく分かっていて、地方の実情や地方からのその種の訴えには相当敏感に気を遣っていたのだな、とその時に思いました。


きょうの夕餉

★レモンクリームパスタ
 小松菜、ブロッコリ、シイタケ、ローストチキンのレモンクリーム・パスタ。あっさりして春らしい味と色彩の、野菜の甘味、レモンの爽やかな香りが楽しめる美味しいパスタでした。

★ボルシチ
 メインディッシュの肉団子入りボルシチ。白菜が美味しい。

★チーズ
 チーズ各種。このチーズには随分楽しませてもらいました。

★バケット
 バケット

★キンカン入りサラダ
 キンカン入りグリーンサラダ。先日アマゾンで発注したキンカンがもう届きました。送料込みの1kg 2580円だったかな。とても甘く、美味しい大きな粒のキンカンでした。ジャムにしたり、パウンドケーキに入れたりして使うようですが、こうしてサラダと一緒に食べても美味しくいただけます。

(以上でした)


 きょうも『華厳経』三昧と言いたいところですが、三昧という境地にはなれず、何人目かの「夜の女神」の冗長な繰り返しの多い文体に閉口しているところです。そうでなくても抗アレルギー薬アスゲンのせいで眠くて仕方ないので、ちょっと本を伏せて休んでいると寝入ってしまいます。私はとうてい菩薩の解脱は得られそうにありません。




 

saysei at 20:38|PermalinkComments(0)

2024年03月28日

きょうの夕餉

★鯵のフライ
  鯵のフライ、新タマネギの肉巻きフライ、ヨーグルト入りタルタルソース

★フロフキ大根
 フロフキダイコン

★ホウレンソウ
 ホウレンソウのおひたし

★もずくきゅうり
 モズクきゅうり酢

★五目納豆
 五目黒豆納豆

(以上でした)

 きょうもお経を読んでいただけでした。私の場合はお経を唱えるわけではなくて、普通の読書のように読んで何が書いてあるかを自分なりに理解して、そこにどんな興味深いものの考え方があるかを楽しむ、というだけですが・・・このところ、いきがかり上、たまたまこれまでほとんど読んでこなかった仏典が続いているだけで、ほんとうは早く言語表現や心の問題や医療や経済や国家のことや歴史や和歌や・・・といったものに戻りたいと思っているのですが、超スローペースなうえ、あれもこれもと欲張っているから、なかなか進みません。大谷選手のことも気になるし(笑)。


saysei at 20:36|PermalinkComments(0)

『華厳経』~その2

 ちょっと長くなりそうなので、まだ「中巻」は120頁少々しか読み進まないけれど、メモを上げておきます。昨日ちょっと書いた「仏≒貨幣説」(笑)を最後のところに書きましたので。


 

 以下の引用はすべて、岩波文庫『梵文和訳 華厳経入法界品』(中)〔梶山雄一、丹治昭義、津田真一、田村智淳、桂紹隆 訳注 2021刊〕によります。

 

マハープラバ〔大光〕王

 

  文殊菩薩に、さとりをひらき、仏の智の海に悟入するには、数多くの「善知識」たちに学ばなくてはならないと助言された善財童子は、岩波文庫の上巻ですでに17人の善知識たちのもとを次々に訪れて菩薩行についての教えを請いますが、いずれの善知識も特定の解脱を獲得してはいても、すぐれた菩薩たちの修行法やその功徳について自分は語ることはできない、と言って童子に次の善知識のところを訪ねるよう助言します。

中巻の冒頭は、上巻の最後で、アナラ王から訪れるように勧められたスプラバ〔妙光〕という都城に住むマハープラバ〔大光〕王のもとを善財童子が訪れたところから始まります。

大光王の宮殿は宝玉でできた素晴らしく豪奢で美しいものですが、もとより善財童子はそんなものには関心が無く、心惹かれることもありません。王に向き合うと童子は早速菩薩行をどう学びどう修行すべきかと訊ねます。

王は「大慈の旗印」という菩薩行〔大慈幢行〕の智の光明の門を知って、法によって王国を統治し、法によって世間の人々に恵みを与え、法の真理を衆生に説いて導く菩薩行を実現してきたが、それをはるかに超える菩薩たちの行や功徳を語ることは自分にはできない、と告げ、善財童子に南方のスティラー〔安住〕という王都に住むアチャラー〔不動〕という優婆夷を訪ねよと助言します。そこで童子は王に別れを告げてアチェラー優婆夷のところを訪ねていきます。

 

アチャラー〔不動〕優婆夷

 

 大光王と別れて不動優婆夷を訪ねる途上、善財童子はいつものように、いま教えを請うた善知識から自分が学んだことを反芻し、善知識にまみえることがあらゆる菩薩行の完成にいたる原因であり、菩薩の強固な能力の根芽を育てるものであることに気付き、善知識が自分を法界の真理の海へと導く存在であることに気付きます。

 優婆夷アチャラーは自分の家で父母と共に暮らす子供でしたが、一族の人々に囲まれ、大衆に法を説いています。その容色は凌駕する者もないほど美しく、彼女が放つ芳香は類例のない素晴らしいもので、その光明、輝きは菩薩の光明以外に凌駕するものがないほどです。それでいて彼女を愛欲の心で見つめることのできる衆生は一人もいなかった、とわざわざ記されています。

 菩薩行について教えを請う善財童子に対して、アチャラーは、自分は無敵の智の蔵〔智慧蔵〕という菩薩の解脱を得て、「あらゆる法の平等性の位の陀羅尼門を得て」おり、「あらゆる法の地平を明らかに示す弁才の智の光明の門に入り」、「倦むことなき法の追求の荘厳という三昧門を得て」いると伝えて、それが実現した経緯を語り、それによって起こる奇蹟を見たいかと訊ね、童子が見たいと答えると彼女は三昧に入り、童子は如来たちの姿を目の当たりにします。

 その後にアチャラーは善財童子に、こうした自在の境地にあり無量の功徳を具えた菩薩たちの行を知り、功徳を語ることは自分ごときにはできないと告げ、南方アミタ・トーサラの国のトーサラという都城に住むサルヴァガーミン〔遍行〕という遊行者を訪ねなさいと助言します。

 

遊行者サルヴァガーミン〔遍行〕

 

 アミタ・トーサラに到着した善財童子は、山の峰に大光明が周囲を明るく照らし出しているのを見て近づくと、経行所(きんひんしょ)で経行している遊行者サルヴァガーミンに出遇います。彼は「あらゆる衆生に合わせる〔至一切処〕という菩薩行によって、あらゆる普門を観察する光明という三昧門を具え、すべての衆生の利益(利益)を図り、齎しているといいます。しかしそうした能力をはるかに超えて際限ない大悲を内に秘め、あらゆる衆生の善根の生起に向かう菩薩たちの行を知り、その功徳を語ることは、自分にはとうていできない、と告げ、南の国プリト。ラーシュトラ〔広大〕国で暮らすウトパラプーティ〔優鉢羅華〕という香料商の長者を訪ねるよう助言します。

 

香料商ウトパラブーティ〔優鉢羅華〕

 

 善財童子はウトパラブーティに挨拶ののち、菩薩行をどう学び修めるべきかと訊ねます。ウトパラブーティはすべての香料を知っており、その調合法も熟知しているほか、すべての練香(ねりこう)、すべての塗香(ずこう)、すべての抹香を知り、その調合法を知り、神々や鬼神の香料を知り、様々な効果、様々な用途の香料に精通し、「人の世に象の擾乱〔龍闘〕より生じる象蔵という名の香料」、身に塗れば焼かれることがない牛頭という名の栴檀香、それを太鼓や螺貝に塗って鳴らせば敵の全軍を打ち破ることができる不能勝という香料等々特別な香料の調合法にも精通している、と言います。しかし、あらゆる欲望や煩悩を超えた菩薩たちの行を説くことは自分にはできない、と言い、南のクーターガーラ〔楼閣〕という都城に住むヴァイラ〔婆施羅〕という船頭を訪ねるようにと告げます。

 

船頭ヴァイラ〔婆施羅〕

 

