2023年04月
2023年04月30日
久しぶりのスコーン

きょうはパートナーがお得意のスコーンを久しぶりに焼いてくれました。最初のころはなかなかうまく焼けなかったみたいですが、その後とてもいい具合に焼けるようになって、イギリスのバースで食べた本格的なアフタヌーンティー用の三段のひとつにのっかって出たスコーンに優るとも劣らない出来具合になって、すっかりわが家のスコーンとして定着していました。しかし、しばらくは焼いていなかったので、ほんとに久しぶりでした。
梅田の百貨店で時々やっていた英国フェアで英国の職人が来てスコーンをカフェで食べさせていて一度食べたことがありましたが、めちゃくちゃ値段が高く、しかも味はわが家のほどおいしくなかった(笑)。やはり美味しいバターを使って、このみに合わせた焼き方をするせいかもしれません。わが家のスコーンは10個焼いても材料から全部入れて250円ほどだそうです笑い。

今回スコーンを焼いたのは、先日送っていただいたスウェーデンからの贈り物の紅茶とこのラズベリージャムがあったからです。(びんと右側のジャム)。何と言ってもスコーンにはラズベリージャムが一番合うからです。(左は脂肪分40%の濃い美味しいホイップクリーム)

紅茶もいただいた、色々なフルーツの入った紅茶。私はフルーツ味をはじめ色んな紅茶以外の味を加えた紅茶はふだんは好みではなくて飲まないのですが(ふだんは朝食で必ず飲むウィッタードのEnglish Breakfast と午後に飲む特に好みのCovent Gardenのみ)、この北欧の紅茶は本来の紅茶の葉の味が美味しいスグレモノらしく、フルーツの味と風味も上品で、まったく抵抗なく、とても美味しくいただきました。そして、スコーンにもよく合いました。

わが家の庭では義母のところから一株持ってきたフキが自然に広がって、いまもとってもとっても次々大きく葉をひろげています。

きょうもそのフキをとってきて、明日のためにアク抜きをしていました。茎は細いけれど、味と香りは素晴らしい。

これは上賀茂のなかむらで買ってきました。とてもイキのいい綺麗な蕨でした。

庭の鉢やプランターのハーブたちも元気に芽を出して大きくなってきています。

大好きなディルは特に元気

去年の種が落ちて自然に芽をだした少し大きな鉢の2本のディルはもうこんなに大きくなってきました。

このまん中にひょろっと立っているディルは花壇に落ちたらしい種から芽を出して気づいたときはもうこんなに伸びていました。

オレンジレモンの木も今年は驚くほど沢山の花のつぼみをつけています。いくら花を多くつけもこれまではみあ落ちてしまって、最後に一個だけしか実をつけてくれたことしかありませんが、今年はどうでしょうか。
今日の夕餉
今日は最後に出された餃子を撮影し損ねてしまいました。その餃子には、きょうナカムラで買ってきたパクチー(ハーブ)を入れてもらったので、すてきな香りがして、ほんとに美味しかった。パクチーは癖のある香りだから苦手な人もあるでしょうけれど、私は大好き。

今日のおかずも、いずれも美味しかったけれど、このサラダが一番好きな味でした。パクチー、セロリ、鶏皮の中華サラダです。何と言ってもパクチーの味と香りがすばらしく効いていました。

牛肉と椎茸の甘味噌(テンジャンミソ)炒めのレタス巻き。薄皮包みと同じ材料ですが、レタス巻なので、よりヘルシーというわけで。

麻婆豆腐。ミソを入れたあまり辛すぎないソフトな麻婆豆腐。

グリーンサラダ。
これに撮り忘れのパクチー入り餃子ですね。
(以上でした)。
きょうは吉本試論の折口信夫の詩の発生論からの影響といった部分を書き、少しだけ創作を進めました。読書のかわりに今日はチャットGPTについて少しネットで得られる知識に眼をとおすようにしました。今朝の日経にそのことが出ていたのを興味深く読んだからです。少しは考えてみないと・・・
今日の日経では、古い映画の紹介欄で「リバティ・バランスを射った男」のことが書かれていて、なかなかいい文章だったので、ついまた観たくなりましたが時間がなくて見れなかった。プライムビデオなら300円で見られるようです。ニ、三度はみた映画ですが、もう何十年も前のことなので、もう一度見ておきたい。
saysei at 23:20|Permalink│Comments(0)│
2023年04月24日
まだまだタケノコ、上賀茂野菜

もうそろそろ終わりやから、と言いつつ、きょうもこんなに安い値段で売っていたから、つい買っちゃった、とタケノコを買ってくるパートナー。毎日タケノコでもええやろ?と。美味しいのでまったく異論ありません。この時期だけですしね。

ごはんもタケノコごはん。

タケノコと言えば魚はやっぱりメバルでしょう。タケノコメバル

わが家の庭に生えているフキの炊いたの。茎は太めのを選んでもこの程度細い。でも味と香りは素晴らしくて、ほんと、美味しい。木の芽も鉢植えの朝倉山椒から。

キュウリ、セロリ、新タマネギ、ラディッシュ、ピーマンと上賀茂野菜のオンパレード、これに自家製フキミソをつけていただきました。新タマネギは全然刺激臭や辛味が無くて、甘くて歯ごたえがよくて、これほんとにタマネギ?というような逸品です。真っ白で綺麗な大きいのが2個で200円だったと思います。

