2022年08月
2022年08月31日
巨大なズッキーニ?
きょう上賀茂のいつもいく6つの野菜自動販売機のうち、一番近い最初に行くところでゲットしたズッキーニ?。100円也!でも調理しようとしていたパートナーが、これは大きくなったキュウリかも知れない、と言います。ズッキーニしては切る時少し硬かったとか。いずれにしてもこんなに大きくなるんですね。あんまりでかくて面白いと思ってかってきました。ふつうのきゅうりも100円で結構沢山あったので買ってきました。l
→やっぱりズッキーニではなくて、でっかいキュウリでした!切ってみたら分かったそうです。
松ヶ崎橋のすぐ下に、きょうは牡牝2頭の鹿がいました。
こちらが牡鹿。まだ若い、なかなかハンサムな牡鹿ですね。
午後4時半ころだったでしょうか、松ヶ崎橋から臨む比叡。きょうは或る天気予報では雨の予報だったけれど、あさから晴れて、雲が多いから天気は曇りということですが、夕方の現在までまったく降りませんでした。明日は雨だそうです。
5時半近く、高野橋から車道越しに見る比叡。だいぶ雲が多くなっています。
高野橋から下流方向の空。こちら側には黒い雲が多いけれど、遠くに綺麗な青空(夕空)が見えるのでアップにしてみると・・・
こんな具合に綺麗な空が広がっています。
きょうは岩田慎平さんという方の『北条義時』(中公新書)で、今大河ドラマでやっているあたりをおさらいしました。たしかに頼朝死後の幕府の血なまぐさい勢力争いの中で権力を握って行く義時の姿はなかなか凄みがあります。なかなかこういう専門書では一人一人の血も涙もある人間像は浮かび上がってこないので、読みづらいけれど、ドラマの中の人間像と併せて読むと興味深いところがあります。
昨日ひどい気象病でダウンしていたパートナーも、きょうは私が買ってきた小林製薬のテイラックという気象病用の漢方製剤が幾分か効いたようで、少なくともひどいめまいがおさまって、家の中で家事をする分には支障がなくなったそうで、昨日は膝の半月板の故障で通っている外科の予約は延期していたけれど、きょうの整体さんには、近いせいもあって無事出掛けられたようです。
私はその間にアーチャン(いんこ)の世話をしたり、ざらつく床のフキ掃除をしたり。昼食を食べるころからの時間帯が、神経の痛みを和らげるプレガバリンの副作用である強い眠気に襲われるころで、昼食を食べて2階の仕事場のパソコンの前の大きな背もたれのある椅子にほっと休むと、もう引きずり込まれるようにして眠って、目が覚めると午後4時を回っていて、下から「きょうは行かへんの?」と声がかかります。
体はひどくだるいし、まだ眠いけれど、この痛みのある体を動かさないと、足腰の不具合がもっと固まってちっともよくならないでしょうから、億劫な気分を振り切って、自転車で上賀茂までくるっと回って来るわけです。ご苦労さん!(笑)
きょうの夕餉
メインディッシュ、キノコ入り煮込みハンバーグ、きゅうりとマンガンジトウガラシを添えて。
このハンバーグに添えられたきゅうりが、きょう上賀茂でゲットして巨大なズッキーニかと思って買ってきたでかい胡瓜でした。畑で好きなだけ大きくなるのをほうっておくと、こうなるらしい。この季節京都の人はこういうキュウリをあんかけにして食べるのだそうです。
カボチャの冷製スープ、ディル風味。最近このディルの香りにほれ込んでいます。
ポテトサラダ
パンコントマテのトマト
グリーンサラダ
枝豆
以上でした。
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2022年08月30日
きょうの比叡・きょうの鹿
今日の(京の)比叡。
きょうは曇り。雨が降りそうで降らず(夜になって降り出しました)、ときに陽光がさし、気温は23~31℃(左京区)だったそうですが、湿度は高かったのではないかと思います。自転車で風を切って走っていても、あまり爽やかな感じはなく、ムーッとした空気感でした。
今日の(京の)鹿。
きょうはこの一頭だけ、松ヶ崎橋のすぐ下の草地でひとり草を食んでいました。昨日と同じ個体でしょう。色の関係で頭に小さな角があるようにみえるけれど、これは耳の根元のあたりの毛の色ですね。牝鹿です。みなれた顔のような気がします。
例年6月から8月が山を下りて高野川に現れる鹿さんたちで、9月に入ると2日か3日、とぎれとぎれに名残を惜しむように現れるだけで、それ以後はピタリと現れなくなって、お山での繁殖期(交尾期)に入るのだと思います。今年は珍しく5月初め(最初に見たのが4日)から毎日のように来ていましたから、いつもよろり1カ月早かったので、山へ戻るのも少し早いのかもしれません。天気が多く、川が増水しているときも多かったし、8月後半になるとめっきり群れで現われることが少なくなったように思います。
とりわけ目を楽しませてくれた今春生まれの仔鹿たちが、ピーク時の6月上旬には4頭もいて、連日楽しそうに草地を走り回る姿がみられたのに、7月に入るとめっきり少なくなり、最近ではほとんど子鹿の姿が見られません。
きょうの夕餉
宗谷牛のステーキ。突然孫が来たときなどの備えに、安い時に買って冷凍しておいた宗谷牛、ステーキがたまに食べられるのはこの安い宗谷牛のおかげ。二人分(ただしきょうはパートナーがまだ気分がすぐれず、この半分以下の大きさでしたが)で1500円ほどだそうで、外でステーキなど食べることを思えば安上がりだと。きょうのようにパートナーの体調がよくないときは簡単に準備できるので、ステーキはありがたい非常食。
