2022年02月
2022年02月28日
謡曲 雲林院
今日は、昨日の続きで、謡曲の雲林院を、アマゾンのkindleで250円ですぐに購入できることが分かったので、早速購読しました。注も親切でよくわかってよかった。冒頭に舞台は描かれていないのだけれど、能舞台で演じられている業平に違いない、謡曲で謡われるとおり、二条の后との恋の道行に「思ひ知らずも迷ひ行く」姿を描いた絵があって、これが本当に語り手公光の前に表れた業平の霊であるかのように、人の姿をしていながらなにか、実体とか重量とかを持たない、この世の人とも思えない存在感をもった姿なのでした。
これをじっくり読んだあとで、YouTubeに、この謡曲のクセ(中心的な部分)の仕舞を観世流の青木道喜が舞うのを見ることができました。もう確実に半世紀くらいは能を見ていない(笑)けれど、この仕舞も現実の人ではない業平の霊が舞うような、舞う身体がふっと浮かぶ霊のような重量感を持たない存在のように見えたので、能面も装束もつけていない素の舞いでも身体の静と動の僅かな変化だけで、これだけ表現できるんだな、と感じ入りながら見ていました。
謡曲の雲林院では、業平と光源氏を重ね合わせて、いわばわざと混同して、業平と二条の后のことが突然光源氏と朧月夜とのことになって謡われていて、こういうのを読むと、また「花の宴」の章だけでも読みたくなり、同時にまた伊勢物語の方も二条の后との恋のあたりを読みたくなって、なかなかきりが付きません。でもこうして気儘にできるのが、とても楽しい。
今日は、哲学小僧のほうも少し。再読の『監獄の誕生』ですが、フーコーが語る近代の発明である規律・訓練と監視の技法はまっさきに軍隊や学校に取り入れられたわけで、学校教育を彼の視点から、「規格化にもとづく刑罰制度」として読み解いていけば、明治以来の日本の学校教育の優れた点もその抑圧的な面も、とてもクリアに読み解けるのではないかと思います。もちろん、とっくに教育畑の人がやっているでしょうけれど。
私の経験では、二人の息子たちが実にのびのびと過ごし、目を輝かせ、溌溂としていた幼稚園時代から小学校へ上がったとき、ピタリとそのあらゆるものへの好奇心に満ちた目の輝きや行動の中にあった奔放さをどこかそぎ落とされて、いわば学校によく適応したある種の優等生的なみかけに変わったのを参観日に行ってはじめて気づいて衝撃を受けたことがあって、あれはどういうことだったのだろう、とずっとひっかかってきたのですが、たぶんフーコーの観点から丁寧に日本の学校制度のありようを読み解いていけば腑に落ちるところがあるのかもしれません。
プーチンは核の脅しまで繰り出しているようです。本当に小型核くらい使いかねないから厄介です。しかしそういう脅しに世界が屈するなら、今後ロシア周辺の、かつてスターリンに支配されていた地域はみなプーチンロシアが公然と主権を侵害して、「取り戻し」てしまうでしょう。もちろん中国も負けず劣らず、台湾はもちろん、太平洋の広大な他国が領有する島々と海域を公然と力でわがものにするでしょう。ロシアとあいみたがいで助け合いながら(笑)。
ロシアや中国の内部にも、こうした自国の権力者たちの狂気に抗う人たちは必ずあると思うし、外圧が強まって経済が傾いたりすれば、そういう人たちが権力者を追い詰める内圧も高まって行くだろうとは思うけれど、気の長い話で、それまで核兵器による潰しあいにならずにこの地球がもちこたえられるかどうか・・・
きょうの夕餉
メイタガレイのから揚げ。ぽん酢で
菜の花に酢味噌
小松菜とアツアゲの煮物
麻婆豆腐
小粋菜のジャコいため
キムチ各種。
サラダ。
あとモズク酢があったのをとり忘れたようです。
昨日の夕餉
チキンロール。ホウレンソウ、ニンジン、マッシュルームを鶏の胸肉で巻いたものにポルチーニ・チキンクリームソース
その巻いた切り口
フキノトウ、上賀茂のホウレンソウ、菜の花のパスタ
コブサラダ
サラダ
以上でした。
これをじっくり読んだあとで、YouTubeに、この謡曲のクセ(中心的な部分)の仕舞を観世流の青木道喜が舞うのを見ることができました。もう確実に半世紀くらいは能を見ていない(笑)けれど、この仕舞も現実の人ではない業平の霊が舞うような、舞う身体がふっと浮かぶ霊のような重量感を持たない存在のように見えたので、能面も装束もつけていない素の舞いでも身体の静と動の僅かな変化だけで、これだけ表現できるんだな、と感じ入りながら見ていました。
謡曲の雲林院では、業平と光源氏を重ね合わせて、いわばわざと混同して、業平と二条の后のことが突然光源氏と朧月夜とのことになって謡われていて、こういうのを読むと、また「花の宴」の章だけでも読みたくなり、同時にまた伊勢物語の方も二条の后との恋のあたりを読みたくなって、なかなかきりが付きません。でもこうして気儘にできるのが、とても楽しい。
今日は、哲学小僧のほうも少し。再読の『監獄の誕生』ですが、フーコーが語る近代の発明である規律・訓練と監視の技法はまっさきに軍隊や学校に取り入れられたわけで、学校教育を彼の視点から、「規格化にもとづく刑罰制度」として読み解いていけば、明治以来の日本の学校教育の優れた点もその抑圧的な面も、とてもクリアに読み解けるのではないかと思います。もちろん、とっくに教育畑の人がやっているでしょうけれど。
私の経験では、二人の息子たちが実にのびのびと過ごし、目を輝かせ、溌溂としていた幼稚園時代から小学校へ上がったとき、ピタリとそのあらゆるものへの好奇心に満ちた目の輝きや行動の中にあった奔放さをどこかそぎ落とされて、いわば学校によく適応したある種の優等生的なみかけに変わったのを参観日に行ってはじめて気づいて衝撃を受けたことがあって、あれはどういうことだったのだろう、とずっとひっかかってきたのですが、たぶんフーコーの観点から丁寧に日本の学校制度のありようを読み解いていけば腑に落ちるところがあるのかもしれません。
プーチンは核の脅しまで繰り出しているようです。本当に小型核くらい使いかねないから厄介です。しかしそういう脅しに世界が屈するなら、今後ロシア周辺の、かつてスターリンに支配されていた地域はみなプーチンロシアが公然と主権を侵害して、「取り戻し」てしまうでしょう。もちろん中国も負けず劣らず、台湾はもちろん、太平洋の広大な他国が領有する島々と海域を公然と力でわがものにするでしょう。ロシアとあいみたがいで助け合いながら(笑)。
ロシアや中国の内部にも、こうした自国の権力者たちの狂気に抗う人たちは必ずあると思うし、外圧が強まって経済が傾いたりすれば、そういう人たちが権力者を追い詰める内圧も高まって行くだろうとは思うけれど、気の長い話で、それまで核兵器による潰しあいにならずにこの地球がもちこたえられるかどうか・・・
きょうの夕餉
メイタガレイのから揚げ。ぽん酢で
菜の花に酢味噌
小松菜とアツアゲの煮物
麻婆豆腐
小粋菜のジャコいため
キムチ各種。
サラダ。
あとモズク酢があったのをとり忘れたようです。
昨日の夕餉
チキンロール。ホウレンソウ、ニンジン、マッシュルームを鶏の胸肉で巻いたものにポルチーニ・チキンクリームソース
その巻いた切り口
フキノトウ、上賀茂のホウレンソウ、菜の花のパスタ
コブサラダ
サラダ
以上でした。
saysei at 21:13|Permalink│Comments(0)│
2022年02月27日
雲林院
今日古今集を読んでいて、僧正遍昭や承均(そうく)法師に関して雲林院がたびたび登場したのですが、そう言えばまだ行ったことがなかった、と思って、きょうは上賀茂への野菜購入を兼ねたリハビリ自転車行の行き先を、大徳寺の北大路通りを挟んだ東南すぐのところにある、雲林院に変えて行ってきました。平安時代のものを読んでいて、出て来る場所へ、すぐにひょいと自転車で行って来れるのが、京都に住む強みです。
ひとつ前の「古今集を読む」第11回で詳しく書いたように、このお寺は紫式部が出入りしたころには大きなお寺で、ちょうどいまの大徳寺のような感じだったのでしょう。春は桜、秋は紅葉の名所で、樗(おうち)の木が並び立って、その紫の花が咲くときは、仏の来迎を告げる紫色の雲がたなびくようだったとか。ここでの菩提講は知らぬものもなく、広範な人々が参集したようで、大鏡の物語が、その菩提講に来た世継と繁樹の出会いで始まることはよく知られているとおりです。
しかし、いまの雲林院はかつての敷地の西の端のほんのわずかな空間にある小さな寺にすぎません。上の写真は門の内部に入って逆に門の方を向いて写したのですが、本当に狭い境内に建物がぎっしり立っていて、どこにも大きな空間がありません。
門前に遭った解説図でみると、本来の雲林院は今の大徳寺の敷地から北大路通りをまたいで、南の若宮神社や、惟喬親王を祀る玄武神社を包み込む広大な敷地だったようです。
門を入ってすぐ左手にたつ観音菩薩堂。時代が下ってから建てられたもののようです。
その向かいに立つ(門を入ってすぐ右手)の、これが本堂というかお寺さんの本体の建物でしょう。
