2022年10月

2022年10月25日

日本政治の真の危機とはなにか

 昼間病室の窓から入る温かな陽射しを浴びて、うとうとしながら日向ぼっこし、目が覚めて、柄谷の先に読んだ新著のひとつ前の主著である『世界史の構造』をよむのに飽き、古今集の小さな字を読むこともつらくなると、ぼんやりテレビを見るともなく見ています。

 昨日は結構長々とやっていた国会中継をかなり見ていましたし、今日は山際大臣の事実上の更迭についてのワイドにニュース解説番組を見ていました。

 キャスターやメディアの代弁者が言うように、この更迭は任命後に疑惑が発覚した時点で、本人に記憶がなかった云々の言い訳を許さず、直ちに更迭すべきでした。

 この国民経済の危機的な状況のもとで、首相の新たな経済立て直しの総合戦略をまとめようというとき、その要となる責任者が一身上の瑕疵で国民の疑惑を拭えないどころか、ますます疑惑を深めるような曖昧な答弁を繰り返して、貴重な国会、予算委員会の質疑に膨大な時間を取られるような事態を招いたことは、明らかに任命権者である首相の重大な責任でしょう。

 山際大臣の遅きに失する更迭であらわになったことは、今回の旧統一協会の件であきらかになった日本の政治的の危機的状況のひとつとして、深刻に受け止めなければならないことですが、首相の危機管理能力、危機対応力に大きな疑問符がついたことです。

 ロシアのウクライナ侵略、イランや北朝鮮の核兵器開発、中国の台湾への武力侵攻を辞さない明確な姿勢、欧米諸国内部の国民の分断とファシズムに真っ直ぐ繋がるポピュリズムの著しい広がり等々、世界情勢がいま分断と対立、新たな地域紛争から決して有り得ないことのない世界戦争にいたるまで、文字通りかつてない危機的な状況へ向かうように見えるとき、この極東の資源乏しい島国がどうすれば生き延びられるのか、この対立分断の世界にどう自身の位置を見定めていくのか。

 国民に納得がいくそのヴィジョンを描き出し、いざという危機に迅速果敢に最適な解を見出してすぐ行動することが、この優柔不断なリーダーに可能か。

 山際大臣の更迭であらわになったのは、こうしたリーダーとしての首相の信頼性が、誰の目から見ても大きく損なわれた、ということです。これは深刻な事態ではないでしょうか。

 それはしかし、首相の首をすげかえれば、まだしも解決できない問題ではありません。

 統一協会問題で、より深刻なのは、自民党議員の170人以上でしたか、ともかくおどろくような多数が、旧統一協会と接点をもっていたこです。

 政治家だから何千という多くの団体につきあいがあり、何万何十万人の個人と接しているのは当然だし、そのなかの一つにたまたまその種の関連団体があっただけじゃないか、と言う弁解がたびたびなされています。

 しかし、そういう問題ではない。ちょっとさそわれて、大会や祝祭会の類に出て代表と握手して写真を撮ったりして近づきになっただけだ、ちょっと段に上がれと言われて一言挨拶しただけだ、ちょっと選挙事務所で人手が足りないからボランティアをしてくれるというから、電話係や事務作業やポスター張りを手伝ってもらっただけだ••••言い訳はみな、事態を都合よく軽くみて、大した問題じゃない、と言いたげです。

 彼らは、自分たちが国民を代表して国民の生命、生活を守る重大な責任を持つ政治家であることを忘れ、また同時に、相手は単なる個人や一般の個別的な会社、団体などではなく、或る強固な集団意志のもとに組織的に統率され、個人の財産を宗教を隠れ蓑に根こそぎ収奪して膨大な資金源を作ってきた団体、マインドコントロールで個人を支配することも厭わず、自身の支配下のいわゆる信者と膨大な資金を武器に、あらゆる方法で政治家らにちかづき、その中枢に近づき、影響力を政界に浸透させる目的を明確に持つ悪質な団体であり、そういう明々白々な意図を持って組織的に議員に接触してきているのだ、ということを、あえて見ないようにしているのです。

 前にも書いたことがあるように、これが中国や北朝鮮の女性スパイによる組織的で大規模なハニートラップだったなら、いやこちらから頼んだわけじゃなく、向こうがボランティアでやってくれるというから、ちょいと手伝ってもらっただけで•••••なんていう言い訳が通用すると、今回「ちょっと手伝ってもらっただけ」の自民党の政治家たちは思うのでしょうかね(笑)

 詐欺商法、霊感商法をやった団体だからいけない、という理屈や、反省の弁がよく聞かれますが、これはそういう問題でもありません。

 仮に統一協会が霊感商法をやってない団体だったとしても、特定の理念をもって組織的に政治家に近づき、組織としての影響力を及ぼそうとするような組織に対して、あくまでも国民ファーストで自立的に状況を認識し、判断し、国民に対してのみ責任をはたす行動をすべき政治家が、あまりに無警戒、無防備で、実際にその政治行動や理念に影響されていようと、いまいと、これほど無防備であること自体が、政治家としての資質を疑われて当然の深刻な事態だということに、なぜ気づかないのか。

 みな、「ちょっと••••しただけで」、みたいにへらへらと軽々しい弁解を並べて、自身の政治的資質の欠如を曝け出していることに、なぜ、気づかないのか。

 とくに深刻なのは、或る議員が証言したように、安倍元首相のような政権中枢で退任後も派閥の長として絶大な権力を持っていたような人物が、すでに統一協会の手の内にあるかのように、自身の選挙だけではなく、派閥の他の議員に統一協会の組織的支援の要請を強く勧め、事実上の斡旋役をつとめるまで深く侵されていた事実、さらに、議員の少なからぬ者は、直接に協会あるいはその関連団体と「政策協定」まで結ぶにいたり、すでに政治そのものに直接、組織が関与するまでにそれぞれの「政治」の内部へまで踏み込まれている、という事実。
 
 さらに、こうした組織の日本政界への侵攻は国政にとどまらず、地方議会の議員らにも及んでいることを、国民として慄然とし、深く憂うるところです。

 心ある政治家があるなら、単なる政争の具としておわらせることなく、なにが真に問題なのか、しっかり考えて、この政界総ボケ状態から目を覚まし、本当の危機を自覚することから始めてほしいと願わずにはいられません。


saysei at 15:48|PermalinkComments(0)

2022年10月23日

柄谷行人『力と交換様式』を読む

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 時間だけはたっぷりある病室で、新刊を買って、読みかけだったところをて突然の入院で中断されていた柄谷行人『力と交換様式』をようやく最初から最後まで読み終えることができました。

 入れ替わり立ち替わり病室に出入りして世話をしてくれる看護士さんたちから「よく勉強されるんですね」(笑)と褒めて?もらいながら••••なにしろ字がいっぱい詰まった難しそうな400ページを超える部厚い本ですから(笑)

 今の私には、全体的な感想を書く用意もないし、ほとんど打ち込む字さえ、かつかつ見えるかどうかのスマホで書くのは困難ですから、きょうはこの本の中で触れられている、私が若い時に疑問に思い、ひっかかっていたただ一つの言葉についてだけ、書いておきます。

 その言葉というのは、マルクスの次のような自問でした。(記憶だけで書くので、正確な引用ではありません。)

 古代ギリシャの芸術は、それを生み出した社会の生産様式では未発達な段階にあったのに、なぜ現在のわれわれにも及び難い完全な美を備えているのか。

 マルクスは、ある時代の芸術一般を、それを生み出し生産様式の段階に対応させることは(容易であり)問題じゃない。真に困難なのは、こうして生み出された個々の作品が、いま見ても完璧な美をそなえているようにおもえるのはなぜか、ということに答えることであり、それこそが難問なのだ、というような言い方をしていたと思います。

