2023年02月
2023年02月27日
ウクライナの詩人シェフチェンコの詩
静けさにみちた世界 愛するふるさと
わたしのウクライナよ。
母よ、あなたはなぜ
破壊され、滅びゆくのか。
・・・・・
それなのに、あ、ボフダンよ!*
愚かな息子よ!
さあ おまえの母を、
おまえのウクライナを 見るがいい。
ゆりかごを揺らしながら
おのれの不幸な運命を歌っていた母を、
歌いながら、こみあげる嗚咽を抑えられず、
自由を得る日を待ち焦がれていた母を。
ああ、わたしのボフダンよ!
こうなるとわかっていたら、
赤子のうちに おまえの呼吸を止めてしまったのに。
添い寝の胸で おまえの息の根を止めてやったのに。
わたしの草原(ステップ)は
ユダヤ人やドイツ人に 売られてしまい、
わたしの息子たちは 他人の土地で
他人のために働いている
わたしの弟、ドニプロの水は涸れて
わたしを見棄てている。
そのうえに わたしのかけがえのない墳墓(モヒラ)まで
ロシア人が掘り返している。
・・・・・
*ボフダンについての訳書の注:ボフダン・フメリニツキイ(1595-1657、ヘトマン~コサックの首領~在位1648-57)。ウクライナのコサック指導者。ポーランドからの独立戦争を有利に導くために、モスクワのツァーリ、アレクセイ(1629-76.。在位1645-76)との間に1654年に協定を結んだが、これがその後のウクライナのロシアへの隷従とロシアによる支配・抑圧の道を開いたとして、シェフチェンコは糾弾し続けた。
(「暴かれた墳墓(モヒラ)」『シェフチェンコ詩集』藤井悦子編訳 岩波文庫)
チヒリン*よ、チヒリンよ、
この世のものはすべて滅びる。
おまえの聖なる栄光さえ
一片の塵のように
冷たい風にのって飛び去り、
雲のかなたに消え失せる。
地上では歳月が流れ、
ドニプロの水は涸れて干上がる。
墳墓(モヒラ)は破壊され 崩れ落ちている。
高き墳墓こそ おまえの栄光のしるしなのに。
無力な老人よ、おまえのことは、もはや
だれひとり ひとことも語ろうとはせず、
どこにおまえがあったのか、
なんのためにあったのか、
だれも示そうとはしないだろう。
笑い話の種にすることさえないのだ!
いったいなんのためにわたしたちはポーランド人と戦ったのか。
なんのために タタール人の軍団と斬りあったのか、
なんのために ロシア兵の肋骨(あばら)を
槍で犂きかえすようなことをしたのか。
血で潤し、
サーベルで均した。
畑には何が生えてきただろ。
芽生えたのは毒草だ。
わたしたちの自由を害(そこな)う毒草だった。
だが愚か者のこのわたしは、おまえの廃墟に佇んで、
いたずらに涙を流すだけ。ウクライナは死んだように横たわり、
雑草が生い茂り カビに覆いつくされた。
ぬかるみや泥沼の中で 人びとのこころを腐らせ、
朽木の洞(うろ)には 冷酷な毒蛇を放った。
そして子どもたちの希望を 草原(ステップ)に投げ捨てさせた。
・・・・・・
* チヒリンについての訳書の注:キーウ南東のドニプロ川沿いにある都市。フメリニツキィ(ボフダン)の居城があり、1648年から1660年までヘトマン国家の首都であった。
(「無題<チヒリンよ、チヒリンよ>」同前)
京大の生協書店へ寄ったとき、偶然みつけたウクライナの詩人シェフチェンコの詩集から。つねにポーランドやロシアやドイツ等々などの強国に侵され、支配されてきたウクライナの歴史的な悲劇を、15世紀後半以降にウクライナやロシアの南部ステップ地帯に移り住んだ自衛武装集団コサックの悲劇として描く詩が中心です。
いまもロシアの侵略を受けて、そうした歴史を反復せざるを得ないウクライナ。
私たちが新聞やテレビの報道を見ているうちに、否応なく覚えてしまったウクライナの地名が幾つも登場します。「ウクライナ・コサックはドニプロ川下流の中洲に本営を設けたので、ザポリッジャ(早瀬の向こう)のコサックを呼ばれる」のだそうです。このザポリッジャという都市名も何度か耳にしていますが、早瀬の向こうという意味だったとは、もちろんこの詩集の訳注を見るまで知りませんでした。
きょうは府立大学図書館で『貫之集』を借りてきました。少々分厚いけど、頑張ってコピーさせてもらおうと思います。今の私には古書価の17,000円はきつい。ウェブサイトの出品画像を二つ並べて迷っていたもう一つの『伊勢物語全読解』(片桐洋一著)は、エイヤっと崖から飛び降りる気で発注してしまいました。支払いは1カ月以上先だから、それまでに何か不要本をいくつか処分して、その代金13,000円を稼がなくては・・・
あと、きょうは昨日の北一輝のつづきで、磯部浅一の『獄中日記』の、北・西田は自分たちの蹶起と無関係だから、ぜひとも彼等の命を助けろという趣旨の文をいくつか読みました。これは北一輝の胆の据わった堂々たる書き物と違って、自分のやったことの意味もそれが誰にどう利用されたかについても、またいまそうやって北一揆や西田税を救おうとしている自分の画策がどの程度の現実性をもつものかについても、およそまっとうな判断力を持たない未熟な精神、未熟な頭脳から吐露された文章で、なにか痛々しい印象を受けました。

きょうの比叡。午後のリハビリ自転車の帰り、高野橋より。快晴でしたね。
今朝いくつ薬を飲んでいるのだろう、と思って数えたら、6種類の薬剤を計10個(1カプセル+9錠)飲んでいることがわかりました。以前に食後に沢山薬を飲んでいる私を見た知人から、こっちの薬であっちを打消し、あっちのでこっちのを打ち消す、トータルしてゼロだね、と揶揄されたことがありましたが、まさにそんな感じです。ついでに、痛みや機能障害を生じている体の部位や、何とか障害と言われる内臓系の不具合(機能障害)と、血液検査で基準値をかなり大きくはみ出す成人病系の症状などがどのくらいあるか、数えてみると16件ありました(笑)。身体中に黄色信号がともっている感じですね。
今日の夕餉

