2023年10月
2023年10月31日
ロールキャベツ
きょうの夕餉のメインディッシュは、好物のロールキャベツ。
ベーコン、きのこ、小カブの抜き菜のレモンクリームパスタ。
定番の、サツマイモ、チーズ、ピクルス、クルミ、リンゴのサラダ。
ガーリックトースト。
柿入りグリーンサラダ
(以上でした。)
今日は前田英樹の『愛読の方法』に出て来た中島敦の短編小説『文字禍』がアマゾンの電子ブックKindleで無料購読できることがわかったので、すぐに読みました。なかなか面白かった。前に円城塔の「文字渦」を読んで感想をブログに書いたことがありましたが、そのときにはまだこの「文字禍」の方は読んでいませんでした。
今回読んでみると、タイトルの文字は一字違うけれど、主題的には「文字渦」が「文字禍」をそっくりそのまま引き継いだものだということがよく分かりました。円城さんの新しい作品は古風な意匠を凝らしているけれどモダンで緻密な作品で圧倒的な力があって魅力的ですが、中島敦の古典的な作風も素朴ながらまたなかなか味があります。
それにしても、こんな作品をちょっと読みたいな、と思っても以前なら古本屋をさがすか図書館へ足を運ばなくてはならなかったけれど、アマゾンのKindleブックでKindle会員でもないのに無料ですぐに読めるのはありがたい。フッサールのIdeenの原書も本よりもずっと安くで読めるようだけれど、さすがにあんな難しい本はKindleで読もうとしても、ちょっとね・・・(笑)
saysei at 21:53|Permalink│Comments(0)│
暖かな陽射し・ヒヨドリ・アーちゃん近景
ただいま(午前10時半すぎ)のスマホ天気サイトによれば、京都市の気温は18℃、「ほぼ晴れ」、最低気温10℃、最高気温21℃。とても過ごしやすい陽気です。
早朝から共同庭にはヒヨドリが飛び交い、高木の枝にとまっている姿が見られました。
このところ彼らは毎朝ここへやってくるようです。
ちょっと姿が見えないな、と思っても鳴き声がするので、よく見ると木の間にいます。
割と大きな鳥だけれど木の間にじっとしていると、なかなか見つかりません。でも鳴き声がし、動くと枝葉が不自然に揺れるので、まだ何羽かくつろいでいるな、と分かります。
このところもっぱらヒヨドリと思われるのばかりが来ているようです。私は可愛らしいメジロやコマドリ(以前庭に来ていた)が好きなので、ああいうのも含めて色んな小鳥が来てくれるのを待っているのですが・・・
庭に面した大きな窓がある2階の、小中学生のころ息子たち2人が机を並べていた部屋には、いまセキセイインコのアーちゃんが居座っています。私たちは寒くてもホットカーペット、暑くても扇風機で済ませることがほとんどで、エアコンはめったに使わないので、エアコン24時間稼働の冷暖房完備の部屋はここだけ。餌も、栄養食らしいセキセイインコ専用ペレット(ご本人はあまり好きでない)、ムキエン麦(これが一番好きかも)、各種シード類の混合餌(この中の脂肪分の多そうな赤い種子が好み)、手洗いボレー粉(牡蠣殻ですね)、老鳥用シニア餌(全然食べない。本人は若いつもりらしい)、ミネラルサンド、半生フルーツフード、赤粟、ときにはみかんピールや、玉子フード、野菜フード等々、多種多様なものをとっかえひっかえ試して、お好みの食品を探しながら提供しています。ほとんど殿様待遇ですね(笑)。
おかげでずいぶんわがままですが・・・
人を見分け、喜びや怒りや苛立ちや甘えの感情をあらわにする上では非常にはっきりしていて、こんな小さな生きものが、と感心します。こちらの気持ちに応えるような感情を明確に表わすと、やっぱり可愛いやつだ、と思います。
わたしやパートナーが何をしているかにはとても敏感で、朝起きてカーテンを引く音を聞くと早く二階へ上がってこい、とやかましく呼び立てて啼くし、二階へあがったのに私が自分のコーナーで机についてそのまま作業していたり、パートナーが洗濯物を干していたりすると、ガガガッと苛立ちの声を上げ、バタバタして、そこまで来ている癖になぜ来ないんだ!と言わんばかり。だいたいそういう時に、まるであてつけみたいに、食用の砂の容器や、飲み水の容器にウンチをしていることが多い(笑)。
しかし、私たちがDKで食事をしている間は、うんともすんとも言わず、おとなしくしています。ところが、そろそろ終わったかな、というころ合いになると、もう上がってこい、と言わんばかりに、例の呼びつけるような鳴き声で啼き始めます。いつも私たちはそれを聴くと、もう食事は終わったやろ、って言うとるわ!と顔を見合わせて笑います。ほんとによく分かるなぁ、と感心もします。
眼は老化のせいかそんなによくないようですが、耳はいまもとても鋭敏で、私が二階へ行く前に、お茶を入れたカップと小さな魔法瓶を手すりの隙間からそっと自分のコーナーがあるスペースの端っこへ差し入れて、それらを持って階段を上がらなくてもいいように、先に上げておくのですが、そういうわずかな物音も聴き付けて、もう私が二階へ行くことを察知して、盛んに呼び立てます。
