2021年11月
2021年11月30日
北山通のイチョウ
北山通のいちょう並木。もうイチョウの葉は歩道に半ば散っていますが、黄葉したイチョウの列の向こうにみえる比叡という景色は毎日自転車行の帰り道に見る風景だけれど、飽きません。
きょうは上賀茂の第三の野菜自動機で、またスグキをゲットしました。大きく綺麗なスグキ。あんまり綺麗だから、パートナーはこれは今年漬けた浅漬けじゃないかと言っています。でもビニール袋に入れ、鞄におさめて自転車の前の籠にほうりこんでいても、あの独特の強い臭いが漂うので、そんなに浅漬けとは思えないので、いま残っているのを食べた後が楽しみです。
きょうの哲学小僧は、ひととおり従弟の子のフーコー論の第7章を再読した上で、そこでもっぱら論じている『監獄の誕生』を読みにかかり、なんとか午前中2時間ちょっとかかって100ページほど読みました。『知の考古学』とは打って変わって、具体的な歴史的エピソードが大部分なので、わかりやすく、『知の考古学』とは違った面白さがあります。冒頭の罪人の処刑の模様を微に入り細に入り描写した部分でまず度肝を抜かれますが、フーコーも読者の驚く顔を想像してニヤニヤしながら書いたに違いありません(笑)。相当いたずらっ子っぽいところのある人なんだろうと思います。
この著作も彼の著作群の中ではもっともよく知られ、読まれもしたものだろうと思いますが、私はパラパラとめくって拾い読みしたことがある(ご多聞に漏れず、パナプティコンを論じた章だけ)のですが、通して最初から最後まで読んでいなかったので、今回も『知の考古学』同様、感想を書こうとしている従弟の子の本の第7章をいちおう礼を失しない程度には読めるように、まぁ仕方なく(笑)読むことにしたのです。彼は結局フーコーがカントの<批判>を歴史的批判として継承して、その全主要著作にその態度を貫いている、ということを立証しようとしているので、ほぼ全主要著作を相手に論じているので、それを読むこちらも、なにか感想を言ってやろうと思えば、結局フーコーの全主要著作をとにもかくにも読まないことには話にならない羽目に陥ったわけです。
私は哲学なんかに限らずどんな小難しい本でも小説を読む調子で、わかっても分からなくても手ぶらで(何の準備もなく)いきなりとっかかって、小説ならたいてい半日か1日で、小難しい本でもまず1週間で片づけるのを常としているので、従弟の子の新著も最初通読したのはそんなペースだし、論じられているフーコーの主著も(『言葉と物』や『臨床医学の誕生』は一応読んでいたので)一冊1週間ずつで読めば、従弟の子に感想を送るのも1カ月かせいぜい2カ月もあれば大丈夫だろう、とたかをくくっていたところがあります。
けれども、『啓蒙とは何か』のような短い論文は別として、『カントの人間学』で最初からこの原則はオーバーしてしまったと思うし、その関連で読んだカントの『純粋理性批判』も『人間学』とそのノートも、さらに大きくはみ出して・・・というより『人間学』などはこちらが面白くなってしまって、ついのめりこみ、『カントの人間学』を書いたとき若きフーコーがライバル視していたというハイデガーの『カントと形而上学の問題』だったっけ、あの本もとても面白かくてついのめり込んでしまい、つい先日読み終えた『知の考古学』などは最長で1カ月ほどみっちりかかってしまって、楽しむことはできたけれど、時間のほうがもったいなかった(笑)。
従弟の子の本にかかる以前に読んだ『言葉と物』は少しは意識的に読んだせいもあって、3カ月近くかかったと思います。それでも先日『知の考古学』を読んだら、自分がひどい誤読をしていたことがよくわかって、やっぱり素人の手ぶら読みというのは全然あてにならんなぁ、と(笑)・・・あたりまえのことですが。
なにしろ先の時間の限られた身なので、よほど自分で楽しめないと、一冊の本に2カ月も3カ月もかけるなんて、そういう時間の使い方はもったいないのですが、それぞれ大した人たちだから、ある意味で結構楽しませてくれて、学生時代の恨みを晴らす感じで読むようなところはあるけれど(笑)それはそれで久しぶりに頭を使って、ボケ防止にはなったかと・・・