きょうのメインディッシュ。レンコン団子、鶏肉、白菜、ホウレンソウ、マッシュルム入りのクリームシチュー。レンコン団子がちょっと隠れていますが、もっちりして美味しかった。

自家製バーニャカウダと上賀茂野菜各種。

ロメインレタスとスライスタマネギのグリーンサラダ。9種の要素が混ぜ合わされているらしい自家製ドレッシングがこのロメインレタスにとってもよく合って、バリバリ食べられます。

キノコとクルミのパンによるパンコントマテ。トマトはもちろん上賀茂の戸田農園産。
(以上でした。)
saysei at 21:52|Permalink│Comments(0)│
2023年02月26日
「日本改造法案大綱」を読む
きょうは二・二六、朝起きてカーテンを開けると、予報にはなかった雪がうっすらと庭の木々やテラスの手すりを覆っていました。昭和十一年のこの日はもっと深い雪の朝だったようです。私には太宰の「人間失格」の主人公が、その朝、喀血して雪の上に赤い日の丸の跡がつく、というシーンと、二・二六がつよく結びついて鮮烈な印象として残っています。
それで、というわけでもないけれど、きょうは朝5時前に起きてから、ずっと北一輝の「日本改造法案大綱」を読んでいました。23歳で処女作『國體論及び純正社會主義』(1906)を書いた北が、大正8(1919)年に上海で書いた「日本ファシズムの聖典」(橋川文三)と言われる日本国家の改造案としての革命綱領です。
伊藤博文ら明治維新の担い手たちの大日本國憲法を読み抜き、読み破って、「天皇の国民」「天皇の日本」を「国民の(代表としての)天皇」「国民の日本」へと転倒し、これを新たな国家統合の柱として彼の言う「純正社会主義」の日本社会への転換を図った、ということでしょう。
彼の思想の影響下に北の言う「改造」を軍のクーデターで一気に成し遂げようとした軍の青年将校らと、それを利用しようとした軍部内の対立する勢力を抑えてヘゲモニーを掌握しようとした皇道派の黒幕たちによって、二・二六事件が引き起こされ、直接軍人たちを行動に赴かせるような煽動や指示を与えたわけでもなく(のちの歴史家の検証で無関係が立証されたそうです)、そもそも軍人などではない一民間人にすぎない北が特別軍法会議で裁かれ、事件の理論的指導者として死刑判決を受けて処刑されるというのも無茶苦茶な話ですが、こうして54歳の生涯を閉じることになります。
彼のことはそんなわけで、若いころにはファシストの思想家というレッテルを張ってやりすごしてしまうようなところがあったのですが、それでも一応、あの処女作は拾い読みをして、私は生物系の学科にいたので、彼が進化論的な発想を人間社会に拡張して考えているところには特に興味を持って読み、割といいんじゃない?と思って(笑)、こともあろうに大学の進化論の教授のテストが自由記述式のような解答を求めるものだったので、北一輝によれば・・・なんて書いてしまったのですね。
それで欠点ギリギリの点数をもらいました。私が生物学科で貰った成績の中で、最低の得点だったと思います。その先生と言うのが、今も賀状くらいは交わしている同世代の、同じ大学(別の学科ですが)の学生さんだった人の御父上で、進化学の研究者で、というよりそれよりも学生の間で有名だったのはゴリゴリのマルクス主義者だということで知られていた先生でした。まあ、だから私もわざと北一輝を引用したりした面もあったのですが(笑)・・・
ファシストだとかその聖典だとか、そんなことはみんな忘れてこの綱領をあらためてじっくり読んでみると、そういうレッテルとはずいぶん違う思想が見えてくるような気がします。
もとより天皇を超越的なものとしてかついで、あらゆる「改造」の力の源をその超越化した天皇を統合原理とする「国家」に集中させて、一気に社会改造を成し遂げようというのだから、ウルトラナショナリズムであり天皇制(日本的な農本主義的)ファシズムであることは紛れもない事実です。
だけど、それによって成し遂げようとした社会改造の諸項目をつぶさに見ると、結構いいことを言っているというか、決して一朝一夕に勢いで書き上げた綱領なんてものではなくて、一つ一つ日本社会の現状を踏まえ、経験を踏まえた上で、よくよく考えを練って書かれた綱領だということがよくわかります。
その背景には政治権力と癒着した財閥をはじめとする資本の圧倒的な支配のもとで、横暴を極める資本家たち、華族たち、腐敗した軍の上層部がある一方、貧困や飢餓、病苦、若い娘たちの身売り、家族離散の地獄を味わっている全国の地方の民衆の姿があり、そうした地方出身の兵士たちや若手将校たちの共感があったわけで、それが一つ一つの綱領の文言に刻まれています。
この綱領のうち社会改造の眼目を形作っているのは、三つの経済的制約を課する原則で、第一に「私有財産限度」、第二に「私有地限度」、第三に「私人生産業限度」がそれです。「私有財産限度」は、「日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度を壱百万円トス。」という項目です。