しかし、そういうときにも、まったくうんともすんとも言わずに、アーちゃんの部屋がシンとしていることがあります。そういうときはアーチャン、うとうとと寝ているのです。そうっと戸をあけてみると、たいてい止まり木の端っこの鏡に近いあたりにとまってじっとしていて、こちらが戸を開ける気配に気づいてハッといま目を覚ましたようなそぶりをみせます。深く眠っていたらしいときは、傍へいっても、ふだんなら手の詰めをケージに掛けて体をケージに目いっぱい寄せて、クチバシのあたりをなでてもらおうとするのですが、そんなときは近くには来ても、止まり木にとまったままボーっとしています。まだ半分覚めやらぬ夢の中なのかもしれません。
怒るときの啼き方はふつうの呼びつける声や、甘える時のような喉を震わせ共鳴させるような声とは全然似ても似つかず、ガガガッ、と喉の別の部位を激しく擦るような濁った擦過音とでもいうような機械的で連続的な発声をして、まさに文句を言っている、という感じの声です。彼の好きな燕麦の殻が沢山餌の表面に積み重なっているので、彼は表層しかつつかないから、その殻を取り除いてやろうと思って、餌容器を取り出し、スプーンで表面の殻をこそげているようなとき、餌をとられると思ってか、早く戻せ、という要求なのか、そんな怒りの発生で文句をつけていることがよくあります。
「何を怒ってんの?殻をとってあげてるんやろ!」と私が言うと、ちょっとおとなしくなりますが、時間がかかるとまた同じように苛立った声で抗議するみたいに急かすことがあります。
小鳥にとっての消化剤にあたるのでしょうか、砂袋用の食用砂を普通の餌とは別の小さな容器に入れて、止まり木の端っこのケージの水平軸に掛けてあります。その砂が減っていたり、そこへうんちをしているのをみつけると、ウンチを除去し、砂を補充するために、ケージに手を入れてその容器を取り出します。そのとき、そう広くはないケージなので、いやがってたいていは一段上の止まり木のほうへ移っています。
ところが、きょうはどういうわけか私が手を突っ込んでも、砂容器と同じ高さにある下の止まり木の中ほどにとまっていて動こうとせずに、私が突っ込んでいる手の方を見ていましたが、何を思ったか止まり木をチョンチョンと私の手のほうへ近づいてきて、いきなり私の手の甲を嘴で突っついたのです。突っつくというより、アーちゃんのは嘴の先で皮膚の表面を噛んでギュッとねじるので、思わず「痛ッ!」と叫びました。「こら、何するねん!」と言うと、アーちゃんは上の枝へ飛び移って知らん顔していましたが、まあ傷をつけるほどきつくは噛まないので、これは親愛の情を示す「甘噛み」なのかもしれません。
以前にケージに手を差し入れて、掌の上にのせてやろうと試みたことがありましたが、あのときも同じように噛みに来ました。彼としては親しみの表現である甘噛みのつもりなんでしょうが、これが結構痛いので、反射的に手をひっこめてしまって、うまく掌に載せるところまでいきませんでした。長男は痛いのを覚悟で掌を動かさずにいて、アーちゃんは、ちゃんと掌にのっかったようです。
saysei at 11:12|Permalink│Comments(0)│
2023年10月30日
貴船菊が綺麗・古本のしまつ・今日の夕餉
今朝も貴船菊が綺麗に咲いていました。
狭い庭の狭い花壇の隅っこに勝手生えのよう生えている貴船菊ですが、毎年この季節には起床時に真っ先に寝室の窓のカーテンを開けると目の前に見えて、なんだか心が晴れ晴れするようです。
こうして朝陽が射して白い花びらを裏から見ると陽の光が透けて見えるような姿がとても好きで、飽かずに毎日眺めています。
10月も明日で終わり。インフルエンザのワクチンの効果は接種後2週間以降だそうですから、ぼちぼち効いてくるでしょう。そしたら、まず本を読むための眼鏡を買いにいくこと、二人ともスマホがボロボロで機能的にも変なので、そろそろ替えに行きたい、次にPCのバックアップ用外付けHDがもう何年か新しいのを買ってなくて一杯になっているから、安いのを一つ買いたい、最後に、不要本の処分。
知り合いの古書店さんに来てもらって不要本の山を引き取ってもらうことですね。何冊か、古書でもそこそこ値のつくことが分かっている本があって、これは少し安くして、すぐに買い手がつくかどうか、試してみたい気もします。ある詩人の全国に500冊くらいしか出ていない本、ある宗教家の一時話題なった本、私の友人の民俗学者の絶版本、これらはみなアマゾンのマーケットプレイスでは1万円を超えていますが・・・・おっと、友人の本は売っちゃいけないか(笑)。
しかし、それらは売ろうと思えば郵パックで手間なく家からすぐ送ることができますが、いくら人気があってマーケットプレイスなどではけっこうな価格で出ているコミックなどでも、横山光輝の大判の『三国志』」だとか、里中智満子の『天上の虹』とか、小池一夫の『御用牙』だとか、段ボールに詰め込んだシリーズものの何十冊もまとまったようなのや、『吾妻鏡全譯』みたいなお堅い本でもハードカバーの重い叢書のようなのは、もう自分の力で荷物を宅配便の営業所まで運ぶ体力も気力もないので、安くなることは覚悟して、せめて常々応援したいと思っている近くの知り合いの古書店さんに引き取ってもらおうと考えています。