従弟の子の本はなんとか年内にやっつけて、礼状に感想を添えて送ろうと思ってはいるのですが、それはあと2章の読みかたにかかっているので、間に合うかどうかは何とも言えません。きょうも100ページまで読んだら脳内が沸騰してきて(笑)瞼が下がってきたので、これはいかん、と思って、プライムビデオで適当に探して、サム・メンデス監督の「1917 命をかけた伝令」という、まぁ戦争ものを観て脳を冷ましました。あまりできの良くない脳だから、小難しいのを読むとすぐ沸騰してしまう(笑)
きょうの夕餉
ワサビ菜とオレンジブーケ(カリフラワー)の麻婆豆腐あんかけ。ワサビ菜は硬くて合わなかったけど、昨日戸田農園さんの自動販売機で買って来たオレンジブーケの茹でたのは、麻婆豆腐ととてもよく合いました。カリフラワーを砕いてごはんのような使い方をする例があるから、きっと合うだろうとパートナーがオリジナルで考案したメニュー。
春巻き
鶏の胸肉の酒蒸し
ホウレンソウのジャコおろしポン酢
サラダ
モズクきゅうり酢
スグキ、ぬかづけ、きむち
以上でした。
saysei at 20:42|Permalink│Comments(0)│
2021年11月29日
夕映えの比叡
夕映えの比叡。紅葉もあって、とても綺麗でした。
南西の空も夕映え
往きにみた比叡はこんな具合でした
きょうは脚が痛むパートナーの付き添いで近くの病院へ。幸いというのか不幸中の幸いというのか、お医者さんの見立ては「老化」(笑)。いや笑っちゃいけないけど、いずこも同じですね。老化で軟骨かなにかがすり減って、体重を支え切れなくなっているわけです。どうすればいいんでしょうか?と訊くと優しそうな先生が優しい声で「ヨーロッパでは一番よく効くお薬は、体重を減らすことだと言われているんですよ」(笑)
まあ変な病気でなくて幸いだった、と思うことにして、あとは本人の減量努力に俟つ、といったところでしょうかね。私も股関節症で激烈な痛みのために歩くのもままならなかったことがつい先ごろあったので、のんびり自転車行などしているようにみえるでしょうが、これも腰痛、脚痛対策の一環なので、本人は楽しみながらも結構必死でやっている次第。
きょう上賀茂の野菜自動販売機(戸田さんところの)でゲットしたのは素晴らし綺麗で大きなオレンジブーケ。ボイルしたらポロポロ柔らかい身(といってもパートナーは2分で硬めに茹でる)が、すばらしく美味しかった。
きょうは豚しゃぶなので、上賀茂野菜が主役。真中は私が買って来た紫水菜。店で売っているのを見たパートナーは、サラダ菜と書いてあった、と言っていました。
豚しゃぶですが、きょうは準主役。
春菊の茎と柿のシラアエ。上賀茂で買って来た柿をつかったオリジナル。とても美味しかった。
胡瓜に炒り子味噌(内子町出身のかたにいただいた美味しい味噌)
レンコン、蒟蒻、タケノコ、豚のキンピラ
人参葉のキンピラ。ごはんにかけて食べるとおいしい。
キムチ、ぬか漬け、煮豆など
以上でした。
saysei at 20:51|Permalink│Comments(0)│
2021年11月28日
キムチを買いに
海鮮チヂミ。キムチのほしやまさんのです。
きょうはウィークエンダーズへコーヒー豆を買いにいって、そのまま六角通りを西へ、大宮で下がって四条通をまた西へ走り、春日通まで行って、すぐ南のほしやまへ。キムチの美味しい店です。というより好みでしょうが、うちの近所でいくらでも売っているキムチはみな甘くて、口に合わないので、こんなに遠いところまで買いに行かないといけないのです。
いつもの白菜のキムチや小松菜のキムチのほか、きょうはひとつだけ試しにカブラのキムチを買ってみました。食べてみたらこれも非常においしかった。チヂミは海鮮チヂミ、ニラチヂミ、牛筋チヂミの三種類を二枚ずつ。各一枚と同じく2つずつ買って来た白菜、小松菜のキムチは孫のうちへ届けました。
行きは良い良い帰りはコワイで、行きは下りだから自転車スイスイ、帰りは2倍の距離があるんじゃないかと思うほど遠かった(笑)。
今日の夕餉、メインは私が選んで買って来たカレイ。特売で安かったし新鮮そうだったから。
厚揚げと豆腐のメンタイ炒め
大根とコンニャクの柚子味噌田楽
ニンジン葉のジャコキンピラ
ホウレンソウと菊菜のおろしポン酢
サラダ
スグキほか。
以上でした。
saysei at 22:54|Permalink│Comments(0)│
2021年11月27日
上賀茂野菜づくし
午後3時18分撮影の比叡。松ヶ崎橋より。