 善財童子はウトパラブーティに指定されたクーターガーラ都城へ向かう途上、こうして善知識のもとを訪ね歩くことは「菩薩道の修行の原因なるだろう」と考えます。童子の旅は、一見すると、つぎつぎに善知識のところを訪ねるものの、求める菩薩の修行法についてはどの善知識からもその解答が得られず、ただ次々に別の善知識を訪ねよと言われて、いわば「たらい廻し」にされる空しい旅の繰返しのように見えますが、じつはそうではないわけです。

 

 一人一人の善知識は領域は狭いかも知れないけれど、それぞれの得意とする領域で<解脱>を果たし、その領域に関しては並ぶもののない智あるいは技量を身に着けた人々であって、無数の衆生から慕われ崇められる存在なのです。従って、彼等のなしとげた解脱について聴くだけでも、善財童子はそのたびごとに新たな智を獲得し、成長していくわけです。

 

 わたしにとってかの善知識の下に近づくこのことは、菩薩道の修行の原因となろう。波羅蜜道の修行の原因となり、すべての衆生を摂取する智の道の修行の原因となろう。・・・すべての衆生が・・・錯誤なく一切智者性の街に至るための原因となろう。それはどうしてか。あらゆる善い法は善知識を鉱脈とし、一切智者性は善知識を依り所とする[からである。] (p69)

 

 こうして善財童子はクーターガーラ都城の門前の海に入る岸辺で、大勢の貿易商や衆生に囲まれて海のことを語っている船頭ヴァイラのところへやって来て、彼に菩薩行をどのように修めるべきかと教えを請います。

 ヴァイラ船頭は自分がここで船頭の仕事をしながら、「大悲の旗印」という菩薩行を清浄にしながら住んでいる、と言い、海にまつわるすべての宝島、宝石の鉱山、鉱脈、龍の宮殿等に精通し、波浪、渦巻、風、あるいは天体の運行など海に関わりのあるあらゆる現象について熟知し、船の装置の操作、見張り、運転などについて知っており、貿易商たちを安全な航路に導き、常に衆生の利益のための行いに努めていると語ります。

  彼の語る「海」は、目の前の現実の海であると同時に、「輪廻の海」や「一切智者の海」、「心の海」のメタフォーでもあるようです。

 

 善男子よ、わたしを視界に入れた衆生たちや私の説法を聞く衆生たち、彼等は輪廻の海に沈む恐れがまったくなくなり、一切智者性の海に入る智を現前し、渇愛の海を干上げるために修行し、(過去などの)三世の海を(照らす)智の光明を獲得し、あらゆる衆生の苦しみの海を滅尽するために奮闘し、あらゆる衆生の心の海の濁りを清澄にするために努力し、あらゆる国土海を清浄にするために精進を起こし、あらゆる方角の海に遍満するために退転せず、あらゆる世の衆生の機根の海の区別を見抜き、あらゆる衆生の行ないの海に随順し、願いに応じて世の衆生の海に影像を現す。 p73

 

 しかし、この船頭ヴァイラもまた、上級菩薩たちの修行やその功徳について語ることは自分にはできない、と童子に告げ、同じ南の地方にあるナンディハーラ〔可楽〕という都城に住む長者ジャヨーッタマ〔無上勝〕のもとを訪ねるよう助言します。

 

 

ジャヨーッタマ〔無上勝〕長者

 

 善財童子は教えられたナンディハーラ都城の東側の境界にあるヴィチトラ・ドヴァジャー〔大荘厳幢〕というアショーカ〔無憂〕樹の小さな森の中で多くの家長に囲まれ、種々の都城の事務を決済し、それとの関連で宗教的な法話を説いているジャヨーッタマ長者を見つけ、法話が終わると挨拶をし、菩薩行をいかに学ぶべきかを尋ねます。

 彼は「何ものをも依り所としない、業をつくることのない神通によって得た力にって、<あらゆる所に赴く>菩薩行の清浄の門に立って、あらゆる世界のあらゆる住居、村落、都城、都市、地方、王国、王都などあらゆるところに赴いて、あらゆる欲界に属するすべての衆生の境遇で教えを説く」と語りますが、やはり上級菩薩たちの行を知り功徳を語ることは自分にはできないと告げ、善財童子に、同じ南の地方にあるシュローナーパラーンタ(輸那)国の都城カリンガヴァナ(迦陵迦林)に住むシンハヴィジュリンビター〔獅子奮迅〕という比丘尼のもとへ行って学ぶようにと告げます。

 

 

シンハヴィジュリンビター〔獅子奮迅〕比丘尼

 

 カリンガヴァナという都城にやってきた善財童子が、シンハヴィジュリンビター比丘尼を探していると、大勢の少年少女があとについてきて、比丘尼はスーリヤプラバという大園林で説法していると告げ、童子はその宝玉で埋め尽くされたような広大な園林へ行きます。この大園林の荘厳は比丘尼菩薩の前世の業の果報が成就したものであり、彼女の偉大な善根から生じ、無数の仏に対する供養から流れ出たものなのです。

 

 「そして、かの様々な宝樹の根元にある無数の大いなる獅子座には、どれにもすべて獅子奮迅比丘尼が大勢の従者に取り巻かれて座っているのが見えた」(p87

 

 ・・・ということは、この比丘尼は分身の術が使えるのでしょうね(笑)。いやこういう菩薩たちはもともと人間からみれば亡くなって菩薩になったあの世の人であり、実体のない「影像」のようなものでしょうから、同時に同一人物が別の場所に現われても何の不思議もないのかもしれません。そして、そういう彼女(たち)が座っている獅子座を取り巻いて、様々な聴衆が座っているのが見えた、と言います。それぞれの獅子座で比丘尼が発心したばかりの菩薩や天の子、梵天衆の子女たちに説教しているのを善財童子は見ます。

 

  比丘尼の説く法門は実に幅広い領域にわたります。こういうのを、これでもか、これでもかと列挙するのが、このお経の表現の特徴の一つです。ひとつひとつに詳しい説明はないし、それぞれの法門は仏教界でオーソライズされたカテゴリーになっているのか、あるいはこのお経のここだけの表現に過ぎないのか、私にはわかりませんが、そのそれぞれの法門の名称を見ただけでは、どんなことなのか、なかなか見当がつきませんが、面白そうだなと思います。「法界という籠に身体がみごとに配分される境界という法門」なんて、いったいどういうことを言っているのか・・・。タイトルだけ見ていると、なぜこれが同じレベルの法門として列挙されるのか分からないということもあります。

 

・無尽なる解脱の分析〔無尽解脱〕という法門

・普き法界の地平の分析という音声の輪(マンダラ)の浄化〔普門差別清浄言音輪〕

・菩薩の救道心を自在に浄化する荘厳〔菩薩清浄心自在荘厳〕

・一切法の清浄なる荘厳〔一切法善荘厳〕

・自らの心の宝庫の旋回〔自心蔵旋転〕

・無限の荘厳〔無辺荘厳〕

・厭離門

・仏境界光明荘厳

・人々を救済する宝庫〔救護衆生蔵〕

・無尽の喜悦〔無尽喜〕

・法界に至る智の道の素早い荘厳〔速疾荘厳法界智門〕

・生存の海を畏怖する境界〔怖動諸有海〕

・仏の偉業の輝き〔仏行光明〕

・優れた智の歩み〔殊勝行〕

・慈悲心を生じる〔発生非愍心〕

・優れた智の威力〔勝智威力大光明〕

・広大なる仏の功徳の輝き〔仏功徳広大光明〕

・普門三昧智光明門

・一切諸仏の誓願の集まり〔一切仏願聚〕

・無垢輪(三昧門)

・寂静荘厳(三昧門)

・一切智者性の威力の境界を産む〔一切智勢力境界〕(三昧門)

・心の蔓草に咲く華を内蔵する〔妙華蔵〕(三昧門)

・思慮遮那蔵(三昧門)

・地の普き荘厳〔普荘厳地〕(三昧門)

・法界という籠に身体がみごとに配分される境界〔普遍法界境界化現身〕(三昧門)

・無所得力荘厳

・無礙輪(三昧門)

・ナーラーヤナ神の如き智の金剛杵の荘厳〔金剛智那羅延荘厳〕

 