次男夫婦もよく知っている方なので、家に引き取りにも来て下さるでしょうし、はいってもらうにも安心です。最近は古着はないか、などと買い取り業者を装ってひとの家に入り込んで強盗や泥棒の下見をする輩が増えているそうで、そういえばそんな電話をかけてきて、お宅の地域を回っているので、などというのがやたら増えていますから、知らぬ業者などほんものであっても玄関のうちへ入れるなんて考えられませんからね。もっとも犯罪をおかしてまでとられそうな貴重な物はなにもないのが自慢(笑)のわが家ですが、かつて息子たちや孫がお世話になった近所の名小児科医で知る人ぞ知る陶芸家でもある加藤静允さんにいただいた、普段使いしているお手製の陶皿や高野近辺の光景を描いた素敵な画集の冊子とか、ほかに私の愛読書とか、そういうのは泥棒にはほとんど何の価値もないでしょうが、私にとっては何よりも貴重な所有物です。特に本というのは、それに価値を認める人と認めない人とで、まるで価値が天と地ほども違うのが面白いですね。考えてみれば私は若いころから、そういう本の世界のような価値、それを認めない人には何の値打ちもないようなものにばかり、価値というのを見て来たような気がします。だから現実的な市場価値のあるものは、ついに何も持たなかった、というより持てなかった(笑)。
でも後悔はしていません。それどころか、そういういわば精神的な価値というのか、知的なものの価値というのも、結局は反転して、私たちなんでもない人間が日々生きていくなかで消費し、生産し、また消費し、なんらかの意味で明日の糧になっていけばそれでいいので、何も百年、千年残そうなんて考える必要もないし、そうやって今日の働きの中に、明日の楽しみの中に還され、消えて行けばいいのだということに、これは最近になって気づきました。だからもう私が至上の価値だと思ってきたものでさえ、いつ消えてなくなっても、それはそれでいいんだ、と思えるような気がします。どうせあの世に花にも携えていくことができないのですから(笑)。
しかし、本というのは不思議なもので、いざ手放すとなると、ついまた読みたくなって、せっかくすぐにひきとってもらえるよういに紐をかけて積んでおいたのに、また紐を解いて、近くへもってきて拾い読みしたり(笑)。以前は、既に読んだ本はもういらない、と思って手放すことが多くて、逆に買ったのにちょっとのぞき見しただけで、ろくに読まずに「ツンドク」ばかりだった本は、これから読む本だから残しておこう、としていた時期がありました。
しかし長い間の経験で身に染みて分かったことは、そうやって残しておいた本の大部分は、結局二度と読むことはなかった(笑)。そして逆に、色々折り目を入れ、付箋をつけ、赤線を引っぱったり、なにか書き入れたりさえしたような本で、もう存分に読んだからいいだろう、と手放したら、あとでまだ読みたくなることが何度もあってひどく後悔することが多い、ということです。
だから、もう最近は自分が気に入った本はどんどん赤線ひっぱって、なんやかや書き込んで、もう古書店でもひきとってはくれず、古紙回収に出すしかないくらい汚してしまう(笑)ことにしています。
よく家の中に物置スペースがあると、不要なものをいっぱい貯め込んであとで苦労する、と言います。私も今の地下の点検孔が半地下倉庫みたいな役割ができなくはなかったので、ここにスノコを敷いて段ボールでいっぱい本を詰め込んでいましたが、結局そうやって保管した本は2年も3年も読まないままで、2年、3年と読まない本は、自分にとってはもう一生読まなくもいい本なのですね。それを覚ったのが少し遅すぎたけれど(笑)、こちらの体も、もう半地下へもぐって本が詰まった重いダンボールやプラスチックケースを出すことが不可能になったこともあって、きれいさっぱり全部部屋の中に出し、本箱に入らないものは基本的に売り払ってしまう、ということにしました。
わが団地では数年前までの何年間か、自治会の役をされたどなたかのアイディアで、地蔵盆のときに古本市を併催してくれて、集会所の外の床にぐるっと並べて100円均一で売っていました。その売り上げは団地の会計の収入になるので、子どもたちの地蔵盆を少し楽しいものしたりするのに、ささやかでも役立つので、みなさん進んで不要な本を寄付しておられました。もちろん私は一気に不要本が処理できて大喜びで出させてもらっていました。
ところがコロナの流行で、ここ数年はその古本市が開催されなくなってしまったので、わが家にもゾッキ本みたいな不要本は一杯溜まってしまったというわけです。もちろんガレージセールと称して団地の集会所を個人で借りて古本市を開けなくはないけれど、なんか個人でやるのも仰々しい。
重い本を運んだり、並べて店開きをしたり、チラシか何か作って知らせたり、店番して代金うけとったり、といった手間を考えると、いまの体力では、もう尻込みしてしまいます。
わずかな売り上げをそんなに自分のものにしたいわけじゃないし、やっぱりほかの人も色々な本を出してくれて、一緒にそれを手に取って読んでみようと思ってくれる人の姿など眺めるようなイベントとして開催されるような場で、副産物として一冊100円均一という売り上げがあって、自治会への寄付も快く受け取ってもらえる、というスタイルが一番楽しくて、自然で、いいような気がします。
そういう機会がないのはとても残念です。若い人で本の好きな人がいてくれて、そういう企画をやってくれたら、いくらでも不要本の提供くらいは協力するのになぁ、と思います。