門から入った通路を遮るように置かれている手水。
少し奥の左手にある遍昭の歌碑。
天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
寺の門前から北側をみれば、すぐ目と鼻の先に大徳寺の東南角が見えます。
寺の門前、大徳寺通りというのでしょうか、少し南へいったところに、使われていならしいボロ屋があって、その前に「紫式部通り」の看板が立っていました。十二単衣を着た女性の顔だけ穴があいていて、その裏から顔を出して写真を撮る仕掛けの看板ですね。観光客がこの辺を多く歩いていたころに作られたのかもしれません。いまは寒い時期でもあり、コロナのせいもあるでしょうが、観光にこのあたりを歩いているような人はまったく見かけませんでした。
雲林院に近い堀川北大路をちょっと下がった西側、島津製作所の工場があるところに、ちょっと引っ込んだ場所があって、小野篁と紫式部の墓所だという石碑が立っています。この通路の奥に墓があるのは以前に訪れて知っていました。
これがその、奥の墓に立つ紫式部の墓標ですが、いまは島津の工事のために通路自体に入れなくなっています。
大徳寺の真珠庵には紫式部の産湯に使われたと伝えられる井戸があるそうですが、平生は拝観を受け入れていないところなので、特別拝観でもない限り見ることはできません。まあどうせ見てもどこにでもありそうな古い井戸を囲った石積みかなにかが見えるだけでしょうが(笑)。
いずれにせよ、紫式部はこのあたりにゆかり深く、雲林院にもけっこう参詣に出入りしていたのだろうといわれているようです。ただ、彼女の曽祖父藤原兼輔が建て、彼女自身もそこで育ち、のちにそこで源氏物語を書いたといわれる紫式部邸があった中河の地はいまの盧山寺のあたり、寺町丸太町を下ったところですから、ここからはかなり距離がありますが・・・
きょうは朝のうち雲が厚くてなかなか陽が射さなかったけれど、そのうちに青空が広がっていい天気になりました。でもそう温かくはありませんでした。せいぜい10℃前後までしか気温はあがっていないでしょう。
でもあまりうっとうしいので、きょうはパートナーにバリカンで散髪してもらいました。コロナでなじみの理髪店にもぱったり行かなく(いけなく)なって、仕方なくあるときバリカンをアマゾンで買って自宅でやってもらったら、意外と簡単だというので、いまはもっぱらそれであっという間に刈ってもらえます。きょうパートナーがその電動バリカンを床にバーンと落としたので、ヒヤッとしたけど、彼女は「壊れても、あなたが一回散髪屋さんへ行くお金で買えるから」(笑)・・・ごもっとも。でも幸い毀れませんでしたが・・・
saysei at 21:30|Permalink│Comments(0)│
古今集を読む 第11回(69~77 )桜の歌③(巻第二 春歌下)
(以下は、講談社学術文庫版の片桐洋一著『古今和歌集全評釈』を読んでいくことで、古今集の歌をひととおりは理解してみたい、ということで始めた素人の私的覚書の類です。評釈類の引用は特記しない限りは同書に拠っています。歌の現代語訳は片桐さんの評釈、通釈を参照した上で、私なりに勝手訳を試みました。)
69 春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色変はり行く よみ人しらず
春霞がたなびく山の桜は霞に花の色を移して散っていこうというのだろうか、霞がかって本来の色が変わっていくようにみえるよ
少し説明的に現代語に訳してみましたが、この歌の要は「うつろはむとや」の「うつろふ」という言葉にあることが、片桐洋一さんの評釈でとてもよく理解できます。
「うつろふ」が「移る」でも「映る」でも、「一方から一方へ及ぶこと」だ、と。なるほど。古語辞典(岩波)を見ると、「うつろひ」は、ウツリに継続・反復の接尾語のついた形、とあって、「ウツリ」の項をみると、「ウツシ(写・移)の自動詞形。物の形や内容が、そっくりそのまま、他の所にあらわれる意。ウツはウツシ(顕)・ウツツ(現)のウツと同根」とあります。そして「そのままの形が別の所に投影される」というのが最初に挙げられた語釈です。
私たちが何気なく使っている言葉、しかもそれぞれ違う言葉のように使っている「移る」と「映る」が、こんなふうに同じ言葉で、さらに「うつつ」の「現」、つまり「あらわれる(現れる、顕れる)」とも同根と聞かされると、なるほどなあ、と腑に落ちるところがありますね。
そうすると、この歌の作者は、春霞がたなびいて、山の桜がそのせいでよく色が見えない、薄い霞のヴェールがかかって少し色あせたようにみえる、という風景を眺めていて、桜の色が変わって行くようだなぁ、と感じ、それを桜が花の色を霞に「映す」かのようだと観じ、同時にそうやって桜がその色を霞に「移す」ことによって、散って行こうとしている(うつろっていく)のだろうか、と歌っていることになる、これが片桐さんの註釈をひととおり読んで理解できることです。
だから「うつろふ」の「映る」と「移る」が掛詞になり、さらに「うつろふ」の衰え散って行く含意を、目の前の桜と春霞のありように詠み込んでいるわけで、なんでもない目の前の光景を詠んだ歌のようでいて、「うつろふ」の一語を歌の要とする、けっこう複雑な技巧を凝らした歌になっています。
「うつろふ」を「散る」と重ねて解釈することを否定できない理由として、片桐さんは、この次の70番から86番までの歌が、みな、歌か詞書に「散る」という語を含む、という事実を挙げています。古今集の撰者が歌の配列にきわめて意識的、意図的であったことは片桐さん自身が実証的に逐一解説してきたところで、そうした観点からみれば、この歌の「うつろふ」を撰者が「散る」と同義のものと見ていると解することはきわめて自然です。
また「うつろふ」が「色」と深くかかわる言葉であることを、次のような例歌を引いて、「散る」方向へ向かっていることが色に表れるのが「うつろふ」である、と述べ、80番歌の詞書にみえる「散りがたになれりける」との詞を引いて、その「散りがた」つまり散る方向に向かっていることを色によって感じ取ることのできる状態を言う、と説明しています。
花の木も今は掘り植ゑじ春立てばうつろふ色に人ならひけり(92)
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に(113)
しかし、この歌を単に「散ろうと思って色が変わってゆくのか」と訳したのでは、間違いではないにしても、「春霞たなびく山の櫻花」と言った意味がない、と片桐さんは述べ、ヒントを与えてくれるとして次の歌を例示します。
春霞色のちくさに見えつるはたなびく山の花の影かも(102)
(春霞の色が何色にも見えたのは、その霞がたなびく山の花の色々が映ったからであろう)
これらを勘案すると、「うつろふ」は「散りがたに向かう」意だけではなく、「霞に色が移る(映る)」→「花の色があせる」→「花が散る」という「うつろひ」の論理の中で詠まれているのだ、ということになると片桐さんは結論づけています。非常に行き届いた、腑に落ちる解釈です。
片桐さんが注釈史の欄で言及している本居宣長のこの歌の読みは、片桐さんも感嘆しているとおり、さすがです。
霞ガタナビイテ ソノ霞ヘ色ノウツツテ見エルアノ山ノ桜花ガ チラウトテヤラ 霞ノ色ガカハツテキタ (『古今和歌集遠鏡』)
70 待てといふに散らでしとまる物ならば何を桜に思ひまさまし よみ人知らず
待てと言えば散らずにとどまっているものなら、何をこれ以上桜への思いを増すことがあろうか。
片桐さんの註釈によれば、この歌のような「花が『待て』という言葉を聞くならば・・・」という表現は常套句になっていたそうです。
散る花の待ててふことを聞かませば春ふる雪と降らせざらまし(30)
散る花の待ててふことを知らませば春はゆくとも惜しまざらまし(新撰万葉集巻下・267)
そして、次の71番歌にみるような、「残りなく散るゆえにこそ桜は愛されるのだ」という発想は万葉集にはまったくなかったものだそうで、いかにも桜と言えば散る桜、散るからこそ一層美しく感じられ、心惹かれる、という今の私たちの美意識にも響き合う、古今集的な美意識の核心的なものがそこに見られるのかもしれません。
71 残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中果てのうければ よみ人知らず
残りなく散ってしまうのが素晴らしいのだ、桜の花よ。世の中は終わりが憂鬱なものだから
この歳で読むと身につまされる歌ですね(笑)・・・
うければ < うし(憂し) [形容詞ク活用 ○・く・し・けれ・○ の已然形]
ウミ(倦)と同根。事の応対に疲れ、不満がいつも内攻して、つくづく晴れない気持ち。憂鬱だ。いやだ。・・・(岩波古語辞典)
片桐さんは『伊勢物語』に同趣の歌がある、として次の歌を挙げています。