 こうした多彩な法を、それぞれの聴衆に相応しいものを選んで比丘尼は説いていたようです。そういうことが可能なのは、比丘尼が次のような「百千阿僧祇数の十般若波羅蜜門に入っているから」だそうです。要は彼女はすでにこういう能力を会得しているから、上のように自分以外の衆生や菩薩たちに教説を説くことができるのだ、ということでしょう。

 

比丘尼がさとりを得て会得した能力、般若波羅蜜門を列挙すると;

 

   普眼によってすべての存在を平等視する〔普眼捨得〕という般若波羅蜜門

   一切の仏法を説く〔説一切仏法〕という般若波羅蜜門

   法界の諸地平の弁別〔法界差別(しゃべつ)〕という般若波羅蜜門

   一切の障害の輪(マンダラ)を打破する〔散壊一切障礙輪〕という般若波羅蜜門

   一切衆生に善心を生じさせる〔生一切衆生善心〕という般若波羅蜜門

   すばらしき荘厳〔殊勝荘厳〕という般若波羅蜜門

   無礙の真実を内蔵する〔無礙真実蔵〕という般若波羅蜜門

   法界の全域(マンダラ)〔法界円満〕という般若波羅蜜門

   心の宝庫〔心蔵〕という般若波羅蜜門

   普く喜ばれる成就を内蔵する〔普出生蔵〕般若波羅蜜門

 

 比丘尼は、「私は一切の慢心を打ち破る〔除滅一切微細分別門〕という菩薩の解脱を体得しており、これは三世に属する一切法の荘厳を一心刹那の間に辺際まで顕現させる智の光明であり、自分がこの智光明に入って出てくると、一切法を具有するという三昧〔出生一切法三昧王〕が生じ、この三昧を体得するや否や、意から成る複数の身体によって、十方すべての一切世界にある兜率天の宮殿にいる、もう一生だけ輪廻に縛られた〔一生所繋〕一切の菩薩たちのところへ行き、その一人一人の菩薩に、無数の身体によって、無数の種々の供養をすることになるが、私がこのように諸仏に供養し奉仕することを知る衆生たちはみな無上正等覚に必ず到達する者となるし、私の所へやって来る衆生たちにはみなこの般若波羅蜜の教訓、教誡を授ける」と語ります。

 

 そして又次のように言います。

 

私は、智眼によって、一切の衆生を見ることができますが、衆生という思いを起こしませんし、慢心をいだきません。あらゆる世の衆生の言葉の海を聞くことができますが、言語道に執着せぬゆえ、慢心をいだきません。一切の如来を見ることができますが、法の身体〔法身〕を普く知るゆえ、慢心をいだきません。一切の如来の法輪を保持していますが、法の本質を知るゆえ、慢心をいだきません。心刹那ごとに法界全体に遍満しますが、法性は幻とさとるゆえ、慢心をいだきません。

 

と言います。これはなかなかの名文句というか、すばらしい言説ですね。

 

 彼女もやはり、この除滅一切微細分別門という菩薩の門を知るだけだから、周辺も中央もない法界に悟入した菩薩の卓越した行を知り、功徳を語ることはできない、と告げて、この南の地方にあるドゥルガ〔険難〕国のラトナヴューハ〔宝荘厳〕という都城に住むヴァスミトラ―〔婆須蜜多〕という遊女を訪ねなさい、と言います。

 

 

遊女ヴァスミトラー〔婆須蜜多〕

 

ドゥルガ国の都城ラトナヴューハに着いて遊女ヴァスミトラーを探す善財童子に、ヴァスミトラーの「諸々の功徳」も「智の行境の種々の様相」も知らない人々は、こんな立派な若者が遊女などに一体何の用があるのだろうと訝り、ヴァスミトラーの優れた功徳を知るか、もしくは彼女の智の行境を直接知る人々は善財童子がひたすらこと〔仏果位〕を追求し、自らが衆生の依り所になろうと望んでいることを知って、ヴァスミトラーが都城の中央の広場北側にある自宅にいることを教えてくれます。

 

 ヴァスミトラーの邸宅は宝玉に飾られて輝く、すばらしい香りが漂い、甘く美しい音色の聞こえる住まいでした。そして本人は容姿端麗、清らかで好ましく、肌は金色で黒髪、声は魅力にあふれています。「輪字の荘厳という菩薩の解脱に熟達し、一切の技芸論に完全に熟達し、諸法の智は幻であると熟達するよう良く訓練され、あらゆる形の菩薩の救済手段〔方便門〕を体得しています。

 

 彼女は善財童子の懇請に対して、自分は離欲の究極を究めた〔離貪欲際〕という菩薩の解脱を体得しており、衆生たちが欲望に心を捉われて私の所にやって来れば、全員が欲望を離れるようになるよう、法を説き、その法を聞くと、彼等は欲望を離れた状態になり、菩薩の無著境界三昧を獲得する、と言います。

 たとえば、ある人々は彼女を抱き締めるだけで、欲望を離れた状態に達し、菩薩の一切の世の衆生を摂取し、捨てない蔵〔摂一切衆生生恒不捨難〕という三昧を獲得するし、彼女に接吻するだけで欲望を離れた状態に達し、一切の世間の人々の功徳の宝庫に触れる〔増長一切衆生功徳蔵〕という菩薩の三昧を獲得する、と語ります。

 

 彼女がどこに善根を植え、いかなる善業を積んでそんな成功を収めたのかと訊く善財童子に対して、彼女は語ります。過去世で自分は長者の妻であったが、高行という名の如来がスムカ―という王都へ来て城門に足を踏み入れたとたんに都城全体が震動し、町が宝石だらけになる奇蹟が起きた。彼女は夫とともに高行如来の所へ行き、深い浄信を生じて一枚の宝石の硬貨を差し上げた。そのとき、高行如来の侍者を務めていた文殊師利法王子が彼女を無上正等覚に向けて発心させた、と。

 

 そして、彼女は離欲の究極を究めたという菩薩の解脱を知るのみで、菩薩たちの行を知り功徳を語ることはできない、と言って、善財童子にこの南の地方にある都城シュバ・バーランガマ〔浄達彼岸〕のヴェーシュティラ〔毘瑟底羅〕という家長を訪ねなさいと告げます。彼は栴檀の台座の如来の塔廟を常に供養しているというのです。

 

 ここに描かれたような、容姿も肌の美しさも香りも声も素晴らしい魅力的な女性、それもコケットリーな遊女に、多少抹香臭い教説を聞かされたとしても、彼女を抱き、接吻までして愛欲の情を催さず、逆にどんどん冷めて離欲の極へ向かう、というのはちょっと信じがたい(笑)ですが、まあそういうことも絶対にないとは言えませんから・・・ こういう人物を登場させるところもなかなか面白いですね。

 

 

ヴェーシュティラ家長〔毘瑟底羅〕

 

 遊女ヴァスミトラーの助言に従ってヴェーシュティラ家長のもとを訪れ、善財童子はまた菩薩行をいかにして学ぶか教えを請います。

 どうやらこのヴェーシュティラという善知識は、「不究尽の果て〔不滅度際〕」という菩提の解脱を獲得していて、この三昧の状態にあるとき、「一刹那に百人の仏にまみえ、直観し、その直後の心で千人の仏を直観し、その直後の心で不可説不可説教の仏国土の微塵の数に等しい如来を直観する」というふうに、あらゆる仏、如来を直観することができるらしいのです。

 

 ただ、彼の語り口はいささか分かりにくいところがあるようです。

 

 「・・・所化(しょけ)の衆生のためでなければ、私の(身心の)連続からは如来がすべての世界において絶対的な涅槃によって過去に涅槃されたことがなく、現在も涅槃されず、未来にも涅槃されない。善男子よ、そういう私は(如来の遺骨を祀る)栴檀の座のある如来の塔廟の扉を開く。そして私がその扉を開いたとき、私は不尽の仏の系譜の荘厳という菩薩の三昧を獲得したのである。善男子よ、私はまさにこの三昧に各々の心の刹那に入っており、すべての心の刹那に多くの特殊の様相を証得する。」(p108-109

 

  仏教経典でしか使わない特殊用語のせいかもしれませんが、現代語訳と言っても、この訳では何を言っているのかちょっと理解しがたいですね。

 