 マルクス自身は、この自問に正面からは答えず、比喩で一応の自答を返しています。
 それは、人間も無垢な赤ん坊や幼児の時代をすごして成人したのちに、その幼年期の、無垢で、善意や信頼にあふれた、それ自体として完全無欠な理想的に思える世界が、二度と還らない世界だと知っているからこそ、その世界を理想の世界と考えるのではないだろうか。

 それと同様に、人類史において二度と還ることのない古典ギリシャの時代を私たちが理想として、自分たちの未来に思い描くことがないだろうか、と。

 私がマルクスのこの言葉を読んだのは、地方の高校でマルクスなど読んだこともないまま大学に入学し、急ぎあれこれと本を読み漁っていたころのことでした。

 すでに何冊かのマルクス、エンゲルスを読んでいたので、史的唯物論と言われるものの概略は知っていました。
 その目で先のマルクスの言葉を読むと、ちょっと奇妙な印象を受けて、彼の自問への答えとして、その比喩的な答には納得できなかったのです。

 じゃ、下部構造が上部構造を規定するという公式との整合性はどうなるんだ?という疑問が生じるからです。

 彼の比喩を主観的な問題と見做せば、我々現代人は、おとなが二度と還らぬ幼年時代を懐かしく思い、無垢の完全な時代を理想化して見るのと同様に、二度と還らぬ人類史の幼年時代に対する我々現代人の郷愁が生む理想化だというふうに解釈できないこともなさそうに思いました。

 しかし、マルクスの言葉はそれが単に我々の還らぬ過去への郷愁からくる主観的な理想化であり、幻想に過ぎないと言っているとはどうしても読めなかったのです。

 古代ギリシャの作り出した美が、我々の幻想などではなく、そこにある現実であることは疑いようがないからです。

 だから、この一節は、謎のまま、ずっと心の隅に引っかかっていました。

 この疑問は、結局のところ、史的唯物論の公式への疑問であり、下部構造が上部構造を規定する、あるいは社会や思想、芸術の基本的なありようを規定し、それを変えていく力は、生産様式、生産力と生産様式の矛盾だというドグマに対して、ごく大雑把にはそうかもしれないけれど、ではそうした下部構造がいかにして上部構造を規定するのか、その具体的な過程については、少しも腑に落ちる説明をマルクスの著作にも見出すことはできなかったし、現代のマルクス主義者の本をよんでも腑に落ちる説明は得られませんでした。

 わたしは理系だったけれど、ずっと文学に興味があったので、芸術のほうから考えて、どうしても史的唯物論的な考え方では解けないものが、人間の生み出す精神世界にはあるということを譲ることは出来なかったのです。

 それと同じ頃、日韓条約やベトナム戦争に反対する政治闘争の末端にクラスで関わるような体験をする中で、この問題は芸術などばかりではなく、国家を考える際にもマルクス主義の大きなアポリアになるということがおぼろげながら分かってきました。 

 そのころに一番導きの糸になったのは、『日本語とはどういう言語か』だけは読んでいた三浦つとむの、マルクス主義の立場から書かれた意志論(国家論を含む)で、マルクス主義でまともに扱われて来なかった意志論に、初めて正面から取り組むものとして、よく読みました。

 しかし、彼の意思論を読んでも、下部構造からの上部構造の相対的独立という考えは理解できたけれど、それはいわば論理的な言葉として理解できるだけで、具体的になぜどのように「相対的独立」がはたされるのか、その具体的な内容や機序が腑に落ちるように分かったわけではありません。

 国家が「階級対立を前提としたブルジョワジーなど特定の階級の利害を代表する特殊意志と、一般意志との矛盾だ」と説かれても、それは私が納得できる意志論ではなかったのです。

 そうして右往左往する中で、たまたま大学へ公演にきた鶴見俊輔が、繰り返し好意的に口にしたヨシモトリュウメイという聴きなれない名が耳に残り、すぐあとで書店へ行って、多分まだ出版されてそんなに間がなかったはずですが、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を買い、その他の彼の著作を貪るように読んで、やがて彼が文芸雑誌で連載を始めた『共同幻想論』を読む頃には、彼の目指している方向もおよそわかり、マルクスがやり残した世界の半分の解明を彼はやろうとしているんだな、という感慨を持って、「心的現象論」を展開していた『試行』も含めて、生涯ずっとフォローすることになりました。

 私にとっては、マルクスが正面から扱わなかった人間の精神的な世界、彼のいわゆる上部構造を、ヘーゲル法哲学批判序説などに記されたマルクスの国家観などもふまえながら、その思考の延長上に腑に落ちる形で解き明かそうとする唯一の思想が、吉本さんの展開していた論考でした。

 今考えれば、それは柄谷がウェーバーなどについてたびたび引用して言うように、上部構造の「相対的独立」を主張する議論にくくろうとおもえば、くくることもできるでしょう。

 吉本さん自身もそのことには自覚的で、いわゆる下部構造の話は、共同幻想を追及する上では、あるところまでは遠ざけておける、と言う言い方で語っていました。

 しかし、国家論もそのうちに包括する人間の全幻想領域(観念の世界)を視野に入れて、そのうちの人間の共同性に関わる共同幻想について、その発生から転位の過程をたどり、それを貫く原則やそれぞれの位相の性格などを具体的に解明し、人間の共同幻想のありようをそれ自体の法則性に貫かれた世界として解き明かした、類例のない思想的成果でした。

 私が持っていた疑問に直接正面から答えるものではないけれど、広く幻想領域全体が下部構造から相対的に独立し、それ自体の法則性に貫かれて存立しているものであり、下部構造に関わりなく、国家という共同幻想にしても、戦中の天皇制国家みたいな奇怪な古代の遺物みたいなものが、近代的な社会の頭に乗っかることもあるし、個人が好き勝手なことを考えたり書いたりする個人幻想の領域では、下部構造がどうだろうと、社会に多様性があって、その多様な場にばらまかれている個人から好き勝手な言説なら思考がうみだされるのは自明だ、というようなことが、思想的に確信を持って考えられるようになったのは、吉本さんのこうした仕事のおかげです。

ただ、吉本さんの語る史実とは位相の異なる、いわば対象の本質とその論理的な構造や動的モメントの転位といった抽象度の水準で記述される共同幻想の発展過程の節目で、その転移の内在的根拠は書かれているけれど、やはり具体的な社会のありようとどうそれが関わるかはわからない。

たとえば、氏族社会から、部族社会へ移行するとき、当然共同体の構成員の増加や空間的拡張が圧力になって引き起こされる転位だろうけれど、そのとき同時に共同性の原理を成していた対幻想が家族という私的水準に落とされる、というか、そうして家族というものが、共同幻想から明確に分離されて成立する、ということになるのだけれど、それが具体的にどんな現実的な機序で起きるのかは、吉本さんの記述の方法からは、描かれないわけです。

 それは先のマルクスの自問について言えば、原理的にはそれは不思議でもなんでもなくて、下部構造といわれる経済的過程だの生産様式なんてのも、ひとつの抽象なのであって、ちっとも現実ではないのだから、そうしたものと人間の全幻想過程は相互に相対的に独立したものであり、生産様式の未発達な古典ギリシャが素晴らしい芸術を生み出すのも、近代国家の頭に古代天皇制が乗っかるのもなんら不思議なことはない、ということは、はっきりしました。

 しかし、やはり「相対的独立」って便利なことばだけど、じゃ、「相対的不(非)独立」な面だか部分だかもあるんじゃないか(笑)、そいつと「相対的独立」との関係とか、そこがはっきりどうなっているのかわからないと、なんとなくしっくり腑に落ちない。