散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世に何かひさしかるべき
72 この里に旅寝しぬべし桜花散りのまがひに家ぢ忘れて よみ人知らず
この里に旅寝してしまうことになりそうだ、散り乱れる桜の花にまぎれて帰り道も分からなくなって
片桐さんがたびたび註釈で語ってきたように、梅は家の庭に咲き、桜は山里に咲くもの、というのが平安期の「常識」らしく、家を出てこの山里へ花見に来たのでしょうが、美しく散り乱れる桜に我を忘れ、家路も忘れて、このままここで泊まって行くことになりそうだよ、ということのようです。
片桐さんの現代語訳は、「散った桜のせいで道がわからなくなり」とされています。具体的な情景を思い浮かべてみると、山里の下草を分けていくような細い山道に桜の花が散り乱れて、道の境を覆ってしまえば、どこが道なのか分からなくなる、というのは現実にあり得ることですが、近代詩ではないので、情景を即物的、具象的に詠んだり、花が散って道を隠したから、道が隠れてわからなくなった、と理詰めで表現する歌なのかというと、それは疑問です。
「散り乱れる桜の花にまぎれて」という言葉は、ただ散り乱れる花の美しさに心を奪われ、これから家に帰らなくてはならないとか、帰り路がどこだというふうな現実的なことを忘れさせてしまうほどだ、という美に触れた心の高ぶりを、前例のある「散りのまがひに」という表現を用いて、一定の抽象度で表現しようとしたのだと思えるからです。
したがって、散る桜が道を隠して、帰り道を見まがえてしまう、という理詰めで具象的な表現として訳すのではなくて、散る花の美しさに動かされる心をあらわすその抒情の抽象度に見合った現代語訳を充てるのがいいように思うのですが、どうでしょうか。
旅ねしぬべし=「旅ねしてしまいそうだ」。「べし」は強い推量。
桜花=桜花の ・・・ これまでの歌によく出てきた、桜花に呼びかける、上の句と下の句の切れ目ではなくて、下の句の「散る」の主格。
まがひ=片桐さんの解説では、「散るにまがひて」と言ってもよいところだけれど、万葉集以来の歌語だという「散りのまがひに」を用いて名詞化して言ったものだそうです。素人としては、最初ぱっと読んだ時は、どういう言葉なんだろう、と思いましたが、「まがふ」は「見まがう」というときの「まがう」の意味だろうとは思いました。「紛う」ですね。
「散りのまがひ」という「散るにまがひて」を名詞化して言ったという万葉以来の歌語についての他の用例として、片桐さんは次の歌を挙げています。
春の野に若菜摘まむと来しものを散り交ふ花に道はまどひぬ(春下・116)
桜花散り交ひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに(在原業平 賀・349)
また次の4首は、新古今集以降の歌人にも、この古今集の影響の及ぶ例として片桐さんが挙げている歌です。
桜花思ふもつらし風の上にありか定めぬ散りのまがひは((『壬二集』614)
我が来つる跡だに見えず桜花散りのまがひの春の山風(『拾遺愚草』2178)
とまらぬは桜ばかりを色に出でて散りのまがひに暮るる春かな(同・1018)
帰るさの道こそ知らね桜花散りのまがひに今日は暮らしつ(『新勅撰集』春下・104・定通)
73 空蟬の世にも似たるか花桜咲くと見し間にかつ散りにけり よみ人知らず
はかない世の中にも似ているのか、桜の花は咲いたと見ている間に、一方でははや散ってしまっているなぁ
「空蝉」は源氏物語でも、身に着けていた衣だけを残して姿を消した女性にぴったりの喩として使われ、鮮やかな印象を残す言葉ですが、もちろん蝉の抜け殻だということしか連想していなかったけれど、片桐さんの註釈を読んで、この言葉はもともと「現し臣(うつしおみ)」から発し、「現実にこの世に生きている人の意で用いられていた」ことを知りました。
万葉集には「うつそみの人なる我や~」(巻二・165)、「~うつせみと思ひし妹が~」(巻二・210)、「~うつせみの人目をしげみ~」(巻四・597)などの使用例があるそうです。万葉集は少なくとも一度は目を通しているけれど、現代語訳などを脇においてざっと通読したくらいではこういうひとつひとつの言葉についての記憶はよほどひっかかったり、うまい言い方だなぁと感心した言葉ででもない限り、きれいさっぱり残っていませんね(笑)。
ただ万葉集でも「空蟬」「虚蟬」という字をあてることが多かったそうで、平安時代になると、蝉の抜け殻の意味に使われることが多くなって、枕詞的に「うつせみの」という場合は、むなしい、はかない、の意を含むのが一般になったんだそうです。
「似たる」の「たり」は中学、高校の古文の時間には完了の助動詞として習ったと思いますが、そういう記憶があると、単に「似ている」と訳していいのかなと、心配になって古語辞典をみると、「り」と「たり」はセットになって説明してあり(岩波古語辞典)、「たり」はもともと助詞「て」と「あり」の複合したもので、奈良時代から平安時代のはじめにかけては、これがつく動詞の活用類型によって使い分けられていたのが、助詞「て」があらゆる動詞の連用形を承けることができるために、本来は「り」が用いられていた動詞の承けにも「たり」が使われるようになり、平安時代の女流文学系の文章では、「たり」の使用が「り」の5倍から8倍の頻度をもつようになったのだそうです。
こうして「り」は衰滅の道をたどり、「たり」が広く使われるにいたり、現代ではその「たり」の後身である「た」だけが使われるようになった、ということです。なるほどなるほど。
で、肝心の意味のほうですが、「り」も「たり」も本来は、存続・持続の意を示すものだったそうです。しかし、動詞には意味上、①時間的に持続・継続することがもともと当然であるものがある。また、②時間的には、動詞が瞬間的に一回ずつ完結するものがある。そこで①を「り」「たり」が承けた場合は「・・・している」の意で、その状態のままの持続・存続の意を示すことが多く、②を承けた場合は、その動作が済んだ結果が、状態として存続している意を表すことになる。・・・というのが古語辞典の説明でした。
「似る」は、この説明の①の動詞の例に含まれています。たしかに「似る」は、もともと状態を表わす動詞だから、「意味上、時間的に持続・継続することがもともと当然」です。したがって、「似たり」は、似ている、「・・・という状態のまま持続・存続の意を示す」ことになる、というわけです。
だから、ことさらに、「似てしまった」とか「完了の助動詞」を意識した訳語を考えたりする必要はない、というか、そういう読みかたはむしろ間違いだということになって、腑に落ちました。
もうひとつ、「かつ」という言葉も、現代語(「且つ)に、並行して起こる事象なり行動なりをいうのに使う言葉として残っていますが、この歌のように「かつ散る」というふうな使い方はしないでしょうから、ちょっとひっかかります。
でも意味的には問題なく、「一方である動作・作用の行なわれると同時に、他方で、も一つの動作・作用の行なわれる意」で、なんら今の用法と変わらないようです。ただ、そこから派生して古語辞典には「すぐに、次に」といった語釈も記載されています。現代語の「かつ」は、ふつうは「すぐに」という明示的な意味は持たないでしょう。
でも意味的には問題なく、「一方である動作・作用の行なわれると同時に、他方で、も一つの動作・作用の行なわれる意」で、なんら今の用法と変わらないようです。ただ、そこから派生して古語辞典には「すぐに、次に」といった語釈も記載されています。現代語の「かつ」は、ふつうは「すぐに」という明示的な意味は持たないでしょう。
あたらしい言葉でも古い言葉でも、言葉には昔からある種の関心があって、古文は嫌いではない科目だったので、こうして懐かしくも苦労した古文の文法をおさらいするのは、けっこう楽しい(笑)。
74 桜花散らば散らなん散らずとてふるさと人の来ても見なくに 惟喬親王
桜花よ、散るなら散っておくれ、散らなくてもこの里にかつて住んだ人が見に来てくれるわけではないのだから
「僧正遍昭によみておくりける」という詞書が添えられています。
惟喬親王が文徳天皇の第一皇子だったのに、母親が紀氏の出で後ろ盾が弱く、当時権勢を誇った藤原良房を外祖父にもつ第四皇子惟仁親王が清和天皇として皇位を継いだ史実から、皇位継承争いに敗れた悲運の皇子という説話的な物語が流布されたせいで、この「ふるさと」を志を得ずに小野の里に隠棲した惟喬親王がかつて自分が住んだ、そしていまも心を寄せる都と解して、「ふるさと人」を都人とする解釈が多いのだそうです。
しかし、惟喬親王の後ろ盾に擬せられる在原氏・紀氏ではせいぜい在原行平の参議がのぼりつめた最高位で、かた惟仁親王の外祖父藤原良房は太政大臣、外叔父の基経が右大臣で、もともと勢力争いなど起りようがなく、実際,惟仁親王の即位は天安二年(858)で、惟喬親王が出家した貞観十四年(872)より14年も前のことで、立太子にいたっては22年も前のことだったそうです。