カボチャの煮物
モズクきゅうり酢
グリーンサラダ
枝豆
以上でした。
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2022年08月29日
三つの列伝を読む
今日は引き続き借りて来た『史記』から、刺客列伝、呂不韋列伝、李斯列伝のみっつを読みました。刺客列伝は前にも2回くらい読んだ覚えがありますが、荊軻の話など何度読んでも面白い。
風蕭蕭として易水寒し
壮士一たび去って復た還らず
日本の大衆小説や映画(やくざ映画?)にも、そうミエを切って行った主人公はいませんでしたっけ(笑)よく知られた詞ですね。
刺客の任を果たして数十人を撃ち殺したあと、自分の素性を知られぬために、みずから顔の皮を剥ぎ、目をえぐり、腹を割いて腸をつかみ出してから息絶える聶政もまた凄まじい印象を残す刺客です。
呂不韋は千金の富を貯えた成功した大商人だったけれども、秦の昭王の太子の死によって新太子とされた安国君の寵愛深く性質となった華陽夫人に子がないことから、趙に人質として鬱々とした日々を過ごしていた安国君の次男子楚に目をつけて口説き、華陽夫人に近づいて惜しみなく珍しい品々を贈って近づき、手なづけたあげく、昭王が亡くなって安国君が王座につくと、二十余人もいる安国君の他の息子たちをさしおいて、ついに子楚を太子とすることに成功します。
子楚は呂不韋が同棲していた遊女に一目惚れして呂不韋にその女をくれと言い、呂不韋は打算から彼女を子楚に譲りますが、そのとき女は妊娠していたのを隠して子楚のところへいき、男子政(せい)を生みます。これが後の秦の始皇帝となる人だというのですから驚きです。つまり始皇帝の父は、実は呂不韋だということです。
安国君が秦王に即位して一年で亡くなると、子祖が秦王(荘襄王)となります。呂不韋はみずからも大臣となります。、太后となった華陽夫人と通じ、太后を手なずけて権勢をほしいままにします。
荘襄王は即位3年で亡くなり、太子の政が即位すると、若年の王は呂不韋を尊び、大宰相に任じ仲父と呼んで重んじます。呂不韋の家には召使が一万人もいたといいます。政の母である太后はひそかに呂不韋と通じることが多くなり、淫蕩な太后のために男をあてがったり、呂不韋は好き放題です。しかしどうもやりすぎだったとみえて、結局はそれがもとで罷免され、追い詰められて最後は毒酒を仰いで自殺します。
どうも大変な人物ですが、少しましなこともやっています。魏、楚、趙、斉にそれぞれ優れた人物がいて、それがまたすぐれた人物を尊び、食客、論客を置いて天下に聞える学説を書物にするなど、互いに競い合うのを見て、秦がそれら諸国にひけをとってはいけないと、優れた人物を招き厚遇して三千人もの食客を集め、彼らの手で天地、万物、古今の事柄を記載した『呂氏春秋』という今日まで伝わる書物を編纂させたそうです。
李斯列伝では李斯という庶民から身をおこし、始皇帝をたすけて天下統一の事業と帝国の統治に敏腕を振るった宰相の話で、いわゆる焚書坑儒を始皇帝に建議してやらせた歴史に悪名高い人物ですが、ここではわりと穏やかな書き方がしてあるので、焚書坑儒の文字通りの残虐さはみられません。ただ権力への批判を封じ、礼法制度を明確にし、法律政令を整備するといった政治を志向したことは確かなようです。
しかし始皇帝の死に際してそれを隠蔽し、匈奴防備軍として辺地にいた長子扶蘇にあてた遺言を書き換えて、扶蘇とその将軍蒙恬に死を命じ、末子胡亥を即位させるというとんでもない悪だくみを断行して一挙に中枢権力を手にする趙高にはさすがの李斯もかなわなかったようで、最後は対立して争ったあげく趙高にしてやられ、、都咸陽の市場で腰斬りの刑に処せられて死にます。
時代が時代だから、ということもありますが、いずれも波瀾万丈の人生、物語としても抜群に面白く、先日来、ちょっと項羽本紀だけ読みたいと思って借りて来た史記ですが、ついほかもあれこれ読んでいます。
きょうの比叡
きょうの鹿は一頭だけ。松ヶ崎橋のすぐ下の草地です。
正面のお顔。
きょうの夕餉
オクラとヤマノイモのだしかけ
ゴーヤとソーセージの炒め物
ニシンナス
モズクきゅうり
オニオンスライス冷奴
手羽先のから揚げ
サラダ
以上でした。
風蕭蕭として易水寒し
壮士一たび去って復た還らず
日本の大衆小説や映画(やくざ映画?)にも、そうミエを切って行った主人公はいませんでしたっけ(笑)よく知られた詞ですね。
刺客の任を果たして数十人を撃ち殺したあと、自分の素性を知られぬために、みずから顔の皮を剥ぎ、目をえぐり、腹を割いて腸をつかみ出してから息絶える聶政もまた凄まじい印象を残す刺客です。
呂不韋は千金の富を貯えた成功した大商人だったけれども、秦の昭王の太子の死によって新太子とされた安国君の寵愛深く性質となった華陽夫人に子がないことから、趙に人質として鬱々とした日々を過ごしていた安国君の次男子楚に目をつけて口説き、華陽夫人に近づいて惜しみなく珍しい品々を贈って近づき、手なづけたあげく、昭王が亡くなって安国君が王座につくと、二十余人もいる安国君の他の息子たちをさしおいて、ついに子楚を太子とすることに成功します。