当時の百万円って、どのくらいか正確には分からないというか、元にする物価によって大きく幅が出ちゃうけれど、ウェブサイトで探すと、企業物価指数をもとに計算すると、大正10年から平成29年で物価が530.7倍になっているそうで、これだと5億3000万円程度になる勘定です。別の物価(金価格や公務員初任給など)などをもとに計算すると2,500倍程度になるようですから、そうすると一挙に25億円というような数字に跳ねあがってしまいます。
それでもこれくらいの資産を持っている人はいまでも富裕層ならいくらでもいるでしょうから、当時の財閥にとっては資産のごくごく僅かな金額ということになるでしょう。クーデターで彼らが権力を問って本気でこの綱領の実現を図るとなれば、そりゃ当時の財閥はじめ資本家階級から家族から彼等と結託する軍上層部、政治家たちまで、みな青ざめたでしょう。
2番目の「私有地限度」は「日本国民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時価拾萬円トス」というものです。それを超えた土地は一律に国家に納付させ、賠償として国家が3分の利付公債を交付するというのですが、これも先の規程にしたがい、「私産限度以上ニ及バズ」です。
3番目の制限は「私人生産業ノ限度ヲ資本壱千万円トス。海外ニオケル国民ノ私人生産業マタ同ジ」です。
こうしたウルトラ国家の権力による資本の論理の強力な抑制が、北の思想の社会改造の根幹をなしていることがよくわかります。同時にその国家(state)に圧倒的多数の貧しい農村の庶民たちが支え、資本家や政治家たちを通り越して自分たちの「代表」として仰ぐ天皇に感性的な形象化をみる「国(くに=nation)」の心情と論理がアマルガムのように一体化されて、苛酷な資本の論理を抑え込もうとしていることがよくわかります。
北がこれを書いた時期のほんの少し前に目の前で起きるのを見ただろうロシア革命のように、私有財産を認めないのではない。北は「個人ノ自由ナル活動マタハ享楽ハコレヲソノ私有財産ニ求メザルベカラズ」と述べ、個人の自由な活動を保証するのが私有財産なんだ、と積極的に肯定しています。ただ資本の横暴を許さないために限度を設け、それ以上は国家に納付させるのだ、と。それが彼のいう「純正社会主義」です。
地主の土地所有も小作人を雇って働かせ収益を上げることも認めています。しかし、その小作人の擁護に関しては周到な配慮をしています。いわく、「私有地限度内ノ小地主ニ対シテ土地ヲ借耕スル小作人ヲ擁護スルタメニ、国家ハ別個国民人権ノ基本ニ立テル法律ヲ制定スベシ」
男女の役割については、いまのフェミニストが聞けば怒り心頭に発するような、男は労働に、女性は家庭に、そして夫を支え、子供を立派に育てる「良妻賢母」型を欧米とは異なる日本の良き伝統文化だとしてその発展を期するという考え方を前提にしています。
しかし、それを前提にしてではあるけれど、それゆえに逆に、両親を亡くした孤児はむろんのこと、父を亡くした子(いまでいう母子家庭)にも同様の生活支援や教育資金を国が保証するような制度を創ることを提唱しています。それは母親は自分のたつきは立てなくてはならないが、女性に家族まで養う労働をさせることを前提としないからです。
また孤児についても、現状の孤児院がひどい状態だからと、孤児院に入れることを拒否して、親戚の誰かが引き取る「日本的な」解決策を求めているなど、その提案には、現実の日本社会のありようを踏まえたいくつもの配慮がみられます。
さらに、北は全国民に6歳から16歳まで無償の教育を受けることを保証する項目を書いていますが、これも男女まったく平等に同じ教育を受けさせると言います。そして、現状で行なわれている女性固有の教育、例えば、お茶、お花だの礼儀作法だの、そんなものは全部廃するとしています。北はそれが必要なら16歳を過ぎてからやるか、各家庭で必要と思えばやればよろしい、と言います。これなどなかなかいいのではないでしょうか。
また、当時は女性にだけ姦通罪があったそうですが、これを男性にも適用するとか、いまでいう売春についても、春を売る女性だけ罪になる法律を削除し、逆に男性の「買春」の法を罰する、と言います。これもなかなかいいのではないでしょうか(笑)。
まあ言い出せばきりがありませんが、彼が書いている日本社会の改造の細目にはなかなかいいものがたくさんあります。
ただその改造をやりとげる力の源泉を彼は民衆に直結する形での天皇に求めざるを得なかったし、その力を現実化する媒介として、すべてを国家権力に集中させる方法をとるしかない、と考えたわけで、それはもちろん、今の私たちから見て、典型的なウルトラ・ナショナリズムとして、じきに大きな禍根となる思想として我が国を覆うことになるわけで、私とて肯定しようなどというのではもちろんありません。
しかし、当時の明治維新的国家≒資本の論理≒天皇の日本・天皇の国民という「国(ネイション)」の強力きわまりない三位一体型国家のもとで、それを突き破るどんな論理があり得たか、それを少しでも想像しようとしてみるとき、23歳の北が、あるいは中国革命への参加と挫折の経験を経た十余年後に、様々な学問的成果を独学で取り込みながら、日本の国家と社会全体のありようを単独で考え抜いたこの結果には驚嘆せざるを得ないものがある、と思います。
今日の夕餉