むろん、共同幻想論に、柄谷がいうような、従来の生産力理論では、何が支配のような社会的な「力」を生み出すががわからない、ていうようなことには、答えがなかったわけではありません。

一番簡単な三人の共同性で考えても、ルールを決めてなにかを共同で始めたとすると、うち一人に私的な事情ができてルールが守れなくなれば、その自分も合意して作ったルールは桎梏となり、共同性はたちまち個人に逆立する本質をあらわすわけで、それが共同性自体が持つ「力」の源な訳です。

 だから、柄谷のいう力は、これまで社会契約説なりさまざまな権力論で語られてきた個別の支配に共同性自体が個人の桎梏となる人間のありようからきているので、共同幻想論の内部でせつめいできるものですから、あえて無理に支配を交換とみなす必要もないように思います。

 ただ、結局のところ、上部構造と下部構造の関係が具体的に、かつ原理的に解き明かされないとしっくり腑に落ちるところまではいかない、と振り出しにもどるようなところはあったわけです。

 前置きが長くなったけれど、柄谷の新著はこのマルクスの自問に独自の観点から一つのはっきりした解答を与えています。

 無論本書はそれを論じた本ではなくて、これまでの、生産様式の転移に歴史の動因を見る史的唯物論やその修正による社会発展の理論に対して、生産様式ではなく、交換様式にその動因をみる視点から、世界史全体を読み替え、同時に下部構造と上部構造という史的唯物論のアポリアを越えようという、超野心作です。

 もちろん彼は歴史家ではないから、何か新しい歴史的事実を発掘したとか、マルクスのように現実の資本主義の最先端を走っていた英国の経済、社会を分析して、資本主義の本質を実証的=理論的に分析して資本主義社会の成り立つ根拠あるいは無根拠をあきらかにするような仕事をしたわけでもなく、既存の教科書的な世界史の記述を、交換様式という観点から読み替えて、ちょうどエンゲルスが世界史を生産様式から見て史的唯物論を唱えたように、いわば交換様式史観みたいなものを唱えたといったところです。

 従来は実証的な歴史学、考古学などの成果をもとに、個別に氏族社会だの部族社会だの専制的な支配による社会だのといわれてきたものの中で個別的な支配の形態として扱われてきたものを、生産関係にかわる交換関係でよこに軸を通してながめることで、専制政治の支配も、支配とみるのではなく(支配には違いないが)、服従する代わりに保護するという上下関係での「交換」だとみなす、という、ちょっと無理を感じなくもない(笑)概念をあてはめていくことによって、すべての支配形態が「交換」の一種としてみえてきます。(笑)

 そのことによって、たしかに新たにみえるものがあり、説明できなかったものが出来そうな気がしてくる(笑)••••そこがこの本のミソでしょう。

 しかし全体を云々するのはいまの私には無理だから、さしあたり、若い頃から、気になっていたマルクスの自問に触れた一節についてだけ書いておこうと思いました。

 柄谷行人はウィットフォーゲルから、世界史的視野での、はやくに柄谷の言うBタイプの交換様式をもち、高度な生産力を達成した古代オリエント、アジアの専制帝国を中心、その周辺、そし亜周辺、という影響の及びかたによる領域区分を借りて、古代ギリシャは亜周辺地域だったがゆえに、彼がいうAタイプの交換様式を基本とする互酬的氏族社会を色濃く残し、AやBの支配に飲み込まれてしまわなかった、それが氏族社会的な対等平等な関係に共存する自由な個人を生み出し社会の生産基盤は未発達でも、素晴らしい芸術を生み出したのだ、と回答を与えています。

 これは、非常に説得力のある仮説で、なるほどなあと、長年の疑問が氷解するような気がしました。

 もちろん、これは彼の交換様式理論が正しかったとして成り立つ回答だし、おおもとの議論は世界史の理解を根底からぬりかえるような大変なものですから、わたしがいま評価するなんてとうてい無理です。

 しかし、彼の議論でいままでせいぜい相対的独立で扱われてきた上部構造が、極めて具体的、現実的なレベルで下部構造とむすびつけて考えられるようになることはたしかで、いままで観念の世界を扱って足元が頼りない感じだったマルクス主義をベースにものを考えてきた人すべてには朗報となるかもしれません。

 なお、このマルクスの自問に答えることは、彼が来るべき共産主義社会のイメージとして、まだ各人が対等平等で自由だった原始共産制しゃかいに回帰するイメージを語ったことの意味をも解き明かします。

 最後に印象だけ全体に関して言ってみると、やたら繰り返しが多くて、ことにお題目である「生産様式ではなくて、交換様式から見なければこの問題は解けないのだ」という文言はたぶん100回近く?繰り返されているでしょう。

 これも著者が、ハウのごとき言霊を読者に繰り返し贈ることが説得力に影響する「信用」を構成する力になると信じているからかいな、と思いながら読んだのでしたが、そんなところは、柄谷さんも歳をとったなと思わずにいられませんでした。

 しかし、その壮大な仮説から繰り出される世界史の読み替えには、各所で刺激に満ちた指摘があり、私が本につけた小さな付箋があまりに多いので、看護師さんに、それはどんなところにつけるんですか?と不思議がられました。

(修正追記:以下に、柄谷は深く影響を受けたはずの吉本さんに対する敬意を欠くのではないか、とイチャモンをつけた文章を書いていたのですが、その後、柄谷が書いたのとは逆の順序で、『世界史の構造』と『哲学の起源』および『トランスクリティーク』を、先日12月8日に退院するまでの56日間の病床で熟読し、もう柄谷の悪口を書くのはやめようと思いました。完全に参りました。彼が『想像の共同体』などに触れて、吉本さんの『共同幻想論』に触れないのも、下部構造からの上部構造の「相対的独立」の例としてウェーバーの議論など例示しながら、吉本さんの議論には触れないのも、考えてみれば当然かもしれません。なぜなら、柄谷は当初から国内市場向けに書いているのではなく、いわば世界に向けて、他者に向けて、普遍的な言語で書くんだ、という姿勢を鮮明にしていたので、例えばその著書で吉本さんの名を挙げても、吉本さんの著作自体が主著はまったく外国語に翻訳されていないでしょうから、外国の読者にはどういう人か、どういう思想か全くわからないでしょう。だから、外国の読者にもわかるような著者の事例を挙げて論じていたんだろうと思います。
どうも私は吉本さんの熱烈なファンなので、時折、吉本嫌いの浅田彰などとつるんで、吉本さんを揶揄するようなことをする柄谷をこころよからず思っていたので、かなり予断をもって読んでいたところがあったようです。柄谷のこの著作を含む上記の主著4作品は、そういったケチなイチャモンのつけようのない、堂々たる著作で、掛け値なくいま私たちが読みうる最上の思想だろうと思います。)

saysei at 21:23|PermalinkComments(0)

2022年10月13日

秋の味覚

★長男のおみやげ
  きょうは長男が秋の味覚、マツタケをとり市老舗で、牛肉を三嶋亭で買ってきてくれたので、思わぬごちそうにありつきました。松茸などながらく口に入れたことがなかったけれど、明日の検査をひかえてどういう運命が待っているか分からないので、前の日で良かったぁ、という感じです。

★まつたけ
 これがその日本産マツタケ。高かったろうなぁ。私は自慢じゃないけど、今まで77年生きてきて、自分の甲斐性で日本産マツタケなど一度も食べたことがありません。昔、年若い友人の社長さんが知り合いから買ったと言って持って来てくれて、一緒に食べたのが最後だったと思います。もう20~30年前のことかな(笑)たぶんこれがマツタケの食べ納めになるでしょうが、いい食べ納めをさせてもらいました。

★三島の牛肉と松茸
 三嶋の肉ととり市老舗のまつたけという贅沢なとりあわせで、すき焼き

★松茸すき焼き
 肉もほんとに柔らかくて美味しかった。松茸はすき焼きでも香りがするものですね。

★すき焼きの具
 その他のすき焼きの具

★すき焼きの具2
 同じく野菜類

★焼松茸
 箸休めの焼き松茸

★松茸ご飯
 最後はもちろん松茸ごはん。

 ごちそうさまでした!