だから、諸説が陰に陽に拠り所にしているような背景は史実的に成り立たないこと、さらにその語釈のように現在の都を「さと」と称することはありえない、ということで、片桐さんはすべては後代の説話であって、この歌は惟喬親王がこの歌を贈った僧正遍昭が、いま親王の隠棲する小野にいたことがあると考えるよりほかない、と明快です。
「ふるさと」は本来の字義どおり「昔親しんだが、今では疎遠になっている所」であって、その主語は遍昭で、彼にとっての「ふるさと」なのであって、「ふるさと人」は遍昭その人を指す、と解釈しています。
だから、諸説が陰に陽に拠り所にしているような背景は史実的に成り立たないこと、さらにその語釈のように現在の都を「さと」と称することはありえない、ということで、片桐さんはすべては後代の説話であって、この歌は惟喬親王がこの歌を贈った僧正遍昭が、いま親王の隠棲する小野にいたことがあると考えるよりほかない、と明快です。
「ふるさと」は本来の字義どおり「昔親しんだが、今では疎遠になっている所」であって、その主語は遍昭で、彼にとっての「ふるさと」なのであって、「ふるさと人」は遍昭その人を指す、と解釈しています。
こうして論理を尽くして説明されると、片桐さんの解釈によるほかはなさそうに思われます。
ただ、実際に僧正遍昭が小野(大原)にかつて住んでいたことがある、という証拠はないそうで、「遍昭の住んでいた寺は元興寺と雲林院以外は確認できない」(p546)と書かれていますが、この「元興寺」は、遍昭が開山した山科花山の「元慶寺」の誤り(誤植?)でしょう。
いずれにせよ、惟喬が隠棲していたとされる小野は、いまの大原の古名らしいし、元慶は今の山科区、雲林院は紫野ですから、遍昭が小野にいたかどうかは史実からは分からないわけです。逆に、遍昭がいたことが分かっている元慶寺や雲林院に惟喬親王が住んでいたという記録もないそうですから、史実的に片桐さんの解釈を裏付けることはできないようです。
ただ、実際に僧正遍昭が小野(大原)にかつて住んでいたことがある、という証拠はないそうで、「遍昭の住んでいた寺は元興寺と雲林院以外は確認できない」(p546)と書かれていますが、この「元興寺」は、遍昭が開山した山科花山の「元慶寺」の誤り(誤植?)でしょう。
いずれにせよ、惟喬が隠棲していたとされる小野は、いまの大原の古名らしいし、元慶は今の山科区、雲林院は紫野ですから、遍昭が小野にいたかどうかは史実からは分からないわけです。逆に、遍昭がいたことが分かっている元慶寺や雲林院に惟喬親王が住んでいたという記録もないそうですから、史実的に片桐さんの解釈を裏付けることはできないようです。
そうすると、惟喬親王を悲運の皇子としてその出家隠棲を皇位継承争いに敗れた失意によるというのは、片桐さんの上述の説明から、史実的に見て誤りであると判断できますから、残る論点は「ふるさと人」の解釈にかかってきます。
「ふるさと」が現代の「故郷」の意とは異なり、片桐さんのいう「昔親しんだが、今では疎遠になっている所」という意味であることは、いずれの説をとろうと認められるでしょう。
しかし、これを惟喬親王の立場から、「昔そこに暮らしていたが、今では疎遠になってしまっている都」を指しているとして、「ふるさと人」は「みやこびと」だというのが諸説の中でみられる考え方のようです。
いくら自分がいたところで、いまは疎遠になっている所だからといっても、いまの都を言うのに「ふるさと」と言うだろうか、と考えてみると、片桐さんのように当時詠まれた歌についての博覧強記をもって、、そんな例はない、と実証はできなくても、素人の私たちでも感覚的には大いに疑問ですね。
いくら自分がいたところで、いまは疎遠になっている所だからといっても、いまの都を言うのに「ふるさと」と言うだろうか、と考えてみると、片桐さんのように当時詠まれた歌についての博覧強記をもって、、そんな例はない、と実証はできなくても、素人の私たちでも感覚的には大いに疑問ですね。
もうひとつ、わたしは片桐さんが挙げている上のような論拠のほかに、「僧正遍昭によみておくりける」という詞書が、この歌を読み解く鍵ではないかと思います。
もしも上述の諸説のように、惟喬が桜を見ながら、「散るなら散ってくれ、どうせ私が長く住んで親しんでいたふるさとである都の人たちは見に来やしないんだから」、と自分の隠棲の境遇をはかなんで歌っているのだすれば、わざわざ遍昭に贈った歌と記すことの意味はほとんど無くなってしまい、単に惟喬親王が自身の境涯を嘆く歌、心情を吐露する歌というに過ぎないことになるでしょう。
それなら詞書も不要だし、わざわざこういう詞書が添えられたのは、よほど惟喬親王と遍昭が親しくて、自分一人の嘆き節を聴いてくれる一番の親友だから彼に贈ったんだ、という特別の関係を表現するためとでも考えるしかないでしょう。実際、諸説のような読みかたをすれば、意味的には、誰に贈ってもいい歌になってしまうからです。
でもこの歌の成り立ちはそうではなくて、わざわざ僧正遍昭に贈ったと詞書に言うのは、遍昭という特定の人物に歌でもって語りかけているからで、「いまここに見事に桜が咲いているけれど、それが散っても、あなたは見には来ないのでしょうね(一度見においでよ)」と問いかけ、あるいは誘い掛けるコミュニケーション的機能をもった歌に違いない、と思うのです。
その遍昭が以前にこの地に馴染んでいた人物であったら、「あなたもかつては馴染んだ土地の人だったのに、いまは縁遠くなって、訪ねてこようともしないんですね」と、よけいにその気持ちが生きてきます。それが「ふるさと人」という言葉に表現されているから、この言葉が詞書と響き合って、この歌の要になっているんだと思います。
やはり「ふるさと人」はこの歌を贈った相手である遍昭を指し、惟喬親王がいま暮らすこの土地が、遍昭からみて「ふるさと」、つまり「昔親しんだが、今では疎遠になっている所」だというほうがずっと落ち着くでしょう。ただし、そのためには実際に遍昭がこの小野に住んだことがあるのでなければ、その意味合いでのこの歌は成立しません。なにかでそれが証明されるときが来ればすっきりするのですが・・・
余談ですが、以前に私が「疫病除け」の効能をもつ神社として、何度か訪れた「玄武神社」は、この惟喬親王を祀った神社でした。北区紫野雲林院町にあります。
余談ですが、以前に私が「疫病除け」の効能をもつ神社として、何度か訪れた「玄武神社」は、この惟喬親王を祀った神社でした。北区紫野雲林院町にあります。
75 桜散る花の所は春ながら雪ぞ降りつつ消えがてにする 承均(そうく)法師
桜が散る樹上を見上げればその花のあたりは春であるのに、樹下に目をやればなおも散り落ちる花はまるで雪が降り続けて先に降った雪を消えがたいものとしているかのように、花びらが積もって地面を覆い尽くしていくよ
詞書に「雲林院にて、桜の花の散りけるを見てよめる」とあり、片桐さんはひとつ前の74番歌の詞書にみえる「僧正遍昭」の連想によって「雲林院」を舞台とするこの歌がここに配列されたと見てよいだろう、と述べています。遍昭は仁明天皇の勅命で、紫野にあった雲林院を管理していたのだそうです。もと淳和天皇の離宮だったもので、母屋に居住していた常康親王が出家後は、遍昭によって元慶寺の別院となったのだそうです。(この部分の記述も、私がみている文庫本の548ページでは「元興寺の別院となった」とあるのですが、これも「元慶寺」の誤植でしょう。)
それにしても、古今集の歌の配列について行き届いた片桐さんの解説を読んでいると、紀貫之という撰者が歌の選定だけでなく、歌集におけるそれぞれの歌の配列に、いかに繊細な気配りをし、知恵を傾けていたかに気づかされ、この歌集の読み方ががらっと変わって行くのを感じます。
この歌を詠んだ承均法師についてはよくわかっていないようですが、一つ跳んで77番の歌も承均法師の歌で、「雲林院にて、桜の花をよめる」という詞書がついているので、片桐さんは雲林院が遍昭によって元慶寺の別院となって以後、ここに居住した遍昭の弟子だったかもしれない、と推測しています。
雲林院は光源氏が藤壺への想いを断ち切れずに鬱々としているとき籠って、天台経典六十巻を読んで熱心に坊主たちに分かりにくいところについて尋ねたりしていたところで、紫式部もこのへんで生まれ育ったのではないかと言われているようで、なにかと紫式部とは縁の深いところのようです。彼女の産湯の井戸というのが、かつては雲林院の境内だったいまの大徳寺真珠院にあるそうです。
能の雲林院では在原業平の霊が出てきます。業平ー惟喬親王ー遍昭も縁の深いつながりですね。
大鏡ではこの物語の発端になる大宅世継と夏山茂樹が出会う菩提講の行なわれる場として知られ、当時はよほど大きな寺だったようです。私は訪れた記憶がなかったので、地図を見て今日自転車で行ってきました(笑)。そしたら、いま「雲林院」として残っているお寺は、ほんとに小さなお寺で中に祀られている観音さんなども新しいようです。