  いずれにせよ、ここでも善財童子は所期の目的を達することができず、次に訪ねるべき善知識として、同じ南の地方、ポータラカ〔洛迦〕という山に住む菩薩アヴァローキテーシュヴァラ〔観世音/観自在〕を訪ねよと告げられます。

 

 

観世音菩薩〔補洛迦

 

  いよいよわたしの守護神あるらしい観音様のところまで来ました。私の守護神というのは、亡母が大昔に占い師かなにかにみてもらったとかで、そんなことを言っていたのです。私の母は合理的にものを考えることのできる人でしたが、ときどき妙に神憑りみたいなことを言い出すようなところがあり、また実際些細な事では奇妙なことが起きたりすることもあったり、こちらがそれで結果的に恩恵を受けることもあったので、あれはいったい何だったんだろう、と思うことが時々あります。
 別段特定の宗教に深入りするでもなく、神仏を本気で信じているわけでもなく、ふだんはどちらかと言えば近代的、合理的な考え方をし、迷信などまるで信じないのに、自分が出せば必ず当たるから、と私たちの公団住宅の抽選申し込みの書類を自分が投函して、25倍もの倍率だった住宅を引き当てたり、仏壇に宝くじ券を具えて、夫婦同時に宝くじを当てたり(100万円と10万円でしたが)、ひょっとしたら私の大学入学試験合格も(笑)・・・

 いわゆるエキセントリックなところがあるというのか、ちょっと神経が高ぶると、ふだんとは違ってくる(悪くするとヒステリー状態になる)ようなところがあって、あれは大昔ならシャーマン的な資質なのかも、なんて思っていました。とりたててどうということもなく、もう二十三回忌を迎えるのですが。

 

 閑話休題。善財童子はこの観音さんが金剛宝石の岩の上で結跏趺坐している観音様のところへやって来て、菩薩行のやり方を教えてくれと頼みます。観音は彼を歓迎し、自分は「遅滞のない大悲の門」という菩薩行の門に立っていて、すべての如来の足元から動かずにいて、この門を清浄にし、すべての衆生の庇護者になる誓願を起こしているのだと言います。彼がやっていることは、すべての衆生の、様々な恐怖を払い、鎮め、除き、あらあゆる衆生の苦しみ、煩悶を一掃するよう、それら衆生の庇護の場所になろうという誓願を成就したのだということでした。

 しかし、やはり観音も菩薩の行を知り、功徳を語ることは自分にはできない、と言います。

 

 よく知られた観音様でさえ語り得ない菩薩や菩薩の行、功徳とはいったいどんなものなのか、観音様を観音菩薩として拝んで来た私たちにはちょっと理解に苦しむところです。観音も相当高級な(えらい)菩薩じゃないのか、と。観音が語れないほどの菩薩行をする菩薩っていったい誰のことだ?と。

 

 しかし、なぜ自分が菩薩の行について語れないかを語る観音の言葉をよく読んでみると、少しはその辺がわかるような気がしないでもありません。

 

菩薩方は、(1) 普く優れ〔普賢〕、(2) すべての仏の誓願の輪(マンダラ)を清浄にし、(3) 普賢なる菩薩行に巧みで、(4) 間断なく善法を実行する流れに入り、(5) すべての菩薩の三昧の流れに常に入っており、(6) あらゆる劫に(衆生とともに)生存して(菩薩)行から退転することのない流れに入り、(7) 三世のすべての真理に従う流れに入り、(10)すべての衆生の善き心を増大する流れに入り、(11) すべての衆生を輪廻の流れから呼び戻す流れに入っている(方々である、そういう菩薩方の)行を知り、功徳を語ることがどうして私にできようか(p119)

 

こういう「菩薩方」がやっていることと、これまで善財童子が訪ねて来た善知識たちがやっていることとの違いは何か、と言えば、後者がやっていることが或る限られた、特定の領域に属することである場合が多いのに対して、前者がやっていることは特定の領域に属することではなく、そうした領域や特定の技術に属するようなことではなくて、普遍的なことだ、ということです。

これまでの善知識たちが語ったそれら「菩薩方」の行というのも、多かれ少なかれ、それらと個々の善知識たちの得た解脱との違いは、普遍的か、個別あるいは特殊であるかの相違ではないかと思います。

 

従って、個々の善知識たちは、部分的、個別的な菩薩の行のありようを語ってはいるので、善財童子が仏の智の海に到達したい、と考えているその目的にとって、まったく役に立たない知識や経験ではないわけです。だからこそ、善知識たちを訪れてその語る言葉を聴いた善財童子が喜びに溢れ、またひとつ知識と経験を得ることができたというように満たされた気持になるのは、一歩ごとに最終目的に向けて前進しているという手ごたえを感じているからでしょう。

 

しかし、個々の善知識たちが語る知識や経験はあくまでも彼らが獲得した特定の解脱領域に関するものであって、そこにすべての解脱、仏の智の海に最終的に悟入するために必要な行だとは言えません。善財童子が求めているのは、より高度な普遍的な解脱を自在に会得している、菩薩たちの普遍的な行のあり方であり、その進め方なのです。

 

こういうパターンの繰返しをここまで27人にのぼる善知識への接触で見てくると、唐突ではありますが、私にはこの菩薩行のシステムが市場を流通する商品や貨幣を動かすシステムのメタフォーのように見えて来て仕方がありません。
 もとより仏教、すくなくとも今読んでいる大乗仏教が成立した時代のお坊さんたちが、なにか現実の事象のメタフォーとしてお経を考え出したなんてことはあり得ないので、妄想にすぎないのですが、もしもそんな時代にも都市部ではかなりの程度に市場経済が発達して、人々がそれに馴染んでいたとすれば、そうした可視的・不可視的なシステムの論理構造が、まったく異なる世界を考える場合に、個々の要素の違いを捨象する形で移し替えられる、ということは結果的にはあり得ないことではないと思います。

 

端的に言えば、善財童子が訪ねる個々の善知識らの特定の領域での解脱は、市場社会において売り買いされる個々の姿形の異なる使用価値としての商品であり、善財童子が探し求める普遍的な解脱は万能の貨幣に置き換えることができます。
 個々の善知識と知識をやりとりして自分の知識や経験を積んで成長していく善財童子はさしずめどの有用価値とも交換可能な交換価値であり、貨幣またはその萌芽のような存在です。そして、それは旅をつづけ、異なる善知識と出遭っていくにつれて、いわば資本として自己増殖していくでしょう。

 

それがどこへいきつくかと言えば、もはや個々の特定の解脱、個々の有用な商品の有用性とは関わりのない「価値」そのもの追求であり、その自己増殖ということになります。
 しかし、貨幣と同様に、その「価値」なるものは有用性に支えられているものではなく、その交換システムという体系自体に支えられているので、貨幣が単に信用で支えられているだけで、それ自体に存立の根拠を持っていないように、華厳経における究極の普遍的な価値もまた、それ自体に存立の根拠を持たない、そう言ってよければ、空虚自体がこの体系の究極の根拠であり目標でもあるものとして(資本主義社会でお金が崇められるように)崇められるでしょうし、まさに「空(くう)」なるものがこの価値の体系全体を支えているのだと言ってもよいでしょう。


to be continued ・・・







saysei at 18:35|PermalinkComments(0)

2024年03月27日

快晴の比叡~仏は貨幣のメタフォーか(『華厳経』)

比叡1
  久しぶりにほぼ快晴の空の下で比叡を眺めることができました。ぐずついた天気だからどうこうと何か自分に影響があるようなことをかかえているわけでもないけれど(笑)、やっぱりちょっと自転車を走らせて外の空気に触れ、緑や花や田園風景を楽しみ、なんとなく気分が晴れやかで(花粉症さえなければ)読み書きの意欲も湧いてくる、というわけで、雨やどんよりした天気だとこちらの気分も重い。

  きょうは上賀茂の野菜自動販売機を6つ覗いてみましたが、いずれもほとんど空っぽ。まさに上賀茂農家は端境期のようです。早く上賀茂の新鮮で美味しい野菜が食べたい。


きょうの夕餉

★蒸し鶏
 蒸し鶏

★セロリ入り餃子
 セロリ入り餃子

★菜の花マヨネーズ
 菜の花マヨネーズ

★ギンダラの味噌漬け
 ギンダラの味噌漬け

★ブリ大根、ゴボウ葉つくだに
 ブリ大根、ゴボウの葉の佃煮(のこりもの)