 

saysei at 22:14|PermalinkComments(0)

2022年10月12日

古今集を読む 第23回 七夕の歌

 古今集を読む 第23回(173~183) 巻第四 秋歌上②七夕の歌


173  秋風の吹きにし日より久方の天の河原に立たぬ日はなし     (よみ人知らず)

 秋風が吹いた日から天の河原に立ってあなたをお待ちしない日はありません

 ここからは七夕の歌になります。
 秋風の吹く日は立秋の日とされていたから、これは偶然秋風が吹いた日ではなくて、明確に立秋の日だということで、その日以来ずっと、ということになります。

 申すまでもなく年に一度七夕の日に逢うことができる牽牛・織女の物語を前提に、その日を待つ織女の立場に立って詠まれた歌です。
 片桐洋一さんはその解説で、古今集に限らず、七夕歌は牽牛または織女の立場になって詠んだものが大半を占めると述べています。
 この歌につづく古今集の歌では;

    久方の天の河原の渡守君渡りなば楫(かぢ)隠してよ(174)
     恋ひ恋ひて逢ふ夜は今夜天の河霧立ちわたり明けずもあらなん(176)
     天の河浅瀬白浪たどりつつ渡り果てねば明けぞしにける(177)

  またこうした読み方は万葉集巻十に見られるそうで、片桐さんは次のような例を挙げています。

    吾が背子にうら恋ひをれば天の川夜舟漕ぐなる楫の音聞えゆ(2015)
    君が舟今漕ぎ来らし天の川霧立ち渡るこの川の瀬に(2045)
              天の川河門に立ちて吾が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ(2048)
         天の川安の渡りに舟浮けて秋立ち待つと妹に告げこそ(2000)
      天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞふけにける(2018)
      我が待ちし秋は来たりぬ妹と我と何事あれぞ紐解かずあらむ(2036)

  こうなると私がときどき書いて来た、古今集では直接自分の内なる感情を言葉に表わさずに、或る仮構線を設けて、その仮構線の上に立って内なる感情を表現する、という原則がゆらぐような気がします。その仮構線というのは例えば物語の結構(わくぐみ)のようなもので、それをいったん設定すれば、自分の気持ちはその物語の登場人物に託して語ることができますし、語り掛けたい相手がいれば、やはりその物語の登場人物としての相手に語ることができます。物語が少なくとも竹取物語の時代からあるのですから、歌の中にそうした仮構が取り入れられていても不思議がないのかもしれませんが、それが物語を語ること自体を目的とするのではなく、歌の手法として広く意識的に導入されるのが歌集で言えば古今集ではないか。梅に鶯、夏が来れば郭公(ほととぎす)、という定番の意識もまた、一種の物語性を孕んだものだと言えるのではないか。…そんなことを考えてきたのですが、もし万葉集にもジャカスカとそういう例が登場するのであれば、この考え方は廃棄せざるを得なくなります。

 しかしここではまだ七夕歌についての用例だけで、これは歌の詠み手が創り出した仮構ではなく、中国から伝わった伝説がよく知られている中で、この伝説中の織女や牽牛に仮託して心情をのべたもので、既存の共同的な仮構線の上に物語的な歌を詠んでいるわけです。そういう例は、ひょっとしたらほかの既存のよく知られた伝説についてもあるかもしれませんね。そのことと、みずからオリジナルな仮構線を設定することとは文芸的創作の水準としては異なるとみたほうがいいかもしれません。

 ところで、片桐さんの解説では、『万葉集』に「秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ」(巻十・1083)と、初二句が一致する類歌があるそうです。古今集の歌詠みたちは、ほんとうに万葉集をよく読み込んで血となり肉となるまで消化しつくしていたようです。


174  久方の天の河原の渡守君渡りなば楫(かぢ)隠してよ

 天の河原の渡守よ、あのかた(牽牛様)がお渡りになったら、舟の楫を隠して(彼が帰れないようにして)くださいな。

 これも織女の立場に立って詠んだ歌ですね。自分の愛する人を帰したくないから、舟の楫を隠して、というのは、なんとも意地らしい女性の思いを表現する言葉だな、と思いますが、こういう発想もすでに万葉集にはありますよ、と片桐さんは次の歌を挙げています。

 吾が隠せる楫棹なくて渡守船貸さめやも暫(しばし)は有り待て(巻十・2088)
 (あなたを帰すまいと私が隠しておいた楫や棹がなくて、渡守が船を貸すでしょうか。(牽牛よ)もうしばらくそのままでいてください。)

 私は子供のころ、牽牛と織女は相思相愛ながら、天の川で互いに隔てられて会えなくされてしまったけれど、年に一度だけ牽牛が天の川を渡って織女のところへ来ることができる、という話として教わった記憶があるのですが、その「渡って」は船で渡るのではなくて、歩いて渡る、つまり年に一度だけ天の川に牽牛が歩いて渡って織女のところへ行ける道ができるのだ、というふうなイメージでこの話を聞いたように思って、ずっとそう考えてきました。

 しかし、それだと、この歌にあるように舟で渡る必要はないはずで、逆に舟で天の川が渡れるのなら、年中いつでも渡って来れるじゃないか(笑)と思うのですがどうでしょうか。

 片桐さんによれば、日本の七夕伝説では、牽牛が歩いて渡って来るのと、舟で渡るのと、ふたつのタイプがあるんだそうです。前者のバリエーションとして、もみぢの橋を渡るとか、かささぎのわたした橋を渡るとかといったタイプもあるそうです。「かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜はふけにけり」という有名な歌は知っていますが、七夕にかささぎが橋をかけて牽牛を渡すという話があるというのは知りませんでした。

 さらに面白いのは、片桐さんが日本と中国の伝説を対照させて解説してくれている、牽牛と織女のいずれがいずれのもとへわたるのか、という点の相違です。日本では(少なくとも私は)当然に牽牛が織女のもとへ渡ってくる、と理解してきたし、片桐さんによれば事実そのとおりのようです。
 ところが中国はまったく逆で、織女のほうが車に乗って牽牛のもとへやって来るのだそうです。

 金鈿已ニ照燿スルモ
 白日未ダ蹉跎タラズ
 黄昏ノ後ヲ待チテ
 嬌ヲ含ミテ浅河ヲ渡ラムト欲ス
 (『玉台新詠』巻十 劉孝儀「詠織女」)

 牽牛遙ニ水ニ映ジ
 織女正ニ車ニ登ル
 星橋漢使ヲ通ジ
 機石仙槎ヲ逐フ
 河ヲ隔テテ相望ム近ク
 秋ヲ経テ離別賖ナリ
 愁フ今夕ノ恨ヲモツテ
 復タ著ク明年ノ花
 (『玉台新詠』巻八 庾信 雜詩三首其二「七夕」)

 いずれも織女が牽牛のもとへ車に乗ってやってくるという情景です。
 これはきっと伝説が成立したとき、あるいは受け入れたころの中国と日本の社会が父系制社会だったか母系制社会だったかというのに関係があるんじゃないでしょうか。


175  漢河(あまのがは)紅葉を橋に渡せばやたなばたつめの秋をしも待つ  (よみ人知らず)