子楚は呂不韋が同棲していた遊女に一目惚れして呂不韋にその女をくれと言い、呂不韋は打算から彼女を子楚に譲りますが、そのとき女は妊娠していたのを隠して子楚のところへいき、男子政(せい)を生みます。これが後の秦の始皇帝となる人だというのですから驚きです。つまり始皇帝の父は、実は呂不韋だということです。
安国君が秦王に即位して一年で亡くなると、子祖が秦王(荘襄王)となります。呂不韋はみずからも大臣となります。、太后となった華陽夫人と通じ、太后を手なずけて権勢をほしいままにします。
荘襄王は即位3年で亡くなり、太子の政が即位すると、若年の王は呂不韋を尊び、大宰相に任じ仲父と呼んで重んじます。呂不韋の家には召使が一万人もいたといいます。政の母である太后はひそかに呂不韋と通じることが多くなり、淫蕩な太后のために男をあてがったり、呂不韋は好き放題です。しかしどうもやりすぎだったとみえて、結局はそれがもとで罷免され、追い詰められて最後は毒酒を仰いで自殺します。
どうも大変な人物ですが、少しましなこともやっています。魏、楚、趙、斉にそれぞれ優れた人物がいて、それがまたすぐれた人物を尊び、食客、論客を置いて天下に聞える学説を書物にするなど、互いに競い合うのを見て、秦がそれら諸国にひけをとってはいけないと、優れた人物を招き厚遇して三千人もの食客を集め、彼らの手で天地、万物、古今の事柄を記載した『呂氏春秋』という今日まで伝わる書物を編纂させたそうです。
李斯列伝では李斯という庶民から身をおこし、始皇帝をたすけて天下統一の事業と帝国の統治に敏腕を振るった宰相の話で、いわゆる焚書坑儒を始皇帝に建議してやらせた歴史に悪名高い人物ですが、ここではわりと穏やかな書き方がしてあるので、焚書坑儒の文字通りの残虐さはみられません。ただ権力への批判を封じ、礼法制度を明確にし、法律政令を整備するといった政治を志向したことは確かなようです。
しかし始皇帝の死に際してそれを隠蔽し、匈奴防備軍として辺地にいた長子扶蘇にあてた遺言を書き換えて、扶蘇とその将軍蒙恬に死を命じ、末子胡亥を即位させるというとんでもない悪だくみを断行して一挙に中枢権力を手にする趙高にはさすがの李斯もかなわなかったようで、最後は対立して争ったあげく趙高にしてやられ、、都咸陽の市場で腰斬りの刑に処せられて死にます。
時代が時代だから、ということもありますが、いずれも波瀾万丈の人生、物語としても抜群に面白く、先日来、ちょっと項羽本紀だけ読みたいと思って借りて来た史記ですが、ついほかもあれこれ読んでいます。
きょうの比叡
きょうの鹿は一頭だけ。松ヶ崎橋のすぐ下の草地です。
正面のお顔。
きょうの夕餉
オクラとヤマノイモのだしかけ
ゴーヤとソーセージの炒め物
ニシンナス
モズクきゅうり
オニオンスライス冷奴
手羽先のから揚げ
サラダ
以上でした。
saysei at 19:39|Permalink│Comments(0)│
2022年08月28日
澄みわたる比叡の空
きょうは久しぶりの青天。比叡の山並みもくっきり。(高野橋より)
どこまでも青く澄み渡る空。自転車を走らせていると、風が爽やかでした。気温はまだ高くて暑いのは暑いけれど、空気は澄んで爽やか、もう秋です。
松ヶ崎橋から、UPで。
北山のあたりもきれいに澄んだ青い空。
今日はパートナーのご注文で、上賀茂戸田農園さんの野菜自動販売機で美味しそうな茄子をゲットしてきました。
今日姿を見せたのはいつも出没する2頭の、ともに左後脚に障害のある鹿。
こちらは左後脚の足首から下がないほうの鹿。
もう一頭の、左後脚をいつも上げている鹿。
この2頭はいつも仲良し。たいてい一緒に現れます。もう一頭、この2頭を見守る年輩の牝鹿が近くにいることもよくありますが、きょうはこの2頭以外の鹿を見つけることはできませんでした。
きょうの夕餉
茄子とレンコンのはさみ揚げ。茄子が柔らかく、素晴らしく美味しかった。きょう上賀茂の戸田農園の自動販売機でゲットしてきた4個200円の一つ一つが驚くほど大きい、パンパンに張った成熟した茄子でしたが、こうしてはさみ揚げすると、とろけるように柔らかく、茄子本来の味がにじみ出します。
茄子だけを素揚げしたものも同様に食べてみましたが、茄子ははさみ揚げのほうがおいしい。ただし、挟む具を薄くして、濃い味のものをを避けて、朝採り茄子本来の味がひきたつ工夫が必要だそうです。
レンコンのはさみ揚げを多くする予定だったらしいけれど、茄子が1個の半分を使っても左2列分あったので、レンコンのはさみ揚げは一番右の一列だけになりました。ふだんはレンコンのはさみ揚げのほうが好きなのに、きょうはレンコンのはさみあげより茄子のはさみあげのほうがずっと美味しかった。
ウオゼの煮物。まだ小さいウオゼ。でもそろそろこの魚の季節です。貝の味のする魚ですが、このサイズのせいか、きょうのウオゼは癖がなく、あっさりして美味しかった。あの癖のある貝の味も嫌いではないのですが。
キュウリとミョウガ、ショウガ、ゴマの酢の物。
スティック野菜と自家製バーニャカウダ
モロヘイヤのポン酢和え
セロリの葉のキンピラ
これはHELPで買ったダダッチャ豆で、商品として売るに耐える味でした。先日誤って生協で買った「京都産」のレッテルを仰々しく貼った枝豆は、めちゃくちゃ不味くて、とても商品として出せる代物ではなかったけれど、さすがはHELPで一応味はまともでした。ダダッチャ豆だから、原産地は山形とか秋田とか東北でしょう。
