2022年07月
2022年07月31日
梅干し100個ようやく干せた!
きょうは最高気温37℃だとかで、ものすごく強烈な日差し。
待っていました!と、先日からうずうずしながら天気予報をながめて、3日連続でカァーッと日照りが続く日がないかと待っていたパートナー、早速梅干を大型の四角い瓶から取り出して、大型の笊の上に一粒一粒お箸でつまんで並べました。しめておよそ100個。
こんな具合に午後は雲も多かったけれど、確かに強烈に暑い日でした。もちろん高野川に鹿さんの姿はありませんでした。
こんな暑いときでも毎日上賀茂へ自転車で行ってるの?と昨日夕食のときに長男に訊かれました。ぼくでもしんどいのに、と。私の場合は上がり勾配の少ない比較的平坦な道をゆっくり走る分には、歩くのに比べて自転車はむしろ楽です。暑いことは暑いけれど、帽子をかぶり、半袖に半パン、マスクはしないで、鞄には水筒を用意して万全を期するので、毎日のことなので、慣れた道でもあるし、なるべく楽な道をいくせいもあって、そうしんどいという感じはありません。ふくらはぎに筋肉もついてきたし、腰や脚のリハビリだと思って行っています。
上賀茂にいくつもの野菜自動販売機があって、きょうはどんなものがあるかと覗くのもひとつの楽しみだし、鹿が出ているかどうかという期待もあり、意外な野菜が買えてパートナーが喜んでくれたり、仔鹿が可愛い姿を見せてくれたりすると元気百倍です。
きょうの夕餉
鶏と根菜のスープ煮
牛肉、ナス、万願寺唐辛子の味噌炒め。大葉とレタスに巻いていただきます。
ゴーヤチャンプルー。
オクラのから揚げ。自動販売機で誤ってオクラをたくさん買ってしまったので、今日は珍しいオクラのから揚げ。ちょっと微妙な味でしたが、パンコントマテの残ったトマトをつけて食べると、けっこういけました。
これがそのパンコントマテのトマト。トマトは万能です。
モズクきゅうり酢
グリーンサラダ
ぬか漬け
枝豆。先日、上賀茂のなかむらで買ってきた枝豆があまりにも不味かったので、新しく買ってくれたの?と言ったら、ううん、こないだのよ(> <)
だってもったいないじゃない・・・とのこと。やれやれ・・・
仕方がないので、きょうも貴重なたんぱく源だと思い、健康保健薬だと思って食べました。でも不味い!!こんなに不味くて、自動販売機で買うよりずっと値段の高い枝豆を売るなんて、上賀茂の「なかむら」もjひどい。二度とあそこで枝豆は買いません。
きょうは古今集を読まずにニーチェを齧っていました。フーコーの権力論は明らかにニーチェの権力論の深い影響を被っているなぁ、言葉遣いもそれを繰り出す呼吸もそっくりだなぁ、などと思いながら。
saysei at 20:41|Permalink│Comments(0)│
間質性肺炎の3年あるいは11年
以前には「半知の医」と称して、自分の病状や受けている治療、医師の判断など包み隠さず書きながら、同時にいまの医療への疑問などもコメントして間歇的にこのブログに連載してきたのですが、素人の目で今持っている情報や知識で語れることの限界も感じ、また自分の病状についてもレントゲンやCTの画像までいつまでも出しておくのもどうかと思って、とりあえずアップロードしたのを取り下げて、いずれ医療については思想的な観点から、それこそヒポクラテスあたりからじっくり考えてみたいと思っていたので、定期検査に行ったときに、日記としてそのことを書くにとどめてきました。
比較的急な肺の炎症が起き、咳が激しくなり、レントゲンをとれば肺が真っ白、という状態になって入院し、ステロイド療法を始めてからでもすでにまる三年が経ち、四年目に入っています。
当時ウェブサイトで日米の医療専門家の特発性間質性肺炎についての記述を見ると、余命などという言い方をしている専門家は当時も多くはなかったけれど、そうした予後についての記述を年数で明確に述べた論文をみると、大抵が1年から最長5年、平均すると3年という記述が判で押したように見られたものです。そうか、おれの余命も3年か、というのが当時思ったことで、早速終活にとりかかったおぼえがあります。
もちろん、特にまだ日本ではあまり一般に広く知られた病気でもなく、受診して治療したりして予後まで確認したようなサンプル自体が統計学的に有意な結論を導けるほど多くは無かったでしょうし、幾分かデータが多そうな米国の論文の記述などがモデルになって、余命平均3年程度、長くてせいぜい5年といった、或る種のスタンダードな記述ができあがっていたんだろうという気はしました。
いまも手許に残している本間行彦氏の『特発性間質性肺炎(IIP)のすべて』(2017年初版)には、「本症のこれまでの予後(50%生存)は、欧米では2.5~3.5年、わが国でも3~5年であることは広く知られている。これは現在も変わっていない。」(p10「IIPの予後はいまだに3~5年なのか」)と書かれています。
間質性肺炎と言っても、どうやら色々あるらしくて、そのそれぞれによって病の性質がずいぶん異なり、ステロイドが一定の効果を持つらしいものも、一向に効果がみられないものもあり、予後も大きな開きがあって、一概には言えないぜ、というのが素人にも分かるような状況に、ちょうどなろうとしている時期だったのではないかと思います。
比較的新しい、2,3年以内に出版された間質性肺炎についての専門家の解説を読むと、特発性間質性肺炎にも7種類あって・・・というふうなことが分かって来て、そのうち一番新しい種類などは、いまだに和名がつけられていないほど医療関係者にとっても、その病態がようやく他と区別できる程度にまでわかってきたという段階で、膠原病の一種と考えられるものなどを除外すれば、特発性と冠せられる間質性肺炎の多くについては、いまだ原因もその発生の機序も定かではなく、病の本質が未だ専門家にもとらえられるに至らず、従ってまた、病の本質に即した根本的な治療法も不明のまま、対症療法的な経験が積み重ねられているにすぎない、ということが素人なりによくわかりました。
あれから4年目のいまも、もちろん圧倒的に多くのデータが蓄積され、かなり突っ込んだ知見が得られてきてはいるでしょうが、病の本質についてはいまだ不明、あるいは専門家によって様々な意見があって定説として専門家の間で共有され、従って治療に間違いなく結びつく、といったところまでは来ていないでしょう。というよりも、特発性間質性肺炎と呼ばれ、一括されてきたものがかなり幅の広い、異なる病態を含んでいて、その病の本質や発生の機序に関しても、一律にこうでござい、と明らかにできるようなものではないことが分かって来た、というのが本当のところではないでしょうか。
それは癌などでも同様で、その発生の機序も治療法もまるで異なるほど幅広い病態を含んだ名称であって、昔素人が夢想していたように、「癌を直す薬を発明した人はノーベル賞確実だろうね」なんていう冗談で考えられていたような、それを呑めば一発であらゆる癌を直すような薬なんてものがもともとありえないのと同様に、間質性肺炎もまた、幅広い異なる病態に即してその病の本質を極め、それに即した異なる対応を探究していくほかに術がないのだろうと思います。
特発性間質性肺炎で一番多い肺線維症は一般的にはステロイドも効果がないようですが、効果のある病態もあるようです。私の場合は、好酸球性肺炎または器質化肺炎(肺の組織を切り取って確認する生検はリスクが高いので実施していないため、正確な病態を確認できず、肺洗浄による排出液を分析して好酸球やリンパ球の比率が高いといったことで推定しているだけ)と、まだ和名のついていないPPFE(胸膜・肺・弾性繊維症)を併発している状態で、前者にはどうやらステロイドが一定の抑止効果があるようですが、後者には有効な治療薬、抑止効果をもつ薬剤や処置はなく、両肺の上部が縮み、X線画像やCT画像を見ると辺縁部一帯が白く繊維化しています。この場合の繊維化の繊維は肺の下部の硬質の繊維化とは異なり、弾力性の高い繊維に変わるらしく、だから弾性繊維症と言われているようです。