 あと、白菜、ネギ、ニラ入りのスープがあったのですが、写真が撮れてなかった。

 大谷選手の記者会見は日本では概ね好意的に受け止められているようです。しかし米国には色々シビアなことを書き募るような記者もいるらしい。大谷についても、日本人についても、まったく理解していないし、しようともしない、トランプ並みの万事「アメリカ・ファースト」みたいな連中は当然あるでしょうし、一点も非の打ち所がない大谷選手になにかマイナスになりうることが見つかれば、たちまちハイエナのように寄って来てあることないこと憶測で書き散らすような連中もあることでしょう。しかし大谷選手はこのつらい時期をきっと乗り越えて、またもとのような活躍を見せてくれるだろうと期待しています。

 それにしても会見の席にドジャースの二人の選手が一緒につきあって、なんで来たんだと訊かれると、ラテン系の通訳がいるだろうと思ってさ、とジョークを言っていたそうですが、こういう同僚たちの、ただ傍についていてやろうという気づかいには感動しますね。エンゼルスでもドジャースでも彼は愛され、信頼されていることが断片的に報じられる様子からもよく分かります。よかったね。

 きょうも『華厳経入法界品』の文庫2冊目を、少し丁寧に読んでいました。善財童子が仏の智慧の海に悟入せんがために、菩薩の修行をどのようにすればそれが可能かを、一人また一人と勧められるままに何らかの解脱を得た「善知識」と称される先達たちのところをめぐる話なのですが、きょうは読んでいて、これは貨幣の成り立ちと本性を描いた物語ではないか、という妙な気分になりました。彼が訪ねる一人一人の善知識は、それぞれ特定の領域での解脱を得ていて、様々な有用な能力を身に着けています。これは様々な商品の有用価値みたいなものです。しかし、善財童子が求めているのは、むしろそれらの有用価値が問題にならない、より普遍的な価値であって、それぞれの特定領域での解脱ではなくて、いわばそれらの「哲学」であり、それらすべてを貫き、それらのいずれとも交換可能な価値にほかなりません。

 そして、それを善財童子は獲得しようとして訪ね歩いているわけですが、私の推測では、彼がそれを手にしたときには、それは何ら実体をもたず、何らの個別的な有用性も持たない、単なる価値であって、仏教的に言えば「空」なるものなのではないか、と思うのですが、どうでしょうか。その「空」なるもの、価値を求めて次から次へと有用な価値を持つ善知識たちのもとを訪ね、価値に近づく方法を尋ねるのですが、だれもそれを知らないのです。

 しかし善財童子はそうやって多くの善知識たちのあいだをめぐることによって、様々な教えを受け、知識と経験を蓄積していきます。このとき実は彼も個々の有用な解脱を得て成熟していくと同時に、そのいずれにも属さず、そのいずれとも交換できるような価値を自らの内に蓄積しているのではないかと思います。善知識たちの誰もが知らないという、より高級な菩薩たちが修行の果てにたどりついているはずの仏の智慧は、おそらくもはや何等の特定の領域の有用価値ではなく、それらを価値ならしめ、それらを交換可能な価値として成立させている根源としての価値そのものであるはずで、それを具象化すれば仏の姿になるか、あるいは貨幣の形象になるのではないでしょうか。

 まぁ、これはまだ全体の三分の一しか読まない、この興味深いお経を読んでいて私がいだいた妄想にすぎませんが・・・・むろん華厳経をつくりだした仏教徒が貨幣のメタフォーとしてこの経を書いたわけではないけれど(笑)、市場経済が一定の成熟をみせていた都市で、こうした仏教思想が生み出されたとすれば、人間の思考様式の同値性とでも言うのでしょうか、まるで異なった領域での思弁に、そうしたものが無意識のうちに影響を及ぼす、ということはありうるのではないでしょうか。

 そんな考えがあまりにも突拍子もないとすれば、ただ仏を貨幣に置き換えて読んでいくだけでも、けっこう面白いのではなかと思います。

saysei at 21:29|PermalinkComments(0)

2024年03月26日

『華厳経入法界品』を読む~その1

 以下の引用文はすべて岩波文庫『梵文和訳 華厳経入法界品』上・中・下(2021817日刊。梶山雄一、丹治昭義、津田真一、田村智淳、桂紹隆 訳注)によります。

 

 このお経は最初、釈迦牟尼仏の集会が行われる、ジェータ(太子)の林に、無数の菩薩たちが集まって来る華厳世界の展開場面から始まります。そもそも「華厳」というのが、仏の集まりを華飾に喩えた言葉らしく、それにふさわしい導入でしょう。

 

そこで、延々とその参加者である菩薩たちの名が列挙されています。ところでこの集会を主宰するはずの釈迦は、お説教もせずに「獅子奮迅三昧」となづけられた三昧に入ってしまいます。

三昧というのは心をひとつに集中して瞑想状態にはいることだと思いますが、客観的にみるとこれはいわゆる無我の境地というのか、感覚とか意識の上では外界を遮断してしまって、精神をなにかに集中してほかのことは一切かかわりない精神状態になってしまうような瞑想状態だと考えられます。

 

ほかの箇所で三昧という言葉が使われているところで、三昧から出てわれに返って、こう言った、というふうな記述がみられるので、三昧の最中というのは、いわば意識が飛んでしまっている状態だと言ってもいいのでしょう。

 

 釈迦がこの三昧に入ると、ただちに「神変」つまり超自然的なこと、奇蹟が起きます。

たとえばマハーヴューハという楼閣(大荘厳重閣講堂)やその周辺が広大になり、そこには宝石が敷き詰められ、瑠璃の柱、宝石の塔など、ありとあらゆる美しく豪華な装飾に彩られ、仏教用語でいう「荘厳」された状態に変わります。集会の会場であるジュータ林全体も広がります。

 

つまり釈迦の三昧入定とともに彼等の居る環境ががらっと変わって菩薩たちが集まるにふさわしい荘厳された(宗教的な装飾をほどこされた)環境に一変するという「神変」(奇蹟)が生じ、十方から菩薩たちが集まってきます。

 

 面白いことに、この「神変」は、やってくる菩薩たちには見えるのですが、おなじみのシャーリプトラ(舎利弗)やマウドガリヤーヤナ(目犍連)、マハーカーシャパ(珂迦葉)、レーヴァタ(離婆多)、スプーティ(須菩薩)等々、著名な声聞〔大声聞〕たちには、この如来の神変が見えないのです。

 

「それは何故かというと、(彼らは過去世において)一切の仏の神変を見ることを引き起こすような多くの善根を積まなかったからである」(p63)というのです。

「その他大勢」の菩薩たちにみえる釈迦の引き起こす神変が、これら、より修行を積んだ上級の菩薩たちに見えない、それは彼等が前世でそれにふさわしい善根を積んでこなかったからだ、というのですから、なかなかシビアです。

 

いろいろな菩薩たちが釈迦を讃え、様々な詩頌をとなえます。普賢菩薩が獅子奮迅三昧を解説し、文殊菩薩が現われ、序章の最後で善財童子なる長者の息子が文殊菩薩のところへやってきます。

 

この善財童子がなぜ善財と呼ばれるかといえば、善財が母胎に入るや否や、その家には七宝の芽が自然に生え出で、その七宝の芽の根元には七つの大きな宝蔵があり、その宝蔵からさらに金、銀、瑠璃、赤珠、瑪瑙、硨磲(しゃこ)の芽が伸びて地表を突き破って現われますが、十カ月過ぎるとその七つの宝蔵も大きくなり、宝石でつくられた五百の宝器が現われ出るなど、善財童子の誕生でその家に広大な繁栄が齎されたということで、善財という名がつけられたのでした。

 

彼は既に過去の諸仏に仕えて多くの善根を植え、無礙の菩提心を完成していたので、文殊が目にとめて歓迎し、彼に法を説いて去ります。

善財童子は文殊から離れようとせず、文殊を讃える詩頌を捧げ、文殊もまた童子に詩頌で応え、童子に「菩薩行を求めるなら、真の「善知識」たちのもとでその決意をかため、その教えを請う必要がある」と説き聞かせ、南の地方のラーマーヴァラーンタ〔可楽〕という国のスグリーヴァ〔妙峰〕という山に住むメーガシュリー〔徳雲〕という比丘を訪ねて、どのように菩薩行を学び、勤修すべきか教えを乞うようにと助言します。