以上でした。
saysei at 18:15|Permalink│Comments(0)│
項羽本紀・高祖本紀を読む
昨日は半世紀以上前に読んで、いまだに切れ切れの印象ながら自分の内に残っていた『史記』の項羽本紀とついでに高祖本紀も府立大の図書館で借りてきて読みました。先日パートナーと食事のあとどういうきっかけでだったか話していて、もう項羽と劉邦の話に登場するのだったか、呉王闔廬&夫差と越王句践の話の中でのことだったかさえ、中国史の時代感覚がまるでないものだからごっちゃになるような有様だったので、気になっていたのです。
あらためて項羽本紀を読んでみると、これは漢文のお勉強といった話を超えて、史話として本当に面白くて一気に読めました。冒頭に描かれる、まだ何ものでもない少年時代の項羽の話からして抜群に面白い。
項籍、少き時、書を学びて成らず。去りて剣を学ぶ。又た成らず。項梁これを怒る。籍曰く、
「書は以って名姓を記すに足るのみ。剣は一人の敵なり。学に足らず。万人の敵を学ばん」と。
是に於いて、項梁、乃ち籍に兵法を教う。籍、大いに喜ぶ。略其の意を知るや、又た、肯えて学を竟えず。
(項籍は少年のころ字を学んだがものにならず、それを捨てて剣術を学んだが、またものにならなかった。項梁が怒ると、項籍は言った。「字は姓名が書けさえすれば十分です。剣術は一人を相手にするものですから、学んでも面白くありません。私は万人を相手にするものを学びたいのです」
そこで項籍は試みに兵法を教えてみた。項籍は大喜びで学んだが、今度もまた、その大略をのみ込んでしまうと、もはやその先を究めようとはしなかった。)
あらためて項羽本紀を読んでみると、これは漢文のお勉強といった話を超えて、史話として本当に面白くて一気に読めました。冒頭に描かれる、まだ何ものでもない少年時代の項羽の話からして抜群に面白い。
項籍、少き時、書を学びて成らず。去りて剣を学ぶ。又た成らず。項梁これを怒る。籍曰く、
「書は以って名姓を記すに足るのみ。剣は一人の敵なり。学に足らず。万人の敵を学ばん」と。
是に於いて、項梁、乃ち籍に兵法を教う。籍、大いに喜ぶ。略其の意を知るや、又た、肯えて学を竟えず。
(項籍は少年のころ字を学んだがものにならず、それを捨てて剣術を学んだが、またものにならなかった。項梁が怒ると、項籍は言った。「字は姓名が書けさえすれば十分です。剣術は一人を相手にするものですから、学んでも面白くありません。私は万人を相手にするものを学びたいのです」
そこで項籍は試みに兵法を教えてみた。項籍は大喜びで学んだが、今度もまた、その大略をのみ込んでしまうと、もはやその先を究めようとはしなかった。)
~『史記二』中国の古典12 学習研究社昭和59年 福島中郎訳 項羽本紀 p182)
項羽の幼いころからの性格を端的に表していて面白いと同時に、その簡潔で的確な表現に感嘆します。このすぐあとのところで、少年の日の項羽(項籍の字)が季父項梁とともに、中国を統一して絶大な権力で全土を支配する秦の始皇帝の一行が会稽郡にやってきて、浙江を渡るのを見物して、「あいつに取って代わってやる」と言って、項梁に「滅多なことを言うな。一族皆殺しだぞ」と口を押えられるシーンがありますが、それも同様です。
司馬遷は、少年の項羽が、身の丈六尺(180cm)、鼎をひとりで持ち上げるほどの力があり、才気は人並み以上に優れていた、と記しています。座学のようなカッタルイことには興味を示さなかったけれど体力・知力・胆力ともに人並外れた人物であったことが窺えます。
のちに、項羽も劉邦もともに秦に反旗を翻して戦い、秦を打ち破りながら、両雄並び立たずの喩え通り、天下を二分する竜虎の争いを繰り広げることになり、広武山で劉邦の漢軍と対峙したとき、項羽は「天下が戦乱に明け暮れ、騒然として落ち着かぬのは、ひとえに我ら二人のためだ。ひとつ漢王と一騎打ちをして、雌雄を決しよう。いたずらに天下の人民を、父も子も、ともども苦しめることは止めたいものだ」と劉備に呼びかけます。
しかし、もちろん体力では項羽に敵いっこない劉備は、笑って断り、「わしは力の戦いはごめんだ。戦うなら知恵で戦いたい」と拒絶します。
そして鎬を削る幾たびかの戦いののち、項羽を討ち滅ぼした劉備は皇帝となり、洛陽の南宮で主宴を催し、諸侯諸将軍に訊ねます。
「腹を割ってありのままの気持ちを述べてくれ。わしは何ゆえ天下を取ることができたのか、項氏は何ゆえ天下を失ったのか」
これに高起と王陵という者が答えます。
「陛下は傲慢で人をばかになさいます。項羽は情け深く、人を可愛がりました。しかし陛下は、誰かに命じて城を攻め土地を奪わせなさいましたとき、降伏させれば、その城や土地を攻撃した本人に与えて、得た利益を天下と分かち合いなさいました。ところが項羽は、優れた人物や能力あるものをねたみ憎んで、手柄を立てた者は忌み嫌い、優れた人物は疑って信じようとしませんでした。戦って勝っても、その勲功に恩賞を与えず、領地を奪っても、その地を人に分与しませんでした。これが天下を失った理由でございます」