この両方を併発している場合は、IIPよりも予後が悪いと書いている論文もありましたが、幸い今のところ私は、そうした診断がはっきりと下されてから4年目にはいっても、急速な病状の進行はみられず、担当医は、長期的に年単位でみるとわずかに進んではいるが、その進行は非常に緩慢だと言っています。もちろん、コロナだのインフルエンザだのといった何かの外在的なきっかけで急性増悪が起きていっぺんに悪化して死んでしまうというリスクは常にあるわけだし、緩慢な進行がいつ速度を速めるかも専門家にとってさえ未知数なので、予断を許さないことは確かですが。
それに、私の考えでは、私にはもともと母からの遺伝で体質的に肺の形状に問題があって、肺胞の一部が膜の薄い風船のように弱く、細胞列からはみ出していて、そこに結核菌が棲みついたり(母やその姉妹の多くが肺結核にかかり、多くが亡くなっている)、私のように気胸を起こしたりするようで、私も若い頃に何度か特発性気胸を起こしたのですが、いま罹っているPPFEは肺の上部の間質の組織が繊維化するわけで、いわばその辺がボロボロになるわけですから、気胸を起こしやすいらしいのです。実際、私も一昨年でしたか、三十代から起こしていなかった特発性気胸を突然起こして肺が外に漏れた空気で圧迫されて小さくなってしまい、入院して管を入れて漏れた空気を抜いたことがあります。
まあこんなふうに色々心配すればきりのないことが、実際に色々起きたりもしますが、基本的な間質性肺炎の悪化が緩慢なことだけは救いです。咳がひどく、肺が真っ白になって、大学病院で確定的な判断をうけ、ステロイド療法を開始したのは丸3年前でもう4年目にはいりましたが、その最初の入院のときの検査で言われたのは、それよりさらに以前、2011年4月に肺炎を起こして抗生物質を服用しておさまった時点で撮った胸部X線画像を見ると、既にそのとき肺が少し縮んでいて、もう特発性間質性肺炎が発症していたと考えられる、ということでした。
そうすると、咳がひどくなり、X線画像が真っ白になって大学病院で確定診断を受けた2019年4月の時点で、すでに発病からまる8年を経過しており、最初から数えると現在はすでにまる11年間を経ていることになります。
何が真実かは素人の私にはうまく判断できませんが、確かに2011年満65歳と7カ月のときにかかった肺炎のときに、検査結果をみて診断してくれたバプテスト病院の内科医は、可能性として①細菌性肺炎と②異型肺炎のふたつがあり、①はX線画像で一、二カ所に限定して濃い部分があらわれるが、②はskip lesion(飛び石病変)と言って、影が散在していて、淡い。ほかに②にはアレルギー性肺炎もあって、これは特別むずかしい。肺胞上皮腫瘍というのもあるが、CRP値が上がらないので、それはないだろう。そうすると、「好酸球性肺炎」か「器質化肺炎」の可能性が高い、・・・・
そのころ私は肺炎の知識は皆無で、好酸球性肺炎とか器質化肺炎と言われても、それが特発性間質性肺炎というものの病態の一つだなどということは思いもよらず、医師もたしか間質性肺炎という名称は使わなかったので、もしそう言っていれば私の両親も最後はそれで亡くなっているので、あああれか、と気づいたのでしょうが、そのときは抗生物質が効いて、入院もせず連休がすぐあとに来たので、仕事に行かずに済み、自宅でぶらぶらしていて治ってしまったため、一過性の肺炎だとばかり思っていました。
しかし今思えばあの時診察してくれた医師(陣内牧子医師)は、たぶん京大からきていたのでしょうが、非常に的確な診断をしていたんだな、と思わずにはいられません。たった一度みてもらっただけで、次に行ったときは男性の年長の医師で、「私なら入院させた」と言っていましたが、彼もそれが間質性肺炎だなどとは教えてくれなかったので、私は一過性の肺炎だとばかり思っていました。仕事のほうに気が行っていて、自分の診断名をネットで検索してみることさえしなかったのです。
あのころからいまの間質性肺炎に罹っていたのだとすれば、たしかに発症から11年をかけて、ゆっくりと進行してきということになります。
「風邪をこじらせて肺炎を起こした」としか思っていなかった11年前の、実は特発性間質性肺炎の発症からこれまでで、発症時の肺炎のときを除いて、一番激しい症状が出たのは、4年ほど前で、その暮れだったでしょう。
学生時代の親しい友人がそれまで勤務してきた公的な機関を退職するのに、それまで転職してきた際も周囲の勧める退職記念行事を断って来たため、最後にきちんとやろうと本人が意識して盛大な行事をやったことがあって、それに出かけたときのことです。
考えてみればものすごく豪華なフルコースの料理が出され、そのあとの二次会も、地元のとれたての新鮮な魚介類の豪勢なのが出たのに、私はそのころまだ自分で気づいていなかったけれど、完全な味覚障害になっていて、味がさっぱりわからなかったのです。しかも寒い季節でもあったけれど、立て続けに激しい咳が出て咳き込んでいたのですが、自分の病が深刻化しつつあることにはまだ気づかず、風邪をひきかけているくらいに思っていました。
そのあとどうにも息苦しく、咳がとまらないので、定期的に検査に通っていたバプテスト病院へ行って検査すると、肺は真っ白で、内科ではあるけれど間質性肺炎の専門医ではない担当医がすぐに大学病院の専門医に手紙を書いてくれて、連絡しておくから、ということでいまかかっている大学病院の専門医のところで検査することになったというわけです。
そのときに肺の内視鏡検査や肺洗浄をして、はじめて比較的確度の高い現在の診断名が下され、入院してステロイド療法を始めることにもなったわけで、それが現在まで継続しています。
私の場合は、自分がうかつだったにもかかわらず、病の種類がステロイドで抑えることができない肺線維症のタイプではなく、進行も極めて緩慢な病態であったことから、明確な診断からでも丸3年、最初の発病からだと11年経って、まだ生きていられるのは、まことに幸運なことだと言わなくてはならないでしょう。
発病の原因や機序は例によってこの病に関してはわからないわけですが、素人なりに考えてみると、もともと母方の系統の体質的に弱い肺の遺伝的資質をうけついでいた、ということはあると思います。そうでなければ、若いころから三十代まで何度も原因不明の特発性気胸を起こしたりしないでしょうし、いくら抗生物質が使えなかった昔のこととはいえ、母の兄弟姉妹12人のうち半数が肺結核で亡くなることも、なかったでしょう。また私の両親が最後は二人とも間質性肺炎で亡くなるということもなかったでしょう。
しかし、おそらくそれだけではなく、私が若い頃から、かなり自分のそういう強くもない身体にもかかわらず、健康にも無頓着で、割合いいかげんな生活、食生活や睡眠時間、規則的な生活といったことにまるで配慮せず、飲めない酒を飲み、タバコも一時はかなりのヘビースモーカーだったし、ろくなことはしてこなかったのです。
それでいて体質が弱いから、年に一度はひどい風邪を引きこんで、仕事を1週間休むようなことも年中行事でした。とくに喉をやられると、ただちに気管支までおりてくるのがお決まりで、最後はゴホゴホ咳き込んで、抗生物質のお世話になる内科病院の常連でした。