ぎょうざ

大根、里芋、いか、蒟蒻の煮物

グリーンサラダ

ホウレンソウのおひたし

ロマネスコ

モズク酢

スグキなど
以上でした。
それで、というわけでもないけれど、きょうは朝5時前に起きてから、ずっと北一輝の「日本改造法案大綱」を読んでいました。23歳で処女作『國體論及び純正社會主義』(1906)を書いた北が、大正8(1919)年に上海で書いた「日本ファシズムの聖典」(橋川文三)と言われる日本国家の改造案としての革命綱領です。
伊藤博文ら明治維新の担い手たちの大日本國憲法を読み抜き、読み破って、「天皇の国民」「天皇の日本」を「国民の(代表としての)天皇」「国民の日本」へと転倒し、これを新たな国家統合の柱として彼の言う「純正社会主義」の日本社会への転換を図った、ということでしょう。
彼の思想の影響下に北の言う「改造」を軍のクーデターで一気に成し遂げようとした軍の青年将校らと、それを利用しようとした軍部内の対立する勢力を抑えてヘゲモニーを掌握しようとした皇道派の黒幕たちによって、二・二六事件が引き起こされ、直接軍人たちを行動に赴かせるような煽動や指示を与えたわけでもなく(のちの歴史家の検証で無関係が立証されたそうです)、そもそも軍人などではない一民間人にすぎない北が特別軍法会議で裁かれ、事件の理論的指導者として死刑判決を受けて処刑されるというのも無茶苦茶な話ですが、こうして54歳の生涯を閉じることになります。
彼のことはそんなわけで、若いころにはファシストの思想家というレッテルを張ってやりすごしてしまうようなところがあったのですが、それでも一応、あの処女作は拾い読みをして、私は生物系の学科にいたので、彼が進化論的な発想を人間社会に拡張して考えているところには特に興味を持って読み、割といいんじゃない?と思って(笑)、こともあろうに大学の進化論の教授のテストが自由記述式のような解答を求めるものだったので、北一輝によれば・・・なんて書いてしまったのですね。
それで欠点ギリギリの点数をもらいました。私が生物学科で貰った成績の中で、最低の得点だったと思います。その先生と言うのが、今も賀状くらいは交わしている同世代の、同じ大学(別の学科ですが)の学生さんだった人の御父上で、進化学の研究者で、というよりそれよりも学生の間で有名だったのはゴリゴリのマルクス主義者だということで知られていた先生でした。まあ、だから私もわざと北一輝を引用したりした面もあったのですが(笑)・・・
ファシストだとかその聖典だとか、そんなことはみんな忘れてこの綱領をあらためてじっくり読んでみると、そういうレッテルとはずいぶん違う思想が見えてくるような気がします。
もとより天皇を超越的なものとしてかついで、あらゆる「改造」の力の源をその超越化した天皇を統合原理とする「国家」に集中させて、一気に社会改造を成し遂げようというのだから、ウルトラナショナリズムであり天皇制(日本的な農本主義的)ファシズムであることは紛れもない事実です。
だけど、それによって成し遂げようとした社会改造の諸項目をつぶさに見ると、結構いいことを言っているというか、決して一朝一夕に勢いで書き上げた綱領なんてものではなくて、一つ一つ日本社会の現状を踏まえ、経験を踏まえた上で、よくよく考えを練って書かれた綱領だということがよくわかります。
その背景には政治権力と癒着した財閥をはじめとする資本の圧倒的な支配のもとで、横暴を極める資本家たち、華族たち、腐敗した軍の上層部がある一方、貧困や飢餓、病苦、若い娘たちの身売り、家族離散の地獄を味わっている全国の地方の民衆の姿があり、そうした地方出身の兵士たちや若手将校たちの共感があったわけで、それが一つ一つの綱領の文言に刻まれています。
この綱領のうち社会改造の眼目を形作っているのは、三つの経済的制約を課する原則で、第一に「私有財産限度」、第二に「私有地限度」、第三に「私人生産業限度」がそれです。「私有財産限度」は、「日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度を壱百万円トス。」という項目です。
当時の百万円って、どのくらいか正確には分からないというか、元にする物価によって大きく幅が出ちゃうけれど、ウェブサイトで探すと、企業物価指数をもとに計算すると、大正10年から平成29年で物価が530.7倍になっているそうで、これだと5億3000万円程度になる勘定です。別の物価(金価格や公務員初任給など)などをもとに計算すると2,500倍程度になるようですから、そうすると一挙に25億円というような数字に跳ねあがってしまいます。
それでもこれくらいの資産を持っている人はいまでも富裕層ならいくらでもいるでしょうから、当時の財閥にとっては資産のごくごく僅かな金額ということになるでしょう。クーデターで彼らが権力を問って本気でこの綱領の実現を図るとなれば、そりゃ当時の財閥はじめ資本家階級から家族から彼等と結託する軍上層部、政治家たちまで、みな青ざめたでしょう。
2番目の「私有地限度」は「日本国民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時価拾萬円トス」というものです。それを超えた土地は一律に国家に納付させ、賠償として国家が3分の利付公債を交付するというのですが、これも先の規程にしたがい、「私産限度以上ニ及バズ」です。
3番目の制限は「私人生産業ノ限度ヲ資本壱千万円トス。海外ニオケル国民ノ私人生産業マタ同ジ」です。
こうしたウルトラ国家の権力による資本の論理の強力な抑制が、北の思想の社会改造の根幹をなしていることがよくわかります。同時にその国家(state)に圧倒的多数の貧しい農村の庶民たちが支え、資本家や政治家たちを通り越して自分たちの「代表」として仰ぐ天皇に感性的な形象化をみる「国(くに=nation)」の心情と論理がアマルガムのように一体化されて、苛酷な資本の論理を抑え込もうとしていることがよくわかります。
北がこれを書いた時期のほんの少し前に目の前で起きるのを見ただろうロシア革命のように、私有財産を認めないのではない。北は「個人ノ自由ナル活動マタハ享楽ハコレヲソノ私有財産ニ求メザルベカラズ」と述べ、個人の自由な活動を保証するのが私有財産なんだ、と積極的に肯定しています。ただ資本の横暴を許さないために限度を設け、それ以上は国家に納付させるのだ、と。それが彼のいう「純正社会主義」です。
地主の土地所有も小作人を雇って働かせ収益を上げることも認めています。しかし、その小作人の擁護に関しては周到な配慮をしています。いわく、「私有地限度内ノ小地主ニ対シテ土地ヲ借耕スル小作人ヲ擁護スルタメニ、国家ハ別個国民人権ノ基本ニ立テル法律ヲ制定スベシ」
男女の役割については、いまのフェミニストが聞けば怒り心頭に発するような、男は労働に、女性は家庭に、そして夫を支え、子供を立派に育てる「良妻賢母」型を欧米とは異なる日本の良き伝統文化だとしてその発展を期するという考え方を前提にしています。
しかし、それを前提にしてではあるけれど、それゆえに逆に、両親を亡くした孤児はむろんのこと、父を亡くした子(いまでいう母子家庭)にも同様の生活支援や教育資金を国が保証するような制度を創ることを提唱しています。それは母親は自分のたつきは立てなくてはならないが、女性に家族まで養う労働をさせることを前提としないからです。
また孤児についても、現状の孤児院がひどい状態だからと、孤児院に入れることを拒否して、親戚の誰かが引き取る「日本的な」解決策を求めているなど、その提案には、現実の日本社会のありようを踏まえたいくつもの配慮がみられます。
さらに、北は全国民に6歳から16歳まで無償の教育を受けることを保証する項目を書いていますが、これも男女まったく平等に同じ教育を受けさせると言います。そして、現状で行なわれている女性固有の教育、例えば、お茶、お花だの礼儀作法だの、そんなものは全部廃するとしています。北はそれが必要なら16歳を過ぎてからやるか、各家庭で必要と思えばやればよろしい、と言います。これなどなかなかいいのではないでしょうか。
また、当時は女性にだけ姦通罪があったそうですが、これを男性にも適用するとか、いまでいう売春についても、春を売る女性だけ罪になる法律を削除し、逆に男性の「買春」の法を罰する、と言います。これもなかなかいいのではないでしょうか(笑)。
まあ言い出せばきりがありませんが、彼が書いている日本社会の改造の細目にはなかなかいいものがたくさんあります。
ただその改造をやりとげる力の源泉を彼は民衆に直結する形での天皇に求めざるを得なかったし、その力を現実化する媒介として、すべてを国家権力に集中させる方法をとるしかない、と考えたわけで、それはもちろん、今の私たちから見て、典型的なウルトラ・ナショナリズムとして、じきに大きな禍根となる思想として我が国を覆うことになるわけで、私とて肯定しようなどというのではもちろんありません。
しかし、当時の明治維新的国家≒資本の論理≒天皇の日本・天皇の国民という「国(ネイション)」の強力きわまりない三位一体型国家のもとで、それを突き破るどんな論理があり得たか、それを少しでも想像しようとしてみるとき、23歳の北が、あるいは中国革命への参加と挫折の経験を経た十余年後に、様々な学問的成果を独学で取り込みながら、日本の国家と社会全体のありようを単独で考え抜いたこの結果には驚嘆せざるを得ないものがある、と思います。
今日の夕餉