項羽の幼いころからの性格を端的に表していて面白いと同時に、その簡潔で的確な表現に感嘆します。このすぐあとのところで、少年の日の項羽(項籍の字)が季父項梁とともに、中国を統一して絶大な権力で全土を支配する秦の始皇帝の一行が会稽郡にやってきて、浙江を渡るのを見物して、「あいつに取って代わってやる」と言って、項梁に「滅多なことを言うな。一族皆殺しだぞ」と口を押えられるシーンがありますが、それも同様です。
司馬遷は、少年の項羽が、身の丈六尺(180cm)、鼎をひとりで持ち上げるほどの力があり、才気は人並み以上に優れていた、と記しています。座学のようなカッタルイことには興味を示さなかったけれど体力・知力・胆力ともに人並外れた人物であったことが窺えます。
のちに、項羽も劉邦もともに秦に反旗を翻して戦い、秦を打ち破りながら、両雄並び立たずの喩え通り、天下を二分する竜虎の争いを繰り広げることになり、広武山で劉邦の漢軍と対峙したとき、項羽は「天下が戦乱に明け暮れ、騒然として落ち着かぬのは、ひとえに我ら二人のためだ。ひとつ漢王と一騎打ちをして、雌雄を決しよう。いたずらに天下の人民を、父も子も、ともども苦しめることは止めたいものだ」と劉備に呼びかけます。
しかし、もちろん体力では項羽に敵いっこない劉備は、笑って断り、「わしは力の戦いはごめんだ。戦うなら知恵で戦いたい」と拒絶します。
そして鎬を削る幾たびかの戦いののち、項羽を討ち滅ぼした劉備は皇帝となり、洛陽の南宮で主宴を催し、諸侯諸将軍に訊ねます。
「腹を割ってありのままの気持ちを述べてくれ。わしは何ゆえ天下を取ることができたのか、項氏は何ゆえ天下を失ったのか」
これに高起と王陵という者が答えます。
「陛下は傲慢で人をばかになさいます。項羽は情け深く、人を可愛がりました。しかし陛下は、誰かに命じて城を攻め土地を奪わせなさいましたとき、降伏させれば、その城や土地を攻撃した本人に与えて、得た利益を天下と分かち合いなさいました。ところが項羽は、優れた人物や能力あるものをねたみ憎んで、手柄を立てた者は忌み嫌い、優れた人物は疑って信じようとしませんでした。戦って勝っても、その勲功に恩賞を与えず、領地を奪っても、その地を人に分与しませんでした。これが天下を失った理由でございます」
(「高祖本紀」前掲書p328)
この答えの後半は信じるに足りないことはそれまでの項羽、劉邦の行動を見ても明らかです。項羽だけでなく、劉邦も戦果を挙げた諸侯、将軍たちに的確にそれに見合う領土を与えて来たかと言えば、しばしばそうではなく、諸侯、将軍らの不満を招き、近臣から早く領土を与えるようにせっつかれる場面が見られます。
しかし、劉邦自身の臣下が、劉邦に率直に思いを述べよと言われて「陛下は傲慢で人をばかになさいます」と述べ、ひきかえ「項羽は情け深く、人を可愛がりました」と述べていることは注目に値します。きっと項羽は「情の人」で、ものすごく残虐な覇王であったと同時に、一人の人間としての「人間味」という面では、感情の起伏のスケールも人並み外れた、大変魅力に富んだ人だったのでしょう。それに対して劉邦は冷徹にみえる「理」の人であったのかもしれません。
劉邦自身の自己評価は臣下の上述のものとはまた違っていて、さすがに己を知る将としての器をよく示しています。
「諸君は一を知っても、まだ二を知らぬ。だいたい陣営内で謀略をめぐらし、千里の彼方で勝利を収めることにかけては、わしは張良に及ばぬ。国家を安泰に保ち、人民を愛撫し、食糧を供給して兵糧輸送を途絶えさせぬことにかけては、わしは蕭何に及ばぬ。百万の大軍を連ねて、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るということにかけては、わしは韓信に及ばぬ。この三人はそれぞれ優れた人物だ。その三人をわしは十分使いこなしてきた。これが、わしが天下を取った理由だ。項羽にも范増という傑物がいたが、その一人さえ使いきれなかった。これが、あいつがわしの餌食となった理由である」
こういう人物像と互いの評価を、司馬遷はもう一段高い視点から見ていたわけで、ほんとうに感嘆するしかありません。
言うまでもなく項羽と劉邦というともに希有の人物を、その起こりから、人物の性格、ものの考え方、行動様式、戦の仕方、部下や諸侯との関わり方等々にいたるまで、意図して対照的に鮮やかに描き出しています。
「項羽本紀」の名場面を二つ挙げるなら、やはりその一つは項羽と劉備が直接出会い、言葉を交わし、一方の臣下はこの機会に劉備を殺そうとし、他方の臣下はそうはさせまいと、両者の前で剣の舞を舞い、隙を見て劉備が場を抜け出して九死に一生を得るシーン、名高い「鴻門之會」の一節でしょう。
もう一つは、申すまでもなく項羽が追い詰められて死ぬ場面です。これは高校の時に学んだ懐かしいテキストの訓みで;
項王ノ軍垓下ニ壁ス。兵少ク食盡ク。漢軍及ビ諸侯ノ兵、之ヲ圍ムコト數重ナリ。夜漢軍ノ四面皆楚歌スルヲ聞キ、項王乃チ大イニ驚イテ曰ク、「漢皆已ニ楚ヲ得タル乎。是レ何ゾ楚人之多キ也ト。」項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ、名ハ虞、常ニ幸セラレテ從フ。駿馬アリ、名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ、項王乃チ悲歌慷慨シ、自ラ詩ヲ爲ッテ曰ク、
力山ヲ抜キ氣ハ世ヲ蓋フ
時利アラズ騅逝カズ
騅逝カズ奈何ス可キ
虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何セン
歌フコト數闋、美人之ニ和ス。項王泣數行下ル。左右皆泣キ、仰ギ視ルモノ莫シ。
しかし、劉邦自身の臣下が、劉邦に率直に思いを述べよと言われて「陛下は傲慢で人をばかになさいます」と述べ、ひきかえ「項羽は情け深く、人を可愛がりました」と述べていることは注目に値します。きっと項羽は「情の人」で、ものすごく残虐な覇王であったと同時に、一人の人間としての「人間味」という面では、感情の起伏のスケールも人並み外れた、大変魅力に富んだ人だったのでしょう。それに対して劉邦は冷徹にみえる「理」の人であったのかもしれません。
劉邦自身の自己評価は臣下の上述のものとはまた違っていて、さすがに己を知る将としての器をよく示しています。
「諸君は一を知っても、まだ二を知らぬ。だいたい陣営内で謀略をめぐらし、千里の彼方で勝利を収めることにかけては、わしは張良に及ばぬ。国家を安泰に保ち、人民を愛撫し、食糧を供給して兵糧輸送を途絶えさせぬことにかけては、わしは蕭何に及ばぬ。百万の大軍を連ねて、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るということにかけては、わしは韓信に及ばぬ。この三人はそれぞれ優れた人物だ。その三人をわしは十分使いこなしてきた。これが、わしが天下を取った理由だ。項羽にも范増という傑物がいたが、その一人さえ使いきれなかった。これが、あいつがわしの餌食となった理由である」
こういう人物像と互いの評価を、司馬遷はもう一段高い視点から見ていたわけで、ほんとうに感嘆するしかありません。
言うまでもなく項羽と劉邦というともに希有の人物を、その起こりから、人物の性格、ものの考え方、行動様式、戦の仕方、部下や諸侯との関わり方等々にいたるまで、意図して対照的に鮮やかに描き出しています。
「項羽本紀」の名場面を二つ挙げるなら、やはりその一つは項羽と劉備が直接出会い、言葉を交わし、一方の臣下はこの機会に劉備を殺そうとし、他方の臣下はそうはさせまいと、両者の前で剣の舞を舞い、隙を見て劉備が場を抜け出して九死に一生を得るシーン、名高い「鴻門之會」の一節でしょう。
もう一つは、申すまでもなく項羽が追い詰められて死ぬ場面です。これは高校の時に学んだ懐かしいテキストの訓みで;
項王ノ軍垓下ニ壁ス。兵少ク食盡ク。漢軍及ビ諸侯ノ兵、之ヲ圍ムコト數重ナリ。夜漢軍ノ四面皆楚歌スルヲ聞キ、項王乃チ大イニ驚イテ曰ク、「漢皆已ニ楚ヲ得タル乎。是レ何ゾ楚人之多キ也ト。」項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ、名ハ虞、常ニ幸セラレテ從フ。駿馬アリ、名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ、項王乃チ悲歌慷慨シ、自ラ詩ヲ爲ッテ曰ク、
力山ヲ抜キ氣ハ世ヲ蓋フ
時利アラズ騅逝カズ
騅逝カズ奈何ス可キ
虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何セン
歌フコト數闋、美人之ニ和ス。項王泣數行下ル。左右皆泣キ、仰ギ視ルモノ莫シ。
(『新版精選漢文讀本巻二』昭和33年 開隆堂出版刊 塩谷温、松井武男編)
項羽の最後の描写もすさまじい光景が淡々と描かれています。
残るは28騎となった味方を4隊に分けて四方の敵に突撃して斬り分け、烏江へ出て長江へ渡ろうとしますが、待っていた船には乗らず、ここで天が定めた運命と覚悟を決めて馬を下り、部下と共に白兵戦でさらに数百の敵を殺し、自らも深手を負います。
自分を囲む敵軍の中に昔なじみの漢の騎馬隊長を認めると、漢はわしの首に千金と一万戸の領地を懸けているそうだから、お前に功徳を施してやろう、と言って自ら首をはねて死にます。王翳という者がその首を討ち取り、他の者たちは項羽の屍を奪い合って、互いに争い、「相殺す者数十人」、報奨金目当てに項羽の屍を奪い合って同士討ちで死んだ者数十人に及んだというのですね。そして、最後に5人が項羽の身体の一部分をそれぞれ手に入れたといい、「5人が獲たものを合わせると、まさしく項王に違いなかった」。そこで劉邦は懸賞の領地を五つに分けて、それぞれに与えた、とあります。
わたしたちが、シュミットのいうような、友か、敵か、という見かけに収まるような存在ではなく、埴谷がかつて語ったように、「人間というものが条件によって可変的だという認識」にしっかりと立ち、従って「一般に人間を敵として設定することが不可能であること」を深く思い知ることによって、政治そのものの死を見ることができる日が、いつか訪れるのでしょうか。項羽の最後の描写もすさまじい光景が淡々と描かれています。
残るは28騎となった味方を4隊に分けて四方の敵に突撃して斬り分け、烏江へ出て長江へ渡ろうとしますが、待っていた船には乗らず、ここで天が定めた運命と覚悟を決めて馬を下り、部下と共に白兵戦でさらに数百の敵を殺し、自らも深手を負います。