  天の川は紅葉を浮橋にして牽牛を渡すからだろうか、織姫が秋を待っているよ  

 片桐さんが解説するとおり、紅葉を浮橋にして渡す、というのはとても美しい見立てですね。ただ、この歌は七夕説話を用いて、秋を待つ思いを織姫の思いに重ねて歌った、という以上のものはなにもないように思います。紅葉を橋に渡す、という見立てにこの歌の値打ちが集約されるのかもしれません。
 なお、片桐さんは、「漢河」は、「漢河では」の意だと述べていますが、強いて場所を示している、という言葉として受け取る必要があるでしょうか。むしろ冒頭のこの言葉は、漠然とした主題の提示、とでも言うべき位置づけのことばではないでしょうか。むしろしいてそのあとと具体的な関連づけがほしいなら、天の川が紅葉を浮橋にして(牽牛を)渡すので、と、天の川を主語とみることもできるでしょう。そういう読みを否定する文法的根拠あるいは当時の慣用的語法があれば別ですが、素直に読めば、そのように読めると思います。

 ところで初歩的な疑問ですが、ふとなぜ七夕の歌がみな秋の部に入っているんだろう?と思いました。もちろん旧暦の七月七日は秋に入るんだろうな、とは思ったのですが、旧暦と新暦のずれは1カ月かせいぜい1カ月半までくらいと思っているので、どうみても七夕はいまの8月下旬くらいで、近年の猛暑つづきの夏のまっさかり・・・・どうしても旧暦では7月から9月までが秋なんだ、というのが現実感覚として理解しにくかった、ということです。つまりいまの暦で8月下旬からはもう秋なのですね。それでいくと、旧暦4月から6月が夏だというのも実感から離れてしまいそうですが、それでもこれが5月から7月だと考えれば、5月が初夏というのは木々の緑で実感できますね。旧暦1月から3月の春というのも、年が明けると新春のお慶びを申し上げますとか、初春だとか言い慣わしていて、親しみがなくもありありません。

 たしかに私が子供のころ、いまから60-70年以上の昔なら、夏は夏らしく初夏に始まって7,8月が最盛期で、8月の後半にはたしかにもう秋風が吹いて秋と知られたり、台風シーズンになって急に肌寒くなったりして秋の到来が感じられましたから、旧暦では7月だけれどもう秋なんだ、と言われてもそう実感との隔たりがありませんでした。しかし、いまは夏がえらく長く間延びして、春やら秋やらのいい季節が短くなってしまって、七夕が秋だと言われてもピンとこなくなってしまいました。旧暦七月≒新暦八月≒秋というのが頭の中で実感として受け入れにくいのですね。


176  恋ひ恋ひて逢ふ夜は今夜天の河霧立ちわたり明けずもあらなん   (よみ人知らず)

 恋し恋し続けて逢う夜は今夜、天の川に霧が立ちこめて、(牽牛様が帰れないように)晴れずにいてくれればよいのですが

 「恋ひ恋ひて逢ふのは今夜」という語を重ねてリズムがあり、今夜、と体言で切って、パッと視点を天の川に向けるまで、一気に言いつのる、上の句のテンポの良い言葉運びが、恋しい人に一年ぶりに逢える喜びに弾む織姫の気持ちの高ぶりをそのままに伝えるような響きをもっていて、いい歌だなぁと思います。Koi Koi te au yo wa Koyoi amano gawa  Kiri tachiwatari akezumo aranann と 語頭のK音が韻を踏むようなリズムをつくりだすのに一役買っているのかもしれません。 タン、タン、トトト、タン、トトト、タン、トトトト・・・ ですね。


   寛平の御時、七日の夜、「殿上にさぶらふ男ども歌たてまつれ」とおほせられける時に、人に代りてよめる  友則
177  天の河浅瀬白浪たどりつつ渡り果てねば明けぞしにける

   天の川を浅瀬、白波をたどりながら渡り切らないうちに夜が明けてしまったよ

 詞書に、寛平の世のことですが、七夕の夜、清涼殿にいる殿上人らに、歌を詠むようにと(帝の)お言葉があったときに、人に代わって詠んだ歌だとあります。

 寛平はたびたび登場しますが、西暦で言えば889年の4月27日から898年の4月26日まで、丸9年間で、第59代宇多天皇の治世です。官制改革や国史編纂、藤原北家の圧倒的なプレッシャーの中で菅原道真のような能吏の登用、さらに寛平御時后宮歌合などで文化を振興し、仁和寺を建立した天皇です。早々に息子嵯峨天皇に譲位して上皇となり、藤原氏に対抗しようとしますが、いささか仏教に傾倒しすぎたようで、その隙を藤原氏に突かれて、みずからが頼みとした道真に宇多の子で自らの婿を皇位につけようとしたという疑いをかけられ、左遷を決議されてしまい、慌てて宮中へ戻ろうとしても内裏の門は閉ざされて如何とすることもできなかった、というような話が残されています。藤原北家の支配が確立するなまなましい政争の時代であると同時に、以後100年余りにわたる後宮文化の開花のきっかけとなったような時期ではなかったでしょうか。

 殿上にさぶらふ男ども(殿上人)というのは、片桐洋一さんの語釈欄には「四位・五位の中で昇殿を許された者と五位・六位の蔵人」とあります。ウィキペディアの説明では、「9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指す。」とあります。
 この説明で、除外されている「公卿」とは、「公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す」のだそうです。

 こまかいことはともかく、天皇の居場所近くで仕える者のうち国政を担う権力中枢、政権の最高幹部に属する連中を除外した、御所の中での平均的な官吏たちなのでしょうが、それでも天皇の居場所に近づけない下級官吏や一般人からすれば「雲上人」、雲の上の人と呼ばれるような一握りのエリートたちだったのでしょう。そういう連中が閑をみつけては集まってちょっとした宴会を開いたり、歌会を開いて楽しみとし、そういう場へ、身分は低くても専門歌人がその専門性によって呼ばれ、貴人の代わりに歌を詠んで、一座の賑わいに花を添えたのでしょう。

 友則は、古今和歌集の45首をはじめ、勅撰和歌集に64首採録され、古今集の編纂者の一人、六歌仙の一人に名をつらね称される有名な歌人ですが、40歳までは無冠で、その後の官位も六位だったそうです。

 殿上人として昇殿を許された上級官吏がどれくらいいたのか、時代によっても違うでしょうが、この平安初期はどれくらいの人数だったのか、私にはよくわかりません。宇多天皇が譲位に際して息子の敦仁親王(醍醐天皇)に残した『寛平御遺誡』の逸文の中には、公卿の具体的な人数を記したものはあり、「公卿正員者、太政大臣、左右大臣各一人、大納言二人、中納言三人、参議八人、合十六人。」だそうです。また「今須大納言以下莫過十二人」というような文言もみられます。

 政権の中枢に位置する連中は大体そんな人数として、「殿上人」はそれ以外で昇殿を許された四位、五位の者と天皇の家事に属する庶務を担う五位、六位の蔵人がどの程度いたのか、よくわからないのです。webサイトをみると25人とか30人とか書いてあるのですが、私の手元のささやかな資料では確かめようがありません。殿上人なんて言葉は別に専門家でなくてもよく知っているけれど、それがどれくらいいたの?なんていう簡単で、誰でも知りたいようなことが、案外歴史の本なんか見ても書いてありません。

  肝心の歌ですが、例によって擬人法で、天の川を渡って織姫に逢いにいく牽牛の身になって、白波の立つ浅瀬をたどって天の川を渡って来たけれど、渡り切らないうちに夜が明けてしまって、せっかくここまで来たのにもう会えなくなっちゃったよ、ということで、七夕伝説を下敷きにして、それ自体が小さな物語といっていい世界を作り出しています。こんなふうに別の物語を下敷きにしようとすまいと、或る仮構線を設けて、その上に人物を動かし、感情のやりとりを描く、というのが古今集の表出の特徴のようです。