今日は非常におかしな天気で、朝陽が台所にまで届いていたかと思うと黒く厚い雲がたれこめてきて、午後散歩に出ようと思ったら、ジャジャ降り。ところがじきに雨が上がって陽が射してるよ、というので自転車行に出たら、比叡山のあたりはこんな具合でまだマシだったけれど、行く手の西の空はまっくろで、すぐにまた雨がぱらつきはじめました。フード付きのユニクロの防水(だから防水は効かないかもしれないけど・・笑)コートを着て出たので、少々の雨は平気で、上賀茂へ。
まずは毎日覗いてみる戸田農園さんの野菜ボックス。あれだけ並んでいたスグキはもう一つも残っていません。パートナーの注文の品が残念ながら見当たりません。
そこでもう一つ別の農家の方が出している自動販売機へ。ここにはご注文の小松菜と菊菜があったのでゲット。
これはどっちで撮ったか忘れましたが、先日買って来たような葉つきの大きな大根も、こうして間口は狭いけど、結構奥行のあるボックスに押し込んであります。
実はもう一か所、野菜の自動販売機の置かれたところがあって、きょうはそちらで曲がりくねったこの人参や紫水菜などをゲットしました。人参の形は悪いけど、味は濃厚で美味しかった。
帰りの比叡。もう空は青空。
早くも日没か。午後4時22分撮影。
きょうの夕餉
チキンロールのポルチーニ茸クリーム煮。
上賀茂野菜づくしの野菜サラダに自家製バーニャカウダソース。ブロッコリ以外は全部上賀茂の野菜自動販売機ボックスで、ワンボックスすべて100円でゲットした野菜。オレンジブーケ(カリフラワー)、人参、キュウリ、カブ、大根、紫水菜。どれも新鮮でとても美味しい。カブのやわらかで甘いこと。舌の上でとろけるようで、これがカブか!と思うほど。大根もキュウリも人参も味が濃くて美味しい。紫水菜もこうして食べると美味しい。
いつもの野菜サラダ。これもほとんどみな上賀茂野菜。
キノコ入り玄米パンに玄米ロールパン、キャラウェイシードオイル添え。
以上でした。
写真を撮り損ねたけど、昨日は義弟から嵯峨の家にある柚の木に成った実をたくさん送って来てくれました。とても綺麗で立派な柚子の実でした。毎年義母の家で摘んでもらってきていましたが、今年は長らくご無沙汰していて、むしろ部屋を仕事場に使わせてもらっている次男のほうが義弟たちにもよく会っているのではないかと思います。先日も次男が叔父ちゃんたちにもらった、と柚子を持ちかえったことがありました。いろんな使い方ができるみたいで、パートナーは大変喜んでいました。
きょうはやっと従弟の子に送ってもらったフーコー論の新著の第6章の感想を書き終えてこのブログにアップしました。なにしろフーコーのほぼすべての主著を総なめにして立論している本だから、こちらも一通りは全部目を通して、いわばフーコーを読んだ読書メモを兼ねて書いているので、時間がかかります。今回は始めて通読する『知の考古学』と格闘していたので、たった一章の感想を書くのに一カ月もかかってしまいました。感想というより、フーコーの書いていることをたどっている従弟の子の書いていることを、さらになぞっただけのものになってしまいましたが(笑)
ようやくあと2章というところまできて先が見えてきましたが、それでも年内に送れるかどうか・・
saysei at 20:58|Permalink│Comments(0)│
知り合いのおうちが国の登録有形文化財に
息子たちや孫までが以前、ピアノを教えてもらっていた、私のパートナーの高校時代の友人のいまの上京区のおうちの主屋が、国の登録有形文化財(建造物)に選ばれました。
文化審議会(会長佐藤信)が去る11月19日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、新たに91件の建造物を登録するよう文部科学大臣に答申したうちの一つで、建築家・藤井厚二が設計して1926年に造られた、玄関北の階段前をホールとし当時珍しい居間中心の間取りで、玄関廻りの動線処理や洋室に地袋棚を設ける2階建て木造住宅で、創意溢れる近代建築の遺産、というのが選定の理由です。藤井厚二の現存する初期の住宅作品として希少で保存状態もよく、旧市街地に建てられた大正期の新中間層の住宅が,建築家によって模索された事例としても興味深く,重要な建物と評価されているようです。
藤井厚二は、大山崎に残る「聴竹居」と称されたいま一般にも公開されている自邸の設計で、広く一般にも知られるようになった建築家で、建築環境工学の先駆者とされているようです。
