2023年09月
2023年09月30日
きょうも13輪咲きました
きょうも芙蓉は13輪あまり咲いて綺麗です。
いま張本美和、木原組が中国の強敵孫らを下したというニュースが飛び込んできました。素晴らしい!あの孫にはほんとに苦しめられましたからね(笑)。あんな強いのを打ち負かして、最後はほんとに圧倒するような攻めっぷりでした。世代交代の波が来ているのをひしひしと感じさせますね。おめでとう!
きょうの夕餉
子持ちカレイの煮つけ
焼き椎茸とホウレンソウのおひたし
肉巻き茄子とアツアゲの照り焼き
モズクきゅうり酢
グリーンサラダ
(以上でした。)
私の体調は昨日と変わらず、やはりまた炎症が起きたようです。昨年も10月半ばでした。これというきっかけも原因らしいものもなく、時間をおいて間歇的に炎症が再発して、そのたびに肺の状態がカクッと一段階悪化するというのが、この病の特徴なのでしょう。前回は定期検査に行って即入院なんて不意打ちで戸惑ったので、今回は覚悟して準備の上で週明けに検査に行くことにします。傍で見ている家族に心配させることになってしまったけれど、いずれは向き合わなければ仕方のないこと。なんとか乗り越えていきたいと思います。
saysei at 18:04|Permalink│Comments(0)│
2023年09月29日
中秋の名月
今日は十五夜、中秋の名月にして、満月だそうで、2階の窓を開けてみると、本当に真ん丸なお月さまが煌々と輝いていました。先般みた月が一番地球に近づいた、なんだっけシルバームーン?でしたか、あの時の月はすごく大きかったけれど、今夜の月はぐっと引き締まった小型の月でしたが、輝きは夜空に煌々と光を放っていました。
私はカメラの初歩的技術もないので、階下へ降りてベランダから望遠で撮ってみたけれど、目で見ると月で餅をつく兎の影がみえているのに、写真は月の光の明るさのためにのっべらぼうの白い丸でしかありません(>-<;
でも私がみたときは雲もなく夜空が綺麗に晴れていたようで、ほんとに綺麗なお月さまを眺めることができました。
明日がいい日でありますように。
saysei at 22:07|Permalink│Comments(0)│
きょうの夕餉
カボチャスープ
鶏肉、シイタケ、ニンジン、ズッキーニのガーリック・クリーム煮
グリーンサラダ
血中酸素飽和度が安静時でも92-94の辺りで点滅して落ち着かず、体温が36.8℃で、風邪のような症状もまったくないのに、私としてはやや高い微熱があり、少し動くとすぐ咳が出て息があがって、階段は3段でもしんどい、というわけで、きょうはかなり体調が悪いようです。
この病は、一定の期間をおいて、特発性と言う名の通り、原因不明のまま、突然、カクッと階段を一段踏み外すみたいに状態が悪化し、また少し安定したかな、と思っているとまた、ということを繰り返していくようですから、また多少炎症が起きているのかもしれません。
そういえば去年も定期検査に行って肺が真っ白になっていて即入院となったのが10月の半ばでしたから、ちょっといやな感じです。1年ともたないのかな、わが肺は。でも昨夜階段を上がった後の呼吸困難はほんとにどうなってしまうのか、と思うほどかなりしんどかったので、あれが繰り返されるようだとちょっとヤバイ。
週末なので月曜日にならないと主自医の診察も受けられないし、ここは2,3日おとなしくしていて改善しないようなら週明け早々一度診てもらうしかなさそうです。
saysei at 20:04|Permalink│Comments(0)│
イチオシ!『黄色い家』
きょうは少々体調が思わしくなかったので、ぼんやり座って、昨日このブログに7回に分けてアップロードした「『黄色い家』について」を、ホームページの読書感想を書いている欄にもアップしておきました。ブログは日々の日記だから、次々さまざまな日録的記事で埋まっていくので埋もれていって、たまたま興味を持つような人にも目にとまりにくいと思ったので。
ところが普段使っているホームページビルダーのものすごく古いバージョンのシステムが調子が悪くて、いろんなところでなかなか言うことをきいてくれなくて(笑)、いちにち、ああでもない、こうでもないとすったもんだして、さきほどなんとかうまく収まりました。
『黄色い家』 (川上未映子著) について 第一部 『黄色い家』の物語
第二部 『黄色い家』の言語表現の系譜
と二つに分けました。7つに分けて中途半端なところで切れるより、このほうがまとまった読み方ができるだろうと思ったので。それでもA4サイズのコピー用紙にプリントして、これを読んで感想を聞かせろと言った友人におくったら、全部でちょうど100ページになっていました(笑)。