お浸しにしたホウレンソウももちろん上賀茂野菜。すごく柔らかくて新鮮で甘味があります。

きょうはちょっと珍しい、サワラのシラコがありました。結構美味しかった。

シイタケの肉詰め焼き。

鶏皮とネギボウズ。

五目豆。
きょうは長男も一緒の夕餉。パートナーも張り切って、にぎやかな食卓になりました。

これは今日の上賀茂リハビリ自転車行でゲットしてきた、戸田農園さんの小カブ。100円也。
ちょうど戸田さんが来られたところで、トマトは?と訊いてみたら、午前中に出ているのだけれど、いまは少しなのですぐ売り切れてしまうのだそうです。残念。小カブは今日が初お目見えでした。
連休後は茄子、賀茂茄子が出始めるそうです。また楽しみです。

きょう府立大学図書館でウィトゲンシュタイン関係の2冊を返して、代わりに借りて来た3冊。二条の后藤原高子というのは、入内する前の娘時代に在原業平と恋に落ちて、業平がかどわかして逃亡したものの、高子の兄たちに追われて連れ戻されてしまった有名なエピソードが伊勢物語に書かれている、あの高子さん。惟喬親王のことをぼちぼちと調べている中で、当然親しかった業平は副主人公と言った役どころになるので、高子もまたこれまた当然登場するはずで、少し下調べさせてもらおうか、と。
バイイの言語学はいわば時枝さんや吉本さんの仮想敵で、ソシュールのお弟子さん筋に当たる人でしょうから、一応敬意を表して目を通しておこう、と。あと一冊はアンチョコみたいなもので(笑)

いま机の脇にいつでも手にとれるように積んであるのは、ずいぶん以前にゲットした空海の全集の第五巻、文鏡秘府論と、片桐洋一さんの『伊勢物語全読解』という、2冊ともかつての電話帳より厚そうな本です。まあ全部通読するのは私の人生に残された時間の関係で無理そうだし(笑)、これまで読んできた中で色々言及されている関心のありそうなところを拾い読みするだけで終わるでしょう。
伊勢物語はもちろん業平→惟喬親王関連でエピソードとその背景についての拾い読み、弘法大師の対策は漢詩の美学の移入がどんな具合に果たされたか、多少なりと見ておきたいという気持があります。
先日少し読んだ富士谷成章の「換玉抄」についての解説の中でも文鏡秘府論はたびたび触れられていたので、ほんとうはある程度じっくり読んでみたいのですが・・・。
文鏡秘府論は、中国における歴代の文章論と模範文例のコレクションみたいなものだけれど、本国では既にほとんど焼失してしまったものが集められているので、世界的にというか日中両国を通じても貴重なものらしいです。
ただ、ちょっと中を開いてみると、その多くが、こういう言葉が重なったらだめだとか、何句目と何句目の幾つ目の言葉が韻を踏まなくちゃいけないんだとか、大した意味があるとも思えないそういう形式的な約束事についての記述で、特に詩歌に使われる言葉の「病」というのか、こういう言葉をこういうところに使っちゃダメ、という病態論みたいなのが多いようで、これは緻密に読んだって仕方のないものだろうなぁ、と思います。そういう縛りみたいなのものを全体とおしてみたときに、背後にどういう一貫した考え方みたいなものが見えてくるのか、それらのルールを貫く核心的な論理がどういうものか、といったことがもし僅かなりと見えれば面白いだろうなぁと思います
今日は午前中少し創作を進め(ただ、まだエブリスタに投稿公開するには至りません)、午後は自転車行に出かける前と帰ってから、また吉本試論の自己表出論の5回目、三浦つとむの言語論との関係について書いて、これはすぐにアップロードしておきました。
ではまた明日。