孫がピアノを習いにこのおうちに伺っているころ、とてもいい感じの家だよ、と孫が言っているのは耳にしていたのですが、私自身はお邪魔したことがなかったのです。ところが、不思議な縁で、京都市が岡崎公園の京都会館をロームという企業に寄付をもらってオペラハウスに作りかえる、という記事が日経に突然あらわれ、私は劇場などの文化施設計画に長年かかわってきた立場で、ただちにブログで反対の論陣を張ったところ、それを読んでくれた、やはり市の計画に反対する人たちに呼ばれて京都会館の一室で喋ったことがあるのですが、そのときにもう一人招かれて京都会館を設計した前川國男の設計思想について専門的な立場(たしか前川のお弟子さんだったかと思いますが)からレクチャーした松隈洋京都工繊大教授とお目にかかる機会がありました。
その後、私は京都市の改修計画の決定プロセスの強引さには批判的だったものの、日経の記事がほとんど誤報に近い内容で、オペラハウスなんてものではなくて、まったくチンケな改修にすぎなかったこともあって、反対運動の類には参加せずにおとなしくしていたのですが、たまたま祇園祭の宵山でいつもご招待してくだっていた秦家にお邪魔した折に、久しぶりに松隈先生にお目にかかったのです。
やぁやぁあの節は、などと言葉を交わしていたとき、聴竹居や藤井厚二の話が出て、松隈先生の弟さんの章さんが竹中工務店にお勤めで、かつて竹中工務店に勤めていたこともある藤井厚二の実践的な研究者でもあって、近代建築の保存活動の一環として、聴竹居の保存・再生の中心的な役割を果たされた方で、聴竹居が一般に広く知られるようになったのも彼のおかげだったことを知ったのでした。
そのときに、私のパートナーの高校時代の友人が、その藤井厚二が設計した家に住んでいるらしい、という話を私がしたのです。そのときはそれだけで、忘れていたのですが、かなり時を経てから、突然章さんからメールをもらい、兄の洋さんから聞いたということで、その藤井厚二の設計した家に住んでいる人に家を見せてもらえるように依頼してもらえないだろうか、ついてはいついつ、ほかに、何人かの建築関係の見学者と見学の予定が入っているので、その日の午後に見学できないだろうか、という問い合わせでした。
お兄さんの方から聴いてはいたものの、ずいぶん前の話ですっかり忘れていたところへ突然のご本人からの申し越しで、訪問したい日まで指定してあったので、少々戸惑いました。というのも、その家にお住いの方は、私自身の友人ではなくてパートナーの友人で、しかも嫁ぎ先でご主人のお母様もいらっしゃるからそうしたことの諾否は当然家を作られた方の伴侶であるそのお母様の意向によるでしょうし、私から言えば随分と間接的なご縁ということになります。しかもご依頼者もまた私とはお会いしたこともなく、このメールが初めての「出会い」という間接的なご縁です。
なので、専門家とはいえよく存じあげている方でもない第三者を、私が直接に、パートナーの友人に紹介して見学の許しを請うというのは少々筋違いで向こうも戸惑われるだろうと思ったので、まずパートナーに事情を話して、そのお友達に訊いてみてもらわないといけないと考えました。
そのおうちは、パートナーの友人のご主人のお父様が京大の恩師の同僚であった藤井厚二に設計を依頼した経緯で成ったものらしく、すでにお父様は亡くなられているけれど、お母様は御健在で、若夫婦とその家に同居して日常生活をしていらっしゃるわけだし、パートナーが仄聞したところでは、ご高齢で最近必ずしも体調が万全でない、というふうなことも言っていたので、もちろん一般公開などしてもいない、いま現在日常生活が営まれている場である私邸に、いきなりいついつ訪ねていくから、家の中まで複数の赤の他人で見学させてもらいたい、などと言って快くOKしてもらえるものだろうか、と危惧したのです。
パートナーはその友人とごく親しいので、訊いてみるわ、とすんなり引き受けてくれたのですが、私の方は多少心配だったので、頼んではみるけれど、現に日々そこで生活しておられる私邸だし、それなりの事情もあると思うので、受けてもらえるかどうかはわからないですよ、というどっちかというと消極的な返事を章さんに差し上げたのでした。