自分用に厚手のコピー用紙に片面印刷してクリップで挟んだのを見て、パートナーが、もとの本より分厚いんじゃない?(笑)・・・まさかね。元の本はなにしろ600ページを超えていますから。
私のHPは、読書感想と映画をみた感想だけで、プロバイダーが無料で提供してくれているHPの容量がギリギリ一杯なので、長いものだといまやひとつアップするにはこれまでアップしていた何かを削除しないといけない状態です。
ほかの欄は全部外部の各種無料ブログに継時的にアップロードして、そのかわりホームページに検索が容易なジャンルごとの目次をつけるというやり方で、自分が少なくともここ10年間くらいのあいだに書いたものは全部HPに集約して、何よりも自分自身がいつでも検索したり再読したり継続執筆したりが容易になるようにしたのがようやく今年ですから、今まで何やってたんだろう?ってなものですが(笑)
『黄色い家』はほんとうに久しぶりに読んだ小説で、友人が読んで感想をきかせてくれ、と「宿題」を出してくれたおかげで読むことができました。とてもいい作品で、いま日本で書かれている小説をほとんどまったく読んでいないから、ベストワンなどと言う資格は私にはないけれど、直観的に言えば間違いなくここ数年の幅をとってみても、きっとベストと言っていいような作品だろうと思います。
それに、なによりもいいのは、これを書いた作家川上未映子さんにとっても、物語としてもそれと一体の言語表現の面からみても、これまで書いて来た作品の集大成と言っていい、最高の作品だということです。作家だから他と比較してどうこう、なんて本来どうでもいいことで、その作家の歩みとしてこんなにすばらしいことはないな、と思います。
私は今回再読した彼女の以前の中・長編は出版された直後くらいには大体読んでいて、ブログに感想も書いていまもHPの読書感想欄に残していますが、それをいま読むと、まあまあ読んだ直後の殴り書き的な感想としてはこんなもんか、と思えるのは「すべて真夜中の恋人たち」と「ヘヴン」だけで、あとはやっぱり即席の感想を書き流しただけで、全然読めてなかったな、と思います。
今回全部再読してみて、デビュー作からみごとに一貫していること、この作家に小説を書かせている根源的な自身への異和のようなものが様々な形象を得て、豊かな物語を作り出すようになって、この『黄色い家』でついにそれが一人一人の主要な登場人物として形象化されて、彼等がみな生き生きと存在感を発揮し、自己主張し、それぞれがみなそれなりの根拠をもった幾つもの世界を作り出していて、それが重なったり、共鳴しあったり、ぶつかりあったりする、ポリフォニックな世界を実現するまでになったんだな、ということを深い感慨をもって見てきました。
もしこんな拙文を読んで下さっているかたがあって、まだ『黄色い家』を読んでおられなければ、ぜひぜひお読みになることを心からおすすめします。同じ作家の芥川賞を受賞したデビュー作『わたくし率 インン 歯ー、または世界』を読もうとして挫折、二度とこの作家の作品を読むまいと心に決めた方もあるかもしれないけど(笑)、『黄色い家』は本当に平易な話体で書かれていて、理念が語るように個々の言葉が立っているような印象はまったくありません。
けれども、「話すように書かれた」その話体の表現自体が含みを持って登場人物の気持ちや状況と響き合い、それを強める踰として、読む側の<知性>にではなくて直接<心>に自然に働きかけてくるような作品です。
だからいわゆる「純文学」のとんがった言語に抵抗をおぼえる方も、いわゆる「大衆小説」「通俗小説」の平易な言語をあんなもの読めないと逆に感じるような方も、この<文学体>と<話体>が高度に融和した言語で書かれた作品には、必ずやいずれも満足され、小説を読む面白さを堪能され、同時に心を揺さぶられるに違いないと思います。
ところが普段使っているホームページビルダーのものすごく古いバージョンのシステムが調子が悪くて、いろんなところでなかなか言うことをきいてくれなくて(笑)、いちにち、ああでもない、こうでもないとすったもんだして、さきほどなんとかうまく収まりました。
『黄色い家』 (川上未映子著) について 第一部 『黄色い家』の物語
第二部 『黄色い家』の言語表現の系譜
と二つに分けました。7つに分けて中途半端なところで切れるより、このほうがまとまった読み方ができるだろうと思ったので。それでもA4サイズのコピー用紙にプリントして、これを読んで感想を聞かせろと言った友人におくったら、全部でちょうど100ページになっていました(笑)。
自分用に厚手のコピー用紙に片面印刷してクリップで挟んだのを見て、パートナーが、もとの本より分厚いんじゃない?(笑)・・・まさかね。元の本はなにしろ600ページを超えていますから。