 だから物語の創作と同じように、そのよって立つ仮構線がお粗末だと、単に技巧に走った嘘っぽい表現になってしまいます。だからこの歌のように、その仮構線自体を自分で引かないで、既存の物語、七夕伝説を借りることで安定性は確保できる強みがあると思います。あとはその登場人物である牽牛なり織姫なりの視点に立って、行動するなり、感情を動かすなりして、それを歌に詠めばよいわけです。

 こういう仮構線の設定ということが一般的になったのが、古今集以前と以後の表出の相違で、表出水準がそこで全体に底上げされて、歌の中に物語性を自在に導入することができるようになり、そうした物語的な仮構の世界で自身の感情や対象のあり方を表現することができるようになったと同時に、その仮構を組み立てること自体を自己目的的な遊び(ゲーム)と化すことができるようになった、ということでしょう。

 この歌にしても、そうやって牽牛の身になって、恋人のところへ行くのが遅くなって、ぐずつくうちに夜が明けてしまった、と女のところへ通う自分の気持ちを表現しました、ということだって、詞書がなければ考えられることだけれど、これはそんな前提なしに、とにかくひとつ歌を詠んでみろと言われて、ひとひねり、気の効いたショートショートみたいな小さな物語をつくってみせました、というように、歌を詠んだもので、作者の生身の人間としての喜怒哀楽の情などは少しも込められてはいないでしょうし、そんなものは込めなくてもいいわけで、とにかく物語として気の利いた面白いものであればよろしい、と。

 初句の「天の河」は、ふつう「天の河の」と解するのだそうですが、片桐さんは「渡り果て」にかかる言葉と考えてみたと書いています。私も彼と同様「天の河を渡り・・・」と訳したので、同じ見解をとったことになるのでしょうが、私自身はこの「天の河」の用法は、前にも別の歌で書きましたが、とくに「渡り果て」にかかる、と考えるのではなく、この歌全体が語ろうとしている主題を提示する言葉なのだと思っているのです。主題というのが言いすぎなら、この歌の仮構線である七夕伝説の展開される舞台の提示だ、と言ってもいいでしょう。

 おおげさなようですが、ごくふつうに、こういう日本語の使い方ってあるじゃないですか。はじめに主題なり、物語の展開される場を提示して、それはとくに下につづく言葉の意味に直接つながっているのではなくて、全体の主題なり場なりを設定している。そこで具体的な行為なり物語なりが展開されるわけです。

 いま「別の歌」で言ったと書いたけれど、すぐ二つ前の175番歌ですね。あそこでも冒頭に「漢河(あまのがは)」と来ています。このときは、片桐さんはとくに根拠を示すことなく、”なお、「天の河」は「天の河においては」の意とすべきであろう。”と述べて、言葉を補ってあとに続く言葉に意味的に直接つながる解釈をとっています。

 日本語文法でよく問題になっていた、「象は鼻が長い」という文の格助詞「は」は、文法的にはどういう意味合いのものか、というときに、普通は格助詞の「は」は主語をあらわし、他と区別する助詞だと教わったのではないかと思います。しかし、主語なら「鼻が」の「が」こそがこの文の主語のはずで、同じ文に主語が二つあるのか、ということになります。そこを三浦つとむさんは、この「は」は主題の提示なんだ、という見解を出していたと思います。私はこの意見に賛成だな、と思ったことがありました。

 「は」にあたる助詞があるわけでもないし、そういう助詞の話ではないけれど、「天の河の何々」だとか、「天の河を渡り‥」と続くような言葉じゃなくて、言ってみれば、「天の河はね」とか「天の河ではさぁ」というふうに、最初にその歌の主題なり物語の展開される場を提示する言葉として、この初句が置かれているのだ、と考えることができるのではないか、という気がするのです。それを無理にあとに続く言葉に意味として同じ水準で接続される言葉だと解すると、ちょっと違和感があったり、見解が分かれたりするのではないか、と思います。ちがう解釈が成り立つのは、この言葉が助詞を伴わずにそれだけ単独で置かれているために、下に続く言葉に意味的に接続するはずだ、という頭で見ると、曖昧に思えるからです。けれども、これは意図的に、単独でそこに投げだされたことばであって、無理に助詞など補って後に続く言葉に意味をつなげようとすることのほうが作為なのです。・・・・とまぁ、素人は素人なりに、何度もこの歌を読んでみて、語感的に納得できる答はそういったものだと思えた次第です。

  この歌に関しては、牽牛が一年も待ってただ一度のチャンスに河を渡って行ったのに、もう夜が明けたから織姫に逢わずに引き返す、などということはあり得ない、という議論があるようで、片桐さんの紹介するところによって、歌論書『俊頼髄脳』を覗いてみると、こんなことがあってよいものか、普通の人でも一年間昼夜を分かたず恋いすごして、稀に女に逢えるはずの夜であったなら、どんなことをしても、工夫して(二人を隔てる川を)渡るはずだ。まして年に一度しか逢えないという彦星織女星という星座ではないか。天の河がいくら深いからと言って、彦星は帰るべきではない云々侃々、渡らないことはいずれにしても納得できない、と述べ、こんな「ひがごと(心得違いのこと)を詠みたらむ歌」を、躬恒や貫之の編者らが古今集にどうして入れようか。もし仮に撰者たちが誤って入れても、勅撰を命じられた醍醐天皇が必ず除外なさっただろう。或いは古今集本文の誤写かと思って多数の伝本を見たが、みな「わたりはてねば」と表記されていたが、中に「わたりはつれば」(わたってしまったので)と表記した伝本もあるにはあったが詳しい人に尋ねたところ、やはり「わたりはてねば」が正しいようで、「わたりはつれば」とあるのは悪い本文のようだ。そうしたことを考えると、「わたりはてねば明けぞしにける」と詠んだこの歌は、古歌の「ひとつの姿」(ひとつの表現方法)なのだ。つまり、一年間待ち続けて逢えるのはただ一夜だけと、その時間がほんとうに少ないので、事実は違ったのだが、中途半端で、逢わなかったように感じられたのだ。本来は「逢はぬ心ちこそすれ」と詠むべきだが、「歌のならひにて」(和歌表現のきまりとして)そうも詠み、また、逢ったのだが一向にまだ逢いもしていない状態に詠んだのだ。・・・・というまことに苦しい解釈をしています。

 いま読むと、どうしてそこまで理屈をこねてまでして、この歌の「わたりはてねば」を正当化しなければならないのか、ちょっと首を傾げたくなります。もともと天の川を渡って年に一度牽牛が織女に逢いに行く、という事自体が神話的な伝説のお話なのだから、二人が会えるのは今宵一夜限り、というのがこの伝説の世界のルールであって、そこで天の川を一夜のうちに渡れなければ牽牛は織女に逢うことをあきらめなくてはならない、というのは、この二人が会えるのが年に一度、一夜限りであることと表裏一体の決まり事なのですから、夜明けまでぐずぐずしていたら引き返さなきゃいけないのは当たり前(笑)。

 俊頼の読み方は、この「わたりはてねば」夜が明けて二人は会えない、という部分だけをリアリズムのように解釈することから生じる矛盾にすぎません。この歌全体が、七夕伝説を前提に詠まれているので、年に一度、一夜だけしか逢えないことと、その一夜を外してしまうと逢えなくなる、ということとは一つことであり、七夕伝説の上にのっかって動く登場人物が従わなければならないルール、七夕ゲームのルールなのです。友則がここで帝の声掛けに応えて詠んでみせた歌は、そういう七夕ゲームのルールに従って七夕伝説の世界を動く登場人物牽牛になって、天の川という障害物を渡って織女に逢おうとしたものの、タイムアウトで失敗しました、という1回分のゲームをプレイしてみせた、ということなのです。古今集時代の多くの歌は、そのような物語的な仮構線を備えた歌であったと思います。