 次々に訪れる善知識たちの住む場所、そのつど指示される次の場所がいつも「南」なのはなぜなんでしょうね。このジェータ林のある場所がずいぶん北の端にあるという理屈になるけれど・・・とにかく善財童子は、これ以後、南へ南へと向かうことになります。

 

これが旅の始まりで、善財童子は最初に、文殊が示したメーガシュリー〔徳雲〕を訪ねてラーマーヴァラーンタ国へ行きます。

ここからは、パターンが同じで、善財童子は、自分は既に「無上正等覚」に向けて発心したが、ここから先、どのような菩薩の修行をすれば「仏の智の海に悟入する」ことができるのか、と教えを請うのですが、彼が訪ねる相手は、いずれも或るひとつの解脱をなしとげてはいるものの、自身よりもすぐれた能力をもつ菩薩たちの修行の方法やその功徳について語ることは自分にはできない、と次々に別の助言者の名を挙げて、善財童子に訪ねるようにと勧めます。

 

善財童子はそのそれぞれの解脱者のアドバイスに従って、次々に異なる場所に居る「善知識」のもとへ教えを請いに行きます。そのたびにそれぞれの解脱者の能力や教説が披露されますが、善財童子が求める菩薩の修行に関して十全な答えを与えうるものはおらず、彼は助言者たち(善知識)たちからそれぞれに学び、成長しながら、次々に新たな善知識のもとを訪れるのです。

 

メーガシュリー〔徳雲〕比丘:「一切諸仏の境界を顕現させ、その集合する様を照らし出す普門の光明という念仏門を獲得している」が、それ以上のことは自分に問うても無駄だから、と次の善知識を訪ねるようアドバイスします。

 

サーガラメーガ〔海雲〕比丘:一切の如来の境界と諸種の菩薩行を明らかにし、一切の法界の様々な地平を照らし出し、・・・一切の衆生の機根の輪の回転を明らかにする「普眼という法門」を学んだだけなので、菩薩の修行のことなど自分には語れない、と次の善知識を紹介します。
 海雲比丘は、長年、大海と向き合って暮らし、海の広さの量り知れぬこと、澄み切っていること、深く量り知れないこと、無数の生き物がそこに生きていることを知っている、といったことが書かれていて、海と関係の深い比丘なんですね。善知識たちがそれぞれ異なる環境のもとに生き、それぞれに異なる特徴的なライフヒストリーを持っているところに、同じパターンを繰り返す物語ではあるけれど、面白みがあります。

この比丘は又、菩提心について、「菩提心とは・・・一切の衆生を普く済度するための大悲心であり、一切の世の衆生を等しく幸福にするための大慈心であり・・・一切智者の智の海に悟入するための智悲心である」と述べています。

 

スプラティシュティタ〔善住〕比丘:「私は無礙の門という菩薩の解脱に没頭することによって、無礙の究極究竟無礙という名の智の光明を得たので、あらゆる衆生の心の動きを理解でき、私に近づく衆生たちのすべてを無礙の門という菩薩の解脱に導きいれる『衆生無礙解脱門』に精通しているだけで、衆生のことはすべて知っているが、菩薩の修行の仕方など語ることは自分には無理だと言います。

 

ドラヴィダ人メーガ〔弥伽〕:町の十字路にある獅子座に坐って、一万人の衆生たちに「輪字荘厳」という法門を説いている弥伽を見つけて善財童子が例によって教えを請います。弥伽は「弁才陀羅尼の光明を獲得して、三千大千世界の神々の言葉に精通しているけれど、それだけであって、菩薩の修行や功徳について語ることはできないと言い、次の善知識を訪ねるよう促します。
 「輪字荘厳」という言葉や、神々の言葉に通じている、という弥伽は言葉と縁の深い人なのでしょうね。

 

ムクタカ〔解脱〕長者:「いかなる如来でも私が見たいと願うなら、私はその如来を見ることができる」けれども、それ以上はやはり自分には無理だと、次の善知識を訪ねよと言います。

 このムクタカ長者については次のような、いまの私にはよく分からない不思議な記述があります。彼がこれまでに植えた善根の力と如来の威神力と文殊の護念によって、「あらゆる仏国土が集まって融合する〔普摂一切仏刹〕という名の際限なく回転する陀羅尼門〔無辺旋陀羅尼〕を初めとする菩薩の三昧門へと心が定まっていった」、また、「ムクタカ〔解脱〕長者が三昧に入定すると、彼の身体は清らかな状態になり、無数の仏世尊等が見られ、それらの仏たちが彼の身体のことごとくに含まれ入り込んでいるのが見られた」(p180)…仏たちが彼の身体のことごとくに含まれ入り込んでいる」状態って、どんな状態なんでしょうね。

ムクタカ長者は、入定から出ると、こう語ります。「私は無礙の荘厳〔無礙荘厳〕という名の如来の解脱に没頭し、それを成就している。従って色々なところにいる如来たちの姿が視界に現われる。しかし、かの如来たちがここに来るのでもなく、また私がそこに行くのでもない。」ふつうの人には見えない如来たちの姿が彼には見えるわけですね。阿弥陀如来や金剛光明如来の姿が見える。

こういう心身が融合して心的に思い浮かべられる像と現実に私たちの感官にとらえられる像が別のものではなくなるような状態が、しばしば描かれているのですが、それは私たちにも、心身の状態が或る特殊な境域に入った場合にはけっこう現実味のある状態ではないでしょうか。そうやって彼が見ている如来たちの現出している世界の像というのは、とても生き生きとして映像的で、映像としての現実感を具えているような気がします。

 

わたしたちは普段、心と身体を明確に分離し、心で描かれた像と現実の身体感覚でとらえられる視覚・聴覚像を厳密に区別して疑わないので、如来が現われ、見えていると言われても、そんなアホな、と思ってしまいますが、自分の心身がふだんとは異なる或る特殊な状態にはいったときには、両者の境界が消える、ということは、(心的状態としては)大いにありうることではないかと思います。修行を積んだ仏教者は、そういう特殊な心身の状態をいつでも作り出せる、いつでもそういう状態にはいれるのではないか、と想像しますが、どうでしょうか。

 

サーラドヴァジャ〔海幢〕比丘:普眼の平等心を得る〔普眼捨得〕般若波羅蜜の光明によって生じる清浄荘厳普門という名の三昧の修得によって、世界を識別するのに無礙自在であり、世界に入り込むのに無礙自在であり、・・・あらゆる衆生の海に入り接近するのに無礙自在であり、あらゆる衆生の能力の差異を知るのに無礙自在であるけれども、やはり菩薩の修行や功徳を語ることは自分にはできない、と次の善知識を紹介します。

この海幢比丘を善財童子がみつけるのは、海幢比丘が或る経行所(きんひんしょ)の歩廊の端に坐って三昧に入っている時なのですが、海幢比丘が「不可思議な三昧の神変によって奇蹟を演じて」いて、無限無量の大きさの身体、無限の多様性に変化する身体、すべての毛孔から菩薩の解脱の神変が展開する、というふうな記述があります。さらに次のように突っ込んだ記述があります。

 

ある毛孔の光線の網の輪からは(菩薩たちが)般若波羅蜜の行の境界にあって、あらゆる法の探求に励むための身体を獲得するのを見た。それらの身体でもって、一々の法句が、あらゆる衆生たちの下では一切の所有物を放棄することによって探求され、あらゆる善知識たちの下ではあらゆる奉仕や供養によって探求され、如来たちの下では深信と尊敬の念でもって身体を屈めることによって探求され、一つの法句においてと同様に般若波羅蜜と結びつくあらゆる法句が、あらゆる世間に生を受けて現れるあらゆる身体でもって探求される。これらすべてを、善財童子は一々の毛孔の光線の網の輪から見た。(p208

 