おそらくそういう風邪を引きこむ機会ごとに、私の肺は傷つき、そこかしこが傷んでいたのでしょう。症状が回復すれば治った、と思い、若い頃は実際に回復もしていたのでしょうが、歳をとるにつれてだんだん回復できなくなって、肺の間質細胞が傷つき、やがて回復できずに繊維化するなどして機能停止していく部分がそこかしこにできていたのでしょう。
そういったことが重なっても人間には適応力があるから、なんとか肺は機能しつづけ、酸素を取り込んでとくに不自由を感じないで済んでいたのでしょうが、それが臨界点に達して、酸素交換に支障をきたすほど損傷が増え、繊維化が進み、或る時に炎症を起こして呼吸が苦しくなってはじめて病院へ検査にいって、発症が確認された、ということにすぎないのでしょう。
細胞レベルでの発祥の機序はもちろん素人の私には分からないけれど、もっと巨視的、長期的な視点に立って、間質性肺炎に罹る原因を問えば、素人の私にも、そんなふうに納得がいくような気がするのです。
いまの私の肺はいわば小康状態をつづけているようで、咳も相当ひどかったころに比べると、とても少なくなりました。椎間板ヘルニアを患っているので、いまは少し咳いても脚の神経の先までビンビン響いてひどく痛むので、咳はぜったいに出てほしくないため、ほとんど咳の出ない今は大変ありがたいのです。それでも、何かちょっとした煙やにおい、埃の類を吸い込んだり、鼻を刺激されたりすると、とたんに咳が出るので、いつでも咳が出やすい、気管の入口付近の皮膚が荒れた状態になっているらしいことは見当がつきます。
それでも1.2年前まではよく咳が出ました。ちょっとした動作で息が切れるのもこの病の特徴ですが、それもいまのところまずまずそれほど不便を感じずに日常生活が過ごせる程度におさまっています。或いはステロイドの抑制効果が効いているのかもしれません。
肺のX線画像を見ると、昨日書いたように、やはり以前のものと比べると白い部分、うすぼんやりとした白い影の部分が僅かなりとジワリと広がっているように、素人目にも感じられ、いくら咳が出なくなり、日常生活の動作くらいには慣れても、病は着実に進行しているんだな、というのが実感ですが、それでも進行が緩やかである、ということは何よりの救いです。
体温や血中酸素濃度は毎日計測していますが、酸素濃度が以前は97,98、日によっては100を(一時的にであれ)示すことがあったのですが、最近は95-96のあたりのせめぎあい、といったところで、一時的にも97を示すことは稀になってきました。
逆に94-95からしばらく動かないので、なにかあったかな、とわざわざ深呼吸して肺に酸素を出来るだけ送り込んで数値が変わるのを待つ、というようなこともちょくちょくあります。
特に自分で変わったことがあるように思えないので、毎日の計測値をそういちいち気に掛けることはない、と割り切るようにはしていますが、こうして数値で示されると多少気になるのも事実です。
パートナーもふだんはさりげなく、明るくふるまっているけれど、それでも毎日、きょうはどうだった?と血中酸素量の数値に異常がないか確認するので、いつでも、なにか起きるのではないか、という緊張をどこかでずっと保っているのだろうと思います。
だから、なにか気持ちの行き違いがあったりすると、突然エアポケットに落ち込んだかのように、一気にもうこんな毎日はいやだ、というところへ行ってしまう不安定なところがなきにしもあらずです。なかなか難しいものです。
そんな中で毎週末、長男が来てくれてわが家で会食したり、ごくたまに孫や次男がお米をとりにきたり、鍵を貸してとやってきたり、偶然に顔を見せるようなとき、パートナーはとても嬉しそうです。
ほんのちょっとしたそういう機会でも日常にかけがえのない喜びをもたらす瞬間になるようです。仲の良いお友達と会う機会も、コロナの感染拡大がおさまらないので、私のこともあって、みずから中止したままなので、これも早く心配のない状態になれば再開できて気が晴れる機会になると思うのですが、まだ当分時間がかかりそうです。
比較的急な肺の炎症が起き、咳が激しくなり、レントゲンをとれば肺が真っ白、という状態になって入院し、ステロイド療法を始めてからでもすでにまる三年が経ち、四年目に入っています。
当時ウェブサイトで日米の医療専門家の特発性間質性肺炎についての記述を見ると、余命などという言い方をしている専門家は当時も多くはなかったけれど、そうした予後についての記述を年数で明確に述べた論文をみると、大抵が1年から最長5年、平均すると3年という記述が判で押したように見られたものです。そうか、おれの余命も3年か、というのが当時思ったことで、早速終活にとりかかったおぼえがあります。
もちろん、特にまだ日本ではあまり一般に広く知られた病気でもなく、受診して治療したりして予後まで確認したようなサンプル自体が統計学的に有意な結論を導けるほど多くは無かったでしょうし、幾分かデータが多そうな米国の論文の記述などがモデルになって、余命平均3年程度、長くてせいぜい5年といった、或る種のスタンダードな記述ができあがっていたんだろうという気はしました。
いまも手許に残している本間行彦氏の『特発性間質性肺炎(IIP)のすべて』(2017年初版)には、「本症のこれまでの予後(50%生存)は、欧米では2.5~3.5年、わが国でも3~5年であることは広く知られている。これは現在も変わっていない。」(p10「IIPの予後はいまだに3~5年なのか」)と書かれています。
間質性肺炎と言っても、どうやら色々あるらしくて、そのそれぞれによって病の性質がずいぶん異なり、ステロイドが一定の効果を持つらしいものも、一向に効果がみられないものもあり、予後も大きな開きがあって、一概には言えないぜ、というのが素人にも分かるような状況に、ちょうどなろうとしている時期だったのではないかと思います。
比較的新しい、2,3年以内に出版された間質性肺炎についての専門家の解説を読むと、特発性間質性肺炎にも7種類あって・・・というふうなことが分かって来て、そのうち一番新しい種類などは、いまだに和名がつけられていないほど医療関係者にとっても、その病態がようやく他と区別できる程度にまでわかってきたという段階で、膠原病の一種と考えられるものなどを除外すれば、特発性と冠せられる間質性肺炎の多くについては、いまだ原因もその発生の機序も定かではなく、病の本質が未だ専門家にもとらえられるに至らず、従ってまた、病の本質に即した根本的な治療法も不明のまま、対症療法的な経験が積み重ねられているにすぎない、ということが素人なりによくわかりました。
あれから4年目のいまも、もちろん圧倒的に多くのデータが蓄積され、かなり突っ込んだ知見が得られてきてはいるでしょうが、病の本質についてはいまだ不明、あるいは専門家によって様々な意見があって定説として専門家の間で共有され、従って治療に間違いなく結びつく、といったところまでは来ていないでしょう。というよりも、特発性間質性肺炎と呼ばれ、一括されてきたものがかなり幅の広い、異なる病態を含んでいて、その病の本質や発生の機序に関しても、一律にこうでござい、と明らかにできるようなものではないことが分かって来た、というのが本当のところではないでしょうか。
それは癌などでも同様で、その発生の機序も治療法もまるで異なるほど幅広い病態を含んだ名称であって、昔素人が夢想していたように、「癌を直す薬を発明した人はノーベル賞確実だろうね」なんていう冗談で考えられていたような、それを呑めば一発であらゆる癌を直すような薬なんてものがもともとありえないのと同様に、間質性肺炎もまた、幅広い異なる病態に即してその病の本質を極め、それに即した異なる対応を探究していくほかに術がないのだろうと思います。