ただ、門前にはこんな風に解説の立て札があり、左手には昔の雲林院のあとを示す地図も添えてありました。今の寺は、昔の大きな敷地の東の端っこに位置しているようです。昔の雲林院はいまの大徳寺境内から、南は北大路を越えて、いまの若宮神社や玄武神社のあたりもすっぽり収まる広大な敷地だったようで、桜や紅葉の名所でもあったようです。
能の雲林院では在原業平の霊が出てきます。業平ー惟喬親王ー遍昭も縁の深いつながりですね。
大鏡ではこの物語の発端になる大宅世継と夏山茂樹が出会う菩提講の行なわれる場として知られ、当時はよほど大きな寺だったようです。私は訪れた記憶がなかったので、地図を見て今日自転車で行ってきました(笑)。そしたら、いま「雲林院」として残っているお寺は、ほんとに小さなお寺で中に祀られている観音さんなども新しいようです。
ただ、門前にはこんな風に解説の立て札があり、左手には昔の雲林院のあとを示す地図も添えてありました。今の寺は、昔の大きな敷地の東の端っこに位置しているようです。昔の雲林院はいまの大徳寺境内から、南は北大路を越えて、いまの若宮神社や玄武神社のあたりもすっぽり収まる広大な敷地だったようで、桜や紅葉の名所でもあったようです。
新古今の歌人・肥後が五月に雲林院の菩提講に参詣して詠んだ歌にこんな歌があります。(この歌を古今集の歌と書いたものを見かけますが、新古今和歌集の間違いでしょう。)
紫の雲の林を見わたせば法(のり)にあふちの花咲きにけり 肥後(『新古今和歌集』巻二十 釈教歌 1930)
(紫野の、仏の来迎を告げる紫の雲がたなびく林のあたりを見渡せば、まさに仏法に「あふ(遇う)」という名の「あふち(樗)」の紫色の花が咲いていたのだったよ)
さて、75番の承均法師の歌は、片桐さんも「やや言葉足らずでわかりにくい歌」だと言い、彼自身は「桜散る花の所は」を「桜が散るこの花の名所においては」と現代語訳しています。「花の所」を「①花の咲いている所とする説と②花の名所とする説があるが、結果的には②の意味に集約されていると見てよかろう」としています。これについては、私は珍しく片桐さんの解釈に疑問を覚えました。
たしかに散る桜が雪のように地面を覆うほど降っている光景が詠みたかったには違いないでしょうが、この歌は上の句で視線をいままさに散りかけた樹上の枝々の満開の桜に向け、これは当然に春の景色。次に下の句ではその視線を、まるで降る雪のように絶え間なく散り落ちて地面を覆っていく樹下の花に向け、これを雪と観じて、その上の句と下の句を対比的に表現しているところに、この歌の眼目があるはずです。
単に最初から最後までのっぺりと落花を降雪にたとえました、という歌ではない。桜を雪に、落花を降雪に喩えながら、同時に両者を対比的に、樹上にまだ満開で咲き乱れる花に向ける視線を、雪のように散り落ちる無数の花びらが積もって白く覆われていく樹下に向ける視線に向ける<転換>として表出しているところに特徴があります。
「喩」と同時に、「転換」に、この歌の表出のポイントがあり、表現価値に関わる方法があるのだと思います。
片桐さん自身が、この歌は分かりにくいが、藤原俊成が『古来風躰抄』でこの歌をとりあげ、紀貫之の歌がこの承均法師の歌を「やはらげてよみなした」と言っているのをヒントにすれば、少しは理解できる、と書いています。その貫之の歌と言うのはこれです。
桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける 貫之(『拾遺集』春・64
この歌に対する俊成の注は次のとおりです。
この歌は、古今に承均法師、「花のところは春ながら」といへる歌の、古き様なるを、和げて詠みなしたれば、末の世の人の心に叶へるなり。
「この貫之の歌は、『桜散る木の下風は』春であるゆえに『寒』くないが、上空には人に『知られぬ雪』がまだ降っているよと言って、上空の雪の降るさまと下界の桜の散るさまを重ね合せて、一種の幻想美にまで仕立てあげている」というのが、片桐さん自身の解説です。
この貫之の歌が承均法師のこの歌を「やはらげてよみなした」というのであれば、貫之が承均の歌に読みとったのは、「花≒雪」の<喩>だけではなく、承均の歌ではなお視線の位置と対比が曖昧であった<転換>を、上句の「桜散る木の下風」から、これと対比的な、下句の「空に知られぬ雪」への、「下→上」という明確で、鮮やかな<転換>として表現してみせたところに、貫之の「よみなおし」のポイントがあったのだと考えるのが自然ではないでしょうか。
でも不思議なことに、片桐さんはわざわざ俊成の注を持ち出して上述のような解説をしながら、それにつづいて「この承均法師の歌が『雪で降りつつ消えがてにする』-春でありながら雪が降っているようだと言い得たのは、その『所』が花の名所である雲林院だったことに負っている」という、「花の所=花の名所」論へ戻ってしまうのです。
ただ、私の読みは、あくまでも俊成の注に従って貫之の歌を、承均の歌の意を汲んで、より歌意が鮮明に表現されるように詠みなおしたのだと考える限り、上述のような<転換>が歌の表出の核になるはずだ、と考えて、逆に、貫之の歌では明確なその<転換>が、曖昧な形ではあっても承均の歌にもあるはずだ、と見なす限り、そのように読めるだろう、というものです。
したがって、貫之の歌が俊成の注の説明とは違って、承均の歌とは関わりがなく詠まれたものであるか、あるいは貫之が承均の歌に読みとったと私が考えた<転換>が承均の歌自体にもともと表出意識として存在しない、ということになれば、わたしの解釈は成り立たないので、むしろ素直に承均の歌を読めば、詞書と響き合うかたちで、その雲林院が花の名所であることを強く押し出して、この花の名所では、こんなにも花が散り積もって融ける間のない雪のようだと詠んだだけだ、とするほうが自然でしょうね。
俊成が「『花のところは春ながら』といへる歌の、古き様なるを」を言っているのも、「花の名所は春でありながら」と名所に花が雪のように降って積もっているよ、というだけなら本当に「古き様」でしょうけれど、桜を雪に見立てるのみならず、樹上の桜と落花する樹下の桜を<転換>で対比してみせるとなると、うまくいったかどうかは別として、表出の試みとしてはチャレンジングなものでしょうから、「古き様」の歌とは言えそうもない、となると、やっぱり片桐さんの読みでよかったのかな(笑)
76 花散らす風の宿りは誰か知る我に教へよ行きて怨みむ 素性法師
花を散らす風の宿を誰か知っているだろうか。知っていれば私に教えてください、行って恨み言を言ってきましょう。
「桜の花の散り侍りけるを見てよみける」という詞書がついています。
易しい何ということもない歌に思えますが、「風の宿り」という表現が、当時新鮮だったのか、この歌の問い掛けに応える形の、影響をうけた歌がけっこうあるようで、片桐さんは次のような例を挙げています。
恨みばや風の宿りやこれならむ花散り積もる谷の岩かげ(『壬二集』212)
知る人も行きて恨みむ夏山の風の宿りや松の下蔭(同・1567)
幾秋の風の宿りとなりぬらむあと絶えはつる庭の荻原(『新勅撰集』秋上・藤原成宗)
荻の葉にありけるものを花ゆゑに春もうかりし風の宿りは(『続古今集』秋上・澄覚)
77 いざ桜我も散りなんひとさかりありなば人にうきめ見えなん 承均法師
さあ桜よ、私もともに散ってしまいましょう、盛んなひとときがあれば、後には人に情けないありさまを見られることでしょうから。
「雲林院にて、桜の花をよめる」という詞書が添えられています。
この歌では「ひとさかり」という言葉が特徴的で、際立っています。本来は人の盛んな時期についていう言葉のようで、桜のような花や木にいうのは珍しいのでしょうが、ここでは桜の盛りと人の盛りを重ね合わせてこの言葉で表現しているところに、表出価値の源があるのでしょう。
片桐さんは、異本系の伊勢物語(宮内庁書陵部の阿波國文庫旧蔵本)に、男から去って行く女が詠み残す同趣旨の、ただし女の気持ちに立って詠まれた歌を挙げています。
いざ桜散らば散りなむひと盛りありへば人にうきめ見えなむ
すっかり長くなってしまいました。きょうはこのへんで。
to be continued ・・・
すっかり長くなってしまいました。きょうはこのへんで。
to be continued ・・・
saysei at 18:33|Permalink│Comments(0)│
2022年02月24日
ステルス化するコロナウィルスと医療体制
昨日23日夕刻の時点で、国内の1日の新たなコロナウィルス感染者数は8万人強、累計ではほぼ470万人、死者が2万2586人にのぼっているそうです。東京の新規感染者数は1万4,567人、大阪が1万1,472人で、累積感染者数は東京が94万人強、大阪が61万人強です。