幻想と現実が融合一体化し、見ている対象は自在に歪み、毛孔のような極小から、巨大なサイズにまで自在に変化します。これを三昧に入定した菩薩のようなものが見る幻想の光景だとすることもいまの私たちには可能かもしれませんが、信ずる者にとってはまさに夢か現実か見分けがたく、そうして区別することに意味がない、眼の前の現実=幻想にほかならないのかもしれません。なぜなら、ここに現出するのは、それを見ている者の心そのもので、その心がこうした現実=幻想を生み出しているとすれば、それが自身にとっては確かなリアリティを伴う現実そのものでしかありえないのは言うまでもないでしょう。

 

ある毛孔の光線の網の輪からはあらゆる菩薩たちが教化のための方便として衆生の種々なる境涯の海に遍満して、あらゆる衆生の摂取に励むのを見た。即ち、彼らは前世での(衆生の)身体をとることによって、あらゆる衆生に類似した身体で現れる接近の仕方でもって方便の巧みさを発揮しつつ、衆生の一人一人を摂取しているのを、一々の毛孔の光線の網の輪から見た。p208

 

 「彼らは前世での衆生の身体をとることによって」とか「衆生の一人一人を摂取している」って文言はちょっと怖くないですか?(笑)・・・・これまでもしばしば「摂る」「摂取する」という言葉が人間相手に登場していたのですが、私は心の問題として読み過ごしてきたのですが、「身体をとる」となると話は別ですね。これは死なせて、その人間の身体を「摂って」、それと類似した身体で菩薩が現世に現れる、ということでは?仏教における心身観というのを少し丁寧にたどってみないと、まるで何の知識もない状態でいきなりこういう一節を読んでも、なかなか理解しがたいところです。一瞬ぎょっとしてしまうようなところがありますけど・・・

 しかし、考えてみれば、ここに書かれている世界、無数の菩薩たちが集まって来るジェータ林なる世界も、すべて死者の世界ですよね。みんな現世の身体をもった人間ではない。輪廻で繰り返し色々なものに転生して、遂には往生して菩薩になっている存在ばかりでしょう。そしてこれはその菩薩の世界での、まだ未熟で高度なさとりの世界を知らず、ただそこに向かい、仏の智の海に到達したいと発心したひとりの童子である菩薩が、いろいろな「善知識」と言われる、それぞれ一芸に秀でるみたいに或るさとりを開いた先達のところを訪ね歩いて修行を積み、成熟していく、というビルドゥングス・ロマンなのでしょう。

 ですから、過去の世界へ遡れば、それぞれの菩薩たちもいつか生身の身体を具えた人間であった過去をもつかもしれないし、そこから菩提として転生するには、転生させる能力をもった先輩菩薩が、その生身の身体を「摂取する」「摂る」必要がある、という理屈になりませんか?生身の人間から魂を抜くのではなくて、菩薩の側から言えば生身の人間から身体を抜く(笑)。そうすると魂だけが残るから、そこから菩薩としての別のライフヒストリーを辿ることになるのではないでしょうか。・・・・というような妄想を、「衆生の身体を摂る」とか「「衆生の一人一人を摂取している」というような記述に触れて描いておりました。
 

このようにして彼(海幢比丘)が、深く、静かに、何ごとにも着手せず、何の近くにも捉われずに、身毛を喜びで逆立たせて、三昧に入っているとき、そのすべての毛孔から不可思議な菩薩の解脱の神変が展開するのが見られた。毛孔から修行の雲を出現させ・・・p202

 

三昧に入った海幢の身体各部から様々な長者、王族、賢者たち、聖仙、声聞や独覚の集団、夜叉、羅刹、日輪、月の群れ、大梵天たち、菩薩たちが現れ出て、仏の巧みな方便の門の輪(マンダラ)を説き明かし、あらゆる毛孔から巧みな方便に励んでいる前世での修行の雲を出現させ、巧みな方便のための修行を世間に説き明かし、大乗の巧妙さを明示し・・・p202

  海幢の身体の各部位から、菩薩をはじめとする様々な者たちが生まれ出て来るありさまは、古事記でさまざまな神の死骸から新たな神々が生まれて来るエピソードを連想させられました。

 

次々に湧き出て来る菩薩たちは実に多彩な姿を見せています。一例として菩薩の忍辱の行が見える場面を挙げておきましょう。

 ある毛孔の光線の網の輪からは、菩薩のあらゆる忍辱の行で特徴づけられた三世に亘る菩薩たちの、手や足や頭を切断されても耐える神変、身体を拳骨や棒で殴られ刀で切られも耐える神変、全身を裂かれ心臓や眼をえぐりとられても耐える神変を見た。また他の菩薩たちは、三世に亘る菩薩の種々に選択された肉体でもって、一切智者の法を求めるために、身体的、心理的苦しみやあらゆる肢体と身体の部分の切断さえも、大慈の心に抑制されて、忍耐し、怨念を鎮め、それを無視するのだが、このようなあらゆる菩薩の忍辱の行の神変が影像のように現れるのを見た。(p207)

   ここに描かれているのは無数の菩薩たちの活躍ぶりで、海幢の章は、それを描く大絵巻ですね。そうした世界を深く信じる求道者が修行の果てに朦朧として見る幻想世界のように、無数の菩薩が現われて衆生にそれぞれ真理を説く世界の具体的なイメージを表出する、妄想の世界。

 

大小自在に変形される世界の小さい方を示すのにしばしば菩薩の「毛孔」がひきあいに出されるのが面白い。そこから修行の雲とやらいうものが立ち昇ったり、細い隙間から光線が入るせいか光の輪のようなのができていて、そこからミニサイズの無数の菩薩が出て来るんですかね。
 夢をみている人の夢の中のできごとだとすれば、そこに登場するものが何をして何を言って何を考えているかは、夢を見ている本人には先験的に分かっているから、
すべては何の謎めいた曖昧なものはなくて、きわめてクリアで現実的なものでしょうね。

 

「聖者よ、この三昧の名は何というのでしょうか」

答えて言う。「善男子よ、般若波羅蜜は普眼の平等心を得る〔普眼捨得〕と呼ばれ、この三昧は、その光明であって、普門清浄の荘厳〔清浄荘厳普門〕という名である。

 

「この名の三昧をよく修得することによって、清浄荘厳普門を初めとする十百千阿僧祇数にも満つる三昧が生じるのである」p211

 

どうも三昧が大安売りされているようですが、三昧に入って先のような世界を見るのですから、非信仰者からみれば、これは瞑想によって生じる妄想世界だろうということになるでしょう。心の中の妄想と現実との境が取っ払われた記述ですが、それがぶっとんでいてなかなか面白いと感じました。

 

「この三昧に入定した者は、世界を識別する〔了知十万一切世界〕のに無礙自在であり、世界に入り込む〔往十方一切世界〕のに無礙自在であり、あらゆる衆生の機根の海を知り接近するのに無礙自在であり、あらゆる衆生の能力の差異を知るのに無礙自在である」

 

ところが海幢は言います。「私はこの般若波羅蜜の境地は知っているが、次のような(上級の)菩薩たちの行については知らないし、彼等の功徳を語ることもできない」(p212)と。そうして次なる善知識を紹介します。

 

アーシャー〔休捨〕優婆夷:「私を見るや否や、衆生たちは無常正等覚から不退転となります」と言いますが、「わたしは離憂安穏幢(「憂いなき平安の旗印」)という菩薩の解脱ひとつを知るだけで、それ以上菩薩の修行や功徳を語ることは自分にはできない、と言います。

この優婆夷の所の記述で面白いのは、彼女が、菩薩は特定の衆生のために菩提心を起こすのではない、という主張を、肯定表現ではなく、徹底して否定表現によって述べるところです。
 つまり、「菩薩は一人の衆生のために菩提心を起こすのではない」から始まって、「百人の衆生のために菩提心を起こすのではない」「千人の衆生のために菩提心をおこすのではない」・・・と、どんどん大きな数の集団をとりあげ、私にはチンプンカンプンな聞いたこともないような数の単位を挙げて、あげくは「ガティ数の衆生のために菩提心を起こすのではありません」「不可説不可説数の二乗のために菩提心を起こすのではありません」と主張するのです。ものすごい強調話法ですね。

 

しかし言っていることはまともで、「・・・そうではなくて、残りなく、余りなきすべての世界に属するすべての衆生たちのために、彼らを教化し、成熟させるために、菩薩は菩提心を起こすのです」(p228)と締めくくるのです。