きょうの夕方近い比叡。曇り空で、明日は雨だとか。
saysei at 21:42|Permalink│Comments(0)│
2023年04月19日
プラトン「クラテュロス」を読む
(以下、引用部分はすべて、『プラトン全集』2 「クラテュロス テアイテトス」水地宗明訳。[岩波書店 1974、1998年第5刷 ]によります。)
プラトンの「クラテュロス―名前の正しさについて―」は世界で最初の言語論なんだそうです。言語というものは事物の名前だと考えられている場合、「名前」論は即言語論になってしまいます。そういう言語論のこれは現存最古のもの、ということなのでしょう。彼のいう「名前」、ギリシア語の「オノマ」(onoma)は、主語になりうる言葉、それと並べて語られている「述べことば」のほうは述語にほぼ対応するのかもしれません。或いは私たちが知る日本語文法の言葉で言えば、前者は「詞」、後者は「辞」にほぼ対応するでしょうか。
ソクラテスの「名前」は画家たちが写生しようとして、それぞれの絵がそれぞれ特有の色を要求するのに従って、ある場合には紫だけを、ある場合にはどれか他の色を、また時には多くの絵の具を混ぜ合わせて割り当てる(塗る)ように、必要と思われる一つの字母を一つ一つの事物に与えることもあるし、また多くの字母を合わせて、人々が綴と呼んでいるものを一つの事物に与えることもある、とした上で、次のように述べています。
「さらにまたわれわれは綴を組み合わせ、そこから名前と述べことば(述語)が合成される。そしてさらに名前と述べことばとから、とうとう、大きくて美しくもあり全体的な[欠けた所のない]あるもの[つまり、文]を、われわれは組み立てることになるだろう。」(P126)
だから、必ずしも言語即名前と考えられているわけではなくて、言語は「名前と述べことば」から成ると考えられてはいたのだろうと思います。この「述べことば」について、訳注は「原語はレーマ(のちにverbumとラテン訳された語)。『述べことば』とは何であるか、本篇では説明されていないが、『ソピステス』262Aでは、動作(作用―能動的であれ、受動的であれ)を表わす語がそれだと定義されている。大体動詞に相当するわけだが、例えば"かしこくある"(is wise)のような表現も述べることばであったらしい。」と解説しています。
少し先走りましたが、さて本対話篇は、例によってソクラテスとあと2人の登場人物の対話で議論が進行します。登場人物はソクラテス以外は、若いヘルモゲネスと、それより少し年長らしいクラテュロスで、ソクラテスはもうかなりのお歳のようで、あとの二人はいちおう彼に敬意を表した態度で対話しています。クラテュロスも同席しているようですが、前半四分の三くらいは、もっぱらソクラテスとヘルモゲネスとの対話です。
事の起こりは、ヘルモゲネスがクラテュロスに言われた次のような名前についての言説がきっかけとなっています。
こちらのクラテュロスがね、おおソクラテスよ、こう主張するのです。名前の正しさというものは、それぞれの有るものに対して、本来本性的に[自然に]
定まっている。そして名前とは、幾人かの人々がそう呼ぶことを申し合わせて[取り決めて]、自分たちの言語の一部分として発音することによって呼んでいるものなのではなくて、何か名前の正しさというものが本性的に[自然に]存在しているのであり、それはギリシア人にも外国人にも万人に同一の物なのであると、このように主張するのです。そこでぼくが彼に質問しました。クラテュロスという名前は、真実に彼の名前であるのかどうかとね。彼はそうだと肯定しました。「ではソクラテスには何という名前があるのか」とぼくがたずねますと、「ソクラテスという名前だ」と彼は答えました。「それでは、その他のすべての人間のばあいも、われわれが彼ら一人一人を呼んでいるまさしくその名前が、各人の名前であるのではないか。」これに対して彼は「いや、少なくとも君だけは”ヘルモゲネス”が名前ではないよ。たとえ世界中の人間が君をそう呼んだとしてもね」と言いました。(p4)
訳注によれば、”ヘルモゲネス”とは「ヘルメス神から生まれた者」、「ヘルメスの子孫」という意味であり、ヘルメス神の機能の一つは幸運や利益を授けることなので、ヘルメスの子孫ならば貧乏であるはずはない、とクラテュロスが考えている、ということになるのだそうです。
それでソクラテスはヘルモゲネスに対して、「”ヘルモゲネス”が真実に君の名前であるということを彼が否定する点についていうならば、ぼくの推測では、彼は冗談をいっているのだ。というのは、君が財産を得ようと望みながら、そのたびに失敗していると、彼は多分考えているのだろう。」と言います。
さてこのヘルモゲネスは、クラテュロスのいう「名前の正しさ」の規準は、人々の申し合わせ(取り決め)ではなくて、「本性的に[自然に]存在している」という考えに納得がいきません。「取り決め[約束]と同意以外に、何か名前の正しさ[規準]があるなどとは、どうしても納得できない」と思い、「だれかが何かにどんな名前でもつけたならば、それがそのものの正しい名前である」と考えています。「本来それぞれのものに本性的に定まっている名前なんて全然ありはしない」し、「名前はそれを言い慣わし、呼んでいる人々のしきたりと慣わし[慣用]によってできあがるものである」(p7)と考えて、ソクラテスに訴えかけているのです。私たち今の読者には、クラテュロスの説よりも、このヘルモゲネスの名前=取り決め説、今で言えば言語=規範論のほうが納得できるように思いますがどうでしょうか。
これに対するソクラテスの最初の応答は私にはちょっと奇妙なものに思えます。
ソクラテス: ・・・だれかがそれぞれのものを何とでも名づけて呼ぶならば、それがそれぞれのものの名前であるのかね。
ヘルモゲネス:ええ、とにかくぼくにはそう思えるのです。
ソクラテス:名づける者が私人である場合でも、国家である場合でもかね。
ヘルモゲネス:そうです。
ソクラテス:ではどうだろう。ぼく個人が有るものを何であれ、例えば現在われわれば人間と呼んでいるものをだね、それをぼうが馬と呼称することにして、そして現在馬と呼ばれているものを人間と呼ぶことにするならばだ、同一のものに対して公共的には人間という名前があり、私的には馬という名前があることになるだろうね。また逆に、私的には人間と呼ばれるものが、公共的には馬と呼ばれることになるだろう。君が言わんとしているのは、そういうことかね。