特発性間質性肺炎で一番多い肺線維症は一般的にはステロイドも効果がないようですが、効果のある病態もあるようです。私の場合は、好酸球性肺炎または器質化肺炎(肺の組織を切り取って確認する生検はリスクが高いので実施していないため、正確な病態を確認できず、肺洗浄による排出液を分析して好酸球やリンパ球の比率が高いといったことで推定しているだけ)と、まだ和名のついていないPPFE(胸膜・肺・弾性繊維症)を併発している状態で、前者にはどうやらステロイドが一定の抑止効果があるようですが、後者には有効な治療薬、抑止効果をもつ薬剤や処置はなく、両肺の上部が縮み、X線画像やCT画像を見ると辺縁部一帯が白く繊維化しています。この場合の繊維化の繊維は肺の下部の硬質の繊維化とは異なり、弾力性の高い繊維に変わるらしく、だから弾性繊維症と言われているようです。
この両方を併発している場合は、IIPよりも予後が悪いと書いている論文もありましたが、幸い今のところ私は、そうした診断がはっきりと下されてから4年目にはいっても、急速な病状の進行はみられず、担当医は、長期的に年単位でみるとわずかに進んではいるが、その進行は非常に緩慢だと言っています。もちろん、コロナだのインフルエンザだのといった何かの外在的なきっかけで急性増悪が起きていっぺんに悪化して死んでしまうというリスクは常にあるわけだし、緩慢な進行がいつ速度を速めるかも専門家にとってさえ未知数なので、予断を許さないことは確かですが。
それに、私の考えでは、私にはもともと母からの遺伝で体質的に肺の形状に問題があって、肺胞の一部が膜の薄い風船のように弱く、細胞列からはみ出していて、そこに結核菌が棲みついたり(母やその姉妹の多くが肺結核にかかり、多くが亡くなっている)、私のように気胸を起こしたりするようで、私も若い頃に何度か特発性気胸を起こしたのですが、いま罹っているPPFEは肺の上部の間質の組織が繊維化するわけで、いわばその辺がボロボロになるわけですから、気胸を起こしやすいらしいのです。実際、私も一昨年でしたか、三十代から起こしていなかった特発性気胸を突然起こして肺が外に漏れた空気で圧迫されて小さくなってしまい、入院して管を入れて漏れた空気を抜いたことがあります。
まあこんなふうに色々心配すればきりのないことが、実際に色々起きたりもしますが、基本的な間質性肺炎の悪化が緩慢なことだけは救いです。咳がひどく、肺が真っ白になって、大学病院で確定的な判断をうけ、ステロイド療法を開始したのは丸3年前でもう4年目にはいりましたが、その最初の入院のときの検査で言われたのは、それよりさらに以前、2011年4月に肺炎を起こして抗生物質を服用しておさまった時点で撮った胸部X線画像を見ると、既にそのとき肺が少し縮んでいて、もう特発性間質性肺炎が発症していたと考えられる、ということでした。
そうすると、咳がひどくなり、X線画像が真っ白になって大学病院で確定診断を受けた2019年4月の時点で、すでに発病からまる8年を経過しており、最初から数えると現在はすでにまる11年間を経ていることになります。
何が真実かは素人の私にはうまく判断できませんが、確かに2011年満65歳と7カ月のときにかかった肺炎のときに、検査結果をみて診断してくれたバプテスト病院の内科医は、可能性として①細菌性肺炎と②異型肺炎のふたつがあり、①はX線画像で一、二カ所に限定して濃い部分があらわれるが、②はskip lesion(飛び石病変)と言って、影が散在していて、淡い。ほかに②にはアレルギー性肺炎もあって、これは特別むずかしい。肺胞上皮腫瘍というのもあるが、CRP値が上がらないので、それはないだろう。そうすると、「好酸球性肺炎」か「器質化肺炎」の可能性が高い、・・・・
そのころ私は肺炎の知識は皆無で、好酸球性肺炎とか器質化肺炎と言われても、それが特発性間質性肺炎というものの病態の一つだなどということは思いもよらず、医師もたしか間質性肺炎という名称は使わなかったので、もしそう言っていれば私の両親も最後はそれで亡くなっているので、あああれか、と気づいたのでしょうが、そのときは抗生物質が効いて、入院もせず連休がすぐあとに来たので、仕事に行かずに済み、自宅でぶらぶらしていて治ってしまったため、一過性の肺炎だとばかり思っていました。
しかし今思えばあの時診察してくれた医師(陣内牧子医師)は、たぶん京大からきていたのでしょうが、非常に的確な診断をしていたんだな、と思わずにはいられません。たった一度みてもらっただけで、次に行ったときは男性の年長の医師で、「私なら入院させた」と言っていましたが、彼もそれが間質性肺炎だなどとは教えてくれなかったので、私は一過性の肺炎だとばかり思っていました。仕事のほうに気が行っていて、自分の診断名をネットで検索してみることさえしなかったのです。
あのころからいまの間質性肺炎に罹っていたのだとすれば、たしかに発症から11年をかけて、ゆっくりと進行してきということになります。
「風邪をこじらせて肺炎を起こした」としか思っていなかった11年前の、実は特発性間質性肺炎の発症からこれまでで、発症時の肺炎のときを除いて、一番激しい症状が出たのは、4年ほど前で、その暮れだったでしょう。
学生時代の親しい友人がそれまで勤務してきた公的な機関を退職するのに、それまで転職してきた際も周囲の勧める退職記念行事を断って来たため、最後にきちんとやろうと本人が意識して盛大な行事をやったことがあって、それに出かけたときのことです。
考えてみればものすごく豪華なフルコースの料理が出され、そのあとの二次会も、地元のとれたての新鮮な魚介類の豪勢なのが出たのに、私はそのころまだ自分で気づいていなかったけれど、完全な味覚障害になっていて、味がさっぱりわからなかったのです。しかも寒い季節でもあったけれど、立て続けに激しい咳が出て咳き込んでいたのですが、自分の病が深刻化しつつあることにはまだ気づかず、風邪をひきかけているくらいに思っていました。
そのあとどうにも息苦しく、咳がとまらないので、定期的に検査に通っていたバプテスト病院へ行って検査すると、肺は真っ白で、内科ではあるけれど間質性肺炎の専門医ではない担当医がすぐに大学病院の専門医に手紙を書いてくれて、連絡しておくから、ということでいまかかっている大学病院の専門医のところで検査することになったというわけです。
そのときに肺の内視鏡検査や肺洗浄をして、はじめて比較的確度の高い現在の診断名が下され、入院してステロイド療法を始めることにもなったわけで、それが現在まで継続しています。
私の場合は、自分がうかつだったにもかかわらず、病の種類がステロイドで抑えることができない肺線維症のタイプではなく、進行も極めて緩慢な病態であったことから、明確な診断からでも丸3年、最初の発病からだと11年経って、まだ生きていられるのは、まことに幸運なことだと言わなくてはならないでしょう。
発病の原因や機序は例によってこの病に関してはわからないわけですが、素人なりに考えてみると、もともと母方の系統の体質的に弱い肺の遺伝的資質をうけついでいた、ということはあると思います。そうでなければ、若いころから三十代まで何度も原因不明の特発性気胸を起こしたりしないでしょうし、いくら抗生物質が使えなかった昔のこととはいえ、母の兄弟姉妹12人のうち半数が肺結核で亡くなることも、なかったでしょう。また私の両親が最後は二人とも間質性肺炎で亡くなるということもなかったでしょう。
しかし、おそらくそれだけではなく、私が若い頃から、かなり自分のそういう強くもない身体にもかかわらず、健康にも無頓着で、割合いいかげんな生活、食生活や睡眠時間、規則的な生活といったことにまるで配慮せず、飲めない酒を飲み、タバコも一時はかなりのヘビースモーカーだったし、ろくなことはしてこなかったのです。