ぎょうざ

大根、里芋、いか、蒟蒻の煮物

グリーンサラダ

ホウレンソウのおひたし

ロマネスコ

モズク酢

スグキなど
以上でした。
saysei at 23:26|Permalink│Comments(0)│
2023年02月24日
ロシアのウクライナ侵攻1年
きょうはたまたまローソンへ寄る機会があって、いくつかの異なる新聞の朝刊を買って読んでみました。ロシアのウクライナ侵略開始から1年目だということで、各紙とも第一面からウクライナ侵略を写真入りでほぼ全段抜きの紙面を使って取り上げています。
ところが読んでみると、どの新聞も似たり寄ったりで、読んでこちらが何か新しいことに気づかされるとか、これは知らなかったなぁ、深く掘り下げてあるあぁ、という記事は皆無。遠く離れた地域での戦争で、情報も取りにくいのはわからなくはないけれど、すでに1年間、様々な情報が蓄積されてきたはずで、そういうものを素材にしてでも、もう少しは深い掘り下げ方ができるのではないか。
朝日だけが没落したのかと思って、あまりに紙面がひどくなったので、とるのをやめたけれど、だめになったのは朝日だけではなかったようで、どの新聞も似たり寄ったりらしい。一番まだましなのが日経だろうと思って、別段株も全く持っていないのだけれど(笑)株式欄ばかり多い日経をとっているのですが、分量だけでも読めるほどのページがあるのは土曜日の朝くらいのもので、後の曜日の新聞の薄いこと薄いこと。夕刊なんかどこかのビラじゃないかと思うくらいぺらぺらで、中身は朝刊以上に読むところなし。はやく夕刊を断わらなくては・・・・
おまけに新聞休刊日とかいう新聞社のおさぼりの日ばかりがやたら増えて、新聞社の社員は現場の記者まで含めてみんな会社でごろごろして時間だけつぶせば給料がとれるみたいなサラリーマン化してしまったようで、まともな記事を読者に届けようと言う気持ちなどとっくの昔に失ってしまったらしい。
どの新聞社もこんな横並びの毒にも薬にもならない駄文の並ぶ紙面しかつくれないのなら、むしろウクライナ戦争にしても、プーチンの立場に徹底して立ってみて全紙面をつくってみてはいかがか。そのほうが、書き手にも読み手にも、よほどこれまでとは違った風景が見えてくるかもしれません。
さて、こちらは2日後には「二二六」の日がやってきます。せっかくだからこれを機会に磯部浅一や北一輝の残したものをもう一度読んでみようと思っています。「帰郷」の叔父がそんなものを読んだかどうかは分からないけれど、若い叔父が他の思想など知りようもない時代に腹の底まで吸い込んでいた空気を、結果的にではあれ多かれ少なかれ創り出していたのはそんな連中だったのでしょうから。
きょうから抗繊維化剤を服用。また新たな副作用群に悩まされることになるかどうか。5割の人は下痢の副作用、あと光過敏症だとかで外出する時は肌を全部覆うか、日焼け止めを隙間なく塗るほかないんだとか。ヤレヤレ・・・
話は違いますが、今朝の京都新聞に「大学ファンド」に触れた記事があって、内閣府の「世界と伍する研究大学専門調査会」資料というのが出典らしい、2019年度の主な内外の大学のもつ基金額が一覧表にまとめてありました。
これによれば、米国のハーバード大が4兆5023億円、イエール大学が3兆3,346億円、スタンフォード大が3兆70億円、カリフォルニア大バークリー校が5,279億円、英国のケンブリッジ大が4591億円、オクスフォード大が8,235億円。
それに対してわが国は東大が149億円、京大が197億円、阪大が52億円、慶応が783億円だそうです。
いくら金じゃないよ、頭脳勝負だよ、と強がってみても、これじゃ勝負にもならないのは、誰が見ても明らかだろうなぁ、という気がします。政府も10兆円規模の学ファンドなるものを公的資金で立ち上げて、年3,000億円の運用益をあげて、そいつで要件を満たす大学数校にテコ入れしていこうということで、「大学ファンド」という言葉の解説をのせているようです。
しかしその「大学ファンド」なるものは、前々から私も疑問に思って書いてきたように、これまでの大学に対する運営費交付金のようなものを削って研究基盤を脆弱化した上で、商業主義的な競争原理を大学にも取り入れて、ごく一部の大学に支援を集中しようという、例の新自由主義だか何だかの流れの中で出てきている文科省の最悪の方針によるもので、今後はますます大学全体の荒廃や格差拡大と分断が生じるでしょう。
京都新聞の同記事によれば、大学ファンドの支援要件では年平均3%程度の事業成長が求められているそうで、同紙が危惧するように「稼げるかどうか」が選別基準になるのは必定で、研究というもののありようをゆがめると同時に、格差を益々拡大する結果に終わるでしょう。文科省のお役人というのは本当に頭の悪い連中がそろっているんだなぁ、と前々から思っていたけれど、大学に対する施策にそれが典型的にあらわれていますね。
しかし、先日もサイバー戦争だ、なんて記事の中で、各国の防衛を担うサイバー部隊の人数が、日本は先日創設したばかりで、当面800人、目標はこれを4,000人規模に拡充するんだそうですが、既に中国は17万人?だとか。北朝鮮でさい7,000人?だとか。そういう記事を読むとなんだか無力感をおぼえますね。サイバー部隊だけじゃなくて、防衛力、要は軍事力全般ってことですが、アジア最強なんて言われたのは遠い昔のことのようで、脅威だ脅威だとこの期に及んで騒いでいる仮想敵國らしい中国にはもう逆立ちしても追いつけるどころか、ますます引き離されるだけで、むこうさんはこれから核兵器の大量生産をやって超核大国になっていくんだそうです。いずれ日本という国はなくなって、そういえば昔々、大陸の近くにそんな島があったそうだね、なんて言われるようになるのかも。
きょうの夕餉