あの古本市をひらいたときは、それでも売れ残った本を、知り合いの古書店さんに引き取ってもらっていました。いくらで買ってくれようと(どうせ自治会へ寄付になるのですから)文句は言わないかわりに、団地の集会所に不要本が残らないよう、とにかく全部引き取ってくれることが条件で。
最近の一般の古書店はものすごく気位が高いというか、もちろん商売を考えて「合理的」な行動をとっているってことなんでしょうが、山ほど引き取ってほしい不要本を積み上げて、わざわざ家まで車で引き取りに来てもらっても、およそ半分から3分の1くらいは「これは引き取れません」と言って、引き取っていくこと自体を拒否します。要は在庫管理の方が大変で、こんなのは一文にもならないから、引き取ったらマイナスだよ、というわけで、古紙回収に出せよ、ということなのでしょう。
こちらはたとえばアマゾンに出せば4000~5000円には売れるような本を、1000円かせいぜい2000円で、つまみ食いするように持っていく癖に、ただでもいいから引き取ってほしいゾッキ本みたいなのは見向きもしないで引き取りを拒否するような古書店を、以前からこころよからず思っていました。
だから、団地の古本市で残った本を全部引き取ってくれる知り合いの古書店さんは大好きで、なんとか地域の本好きのひとたちみんなで応援して、ずっと個性的な素適な古書店でいてほしいと願っています。
きょうの夕餉
ハゲ(かわはぎ)の薄造り。
砂肝のパクチー、新生姜、ネギ、スプラウトの中華風あえ物
春巻き
鯛のアラ煮
スペアリブの蜂蜜煮
メンタイ人参
カブの抜き菜の辛子マヨネーズ胡麻和え
茹で落花生
カボチャ煮
ぬか漬け
ショウガ飯
(以上でした。)
きょうは長男も一緒の夕餉。昨日、一昨日の孫との夕餉につづき、楽しい夕餉でした。二人とも美味しい美味しいと言って喜んで食べてくれた、とパートナーは何よりも嬉しい、とご満悦。今日の午後、孫のママから誕生日祝いのお礼メールが届いていたのを読んでから、パートナーはきょうはいいことづくめで幸せそう。そういえば私の検査結果が良かったことも、いいことの一つだったでしょう。
家族が元気で、それぞれ自分がしたいこと、しようと思うことをして、お互いの生き方を尊重しながら仲良くおだやかな日々を過ごせることが一番だと思います。他人からみてどんなにそれがささやかなことであっても、それは自分たちにとってかけがえのないもので、それがなければ、ほかにどんなものがあっても幸せではないような気がします。
そのすべてを奪われているパレスチナの人たちのことを報道で知るたびに胸が痛みます。即自あらゆる戦闘、攻撃の中止、それ以外にないと思います。とにかく一人でも殺戮される子供たちをはじめとする民衆の命を救えるなら、とにかく戦闘を直ちに中止せよ、一切の攻撃をやめよ、という以外に言うべきことはなにもありません。
今回の「戦争」が、イスラエルのいうハマスの「テロ」がきっかけになったことは事実だけれど、自分たちがずっと暮らしてきた土地へいきなり外部から侵入して圧倒的な武力を背景に強引に占領地に入植し、なにかあればその武力に物を言わせてパレスチナ人を殺戮してきた過激派のイスラエル人にハマスの振る舞いを「テロ」と呼ぶ資格はないでしょう。
何の根拠もないイスラエルの建国自体がとんでもない歴史的誤謬にほかなりませんが、もはやそこで幾世代にもわたって生きてきた多くの民の生活がある以上、アラブ過激派の言うようなイスラエルの消滅やイスラエル人すべての抹殺など全くありえないし、あってはならないことだから、イスラエルはパレスチナから完全に手を引いた上でアラブ人との共存を図る以外に道はないでしょう。
米国はその大国としての影響力を行使するなら、そういう方向へイスラエルを導くような力を発揮すべきだけれど、現実にはイスラエルの頑なな姿勢を追認するしか能がないというのか、それだけ米国の支配層の中でイスラエル人たちが持つ権力が大きいのでしょう。いずれ中近東のいたるところで戦争の火ぶたが切らるようなことにならなければいいのですが・・・
saysei at 19:27|Permalink│Comments(0)│
定期検査&診断
きょうは定期検査と診断の予約日。月曜はいつも混むので覚悟して行きましたが、珍しく空いていました。血液検査のスタッフに、今日は月曜なのに少ないですね、と言うと、月末はいつも空いています、と言います。どうしてですか?とさらに訊くと、月末に来ると高額医療費の補助が次の月に出なかったりするので・・・とのこと。うぁっ、そうなんだ、と納得。
みんな医療費の節約をしっかり考えて来院日を決めているのですね。私などは小遣い亭主で懐はいつも淋しい癖に、というか、だからこそというか、家計を考えるのは奥さんに任せてしまっているから、身分不相応にそういうことにほんとうに無頓着で来たなぁと反省。いつも主治医がいついつどうですか、と言われる日時を、何も考えることなく、毎日が日曜日だからいつでも、なんて思ってそのまま予約してもらってきましたから。そんな体たらくでも、なんとかここまでやってこれたのは、パートナーのやりくりのおかげでしょう。