それでいて体質が弱いから、年に一度はひどい風邪を引きこんで、仕事を1週間休むようなことも年中行事でした。とくに喉をやられると、ただちに気管支までおりてくるのがお決まりで、最後はゴホゴホ咳き込んで、抗生物質のお世話になる内科病院の常連でした。
おそらくそういう風邪を引きこむ機会ごとに、私の肺は傷つき、そこかしこが傷んでいたのでしょう。症状が回復すれば治った、と思い、若い頃は実際に回復もしていたのでしょうが、歳をとるにつれてだんだん回復できなくなって、肺の間質細胞が傷つき、やがて回復できずに繊維化するなどして機能停止していく部分がそこかしこにできていたのでしょう。
そういったことが重なっても人間には適応力があるから、なんとか肺は機能しつづけ、酸素を取り込んでとくに不自由を感じないで済んでいたのでしょうが、それが臨界点に達して、酸素交換に支障をきたすほど損傷が増え、繊維化が進み、或る時に炎症を起こして呼吸が苦しくなってはじめて病院へ検査にいって、発症が確認された、ということにすぎないのでしょう。
細胞レベルでの発祥の機序はもちろん素人の私には分からないけれど、もっと巨視的、長期的な視点に立って、間質性肺炎に罹る原因を問えば、素人の私にも、そんなふうに納得がいくような気がするのです。
いまの私の肺はいわば小康状態をつづけているようで、咳も相当ひどかったころに比べると、とても少なくなりました。椎間板ヘルニアを患っているので、いまは少し咳いても脚の神経の先までビンビン響いてひどく痛むので、咳はぜったいに出てほしくないため、ほとんど咳の出ない今は大変ありがたいのです。それでも、何かちょっとした煙やにおい、埃の類を吸い込んだり、鼻を刺激されたりすると、とたんに咳が出るので、いつでも咳が出やすい、気管の入口付近の皮膚が荒れた状態になっているらしいことは見当がつきます。
それでも1.2年前まではよく咳が出ました。ちょっとした動作で息が切れるのもこの病の特徴ですが、それもいまのところまずまずそれほど不便を感じずに日常生活が過ごせる程度におさまっています。或いはステロイドの抑制効果が効いているのかもしれません。
肺のX線画像を見ると、昨日書いたように、やはり以前のものと比べると白い部分、うすぼんやりとした白い影の部分が僅かなりとジワリと広がっているように、素人目にも感じられ、いくら咳が出なくなり、日常生活の動作くらいには慣れても、病は着実に進行しているんだな、というのが実感ですが、それでも進行が緩やかである、ということは何よりの救いです。
体温や血中酸素濃度は毎日計測していますが、酸素濃度が以前は97,98、日によっては100を(一時的にであれ)示すことがあったのですが、最近は95-96のあたりのせめぎあい、といったところで、一時的にも97を示すことは稀になってきました。
逆に94-95からしばらく動かないので、なにかあったかな、とわざわざ深呼吸して肺に酸素を出来るだけ送り込んで数値が変わるのを待つ、というようなこともちょくちょくあります。
特に自分で変わったことがあるように思えないので、毎日の計測値をそういちいち気に掛けることはない、と割り切るようにはしていますが、こうして数値で示されると多少気になるのも事実です。
パートナーもふだんはさりげなく、明るくふるまっているけれど、それでも毎日、きょうはどうだった?と血中酸素量の数値に異常がないか確認するので、いつでも、なにか起きるのではないか、という緊張をどこかでずっと保っているのだろうと思います。
だから、なにか気持ちの行き違いがあったりすると、突然エアポケットに落ち込んだかのように、一気にもうこんな毎日はいやだ、というところへ行ってしまう不安定なところがなきにしもあらずです。なかなか難しいものです。
そんな中で毎週末、長男が来てくれてわが家で会食したり、ごくたまに孫や次男がお米をとりにきたり、鍵を貸してとやってきたり、偶然に顔を見せるようなとき、パートナーはとても嬉しそうです。
ほんのちょっとしたそういう機会でも日常にかけがえのない喜びをもたらす瞬間になるようです。仲の良いお友達と会う機会も、コロナの感染拡大がおさまらないので、私のこともあって、みずから中止したままなので、これも早く心配のない状態になれば再開できて気が晴れる機会になると思うのですが、まだ当分時間がかかりそうです。
saysei at 12:28|Permalink│Comments(0)│
2022年07月30日
楽しい夕餉
恒例になった土曜日の三人での夕餉
きゅうりのせ豆腐に生トマトソース。オードブルといったところかな。
上賀茂のピーナッツカボチャによる冷製パンプキンスープ。味にコクがあり、いつもの普通のカボチャに拠るパンプキンスープ以上に美味しかった。
ラタトゥィユのパスタ。載っているのはわが家でいま大きくなっているバジルの葉
メインディッシュの、豚肉の、キノコ、ポルチーニ白ワインクリーム煮。アンデスの赤ジャガイモ、ズッキーニ添え。
パンコントマテ、白いのは豆腐メインタイコ&ニンニク
グリーンサラダ
あと長男が買ってきてくれた二つのケーキを三人でシェアして、ウィッタードの紅茶「コヴェント・ガーデン」を淹れていただきました。残念ながらそのケーキの写真を撮り忘れてしまったけれど、小さめのオシャレなケーキで、いろんな味が味わえる複雑な味の詰まったとても美味しいケーキでした。
きょうは午前中も午後もとても眠くて、昼食後、キケロの『老年について』(岩波文庫)を読んでいたらすっかり机の前で寝入ってしまって、もう5時よ、の声にやっと目覚め、あわててリハビリ自転車で上賀茂へ。お目当ての美味しい枝豆は無かったけれど、オクラ、モロヘイヤ、茄子などをゲットして帰りました。残念ながら鹿さんたちの姿は見えませんでした。今日も暑かったからねぇ。
それにしてもこう眠ってばかりいては頭がぼけてしまいそうです。痛み止めのせいだと思うけれど、量はぎりぎりまで減らしているので、これ以上減らすと痛みがきつくなるし、困ったことです。なんとか腰痛、脚痛のほうが薬なしで緩和されないかなぁ・・・整体とリハビリ自転車に期待しているのですが、あまり効果覿面とはいかないようです。
きゅうりのせ豆腐に生トマトソース。オードブルといったところかな。
上賀茂のピーナッツカボチャによる冷製パンプキンスープ。味にコクがあり、いつもの普通のカボチャに拠るパンプキンスープ以上に美味しかった。
ラタトゥィユのパスタ。載っているのはわが家でいま大きくなっているバジルの葉
メインディッシュの、豚肉の、キノコ、ポルチーニ白ワインクリーム煮。アンデスの赤ジャガイモ、ズッキーニ添え。
パンコントマテ、白いのは豆腐メインタイコ&ニンニク
グリーンサラダ
あと長男が買ってきてくれた二つのケーキを三人でシェアして、ウィッタードの紅茶「コヴェント・ガーデン」を淹れていただきました。残念ながらそのケーキの写真を撮り忘れてしまったけれど、小さめのオシャレなケーキで、いろんな味が味わえる複雑な味の詰まったとても美味しいケーキでした。
きょうは午前中も午後もとても眠くて、昼食後、キケロの『老年について』(岩波文庫)を読んでいたらすっかり机の前で寝入ってしまって、もう5時よ、の声にやっと目覚め、あわててリハビリ自転車で上賀茂へ。お目当ての美味しい枝豆は無かったけれど、オクラ、モロヘイヤ、茄子などをゲットして帰りました。残念ながら鹿さんたちの姿は見えませんでした。今日も暑かったからねぇ。
それにしてもこう眠ってばかりいては頭がぼけてしまいそうです。痛み止めのせいだと思うけれど、量はぎりぎりまで減らしているので、これ以上減らすと痛みがきつくなるし、困ったことです。なんとか腰痛、脚痛のほうが薬なしで緩和されないかなぁ・・・整体とリハビリ自転車に期待しているのですが、あまり効果覿面とはいかないようです。