カボチャのスープ。いつもながら、このスープはほんとに美味しくて飽きない。もちろん上賀茂の戸田農園さんのカボチャ。わが家で1カ月キッチンの床に転がして寝かせておいたカボチャ。見事に熟成していい味になっていました。

ミートボール、人参、タマネギ、ロマネスコのポルチーニ白ワインクリーム煮。

サツマイモ、クルミ、リンゴ、チーズのサラダ。パートナーのオリジナルメニュー。これも上賀茂野菜のサツマイモの濃厚な甘味あってのこと。クルミ、リンゴ、チーズの個性の主張と調査、この取り合わせが素晴らしい。

パンコントマテ。上賀茂は戸田農園さんの芯の種まで真っ赤に熟したトマト。パンはドンク。

グリーンサラダ。今回はロメインレタスが異常に美味しい。
(以上でした。)
ところが読んでみると、どの新聞も似たり寄ったりで、読んでこちらが何か新しいことに気づかされるとか、これは知らなかったなぁ、深く掘り下げてあるあぁ、という記事は皆無。遠く離れた地域での戦争で、情報も取りにくいのはわからなくはないけれど、すでに1年間、様々な情報が蓄積されてきたはずで、そういうものを素材にしてでも、もう少しは深い掘り下げ方ができるのではないか。
朝日だけが没落したのかと思って、あまりに紙面がひどくなったので、とるのをやめたけれど、だめになったのは朝日だけではなかったようで、どの新聞も似たり寄ったりらしい。一番まだましなのが日経だろうと思って、別段株も全く持っていないのだけれど(笑)株式欄ばかり多い日経をとっているのですが、分量だけでも読めるほどのページがあるのは土曜日の朝くらいのもので、後の曜日の新聞の薄いこと薄いこと。夕刊なんかどこかのビラじゃないかと思うくらいぺらぺらで、中身は朝刊以上に読むところなし。はやく夕刊を断わらなくては・・・・
おまけに新聞休刊日とかいう新聞社のおさぼりの日ばかりがやたら増えて、新聞社の社員は現場の記者まで含めてみんな会社でごろごろして時間だけつぶせば給料がとれるみたいなサラリーマン化してしまったようで、まともな記事を読者に届けようと言う気持ちなどとっくの昔に失ってしまったらしい。
どの新聞社もこんな横並びの毒にも薬にもならない駄文の並ぶ紙面しかつくれないのなら、むしろウクライナ戦争にしても、プーチンの立場に徹底して立ってみて全紙面をつくってみてはいかがか。そのほうが、書き手にも読み手にも、よほどこれまでとは違った風景が見えてくるかもしれません。
さて、こちらは2日後には「二二六」の日がやってきます。せっかくだからこれを機会に磯部浅一や北一輝の残したものをもう一度読んでみようと思っています。「帰郷」の叔父がそんなものを読んだかどうかは分からないけれど、若い叔父が他の思想など知りようもない時代に腹の底まで吸い込んでいた空気を、結果的にではあれ多かれ少なかれ創り出していたのはそんな連中だったのでしょうから。
きょうから抗繊維化剤を服用。また新たな副作用群に悩まされることになるかどうか。5割の人は下痢の副作用、あと光過敏症だとかで外出する時は肌を全部覆うか、日焼け止めを隙間なく塗るほかないんだとか。ヤレヤレ・・・
話は違いますが、今朝の京都新聞に「大学ファンド」に触れた記事があって、内閣府の「世界と伍する研究大学専門調査会」資料というのが出典らしい、2019年度の主な内外の大学のもつ基金額が一覧表にまとめてありました。
これによれば、米国のハーバード大が4兆5023億円、イエール大学が3兆3,346億円、スタンフォード大が3兆70億円、カリフォルニア大バークリー校が5,279億円、英国のケンブリッジ大が4591億円、オクスフォード大が8,235億円。
それに対してわが国は東大が149億円、京大が197億円、阪大が52億円、慶応が783億円だそうです。
いくら金じゃないよ、頭脳勝負だよ、と強がってみても、これじゃ勝負にもならないのは、誰が見ても明らかだろうなぁ、という気がします。政府も10兆円規模の学ファンドなるものを公的資金で立ち上げて、年3,000億円の運用益をあげて、そいつで要件を満たす大学数校にテコ入れしていこうということで、「大学ファンド」という言葉の解説をのせているようです。
しかしその「大学ファンド」なるものは、前々から私も疑問に思って書いてきたように、これまでの大学に対する運営費交付金のようなものを削って研究基盤を脆弱化した上で、商業主義的な競争原理を大学にも取り入れて、ごく一部の大学に支援を集中しようという、例の新自由主義だか何だかの流れの中で出てきている文科省の最悪の方針によるもので、今後はますます大学全体の荒廃や格差拡大と分断が生じるでしょう。
京都新聞の同記事によれば、大学ファンドの支援要件では年平均3%程度の事業成長が求められているそうで、同紙が危惧するように「稼げるかどうか」が選別基準になるのは必定で、研究というもののありようをゆがめると同時に、格差を益々拡大する結果に終わるでしょう。文科省のお役人というのは本当に頭の悪い連中がそろっているんだなぁ、と前々から思っていたけれど、大学に対する施策にそれが典型的にあらわれていますね。
しかし、先日もサイバー戦争だ、なんて記事の中で、各国の防衛を担うサイバー部隊の人数が、日本は先日創設したばかりで、当面800人、目標はこれを4,000人規模に拡充するんだそうですが、既に中国は17万人?だとか。北朝鮮でさい7,000人?だとか。そういう記事を読むとなんだか無力感をおぼえますね。サイバー部隊だけじゃなくて、防衛力、要は軍事力全般ってことですが、アジア最強なんて言われたのは遠い昔のことのようで、脅威だ脅威だとこの期に及んで騒いでいる仮想敵國らしい中国にはもう逆立ちしても追いつけるどころか、ますます引き離されるだけで、むこうさんはこれから核兵器の大量生産をやって超核大国になっていくんだそうです。いずれ日本という国はなくなって、そういえば昔々、大陸の近くにそんな島があったそうだね、なんて言われるようになるのかも。
きょうの夕餉