        おなじ御時の后の宮の歌合の歌  藤原興風
178  契りけん心ぞつらきたなばたの年に一度(ひとたび)逢ふは逢ふかは

   約束したのだろうその気持ちが薄情だってんだよ、七夕が年に一度逢うってのは逢ううちにへぇもんかい

 クマさんハッツぁん風に訳してみました。片桐さんが、織女の立場に立って牽牛に恨み言を言ったと見る説もあると書いていますが、ここは片桐さんの説明どおり、「契りけん」の「けん」(けむ)は、岩波古語辞典の解説では「・・・ただろう」「・・・だっただろう」と過去の事態に関する不確実な推量・想像を表わす、とあります。これは織女が牽牛のつれなさをなじったあるいは嘆いたとみれば、不自然です。また、「たなばた」という言葉を使うのは織女本人だとちょっと変だ、というのも片桐さんが書いているとおりです。

 ここはやはり、第三者の立場から、牽牛が織女に年に一度逢いに来るよと約束したその心が薄情だ、と評しているのでしょう。七夕伝説にのっかりながら、その物語中の主人公の行動にみえる心根を評しているわけです。


    七日の日の夜よめる       躬恒
179  年ごとに逢ふとはすれど織女(たなばた)の寝る夜の数ぞ少なかりける

 年ごとに逢うことは逢うののだが、織女が牽牛と共寝する夜の数は少なかったことよなぁ。

  「少なかりける」は「少なし」の連用形で、「けり」は過去の助動詞と一般に言われるけれど、西洋流に過去、現在、未来と延びていく時間を考えるのではなく、「きわめて主観的に・・・話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのもの」(岩波古語辞典)であって、回想、ないしは気づきの助動詞というべきものだ、という説に共感を覚えるので、ここは、「そういう事態ななんだと気がついたという意味」だと解釈しました。
 つまり、年に一度逢うことは逢うってことになっているんだろうが、ふと織姫が牽牛と共寝する夜の数を数えてみたら、えらく少ないって気づいたよ、ってことですかね。

  七夕伝説に乗っかってちょっと機知を働かせてみた、という歌ですか。


180  織女(たなばた)にかしつる糸の打ち延(は)へて年の緒長く恋ひやわたらむ   (躬恒)

 織女に供えた糸を打ち延ばすように長い年月恋いつづけていくのだろうか

  いま読んで分からない言葉は、「かしつる」と「打ち延へ」でしょうが、後者は漢字を見れば、その前の「糸」で意味はわかります。
 「かつつる」の「かす」の意味は、片桐さんも分からないと書いています。万葉集には用例がないそうですが、古今集には、「糸をかす」という例や「衣をかす」という用例があるそうです。しかし「かす」そのものの意味が不明だ、と。一般的には、織女星に糸を供える意とするようで、物を供える場合に、供えることが終われば、もう一度取り込むので、「貸す」と同じだから、供えることを「貸す」というのだと説く説もあるそうです。ちょっと怪しげな説って感じだから片桐さんも、そういう説があるが「いかがであろうか」と疑わし気で、代りに、「架す」「竿(か)す」ではなかったか、と示唆しています。

 その根拠は、この言葉が七夕の糸と衣以外位には用いられていないこと、そして白居易の詩「竹竿頭上願糸多」にみるように、竹の竿に糸や衣を掛けるのが中国から入ってきた初期の七夕(乞巧奠)の形だったから、ということです。なるほど、そのほうが可能性がありそうですね。「供える」行為がすぐ取り戻す行為だから「貸す」のと同じだし、「貸す」が「供える」の意に転じたのだ、というのは、どうも「供える」という行為と「貸す」という行為の次元が違い過ぎてピンときません。信心をもたない私でも、仏壇に何か供える時は、仏さん、これ「貸しとくよ」という意識を持ったことは一度もないですからね(笑)。「供える」ときは、あくまでも相手の佛なり神様なりに「ささげ」「あたえる」ものであって、それを下げてくるときは、いったんささげたものを「おさがり」として、あらためて「いただく」のであって、一時的に貸したものを取り返すという、その供え物に対する所有意識の継続というのはありません。

  この「かす」という言葉は、やはり片桐さんの言うように、竹竿の先に糸や衣を掛けて供える中国の乞巧奠の風習という、同じく宗教的な意味合いを持つ行為の中で解釈されるのが至当というべきでしょう。

 ちなみに、岩波古語辞典をひいても、「貸す」意味しか出てこず、ここでの用例も出てきません。

 ところで、片桐さんの通釈では、そんな風に打ち延ばす糸のように長い年月、「あなたを」恋いつづけるのだろうか、となっています。この歌は、織女は長い糸を導くためのきっかけにすぎないのでしょうか。「恋いやわたらむ」と推量される恋の主体は私で、その対象は「あなた」なのでしょうか。

 ここは直接に私の恋情を表現したのではなくて、やはり物語に乗っかって作った歌で、その仮構線上での「恋ひやわたらむ」ですから、たった一夜会えるだけなのに、織女よ、あなたは糸が打ち延ばされるように長い歳月、ずっと牽牛を恋い続けるのでしょうか、とするのが良いのではないでしょうか。

 自分の恋情を織女に託してではあれ、直接自分を恋の主体、相手をこの歌の外にある誰か女性だと見て、その女性に対してあなたをそんなにも長く恋していけるのだろうか、と述べるのだとすれば、ちょっと古今的ではないような気がします。これは七夕の物語の世界での話で、二人は年に一度しか逢えないのに、ずーっと末永く恋しつづけていくのだろうかな、と推量しているわけでしょう。

 前の179番歌につづく躬恒の歌で、同じ七夕の夜に詠んだ歌ですから、179番も客観的に牽牛と織女の関係を少し距離を置く視点から、えらく共寝の夜の数が少ないな、と言っているのではあるけれど、あくまでも物語の世界の中の話です。このように仮構線を設けた上でその世界の中の出来事に対して判断したり、感慨を持ったりしたことを歌っているわけで、直接に現実の作者の感情をあらわにしている表現ではないと思います。


      題しらず      素性
181  今夜(こよひ)来む人には逢はじたなばたのひさしき程に待ちもこそすれ

 今夜来る人には会うまい。織女が長い間待ったようになるといけないから。

 男が女のところへ来るのが平安の倣いでしょうし、これは片桐さんの解説どおり女の立場を仮構して詠まれた歌ですね。素性法師が女の立場になって、「今日は男には会わんとこ。織女はんみたいに長いこと待たされたらかなわんさかいな」と詠んでいるんだと思うとなんだか可笑しい。

 いまの私たちに難しいのは末尾の「待ちもこそすれ」のような表現ですね。
 「こそ・・・已然形」の係り結びで強調しているから、「織女なら長い間待ちも待ったり、どんなことをしても待ちもしようが」というような意味から、「織女が長い間待ったようになるのは困るから」といった意味になるのでしょうかね。

 正確にそのような意味に転化するプロセスを誰も解説してくれないから、適当にそんなふうに受け止めていますが、この「待ちこそすれ」からそんな大げさな脅威を取っ払えば、「待ちもしよう」というにすぎないでしょう。はっきりした「否定」の意味はどこにもないと思います。
 「こそ・・・已然形」に反語の機能はないでしょう。しかし、ここでは強意によって、結果的に反語の意味に転じているのではないでしょうか。「長い間待ちもしようが、(織女のように待つだろうが?)いや、待ちはしない」ということなのでしょう。
 そうすると「織女の」には「織女ならば」という仮定の意味が含まれることにもなるでしょう。「織女なら長い間そりゃあ待ちに待つに違いないでしょうけどね。(わたしゃ待たねえよ)」ということでしょう。