ところで、今日の検査結果は、まずメインの肺については、今月はじめに局所的な炎症が起きて、基準値が0.14mg/dl以下のところ1.96まで跳ね上がっていた炎症反応CRPの値は、0.73とまだかなり高くはありますが、半分以下の値まで下がっていました。肺下部のX線像でみても「たぶんよくなってきているとは思うんですがねぇ・・・」とのこと。CTを撮らないと細かい所は分からないけれども、と。
この種の肺の炎症は一度起きると、肺が荒れて、なかなか元通り治癒するには時間がかかるようだな、というのが経験的実感です。こうした間質性肺炎の兆候が出る端緒となった2011年に起きた肺炎のときも両肺が真っ白で、ところどころ白い焔を上げているかのようなすさまじいX線像でしたが、アベロックスという抗生剤の服用で1週間で白い影が綺麗に消えました。
しかし、その後2週間くらいたって再診時に別の担当医に診てもらったとき、まだ咳がのこっていたのだったか微熱があったのだったか、一部に僅かに影が残っていたのだったか、素人目にはほぼ治っているようにみえるのに、或る種の症状が尾を曳いていたので、ベテランらしい医師に、もう肺も綺麗になっているのにどうしてなんでしょうか、と訊いたら、「こんな激しい炎症を起こしたら、炎症は抑えても肺の組織はひどく傷んでいるから、もとにもどるには3カ月くらいはかかるんだよ。わしなら、最初に来た時に即入院させているところだ!」と叱りつけるような口調で言われたのを思い出します。
最初に見てくれてた医師は若い女医さんで、まだこの老練な医師ほど経験を積んでおられなかったのかもしれません。ベテラン医師は初診の医師が危ないリスクを侵した、と言わんばかりの口ぶりでした。
しかし、その初診の女医さんは、血液検査やCT,X線像を見て、変形性肺炎の一種だと言いながら、より詳しくは「器質化肺炎」か「好酸球性肺炎」かのいずれかが疑われる、と今思えば非常に的確な診断を下していました。私は当時は特発性間質性肺炎というものに全く無知だったので、それがそのいまわかっている7種のうちの2種だということを知りませんでした。そして、2019年になって、あらためて炎症が起きて大学病院にはじめて検査入院して、内視鏡による肺検査と、肺胞洗浄等々も加えた検査の結果、かの女医さんが8年前に下したのと全く同じ診断がなされて、私の病がいちおう確定し、こんにちに至ったわけで、あの女医さんは優秀だったな、と今でも思っています。ウェブサイトで調べたら、いまも某病院で呼吸器専門医として元気で活躍しておられるようです。
さて、血液検査のそれ以外の指標値は概ね良好で、薬剤の複合的な副作用で常に懸念材料だった肝臓(AST、ALTなど)の指標値は基準値内に収まり、腎臓(CRE)もずっと基準値オーバーだったのが、今回珍しく基準値内に収まっていてホッとしました。eGFRという尿のろ過率のような指標も、以前はずっと40台の数字で、健常者の4割程度に腎臓機能が落ちているんだな、ということでしたが、今回は53.2ml/min/1.7m2という数値でひとさまの半分程度は機能しているようです。最も腎臓機能は一度悪くなれば回復しないようなので、たまたま今回の測定値がよかっただけなのでしょうから、一喜一憂はしませんが、やっぱり数値がよくなっていると嬉しいものですね(笑)。
また、ステロイドの服用で常に監視が必要な血糖値も血清血糖、血漿血糖ともに基準値内に収まっており、総コレステロール値、いわゆる悪玉コレステロール値も基準値内に収まっています。中性脂肪はまだ基準値を大分外れているけれど(基準値40~149mg/dlのところ190)、9月以前のように200を超えてないので、まずまずといったところでしょう。
自分の体感としても、この1週間くらいは体調が比較的安定しています。一時ちょっと動いたり喋ったりしても激しい咳が出て、コデインリン酸塩酸という強い咳止めに頼ったりもしましたし、階段をゆっくりゆっくり上がっても息が苦しくてへたり込んだりしていましたが、いまは安静時はもちろん少しぐらい家の中で動く分には咳もほとんど出ず、階段もゆっくり一足ずつ上がれば、息は上がっても、そう苦しくてへたりこむようなこともありません。
もちろん間質性肺炎で繊維化した細胞は決して元には戻らないので、この段階にいたっては、この病そのものが快方に向かうということは考えにくいのですが、それでも毎日過ごしていく上で、痛い、苦しい思いができる限り少なく、軽減されるということは本当にありがたいことです。おかげで孫が夕食に来ても話を聞いたり、語り合ったりもできるし、読んだり書いたりの楽しみも気力が湧いて、続けていくことができます。やはり体調が悪いと、ただ背もたれ椅子に寝そべっているしかなくて、そこからエイヤっと身を起こして、たんに読み書きするだけの作業でも、よしっ、やろう!という気が起きなくて情けないな、と思うことも少なくないので、ここしばらくのように体調がよいと本当にうれしい。
今回の処方薬:
・ブレドニン錠5mg×1 + ブレドニゾロン錠1mg×3 = 8mg/day (ステロイド)
・オフェブカプセル100mg×2 /day (抗繊維化剤)
・ダイフェン配合錠 週3日×1 (細菌感染防止剤)
・リバロ錠1mg×1 / day (血中コレステロール減少剤)
・ノベルジン錠 25mg×2 /day (亜鉛を補う薬)
・アシノン錠 150mg×2 /day (胃酸の分泌を抑える薬)