カボチャのスープ。いつもながら、このスープはほんとに美味しくて飽きない。もちろん上賀茂の戸田農園さんのカボチャ。わが家で1カ月キッチンの床に転がして寝かせておいたカボチャ。見事に熟成していい味になっていました。

ミートボール、人参、タマネギ、ロマネスコのポルチーニ白ワインクリーム煮。

サツマイモ、クルミ、リンゴ、チーズのサラダ。パートナーのオリジナルメニュー。これも上賀茂野菜のサツマイモの濃厚な甘味あってのこと。クルミ、リンゴ、チーズの個性の主張と調査、この取り合わせが素晴らしい。

パンコントマテ。上賀茂は戸田農園さんの芯の種まで真っ赤に熟したトマト。パンはドンク。

グリーンサラダ。今回はロメインレタスが異常に美味しい。
(以上でした。)
saysei at 21:25|Permalink│Comments(0)│
2023年02月23日
フロフキダイコンのフキノトウ味噌かけ

今日の夕餉の食卓に出て来たフロフキダイコンの蕗の薹味噌かけ。大根は昨日、上賀茂の戸田農園さんの野菜自動販売機でゲットしてきた小太りで可愛い綺麗な2本100円の大根で、すごく柔らかくなっているのに、全然崩れないでいる新鮮で美味しい大根。それに複数の味噌を調合して、庭で芽を出しそろそろ花を開き出した蕗の薹を入れた自家製味噌をかけたもの。この味噌が美味しくて、あまったのにごはんを入れて食べたらこれまたおいしかった。

鯛のアラダキ。半分は同じ団地の孫のところへ持って行ったそうなので、この倍あって200円台だったらしい。同じ鯛の切り身のほうは600円台で売っていたそうです。わが家はつねにアラのほう(笑)。安い上にアラのほうが美味しいのだもの。
でも、そういう味を知るライバルがいたようで、売り場の棚の奥のほうの、切り身のパッケージの下に隠すようにしてあったそうで、他の客か店の店員さんが、自分があとでゲットしようとして隠していたんじゃないか、と(笑)。だとすれば、きっと後で、やられた!と悔しがっているかも。

焼きマイタケ。これを次の上賀茂ホウレンソウと併せて、ちょっと醤油をつけて食べると実に美味しかった。

きょう上賀茂の、おじさんがやっている最初の自動販売機でゲットしたもので、パートナーによればちょっとこれまでのほかのホウレンソウと違って、のびのび育った感じの、めちゃくちゃ意気の良いホウレンソウだそうで、味の方も抜群においしかった。

カマスゴ。ショウガ酢醤油をつけて食べましたが、し焼き過ぎたようで(笑)

モズクきゅうり酢

このロメインレタスも上賀茂野菜ですが、とびきりイキのよいレタスで、食感がパリパリして、ドレッシングを掛けなくてもそのままバリバリ食べられ、しかも野菜独得の甘味が強くて、食べていると口の中に甘味がにじみ出てくる感じ。