首都圏1都3県の合計でみると、新規感染者数が2万,714人、累積では190万3,786人、近畿2府4県の合計は、、新規感染者数が21,456人、累積では108万8,957人で、当初のような東京突出から、大阪を中心とする関西も首都圏並みに近づく様相を呈しています。死者は東京3,527人、首都圏7,547人、大阪3,739人、近畿圏6,331人と大阪の状況が悪くなっているようです。
オミクロン株もいま猖獗を極めているタイプとは異なるタイプが出てきて、これが感染力の強さが脅威と言われてきた従来のタイプに輪をかけて感染力が強いことが分かったそうで、まだ少数例ではあるけれどすでに国内各所で見つかり始めていて、感染源不明の市中感染が疑われる状況で、恐らくすでに相当市中感染を広げているものと考えられる、ステルスタイプのウィルスだそうです。
昨日だか一昨日だかテレビを見ていたら東大のなんとか研究所の比較的若手の研究者が、この新しいタイプのオミクロン株は感染力が強いばかりではなく、マウスか何かの実験での結果を見る限り、毒性も従来型より強いことがわかったとか言っていて、まだ人間の場合どうとか、分からないことだらけですが、警戒が必要なことは事実のようで、一部の気の早い御仁のように、オミクロン株なんて死亡率はインフルエンザより一桁低いくらいだから気にする必要はない、なんていうわけにもいかないようです。
実際、いまのオミクロン株でも、軽い軽いと言われながら、感染者数が爆発的に増えてきたら、やっぱり死亡者の実数が無視できないほど増えてきましたね。たしかに若い人は感染しても無症状や軽症がほとんどらしいけれど、基礎疾患をかかえた高齢者となると、やっぱり非常にリスクが高いようです。
もうコロナも第6波となり、3年目ともなれば、いいかげん医療体制も整っていいように思うのですが、テレビの報道を見ると、いまだに重症化しかかっているような患者を入院させて適切な治療をしてくれる病院がなくて、無理やり自宅待機させられたり、献身的な地域の医師の訪問治療でもたせているような例が報じられていて、実際に容態が急変して対応が間に合わずに亡くなる例も後を絶たないようです。
一体、この国の医療体制はどうなっているのか、医師会や厚労省など国は何をやっているのか、と誰もが首を傾げざるを得ない事態です。
きょうの日経新聞「コロナが問う 医療再建(中)」という記事が、その辺のおどろくべき事情の一端を明かしてくれています。
最初に書かれているのは、「第3波」で緊急事態宣言発令中の昨年1月下旬、都内でコロナ対応の病床使用率が8割を超え、搬送先が見つからず救急車が立ち往生する事態が相次いだ、ということですが、記事の眼目は患者の急増に対して病床の絶対数が不足していたというところにはないのです。ある病院は約100床の確保病床がほぼ満床だったけれど、すぐ近くの病院は約20床のうち1床しか使っていなかった。それはコロナ患者の受け入れを拒んだのではなく、「空き病床を国や都の病床報告システムに入力していたが、感染者の急増で保健所がパンクして調整できなかったのだ」そうです。つまり受け皿はちゃんと用意されているのに、その情報を的確に把握し、患者の配送というアクションにつなぐソフトウエア、人的組織のありように問題があったのです。
このブログでも、コロナ感染がはじまった当初から、厚労省-保健所ラインの硬直した考え方や問題の処理の仕方には疑問を投じてきました。感染症対策のメインキャストであるはずの、これらの組織がとてもまともに機能しているようには、素人目にもまったく見えなかったからです。いまこういう記事を読むと、やっぱりか、という思いしかありません。
記事はつづけて、政府が第3波以降、1床あたり最大1950万円の補助金を出して確保病床を約3万床から5千床ほど上積みしたけれど、それでも21年夏の第5波では病床使用率が6割程度で医療逼迫が起きたと述べています。そして、「補助金を受けながら患者を積極的に受け入れない『幽霊病床』の疑いも浮上したが、データを公開しないために実態はつかめずじまいだった」と。
このちゃっかり補助金だけ受け取って患者を拒む病院が少なくないことは、以前に報道されたとき、このブログでも書いた記憶があります。東京都では知事が調査をして、コロナ患者を拒んでいたのに補助金を受け取っていたところには返してもらう、というようなことを言っていたはずですが、どうやらうやむやにしてしまったようです。
直接間接の医師会の圧力か何かが働いて、政治家は政治的な利害と天秤にかけて、そういう税金泥棒の医療機関経営者を見逃すことにしたんじゃないか、と勘繰りたくなりますね。税金がもとでとなるとこういう連中は使いたい放題、懐に収めたい放題で、誰も責任などとらないし、追及もうやむやにしてしまって何とも思わないようです。
こうして「コロナ禍は日本が医療提供体制の『病巣』を放置してきた現実を浮き彫りにしてきた。最大の問題は乱立する病院の統合再編が進まなかったことだ。」というのがこの記事の主旨です。
人口当たりの病床数は世界一多いのだそうですが、1床あたりの医師や看護師は少ないので、新しい感染症など非常時に柔軟に対応できないのだそうです。重篤な患者に対応できない「なんちゃって急性期病床」が多い、と。医師や看護師が少なくても急性期病床と届けることで高額な診療報酬を認めているために、中小病院が急性期病床を手放さないんだそうです。まさに「医は算術」ですね。
こういう医療機関の患者そっちのけの儲け主義に、厚労省や政府が甘いから、「なんちゃって急性期病床」などという他国では考えられないような、いざ国民の命が危機に瀕する非常事態に直面した時、何の役にも立たない、悪質な医療機関がわんさと存在しているわけです。単に医療設備や人材が不足している、ということではなくて、これはもともと急性期病床を備える病院としての資格のない病院が、高額の医療費ほしさに偽って急性期病床と申告して意図的に税金泥棒をしている、犯罪的な行為なのですが、「うちだけじゃないよ、どこだってやってることだから」で済んでいるのでしょう。
世の中にそういうあくどい人間や組織があること自体は、ほかの世界でもあることで、仕方がありません。問題はそういうのを国民の税金を使って養っている厚労省や政府の無責任さにあることは明らかです。
こんな悪質な病院はいくらあっても、いざというときに国民の命が守れないのですから、さっさと退場してもらうべきでしょう。そんな税金泥棒の悪質な病院経営者を守っているのが政治力のある医師会なら、医師会というのもさっさと解体されるほうがいいでしょう。国民にとっては百害あって一利もない存在だからです。
今のコロナパンデミックもまだしばらくは続くでしょうが、その後もあらたな感染症が世界を襲うことは歴史をちょっと振り返るだけでも、避けられないことだとわかるでしょう。まともな政治家がいるなら、せめてそのときまでには日本もまっとうな備えができるよう、日経記事の書くように「医療界の資源や人材を総動員できる司令塔となる政府機関」を新設し、「個別病院の経営判断に任せず、地域や国にとって全体最適となる目標を示し、病床再編を強力に推し進めること」が不可欠でしょう。
首都圏1都3県の合計でみると、新規感染者数が2万,714人、累積では190万3,786人、近畿2府4県の合計は、、新規感染者数が21,456人、累積では108万8,957人で、当初のような東京突出から、大阪を中心とする関西も首都圏並みに近づく様相を呈しています。死者は東京3,527人、首都圏7,547人、大阪3,739人、近畿圏6,331人と大阪の状況が悪くなっているようです。
オミクロン株もいま猖獗を極めているタイプとは異なるタイプが出てきて、これが感染力の強さが脅威と言われてきた従来のタイプに輪をかけて感染力が強いことが分かったそうで、まだ少数例ではあるけれどすでに国内各所で見つかり始めていて、感染源不明の市中感染が疑われる状況で、恐らくすでに相当市中感染を広げているものと考えられる、ステルスタイプのウィルスだそうです。
昨日だか一昨日だかテレビを見ていたら東大のなんとか研究所の比較的若手の研究者が、この新しいタイプのオミクロン株は感染力が強いばかりではなく、マウスか何かの実験での結果を見る限り、毒性も従来型より強いことがわかったとか言っていて、まだ人間の場合どうとか、分からないことだらけですが、警戒が必要なことは事実のようで、一部の気の早い御仁のように、オミクロン株なんて死亡率はインフルエンザより一桁低いくらいだから気にする必要はない、なんていうわけにもいかないようです。
実際、いまのオミクロン株でも、軽い軽いと言われながら、感染者数が爆発的に増えてきたら、やっぱり死亡者の実数が無視できないほど増えてきましたね。たしかに若い人は感染しても無症状や軽症がほとんどらしいけれど、基礎疾患をかかえた高齢者となると、やっぱり非常にリスクが高いようです。
もうコロナも第6波となり、3年目ともなれば、いいかげん医療体制も整っていいように思うのですが、テレビの報道を見ると、いまだに重症化しかかっているような患者を入院させて適切な治療をしてくれる病院がなくて、無理やり自宅待機させられたり、献身的な地域の医師の訪問治療でもたせているような例が報じられていて、実際に容態が急変して対応が間に合わずに亡くなる例も後を絶たないようです。