しかし、パートナーが頼んだところ、お友達からはあっさりとこころよく受けてくれる、との返事で、パッと霧が晴れたような気分になって章さんに連絡したところ、彼の方はOKが出るだろうと予想していたようです。
むしろ著名な建築家が設計して文化財として価値があるようなおうちに住んでいる方は、専門家がきちんと評価して、国や自治体の保全すべき有形文化財として指定されることにつながるのは、歓迎される方が多いのですよ、と教えてくださったのでした。
恐らく章さんは、専門的な調査の中で、その種の経験を数多く繰り返して、そのへんのことはよくご存じだったのでしょう。私のほうはそういうことには全く経験も無ければ知識もないので、日常生活を過ごしている場へ専門家とはいえ、調査と称して、いわば突如踏み入る、ということに抵抗があるのが普通じゃないか、と思っていたところがあったのです。
まあ私がもともと国や自治体の首長のお墨付きなどに価値を見いだす人間でもなく、一般に専門家のやることや論文なんてものに特別な価値を置くような考え方をしないタイプ(笑)の人間で、むしろごくふつうの人間の一人一人、そしてそのあたりまえの日常生活のほうにずっと高い価値を置くような考え方をしているために、そのいわば「聖域」へ他人が踏み入ることにはどこか抵抗感があったのでしょう。
私は建築家になっていたとしても、きっとそうやって人が実際に暮らしている場へ入って調査をさせていただく、ということには、内心でかなり抵抗を感じずにはいられなかったかもしれないな、という気がします。しかし、現実には、見学されるほうがその意義を評価して喜んでくださっているわけだから、何ら問題ないのでしょう。
実はその見学の時、私も便乗させてもらって、章さんたちのグループと一緒におうちの中を見学させていただきました。私は建築の知識はないけれど、居間を中心に配しためずらしいモダニズム建築ということで、すべての他の部屋から別の場所へ移動するには、その居間の空間を通らなければならない、という設計は、現代の家庭生活における家族の動線を考えると、いささか不便をきたすところがあるでしょうが、おそらくこうした設計には、それが思い描いた、いま私たちが考えるのとは違った暮らし方、家族の関係、一人一人のふるまいとそれに伴う動線、といったものがあったのだろうと感じました。
最近ようやく読み終えた『知の考古学』のフーコーにならえば、そういった一つ一つの要素を、藤井厚二というひとりの「作者」に返して、無矛盾な一つの統一的な設計思想なるものを見極めようとするのはむしろ間違いで、それらの建築的機能自体がどのような座標システムに属し、自在に入れ替わる主体としての誰がどのような位置でそれを作動させ、他のどのような機能の系列と隣り合わせに併存し、あるいは対立して回折点を形成し、どんな他のあり得た機能を排除して実現され、どんな戦略(理論的選択)を持って、欲望や闘争の対象となり、どんな意味で反復的に利用されうる物質性を備えた財であるかを明らかにして、その建築設計を「設計者」の内面の閉じた統一性へ回収するのではなく、むしろ分散において、その場所、その変換可能性、その稀少で特異な外在性のシステマチックな形態、その累積の種別的形態においてとらえることが必要なのでしょう。
(上記で話題にした建造物は11月19日の文化審議会文化財分科会で国の登録有形文化財として答申された建造物、京都市内の石崎家住宅母屋です。参考になるウェブ上の情報は下記。)
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20211123-OYTNT50053/地域
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93558001.html
https://www.kyoto-irodoru.com/mobile/kamigyo/ishizakike.html
文化審議会(会長佐藤信)が去る11月19日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、新たに91件の建造物を登録するよう文部科学大臣に答申したうちの一つで、建築家・藤井厚二が設計して1926年に造られた、玄関北の階段前をホールとし当時珍しい居間中心の間取りで、玄関廻りの動線処理や洋室に地袋棚を設ける2階建て木造住宅で、創意溢れる近代建築の遺産、というのが選定の理由です。藤井厚二の現存する初期の住宅作品として希少で保存状態もよく、旧市街地に建てられた大正期の新中間層の住宅が,建築家によって模索された事例としても興味深く,重要な建物と評価されているようです。