自分を囲む敵軍の中に昔なじみの漢の騎馬隊長を認めると、漢はわしの首に千金と一万戸の領地を懸けているそうだから、お前に功徳を施してやろう、と言って自ら首をはねて死にます。王翳という者がその首を討ち取り、他の者たちは項羽の屍を奪い合って、互いに争い、「相殺す者数十人」、報奨金目当てに項羽の屍を奪い合って同士討ちで死んだ者数十人に及んだというのですね。そして、最後に5人が項羽の身体の一部分をそれぞれ手に入れたといい、「5人が獲たものを合わせると、まさしく項王に違いなかった」。そこで劉邦は懸賞の領地を五つに分けて、それぞれに与えた、とあります。
もうひとつ、話として面白いのは、劉邦は諸侯の56万もの兵を率いて項羽の率いる楚を討伐するために東へ軍を進め、斉を討つために項羽が不在だった楚の都彭城にはいって酒池肉林で大騒ぎしているところへ3万の精鋭を率いて引き返した項羽にコテンパにやられて総崩れになり、十数万の兵卒が殺され、さらに南へ逃亡した兵卒十余万も 睢水の畔に追い詰められ、睢水に追い落とされて川の流れがせきとめられるほどの死者を出した場面で、折からの大風に助けられた劉邦がわずか数十騎の部下と共に命からがら西へ逃げようとして、追撃する楚の騎兵を怖れて、自らが乗っている馬車を軽くしようとして、二人の子供を突き落とすところです。
三度もそのようなことがあり、そのたびに御者をしていた夏侯嬰が車を下りて拾い上げて助け、「どんなにお気がせいたからとて、馬車をこんなにとばすなんてとんでもない。お子さまを捨ててまで」と言ったというのです。
真偽のほどはともかく、それほど劉邦の命運は危うく、危機一髪のところを九死に一生を得たのだということを実に面白く語り聞かせてくれます。精鋭3万で寄せ集めの軍とはいえ56万もの敵軍を完膚なきまで蹴散らすのだから、項羽のほうが圧倒的に戦上手だったのでしょうね。
それにしても、両本紀を読んでいてまずいたく印象づけられるのは、幾万、幾十万という兵士たちの無慙な死であり、視界の及ぶ限り累々たる屍が横たわる光景です。とりわけ項羽にいたっては、いまみたように56万もの漢軍を3万の精鋭で十余万の兵士を殺戮し、さらに逃げたのを追って、さらに十数万の兵士を睢水に追い落として、その流れが堰き止められるほど屍の山を築いたのですが、それ以前に秦を打ち破って新安に入り、秦の既に降伏していた士卒二十余万人に夜襲をかけて、新安城の南で穴埋めにして殺すという捕虜の集団虐殺をやってのけています。そのほかにも、個別的な斬殺、謀殺など数知れず、自分のために戦った諸侯、将軍でも疑心暗鬼で謀反の疑いをかければ躊躇なく殺し、敵と戦って敗れた将軍には殺して責任をとらせ、項羽を面罵するなど抵抗を露わにするような者は釜茹でにする(笑)といった有様で、何度地獄へ遣られても仕方のない所業を重ねています。
それだけ圧倒的な権力をかち得た項羽も上に見たように、末路は哀れで、愛馬は進まず、愛妾を前に、虞よ、虞よ、汝をいかんせん、と涙するありさま。こうした幾たびも数十万余の兵士や民衆の死で贖われた権力がいかに空しいものかを痛感させます。
項羽を滅ぼして天下を取った劉邦にしても、一般の歴史小説のように、そこでめでたしめでたし、とみずからが作り上げた太平の世を治めました、で終わるわけではありません。次から次へといたるところに謀反の火の手があがり、そのたびに劉邦自ら出陣しなくてはならない様子が、ひきつづき描かれているのです。
穴に埋めて殺す(つまりは生き埋めにする、ってことでしょう)のは項羽の敵捕虜への一般的な扱いだったようです。そういう場面を読むと、いまウクライナへ侵攻したロシアがやている蛮行を連想してしまいます。縛られテープを巻かれた無抵抗の捕虜を拷問し、最後は射殺したり、ひょっとしたら生きたまま穴へ放り込んで証拠隠滅で埋めてしまう、ということは、いまもロシア兵がウクライナのどこかでやっているのかもしれません。
項羽と劉邦が争ったのは紀元前205年から前202年のことらしいので、きりのいい言い方をすると、だいたい2222年ほど前のことだと言ってもいいでしょう。その間、文明は進歩しても、人間の本性というのか赤裸々な姿をみせるときの人間性というのはほとんど進歩していないようです。
戦争というのも広義の「交通」の一種であり、また「政治」の一環であり延長にすぎない、といわれます。つまり人間にとっては例外的な振る舞いとは言えないものなのでしょう。
物事を動き(運動)において見るか静止した姿において見るかで、ずいぶん考え方は変わってしまいます。平和を常態とみる目からは戦争は非常であり例外的なものですが、生まれたときから戦火のもとで育ってきたという人間なら、或いは戦争を常態とみて、平和を例外的なものとみるかもしれません。
最近しばしば、ナチズムに加担した思想家カール・シュミットに言及した書き物が目に触れることが多いような気がします。それは世界的なリベラリズムの凋落と軌を一にした現象かもしれません。
彼の有名な「政治的なるものの概念」の冒頭にはこう記されています。
三度もそのようなことがあり、そのたびに御者をしていた夏侯嬰が車を下りて拾い上げて助け、「どんなにお気がせいたからとて、馬車をこんなにとばすなんてとんでもない。お子さまを捨ててまで」と言ったというのです。
真偽のほどはともかく、それほど劉邦の命運は危うく、危機一髪のところを九死に一生を得たのだということを実に面白く語り聞かせてくれます。精鋭3万で寄せ集めの軍とはいえ56万もの敵軍を完膚なきまで蹴散らすのだから、項羽のほうが圧倒的に戦上手だったのでしょうね。