ヘルモゲネス:ええ、ぼくにはそのように思えるのです。(p8)
ここでソクラテスが名前を「私的なもの」と「公共的なもの」に分けて問うのは、彼が名前は公共的なもので、彼のいわゆる「立法者」が定めるものとする後述のような考え方をもっているためかもしれませんが、ここでは唐突に思えます。ヘルモゲネスも、名前というものが「取り決め」だという思想を徹底していれば、誰が名付けようと、いったん名前として流通すればそれは「取り決め」として社会的に流通するわけですから、ソクラテスの確認に対してイエスと言ってはいけないはずです。
ここでソクラテスが国家を持ち出すのは、「言語の公共的・社会的性格を指摘するため」だと訳注に説明されていますが、もともとヘルモゲネスは言語(名前の「正しさ」)は「取り決めと同意」だと言っています。つまり、社会的、公共的性格のものだと言っているので、ソクラテスのように名づける者が国家か私人かで分けるのは変だし、ヘルモゲネスが「名づける者が私人である場合でも、国家である場合でもかね」というソクラテスの奇妙な問いかけに、イエスと答えてしまうのはヘルモゲネスの考え方としては変で、ここはヘルモゲネスがソクラテスの口車に乗ってしまうような、ソクラテスに都合がよい若輩者として、著者プラトンが描いているというほかはありません。
言語は私的なものではなく、もともと「公共的な」性格のものですが、個々の発話において、或いは名づけにおいては、その公共的性格である言語による言語活動においては個別的(私的)であるほかはなく、さもなければ表現言語としては成立しません。ソクラテスの反問は、ソシュール的な言葉で言えば、ラングとパロールというまったく次元の異なるものを同一平面に並べて選択を迫るようなものでしかありません。
次にソクラテスは、名前をさておいて、「有るものの有りかた」(本質。あるものが何であるか)が、それをとらえる各個人にとってそれぞれ独自の(個人的、私的な)ものかどうかを問います。ここではプロタゴラスの「人間こそあらゆるものごとの尺度である」が否定され、また他方では、エウテュデモス(ソフィスト)による、すべてのものにすべてのものが等しく(同程度に)同時にそして常に備わっているという考え方も否定されます。
従って、「事物はわれわれとの関係において[相対的に]有るのではなく、またわれわれの表象によって上へでも下へでも引き回されるというふうにわれわれに依存しているのでもなくて、それ自身において、それ自身の固有の有りかたに従って、本性的に定まっている仕方で存在するのである」(ソクラテス p14)。
このようにソクラテスは、事物の名のありようと、事物そのものやその作用のありようとを同一視して、「名前」というものもまた、主観的なものではなく、「それ自身において、それ自身の固有の有りかたに従って、本性的に定まっている仕方で存在する」ものだと主張します。これはクラテュロスの考え方と同じです。
ただし、これは論理ではなく類推であって、実際の事物やその作用と名前とを同一視する過ちを犯していると言わざるをえません。
何か物を切る時、好きかってな手段で犂に切ってもうまく切れない。それぞれのものを「切る作用と切られる作用の本性に従って、そして本性にかなった手段で切ろうと欲するならば、われわれは切ることに成功する」(p15)。ソクラテスはここで、事物と作用を同一視し、また「言う」(言明する、文を発言する)ことと作用とを同一視しています。
かくして、ソクラテスの「論理」では、「名づける(名前を言う)こと」 = [言明を]言うことの一部分 = 「言うこと」もまた、ある一種の「作用」である = 「作用」は「有るもの[事物]」の一種である、ということになり、従って、「有るもの」が「それ自身でそれ自身の固定した有りかた[本質]」を持っていて、[作用]もまた、「われわれとの関係においてあるのではなくて、それ自身の独自の何らかの本性をもつものである」ならば、「名づける」という「作用」もまた、われわれの欲するままに名づけるべきではなくて、事物を名づける作用と「事物が名づけられる作用の本性に合うしかたで、本性に合う道具を用いて名づけるべき」だということになります。
さらにソクラテスは、名前は一種の「教示的な道具」だと言い、織り糸を区分する道具である梭(ひ)に喩えて、「事物の有りかたを区別する道具である」として、要するに事物の正しい区分と名前の正しい区分とが対応し、名前が事物の本質を表わすことができるような名づけこそが「正しい」名づけだという主張を展開します。
ところで、名前を授けるものは法律[慣習(ノモス)]であり、「教示の技術を持つ人が名前を使うときには、立法者[法律、慣習を制定する者]が作ったものを使う」としています。従って、「名前を定めるということは、すべての男子にできる仕事ではなくて、何か名前制作者とでもいった人の仕事」だと言います。それは「立法者」だと言い換えられます。
プラトンの対話篇を読むとき、いつもつまずくのは上に見るような強引な論理の飛躍で、本来なら対話相手が、それはそうじゃないでしょう、と的確に反論してストップをかけなくてはならないのに、プラトンの対話篇ではいつもソクラテスに都合よく、相手は「おっしゃるとおりです」とソクラテスの飛躍した論理を受け入れてしまいます。だからいつもそこのところでイライラして、私はプラトンの対話篇はまともに読めたことがありません。あれは真の「対話」ではなくて、プラトンが描くソクラテスの独白であり、一方的な自己主張でしかないと思います。
それはともかくとして、こうしてとうとう「名前は事物に対して本性的[自然的]に定まっているということ、そして、だれでもかれでもが名前を作る技術者ではなくて、かの者―それぞれの事物に対して本性的に定まっている名前を手本として眺めて、それの形を文字と綴の中に入れることのできる者だけがそうなのだということは、真実なのだ」(p27)ということになってしまいます。
次に置かれた「名前の正しさ」についての部分は、神々の名などを例として取り上げながらの語源的な探究で、ここはなかなか面白いところです。神々の名などとしてつけられた言葉の本来の意味が探られ、それが神々の性質と符合するものであるかどうかという観点から吟味され、それによって、その名が「正しい」かどうかが評価されます。ここはまさに言語学的な詮索の一種になっていて、興味が持てます。中には音韻や字母の脱落など、言語史的な変化の法則らしきものを指摘するような部分もあって、なかなか面白いところです。