・セルベックスカプセル 50mg×3 /day (胃の粘膜を保護)
・ビオフェルミン錠剤×3 /day(自己調節可) (整腸剤)
・ファンギゾンシロップ100mg/ml (カンジダによる感染治療薬。舌に垂らす)
・カロナール錠500 500mg 頓服10回分(痛みどめ)
新しく加わったのは「アシノン錠」です。これまで胃を保護する薬剤はセルベックスを呑んでいましたが、どうも毎朝胃が少し痛み、膨満感が絶えずあり、それ以上ひどくなりはしないけれど、あまり続くので主治医に報告したところ、以前にもタケキャブなどを服用していたけれど、味覚障害の副作用の要因ではないか、ということで中止した経緯があり、主治医はこれ迄使っていない別の薬を試してみますか、と処方箋にラプソプラゾールと書かれたので、私はその薬剤を記憶していて、前にやはり味覚障害が副作用の項目に含まれていて、私の場合も味覚障害の一因かと疑われるというので中止してもらった経緯があったのです。
ラプソラゾールはステロイドや抗菌剤みたいな強い薬を使うときにしばしば胃の粘膜を保護し、胃潰瘍になるのを防ぐために良く使われる薬剤ですが、その副作用たるや、「間質肺炎、肝機能障害、腹部膨張感、味覚異常、血小板減少・・・」等々と、私にとっては鬼門みたいな薬剤で、そんな薬剤説明書をみるだけで、いくらなんでもこの薬だけは使いたくない、と思えるような薬剤なんですね(笑)。まあ副作用の生起確率なんてほんと分かっていないようで、なんでもかんでも万一にそなえてのエクスキューズとして、一度でも報告されていれば副作用として起こり得る、という挙げかたなのでしょうが、それにしても間質性肺炎の患者が間質性肝炎を副作用とすることを堂々と謳っている薬剤を呑みたくはないでしょうし、薬害で肝機能障害を起こして苦しんだ患者がわざわざ肝機能障害を副作用に謳った薬剤を服用したくはないでしょう。
じゃ、「アシノン錠」は安全なのか、そういう副作用はないのか、と言えば全然そんなことはないのですね(笑)。
アシノン錠の重大な副作用に、肝機能障害や間質性腎炎なんてのがあり、肝機能や腎機能の障害を持つような特定の背景をもつ患者に用いるにあたっては次のような注意書きがあります。
いずれにせよ、この種の人工的な化合物は身体にとっては異物ですから、肝臓や腎臓を通って排出されないといけないわけで、身体にとって「肝腎かなめ」と言われる肝臓、腎臓にとっては負荷の大きいものなんでしょうね。だから、消化器系を守るためであるはずの薬剤が、よく効くと言われる薬剤ほど、ほとんど例外なくといっていいほど、その消化器系の要といっていい肝臓や腎臓を傷めるという致命的な副作用を持つのですね。
だから今回も試してみて、次の検査までの間隔をいつもより短くして、年内にもう一度診ましょうということになりました。それまでにへんなこと起きなきゃいいけど・・・
みんな医療費の節約をしっかり考えて来院日を決めているのですね。私などは小遣い亭主で懐はいつも淋しい癖に、というか、だからこそというか、家計を考えるのは奥さんに任せてしまっているから、身分不相応にそういうことにほんとうに無頓着で来たなぁと反省。いつも主治医がいついつどうですか、と言われる日時を、何も考えることなく、毎日が日曜日だからいつでも、なんて思ってそのまま予約してもらってきましたから。そんな体たらくでも、なんとかここまでやってこれたのは、パートナーのやりくりのおかげでしょう。
ところで、今日の検査結果は、まずメインの肺については、今月はじめに局所的な炎症が起きて、基準値が0.14mg/dl以下のところ1.96まで跳ね上がっていた炎症反応CRPの値は、0.73とまだかなり高くはありますが、半分以下の値まで下がっていました。肺下部のX線像でみても「たぶんよくなってきているとは思うんですがねぇ・・・」とのこと。CTを撮らないと細かい所は分からないけれども、と。
この種の肺の炎症は一度起きると、肺が荒れて、なかなか元通り治癒するには時間がかかるようだな、というのが経験的実感です。こうした間質性肺炎の兆候が出る端緒となった2011年に起きた肺炎のときも両肺が真っ白で、ところどころ白い焔を上げているかのようなすさまじいX線像でしたが、アベロックスという抗生剤の服用で1週間で白い影が綺麗に消えました。
しかし、その後2週間くらいたって再診時に別の担当医に診てもらったとき、まだ咳がのこっていたのだったか微熱があったのだったか、一部に僅かに影が残っていたのだったか、素人目にはほぼ治っているようにみえるのに、或る種の症状が尾を曳いていたので、ベテランらしい医師に、もう肺も綺麗になっているのにどうしてなんでしょうか、と訊いたら、「こんな激しい炎症を起こしたら、炎症は抑えても肺の組織はひどく傷んでいるから、もとにもどるには3カ月くらいはかかるんだよ。わしなら、最初に来た時に即入院させているところだ!」と叱りつけるような口調で言われたのを思い出します。
最初に見てくれてた医師は若い女医さんで、まだこの老練な医師ほど経験を積んでおられなかったのかもしれません。ベテラン医師は初診の医師が危ないリスクを侵した、と言わんばかりの口ぶりでした。