一体、この国の医療体制はどうなっているのか、医師会や厚労省など国は何をやっているのか、と誰もが首を傾げざるを得ない事態です。
きょうの日経新聞「コロナが問う 医療再建(中)」という記事が、その辺のおどろくべき事情の一端を明かしてくれています。
最初に書かれているのは、「第3波」で緊急事態宣言発令中の昨年1月下旬、都内でコロナ対応の病床使用率が8割を超え、搬送先が見つからず救急車が立ち往生する事態が相次いだ、ということですが、記事の眼目は患者の急増に対して病床の絶対数が不足していたというところにはないのです。ある病院は約100床の確保病床がほぼ満床だったけれど、すぐ近くの病院は約20床のうち1床しか使っていなかった。それはコロナ患者の受け入れを拒んだのではなく、「空き病床を国や都の病床報告システムに入力していたが、感染者の急増で保健所がパンクして調整できなかったのだ」そうです。つまり受け皿はちゃんと用意されているのに、その情報を的確に把握し、患者の配送というアクションにつなぐソフトウエア、人的組織のありように問題があったのです。
このブログでも、コロナ感染がはじまった当初から、厚労省-保健所ラインの硬直した考え方や問題の処理の仕方には疑問を投じてきました。感染症対策のメインキャストであるはずの、これらの組織がとてもまともに機能しているようには、素人目にもまったく見えなかったからです。いまこういう記事を読むと、やっぱりか、という思いしかありません。
記事はつづけて、政府が第3波以降、1床あたり最大1950万円の補助金を出して確保病床を約3万床から5千床ほど上積みしたけれど、それでも21年夏の第5波では病床使用率が6割程度で医療逼迫が起きたと述べています。そして、「補助金を受けながら患者を積極的に受け入れない『幽霊病床』の疑いも浮上したが、データを公開しないために実態はつかめずじまいだった」と。
このちゃっかり補助金だけ受け取って患者を拒む病院が少なくないことは、以前に報道されたとき、このブログでも書いた記憶があります。東京都では知事が調査をして、コロナ患者を拒んでいたのに補助金を受け取っていたところには返してもらう、というようなことを言っていたはずですが、どうやらうやむやにしてしまったようです。
直接間接の医師会の圧力か何かが働いて、政治家は政治的な利害と天秤にかけて、そういう税金泥棒の医療機関経営者を見逃すことにしたんじゃないか、と勘繰りたくなりますね。税金がもとでとなるとこういう連中は使いたい放題、懐に収めたい放題で、誰も責任などとらないし、追及もうやむやにしてしまって何とも思わないようです。
こうして「コロナ禍は日本が医療提供体制の『病巣』を放置してきた現実を浮き彫りにしてきた。最大の問題は乱立する病院の統合再編が進まなかったことだ。」というのがこの記事の主旨です。
人口当たりの病床数は世界一多いのだそうですが、1床あたりの医師や看護師は少ないので、新しい感染症など非常時に柔軟に対応できないのだそうです。重篤な患者に対応できない「なんちゃって急性期病床」が多い、と。医師や看護師が少なくても急性期病床と届けることで高額な診療報酬を認めているために、中小病院が急性期病床を手放さないんだそうです。まさに「医は算術」ですね。
こういう医療機関の患者そっちのけの儲け主義に、厚労省や政府が甘いから、「なんちゃって急性期病床」などという他国では考えられないような、いざ国民の命が危機に瀕する非常事態に直面した時、何の役にも立たない、悪質な医療機関がわんさと存在しているわけです。単に医療設備や人材が不足している、ということではなくて、これはもともと急性期病床を備える病院としての資格のない病院が、高額の医療費ほしさに偽って急性期病床と申告して意図的に税金泥棒をしている、犯罪的な行為なのですが、「うちだけじゃないよ、どこだってやってることだから」で済んでいるのでしょう。
世の中にそういうあくどい人間や組織があること自体は、ほかの世界でもあることで、仕方がありません。問題はそういうのを国民の税金を使って養っている厚労省や政府の無責任さにあることは明らかです。
こんな悪質な病院はいくらあっても、いざというときに国民の命が守れないのですから、さっさと退場してもらうべきでしょう。そんな税金泥棒の悪質な病院経営者を守っているのが政治力のある医師会なら、医師会というのもさっさと解体されるほうがいいでしょう。国民にとっては百害あって一利もない存在だからです。
今のコロナパンデミックもまだしばらくは続くでしょうが、その後もあらたな感染症が世界を襲うことは歴史をちょっと振り返るだけでも、避けられないことだとわかるでしょう。まともな政治家がいるなら、せめてそのときまでには日本もまっとうな備えができるよう、日経記事の書くように「医療界の資源や人材を総動員できる司令塔となる政府機関」を新設し、「個別病院の経営判断に任せず、地域や国にとって全体最適となる目標を示し、病床再編を強力に推し進めること」が不可欠でしょう。
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ロシアのウクライナ侵略
きょうはテレビをつけると、ロシアのウクライナ侵攻のニュースでもちきりです。メディアに出て来る多くの評論家と同様に、ウクライナ国内でロシア系の軍人らが実効支配しているらしい二州に侵攻して、ロシア系住民保護を口実に独立宣言でもさせて、実質的にロシア領にしてしまうくらいのことはやりそうだ、と思っていましたが、どうやら演習と称してウクライナを包囲していた十数万の兵を動かして、三方から攻撃したようです。
いまのところ(24日夕)、大規模な地上戦には至っていないようですが、一部陸戦部隊が国境を超えて侵攻したようだし、首都キエフ近郊の飛行場を含むウクライナ各地の対空防衛施設をミサイルやら砲撃やらを動員して壊滅させようという狙いの攻撃を行ったようです。すでに死傷者もいくらか出たようです。
プーチンの発言を昨日ニュースで聞いていたら、ウクライナは隣国などではなくて、歴史的・文化的にロシアと切り離すことのできない一部なのだ、というふうなことを言っていて、そもそも独立国として認める前提がないようです。だとすれば、これはもうずっと以前から念入りに計画された侵略で、欧米を始め世界はプーチンの意図を見誤ってきた、と言わざるを得ないのではないかと思います。
単にロシア系の住民が多い地域をウクライナから切り離そうとか、その二州をロシア領に組み入れようとか、NATOの東漸を食い止めようとかいう話ではない。いや当然それらを含むけれども、ウクライナはそもそもロシアの一部であって、これをソ連崩壊のときに無理やり引き裂いたやつが、不当に支配しているだけだから、ロシアには当然それを取り戻す権利があるんだ、と考えているとすれば、欧米をはじめとする外部の世界が、独立国に対する侵略は国際法違反で許容できない、と言っても、まったく聞く耳は持たないし、通じようがないでしょう。
しかも現実的にNATOに加わっていないウクライナを軍隊を派遣して支援することはしない、とバイデン米国大統領も明言していて、国連安保理はロシアが常任理事国として拒否権を持つからまったく機能しない。そして欧米にイラク侵攻のときのように国連外で多国籍軍を勝手につくってまでして、ウクライナを防衛しようという気はさらさらない。そうしたことは当然見越して、プーチンは何の心配もなく大国の腕力にものを言わせているわけでしょう。
ロシア人居住地域の住民がウクライナ政権から抑圧されているのを救出する、というふうな口実をでっち上げるにもプーチンは用意周到に、ここ何十年もかけて元ロシア軍の軍人やら元KGB要員みたいな連中を使ってウクライナの一部を軍事的に実効支配し、住民たちにウクライナ国籍とロシア国籍をとらせるなど、いくらかでも口実に実体的な装いをまとわせるために着々と準備をしてきたわけで、単にここ半年や一年でなにか緊張が高まったのがきっかけで、ロシアが出来心を起こして侵攻したわけではないでしょう。
だから当然欧米の制裁など想定内で、今の世界は情報も物流も金融も、みなグローバルかつ複雑にからみあってつながっているから、片方がその糸を断ったところで、その反作用はかならず切った側にも返って来るから、もっぱらロシアだけが追い詰められるような断ち方はできるはずがない、というのが実情だし、そんなことはとうにプーチンも織り込み済みでしょう。
実際、クリミア半島への侵攻についても、欧米の「制裁」はきわめて甘く、ロシアの拡張主義を抑止する効果をまるで持っていないことは、今回のウクライナ侵攻によってはしなくも証明されてしまいました。プーチンはクリミア半島侵攻の成功体験で、大いに学んだわけですが、欧米は何も学ばなかったわけです。