神々の名を例にとれば、たとえばアポロン(Apollōn)は、この神の四つの力(機能)に調和した名になっているので、洗浄し(apolouōn)、諸悪から解き放つ(apolyōn)神、つまり洗浄者(Apolouōn)、単純性[誠実さ](haploun)といった言葉から名づけられた、或いはまたテッタリア風の名Aplounは、預言術の真実性・単純さ・誠実さ(haploun)に由来し、また、弓術に関連する常に射当てる者(aei ballōn)に由来する。さらに、音楽術に関連して、共に回転させている(homopolōn)の、共に(homo-)を同じ意味をもつ接頭辞「a-」に変換し、さらに、破滅させる者(apolōn、apollynaiの未来分詞)と混同せぬように「l」を追加してつくられた名だ、と。
またディオニュソス(Dionysos)は、「酒を与える者」(didous oinon)として、戯れに”ディドイニュソス”(Didoinysos)と呼ばれているのだろう、と。「また、酒(oinos)は、それを飲む人の多くをして、分別(nous)をもっていないのに、もっているかのように思い(oiesthai)こませるので、極めて正当にも”オイオヌゥス”(oionous)と名づけられているのだろうね」(p74)とされています。
ソクラテスが難物だと認めながら語源的解説をしている「アテナ」(Αθήνα,Athēnā)についての彼の解説を聴きましょう。
古人もすでに、アテナについて、現代のホメロス解釈の巧者[専門家]たちと同様の見解を抱いていたように見えるのだ。それというのも、後者の大多数は、この詩人[ホメロス]を解釈する際に、彼[ホメロス]がアテナによって[人間の]知性と理性を表現したと主張しているのだが、名前の制作者もまたこの女神について何かそのような考えをもっていたように見えるのだ。ただしもっと高次元的に神の知見(theou noēsis)であると言っているのだがね。彼は、いわば、この女神がha theonoa(神の思惟)であると言っているのだ。つまり[hē theou noēsis(神の知性)における]ēの代わりに他国風に(訳注:ドーリア方言では、アッティカ方言のēがāになる。なおhēは定冠詞)āを使い、またiとsを取り除いたわけだ。だがもしかするとそういう意味でもなくて、この女神が他の者に比べて遥かによく神に関すること(theia)を知っている(noousa)という理由で、Theonoēと名づけたのかも知れないね。(訳注:つまり、これに定冠詞をつけてドーリア化するとHā thonoā となり、さらにこれをつづめると Athēnā になる。)
しかしまた、こう考えても少しも差し支えない。すなわち、命名者は、この女神が性格(ēthos)における[つまり本姓的な]知見[noēsis]であると考えて、Ēthonoēと呼称しようと欲したのだが、ところが彼自身なり、だれか後世の人たちなりが、これをもっときれいなことばに―と彼らは信じたのだがね―するつもりで、Athēnaaと呼んだのだ。(p76-77)
ヘルモゲネスがその子孫だとされるヘルメス(Hermes)については、「通訳」(hermeneus)であること、伝令であること、盗みに長じていること、言説でもって欺くのがうまいこと、商取引に巧みであることなど、この神のこれらの活動はすべて言説にかかわっているのですが、言説を用いることを示す「話す」(eirein)、「工夫した」ことを表わす「仕組んだ、発明した」(emesato)というこの両方の言葉から、「言うことと言説を発明した者」と呼ぶように立法者がわれわれにいわば命令しているのだ、といいます。(”言う”(legein)=”話す(eirein)から、Eiremesとなるのですが、この名前を「われわれは美々しく化粧して、ヘルメスと呼んでいる」のだそうです。
神々の名以外の、いまでいう一般名詞についても、たとえば「人間」(anthrōpos)は、「視た」(opōpe)ものを「観察し」(anathrei)、「考量する」 (anathrōn ha opōpe)のが人間だからanthroposと名づけられたのだ、と言います。
あるいは「魂」(psӯchē)は、それがからだについている間、呼吸させ活気づける(anapsӯchein)もので、からだという物(物資的本性 physis)をそれが生きていて動き回るように、抱きかかえて(echein)運んでやる(ochein)ものは魂(生命原理)のほかにない、と。物(物資的本性 physis)を運び、抱きかかえる(echein)この力に対して”ピュセケー”(physeche)という名前を与えるのは至当であり、またこれを気の利いた風に”プシューケー”(魂)とも発音することができる、といった解釈をしています。(p56)
このほか抽象的な言葉についても、たとえば「思慮」(phonesis)は、「運動と流動との覚知」(phoras kai rhou noesis)あるいは、「運動の」利用[享受](phoras onesis)から名づけられた。「認識」(gnome)は、「生成の」(gones)考察、つまり思いめぐらすこと(nomesis)から、つまり「思いめぐらす」(noman)=「考察する」(skopein)によって名づけられた言葉。また「覚知」(noesis)は、「新しいものの希求」(neou hesis)つまり有るものが新しいということは、常に生成しつつあることを意味するのだ、と。昔はnoēsisではなく、ē(エータ)の代わりにe(エイ)を二度、つまりnoeesisと言わなければならなかったのだそうですが、nnneoesis→oeesis→noēsisと変化したのだと考えられています。フッサールのノエマ、ノエシスのノエシスはこのnoēsisに由来する言葉ですね。
私たちにもなじみの「エピステーメー」、すなわち「知識」(epistēmē)については、「事物が運動していて、言うに足るほどの魂はそれについて行く(hepomenē)、遅れて取り残されもせず、先走りもしないということを告げている。本当はe(エイ)を取り除いてpistēmēと名づけねばならない。(訳注:pistē(信頼できる、忠実な)と、menein(あり続ける)との合成語とみる。)