私のHPは、読書感想と映画をみた感想だけで、プロバイダーが無料で提供してくれているHPの容量がギリギリ一杯なので、長いものだといまやひとつアップするにはこれまでアップしていた何かを削除しないといけない状態です。
ほかの欄は全部外部の各種無料ブログに継時的にアップロードして、そのかわりホームページに検索が容易なジャンルごとの目次をつけるというやり方で、自分が少なくともここ10年間くらいのあいだに書いたものは全部HPに集約して、何よりも自分自身がいつでも検索したり再読したり継続執筆したりが容易になるようにしたのがようやく今年ですから、今まで何やってたんだろう?ってなものですが(笑)
『黄色い家』はほんとうに久しぶりに読んだ小説で、友人が読んで感想をきかせてくれ、と「宿題」を出してくれたおかげで読むことができました。とてもいい作品で、いま日本で書かれている小説をほとんどまったく読んでいないから、ベストワンなどと言う資格は私にはないけれど、直観的に言えば間違いなくここ数年の幅をとってみても、きっとベストと言っていいような作品だろうと思います。
それに、なによりもいいのは、これを書いた作家川上未映子さんにとっても、物語としてもそれと一体の言語表現の面からみても、これまで書いて来た作品の集大成と言っていい、最高の作品だということです。作家だから他と比較してどうこう、なんて本来どうでもいいことで、その作家の歩みとしてこんなにすばらしいことはないな、と思います。
私は今回再読した彼女の以前の中・長編は出版された直後くらいには大体読んでいて、ブログに感想も書いていまもHPの読書感想欄に残していますが、それをいま読むと、まあまあ読んだ直後の殴り書き的な感想としてはこんなもんか、と思えるのは「すべて真夜中の恋人たち」と「ヘヴン」だけで、あとはやっぱり即席の感想を書き流しただけで、全然読めてなかったな、と思います。
今回全部再読してみて、デビュー作からみごとに一貫していること、この作家に小説を書かせている根源的な自身への異和のようなものが様々な形象を得て、豊かな物語を作り出すようになって、この『黄色い家』でついにそれが一人一人の主要な登場人物として形象化されて、彼等がみな生き生きと存在感を発揮し、自己主張し、それぞれがみなそれなりの根拠をもった幾つもの世界を作り出していて、それが重なったり、共鳴しあったり、ぶつかりあったりする、ポリフォニックな世界を実現するまでになったんだな、ということを深い感慨をもって見てきました。
もしこんな拙文を読んで下さっているかたがあって、まだ『黄色い家』を読んでおられなければ、ぜひぜひお読みになることを心からおすすめします。同じ作家の芥川賞を受賞したデビュー作『わたくし率 インン 歯ー、または世界』を読もうとして挫折、二度とこの作家の作品を読むまいと心に決めた方もあるかもしれないけど(笑)、『黄色い家』は本当に平易な話体で書かれていて、理念が語るように個々の言葉が立っているような印象はまったくありません。
けれども、「話すように書かれた」その話体の表現自体が含みを持って登場人物の気持ちや状況と響き合い、それを強める踰として、読む側の<知性>にではなくて直接<心>に自然に働きかけてくるような作品です。
だからいわゆる「純文学」のとんがった言語に抵抗をおぼえる方も、いわゆる「大衆小説」「通俗小説」の平易な言語をあんなもの読めないと逆に感じるような方も、この<文学体>と<話体>が高度に融和した言語で書かれた作品には、必ずやいずれも満足され、小説を読む面白さを堪能され、同時に心を揺さぶられるに違いないと思います。
saysei at 19:00|Permalink│Comments(0)│
きょうの12輪
2階の窓から見下ろすと重なっているところもあるので、正確ではないかもしれませんが、きょうは芙蓉12輪あまりが咲いています。朝から日差しが強く、けっこう暑くて、一度はもういらないだろうかとも思ったエアコンの「除湿」を入れました。昨夜2階への階段を、ふだんは片脚ずつ一歩一歩慎重に息を整えながらあがるのですが、パソコンを消し忘れたか何か思い出したことがあって、一旦下へ降りていたのを、何気なく昔のようにすっと2階へ上がったのですが、そうすると途端に呼吸が恐ろしく苦しくなってまるで心臓発作でもおきたように、呼吸困難で息もたえだえに背もたれ椅子に倒れ込んで、しばらく動くこともできず、ただ息が鎮まるまで待つほかはない状態になりました。