しかし、その初診の女医さんは、血液検査やCT,X線像を見て、変形性肺炎の一種だと言いながら、より詳しくは「器質化肺炎」か「好酸球性肺炎」かのいずれかが疑われる、と今思えば非常に的確な診断を下していました。私は当時は特発性間質性肺炎というものに全く無知だったので、それがそのいまわかっている7種のうちの2種だということを知りませんでした。そして、2019年になって、あらためて炎症が起きて大学病院にはじめて検査入院して、内視鏡による肺検査と、肺胞洗浄等々も加えた検査の結果、かの女医さんが8年前に下したのと全く同じ診断がなされて、私の病がいちおう確定し、こんにちに至ったわけで、あの女医さんは優秀だったな、と今でも思っています。ウェブサイトで調べたら、いまも某病院で呼吸器専門医として元気で活躍しておられるようです。
さて、血液検査のそれ以外の指標値は概ね良好で、薬剤の複合的な副作用で常に懸念材料だった肝臓(AST、ALTなど)の指標値は基準値内に収まり、腎臓(CRE)もずっと基準値オーバーだったのが、今回珍しく基準値内に収まっていてホッとしました。eGFRという尿のろ過率のような指標も、以前はずっと40台の数字で、健常者の4割程度に腎臓機能が落ちているんだな、ということでしたが、今回は53.2ml/min/1.7m2という数値でひとさまの半分程度は機能しているようです。最も腎臓機能は一度悪くなれば回復しないようなので、たまたま今回の測定値がよかっただけなのでしょうから、一喜一憂はしませんが、やっぱり数値がよくなっていると嬉しいものですね(笑)。
また、ステロイドの服用で常に監視が必要な血糖値も血清血糖、血漿血糖ともに基準値内に収まっており、総コレステロール値、いわゆる悪玉コレステロール値も基準値内に収まっています。中性脂肪はまだ基準値を大分外れているけれど(基準値40~149mg/dlのところ190)、9月以前のように200を超えてないので、まずまずといったところでしょう。
自分の体感としても、この1週間くらいは体調が比較的安定しています。一時ちょっと動いたり喋ったりしても激しい咳が出て、コデインリン酸塩酸という強い咳止めに頼ったりもしましたし、階段をゆっくりゆっくり上がっても息が苦しくてへたり込んだりしていましたが、いまは安静時はもちろん少しぐらい家の中で動く分には咳もほとんど出ず、階段もゆっくり一足ずつ上がれば、息は上がっても、そう苦しくてへたりこむようなこともありません。
もちろん間質性肺炎で繊維化した細胞は決して元には戻らないので、この段階にいたっては、この病そのものが快方に向かうということは考えにくいのですが、それでも毎日過ごしていく上で、痛い、苦しい思いができる限り少なく、軽減されるということは本当にありがたいことです。おかげで孫が夕食に来ても話を聞いたり、語り合ったりもできるし、読んだり書いたりの楽しみも気力が湧いて、続けていくことができます。やはり体調が悪いと、ただ背もたれ椅子に寝そべっているしかなくて、そこからエイヤっと身を起こして、たんに読み書きするだけの作業でも、よしっ、やろう!という気が起きなくて情けないな、と思うことも少なくないので、ここしばらくのように体調がよいと本当にうれしい。
今回の処方薬:
・ブレドニン錠5mg×1 + ブレドニゾロン錠1mg×3 = 8mg/day (ステロイド)
・オフェブカプセル100mg×2 /day (抗繊維化剤)
・ダイフェン配合錠 週3日×1 (細菌感染防止剤)
・リバロ錠1mg×1 / day (血中コレステロール減少剤)
・ノベルジン錠 25mg×2 /day (亜鉛を補う薬)
・アシノン錠 150mg×2 /day (胃酸の分泌を抑える薬)
・セルベックスカプセル 50mg×3 /day (胃の粘膜を保護)
・ビオフェルミン錠剤×3 /day(自己調節可) (整腸剤)
・ファンギゾンシロップ100mg/ml (カンジダによる感染治療薬。舌に垂らす)
・カロナール錠500 500mg 頓服10回分(痛みどめ)
新しく加わったのは「アシノン錠」です。これまで胃を保護する薬剤はセルベックスを呑んでいましたが、どうも毎朝胃が少し痛み、膨満感が絶えずあり、それ以上ひどくなりはしないけれど、あまり続くので主治医に報告したところ、以前にもタケキャブなどを服用していたけれど、味覚障害の副作用の要因ではないか、ということで中止した経緯があり、主治医はこれ迄使っていない別の薬を試してみますか、と処方箋にラプソプラゾールと書かれたので、私はその薬剤を記憶していて、前にやはり味覚障害が副作用の項目に含まれていて、私の場合も味覚障害の一因かと疑われるというので中止してもらった経緯があったのです。
ラプソラゾールはステロイドや抗菌剤みたいな強い薬を使うときにしばしば胃の粘膜を保護し、胃潰瘍になるのを防ぐために良く使われる薬剤ですが、その副作用たるや、「間質肺炎、肝機能障害、腹部膨張感、味覚異常、血小板減少・・・」等々と、私にとっては鬼門みたいな薬剤で、そんな薬剤説明書をみるだけで、いくらなんでもこの薬だけは使いたくない、と思えるような薬剤なんですね(笑)。まあ副作用の生起確率なんてほんと分かっていないようで、なんでもかんでも万一にそなえてのエクスキューズとして、一度でも報告されていれば副作用として起こり得る、という挙げかたなのでしょうが、それにしても間質性肺炎の患者が間質性肝炎を副作用とすることを堂々と謳っている薬剤を呑みたくはないでしょうし、薬害で肝機能障害を起こして苦しんだ患者がわざわざ肝機能障害を副作用に謳った薬剤を服用したくはないでしょう。