saysei at 20:55|Permalink│Comments(0)│
箴言
昨日何か調べてウェブ上をあちこち渉猟していたとき、こんな箴言をみつけました。マザーテレサの箴言だそうです。これをみたサイトを記録しておかなかったので引用元を表示できず申し訳ないけれど、面白いことばだと思いましたので拾っておきました。
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。
saysei at 14:34|Permalink│Comments(0)│
安倍元首相の"政治的"な死
安倍元首相狙撃事件が起きた直後は、安倍さんが依然として政界で大きな力をもっていたこともあって政治的テロルだと直感した人が少なくなかったようで、犯人の青年は逮捕された直後に、政治的な意図によるものではないと語っていたことが伝えられたにもかかわらず、このようなテロルは民主主義の根幹をゆるがすものだ、といった発言が有識者やニュースキャスターの類からあったように記憶しています。
しかし、犯人の青年の供述内容がより詳しく伝わるにつれ、彼の狙撃は、彼が自分の家庭を破壊された元凶と考えた統一教会*を代表する「総裁」を本来のターゲットとした、きわめて個人的な怨恨に根差したものであり、その標的が韓国人で、コロナのためにその人物が来日できず、狙撃できなかったために、彼女が総裁をつとめる統一教会関連の行事にビデオメッセージを寄せていた安倍元首相が、教会と深い関係にあると考え、安倍元首相を標的としたものということが明らかになってきました。
彼の母親が統一教会の信者で、教会になけなしの財産を献金・供出して破産、彼の立場からみればありとあらゆるものを教会に奪われ、息子である彼の人生を台無しにされ、家庭を破壊された、その怨みを胸に、何年も前から教会の総裁を殺そうとして、銃器・弾丸の類を自ら製作し、あるいは爆殺も考え、計画を練って、総裁が来日したときはたしか名古屋だったかの会場まで出かけたものの、厳重な警備にことを成し得ずに帰ってきたこともあったとのこと。
霊感商法で社会的な追及を受けたこともある同教会は名称を変えていまも活動を続け、勧誘して入会させた信者からあらゆる財産をむしりとって、その人生や家庭を破壊しつづけていることが、被害者救済のために戦っている弁護士たちによって明らかにされているので、多くの国民もこの狙撃犯の青年の個人的な怨恨というストーリーについては、比較的すんなり受け入れたと思います。私も同様でした。
それで、今回の事件は統一教会によって家庭を破壊され自分の人生をもめちゃくちゃにされ、経済的にも追い詰められてこの世に居場所がなくなった青年が、本来のターゲットを狙撃することができず、やむなくそれに代えて、教会に協力的だと「思い込んだ」(当初の報道、捜査関係者による青年の供述というリーク)青年が、安倍元首相を狙撃するに至った、という青年の個人的な怨恨による、しかも本来の標的ではなかった元首相の「不幸な」代理標的化による狙撃だった、というふうなストーリーに最初の瞬間の政治犯的な印象が変えられていきました。
捜査関係者からリークされる犯人である青年が、「安倍元首相が教会と深い関係にあると思い込んだ」という報道を繰り返し繰り返し聞かされたことは記憶に新しいところです。
あるいは報道のとおり、青年はそう「思い込んだ」と言ったのかもしれないし、事実そうであったのかもしれません。
しかし、私は青年が「思い込んだ」と供述した、という捜査関係者のリークに、なにか意図的なものを感じていたように思います。「思い込んだ」という言い方には、「事実はそうではなかったのに、そう思い込んだ」というニュアンスが込められているように思えてならなかったからです。
けれども、果たして逮捕されたときの青年が、はたして「安倍元首相が実は教会とはそんな深い関係にあったわけではない」という言説のほうが「事実」であると認識したうえで、自分は犯行のとき「思い違い」をしていて、その「思い込み」によって犯行に及んだのだ、と自覚していたでしょうか?
私にはとうていそうは思えません。彼がもし犯行時に「思い込んでいた」のだとすれば、狙撃直後も、ひきつづき「思い込んで」いるはずであり、捜査陣が何と言おうと、「安倍元首相は教会と深い関係にあったから自分はやったのだ」、と考えていたに違いないと思いますし、供述するとすれば、そう供述したのではないかと思います。
「思い込んだ」からやった、などと供述するはずがなく、「安倍元首相が教会と深い関係にあったからやった」と言ったに違いない、と考えるのが自然ではないでしょうか。
犯行後、時を経て色々な情報に接し、自分の行為を振り返って客観的に評価し得るようになってから、「あのときは(間違ったことを)思いこんで行動した」と反省しているのとは違うのです。
まさに「思い込んで」行動したその直後なのですから、自身の行動を客観的に評価する視点など持ちようもなく、ましてや安倍元首相が教会と密接な関係にあったということが事実だったかどうだったか確認などできるはずもなく、真偽いずれにせよ、まだ思い込んだままの状態であることは言うまでもないでしょう。
おそらく自分の生命をかけてやった行為でしょうから、いくら捜査官が安倍氏が教会と深い関係など持っていなかったんだよ、と言ったとて、彼が直ちに「思い込み」を翻すことも考えられないでしょう。警察がそんなこと(安倍さんと教会の深い関係)など知る由もないし、そんなことが事実か否かを正しく判断できるはずもないのですから、犯行に及んだ青年の「思い込み」が消えるはずもないのです。
それをわざわざ「思い込んで」やった、と彼自身が告白したのだと言い換えてリークしたとすれば、そこに安倍さんがそのトップをつとめていた権力体制の組織の一角をなす警察機構の作為がなかったかどうか、安易にそれを伝えた報道各社には、事実関係を確認する義務があったでしょう。
ところが、どの報道機関の報道でも、私が知る限り、この「思い込んでやった」という告白あるいは警察のリークした限りでの「告白」に、疑問を投げかけたものは一つも見当たらなかったと思います。
いつからか、報道機関は捜査当局の「大本営発表」をまるごと受け入れ、何の疑問もいだかず、何の検証・確認もせず、思考を停止したまま当局の発表をそのまま記事にする傾向が強くなっているようですが、これなどもまったくその類ではないでしょうか。
素人の私でさえ、逮捕直後に犯人が、「元首相が統一教会と深い関係にあると思い込んで標的にした」などと言った、という報道に奇異な感じを受け、それが何の疑問符もつけられずに、繰り返し報道されて事実であるかのようにみなされていくのを、異様な事態の推移として見ていました。
長年報道にたずさわる記者たちが気づかぬはずはないと思うのですが、どこまで報道関係者の感度は鈍くなっているのでしょうか。
そしてその後、この狙撃事件の意味は大きく変化していきます。
いま述べて来た狙撃直後の段階では、統一教会の話が出ていても、私も含めて多くの人たちにとって、この事件の構図は、犯人の青年がいて、その個人的な怨恨の対象である統一教会の総裁がいて、本来は青年の攻撃的意図をヴェクトルで図示すれば、青年からまっすぐに統一教会の総裁に太い矢印が引かれるはずのものでした。
ところがその総裁の不在のために、その項が実体を失って影になってしまい、そこに向かっていた矢印が点線になってしまって、そこから分離した実線の矢印は、2項を結ぶいまは点線となった矢印の軸から外れて、総裁の項のすぐ近くに位置していた安倍元首相、あたかも偶然そこにあった第三者であるかのような第三項に向けられ、これが標的となって、(不幸にも)青年から向かう攻撃の実線の矢印がそこへ向けられてしまった・・・・