五目黒豆納豆。

紅芯大根の甘酢、スグキ、日の菜の漬物。
以上でした。
昨夜は久しぶりに夕食後膨満したおなかを休めて何もしない時間にいいいいい、棚の隅に眠っていたビデオ「荒鷲の要塞」を見始めて、やっぱり全部見てしまいました。この映画は私が若いころロンドンでたしか封切られたときに見て、面白かったのと、スパイ映画の要素があって、肝心の場面で主人公が弁舌で巧みに敵を欺くシーンのやり取りがよくわからなかったこともあって、それから8回も観にいった思い出の映画です。
リチャード・バートンがものすごくカッコよかったし、相棒役の若いクリント・イーストウッドも良かったし、なにしろ場面展開が変化とスピード感に富んでいて、舞台がケーブルカーでしか行けないものすごいトンガッた絶壁断崖に囲まれた雪の孤峯の上にあるドイツ軍の城で、そこへ乗り込んでいく主人公がケーブルカーの上で敵のスパイたちと死闘を繰り広げる手に汗握る場面や、最後に的中突破で迎えの飛行機が来る飛行場迄機関銃をぶっぱなし、あらかじめ道にしかけた爆弾を爆発させながら突っ走るシーンなど最後まで一瞬たりと飽きさせないエンタメとしての展開が素晴らしい。
もちろんストーリーは、そんなにうまく予定どおり行くかよ!と言いたくなるようなご都合主義的好運と主人公の超人的な用意周到な準備と現場での機転と働きなしには成り立たないストーリーで、ありえないよ!というようなものだけれど、最上の娯楽作品であることは間違いなし。
濱口竜介さんは自分の作品にとりかかるまえに、必ず「リオ・ブラボー」を見ると、どこかで語っていましたが、私の場合はこの「荒鷲の要塞」を見ると気分がスカッとして、元気が出てきます(笑)。
何しろ若いときから感情すれば十数回、たぶん20回前後はみていると思うので、もう細部まで覚えているけれど、それでも見始めると面白くて最後までいつも見てしまいます。もう一本、これと同様に好きな娯楽作品が、リー・マーヴィン主演の「特攻大作戦」。こちらはチャールズ・ブロンソンやテリー・サバラス、クリント・ウォーカーら共演人も豪華なロバート・オルドリッチ監督の戦争もので、いまのロシアの悪がやっているように死刑囚を特訓して特殊部隊を構成してドイツ軍の城に潜入して破壊するという話で、それぞれのメンバーの個性が際立ってなかなか面白い。
どちらも戦争物というのがちょっと、という気もしなくはないけれど、まあ純然たる娯楽としてゲームと同様に楽しむだけですから、これがやっぱり命がけだから面白いので・・・私は平和主義者だけれどなぜか戦争ものも西部劇も大好きで(笑)…どうも思想的に一貫しないような気もしますが(笑)、パートナーなどはその点一貫していて、戦争ものは嫌いで、一緒に見たことが無いんじゃないでしょうか。まあ私もあまりエグイのやリアルなのや暗いのは好きじゃありませんが、純然たる娯楽ものに仕立てたからッとした戦争映画は楽しめてしまいます。西部劇もインディアンの人権も尊重しなくては、というようなイデオロギーが映画作りにまでは行って来て以降の西部劇は、ほとんで観るに絶えないという感じをもっています。
「荒野の決闘」や「駅馬車」や「赤い河」、「大いなる西部」、「シェーン」などの時代は良かった。でも「騎兵隊」くらいまでじゃないでしょうか西部劇が良かったのは。イデオロギー的にはポリティカルコレクトネスの規準に収まったのかもしれないけれど、映画作品としていい、とか、面白い、と思えるようなものに出会ったことが無いような気がします。
どうしてこういうことになってしまうのか、芸術や娯楽の創造性という問題と、ポリティカルコレクトネスのようなイデオロギーとの背反というのか、どうしてそうなっちゃうんだろう、というのは、まだあまりすっきりと納得したかたちで私の中に納まってはいません。個人的に作品としてよくないものや、つまらないものを避けているだけで、なぜそうなっちゃうの?ということへの腑に落ちる答えには巡り合っていない感じです。

saysei at 21:56|Permalink│Comments(0)│
2023年02月22日
きょうの比叡

北山や比叡山の山肌の一部に雪が残っていて、わが家でも早朝はけっこう寒くて、いつもは11時前後に一旦寝たら夜中にトイレに行くことはないのに、昨夜はよほど冷えたのか2時前くらい、えらく早い時刻に一度目が覚めて、トイレへ。また戻って4時半までうつらうつらして、5時までは横になっていようと我慢して、5時の起床。でもとくに眠くもならず、歯医者さんへ行ったり、本を読んだり、きょうは何も書かずに、子育て日記とインスタグラムを一つ更新しただけでした。吉本思想の難所ということで書いている中で三つ目の反核異論に関して、少し技術論をおさらいしておきたいと思ったら、あれこれ広がってしまって読むだけに。
あと、先月まで少し本を分をわきまえず買いすぎてお小遣いが払底してしまったので、そろそろまた不要本をマーケットプレイスにでも出さないとなぁ、と思いつつ、また本の整理をしていたら、一旦紐をかけてまとめて売りに出してしまおうと思っていたのを、どんな中身だったっけ、とちょっと覗くて、これがやはり一旦は拾い読みしたくなって買った本だけに、文字を追い出すとつい(笑)・・・というわけで結局本棚に戻したり、何をしていることやら。
きょうも一応リハビリ自転車ということで上賀茂まで往復。幸い戸田農園さんのところで、とびきり美味しそうで、朝食のサンドイッチに挟むのに手ごろな大きさの真っ赤なトマトがあったのと、すばらしく生き生きして綺麗で可愛らしいぷっくりした大根が2本100円で入っていたので、それらを買ってきました。
今日の夕餉

きょうのメインは、私の好物で、私の幼いころからの思い出の「母の味」をパートナーが再現しようと色々工夫してくれている八宝菜。幼い頃食べたのはもっと雑な濃い味だったような気がするけれど、これはこれで野菜の甘味を生かした上品で自然な味の八宝菜でとても美味しい。

麻婆豆腐。パンチが効いていて美味しい。

茹で豚にネギ、キュウリ、味噌のチシャ巻き。

紅芯大根の甘酢。カボチャ煮。

サラダ。
以上でした。
saysei at 20:20|Permalink│Comments(0)│