「勇気」(andreia)については、「デルタ(d)を取り去ると、anreia。anはana[反対に]、reiaは"流れ"、従って全体で"反対方向への流れ"。勇気というもののはたらきを告げているのだそうです。
「技術」(technē)については、「心得(nous)を持つこと(hexis)」。technēからt(タウ)を取り除いて、ch(ケイ)とn(ニュー)の間、及びnとē(エータ)の間にそれぞれo(オウ)をはさんで、echonoē。これはechein(持つ)と、nous(心得)とから合成されたものとみています。
「工夫」(mēchanē)については、「広範囲に(epi poly)達成する(anein)」。長さ(mēkos)はある意味で広範囲(poly多量)を」表わします。mēkosとaneimとから「工夫」という名が合成されることになります。
現代の語源学からみて、ソクラテスの語源探索がどれくらい正しいか、殆ど根拠がないのかは私には全然わかりませんが、いずれにせよ、その言葉が指し示す事物なり人物なりの本性をその名前が正しく示している場合に、「正しい名前」だとされているわけです。
「・・・われわれが今までに検討したもろもろの名前に関する限り、その正しさは、それぞれの有るものがどのようなものであるかを示すことのできるようなものであろうとしていたわけだ」(p119)。まさに名は体を表す、という思想ですね。
そうやって語源探索をして、その言葉(名前)を構成するもとの言葉の意味から、それが指し示す本性と、その名前をもつ事物や人物の本性とが一致していれば「正しい名づけ」ということになるわけです。
ではそうやって語源を探索していきつく源、最初の名前(言語)ではどうなるのか。
「・・・してみるとこれ[事物を示す機能]だけは、最初の名前だって、いやしくも名前である以上は、より後の[派生的な]名前に劣らず、もっていなければならないわけだ」(p120)
「最初の名前(は)・・・もう他の名前の上へ乗っかてはいないのだが、どのような仕方で有るものをわれわれに力にかなう限りで最大限に、明らかにしてくれるのだろう」(p120)
ここでソクラテスはまた類推と比喩に頼り、われわれが声や舌をもたないとすれば、どうやって事物を示そうとするだろうか、と問いかけ、その場合には手や頭やその他の身体の部分を使って表現しようと試みるはずだ、と述べ、そこから、事物の名前が当の事物の本性そのものを(いわば名前の身体を使って)模倣することによって表現しようとするのだ、という独創的な(というか奇怪なというべきか)主張を展開します。
しかし、実際には名前という言語は身体ではないので、「舌と口で表現する」わけで、これらを介して何らかの対象の模造品を生み出すことによって対象を表現するのだ、と言います。つまり「名前とは、模倣される対象の音声による模造品である」(p121)と。
ソクラテスは絵の具で絵を描くことを例に持ち出して、その類推で名づけることについて考えていきます。絵を描くとき、模倣する対象に本性的に似ている絵の具が無ければ、有るものに似た絵を描けないように、名前を構成しているもの(要素)が、名前がその模造品であるところの原物に対して或る種の類似性を持っていなければ、名前は決していかなる事物にも似たものになることができないと考えます。そして、そのような事物(の本性)との類似性を備えた、模造品のほうの要素として、彼は名前を構成すべき字母を見いだすのです。
有るものの本質を模倣するのが「名前」だというとき、その模倣を可能にするのは、名前を構成する字母であり、その文字、綴という言語の感性的側面での類似性だというのですね。ここにはいまの私たちのように、言語の概念という考え方はなくて、言語の意味(シニフィエ)げ言語の感性的側面、文字の形や大きさに直接結びつけられるのです。
ソクラテスは、文字と綴で”有るもの(事物の本質)”の「有りかた」を模写することがいかに可能かを問うて、模倣手段や模倣対象を解析、区分して、文字要素である「字母」をまず第一に区分し、取り出すべきものだと考えます。
模倣する人が模倣に取りかかる出発点となるのは、[模倣手段や模倣対象の]区分なのだが、この区分はどんなふうにうればよいのだろうね。こうではないだろうか。有りかたの模倣はほかでもなく綴と文字で行なわれるのだから、先ず第一に字母[文字要素]を区分するのが最も正しい手順ではないだろうか。ちょうど韻律を研究する人たちが、第一に字母の音価を、次に綴のそれを区別するのが常であり、その上でいよいよ韻律に考察すべく立ち向かうのであって、それ以前にはそうしないようにね。」(P134-135)
そうして以下は、その字母が、いかに事物の本質たる「有るもの」の「有りかた」を模倣するものであるかを説明していきます。例えば、「r」(ロー)の字は、あらゆる動き(kinesis)を表現するための道具だ、と言います。このrを用いた名前(言語)の例として、rhein(流れる)、rhoe(流れ)を挙げています。また、「i」(イオータ)は、すべて細やかなものに対して用いられている、として、細やかなものは他の何ものにも勝って、すべてのものを通り抜けていくことができるから、「行くこと」(icnai)と「急ぐこと」(hiestai)とを「i]で写し取っているのだ、と主張します。同様に、ph(ペイ)とps(プセイ)とs(シーグマ)とz(ゼータ)は、強いいぶき(気息)を伴って発音されるものだから、そのような「気息に関するもの」は、これらの文字を用いて名づけられている、と。
つまり名前(一般化すれば言語)の意味と、アルファベットの文字の形や大きさ、あるいは発音の物理的な特性といった言語の感性的側面とを直接に結び付けて、後者が前者を「模倣」することによって、前者を表現しているのだ、としているわけです。
もちろんいまの私たちから見れば、まず言語を事物の名前であるという、彼等共通の前提になっている考え方自体がとうてい受け入れられないでしょうしソクラテスやクラテュロスが、言語(事物の名前)と事物(あるいはその言語によって意味されるもの)の結びつきを必然的なものと考え、前者は後者を表現しており、前者を調べれば後者が分かるかのように考えているところは、ソシュール流に言えばシニフィエとシニフィアンの関係における恣意性という現代的な見方とは基本的に相容れないものであり、さらに、言語(事物の名前)は事物の本性の模倣だとして、言語の意味(事物の本性)と言語(事物の名前)の感性的な側面、つまり物理的音声や文字の物理的性質などとを関係づけようとする観点も現代から見ればナンセンスだということになるでしょう。