そんなふうに見えていました。そうか、あの狙撃の背後には統一教会があり、それに家庭を破壊された個人的な怨恨によるものだったのか。安倍元首相は犯人の青年の「思いこみ」で偶然にも本来の標的のそばに居合わせたために、不幸にも代理標的になってしまってしまったのか・・・・と。
ところがその後の報道によれば、安倍元首相と統一教会との関係は、犯人の青年が逮捕された直後に捜査関係者がリークした「思い込み」どころではなく、統一教会の信者たちが組織的に選挙の際の集票マシーンとして、また労働力として活用されるなど、直接かつ密接な関係を事実として有するばかりか、自民党最大の派閥を率いる長として、自派の議員に選挙時の支援を教会関係者に要請することを勧めるなど、事実上教会と自身の派閥議員とを仲介し、支援活動を斡旋するかのような行動をとるほそ「深い」関係にあったことが、自民党議員等の証言などから明らかになってきたのです。
また、同教会と自民党をはじめとする政党との関係は、安倍元首相にとどまらず、他の議員、他の党派にも広く浸潤していることが次第に明らかにされています。
或る自民党議員は、統一教会の式典に参列し、くだんの総裁を教会内部でのみ使われる最高の敬称でもって呼び、しかも自分個人だけではなく、総裁の「自民党に対する多大の貢献」などといった言葉を用いて、組織的な関係をあらわに告白していたのです。
こうした議員の行動には映像が残っていて、繰り返しニュースでいま報じられているところであり、それについて記者たちに囲まれ、説明を求められた議員は、ひたすらスマホを耳にあてて電話中であるかのような装いで一言も答えようとせずに歩きつづけて自室へ逃げ込むありさまで、自ら答えに窮するようなことをしでかしていたことを、そうした行動によって証明してみせていました。
岸国防相なる人物もまた、統一教会が霊感商法事件などを起こしたいかがわしい問題のある組織であることを知りながら、選挙運動などにおいてその協力を得ていたことを告白していました。国会議員にとって最も重要な国政選挙の票を集め(つまり自分の主義主張への賛同者を獲得し)、それを支えるための種々の事務、広報、電話作戦等の作業を、事実上組織としての教会に協力を求めてその教会の指示が絶対的効力をもつ信者たちに委ねるということは、政治家、議員として彼ら信者を実際上身内(陣営)の戦力として抱え込むことであり、それはまた逆の視点からいえば、自らが政治家として進んで教会が政治の分野にみずからの力を浸透させようとする意図の手中に落ち、教会に協力し、操られていく過程にほかならないでしょう。
自民党の議員の中には、こうした事実を次々と報じる報道に、自身の直接な教会との関係がないことに安堵してか、「なぜこんなことが大げさに問題になるのかわからない」とさも不当な攻撃であるかのように党派的立場から逆切れしてみせる者まで登場しています。組織としての党は無関係で、個人としてなら信仰の自由は憲法で保障されている、と言いたいようです。
しかし、まず組織的な関わりが、どうやら否定できないほど教会と少なくとも自民党との関わりは密接で、深く、先の映像の証拠をつきつけられた議員にみるように、自ら統一教会の総裁に「自民党に対する多大の貢献」をいただいたことを認め、そのような認識をしているということは明らかであって、個人的な問題だなどという逃げ道は残されていないでしょう。
そして、個人であれ、組織であれ、日本の政治を司る政党や議員個人が、霊感商法で消費者をだまし、信者にしてその家産をぺんぺん草も生えぬまでむしりとり、家庭を破壊し、人生をめちゃくちゃにするような教団と関係を持つこと自体が、政党として、政治家としてどういう意味を持つのか、私たちはそこをしっかりと考えて、今回の事件を当初の簡単な偶発的な個人的怨恨による事件とみなしてスルーするのではなく、きわめて政治的な問題を孕んだ事件であり、安倍元首相の死が政治の闇を背景とした「政治的」な死であったことが、ますます明らかになっていくような事件であったことを冷静に見極めなくてはならないでしょう。
* 文中、統一教会は旧名称で、現在は「宗教法人世界平和統一家庭連合」と名称変更しているようですが、霊感商法などで社会的な批判をあびて世界平和とか家庭連合とか受け入れられそうな名辞を並べて旧名称にこびりついた悪評から逃れようとしたらしい新名称をここでは用いず、社会的に一般化していて、「ああ、あの霊感商法の・・・」と誰もが思い出せる旧名称で書いておきます。
しかし、犯人の青年の供述内容がより詳しく伝わるにつれ、彼の狙撃は、彼が自分の家庭を破壊された元凶と考えた統一教会*を代表する「総裁」を本来のターゲットとした、きわめて個人的な怨恨に根差したものであり、その標的が韓国人で、コロナのためにその人物が来日できず、狙撃できなかったために、彼女が総裁をつとめる統一教会関連の行事にビデオメッセージを寄せていた安倍元首相が、教会と深い関係にあると考え、安倍元首相を標的としたものということが明らかになってきました。
彼の母親が統一教会の信者で、教会になけなしの財産を献金・供出して破産、彼の立場からみればありとあらゆるものを教会に奪われ、息子である彼の人生を台無しにされ、家庭を破壊された、その怨みを胸に、何年も前から教会の総裁を殺そうとして、銃器・弾丸の類を自ら製作し、あるいは爆殺も考え、計画を練って、総裁が来日したときはたしか名古屋だったかの会場まで出かけたものの、厳重な警備にことを成し得ずに帰ってきたこともあったとのこと。
霊感商法で社会的な追及を受けたこともある同教会は名称を変えていまも活動を続け、勧誘して入会させた信者からあらゆる財産をむしりとって、その人生や家庭を破壊しつづけていることが、被害者救済のために戦っている弁護士たちによって明らかにされているので、多くの国民もこの狙撃犯の青年の個人的な怨恨というストーリーについては、比較的すんなり受け入れたと思います。私も同様でした。
それで、今回の事件は統一教会によって家庭を破壊され自分の人生をもめちゃくちゃにされ、経済的にも追い詰められてこの世に居場所がなくなった青年が、本来のターゲットを狙撃することができず、やむなくそれに代えて、教会に協力的だと「思い込んだ」(当初の報道、捜査関係者による青年の供述というリーク)青年が、安倍元首相を狙撃するに至った、という青年の個人的な怨恨による、しかも本来の標的ではなかった元首相の「不幸な」代理標的化による狙撃だった、というふうなストーリーに最初の瞬間の政治犯的な印象が変えられていきました。
捜査関係者からリークされる犯人である青年が、「安倍元首相が教会と深い関係にあると思い込んだ」という報道を繰り返し繰り返し聞かされたことは記憶に新しいところです。
あるいは報道のとおり、青年はそう「思い込んだ」と言ったのかもしれないし、事実そうであったのかもしれません。
しかし、私は青年が「思い込んだ」と供述した、という捜査関係者のリークに、なにか意図的なものを感じていたように思います。「思い込んだ」という言い方には、「事実はそうではなかったのに、そう思い込んだ」というニュアンスが込められているように思えてならなかったからです。
けれども、果たして逮捕されたときの青年が、はたして「安倍元首相が実は教会とはそんな深い関係にあったわけではない」という言説のほうが「事実」であると認識したうえで、自分は犯行のとき「思い違い」をしていて、その「思い込み」によって犯行に及んだのだ、と自覚していたでしょうか?