    七日の夜の暁によめる   源宗干朝臣
182 今はとて別るる時は天の河渡らぬ先に袖ぞひちぬる

 いまは(お別れのときだね)・・・と言って別れる時には、まだ天の川を渡らぬ前にもう(別れの悲しみの涙で)袖が濡れてしまったよ

 これは織女と七月七日の夜を過ごした牽牛が、さあ今は別れの時だね、と言う、その立場に立って詠んだ歌ですね。帰り道の天の川です。詞書に「七日の夜の暁」とあるのは、現代感覚だと8日じゃないのか、となるけれど、片桐さんの解説では、すっかり夜が明けきるまでは7日の夜なんだそうです。

 「ひち」(終止形「ひつ」)は、現代語の「ひたす」と同根の語だそうです。袖が「ひつ」というのはよく出てくる表現だったと思いますから、意味はわかります。岩波古語辞典によれば、「漬つ・沾つ<室町時代までヒツと清音。奈良時代から平安時代初期には四段活用。平安時代名kごろから上二段活用。>びっしょりぬれる。」ということです。

 源宗干(むねゆき)は前に「寛平の御時の后の宮の歌合によめる」歌、24番歌「ときはなる松のみどりも春来れば今ひとしほの色まさりけり」を詠んだ光孝天皇の孫で、是忠親王の子だそうです。寛平六年(894)正月、従四位下、源姓を賜り、のち右京大夫となり、天慶2年(939)正四位下となって同年没しています。皇族だったのが源姓を給わって臣下に降り、それなりの高い身分や官職を保証されて生涯を過ごすというのは、天皇の数多い皇子や孫の親王の典型的な生涯だったのでしょうね。歌もどうということもない歌です。


     八日の日よめる   壬生忠岑
183 今日よりは今来む年の昨日をぞいつしかとのみ待ちわたるべき

 きょうからは、これからやってくる年の昨日(七月七日)をいつくるかいつくるかとばかり待ちつづけなくてはならない

 詞書がなければ、何のこっちゃ?!となる歌です。八日はもちろん七月七日の七夕。過ぎたばかりなのに、翌日にはもう来年の七夕が待たれる、という歌ですから、これも年にただ一度の牽牛の訪れをただ待っていなければならない織女の気持ちになって詠まれた歌と考えるべきでしょう。七夕伝説を前提として、それに乗っかって織女の想いに自分を同化させて、来年の七夕をただ待つ身のもどかしさを歌ったもの。要は古今集ではこういう、何か外在的な物語とか、周囲の歌人たちに共有されている仮構、或いは場合によっては自分でつくりだす仮構線の上に、作者の想い、感動、判断、慨嘆等々をのせて歌うのが共同的なお作法のようですから、七夕などは大変好都合な仮構線を提供してくれて、自分の想像力で仮構線を構築しなくても、物語を前提にしていきなりその主人公たる織女や牽牛の立場に立ち、物語中の人物の言葉、ふるまい、感情表現として歌を詠むことができたわけです。

 きょうとりあげた173番歌から183番歌までが、七夕の歌で、ここで一応のキリになります。


 


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2022年10月09日

なべ

なべ
 ここ数日で急に寒くなってきて、鍋もいいなぁと思えるようになりました。

鍋の具
  きょうは、鶏のツクネ、豚肉、手羽先の水炊き。

鍋野菜★
 野菜は、大根の抜き菜、小松菜、白菜、もやし、シイタケ、ワサビ菜。

小鮎の佃煮
 箸休めに小鮎の佃煮

★モロキュウほか
 モロキュウ、ラディッシュ、新しょうがの入子味噌添え

おじや
 最後は鍋の残りでおじや。これが美味しい。

 きょうはネット上でちょっと興味のあるテーマで名の知れた数学者が書いた本に結構本格的な(数式を使っていて長い、という意味ですが)書評とも言える感想を書いて批判している人がいたので、同業の数学者がアマゾンの感想にこんな批判を書くのかなと思って、その名で検索して調べてみると、どうやら数学者でも物理学者でもないらしいので驚きました。まあ数学向きの頭の良い人なら、数学なら紙と鉛筆があればできるでしょうから、才能さえあれば努力次第で別段アカデミズムの学者でなくても優れた数学者になることも、理解ぐらいはできるようになることも出来るのかもしれませんが・・・。

 で、その人の名で検索していたら、多分同じ人らしいのが、一般相対性理論と特殊相対性理論の一般向け(専門家ではない人向け)の解説を書いているサイトがあって、それは数学とは違って私にもいちおうざっとは追えるので読んでみると、これが結構面白くて、結局10回分(一般相対性理論)全部読んでしまいました。

 そして思ったことは、当然物理や数学を専門にしているアカデミシャンはこういうのは端から馬鹿にしそうだし、そもそも間違いだらけだ、と言うかもしれないけれど、アカデミズム的な厳密さや数式の展開だの、個々の数式のとらえ方だのにはたとえおかしなところがあっても、相対性理論がそもそもどういう性格のもので、その理論、数式は何を語っているのか、素人にも分かるように説明してみてくれ、と言ったときに、まずほとんどの数学者や物理学者は失格で、彼らは絶対に失敗ができないから、どうしても専門分野のジャーゴン(特殊語彙)を使って概念なり理屈なりを説かざるを得ず、それはいかに厳密、正確であっても、素人が核心をうかがうことができるような解説には程遠いものです。

 しかし、きょう読んだその解説はそこが結構うまくできていて、直観的に素人が、あぁ、そういうことなんだな、と理解できるような説明をしていて、感心しました。機会があれば、物理でもやっている友人たちに、あの説明はどうだい?と訊いてみたいと思いますが、そこに至るプロセスに数学的あるいは物理的厳密さを欠くとしても、直観的な把握を裏付けるようなまっとうな像を示し得ているのではないか、と思います。

 私が前に数学の古い本を読んでわりといい、と言ったのも同じことです。あれは彌永さんという正真正銘の数学者の本でしたが、要はその数学の理論が何を目指し、その数式が何を意味するのか、それは数式抜きで(あるいは最小限の数式を添えた説明で)説けるはずなのです。そういうマインドを著者がもつかどうかだと思います。

 哲学でも同じことで、明治以来の輸入哲学の翻訳語にすぎないジャーゴンを駆使することにはいくら長けていても、その言葉がもつ具体的なヴィジョンを喪失して概念操作しているだけだから、ほとんどの日本のアカデミズムの哲学者の文章は、ほんとうに哲学する言葉になっていないだろうと思います。単にそういう原語と翻訳語のセットを覚え込んで、その操作に習熟しただけであって、肝心の哲学そのものはどこかへ置き忘れているのです。だから、要するにこの人はこういうことが言いたいんだね、ということが分かるような、腑に落ちる説明ができない。言葉の裏に、具体的な形象がくっついていないからです。

 ほんとうによくわかっている人の書くものは、数学であれ物理であれ哲学であれ、その言葉や数式の裏に、必ず具体的な形象がくっついています。言語なり数式で表現する時には、一般化するために抽象化の手続きをとるために、それが表面的には見えなくなるけれど、本当はその表面の記号を辿って「わかる」ことは単なる記号操作の反復(オウム返し)に過ぎず、ひとつひとつの数式や言葉の裏にくっついている形象が読みとれてはじめて、個々の読者にとって腑に落ちるように「わかる」というところに落ち着くのでしょう。

 いま書いている短編のほう、きょうはあと、13000字にもなってしまった原稿をなんとか6000字台まで削りに削り、あと1500字ばかり、骨の髄まで削らなくてはならない段階で削りあぐねているところです。まだ締め切りまで少しあるので、楽しみながら二つ目を仕上げたいと思っています。




saysei at 21:15|PermalinkComments(0)
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