しかし、ソクラテスが神々の名などの語源的な詮索を試みるとき、既にみたように、現代の観点から考えても、それらの名は確かに神々の本性だと考えられたものに従って、それを表わすような言葉を組み合わせて作られ、名づけられただろうと推測できますから、その限りでは必ずしも当たっていないわけではないのです。もちろんそうした神々の本性が名前の字母の形や大きさや発語の際の物理的特性などによって「模倣」されることによって正しい名づけが成就される、という事物ないし意味されるものと言語の感性的側面(名前を表わす文字や音)とを結びつけることは、現代の眼から見れば、滑稽な錯誤にすぎませんが。
ソクラテスとクラテュロスの考え方は、名前というものは事物の本質を模倣して、その事物の本質を表現するものであるのが「正しい名前」だという点では一致していて、最初のヘルモゲネスのいう「正しい名前の規準」は「取り決めと同意」だという常識的な考え方には背反しています。しかし、クラテュロスは、名前というのは名づけられている以上すべて正しいものであって、名前の間に、うまく名づけられたものとそうでないもの、正しい名前と正しくない名前があるということを(ソクラテスと違って)認めようとしません。ソクラテスが巧く名付けられていない、あるいは正しくない名前だと考えるものは、クラテュロスにとっては、そもそも名前などではなく、単なる意味のないつぶやきにすぎないのです。だからこの対話篇のきっかけになったヘルモゲネスの名は、冗談とはいえクラテュロスにとっては、現実のヘルモゲネス本人の名前などではなく、ヘルメスの血統にふさわしい本性を備えただれか別人を指す名前であるはずなのです。
これは誠に奇妙な考え方で、名前というものが事物の模倣であることを認めた彼に似合わず、名前は単なる事物に貼るレッテルのごときものではなくて、むしろ名前のほうに実態がなければならない、名前の方が本体であって、これがいわばそれにふさわしい事物や人間を呼び寄せるかのような考え方で、或る種の言霊的な言語観と言ってもいいのかもしれません。それにしては、言語(名前)が事物の字母による模倣だというソクラテスの考えを受け入れるのは矛盾しているように思えますが。いずれにせよ、クラテュロスのこの奇妙な言語観(名前観)は、ソクラテスに言い負かされて、名前にもうまく(適切に)つくられたものもあれば、そうでないものもある、と認めざるを得なくなります。
とにもかくにも、クラテュロスとソクラテスの対話は、名前(言語)が有るもの(事物)の本性を模倣するものであり、その模倣が可能なのはなによりもまず名前の文字と綴の感性的側面(字母の形や大きさ、発音の物理的性格など)によるのだということにおいては合意したわけですが、しかしながらこの点に関してソクラテスは必ずしも徹底しておらず、最初にヘルモゲネスが主張したような、名前(言語)の正しさの規準は「取り決めと合意」だという考え方を一部取り入れようとしています。
彼は「名前」を「有るもの」の模造品だとあれだけ論理を尽くして主張しながらも、同時に「約束事」という言語の規定をもさりげなく留保しています。
「なるほどぼく自身も、名前が可能なかぎりは事物に似ていると信じるのだが、しかしながら類似性のもつ[相似る事物と名前との間の]この牽引力は、ヘルモゲネスのことばを借りるならば、本当にもうやっとこさというほどの[微弱な]もので、名前の正しさを説明するためには、やはりこの取りきめという平凡卑俗なものをも付加的に用いることも止むを得ないのではないかと、ぼくは恐れているのだよ。」(P156)
名前による事物の本質の模倣というのは、そんなに頼りないものだったようです。名前が正しいことの規準を言うのに、模倣論だけでは覆えないことがソクラテスにも直観的に分かっていたのでしょう。
最初のほうで出て来た、名前は教える(教示する)ものだというクラテュロスの言葉は、最後に近い部分で再登場して、その意味がよく分かるようになっています。つまり、「名前」というものが事物の模倣であり、事物の本質を表現するものであるとすれば、「有るもの」(事物)の本質を知ろうと思えば、その「名前」を知ればよいわけです。だから名前は「教える(教示する)もの」だということです。
クラテュロスのように、名前に間違いなどない、という立場に立てば、よけいにこの命題は絶対的なものです。しかし、ソクラテスのように、名づけがうまくいっている場合とそうでない場合があり、事物の本質を模倣するような適切な名づけがなされていないことがある、という前提に立てば、事物の名前を知ったからと言って、その名前が表す事物そのものを正しく知ることができるとは限りません。この点について最後のほうで若干の議論が交わされています。しかし、そこにはそれほどひっかかるような点はありません。
この対話篇の最後に近い場面では、万物は流転する(一瞬も同じものでありえず、常に変化しつづける)というヘラクレイトス流の考え方が否定されます。それだと「いついかなるときにも同一状態にないものが、どうして何か[何らか一定のもの]であり得るだろうか。[不可能だ。]」として、それなら何ものによっても認識されないことになってしまうし、認識ということ自体が存在しないことになってしまうだろう、というわけです。つまりソクラテスはヘラクレイトスの考え方をAはAである、という同一律の否定だとみているようです。それだと「有るもの」(事物)の本性(本質)などという定まったものもあり得ないことになりますから、当然それを「模倣」する「正しい名前」というものもあり得ないことになってしまいます。クラテュロスはヘラクレイトス流の万物は流転するという思想を奉じているようですから、その点でもソクラテス流の考え方からすればその言語観(名前観)と矛盾する所があるように見えます。ただ、それはソクラテスがヘラクレイトス流の考え方を自同律の否定だとみなすのが正しいと仮定しての話で、私はソクラテスのそうしたヘラクレイトス批判は全然的外れだと思いますが。
(以上)
saysei at 14:03|Permalink│Comments(0)│
2023年04月15日
村上春樹『街とその不確かな壁』