それにしても、両本紀を読んでいてまずいたく印象づけられるのは、幾万、幾十万という兵士たちの無慙な死であり、視界の及ぶ限り累々たる屍が横たわる光景です。とりわけ項羽にいたっては、いまみたように56万もの漢軍を3万の精鋭で十余万の兵士を殺戮し、さらに逃げたのを追って、さらに十数万の兵士を睢水に追い落として、その流れが堰き止められるほど屍の山を築いたのですが、それ以前に秦を打ち破って新安に入り、秦の既に降伏していた士卒二十余万人に夜襲をかけて、新安城の南で穴埋めにして殺すという捕虜の集団虐殺をやってのけています。そのほかにも、個別的な斬殺、謀殺など数知れず、自分のために戦った諸侯、将軍でも疑心暗鬼で謀反の疑いをかければ躊躇なく殺し、敵と戦って敗れた将軍には殺して責任をとらせ、項羽を面罵するなど抵抗を露わにするような者は釜茹でにする(笑)といった有様で、何度地獄へ遣られても仕方のない所業を重ねています。
それだけ圧倒的な権力をかち得た項羽も上に見たように、末路は哀れで、愛馬は進まず、愛妾を前に、虞よ、虞よ、汝をいかんせん、と涙するありさま。こうした幾たびも数十万余の兵士や民衆の死で贖われた権力がいかに空しいものかを痛感させます。
項羽を滅ぼして天下を取った劉邦にしても、一般の歴史小説のように、そこでめでたしめでたし、とみずからが作り上げた太平の世を治めました、で終わるわけではありません。次から次へといたるところに謀反の火の手があがり、そのたびに劉邦自ら出陣しなくてはならない様子が、ひきつづき描かれているのです。
穴に埋めて殺す(つまりは生き埋めにする、ってことでしょう)のは項羽の敵捕虜への一般的な扱いだったようです。そういう場面を読むと、いまウクライナへ侵攻したロシアがやている蛮行を連想してしまいます。縛られテープを巻かれた無抵抗の捕虜を拷問し、最後は射殺したり、ひょっとしたら生きたまま穴へ放り込んで証拠隠滅で埋めてしまう、ということは、いまもロシア兵がウクライナのどこかでやっているのかもしれません。
項羽と劉邦が争ったのは紀元前205年から前202年のことらしいので、きりのいい言い方をすると、だいたい2222年ほど前のことだと言ってもいいでしょう。その間、文明は進歩しても、人間の本性というのか赤裸々な姿をみせるときの人間性というのはほとんど進歩していないようです。
戦争というのも広義の「交通」の一種であり、また「政治」の一環であり延長にすぎない、といわれます。つまり人間にとっては例外的な振る舞いとは言えないものなのでしょう。
物事を動き(運動)において見るか静止した姿において見るかで、ずいぶん考え方は変わってしまいます。平和を常態とみる目からは戦争は非常であり例外的なものですが、生まれたときから戦火のもとで育ってきたという人間なら、或いは戦争を常態とみて、平和を例外的なものとみるかもしれません。
最近しばしば、ナチズムに加担した思想家カール・シュミットに言及した書き物が目に触れることが多いような気がします。それは世界的なリベラリズムの凋落と軌を一にした現象かもしれません。
彼の有名な「政治的なるものの概念」の冒頭にはこう記されています。
政治に固有なる区別は、敵、味方という区別である。この区別は、人間の行為と動機に政治的意味を付与するものである。すべての政治的行為や動機は、結局においてかかる区別に帰せしめられる。(清水幾太郎訳「政治的なるものの概念」『政治の本質』中公文庫プレミアム所収)
彼の言葉を読むといつも、学生時代に愛読した埴谷雄高の『幻視の中の政治』の冒頭に記された次のような言葉を思い出します。
政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない。一瞬の死が百年の生を脅し得る秘密を知って以来、数千年にわたって、嘗て一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手放したことはない。
*
政治の裸にされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになっているのであって、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも熱烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。
政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない。一瞬の死が百年の生を脅し得る秘密を知って以来、数千年にわたって、嘗て一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手放したことはない。
*
政治の裸にされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになっているのであって、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも熱烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。
(埴谷雄高『幻視のなかの政治』1963年 未来社刊)
saysei at 12:06|Permalink│Comments(0)│