 

また菩薩は一仏にお仕えするために菩提心を起こすのではなくて・・・と同様に無限に続くかと思われる否定形を列挙した上で、「そうではなくて、残りなく、余りなきすべての衆生界を教化し、成熟させるために、菩薩は菩提心を起すのです。すべての仏に残りなくお仕え、知遇を得、供養し、奉仕するために菩薩は菩提心を起こします」と語るのです。

 

善男子よ、略して言うと、これら十百千阿僧祇数もある菩薩行の方便の門を菩薩たるものは成就しなければなりません。また善男子よ、一切法の智に随順するため、菩薩行は一切法と融合します。一切の仏国土を清めるため菩薩行は一切の仏国土を融合します。

 

けっこう菩薩としてなすべきことにも言及しています。

 

・・・私は次のような誓願をいだいております。欲界の浄化が成就して初めて、私の誓願は成就すべし。世界の浄化が成就して初めて、私の誓願は成就すべし。すべての衆生の煩悩の習性の帰趨と傾向性が尽きて初めて、私の誓願は成就すべしp232

この解脱は「離憂安穏幢」という菩薩の解脱です、と彼女は語っています。

 

 

ビーシュモーッタラ・ニイルゴーシャ(毘目瞿沙)仙:「私は無敵の旗印〔無壊幢〕という菩薩の解脱を体得しているだけである」と言います。
 彼が善財童子を撫でて彼の右手を取ると、善財童子には直ちに十方にある無数の仏国土が見えます。そして、その仏国土の数に等しい如来たちの足元に自分がいること、さらには自分が無礙の智の光明に随順して、諸仏の力に悟入しているのを知ります。しかし、毘目瞿沙が手を離すと善財童子はもとどおり毘目瞿沙の前に立っている自分を見出します。毘目瞿沙は自分はただ無壊幢という菩薩の解脱を知るのみで、善財童子の懇請に応えることはできないと告げ、次の善知識を紹介します。

 

ジャヨーシュマーヤタナ〔勝熱〕バラモン:善財童子に「この刀の刃のように険しい道を具えた山に登り、この火坑に身を投げよ。そうすれば、汝の菩薩行は浄化されるであろう」と言います。
 さすがの童子もちょっとびびって躊躇の気配をみせ、勝熱が偽物の菩薩ではないように、と祈ったりして考えていると、梵天が現われて、勝熱はまっとうな菩薩だから大丈夫だと保証してくれます。ここらが面白いところです。     
 善財童子は バラモン勝熱の苦行の意味を教えられ、言われたどおり険しい山道を登り、山頂から火坑に身を投げ、善住菩薩をはじめとするいくつかの三昧を獲得し、険しい道に触れても寧ろ快感を覚えるのでした。勝熱バラモンは無尽の輪(マンダラ)という菩薩の解脱を獲得しているが、上級の菩薩たちの修行については自分も語ることができない、と言って次の善知識を紹介します。

 

マイトラーヤニー〔慈行〕童女:彼女は善財童子を自分の宮殿に案内して、その荘厳を見るようにと言います。 
 その宮殿の全ての事物には、童女の過去の善根から流れ出た結果として、法界にいる如来たちが影像として映っていました。童女は、「普き荘厳」という般若波羅蜜の法門の転回を心得ているのですが、やはり上級の菩薩たちの行については何も語ることが出来ないと言って次の善知識の所へ行くようにと言います。どうしてこの章だけ法門の「転回」という言葉が使われているのか、私にはまだよく理解できません。

 

スダルシャナ〔善見〕比丘:「私は消えることのない智の燈火〔無尽燈〕というこの菩薩の解脱を知って」いるだけで、菩薩の修行などについて語ることは自分にはできないと言います。

 

インドリエーシュヴァラ〔根自在主〕童子:「私は菩薩の算法を知り、あらゆる法の知識である技術の神通を具えた菩薩の智の光明を知っている」だけで、菩薩の修行や功徳を語ることは自分にはできないと言います。
 この童子はしかし、いまでいう医学、薬学、理学、数学、技術、建築、都市計画、農耕、商業などに精通した存在なのですね。こういうのが現われるところが面白いですね。
 考えてみると、善財童子が文殊のアドバイスで次々に訪ねてまわる「善知識」たちというのは、なにか特定の分野の知識とか技術とかを身に着けた存在なんじゃないかと思います。そこに住み込んで修行すれば、そんな個々の知識や技術は教えてもらえるかもしれない。けれども善財童子が求めるものは、そういうものではないわけです。究極の「仏の智」の海に到達するためには、それらをいくら修得しても、なお決定的なものが欠けている。
 それをいまの言葉で言うとすれば、それは、それら個々の分野の智を貫き、あるいはその根底にある「哲学」だと言ってもよいのではないでしょうか。善財童子はそんな「哲学」を求めて旅を続けるのです。

 

プラブーター〔具足〕優婆夷:「私は無尽の荘厳の福徳の宝庫〔無尽荘厳福徳蔵〕という菩薩の解脱を得ていて、1個の壺から望みのままの飲食物をとりだし、衆生を満足させることができるだけだという。

 

ヴィドヴァーン〔明智〕家長:「私はこの「心の宝庫から生じる福徳」〔随意出生福徳蔵〕という解脱を知っているだけだという。集まって来る大勢の衆生に、天穹から降りて来る飲食物を分け与えることができ、ものごとの原因を教示することができる。しかしやはり菩薩行について語ることはできないと言います。

 

有徳の長者ラトナチューダ〔法宝髻〕:まず長者は善財童子に自分の邸宅を見よと言います。それは十層に及ぶ邸宅で、法輪の響きに満ち、衆生に対する教化と威神力を具えた清浄な財産でした。彼はそれを、ある如来が市場を訪れたとき、楽器を奏で、香料を薫じたことで与えられたようです。彼は如来の威神力によって示された奇蹟の為の善根を「三つのことに廻向した」と言います。即ち、衆生が一切の貧困を完全に断ち切ること、正法の聴聞を欠かさぬこと、一切の仏、菩薩、善知識に一人残らずまみえること。彼は、この無礙なる誓願の輪の荘厳という菩薩の解脱には通じているが、菩薩たちの行や功徳について語ることはできないと言います。

 

 香料商サマンタネートラ〔普眼〕:「私はあらゆる香料の用法を知っており、一切の衆生を満足させ、諸仏にまみえ、供養し、奉仕することができる香玉を熟知しており、一切の香庫の楼閣の雲に荘厳された法界全体を威神力によって化現させることができる」だけである、と言います。

 

 アナラ(無厭足)王:普眼に紹介されてアナラ王のところを訪ねあててきたものの、そのアナラ王が残酷な処刑を行なっていることを目の当たりにした善財童子は、この王から菩薩道について聞くことなどできないと考えて去ろうとしますが、空中に神々が現われて、善知識たちは平等に指導する者であって誤まることはないから、その教誡に疑問を生じてはならない、と押しとどめます。

アナラ王は自分の豪華な館とそこにおける享楽のさまを見せ、悪行をなす者にこんな業果が成就すると思うか、こんな享楽が得られ、王の位や権力が得られると思うか、と善財童子に言い、自分は幻〔如幻〕という菩薩の解脱を獲得しているのだと告げます。そして衆生が罪を犯さないよう、教化するために、威神力で化作された処刑者たちを化作された死刑執行人に殺害させたり、仕置きを加え、痛みを感受する様をみせるのだというのです。そして、自分はこうした幻という解脱を獲得しているだけだといいます。

 

手足をもがれるような刑罰を科されたり、残虐に殺される罪人たちも、殺したり傷つけたりする側もみな「化作」だ、バーチャルな像に過ぎないんだ、と言われて私たち読者もホッとしますが、それでもそういう激しい痛みを伴う刑罰のもようを見せつけ、恐怖で犯罪の発生を抑止するのだというアナラ王の考え方は、今の私たちから見ればやはり間違っているし、怖い権力者、支配者だと思えますね。

 

 

 これで文庫本の上巻がおわり、善財童子の善知識をへめぐる旅は中巻へとつづきます。



saysei at 22:18|PermalinkComments(0)
記事検索
月別アーカイブ