じゃ、「アシノン錠」は安全なのか、そういう副作用はないのか、と言えば全然そんなことはないのですね(笑)。
アシノン錠の重大な副作用に、肝機能障害や間質性腎炎なんてのがあり、肝機能や腎機能の障害を持つような特定の背景をもつ患者に用いるにあたっては次のような注意書きがあります。
腎機能障害患者
血中濃度が持続するので、投与量を減ずるか投与間隔をあけて使用すること。本剤は腎排泄が主であるため、腎機能障害患者に150mgを経口投与した場合、腎機能低下にともなう血漿中半減期の遅延と、血漿クリアランスの低下がみられた。肝機能障害患者
だから今回も試してみて、次の検査までの間隔をいつもより短くして、年内にもう一度診ましょうということになりました。それまでにへんなこと起きなきゃいいけど・・・
saysei at 18:03|Permalink│Comments(0)│
2023年10月29日
手巻き寿司の夕餉
きょうの夕餉は久しぶりの手巻き寿司。きょうも孫が来てくれたので、彼女の好物。
これも具です。
この焼き海苔で巻き込みます。
すし飯とお刺身中心の具のセット
こちらは韓国風キムパめしと卵や肉の具。
五目黒豆納豆も手巻きずしにして巻き込んじゃうと、とても美味しい。
鯛のアラの味噌汁。とても美味しかった。
きょうはお風呂も入ってきて、寝るばかりにして来たと云って、孫はテレビなど見ながら、ゆっくりしていってくれました。少し前は私の体調が悪かったので遠慮していたのでしょう。またちょくちょく来てくれるようになると嬉しい。今の状況ではもう外部からの来客は迎えられないので、孫まで含めた家族とはときどきでもこうして一緒に食事ができると、生活に変化もあり、気持ちがずっと明るくなる感じです。
昨日前田英樹の新書本『愛読の方法』を書棚でみつけてまだ読んでなかったのに気づいて、読んでみたらなかなか面白かった。この人はソシュールの専門家で難しい本を書いていますが、以前にチャレンジして歯が立たなかった(笑)人なんですが、剣道も達人?のようで、剣道の本も書いています。
この本の中で言及して引用している古典的な書物で、文字とか言葉に関する面白い箴言めいた言葉が色々あって、本居宣長や荻生徂徠や伊藤仁斎のそれは私も読んだことがありますが、たとえば易経にある「書は言を尽くさず言は意を尽くさず」なんてのはなかなかいいなぁ、と思って、今日は加地伸行編『易の世界』を引っ張り出してきて読んだり、その時本箱の近いところにあった『書経』を、これは前にも読んだのですが、もう一度最初から全部読んだりしていました。
といっても文庫本ですから、主な章だけ取り出して訳注をつけたものだと思いますが、それでもこの種の古典にしてはとても面白い本でした。論語や仁斎の『論語古義』を読んでいても、とにかく孔子にとっては堯・舜の時代が理想の時代だけれど、いったいどういう時代だったんだ?堯や舜って何をやったの?となると、書経を読むまでは知らなかったのですから孔子さんがわかるはずもない(笑)。
しかし書経を読むと法や制度を整備し、暦をつくり、治水をなし、交易をなし、世襲ではなく有能な庶民出身者を後継ぎに選ぶ、とうような事績がちゃんと書いてあって、伝説の時代とはいいながら、なぜ後世、理想の時代とされていったかについて現実的な裏付けらしいものが窺えてなかなか面白いものだなと思いながら読んだことでした。
そういえば、四書五経というけれど、「論語」や「孟子」、「詩経」や「礼記」あるいは「春秋左氏伝」くらいは齧ったことあるけれど、「大学」の「中庸」だの「易経」というのはもっぱらツンドクでまともに最初のページから読んでみようとしたこともなかったなぁ、と思って、あの世に行く前には一通り読みたいな、と思って、今日本棚の隅から取り出しておいたところです。
「書経」同様に、読んでみたら案外面白いかもしれません。さすがに「論語」は中学だか高校だかで最初に習って以来、何度も拾い読みして、一度か二度、貝塚さんの文庫本がぼろぼろになるくらい最初から全部読んだことがありましたが、先入観で思っていたようなものと全然違って、やたら面白かった印象が残っています。
孔子さんにしろ、お弟子さんたちにしろ、それぞれ個性がはっきりしていて、それがエピソードや言葉でとても生き生きと表現されているから、ほんとに短編連作小説を読むように面白い。
私たちが教室で習ったのは、いわゆる儒教倫理を説くような抽象的な文言でしかなくて、こういう状況のもとでこうやりとりして、こう言ったんだ、という劇的な要素が全然見えない教えられ方をしてきたんですね。それがもとのを全部読むと、まったくそういう無味乾燥なお説教じみたご託宣などとは違って、孔子や弟子たちのキャラが見事に立っていて、ワクワクさせてくれるようなところがあります。そんなことを書いているとまた読みたくなってきました(笑)。
そろそろ自分が書くべき世界に戻らないと・・・つい自分には時間がないんだってことを忘れちゃいますね(笑)。
saysei at 22:32|Permalink│Comments(0)│