藤井厚二は、大山崎に残る「聴竹居」と称されたいま一般にも公開されている自邸の設計で、広く一般にも知られるようになった建築家で、建築環境工学の先駆者とされているようです。
孫がピアノを習いにこのおうちに伺っているころ、とてもいい感じの家だよ、と孫が言っているのは耳にしていたのですが、私自身はお邪魔したことがなかったのです。ところが、不思議な縁で、京都市が岡崎公園の京都会館をロームという企業に寄付をもらってオペラハウスに作りかえる、という記事が日経に突然あらわれ、私は劇場などの文化施設計画に長年かかわってきた立場で、ただちにブログで反対の論陣を張ったところ、それを読んでくれた、やはり市の計画に反対する人たちに呼ばれて京都会館の一室で喋ったことがあるのですが、そのときにもう一人招かれて京都会館を設計した前川國男の設計思想について専門的な立場(たしか前川のお弟子さんだったかと思いますが)からレクチャーした松隈洋京都工繊大教授とお目にかかる機会がありました。
その後、私は京都市の改修計画の決定プロセスの強引さには批判的だったものの、日経の記事がほとんど誤報に近い内容で、オペラハウスなんてものではなくて、まったくチンケな改修にすぎなかったこともあって、反対運動の類には参加せずにおとなしくしていたのですが、たまたま祇園祭の宵山でいつもご招待してくだっていた秦家にお邪魔した折に、久しぶりに松隈先生にお目にかかったのです。
やぁやぁあの節は、などと言葉を交わしていたとき、聴竹居や藤井厚二の話が出て、松隈先生の弟さんの章さんが竹中工務店にお勤めで、かつて竹中工務店に勤めていたこともある藤井厚二の実践的な研究者でもあって、近代建築の保存活動の一環として、聴竹居の保存・再生の中心的な役割を果たされた方で、聴竹居が一般に広く知られるようになったのも彼のおかげだったことを知ったのでした。
そのときに、私のパートナーの高校時代の友人が、その藤井厚二が設計した家に住んでいるらしい、という話を私がしたのです。そのときはそれだけで、忘れていたのですが、かなり時を経てから、突然章さんからメールをもらい、兄の洋さんから聞いたということで、その藤井厚二の設計した家に住んでいる人に家を見せてもらえるように依頼してもらえないだろうか、ついてはいついつ、ほかに、何人かの建築関係の見学者と見学の予定が入っているので、その日の午後に見学できないだろうか、という問い合わせでした。
お兄さんの方から聴いてはいたものの、ずいぶん前の話ですっかり忘れていたところへ突然のご本人からの申し越しで、訪問したい日まで指定してあったので、少々戸惑いました。というのも、その家にお住いの方は、私自身の友人ではなくてパートナーの友人で、しかも嫁ぎ先でご主人のお母様もいらっしゃるからそうしたことの諾否は当然家を作られた方の伴侶であるそのお母様の意向によるでしょうし、私から言えば随分と間接的なご縁ということになります。しかもご依頼者もまた私とはお会いしたこともなく、このメールが初めての「出会い」という間接的なご縁です。
なので、専門家とはいえよく存じあげている方でもない第三者を、私が直接に、パートナーの友人に紹介して見学の許しを請うというのは少々筋違いで向こうも戸惑われるだろうと思ったので、まずパートナーに事情を話して、そのお友達に訊いてみてもらわないといけないと考えました。
そのおうちは、パートナーの友人のご主人のお父様が京大の恩師の同僚であった藤井厚二に設計を依頼した経緯で成ったものらしく、すでにお父様は亡くなられているけれど、お母様は御健在で、若夫婦とその家に同居して日常生活をしていらっしゃるわけだし、パートナーが仄聞したところでは、ご高齢で最近必ずしも体調が万全でない、というふうなことも言っていたので、もちろん一般公開などしてもいない、いま現在日常生活が営まれている場である私邸に、いきなりいついつ訪ねていくから、家の中まで複数の赤の他人で見学させてもらいたい、などと言って快くOKしてもらえるものだろうか、と危惧したのです。