アマゾンで予約していた村上春樹の新作『街とその不確かな壁』が届いて、この2日間吉本試論の方を書いていたので読むのを我慢していましたが、終日雨のきょう、一気に読んでしまいました。この作家の文体にはもう慣れているし、熟度も増しているので、とても読みやすくて、650頁を越える長編だから明日までかかるかと思っていましたが、あっという間に読めてしまいました。
ただ、彼のパラレルワールド的な世界に多少はなじんでいる読者でないと、その世界にすっと入って行くのは結構難しいかもしれません。以前に女子大生が何か面白い小説を紹介して、とよくやってきたので、異なる現役の作家から1作品ずつ選んで貸したりしていたとき、私が特に推薦していた村上春樹の『東京奇譚集』や高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は、意外にもあまり彼女たちに好評ではなくて、「よくわからなかった」「難しかった」といった感想を聞かされたものです。
今回の作品は1980年の『文学界』9月号に掲載されたものの、その後作者の意向でお蔵入りになっていた『街と、その不確かな壁』という比較的短い中篇作品を一から書き直した長編で、当初の作品のアイディアの骨組みは生かされているようだけれど、すっかり書き換えられ、堂々たる作品に仕上がっています。
ただ、やはり「街と、その不確かな壁」が原型になって書かれた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と重なる印象が強くて、パラレルワールドやそこからの脱出といった基本的な構図はもちろん、次々に登場する影とその引き剥がし、門衛、図書館、夢読み、一角獣等々の諸要素は、村上春樹の読者にはおなじみのもので、既視感を覚えながら読まざるを得ないでしょう。
春樹ファンの中には「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を村上の最高作あるいは要になる作品と高く評価する向きもあるようですが、私はどちらかというと苦手で、「つくりすぎやろ」という印象を持っていて、「ねじまき鳥クロニクル」のような作品のほうがずっと好きだし、「ノルウェーの森」「海辺のカフカ」「騎士団長殺し」「IQ84」いずれも好きですが、前者の系列に属する性格の濃い今回の作品はどちらかというと苦手なほうです。
作品としての仮構線を設定するために随分エネルギーと紙数を費やしている印象で、たしかにそれでもやりおおせてしまうところに作家の圧倒的な力量を感じはしますが、フィクションとしての構築物を構成する柱や梁の一本一本をこう説明して読者に納得させようとすると、肝心の物語性が生き生きと勝手に動き出して作品の中のドラマチックな波動を生み出し、広げていく力が弱くなってしまうところがあるような気がします。
一気読みさせるだけの円熟度は感じさせるけれど、作品世界に没入して激しく心を揺さぶられる、という印象は今回の作品にはありませんでした。登場人物にもそれほど魅力的な人物がなかったことも残念でした。発端になる高校生の「私」が恋する一学年下の少女も、メルヘンの少女のような印象だし、少し面白いかなと期待した図書館長前任者の子易さんもそこそこだし、ましてやカフェの女性店主も、イエローサブマリーンの少年はいまいちだし、登場人物が極端に絞り込まれている中で、魅力的な人物がいないことは物語に生命が吹き込まれないひとつの弱点に思われました。
ただ作者が焦点をしぼっているのは、人物とか事件とかではなくて、「わたし」(と彼女)が作り出す仮構の世界と現実の世界との関係で、その境が曖昧になり、またときに反転するようにも見え、一方から他方へ入ったり、逆に脱出したり、そのことが人間にとって何を意味するか、という私たちが現実の社会の中で経験するパラレルワールド的な世界の喩としてのフィクショナルな世界のありようそのものなのでしょうから、個々の登場人物の掘り下げがどうのとか、諸要素がどうだといったことは、つまらない揚げ足取りにしかならないかもしれません。
従って、きちんとこの作品を評するには、原型としての「街と、その不確かな壁」や「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を再読して、どう作者が作品の結構を作り直していったかをよく点検してみなければならないでしょう。ただ小説を楽しむだけの一読者として、独立した作品として今回の新作を読むと、やはりちょっと「つくりすぎやろ」という印象でした。
きょうの夕餉

體のアラダキ

椎茸のバター焼き、焼き鳥。

茄子、アツアゲの煮物、こごみ。

大根葉の抜き菜の辛子和え

五目黒豆納豆

グリーンサラダ。
(以上でした)
saysei at 22:32|Permalink│Comments(0)│
2023年04月14日
カツオ、タケノコ旬の味

カツオのタタキサラダ。ニンニクをたっぷり入れて。

ワカタケ

タケノコゴハン

厚揚げ、茄子、ピーマン、小松菜の豚キムチコチジャン味噌炒め

ポテトサラダ

モズクきゅうり酢

グリーンサラダ。
(以上でした。)
きょうもやや頭痛気味で、黄砂もまだ残っているらしいし、終日家の中で書いたり読んだり。やっと吉本隆明試論の時枝誠記の詞辞論をめぐる時枝の吉本批判のページを書き終えました。やっぱりこれに集中して読んだり書いたりしていると、富士谷成章も村上春樹も古今集もなかなか読めません。それに頭痛が残っていると持続時間がとても短くて、何をする気も無くなってしまう傾向があります。はやく黄砂がいなくなってほしい。
saysei at 21:03|Permalink│Comments(0)│