おそらくプーチンは一気に地上軍を入れて数万人を殺戮するようなことはしないでしょう。世界を本気で反ロシアの実際行動に駆り立ててしまうようなことは彼の得にはならないから、ウクライナの軍事的防備(ロシアから言えば「脅威」)を除去して、裸同然にしておいて、いざとなればいつでも再侵攻できる態勢を見せつけた上で、欧米と、ウクライナをNATOに加入させない確約をとりつけ、ロシア系住民保護の名目で二州の独立というロシアにとっての既成事実を認めさせ、時間をかけて他州にも、イスラエルがパレスチナの占領地へ自国民を移住させて既成事実化をはかったように、ロシア系住民を移住させるなど、「もともと歴史的、文化的にロシアの一部である」ことを<証明>し、思い出させようとする(笑)、あらゆるKGB的小細工をたくらんで、<ロシア>そのものをウクライナの土地に浸透させ、遠からず親ロ傀儡政権を立ててロシアに併合する魂胆でしょう。いかにもKGB出身のプーチンのやりそうなことです。
もっとも、欧米政権やNATOが善玉というわけではないので、イラク戦争にみるように、こうした国家権力はいざとなればいつでも自分たちの国家エゴむき出しで虐殺でもなんでもやってのけるわけですから、私は大したかわりはないと思っています。
そういう国家権力の争いのはざまで、一番わりをくうのは、いつもその土地にくらす、どこにでもいる私たちと同様の市民でしょう。実際にそこに住んでいて、そういう国家権力間の争いに巻き込まれれば、かならずおまえはどっちにつくんだ、と迫られて、どっちかの側に追いやられる以外に生きるすべのない、ほんとうはどっちも拒否したい、ひとりひとりの生活者にちがいないのです。
私はマスメディア的な傍観者にとって、どういう「決着」がつこうが、そんなことには何の関心もなく、とにかく一人でもそこで暮らす人たちが殺され、傷つくことがないよう、住民たちが平穏な日々を生きることができる状態に一刻も早く戻ることだけを念じています。
(追記)
今朝の日経新聞で面白かったのは、ロシア領に侵入したウクライナ軍車両を破壊して、5人の兵を殺した、とプーチン・ロシアが自作自演で、偽動画を作ってタス通信で報道させていたことが明らかになったという記事で、この映像に出て来る「ウクライナ軍の」はずの車両は、実はウクライナ軍が使用していない車両だったとか、その現場はタス通信を通じてロシア軍が発表したロシア国内の場所ではなくて、日経新聞が映像に映り込んでいた木の位置関係等を手掛かりに、映像とグーグルマップの写真を比較したところ、発表された場所から南西180キロの親ロシア派支配地域とロシア国境付近らしいことがわかったことなど、プーチン・ロシアのお粗末な情報戦術の虚偽がやすやすと暴かれて、ロシア国内を除く世界に配信されていることでした。
こういう小細工はほんと、いかにも元KGBのプーチンらしいやり口です。
いまのところ(24日夕)、大規模な地上戦には至っていないようですが、一部陸戦部隊が国境を超えて侵攻したようだし、首都キエフ近郊の飛行場を含むウクライナ各地の対空防衛施設をミサイルやら砲撃やらを動員して壊滅させようという狙いの攻撃を行ったようです。すでに死傷者もいくらか出たようです。
プーチンの発言を昨日ニュースで聞いていたら、ウクライナは隣国などではなくて、歴史的・文化的にロシアと切り離すことのできない一部なのだ、というふうなことを言っていて、そもそも独立国として認める前提がないようです。だとすれば、これはもうずっと以前から念入りに計画された侵略で、欧米を始め世界はプーチンの意図を見誤ってきた、と言わざるを得ないのではないかと思います。
単にロシア系の住民が多い地域をウクライナから切り離そうとか、その二州をロシア領に組み入れようとか、NATOの東漸を食い止めようとかいう話ではない。いや当然それらを含むけれども、ウクライナはそもそもロシアの一部であって、これをソ連崩壊のときに無理やり引き裂いたやつが、不当に支配しているだけだから、ロシアには当然それを取り戻す権利があるんだ、と考えているとすれば、欧米をはじめとする外部の世界が、独立国に対する侵略は国際法違反で許容できない、と言っても、まったく聞く耳は持たないし、通じようがないでしょう。
しかも現実的にNATOに加わっていないウクライナを軍隊を派遣して支援することはしない、とバイデン米国大統領も明言していて、国連安保理はロシアが常任理事国として拒否権を持つからまったく機能しない。そして欧米にイラク侵攻のときのように国連外で多国籍軍を勝手につくってまでして、ウクライナを防衛しようという気はさらさらない。そうしたことは当然見越して、プーチンは何の心配もなく大国の腕力にものを言わせているわけでしょう。
ロシア人居住地域の住民がウクライナ政権から抑圧されているのを救出する、というふうな口実をでっち上げるにもプーチンは用意周到に、ここ何十年もかけて元ロシア軍の軍人やら元KGB要員みたいな連中を使ってウクライナの一部を軍事的に実効支配し、住民たちにウクライナ国籍とロシア国籍をとらせるなど、いくらかでも口実に実体的な装いをまとわせるために着々と準備をしてきたわけで、単にここ半年や一年でなにか緊張が高まったのがきっかけで、ロシアが出来心を起こして侵攻したわけではないでしょう。
だから当然欧米の制裁など想定内で、今の世界は情報も物流も金融も、みなグローバルかつ複雑にからみあってつながっているから、片方がその糸を断ったところで、その反作用はかならず切った側にも返って来るから、もっぱらロシアだけが追い詰められるような断ち方はできるはずがない、というのが実情だし、そんなことはとうにプーチンも織り込み済みでしょう。
実際、クリミア半島への侵攻についても、欧米の「制裁」はきわめて甘く、ロシアの拡張主義を抑止する効果をまるで持っていないことは、今回のウクライナ侵攻によってはしなくも証明されてしまいました。プーチンはクリミア半島侵攻の成功体験で、大いに学んだわけですが、欧米は何も学ばなかったわけです。
おそらくプーチンは一気に地上軍を入れて数万人を殺戮するようなことはしないでしょう。世界を本気で反ロシアの実際行動に駆り立ててしまうようなことは彼の得にはならないから、ウクライナの軍事的防備(ロシアから言えば「脅威」)を除去して、裸同然にしておいて、いざとなればいつでも再侵攻できる態勢を見せつけた上で、欧米と、ウクライナをNATOに加入させない確約をとりつけ、ロシア系住民保護の名目で二州の独立というロシアにとっての既成事実を認めさせ、時間をかけて他州にも、イスラエルがパレスチナの占領地へ自国民を移住させて既成事実化をはかったように、ロシア系住民を移住させるなど、「もともと歴史的、文化的にロシアの一部である」ことを<証明>し、思い出させようとする(笑)、あらゆるKGB的小細工をたくらんで、<ロシア>そのものをウクライナの土地に浸透させ、遠からず親ロ傀儡政権を立ててロシアに併合する魂胆でしょう。いかにもKGB出身のプーチンのやりそうなことです。
もっとも、欧米政権やNATOが善玉というわけではないので、イラク戦争にみるように、こうした国家権力はいざとなればいつでも自分たちの国家エゴむき出しで虐殺でもなんでもやってのけるわけですから、私は大したかわりはないと思っています。
そういう国家権力の争いのはざまで、一番わりをくうのは、いつもその土地にくらす、どこにでもいる私たちと同様の市民でしょう。実際にそこに住んでいて、そういう国家権力間の争いに巻き込まれれば、かならずおまえはどっちにつくんだ、と迫られて、どっちかの側に追いやられる以外に生きるすべのない、ほんとうはどっちも拒否したい、ひとりひとりの生活者にちがいないのです。
私はマスメディア的な傍観者にとって、どういう「決着」がつこうが、そんなことには何の関心もなく、とにかく一人でもそこで暮らす人たちが殺され、傷つくことがないよう、住民たちが平穏な日々を生きることができる状態に一刻も早く戻ることだけを念じています。
(追記)
今朝の日経新聞で面白かったのは、ロシア領に侵入したウクライナ軍車両を破壊して、5人の兵を殺した、とプーチン・ロシアが自作自演で、偽動画を作ってタス通信で報道させていたことが明らかになったという記事で、この映像に出て来る「ウクライナ軍の」はずの車両は、実はウクライナ軍が使用していない車両だったとか、その現場はタス通信を通じてロシア軍が発表したロシア国内の場所ではなくて、日経新聞が映像に映り込んでいた木の位置関係等を手掛かりに、映像とグーグルマップの写真を比較したところ、発表された場所から南西180キロの親ロシア派支配地域とロシア国境付近らしいことがわかったことなど、プーチン・ロシアのお粗末な情報戦術の虚偽がやすやすと暴かれて、ロシア国内を除く世界に配信されていることでした。
こういう小細工はほんと、いかにも元KGBのプーチンらしいやり口です。
saysei at 19:11|Permalink│Comments(0)│