どうなることかと思いましたが、幸いそのまま10分くらいじっとしていたら、だんだん普通に呼吸ができるようになりました。昨年暮れに退院の間近に病院のリハビリセンターで8段、9段のの階段をゆっくりと上がって下りても、血中酸素飽和度は96くらいから90かそれをちょっと下がるくらいになって、1,2分ソファに腰かけてじっとしていればまたじきに95-96に戻ってくれていたのですが、今回は十数分安静を保って計っても92-93で点滅して、なかなか数字がとまってくれず、だいぶたってあらためて計って、ようやく95-96のいつもの数値に戻りました。かなり肺機能が落ちているな、というのを否応なく実感させられました。
進行性の不可逆な、治療方法のない病なので、いずれはこうなっていくわけで、問題はその劣化のスピードがどの程度か、ということなのですが、それはなかなか主治医でもわからないようだし、ずっと服用している大量のステロイドが、どの程度の量なら有効で、どのあたりから危なくなるのか、といったこともまったくケースバイケースで、人によっても大きく異なるようだから、事実上、誰にも分らないし、すべては闇の中を手探りで行くような状況です。
私はこの病にかかったときから、こうなることは覚悟してきたので、仕方ないと思ってわりと割り切っているけれど、はたでついて見ている家族はやはり、なにか変わったことが起きると、とたんに奈落の底に突き落とされるみたいにショックを受けるようで、心配をしてやや過剰になにもかも私にはやらせないようにして自分がひきうけようとするので、それもまたちょっとなぁという感じで(笑)。そうかといって、無理をしてなんでもない顔をしていても、いずれはそうしていられないことは分かり切っているし、無理はしないで、あるがままに、苦しいときはちょいとしんどいから休むよ、ということで休ませてくれればいいし、自分がやれると思えば、動かないのもよくないから動こうと思うので、あまり心配せずに見ててくれればいい、と思うのだけれど、なかなか難しいところです。
こういう終末期にそう遠くない日常を本人にとっても家族にとっても、よりベターな過ごし方をして、さりげなく最後まで日常生活をできるかぎり維持して過ごしていく、という態勢を支援するような社会的なシステムと言うのも、そのためのノウハウや技術というのも、まだまだこの社会には整っていないだろうなという気がします。いわゆる終末医療専門の病院とかホステルの類もあるのはあるようですが、やはり私は出来る限り最後まで家族と過ごしたいと思うし、どんなに医師、看護師をはじめスタッフが充実し、設備、環境の整ったそうした施設であっても、入りたいとは思わないのです。それはひとそれぞれでしょうが、ならばひとそれぞれの思いにできるかぎり沿えるようなやり方ができるといいな、と思います。
家族というのをそんなふうに考えない人は、近代が家族、家庭の機能をどんどん外在化し、社会化してきたように、公共施設やサービスを整えて、そうした機能を社会化し、外在的な環境を整えればいいんだ、という、かつてのマルクス主義者などが思い描いたような将来図を描くでしょうが、それがもしも必然的な成行きだとしても、最低あと100年や200年はかかるだろうと思います。それは経済や政策の問題ではなくて、家族という<性>の基底が、人間の生理的、身体的なものに根拠をもっているので、社会的な制度とか政策的な幻想の共同性によって簡単に誘導したり消去したりできないものだからだろうと思います。
昨日、『黄色い家』の試論を仕上げて、今朝宿題をもらっていた友人に送り、昨夜のうちにこのブログに全部アップロードして一息つきました。「帰郷」に戻らないと、と思いますが、それはそれでなかなか気力、体力?と時間を要するので、ちょっと一休み(笑)。まぁ誰も読まないけれど、自分としては書くしかない小説(もどき?)なので書き続けるほかはないし、全部最初からまた書き直さないといけないと思っていても、それをやるとまた二十歳のころから繰り返してきたように、ストップしたきり挫折して、またゼロからやりなおしになるので、ここはゆるゆるとでもいきつくところまで、とにかく突っ走るしかないやと思っています。
誰も読まないと思っていたら、友人が一通り読んでくれたようで、それなりに面白がってくれたようだし、昨年暮れの入院時に書いておいた「なぜ生きるか」というエッセイも読んでくれて、学生時代以来親しくつきあってきても、そこに全然彼の知らないわたしがいると感じたようで、人間って散々付き合って、よく知っているように思っても、案外何も知らないものだね、と。
わたしたちはふだん、半世紀も親しく付き合って、なんでも包み隠さず語り合って来たような友人となれば、よくよく知っている、わかっていると思っているけれど、本当はそのほんの一面しか知らないのでしょうね。それで別に付き合う上で支障はないし、どうってことはないのですが、それでも人間ってけっこう孤独で淋しいものだな、とは思いますね。
貴船菊
saysei at 11:07|Permalink│Comments(2)│