私にはとうていそうは思えません。彼がもし犯行時に「思い込んでいた」のだとすれば、狙撃直後も、ひきつづき「思い込んで」いるはずであり、捜査陣が何と言おうと、「安倍元首相は教会と深い関係にあったから自分はやったのだ」、と考えていたに違いないと思いますし、供述するとすれば、そう供述したのではないかと思います。
「思い込んだ」からやった、などと供述するはずがなく、「安倍元首相が教会と深い関係にあったからやった」と言ったに違いない、と考えるのが自然ではないでしょうか。
犯行後、時を経て色々な情報に接し、自分の行為を振り返って客観的に評価し得るようになってから、「あのときは(間違ったことを)思いこんで行動した」と反省しているのとは違うのです。
まさに「思い込んで」行動したその直後なのですから、自身の行動を客観的に評価する視点など持ちようもなく、ましてや安倍元首相が教会と密接な関係にあったということが事実だったかどうだったか確認などできるはずもなく、真偽いずれにせよ、まだ思い込んだままの状態であることは言うまでもないでしょう。
おそらく自分の生命をかけてやった行為でしょうから、いくら捜査官が安倍氏が教会と深い関係など持っていなかったんだよ、と言ったとて、彼が直ちに「思い込み」を翻すことも考えられないでしょう。警察がそんなこと(安倍さんと教会の深い関係)など知る由もないし、そんなことが事実か否かを正しく判断できるはずもないのですから、犯行に及んだ青年の「思い込み」が消えるはずもないのです。
それをわざわざ「思い込んで」やった、と彼自身が告白したのだと言い換えてリークしたとすれば、そこに安倍さんがそのトップをつとめていた権力体制の組織の一角をなす警察機構の作為がなかったかどうか、安易にそれを伝えた報道各社には、事実関係を確認する義務があったでしょう。
ところが、どの報道機関の報道でも、私が知る限り、この「思い込んでやった」という告白あるいは警察のリークした限りでの「告白」に、疑問を投げかけたものは一つも見当たらなかったと思います。
いつからか、報道機関は捜査当局の「大本営発表」をまるごと受け入れ、何の疑問もいだかず、何の検証・確認もせず、思考を停止したまま当局の発表をそのまま記事にする傾向が強くなっているようですが、これなどもまったくその類ではないでしょうか。
素人の私でさえ、逮捕直後に犯人が、「元首相が統一教会と深い関係にあると思い込んで標的にした」などと言った、という報道に奇異な感じを受け、それが何の疑問符もつけられずに、繰り返し報道されて事実であるかのようにみなされていくのを、異様な事態の推移として見ていました。
長年報道にたずさわる記者たちが気づかぬはずはないと思うのですが、どこまで報道関係者の感度は鈍くなっているのでしょうか。
そしてその後、この狙撃事件の意味は大きく変化していきます。
いま述べて来た狙撃直後の段階では、統一教会の話が出ていても、私も含めて多くの人たちにとって、この事件の構図は、犯人の青年がいて、その個人的な怨恨の対象である統一教会の総裁がいて、本来は青年の攻撃的意図をヴェクトルで図示すれば、青年からまっすぐに統一教会の総裁に太い矢印が引かれるはずのものでした。
ところがその総裁の不在のために、その項が実体を失って影になってしまい、そこに向かっていた矢印が点線になってしまって、そこから分離した実線の矢印は、2項を結ぶいまは点線となった矢印の軸から外れて、総裁の項のすぐ近くに位置していた安倍元首相、あたかも偶然そこにあった第三者であるかのような第三項に向けられ、これが標的となって、(不幸にも)青年から向かう攻撃の実線の矢印がそこへ向けられてしまった・・・・
そんなふうに見えていました。そうか、あの狙撃の背後には統一教会があり、それに家庭を破壊された個人的な怨恨によるものだったのか。安倍元首相は犯人の青年の「思いこみ」で偶然にも本来の標的のそばに居合わせたために、不幸にも代理標的になってしまってしまったのか・・・・と。
ところがその後の報道によれば、安倍元首相と統一教会との関係は、犯人の青年が逮捕された直後に捜査関係者がリークした「思い込み」どころではなく、統一教会の信者たちが組織的に選挙の際の集票マシーンとして、また労働力として活用されるなど、直接かつ密接な関係を事実として有するばかりか、自民党最大の派閥を率いる長として、自派の議員に選挙時の支援を教会関係者に要請することを勧めるなど、事実上教会と自身の派閥議員とを仲介し、支援活動を斡旋するかのような行動をとるほそ「深い」関係にあったことが、自民党議員等の証言などから明らかになってきたのです。
また、同教会と自民党をはじめとする政党との関係は、安倍元首相にとどまらず、他の議員、他の党派にも広く浸潤していることが次第に明らかにされています。
或る自民党議員は、統一教会の式典に参列し、くだんの総裁を教会内部でのみ使われる最高の敬称でもって呼び、しかも自分個人だけではなく、総裁の「自民党に対する多大の貢献」などといった言葉を用いて、組織的な関係をあらわに告白していたのです。
こうした議員の行動には映像が残っていて、繰り返しニュースでいま報じられているところであり、それについて記者たちに囲まれ、説明を求められた議員は、ひたすらスマホを耳にあてて電話中であるかのような装いで一言も答えようとせずに歩きつづけて自室へ逃げ込むありさまで、自ら答えに窮するようなことをしでかしていたことを、そうした行動によって証明してみせていました。
岸国防相なる人物もまた、統一教会が霊感商法事件などを起こしたいかがわしい問題のある組織であることを知りながら、選挙運動などにおいてその協力を得ていたことを告白していました。国会議員にとって最も重要な国政選挙の票を集め(つまり自分の主義主張への賛同者を獲得し)、それを支えるための種々の事務、広報、電話作戦等の作業を、事実上組織としての教会に協力を求めてその教会の指示が絶対的効力をもつ信者たちに委ねるということは、政治家、議員として彼ら信者を実際上身内(陣営)の戦力として抱え込むことであり、それはまた逆の視点からいえば、自らが政治家として進んで教会が政治の分野にみずからの力を浸透させようとする意図の手中に落ち、教会に協力し、操られていく過程にほかならないでしょう。
自民党の議員の中には、こうした事実を次々と報じる報道に、自身の直接な教会との関係がないことに安堵してか、「なぜこんなことが大げさに問題になるのかわからない」とさも不当な攻撃であるかのように党派的立場から逆切れしてみせる者まで登場しています。組織としての党は無関係で、個人としてなら信仰の自由は憲法で保障されている、と言いたいようです。
しかし、まず組織的な関わりが、どうやら否定できないほど教会と少なくとも自民党との関わりは密接で、深く、先の映像の証拠をつきつけられた議員にみるように、自ら統一教会の総裁に「自民党に対する多大の貢献」をいただいたことを認め、そのような認識をしているということは明らかであって、個人的な問題だなどという逃げ道は残されていないでしょう。
そして、個人であれ、組織であれ、日本の政治を司る政党や議員個人が、霊感商法で消費者をだまし、信者にしてその家産をぺんぺん草も生えぬまでむしりとり、家庭を破壊し、人生をめちゃくちゃにするような教団と関係を持つこと自体が、政党として、政治家としてどういう意味を持つのか、私たちはそこをしっかりと考えて、今回の事件を当初の簡単な偶発的な個人的怨恨による事件とみなしてスルーするのではなく、きわめて政治的な問題を孕んだ事件であり、安倍元首相の死が政治の闇を背景とした「政治的」な死であったことが、ますます明らかになっていくような事件であったことを冷静に見極めなくてはならないでしょう。
* 文中、統一教会は旧名称で、現在は「宗教法人世界平和統一家庭連合」と名称変更しているようですが、霊感商法などで社会的な批判をあびて世界平和とか家庭連合とか受け入れられそうな名辞を並べて旧名称にこびりついた悪評から逃れようとしたらしい新名称をここでは用いず、社会的に一般化していて、「ああ、あの霊感商法の・・・」と誰もが思い出せる旧名称で書いておきます。
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