パートナーはその友人とごく親しいので、訊いてみるわ、とすんなり引き受けてくれたのですが、私の方は多少心配だったので、頼んではみるけれど、現に日々そこで生活しておられる私邸だし、それなりの事情もあると思うので、受けてもらえるかどうかはわからないですよ、というどっちかというと消極的な返事を章さんに差し上げたのでした。
しかし、パートナーが頼んだところ、お友達からはあっさりとこころよく受けてくれる、との返事で、パッと霧が晴れたような気分になって章さんに連絡したところ、彼の方はOKが出るだろうと予想していたようです。
むしろ著名な建築家が設計して文化財として価値があるようなおうちに住んでいる方は、専門家がきちんと評価して、国や自治体の保全すべき有形文化財として指定されることにつながるのは、歓迎される方が多いのですよ、と教えてくださったのでした。
恐らく章さんは、専門的な調査の中で、その種の経験を数多く繰り返して、そのへんのことはよくご存じだったのでしょう。私のほうはそういうことには全く経験も無ければ知識もないので、日常生活を過ごしている場へ専門家とはいえ、調査と称して、いわば突如踏み入る、ということに抵抗があるのが普通じゃないか、と思っていたところがあったのです。
まあ私がもともと国や自治体の首長のお墨付きなどに価値を見いだす人間でもなく、一般に専門家のやることや論文なんてものに特別な価値を置くような考え方をしないタイプ(笑)の人間で、むしろごくふつうの人間の一人一人、そしてそのあたりまえの日常生活のほうにずっと高い価値を置くような考え方をしているために、そのいわば「聖域」へ他人が踏み入ることにはどこか抵抗感があったのでしょう。
私は建築家になっていたとしても、きっとそうやって人が実際に暮らしている場へ入って調査をさせていただく、ということには、内心でかなり抵抗を感じずにはいられなかったかもしれないな、という気がします。しかし、現実には、見学されるほうがその意義を評価して喜んでくださっているわけだから、何ら問題ないのでしょう。
実はその見学の時、私も便乗させてもらって、章さんたちのグループと一緒におうちの中を見学させていただきました。私は建築の知識はないけれど、居間を中心に配しためずらしいモダニズム建築ということで、すべての他の部屋から別の場所へ移動するには、その居間の空間を通らなければならない、という設計は、現代の家庭生活における家族の動線を考えると、いささか不便をきたすところがあるでしょうが、おそらくこうした設計には、それが思い描いた、いま私たちが考えるのとは違った暮らし方、家族の関係、一人一人のふるまいとそれに伴う動線、といったものがあったのだろうと感じました。
最近ようやく読み終えた『知の考古学』のフーコーにならえば、そういった一つ一つの要素を、藤井厚二というひとりの「作者」に返して、無矛盾な一つの統一的な設計思想なるものを見極めようとするのはむしろ間違いで、それらの建築的機能自体がどのような座標システムに属し、自在に入れ替わる主体としての誰がどのような位置でそれを作動させ、他のどのような機能の系列と隣り合わせに併存し、あるいは対立して回折点を形成し、どんな他のあり得た機能を排除して実現され、どんな戦略(理論的選択)を持って、欲望や闘争の対象となり、どんな意味で反復的に利用されうる物質性を備えた財であるかを明らかにして、その建築設計を「設計者」の内面の閉じた統一性へ回収するのではなく、むしろ分散において、その場所、その変換可能性、その稀少で特異な外在性のシステマチックな形態、その累積の種別的形態においてとらえることが必要なのでしょう。
(上記で話題にした建造物は11月19日の文化審議会文化財分科会で国の登録有形文化財として答申された建造物、京都市内の石崎家住宅母屋です。参考になるウェブ上の情報は下記。)
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20211123-OYTNT50053/地域
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93558001.html
https://www.kyoto-irodoru.com/mobile/kamigyo/ishizakike.html
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